2009/04/13 - 2009/04/13
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chiaki-kさん
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2009年 シェムリアップ旅行記 第2編は、アンコールワット朝日鑑賞、ベンメリア、トンレサップ湖クルーズ、そしてアンコールワットをお届けいたします。
表紙の写真は現地ガイドのSさんに撮ってもらったアンコールワットをバックにした私。(表紙初登場)ちなみに今回使用した撮影機材はソニーα350+18mm-200mm、とソニーα100+10mm-20mm。さらにスナップ用にキャノン・イクシーデジタル930IS。Sさんから、まるで市ノ瀬泰三(後述)のようだと言われてしまった。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 2.0
- ショッピング
- 1.5
- 交通
- 2.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 大韓航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
4/13
5:20 ホテルロビーに集合後、アンコールワットの朝日鑑賞に出発。外はまだ暗いというのに、チケットのチェックはしっかりとやっていた。Sさんの説明では朝日鑑賞は東洋人しかやらないとのことであったが、欧米の方も結構集まっている。念のためLED懐中電灯も持って行ったが、使用したのは西塔門の中だけ。うっすらと明るくなった空にアンコールワット主祠堂がくっきりと浮かぶ。 -
聖池から撮影したアンコールワット主祠堂及び逆さアンコール。第1回廊左端が明るくなってきた。
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聖池の前は観光客でにぎやか。上にも書いたとおり欧米系の方も大勢来ていた。しかし、2014年はアジア系の観光客で溢れかえり、こんなもんじゃなかった。
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いよいよ朝日が昇ってきた。
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場所を変えて東北の祠堂に昇る朝日を撮影。ちなみに朝日が見れる確立は50%位とのこと。
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UPです。(無修正)
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アンコールワットの朝日鑑賞から一旦ホテルへ戻り朝食タイム。エンプレス・アンコールホテルの朝食はバイキング形式で、ご飯、お粥、ヌードル、パンなど主食の種類も多く、まずまずの内容。とくに3種類の麺を選択して目の前で造ってくれるヌードルは薄味で美味。
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以前、フランスの植民地だったこともあり、パンやクロワッサンもおいしかった。デザートはスイカ、バナナ、ドラゴンフルーツなど。残念ながらマンゴスチンは無かった。
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バスは国道6号線を一路東へ。国道端の市場でスイカを売っていた。値段はすべて交渉だが、6個で1ドル程度。
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ガソリンの価格はレギュラー1Lが3200リエル=0.8ドルといったところ。我々の感覚では安いのだが、現地の人にとってはとんでもない価格。そこで大抵の方は道端でペットボトルに入れて売っている、あやしいガソリンを購入しているとのこと。
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長距離バスのターミナル、プノンペンまで6~12ドル位。列車は無い。
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バスには高くて乗れない方はこの乗り合いピックアップトラックに乗車する。プノンペンまで車内6ドル、荷台が4ドル。バスもそうだが人や荷物が一杯になるまで何時間かかろうが発車しないとのこと。もちろん雨が降ってもそのまま。
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ピックアップには人だけで無く荷物も一緒に乗る。バイクが1台、2台、3台...。
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国道6号線。日本の援助で、きれいに舗装されていた。なお、交通ルールはあって無いようなものらしい。どおりで標識らしいものがほとんど見あたらなかった。ちなみにバイクは運転免許不要とのこと。
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1時間ほど6号線を走ったところで左折。ちょっとした町を通過する。
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水牛は現在も立派な動力。
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田舎ではこんな未舗装路もある。
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ベンメリアはアンコールチケットとは別料金で5ドル必要。トイレ休憩を兼ねてチケットをここで購入する。ブーゲンビリアがきれい。
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シェムリアップから1時間30分ほどでベンメリアに到着。ベンメリアはいつ、誰が造ったのか解っていない遺跡。ただ、アンコールワットと類似点が多いので「東のアンコール」と呼ばれている。遺跡は深い森の中に800年の間埋もれており、崩壊がすすんでいるため歩ける範囲は限られている。なお、ベンメリアとは「花束の池」という意味。
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つい最近まで内戦時代に埋められた地雷の撤去作業をやっており、やっと終了したという看板。ちなみにカンボジア全土に埋められた地雷は約1300万個で、今のカンボジア人口と同じとのこと。ちなみにここはドイツの援助があったようだ。
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きれいに残ったナーガの彫刻。土の中に埋まっていた為、保存状態が良かったらしい。
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10分ほど歩くとベンメリア遺跡に到着。写真は第1回廊南門跡。
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見事な崩れ具合だ。
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ガジュマルの一種でスポアンと呼ばれる大木が遺跡を破壊している。
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遺跡を破壊するのは樹木だけでなく、基礎部分が雨で洗い流されると、ただ積み上げただけの石はあっさり全倒壊してしまうのだそうだ。ちなみに遺跡を破壊するものは 1.水 2.樹木 3.人間 だそうだ。
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アンコール遺跡の保存には2つの考えがあり、ひとつは修復を行うもの、もうひとつは現状のままにして、これ以上破壊が進まないようにだけ手当するものとがあるそうだ。ここは当然後者。
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彫刻された柱に巻き付くスポアンの根。こうなるとむしろ樹木が遺跡を守っているようだ。
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観光用に、こんな歩道が造られているが、気分はインディ・ジョーンズ。
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完全に崩壊した主祠堂の残骸。
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アプサラもこのとおり。皮肉な見方をすると地雷がこれらの盗掘を防いだのかも。
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地元の子供達が崩れた遺跡の上を遊んでいると思ったら、そうでは無く、見学コースをはずれて遺跡観光をする客の案内をして、小遣いを稼いでいるのだそうだ。ちなみに、この子供達は学校へは行っていない。
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ベンメリアはシェムリアップから離れているので観光客も少なく静かである。樹木を吹き抜ける風が気持ちいい。恐らくアンコールワットも発見された当時はこんなだったのでは無いかと想像される。
古代ギリシャやローマの遺跡のほとんどが土の下に埋もれ、人々の記憶から忘れ去られていったが、ここは雨が埋もれることを防ぎ、また、遺跡を覆い尽くした樹木が遺跡破壊の3大原因のひとつである人間の目から遺跡を守ってくれたのではないだろうか。まるで天空の城ラピュタのように。 -
バスはベンメリアからシェムリアップへと来た道を引き返す。道中現地ガイドのSさんが昔話しをしてくれた。
Sさんはシェムリアップ生まれで年齢は不詳? 子供のときマラリアにかかり死にかけたが、母親が東奔西走しキニーネを手に入れてくれて助かったそうだ。そして1975年4月から3年8ヶ月の間カンボジアを支配したポルポトの話しも。 -
1953年にフランスからの完全独立を勝ち取ったシアヌークは1970年に親米派のロン・ノルのクーデターにより中国へ亡命する。北京に亡命したシアヌークは「カンプチア民族統一戦線」を結成、共産主義勢力であるクメールルージュ、そしてポルポトと手を組み内戦を開始する。ベトナム戦争の終結に伴いロン・ノルは敗走、1975年4月17日カンプチア民族統一戦線はプノンペンに入城し内戦は終結したかに見えた。
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ポルポトのとった最初の政策は、プノンペン市民の強制立退きだった。ポルポトの目には都市の人間は農村の富を搾取する階級に映ったのだろう。極端な毛沢東主義の信奉者であったポルポトは都市を無人化し、農村への強制移住を行った。さらに通貨の廃止、宗教活動の禁止、集団生活の強制など従来の伝統的価値観や社会体系を無視した政策を断行した。
写真にある地方の家はこのような高床式がほとんど。雨期には水の進入を防ぎ、乾期には暑さをしのぎ、さらに床下で作業をしたりするのに都合が良いから。 -
国民はポルポトの奴隷と化し、全ての自由を取り上げられ、わずかな配給で朝から晩まで不毛の土地を耕す重労働に従事させられ、病死や餓死するものが相次ぎ、人口はみるみるうちに減少していった。
国造りが進んでいないのはスパイがいるからだと決めつけたポルポトは、かつての知識層などを次々と連行し、強制収容所で残酷な拷問を与え、CIAやベトナムのスパイに仕上げたうえ、キリングフィールドと呼ばれる死刑執行所で虐殺した。このようにして殺されたカンボジア国民は200万人とも300万人とも言われている。 -
1979年1月7日、ベトナムに後押しされた「カンプチア救国民族統一戦線」はプノンペンを取り返し、ヘンサムリン政権が誕生する。しかし、タイ国境付近にひそんだポルポト派はこれに対抗、内戦となる。ちなみにカンボジア国内に埋められた1300万個の地雷のほとんどはこのとき埋められたもの。1991年、パリ会議にて国連による暫定統治が決定。シアヌークが12年ぶりにカンボジアへ戻り、総選挙の結果、新生「カンボジア王国」が誕生する。(以上Wikipedia参照)
1998年4月17日にポルポトが死に、クメールルージュは消滅した。ポルポトが死んだ日は、くしくも1975年のクメールルージュ・プノンペン入城の日であるため自殺ではないかと言われているが証拠はない。 -
Sさんの話に戻るが、かつて政府側の少年兵だったSさんはクメールルージュの侵攻に恐怖を感じ、持っていたAK47を井戸に投げ捨てたあと、ばったりクメールルージュの兵士と出くわしたそうだ。もしあのときAK47を持っていたら生きていなかっただろう。とのこと。
写真はシェムリアップに戻る途中の風景。これは水田だが乾期のため水は無い。6月、雨期が始まるとすぐ田植えが行われ10月頃稲刈りになる模様。土は赤土でやせており、水の問題もあって2期作は出来ない。 -
豚を丸ごと一匹載せたバイクを追い越す。
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こんどは3匹。いづれもシェムリアップを目指してトン走している。
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屋根の上まで人や物を満載したピックアップトラック。積載量は積めるだけ。
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1時間30分後、シェムリアップ市内に戻り、洋食レストランで昼食。飲み物は毎回アンコールビールを飲んだが、1本$3。フランス風のパンがおいしかった。
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昼食後はホテルで休む人と、トンレサップ湖ツアーに参加する人とに分かれる。私はもちろんツアー参加。トンレサップ湖はカンボジアの中央に位置し、「伸縮する湖」と呼ばれ、アジアで一番大きな湖。
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シェムリアップから約30分で船着き場に到着。現地人らしい子が一眼レフを持っている。あやしすぎ~。
(*)観光客のスナップ写真を撮影して、販売する商売でした。 -
定員20人くらいの観光船に乗るが、エンジンはご覧の通り自動車のもの。シフトレバーにハンドル、ご丁寧にタイヤまである!
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ちなみにここはトンレサップ湖観光船の発着する港となっている。今は乾季なので水位はこの位だが、雨季になると草の生えている線まで水位が上がる。
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運河沿いで生活する皆さん。多分雨季には高床式の家の床下まで水がくるのでは。
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こんな掘立小屋のような家が土手の上に延々と続いている。
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そして運河沿いの土手はプラスチック系のゴミだらけ。
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運河から湖に出る。浮島のようなものが遠くに浮かんでいるように見えたが、近づいて見ると水上家屋の群れ。
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畑もある。
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ブタもいる。ちなみに豚舎のトイレは水洗完備。
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これはガススタンドか。
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雑貨屋もある。あ、わんちゃんと目が合っちゃった。
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首にナーガ、おっとニシキ蛇を巻いた少女まで現れた。もちろん小遣い稼ぎが目的。
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水上レストランに到着。ちなみに建物左側の白い板で囲われたような場所はトイレ。こちらも水洗完備。
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水上レストランからの眺め。まるでウォーターワールドだ。
トンレサップ湖には約4万人が住んでおり、ちゃんと郵便も届くとのこと。翌日の昼食は和食だったが、Sさんが「何を食べたいですか」と聞いたので”回転寿司”と応えると、「トンレサップ湖で採れた生のナマズでどう?」ときた。 -
トンレサップ湖から一旦ホテルに戻って30分ほど休憩した後、いよいよ今回のツアーのハイライトであるアンコールワット観光に出発する。アンコールワットは12世紀後半にスールヤヴァルマン2世によって建てられたヒンズー教の寺院。南北1.3km、東西1.5kmの堀で囲まれ、高さ65mの主祠堂を中心に持つ壮大な伽藍である。
1992年12月、アンコール遺跡群は世界遺産に登録されたが、それは危機遺産というものであった。本来遺産の維持管理・保存・修復は現地の人間がやるべきなのだが、あの内戦時代に人材を失ってしまい(ポルポトに殺されてしまった)現在世界中の学者たちが、やり方をカンボジア人に教えている最中である。
バスの行く先にアンコールワットの中心祠堂が見えて来た。 -
西参道から西塔門までの環濠を横切る石畳の道は、右側が上智大学の手により修復されたが、左側は一部に遺跡が含まれているのであえて無修復。なお、さっきまで見えていた中心祠堂はこの位置からは見えなくなり、頭の崩れた3本の西塔門及び周壁だけが見える。
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西塔門から入場する。柱にある斑点は弾の跡を埋めたものだという。ちなみに内戦時代、アンコールワットはクメールルージュの基地になった。ちなみに戦場カメラマンの一ノ瀬泰造は1973年に単身アンコールワットに潜入するもクメールルージュの兵士に捕らえられてしまった。
1982年、シェムリアップから14km離れた、プラダック村にて泰造の遺体が発見され、その後の調査で1973年11月22日もしくは23日に泰造はクメール・ルージュに捕らえられ、処刑されていたことが判明した。 -
門を出ると中心祠堂が見えてくるが3本しか見えない。あと2本は左右の祠堂の後に隠れている。ん、左側に生のアプサラが!
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左側にある経堂、日本の修復。石材使用。
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右側はフランスの修復。コンクリート使用。コンクリートは何年たってもコンクリートだとのこと。
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曇り空のためスッキリしないのが残念だが、聖池から見たアンコールワット。5本の祠堂がはっきりとわかる。もともとは灰色の砂岩なのだが、黒ずんでいるのは酸性雨のせい、とはSさんの説。
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第1回廊の左側から内部に入る。
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第1回廊外側のレリーフ。ラーマ王子軍とラーヴァナ(悪魔)軍との戦いの様子が描かれている。
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第1回廊から内部へ入ると沐浴の池が4つ現れる。
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回廊の柱に残る日本人の落書き跡。
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第2回廊の内部はこんな感じの広場になっている。目の前に5本の祠堂と第3回廊へ昇る急階段が迫る。
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残念なことに2008年より第3回廊は修復工事のため立ち入り禁止となっており、階段は昇れない。この60度の角度を持つ階段では事故が相次いだ模様。Sさんの話では、この石の内側は土で出来ており、雨水の浸入による崩壊を防ぐにはこの位の角度が必要なのだとのこと。
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あれれ、この人達は何? Sさんに聞くと、ナイトショーが実施されるので照明のセットをしているスタッフとのこと。
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第2回廊内側の壁に彫られたデバター達 その1
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第2回廊内側の壁に彫られたデバター その2
アンコールワットのデバターは足が横向き。 -
第2回廊内側の壁に彫られたデバター達 その3
ヘアスタイルがゴージャス。 -
第2回廊内側の壁に彫られたデバター達 その4
大集団 -
第2回廊内側の壁に彫られたデバター達 LAST
このデバター達は実際の宮廷に使える女官達がモデルだったらしい。 -
東北の階段にはてすりのついた木製の階段が造られていたが、修復後はこれをつかう予定なのだろうか。
* 2014年に登りました。
https://4travel.jp/travelogue/10957253 -
南門から再び第1回廊に出て外側のレリーフを見る。これは天国と地獄のレリーフ。地獄の鬼達が罪人達を棍棒で追い立てている。
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乳海撹拌というシーンのレリーフ(但し本物は修復中で、これは設置してあった写真)ナーガを引っ張る阿修羅たち。
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同じくナーガを引っ張る神様たち。これは本物。
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中心にいるのはヴィシュヌ神。左は阿修羅、右は神様。こうして千年も海をかき回した結果出てきたのはアプサラ、ラクシュミ、そして不老不死の薬だった。最後に出てきた不老不死の薬は1人の阿修羅がゲットするが、それを太陽と月に聞いたヴィシュヌ神は手に持ったブーメラン様の手裏剣でまさに薬を飲み込もうとしていた阿修羅の首を断ち切ってしまった。結局、不老不死の薬は目出度く神様の手元に渡り、神様達はそれ以来不老不死になった。
首を切られた阿修羅は頭だけが不死の悪魔カーラになり、告げ口した太陽と月を探しまくり、見つけると飲み込んでしまった。しかし悲しいかな胴体が無いのですぐ首から出てきてしまった。それが日食・月食のはじまり。 -
出口はアンコールワットの東門。西門と較べて東参道はシンプル。
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東塔門は壊れたままで、通行禁止となっていた。遺跡が大きすぎてここまで手が回らないのだろう。
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環濠を眺める牛を眺めて、アンコールワットを後にした。
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アンコールワットを後に市内に戻ると、立ち寄ったのはアンコールクッキーのお店「マダム・サチコ」。サチコさんという日本人女性経営のお店なのだが、カンボジア人を雇用し、手本を示すことでカンボジアに貢献しているとのことである。管理人も大奮発してカンボジアの経済発展にかなり貢献してしまった。
この日の夕食はクメール料理だったが、今回の旅行で食べたもののうちでワースト1。写真無し。明日はいよいよ最終日、今夜も早く寝よっと。
これで「2009年 シェムリアップ旅行記 2」は終了です。本日も古い旅行記を最後までご覧いただき、ありがとうございます。
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