2019/09/03 - 2019/09/04
46位(同エリア399件中)
のまどさん
ワルシャワの後はクラクフに移動し、個室を予約したホステルでまさかのハプニング、私の確認不足で危うくツアーを逃しそうになりましたが、目玉のアウシュヴィッツに到着しました。
ガイドさんはゆっくりと感情たっぷりに繰り返して説明してくれるので、母も英語を理解できました。
導入として『シンドラーのリスト』のテーマ曲。旅行記なのにフィギュアスケートの映像を載せるのは我ながら謎ですが、若干15歳のリプニツカヤがシンドラーの心を変えた赤いコートの少女を渾身の演技で表現しています。
運よくオリンピックの出場年齢制限を満たし、自ら映画を見てこのプログラムを選び、衣装は3回も作り直しを依頼したというほどのこだわりが団体戦で開催国を金メダルに導きました。
https://www.youtube.com/watch?v=ke0iusvydl8
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
クラクフ中央駅には着いたのは夜7時。
-
事前にトラムの番号を調べたものの現地に到着すると地理が分からない。慎重に慎重を重ねて何台か見送った後、ようやく正しいトラムに乗り、ホステルに到着しました。
ところが、ベルを押しても誰も出ない。帰りがけのスタッフを捕まえて鍵を受け取ると、予約していたキッチン付きの個室が使えなくなったのでバス・トイレ共同のツインルームを使うようにと。ここで言い合っても埒が明かないと判断して、とりあえず釈明を求め料金交渉をするのは明日以降にする。
母は溜息ばかり吐いて私を責める。もっともだ。きちんとしたホテルに泊まれる財力が私にないからこうなるのだ。 -
翌日、朝のクラクフ旧市街広場を通り、呑気に朝食を取り、指定された集合場所に向かいます。集合時間になっても誰一人その場にいない。そこに電話が鳴る。
「のまどさんですか?ホテルに迎えに行きましたがいなかったので運転手は出発しました。」
がびーん。どういう訳かチケット本紙にはホテルに迎えに行くと記載されているのにメールでは集合場所が指定されていた。問い合わせるべきだった。アウシュヴィッツはこの旅のメイン。食い下がって10分後に最後のピックアップ場所で拾ってもらうことに合意。 -
ツアー会社の人にタクシーの運転手と電話で話してもらって無事にバンに乗り込みました。今回利用したのは↓。
https://www.headout.com/cities/krakow
4トラで有名な日本人公式ガイドN氏はどうやら個人ツアーを受け付けておらず、ポーランド人日本語ガイドも数名いるらしいのですが、日本語だとかなり高く付くので英語ツアーにした結果、料金は1日70ユーロ。ワルシャワのツアーもそうですが、母には英語の勉強と言い聞かせてなるべく聞き取ってもらい、のまどが合間に搔い摘んで通訳しました。
バンの中ではソ連作成のアウシュヴィッツ解放のドキュメンタリーを見ました。白黒でかなり衝撃的な映像。 -
1時間強で着きました。まずはトイレ。いきなりすごい人です。
ガイドのベアタさん登場。金髪に厚化粧、露出度の高い花柄のサンドレスと場違いな出で立ちですが、良い仕事をしてくれました。 -
有名なゲート、働けば自由になる。人を避けて撮ったら見事に逆光になってしまった。収容者が反抗心を示してBを逆さに取り付けたという説明はなく、端から「ここでドイツ人はサディスティックな残虐行為を繰り広げました!」と。
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木製の見張り小屋。収容者は毎日10時間にも上る肉体労働を課せられ、移動する際も銃を持った見張りや番犬に監視されていたようです。
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1939年に反ナチスの活動家やソ連軍の捕虜を収容する目的で建てられ、1942年以降ホロコーストで移送されたユダヤ人が大半を占めるようになります。紫のマークについては知らなかった。ベアタさんは収容者の数、犠牲者の数を感情を込めて声を震わせながら繰り返します。
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収容者を識別するダヴィデの星が大戦末期になると簡略化されたのは時間と費用を削減するためだと思います。
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縦縞の囚人服。収容所に着くなり所持品の一切を奪われて、働けると仕分けられた者は男女問わず丸刈りにされてこの服を着させられた。冬の外気が零下20度になってもろくな防寒着を与えられなかっただろう。
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食事は1日に1度、スープとパンのみ。以前は来館者に試食させていたという話を聞いたことがあります。骨に皮1枚の女性収容者の写真を見せて「この女性は収容される前65キロあった体重が解放された時には25キロになっていました」との説明。
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子どもでも容赦なく囚人として扱われました。写真を撮って情報を記録していたのは人数が少なかった初期のみ。収容者の人数が多くなると囚人番号の刺青を入れて個人情報を管理するようになりました。
大人の写真を撮るのは憚られたのですが、ベアタさんはその中の1枚の女性を指差して「ある訪問者がこの写真を見て、『この女性は間違いなく私の母です。生前残された唯一の写真なので譲って下さい』と嘆願されました。当博物館はコピーをこの方に差し上げました」と。 -
ここが収容所として使われていた当時は木や芝生など整備されていなかったと思います。
なぜこのような施設が築かれたのでしょうか。
ドイツの暴走は第一次大戦の戦後処理であるヴェルサイユ条約に起因します。敗戦国ドイツは国際的ないじめとしか言えない天文学的な額の賠償金を負わされた。王政を排除して成立したヴァイマル政府は国民の支持を取り付けられず、世界恐慌でアメリカをはじめ外国からの投資がなくなり、高インフレと高失業率に陥った。 -
そこに現れたヒトラーがミュンヘン一揆以降首尾一貫した強硬な姿勢を見せて国民の支持を広げ、ナチ党が政権を握るとニューディール政策を凌駕すると言われる政策を打ち立てたことで三権を掌握する一党独裁政権が確立した。
ここに来る前、アウシュヴィッツはバラック小屋が並んでいるのかと思っていましたが、ここで見られるのは頑丈なレンガ造りの建物です。もともとオーストリア=ハンガリー帝国が建てた軍事施設でした。 -
ドイツの置かれた状況は異常でした。こうした国家で権力者は仮想敵国と国内のマイノリティに怒りの矛先を向けて国民を団結させることで権力を強化させます。今日でもアジアの数か国で同じことが行われています。しかし、いかなる状況においても虐殺があってはなりません。
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餓死刑が行われた11号棟。刑を受けることになり妻子がいると訴えたポーランド人軍曹の身代わりになってコルベ神父が入っていった場所です。
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餓死刑室の上で他の収容者は寝起きしていたのでしょうか。しかも11号棟はガス室の導入実験が行われた建物でもあります。
ベッドはかなり狭いのですが、後で行くビルケナウの待遇はこの比ではないと思いました。 -
ベッドがない所では収容者は床に雑魚寝だったようです。
地下の餓死刑室は撮影禁止でした。光が一切ないのは当時のまま。息苦しく淀んだ空気の中で大方の収容者は息絶えるのですが、コルベ神父は同じ刑に処せられた者とひたすら祈りを上げて2週間生き延びました。そして毒薬を注射されて天に召されました。 -
洗濯室。ベアタさん曰く収容者が体を洗うことを許されたのは月に1度のみ。収容者は平均4か月で命を落としたため、シャワーを浴びられなかった人もたくさんいたと。
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11号棟と人体実験が行われた10号棟にある死の壁は銃殺刑場。ポーランドのレジスタンス運動家がポーランドの独立記念日である1941年11月11日に151人が銃殺されたことがはじまり。
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火葬施設で働かされていた収容者ゾンダーコマンドが1944年に反乱を起こした際も多くがここで処刑されたようです。
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ナチスがドイツ国民の投票で選ばれたのは確かです。それでも国民の中には『白バラの祈り』のようにナチスに反意を表明した若者もいました。
https://www.youtube.com/watch?v=i-GU8EKCksw
それからもう一人ポーランドにはユダヤ人の子どもたちをゲットーから脱出させたイレーナ・センドラーのような人がいました。虐げられている無名の人々を救うために自らの安全や命を顧みずに尽力した人たちがいたことを特筆したいと思います。 -
オシフェンチムが収容所の建設に選ばれたのはナチスの支配地の中間にあったため。
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犠牲者110万人のほとんどがユダヤ人でガス室で殺された。
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収容者は到着すると所持品をすべて没収された。眼鏡。
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これだけ汚れがなかったので解放後に寄贈されたと思われる祈りの布。
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食器類。没収された所持品を分類する仕事を課されたのはゾンダーコマンドだった。
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靴は持ち主が去ったあともこの場に残り80年近く経って原型が分からないほど劣化している。
撮影禁止の部屋では夥しい量の毛髪が展示されていた。刈り上げた人間の髪を原料として衣料品と作るという考えはどのようにして出てきたのだろうか。 -
鞄には名前と住所が書かれている。ユダヤ人の中にはジャム付きパンが食べられると騙されて列車に乗った者もいる。ある幼児はビルケナウに到着した際に父親が死体焼却場の煙突を指差して「お父さんがこれから働く工場だよ」と言ったという記憶を語っている。誰もが生きることを望んでいた。
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止まれという表示。収容者の中で脱出に成功したのは収容所の外で作業に当たっていた者のみ。脱走を試みた者を撃ち殺した兵士はボーナスと休暇が与えられたそうです。
有刺鉄線に電流が流れ、脱走など不可能であったことは皆知っていたはず。それでも身を投げた人は耐えかねて自ら死を選んだのでしょう。 -
ヘスの絞首刑台。ヘスは逃亡して偽名で生活していた所を逮捕されてニュルンベルク裁判にかけられ、ポーランドの裁判所から死刑を言い渡されました。
ベアタさんが「アウシュヴィッツに関与したSSの中で裁きを受けたのはごくわずかです」と声を荒げました。 -
この奥にはヘスの夫人が天国のような家と称した邸宅があるようです。彼女は果たして夫がどんな仕事に就き、その職場がどのようなものであったのか知っていたのでしょうか。何も知らなかったのか、知ろうとしなかったのか、知っていても全てが正しいと思っていたのか。
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最後はガス室です。
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働く能力がないと仕分けられた人たちがここに詰め込まれ、扉が締められるとこの穴からチクロンBが投入されました。
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チクロンBは殺虫剤でベアタさん曰く現在でも続くドイツの製薬会社によって開発されたようです。
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「このクリスタルを2キロ(やや記憶が曖昧)使えば一度に大量に人が殺せます。とても低費用な方法です」と。
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死に至るまで20分。まさに阿鼻叫喚の地獄。泣き叫びもがき苦しんで皆絶命した。
この空間は本当に不気味です。壁には犠牲者の爪痕が見られると最近知りました。 -
全員が息絶えるとゾンダーコマンドが死体を隣室に運んで焼却。ガス室は残留物が除去されると新たに囚人を入れて稼働しました。
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スターリンはガス室の最初の犠牲者がソ連兵だったこともあり、ヒトラーを目の敵にしていました。史上最悪の戦いであるスターリングラードの独ソ戦でナチスを攻略した後、ソ連は1945年1月27日、雪の積もるアウシュヴィッツを解放しました。
ソ連はドイツが敗戦するとその蛮行を宣伝するためにアウシュヴィッツを博物館とすることを支援しました。強制収容所という発想は他ならぬスターリンが生み出したものですが、戦争に勝った側のみ正義を唱えられるのです。
内容が重くなってきたのでビルケナウは次回投稿します。
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