2020/03/17 - 2020/03/21
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あきちゃんさん
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室戸岬~高知に引き続き、高知県の南岸を走って足摺岬を訪ねました。
遥か昔、高校2~3年生の春休みに、友人との3人で旅した岬です。土佐中村市(現在の四万十市)から3時間ほどもバスに揺られて、南端の地を訪問した日々の記憶がよみがえりました。
大洋に屹立する白亜の足摺灯台も、洗濯板のような海岸の竜串も、当時の面影をそのまま絶景の中に留めていました。
この「その2」には、高知~足摺岬~竜串~松山~しまなみ海道~平山郁夫美術館~耕三寺~山陽道~新名神~自宅のようすを記しています。
上の表紙の写真は、「竜串海岸」です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「高知道」を四万十町の終点で降りて、国道56号を南へ下ること15分、山中の道が海岸縁へ出たところに、展望休憩所がありました。
土佐西南大規模公園(佐賀公園)展望広場だと思います。佐賀港に停泊する船舶、その向こうには町並み、ずーっと視線を右に転じてくると、ここでも太平洋の大海原が広がっていました。 -
この旅行の間、とても気分がすっきりしていて、体調も良かったように思います。
『旅に出れば、当然そうなるんじゃないか』とも思われますが、この果てしなく広がる青い海を見ていると、気分が壮大になるという効果があったのではないでしょうか。 -
この旅の途中で、道を歩くお遍路さんを何人も見かけました。ほとんどの方は一人で歩いてみえました。徒歩遍路の場合、全行程は50~60日ほどかかると言われるお遍路さん、出かけようと発願されることからして感服します。
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道の左右の田圃には、早くも水が張られていました。
3月下旬、すでに田植えも近いようですね。 -
午後5時過ぎ、四万十川を渡って、国道56号から321号へ左折、
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川沿いの道を南へ走ります。
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足摺岬まで、あと25Km。
ちょっとお腹が空いてきて、どこかで何かを食べようと思いながら走っていたのですが、四万十市を過ぎてからここまでレストランや食堂らしいお店は見当たらず。今夜の宿は、何時に到着できるのかはっきりしなかったので夕食なしで頼んであります。
321号沿いにはここまでコンビニも無く、食糧調達ができるのか、心配になってきました。 -
午後6時15分、土佐清水市に入ってきました。
足摺岬までの最後の「市」です。…が、さすがは「市」、コンビニがありました。パンと飲み物、少しお菓子などを買って、これで今夜は餓死する心配はなくなりました。 -
コンビニを出発してから5分、ナビが教える通り、海沿いの県道27号から左折して、足摺半島の山の中を走る県道348号に入ります。
ところがこの山中の道は毎夜霧が出るとのこと、今日も濃霧で時速20~30Kmぐらいでしか走れません。今は27号にトンネルが抜けて走りやすい道になっているそうなのですが、ナビはみんな山中を抜ける道を教えるのだとか。
でも、この山道の途中、霧の中から一軒の「お食事処」の看板を掲げる店が…! -
入ってみると、サンドウィッチからうどん、ラーメン、親子丼、唐揚げ定食など、オールマイティの何でも食堂。私は「にぎり」を頼んだのですが、お腹が空いていたのでしょうか、いや、親父さんの腕が良かったのでしょう、鄙にはまれな味の良さでした。
大きく一息ついて、今夜の宿「足摺テルメ」へ…。もう、目の前です。 -
4日目。 午前8時、出発前に撮った、「足摺テルメ」の玄関前です。
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ロビー
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フロントで「足摺岬観光マップ」をもらって…。
まず、四国第38番札所「金剛福寺」の向かい側の駐車場に車を止めて、「足摺岬灯台」へ向かいました。 -
駐車場から灯台へは、椿のトンネルをくぐっていきます。
実は、ここ足摺岬へは、今をさかのぼること50有余年前、高校2年から3年になる春休みに、同級生との3人で旅行した思い出があります。
宿も予約せず、阿波の土柱を訪れたときは、見物していたら日が暮れてしまって、地元のお寺で泊めてもらったこともありました。
ここ足摺岬では観光協会へ飛び込んで、紹介してもらった旅館へ泊りました。部屋の床の間に、「田宮寅彦の宿」の書があったことを思い出します。宿泊費は、朝夕食込みで450円ほどだったと思います。
その旅のときにも、この椿のトンネルをくぐっています。 -
木立の間から、白亜の灯台が見えました。
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室戸岬で悟りを得た弘法大師「空海」は、その後ここ足摺へ足をのばしています。
なので足摺には、弘法大師にまつわる数々の「不思議」が、この遊歩道沿いに点在しています。それを総じて「足摺七不思議」と呼んでいます。(七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味だとか)
この写真は「弘法大師の爪彫り」といって、「南無阿弥陀仏」と六文字の妙号が彫られています。 -
標識に沿って「足摺灯台」へ
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足摺では、毎年2月になると「椿祭り」が行われるそうです。
断崖が続く足摺岬を椿の木立に守られて散策するようにと、地元の人たちが丹精込めて育ててくれたものですね。
南国の足摺…、椿の花とともに春が訪れます。 -
2月ごろに一斉に花開くという椿の花、私が訪れたこの日は盛りの花期は過ぎていて、散策道にいくつかの花々が零れ落ちていましたが、まだしっかりと開いているものも…。
名残りの椿…ですね。 -
そして、木立を抜けると、また大海原が開け、海の青さが目に沁みます。
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灯台の足下に来ました。
1914年(大正3年)、初点灯。足摺岬灯台下の園地には、「田宮寅彦の文学碑」があって、小説『足摺岬』から「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌一面に 雨のように降りそそいでいた」の一文が刻まれています。 -
そしてまた、海…。見てください、この青さ!
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椿の並木道の切れ目から、また灯台が望めました。
左手前は、足摺の七不思議のひとつ「汐の満干手水鉢」。岩の上に小さなくぼみがあって、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。 -
この岬は、寺田寅彦の小説「足摺岬」で主人公が自殺を決意してこの場に来たことから、自殺の名所として訪れる人が絶えないとのことです。
思い留まるようにとの呼びかけが、歩道の脇に建てられていました。
(小説では、宿の主人や同宿者の人情に触れた主人公は自殺を思いとどまり、この宿で知り合った人と…) -
灯台がある、海に突き出た断崖の右手に、少し大きめの岩礁があります。
よく見ると、その岩の先端にすでに一人の人影が…。
と…、一隻の船が近づいてきました。 -
舳先を岩礁に突きつけ、波で船が押し上げられたとき、先端に乗った人が「エイ」と飛び移ります。
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釣り人の上陸を見届けたのち、船はまた引き返していきました。
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椿のトンネルはまだまだ続きますが、右に曲がって「金剛福寺」を参拝します。
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椿の林を右折して、人の踏み跡のような小道を抜けてくると、県道27号に出ました。
駐車場の方に戻ると、露天に岩石が置かれ、仏像が並ぶ一角に出ました。 -
その北隣に、「金剛福寺」の山門があります。
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ここ「金剛福寺」は第38番札所ですが、前の第37番札所「岩本寺」は、高知県内ながら高岡郡四万十町にあり、距離にして80余km離れていて、車でならば約2時間余で到着できますが、歩いたら約30時間、3泊4日はかかります。四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道」を歩まなければなりません。
大師御遺告の25条の第1条の中に「名山絶嶮の処、嵯峨孤岸の原、遠然(えんねん)として独り向ひ、掩留(おんる)して苦行す」とあるそうですが、「足摺」の地名は「足を摺る」=足を引きずって歩く…という、遠隔の地であることが由来ではないかと思ったりしました。 -
この寺でも、参拝中に、お遍路さんを見かけました。一人で参拝されていました。
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足摺が生んだ風雲児「ジョン万次郎」の銅像です。
50余年前にはこの像も無かったし、椿の遊歩道はあったけれど舗装してありませんでした。でも、白亜の灯台と大きな青い海、そして椿の小道は変わらずあって、あの日にもどることができたようです。 -
午前10時、足摺岬をあとにして、「竜串海岸」へ向かいます。
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足摺から竜串まで道は、県道27号の新しくトンネルが開通した新道を通っていくのが通常ですが、今日は海岸縁の対向車が来たら広いところで待っていなければならない旧道を走りました。
50年前、路線バスに揺られて旅した道です。
上の写真は「鵜の岬」。黒潮が、日本で一番先に陸地にぶつかるところだそうです。 -
やがて道は新道と合流し、土佐清水市に入ってきました。
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土佐清水市内、先の信号を右に曲がったところに、昨日飛び込んでパンなどを買った、命のコンビニがあります。
今日、私たちは直進して、国道321号を竜串海岸へ向かいます。 -
竜串まで、あと8Km。
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昨夜宿泊した「足摺テルメ」でもらって来たパンフレット。
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竜串海岸の駐車場を通り越して、レスト竜串まえの駐車場まで行ってしまい、まず「足摺海底館」を訪れることにしました。
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奇岩を均して造った道を行きます。
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目指す「海底館」が見えてきました。
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「足摺海底館」は、竜串海岸の右手に、海中7mの深さまでドームを沈め、周囲をガラス窓にして、泳ぎ回る魚たちのようすなどの海中を、居ながらにして見て楽しむことができる施設です。
らせん階段を降りると、廻りの海底に広がる海中には、テーブルサンゴの間を楽しそうに泳ぐ色とりどりの魚たちが待っているとか。
でも、この日は「春にごり」のせいで数mしか視界がきかないとのこと。受付の人が入館前に教えてくれて、今日はパスさせてもらいました。 -
海底館の窓から、これから行こうと思っている「竜串海岸」が見えています。
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さて、次は「竜串海岸」。少し戻って、車を観光案内所前の駐車場に止め、海岸への道を歩いて行きました。
目の前には大きな堤防が聳えています。「50年前は、こんな景色じゃなかったなぁ」と思いつつ歩いていくと、堤防の手前に階段があり、それを上って堤防の上に立つと視界が開けました。50年前に見た、竜串海岸の奇岩帯です。 -
竜串海岸は、日本列島の創成期に当たるとされる約2,000~1,500万年前に堆積した砂岩と泥岩の地層が波食、風食を受け形成された奇岩風景で、今日も波風を受け変化を続けています。
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激しい風や波の浸食作用によってできた、「蜂の巣構造」と呼ばれる岩肌が特徴的です。
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背後にある「臥竜山」から延びる岩礁が、風雨波浪に洗われ、奇勝奇岩の壮大な風景が現れました。
50年前には、竜串という地名とも相まって、「竜の手足の先の爪のような地形だなぁ」という印象を受けました。
今回、竜串訪問を強く思ったのは、当時の思い出が深く心に残っていたからです。 -
「大竹・小竹」と呼ばれる景勝。一直線上に、丸みを帯びた節理が見られ、節のある竹のような形です。
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その先端は、太平洋の波に洗われています。
今日は波も穏やかで、打ち寄せる小波が、龍の爪の先端に砕けて、キラキラと白い光を放っていました。 -
地学教材の宝庫と言われている「竜串海岸」、まだまだ彼方まで続きます。
また、観光船に乗って、船でしか行けない海岸(空海も見残して帰ったということから「見残し海岸」と言われています)などもありますが、今日はこの辺りで切り上げることにしました。 -
最後に洗濯板の先端から見渡すと、先刻訪ねた「海底館」も見えています。
50年前の思い出をなぞるのに欠けているところはないことを確認して、竜串海岸を後にしました。 -
時刻は午後12時45分、海岸の近くで食堂を見つけました。
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地元の人たちの昼食で賑わっていて、私たちはカウンターに陣取りましたが、1時前になるとみんな引き上げていって、客は私たちともう一組、観光客の親子3人連れのみになりました。
「ネギトロ小丼とうどんの定食」850円(だったか?)、コーヒー付きです。営業時間は8時30分~15時まで。
海が大きくて青いせいか、食べるものもみんな美味しかったです! -
お腹も膨れたし、あとは松山を目指すのみです。
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宇和島市に入って間もなく、津島岩松ICから「松山道」に乗りました。
松山までは100Km少し、1時間30分ほどの行程です。 -
午後5時、松山出口です。
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松山にも路面電車が…。「伊予電鉄(いよでん)?」ですね。
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午後6時前、「東横イン松山一番町」へチェックイン。
部屋で少し休憩してから、7時ごろに夕食を取ろうと街へ出かけました。 -
2番町通り、居酒屋「あかり」。威勢の良いおかみさんに迎えられて、夕食にありつきました。
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これは、オコゼの天ぷら。他に、マグロの刺身、フグの白子、メバルの煮付けなどを頼みました。
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締めは「鯛茶漬け」。明石の鯛使用という由緒正しいものなのでしょうが、私がイメージしていた、鯛の焼き身を乗せたご飯にアツアツの出汁をかけていただくものと少々違って(…それぞれなのですから、違うのが当たり前ですね)、鯛めしのおにぎりに出汁をかけたものでした。
鯛の香りに、瀬戸内海の風景が広がりました。 -
5日目。 午前8時30分、松山を出発。国道317号を「しまなみ海道」へ向かいます。
あとで考えてみると、急ぐ旅でもなし、せっかく瀬戸内へ行ったのですから、海沿いの186号を瀬戸内海の風に吹かれながら走ってくるべきだったかもしれませんね。 -
しまなみ海道の入り口です。
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「しまなみ海道」に入ってきました。
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来島海峡です。
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「来島海峡大橋」が見えています。
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大三島に入りました。
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多羅々大橋を渡って生口島に入ったところにある「瀬戸田PA」に寄りました。そこに設置されていた、「しまなみ海道の全景案内」です。
(赤丸は私がつけました。ここが「生口島です。) -
SAから振り返った「多々羅大橋」。広島県尾道市の生口島と愛媛県今治市の大三島を繋いでいて県堺です。ここ瀬戸田PA(上下線とも)から橋まで歩いて行くことができます。
この街道はサイクリングのメッカであり、自転車で渡ることもできるし、自転車料金の徴収所もあります。 -
私たちは「生口島」にある「平山郁夫美術館」に寄るために、生口島ICで降りました。
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多羅々大橋の下をくぐって…、
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「平山郁夫美術館」に着きました。
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入館料を支払ってすぐ横の壁面に「仏教伝来」が掲げられていました。
左へ曲がったところの廊下には、平山氏の名作の版画が飾られていて、それぞれ60~300万円の値段が付けられ、即売してくれます。
館内はフラッシュをたかなければ写真OKとのことで、許可を得て撮影してきました。 -
平山氏が深い感銘を受けたという、中国敦煌「莫高窟」の壁画が再現されていました。
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「莫高窟」内の仏像も等身大で据えられています。
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大作「求法高僧東帰図」。玄奘や法眼のように、中国から天竺に渡り仏法の真髄を求めた僧はたくさんいたとのことです。
この絵は、シルクロードの描写をライフワークにした平山郁夫が、多くが命を落とすことも厭わずに天竺へ赴き、悟りを得て帰る僧たちの集団の姿を、象徴的に描いたものです。 -
「アフガニスタンの少女」を描いたときの写真と説明書きです。
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その素描がこれ。
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その作品がこれです。8000万円です。
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私がいちばんいいなと思った「ロバと少年」。アフガニスタンのカブールで描いた作品だそうです。
広島原爆の被爆者だった平山氏は、死生観を見据えた画家だったと思います。それが彼をして、晩年、仏教伝来の道を描かせた原動力だったのではないでしょうか。アフガニスタンやタジキスタンでの数カ月の滞在を要する描写は、命を削る活動であったとか。 -
近くにある「耕三寺」へ寄ってみました。
「平山郁夫美術館」の入館券を見せると、料金が割引になります。
さらに、8000万円の絵の話をしたあとなのにみみっちいことで恐縮ながら(笑)、私たちはナビの導くまま現地を訪れたところ、500円と書かれた駐車場を見つけ車を止めたのですが、「平山郁夫美術館」の前には無料の駐車場があります。 -
「耕三寺」は、生口島の出身で、大阪での商いで財を成した実業家「金本耕三(のち耕三寺耕三)氏」が、慈母への報恩感謝の思いを込めて、1935年(昭和10年)から建立してきた浄土真宗本願寺派の寺院で、「母の寺」と呼ばれています。
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境内の建物は、日本の著名仏教建築などを模したもので、前の写真の門(孝養門)は日光東照宮の陽明門を、この写真の本堂は宇治の平等院鳳凰堂を模したものです。
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本堂左後方に立つ救世観音大尊像。コンクリートと漆喰併用の彫像で総高15m、法隆寺夢殿の御本尊 秘仏「救世観音」を手本としたものです。
私はしまなみ海道が全通した15年ほど前に、この寺を訪れたことがあります。当時は極彩色の美しい寺だなと思いましたが、その頃に比べるとちょっと色あせたかなという印象でした。
でも、これほどの建造物を建てた耕三氏の孝養心と事業の成功は目を見張るものがあり、地元にこれだけの遺産を残したことは偉業と言うべきでしょう。
建物も多くが登録有形文化財に指定されており、寺には16もの重要文化財(耕三氏の収集物)があります。 -
寺の奥山には「未来心の丘」と呼ぶ、広さ5,000平方メートルの大理石の庭園が造られていました。
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最頂部に登ると、瀬戸内の海や生口島の山々が、360℃の視界の中に収められます。
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午後2時40分、耕三寺の門前にある「ちどり食堂」で、名物「たこ飯」を食べました。
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午後3時15分、「しまなみ海道」に乗りました。
このあと、3連休の中日だったので、渋滞も覚悟したのですが、拍子抜けするぐらい順調に、山陽道~新名神~東名阪~伊勢道と走り、途中1回の食事、2回のコーヒータイムを挟んで、6時間30分、午後10時前に自宅に帰り着きました。
帰宅してから2週間、他との濃厚接触を避けて待機しておりましたが、いまだ異常も無いので、コロナ禍は一応免れたかと思っています。
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