2020/03/25 - 2020/03/26
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jetstreamさん
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さて、昼食の後の街歩きです。 岩槻駅から岩槻城址公園に向け
歩きます。 その後、岩槻城主に関係の深い寺社を巡りながら
岩槻駅に戻ってきます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 徒歩
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駅前の商業4ビル(ワッツ)の裏手にある、この路地商店街を行きます。
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道幅が狭いですね。 スナックなどの店があり一昔前は夜になると
この路地もサラリーマンで賑わっていたのでしょうね。 -
途中、左に入る小径がありました。
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先に進みます。
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商店街を抜け切ると、大通り(御成道)にでました。
中井銀行岩槻支店として大正後期に建築されたそうです。 -
煉瓦造2階建ての洋館建築です。 国登録有形文化財(建造物)
現在は「東玉大正館」展示スペースとして使われているそうです。 -
駅前からこの商店街を抜けてきました。
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ここ裏小路は大手門とつながる「裏小路」です。
当時は武家屋敷が並んでいました。(武家地)
岩槻藩氏の居住地と市民の住む地域とは区分されていて
両者の境には木戸が設けられていました。 -
裏小路を進みます。
この長い塀は先祖代々岩槻藩御典医だった方の家屋敷だそうです。 -
長い塀の先に門がありました。 今は誰も住んでいないのでしょうか。
塀の中は木々が生い茂り雑草が所かまわずの状態です。
建物の門もこの有様です。 -
壊れかかった門の隙間から覗いた屋敷の中です。
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右手に「岩槻藩遷喬館(せんきょうかん)」がありました。
寛政11年(1799年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯
(こだま なんか)が開いた私塾で、後に藩校になりました。 -
「岩槻に 過ぎたるものが 二つある 児玉南柯と 時の鐘」と謳われた。
今日は、コロナ自粛の影響で休館中でした。 -
6月4日、自粛も解禁となったので、さっそく写真を撮りに来ました。
中を紹介しましょう。 -
正面入り口です。
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中に入ると、左座敷が「教師控室」になります。
右側の座敷が「教場」で2間ありました。 -
「教師控室」を正面に見たところです。
右手に庭と濡れ縁があります。 -
濡れ縁を行くと「便所」がありました。
たぶん教師用の便所と思われます。 -
「教場」が2間続いており、その先に「納戸」の部屋が
ありました。 納戸の部屋の裏側に便所があり、ここは、塾生が
使用したのでしょう。 -
御成道旧家。
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「願生寺」です。
大永年中(1521~1528年)寂譽門入和尚開山の古刹。
2,3年前までは藁ぶき屋根、寄せ棟造りの本堂でした。
当時はこじんまりとした田舎の本堂!といった感じで
童たちが遊んでいるのが似合う風情がありました。 -
阿弥陀さまのご来迎(衆生救済のお姿)を彫刻した貴重な板碑です。
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場所は本堂の左手側、墓地の中ほどにあります。
目立たないので、気づかずに通り過ぎてしまうので注意。 -
明治30年頃まで白木綿問屋を営んでいた「長谷川家」の住宅と蔵。
国登録有形文化財(建造物)です。 -
再び「御成道」にでました。
ただただ広い敷地にある「岩槻人形博物館」です。 -
木造の民家があります。
この民家では、不定期ですが展示とお抹茶を提供している
らしいです。 -
民家の建物の脇に大きな黒松が見えてきました。
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御成道はこの渋江交差点を左に行きます。 私は交差点を直進します。
たっだし、江戸時代は右の大手門に行くか、左の御成道へ行くか
でした。 つまり、この先は行き止まりです。 -
正面の道路の高さより、左手の宅地がかなり低いですよね。
そう、ここは沼を利用した岩槻城の濠があった場所です。
城の防御として最適でした。 -
消防署がある交差点にきました。
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「三の丸」があった場所です。石碑が建っていました。
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消防署の反対の道路の先には「久伊豆神社」があります。
「久伊豆神社」に向かって道が下っています。この低くなっている、
つまり、ここもかつては沼(濠)であった地形であることが分かります。
秀吉の小田原攻めの際、岩槻城攻略を任せられた浅野長吉(長政)が
この濠を渡り多大な損害を受けながらも本丸を攻め落としたのです。 -
更に300mほど道を進めると、駐車場が見えてきました。
この辺りは「本丸」があった場所です。
以前は石碑が建っていたのですが、持ち主が代わって撤去されたようです。 -
足を進めます。 「二の丸」があった場所です。
石碑がありますが、分かりずらいですね。 -
元荒川の流れです。 岩槻城の天然の要害を築いた川です。
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川端に転がっていた石柱、「太田橋」と書かれていました。
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「市民会館いわつき」まできました。
いわつき会館の前一帯が「城址公園」で昔は「御林(おはやし)公園」
と呼んでいたそうです。 -
本丸、二の丸、三の丸が濠(沼)で囲われているのが分かります。
「市民会館いわつき」は「新曲輪」の場所にあります。 -
これが、「黒門」と呼ばれている、岩槻城内の城門です。
三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われているようです。 -
岩槻城の裏門と伝えられていますが、詳細は不明です。
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裏門の後ろに土手のような構造物があります。 そこを上ります。
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約3mほど登ると、土手は左右に広がっていて左手の雑木林の
向こうに池があります。 池には赤い橋が架けられていました。 -
上り口の反対側は、下まで4~5mほどの崖のような構造物に
なっています。 -
登った土手を下りて「黒門」の前を進みます。
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悦明書きを読むと、これは空堀だそうです。右の土手は「土塁」と
呼ぶもので、石垣と同じ役目をする防御のための物です。
実際の堀底までは更に3mほど下にあったそうです。堀底は「堀障子」
と呼ばれている構造になっていて、敵兵の行動を妨げることができた
そうです。 -
更に進むと、先程、土手(土塁)から下を覗いた場所に来ました。
見上げるとやはり高いですね。 -
現在はほとんど埋められてしまった空堀の底を更に進みます。
「堀障子」は小田原城、山中城などで見られる北条氏特有の
築城技術だそうです。 -
池に出てきました。約600本の桜が植えられています。
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桜と橋、空の色合いが素敵ですね。
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「八ッ橋」と桜
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橋を渡ると、正面にも空堀と土塁が続いていました。
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空堀の右手に広がる公園です。 池には噴水がありました。
当時はこの辺り一帯も沼でした。 -
児童の遊戯があります。
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「諏訪神社」
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本殿。
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「諏訪神社」の左手の小径を下って行くと、「岩槻城址公園」に出ます。
下がっている、ということはこの先も沼だったということです。 -
諏訪神社隣にある「浄源寺」。
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本堂の前にある「枝垂桜」です。
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こぼれる程の花びらです。
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先を進みましょう。
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この細い道を突き当たると、城址公園にあった土塁の場所に
行くことができます。 -
左手にあったのが「梅照院」。
梅照院日如が天正6年に開基となり創建。 梅の花が綺麗だそうです。 -
本堂
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「渋江小路」を諏訪神社に戻るように往きます。
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途中「広小路」に入ります。
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鐘楼が見えてきました。 「時の鐘」です。
鐘楼の右手に見える家が、今もこの鐘楼を守っているお家だそうです。 -
「時の鐘」
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再び「渋江交差点」に出てきました。
正面の細い道が、昔「武州鉄道」の線路が敷かれていた場所です。
武州鉄道は、大正13年に今の川口から岩槻を経て蓮田まで運行された
鉄道です。 私が立っている場所に「旧岩槻本通駅」があったそうです。 -
この細い道を遥か遠くまで線路が続いていました。
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昭和3年に導入された「気動車」です。
それまでは、機関車が走っていました。 -
武州鉄道の線路跡を往きます。
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「浄安寺」の山門です。
1616年、徳川忠輝(家康六男)が改易となった際に、その妻子は
岩槻藩主阿部家に預けられました。
息子の徳松は16年後の18歳の時、焼身自殺しました。
死後、当寺に葬られたといいます。
忠輝自身は、伊勢の国流罪となりその後様々な大名家預かりの身として
過ごし、享年92歳で亡くなりました。 -
山門として移築される以前は御成道の木戸門として使われていました。
別名「槍返しの門」というそうです。
八代将軍徳川吉宗が日光東照宮へ詣でる際、この木戸門の屋根が低く、
槍を返さないと(倒さないと)通れないため、幕府側の槍頭が
「門を壊せ」と主張し、岩槻藩主は「槍を返せばよい」と反論。
揉めに揉めた結果、幕府槍頭が折れたそうです。
将軍の御威光をかさにきた槍頭をやり込めたことで、岩槻城下の民は
その後「槍返しの門」と呼ぶようになりました。(あくまで伝承) -
本堂。
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本堂。
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本堂左側の墓地に行きました。
児玉南柯のお墓です。 文政十三年、病のため八十五歳で死去。 -
「高力清長」は江戸時代最初の岩槻城主、慶長十三年(一六〇八)に死去。
ここに葬られました。 -
岩槻小学校の校庭にある、市の天然記念物「大銀杏」、推定樹齢130年。
高さ27メートル、幹まわり5.08メートルだそうです。
「岩槻商工会議所」の建物の裏手から行くと、学校に迷惑を
かけずに見ることが出来ます。 -
岩槻小学校の近くにある「大龍寺」。曹洞宗のお寺です。
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岩槻城主青山伯耆守忠俊が開基です。
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本堂。
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お寺の名前通り、昇り龍が柱に彫られています。
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江戸時代は「大工町」と呼ばれ、主に岩槻城の増改築を行った、
大工さんがこの辺りに住んでいたとのことです。 -
大工町の石碑の左手に、頭を下げないと入れない喫茶室がありました。
この喫茶室、雰囲気が落ち着いていてお客さんがほとんど居ません。
木造の室内は照明が程よく、小説が本屋さんのようにあちらこちらに
並んでいます。 本は自由に読むことができます。 ランチもありました。 -
その通りの突当りに「愛宕神社」があります。
神社の創建は明らかではありませんが、江戸時代初期の古地図に
書かれています。 -
岩槻城を築くにあたり、城と城下町の周りを土塁と濠で囲んだ
長さ8kmも「大構」を構築しました。 その土塁の上に本殿が
造られ、その土塁の一部と神社が現在まで残されて居ます。 -
横から見ると高さが分かりますね。 当時は足元の部分がもっと
掘り下げられていたので、これより高かったと思われます。 -
踏切横から見ると、「土塁」だなぁ、と分かりますね。
左側一帯が、「大構」の外になります。
この後、岩槻駅に向かいました。
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