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旅の2日目は、名古屋市(熱田神宮)犬山市(明治村)岡崎市(八丁味噌の郷・岡崎城)富士宮市(富士山本宮浅間大社)と、暗くなるまで精力的に回りました。<br />この中で、特に心を惹かれたのは「明治村」。<br />東京・小金井公園内の「江戸東京たてもの園」には、昭和の建物を中心に30軒ほどが保存・展示されていますが、「博物館明治村」には明治遺産ともいえる67件もの優れた建物があります。<br />1961~1971年まで名鉄社長を務めた土川元夫の存在がなければ、これらの貴重な遺産は、その大半が姿を消したことでしょう。<br />土川は経営手腕もさることながら、文化的事業にも力を注ぎ、名鉄沿線観光資源の創出と文化事業を両立させ、大きな功績を残しました。<br />明治村や美術館などの開設のほかに、母校の京都大学に土地と資金を提供して、今西錦司の「霊長類研究所」も犬山市に開設した人物です。<br />写真は、徳川家康が生まれた岡崎城の天守・・・大河ドラマ「真田丸」で、もう一人の主役だった家康公を思い出しながら、岡崎公園を歩きました。

富士とお城と明治村の旅 <2> 熱田神宮~明治村~岡崎城~富士山本宮浅間大社

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2019/12/15 - 2019/12/16

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ペコちゃん

ペコちゃんさん

旅の2日目は、名古屋市(熱田神宮)犬山市(明治村)岡崎市(八丁味噌の郷・岡崎城)富士宮市(富士山本宮浅間大社)と、暗くなるまで精力的に回りました。
この中で、特に心を惹かれたのは「明治村」。
東京・小金井公園内の「江戸東京たてもの園」には、昭和の建物を中心に30軒ほどが保存・展示されていますが、「博物館明治村」には明治遺産ともいえる67件もの優れた建物があります。
1961~1971年まで名鉄社長を務めた土川元夫の存在がなければ、これらの貴重な遺産は、その大半が姿を消したことでしょう。
土川は経営手腕もさることながら、文化的事業にも力を注ぎ、名鉄沿線観光資源の創出と文化事業を両立させ、大きな功績を残しました。
明治村や美術館などの開設のほかに、母校の京都大学に土地と資金を提供して、今西錦司の「霊長類研究所」も犬山市に開設した人物です。
写真は、徳川家康が生まれた岡崎城の天守・・・大河ドラマ「真田丸」で、もう一人の主役だった家康公を思い出しながら、岡崎公園を歩きました。

旅行の満足度
5.0
同行者
友人
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • <2日目><br />熟女の失敗 ” 第2弾 ” ・・・8時出発なのに8時半と思い込んで、まだ部屋で寛いでいた二人組が謝りながら大慌てでバスに乗り込んできました。<br />弾丸ツアーの貴重な時間が15分も遅れましたが、最初の「熱田神宮」に8時半前に到着。

    <2日目>
    熟女の失敗 ” 第2弾 ” ・・・8時出発なのに8時半と思い込んで、まだ部屋で寛いでいた二人組が謝りながら大慌てでバスに乗り込んできました。
    弾丸ツアーの貴重な時間が15分も遅れましたが、最初の「熱田神宮」に8時半前に到着。

  • 神社は日本全国に8~10万社あると言われますが、「神宮」はその中でも特に、皇室の祖神や歴代天皇、皇室と縁の深い神を祭神とする神社にだけ与えられる称号(社号)で、全国に24社しかない格の高い神社です。<br />年間約700万人の参拝者が訪れ、古くから「熱田さん」と親しまれている熱田神宮・・・その広さは約19万平方mもあり、境内には熱田神宮のご祭神である熱田大神(あつたのおおかみ)が祀られた「本宮」の外に、28の社(やしろ)があります。

    神社は日本全国に8~10万社あると言われますが、「神宮」はその中でも特に、皇室の祖神や歴代天皇、皇室と縁の深い神を祭神とする神社にだけ与えられる称号(社号)で、全国に24社しかない格の高い神社です。
    年間約700万人の参拝者が訪れ、古くから「熱田さん」と親しまれている熱田神宮・・・その広さは約19万平方mもあり、境内には熱田神宮のご祭神である熱田大神(あつたのおおかみ)が祀られた「本宮」の外に、28の社(やしろ)があります。

  • 日本武尊は、父の景行天皇から三種の神器の一つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり東国へと戦いに出かけたのですが、途中で病に倒れ、景行天皇43年の113年に伊勢の国で亡くなりました。<br />その時の剣を熱田の地に祀ったのが熱田神宮の創祀と伝えられています。<br />因みに「三種の神器」とは、天照大神から授けられた<八咫の鏡(やたのかがみ)・草薙剣・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)>のこと。

    日本武尊は、父の景行天皇から三種の神器の一つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり東国へと戦いに出かけたのですが、途中で病に倒れ、景行天皇43年の113年に伊勢の国で亡くなりました。
    その時の剣を熱田の地に祀ったのが熱田神宮の創祀と伝えられています。
    因みに「三種の神器」とは、天照大神から授けられた<八咫の鏡(やたのかがみ)・草薙剣・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)>のこと。

  • 熱田神宮も名古屋城と同様、戦災により諸施設がほとんど焼失しましたが、昭和30年に再建されました。<br />境内の冬桜が見ごろを迎えています。<br />

    熱田神宮も名古屋城と同様、戦災により諸施設がほとんど焼失しましたが、昭和30年に再建されました。
    境内の冬桜が見ごろを迎えています。

  • 草薙剣が祀られたことを起源とする熱田神宮の歴史が境内に掲示されています。<br />「薙」は「薙ぎ払う」を意味しており、迷い・煩悩などを剣で斬り捨てて、本当に必要なものを打ち立てる意思と力の象徴・・・そんな神器が祀られた熱田神宮のパワーにあやかろうと、戦国武将の信長・秀吉・家康なども篤く信仰してきました。

    草薙剣が祀られたことを起源とする熱田神宮の歴史が境内に掲示されています。
    「薙」は「薙ぎ払う」を意味しており、迷い・煩悩などを剣で斬り捨てて、本当に必要なものを打ち立てる意思と力の象徴・・・そんな神器が祀られた熱田神宮のパワーにあやかろうと、戦国武将の信長・秀吉・家康なども篤く信仰してきました。

  • 本宮の中心である本殿は、明治26年に造営された社殿を元に再建され、その後も数度にわたり改修されました。<br />現在のこの社殿は、平成21年に造営されたもの。

    本宮の中心である本殿は、明治26年に造営された社殿を元に再建され、その後も数度にわたり改修されました。
    現在のこの社殿は、平成21年に造営されたもの。

  • 巨木の周りは、絵馬がビッシリ。

    巨木の周りは、絵馬がビッシリ。

  •  熱田神宮の樹林には楠の巨木が多く「熱田神宮の七本楠」として有名ですが、この楠はその中で2番目に大きいもの。<br />しかもこの楠は、境内の楠の中で唯一触れます・・・太い根にタッチしてパワーを頂きました。

    熱田神宮の樹林には楠の巨木が多く「熱田神宮の七本楠」として有名ですが、この楠はその中で2番目に大きいもの。
    しかもこの楠は、境内の楠の中で唯一触れます・・・太い根にタッチしてパワーを頂きました。

  • 鬱蒼とした森を進んで行くと・・・

    鬱蒼とした森を進んで行くと・・・

  • 水を司る神様・罔象女神(みずはのめのかみ)が祀られた「清水社」に着きました。<br />古くから「お清水さま」と称され、平家の武将・平景清が目を患った際に湧き水で目を清めたところ、疾患が治ったとか・・・その事から、眼の神様としても信仰が篤いんですって。

    水を司る神様・罔象女神(みずはのめのかみ)が祀られた「清水社」に着きました。
    古くから「お清水さま」と称され、平家の武将・平景清が目を患った際に湧き水で目を清めたところ、疾患が治ったとか・・・その事から、眼の神様としても信仰が篤いんですって。

  • 清水社の奥にある、湧き水が溢れている場所・・・湧き水をすくって、真ん中奥にある石塔めがけて、3度「パシャ!」と水をかけて祈念すると、願いが叶うのだとか。<br />実はこの石塔、世界三大美女と称される「楊貴妃」の墓の一部という説もあり、楊貴妃にあやかってこの水で肌を洗えば綺麗になれる、という女性には何とも嬉しい言い伝えがあります。

    清水社の奥にある、湧き水が溢れている場所・・・湧き水をすくって、真ん中奥にある石塔めがけて、3度「パシャ!」と水をかけて祈念すると、願いが叶うのだとか。
    実はこの石塔、世界三大美女と称される「楊貴妃」の墓の一部という説もあり、楊貴妃にあやかってこの水で肌を洗えば綺麗になれる、という女性には何とも嬉しい言い伝えがあります。

  • 実際に顔は洗えませんが、湧き水を3回頬につけるだけで、あなたも美肌・美人に!・・・見て下さい、皆さんの美しくなった姿(?)を。

    実際に顔は洗えませんが、湧き水を3回頬につけるだけで、あなたも美肌・美人に!・・・見て下さい、皆さんの美しくなった姿(?)を。

  • 熱田神宮を後にして、犬山市にある「明治村」へ。<br />ここは、明治時代の建造物等を移築した野外博物館で、正式名称は「博物館明治村」・・・名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助し、昭和40年にオープンしたテーマパークです。

    熱田神宮を後にして、犬山市にある「明治村」へ。
    ここは、明治時代の建造物等を移築した野外博物館で、正式名称は「博物館明治村」・・・名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助し、昭和40年にオープンしたテーマパークです。

  • 第四高等学校(現在の金沢大学)の同窓生だった土川元夫 (名鉄社長)と谷口吉郎(建築家・博物館明治村の初代館長)の2人は、戦後の急速な経済成長の蔭で失われつつある明治時代の建築物のうち、歴史的・文化芸術的にも価値があるものを後世に残したいと考え、土地開発の妨げになるなどの理由で保存が難しい建物を譲り受けて移築し、その修復・保存に努めたのが明治村のスタートです。

    第四高等学校(現在の金沢大学)の同窓生だった土川元夫 (名鉄社長)と谷口吉郎(建築家・博物館明治村の初代館長)の2人は、戦後の急速な経済成長の蔭で失われつつある明治時代の建築物のうち、歴史的・文化芸術的にも価値があるものを後世に残したいと考え、土地開発の妨げになるなどの理由で保存が難しい建物を譲り受けて移築し、その修復・保存に努めたのが明治村のスタートです。

  • 開村当時の施設は札幌電話交換局・京都聖ヨハネ教会堂・夏目漱石住宅など15件でしたが、現在では67件に達し、博物館の敷地も2倍近くの100万平方mに広がりました。<br />広大な村内を1丁目~5丁目毎にボランティアガイドさんが案内してくれます。

    開村当時の施設は札幌電話交換局・京都聖ヨハネ教会堂・夏目漱石住宅など15件でしたが、現在では67件に達し、博物館の敷地も2倍近くの100万平方mに広がりました。
    広大な村内を1丁目~5丁目毎にボランティアガイドさんが案内してくれます。

  • 外国人相手の牛肉販売と牛鍋の店として、明治20年頃、神戸に建てられた「大井牛肉店」・・・西洋古典様式の柱と半円アーチの窓がある洋風のデザインですが、玄関の庇は京風の &quot; むくり破風 &quot; に鶴を飾り、金の浮き文字看板が掲げられ、和洋折衷の造りになっています。

    外国人相手の牛肉販売と牛鍋の店として、明治20年頃、神戸に建てられた「大井牛肉店」・・・西洋古典様式の柱と半円アーチの窓がある洋風のデザインですが、玄関の庇は京風の " むくり破風 " に鶴を飾り、金の浮き文字看板が掲げられ、和洋折衷の造りになっています。

  • 明治21年に名張に建てられた「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」。<br />明治19年の師範学校令により、国民皆学の基礎となった小学校教師養成のため、各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられました。<br />師範学校本館の改築に伴い、昭和3年に名張市・蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われた建物の中央玄関部分と右側を移築しています。<br />玄関は四本の円柱が立つアーケード、2階にベランダを設け、入母屋の屋根となっています。

    明治21年に名張に建てられた「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」。
    明治19年の師範学校令により、国民皆学の基礎となった小学校教師養成のため、各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられました。
    師範学校本館の改築に伴い、昭和3年に名張市・蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われた建物の中央玄関部分と右側を移築しています。
    玄関は四本の円柱が立つアーケード、2階にベランダを設け、入母屋の屋根となっています。

  • その隣りにある「ガイダンスセンター」・・・明治村の見方や楽しみ方を、日本語・英語・中国語で案内してくれます。<br />明治21年に建てられたこの建物は、皇宮警察の庁舎の一つ「近衛局本部付属舎」・・・皇宮警察本部の坂下護衛所として、昭和42年まで使われていました。<br />手前の緑屋根の小さな建物は、明治41年に建造された「赤坂離宮正門哨舎」。

    その隣りにある「ガイダンスセンター」・・・明治村の見方や楽しみ方を、日本語・英語・中国語で案内してくれます。
    明治21年に建てられたこの建物は、皇宮警察の庁舎の一つ「近衛局本部付属舎」・・・皇宮警察本部の坂下護衛所として、昭和42年まで使われていました。
    手前の緑屋根の小さな建物は、明治41年に建造された「赤坂離宮正門哨舎」。

  • なだらかに続く森の小径を上っていくと、林の上に見えてきた2本の尖塔は、明治40年に日本聖公会・京都五条教会として京都・河原町通りに建てられた「聖ヨハネ教会堂」。<br />木造の2階は会堂、レンガ造の1階は日曜学校や幼稚園に使われました。<br />2階にはステンドグラスもありますが、時間の関係で入館はパス。

    なだらかに続く森の小径を上っていくと、林の上に見えてきた2本の尖塔は、明治40年に日本聖公会・京都五条教会として京都・河原町通りに建てられた「聖ヨハネ教会堂」。
    木造の2階は会堂、レンガ造の1階は日曜学校や幼稚園に使われました。
    2階にはステンドグラスもありますが、時間の関係で入館はパス。

  • 明治42年に建てられた「学習院長官舎」。<br />明治時代になって文明開化で洋風化が進められ、住宅にも洋式が採り入れらるようになりました。<br />左側は公的な接客や実務に使われた洋館、右側は座敷がある和洋折衷の官舎で、学習院が四谷から現在の目白に移転した際に、構内に建設されたもの・・・因みに、当時の学習院長(第十代目)は、陸軍大将・乃木希典でした。

    明治42年に建てられた「学習院長官舎」。
    明治時代になって文明開化で洋風化が進められ、住宅にも洋式が採り入れらるようになりました。
    左側は公的な接客や実務に使われた洋館、右側は座敷がある和洋折衷の官舎で、学習院が四谷から現在の目白に移転した際に、構内に建設されたもの・・・因みに、当時の学習院長(第十代目)は、陸軍大将・乃木希典でした。

  • 明治10年代に東京・上目黒に建てられた「西郷従道(つぐみち)邸」。<br />明治村に移築する前は、国鉄スワローズの選手宿舎として使われており、名鉄が保存していた国鉄の蒸気動車と交換してもらったそうです。

    明治10年代に東京・上目黒に建てられた「西郷従道(つぐみち)邸」。
    明治村に移築する前は、国鉄スワローズの選手宿舎として使われており、名鉄が保存していた国鉄の蒸気動車と交換してもらったそうです。

  • 玄関を入ると、従道公の原寸大(身長160cm)の写真があります。<br />西郷従道は、西南戦争で兄・隆盛側につかず政府側に残留し、明治18年に内閣制度が創設されると伊藤博文内閣の海軍大臣に就任。<br />海外にも度々視察に出掛け、和風の本館と共に接客用のためにこの洋館を建てました。

    玄関を入ると、従道公の原寸大(身長160cm)の写真があります。
    西郷従道は、西南戦争で兄・隆盛側につかず政府側に残留し、明治18年に内閣制度が創設されると伊藤博文内閣の海軍大臣に就任。
    海外にも度々視察に出掛け、和風の本館と共に接客用のためにこの洋館を建てました。

  • ホール・居間・婦人室・応接室・食堂・書斎・寝室などが見学できますが、内部に置かれている調度品の多くは西郷邸のものではなく、鹿鳴館や赤坂離宮で使用されたもの。<br />右上の写真は女性用便座(おまる)、右下の椅子は、女性の着物の帯やドレスの飾りがつぶれないよう、背もたれがくり抜かれています。

    ホール・居間・婦人室・応接室・食堂・書斎・寝室などが見学できますが、内部に置かれている調度品の多くは西郷邸のものではなく、鹿鳴館や赤坂離宮で使用されたもの。
    右上の写真は女性用便座(おまる)、右下の椅子は、女性の着物の帯やドレスの飾りがつぶれないよう、背もたれがくり抜かれています。

  • ダイニングルームの食器は、地元名古屋・ノリタケの最高級シリーズ・ダイアモンドコレクション。<br />

    ダイニングルームの食器は、地元名古屋・ノリタケの最高級シリーズ・ダイアモンドコレクション。

  • 二階各室の窓は、丈の高いフランス窓・・・内開きのガラス戸に加え、外開きの鎧戸が備えられています。

    二階各室の窓は、丈の高いフランス窓・・・内開きのガラス戸に加え、外開きの鎧戸が備えられています。

  • 2階応接室にある暖炉の額縁飾りは日本で焼かれた焼き物で、日本三景の宮島・松島・天の橋立と富士山が描かれ、大変高価なものだそうです。

    2階応接室にある暖炉の額縁飾りは日本で焼かれた焼き物で、日本三景の宮島・松島・天の橋立と富士山が描かれ、大変高価なものだそうです。

  • また、窓上のカーテンボックスなど室内を飾る多くの部品は、当時フランスから輸入された物。

    また、窓上のカーテンボックスなど室内を飾る多くの部品は、当時フランスから輸入された物。

  • 当時の上流社会の一コマを垣間見た「西郷従道邸」でした。

    当時の上流社会の一コマを垣間見た「西郷従道邸」でした。

  • 応接間から広いベランダに出ると、聖ヨハネ教会堂や入鹿池が見えます。

    応接間から広いベランダに出ると、聖ヨハネ教会堂や入鹿池が見えます。

  • 東京・文京区千駄木町に明治20年頃建てられた「森鴎外・夏目漱石住宅」・・・明治23年に森鴎外が借りて一年余りを過ごした後、明治36~39年まで夏目漱石が借りて住んだ家です。

    東京・文京区千駄木町に明治20年頃建てられた「森鴎外・夏目漱石住宅」・・・明治23年に森鴎外が借りて一年余りを過ごした後、明治36~39年まで夏目漱石が借りて住んだ家です。

  • 漱石は二男五女に恵まれましたが、この家に住んでいた当時の子供たちの写真が展示されています。

    漱石は二男五女に恵まれましたが、この家に住んでいた当時の子供たちの写真が展示されています。

  • 夏目漱石(1867~1916)は、東京帝国大学に在学中、正岡子規と出会って俳句を学び、英文科卒業後、松山や熊本で教師を務めた後、イギリスへ留学。<br />帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じる傍ら、『吾輩は猫である』を発表して文壇デビュー・・・その時に住んでいたのがこの家です。

    夏目漱石(1867~1916)は、東京帝国大学に在学中、正岡子規と出会って俳句を学び、英文科卒業後、松山や熊本で教師を務めた後、イギリスへ留学。
    帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じる傍ら、『吾輩は猫である』を発表して文壇デビュー・・・その時に住んでいたのがこの家です。

  • 『吾輩は猫である』の文中には、「猫のためのくぐり戸」をはじめ、この家の姿が描写されており、書斎にはモデルとなった黒っぽい灰色に虎斑の子猫の置物がありました・・・ ” この猫だったんですね~ ”

    『吾輩は猫である』の文中には、「猫のためのくぐり戸」をはじめ、この家の姿が描写されており、書斎にはモデルとなった黒っぽい灰色に虎斑の子猫の置物がありました・・・ ” この猫だったんですね~ ”

  • 明治体験処の 「ハイカラ衣装館」は、明治40年に建てられた「安田銀行会津支店」。

    明治体験処の 「ハイカラ衣装館」は、明治40年に建てられた「安田銀行会津支店」。

  • 明治村の初代村長は徳川夢声、2代目は森繁久彌、3代目は小沢昭一が務めましたが、2015年からは、エッセイストでテレビなどで活躍中の阿川佐和子さんが就任。

    明治村の初代村長は徳川夢声、2代目は森繁久彌、3代目は小沢昭一が務めましたが、2015年からは、エッセイストでテレビなどで活躍中の阿川佐和子さんが就任。

  • そして道沿いには、文明開化の様子を表した &quot; 錦絵 &quot; の行灯が・・・「ハイカラ衣装館」で明治時代風のドレスや矢絣・袴姿を借りて村内を散策すると、 ” 明治 ” を満喫出来ますよ。

    そして道沿いには、文明開化の様子を表した " 錦絵 " の行灯が・・・「ハイカラ衣装館」で明治時代風のドレスや矢絣・袴姿を借りて村内を散策すると、 ” 明治 ” を満喫出来ますよ。

  • 鋳鉄製の五右衛門風呂のような「外務省の天水受け」。<br />

    鋳鉄製の五右衛門風呂のような「外務省の天水受け」。

  • 名古屋の中心部・堀川沿いにあった商家で、明治34年に建てられた「東松(とうまつ)家住宅」は、木造建築では珍しい3階建。<br />江戸末期に建てられた平屋を、明治28年に2階建にして店構えを造り、明治34年に3階建に増築したそうです。<br />江戸時代に武家以外の者が造ることを許されなかった3階建の建物は、1867年からOKとなりますが、1919年に市街地建築物法で木造高層住宅が禁止されたため、3階建以上の木造住宅が造られたのは、僅か50年ほどの間。

    名古屋の中心部・堀川沿いにあった商家で、明治34年に建てられた「東松(とうまつ)家住宅」は、木造建築では珍しい3階建。
    江戸末期に建てられた平屋を、明治28年に2階建にして店構えを造り、明治34年に3階建に増築したそうです。
    江戸時代に武家以外の者が造ることを許されなかった3階建の建物は、1867年からOKとなりますが、1919年に市街地建築物法で木造高層住宅が禁止されたため、3階建以上の木造住宅が造られたのは、僅か50年ほどの間。

  • 東松家は明治20年代後半までは灯油販売など油屋を生業とし、その後、昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。<br />玄関を入ってすぐの所は、油屋の店の部分。

    東松家は明治20年代後半までは灯油販売など油屋を生業とし、その後、昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。
    玄関を入ってすぐの所は、油屋の店の部分。

  • 奥の間に、名古屋の商家における「ハレの日の食事」を再現。<br />明治時代の商家は家族や使用人が多かったため、普段の食事は麦飯に漬物だけの昼食など質素なものでしたが、正月やお祭り等の ” ハレの日 ” には季節の材料を使って、その家ならではのご馳走を作りました。<br />名古屋の商家では春のお祭りには、ばら寿司をよく食べたそうで、その食卓が再現されています。

    奥の間に、名古屋の商家における「ハレの日の食事」を再現。
    明治時代の商家は家族や使用人が多かったため、普段の食事は麦飯に漬物だけの昼食など質素なものでしたが、正月やお祭り等の ” ハレの日 ” には季節の材料を使って、その家ならではのご馳走を作りました。
    名古屋の商家では春のお祭りには、ばら寿司をよく食べたそうで、その食卓が再現されています。

  • 2階の襖の引手に取り付けられた櫂や鳥の紋様。<br />(上の写真)堀川沿いの油屋だったので、油を船で運んだことから船の櫂をモチーフにデザインしたもの。<br />(下の写真)凝ったデザインですが、これは特注でなく当時の既製品だったとか。

    2階の襖の引手に取り付けられた櫂や鳥の紋様。
    (上の写真)堀川沿いの油屋だったので、油を船で運んだことから船の櫂をモチーフにデザインしたもの。
    (下の写真)凝ったデザインですが、これは特注でなく当時の既製品だったとか。

  • 2階と3階は住まいの階になっており、茶道を嗜んでいた当主のために、吹き抜けに面して茶室が設けられ、茶会も催されていました。<br />茶室には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などが備えられ、当時の商家の趣味の一端が偲ばれます。

    2階と3階は住まいの階になっており、茶道を嗜んでいた当主のために、吹き抜けに面して茶室が設けられ、茶会も催されていました。
    茶室には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などが備えられ、当時の商家の趣味の一端が偲ばれます。

  • 茶室の手前の部屋にある半月型に透かした下地窓。<br />茶室の扉の開け閉めで障子の光が半月模様になり、光の形で茶室に客人が全員揃って扉が閉められたかどうかが判るようになっています。

    茶室の手前の部屋にある半月型に透かした下地窓。
    茶室の扉の開け閉めで障子の光が半月模様になり、光の形で茶室に客人が全員揃って扉が閉められたかどうかが判るようになっています。

  • 3階の欄間には、梅花の紋様の透かしが入っています。

    3階の欄間には、梅花の紋様の透かしが入っています。

  • 1階の通り土間の上は3階まで吹き抜けになっており、高窓から明かりを入れているので、奥行きが深い家ですが明るい室内になっています。

    1階の通り土間の上は3階まで吹き抜けになっており、高窓から明かりを入れているので、奥行きが深い家ですが明るい室内になっています。

  • 3階から外を見ると、土蔵が見えます。

    3階から外を見ると、土蔵が見えます。

  • 水屋も整っています。

    水屋も整っています。

  • 正面から手前に出す ” 隠し引き出し ” がある珍しい階段。<br />まだまだ見たい建物が沢山ありましたが、集合時間が迫ってきたのでバスに戻り、岡崎に向けて出発しました。<br />今度は一日かけて、ゆっくり回りたいですね。

    正面から手前に出す ” 隠し引き出し ” がある珍しい階段。
    まだまだ見たい建物が沢山ありましたが、集合時間が迫ってきたのでバスに戻り、岡崎に向けて出発しました。
    今度は一日かけて、ゆっくり回りたいですね。

  • 今回のツアーは見学スポットが沢山あるので、昼食は昨日も今日もバスの中。

    今回のツアーは見学スポットが沢山あるので、昼食は昨日も今日もバスの中。

  • 犬山から1時間ほどで岡崎に到着・・・車窓から岡崎城が見えてきました。<br />岡崎と言えば「岡崎城」と「八丁味噌」が有名ですが、最初に「八丁味噌の郷・カクキュー八丁味噌」へ立ち寄り。

    犬山から1時間ほどで岡崎に到着・・・車窓から岡崎城が見えてきました。
    岡崎と言えば「岡崎城」と「八丁味噌」が有名ですが、最初に「八丁味噌の郷・カクキュー八丁味噌」へ立ち寄り。

  • 八丁味噌を作っている会社は、日本で2社だけ・・・その工場(蔵)は、道路をはさんで隣同士の「まるや」と「カクキュー」で、江戸時代初期から2軒の老舗は伝統製法で作り続けてきました。<br />八丁味噌という名前の由来は ” 岡崎城から西に八丁(約870m)の場所で作られる味噌 ” ということで、2つの蔵が隣接している理由もそこにあるのですね。<br />

    八丁味噌を作っている会社は、日本で2社だけ・・・その工場(蔵)は、道路をはさんで隣同士の「まるや」と「カクキュー」で、江戸時代初期から2軒の老舗は伝統製法で作り続けてきました。
    八丁味噌という名前の由来は ” 岡崎城から西に八丁(約870m)の場所で作られる味噌 ” ということで、2つの蔵が隣接している理由もそこにあるのですね。

  • 創業時期は「まるや」が1337年、「カクキュー」が1645年。<br />「カクキュー」は「まるや」より約300年歴史が浅いのですが、それでも370年以上の歴史を持つ八丁味噌の蔵元で、当代で何と19代目!

    創業時期は「まるや」が1337年、「カクキュー」が1645年。
    「カクキュー」は「まるや」より約300年歴史が浅いのですが、それでも370年以上の歴史を持つ八丁味噌の蔵元で、当代で何と19代目!

  • 2006年のNHKの朝ドラ「純情きらり」では、宮崎あおい演じるヒロインの婚約者の家業が八丁味噌蔵という設定だったため、「まるや」と「カクキュー」が撮影舞台となりました。

    2006年のNHKの朝ドラ「純情きらり」では、宮崎あおい演じるヒロインの婚約者の家業が八丁味噌蔵という設定だったため、「まるや」と「カクキュー」が撮影舞台となりました。

  • 米味噌・麦味噌など味噌は全国で作られていますが、八丁味噌は豆味噌。<br />岡崎周辺では、昔から良質の大豆(矢作大豆)が採れ、花こう岩質の地盤からは良質の天然水が湧き出し、矢作川の水運により塩も入手し易く、味噌作りにとって三拍子揃った立地条件が八丁味噌を生み出しました。

    米味噌・麦味噌など味噌は全国で作られていますが、八丁味噌は豆味噌。
    岡崎周辺では、昔から良質の大豆(矢作大豆)が採れ、花こう岩質の地盤からは良質の天然水が湧き出し、矢作川の水運により塩も入手し易く、味噌作りにとって三拍子揃った立地条件が八丁味噌を生み出しました。

  • 八丁味噌は、原料である大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆味噌で、保存性に優れ、持ち歩くにも便利だったので、三河武士の兵糧として重宝がられ、徳川家康は陣中でこの味噌を焼いて食べるのを好んだそうです。<br />味噌蔵に入って、これから工場見学へ。

    八丁味噌は、原料である大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆味噌で、保存性に優れ、持ち歩くにも便利だったので、三河武士の兵糧として重宝がられ、徳川家康は陣中でこの味噌を焼いて食べるのを好んだそうです。
    味噌蔵に入って、これから工場見学へ。

  • 八丁味噌の原料は、大豆と水と塩のみ・・・食品添加物は一切使用していませんし、加熱処理もしていませんので、生きた自然食品と言えます。<br />製造工程は、原料を選別し、水洗いした大豆に水分を含ませ、大豆を蒸気で蒸し上げ、蒸した大豆に麹菌を付けて繁殖させ、塩と水を加えて杉桶に仕込み、熟成蔵で二夏二冬以上の間、熟成を行って ” 八丁味噌の出来上がり ” 。

    八丁味噌の原料は、大豆と水と塩のみ・・・食品添加物は一切使用していませんし、加熱処理もしていませんので、生きた自然食品と言えます。
    製造工程は、原料を選別し、水洗いした大豆に水分を含ませ、大豆を蒸気で蒸し上げ、蒸した大豆に麹菌を付けて繁殖させ、塩と水を加えて杉桶に仕込み、熟成蔵で二夏二冬以上の間、熟成を行って ” 八丁味噌の出来上がり ” 。

  • 熟成の際、仕込量6トンに対し約3トンの重石が職人の手によって丁寧に積み上げられ、じわじわと圧力が均等にかけられることで、中の味噌が丁度いい具合に発酵し、出来上がった味噌は水分が抜け、人が上に立っても沈まない固さになります。<br />重石を木桶全体に均等に圧力が加わるように、また地震があっても崩れないほどしっかり積めるようになるには、少なくとも10年の経験が必要だとか。

    熟成の際、仕込量6トンに対し約3トンの重石が職人の手によって丁寧に積み上げられ、じわじわと圧力が均等にかけられることで、中の味噌が丁度いい具合に発酵し、出来上がった味噌は水分が抜け、人が上に立っても沈まない固さになります。
    重石を木桶全体に均等に圧力が加わるように、また地震があっても崩れないほどしっかり積めるようになるには、少なくとも10年の経験が必要だとか。

  • 見学の最後は、八丁味噌と赤だし味噌(合わせ味噌)の味噌汁の飲み比べ体験・・・どちらも美味しかったけど、八丁味噌の方が、強い大豆のコクとアミノ酸の旨みを感じました。<br />因みに、八丁味噌は大豆オンリーの豆味噌、赤だしは八丁味噌+白味噌(米味噌)。

    見学の最後は、八丁味噌と赤だし味噌(合わせ味噌)の味噌汁の飲み比べ体験・・・どちらも美味しかったけど、八丁味噌の方が、強い大豆のコクとアミノ酸の旨みを感じました。
    因みに、八丁味噌は大豆オンリーの豆味噌、赤だしは八丁味噌+白味噌(米味噌)。

  • 甘く調味された八丁味噌のこんにゃく田楽も試食。

    甘く調味された八丁味噌のこんにゃく田楽も試食。

  • 八丁味噌のお土産まで頂きました。

    八丁味噌のお土産まで頂きました。

  • 岡崎のもう一つの見どころは、徳川家康の生地「岡崎城」。<br />江戸時代の岡崎城は、東海地方で3番目に数えられる規模でしたが、明治6年の廃城令によって廃城に・・・その後、昭和34年に天守が復興され、平成22年には東隅櫓も再建されました。

    岡崎のもう一つの見どころは、徳川家康の生地「岡崎城」。
    江戸時代の岡崎城は、東海地方で3番目に数えられる規模でしたが、明治6年の廃城令によって廃城に・・・その後、昭和34年に天守が復興され、平成22年には東隅櫓も再建されました。

  • 岡崎城がある岡崎公園の用地は、大正8年に旧岡崎藩主17代目・本多忠敬(ただあつ)から寄付されました。

    岡崎城がある岡崎公園の用地は、大正8年に旧岡崎藩主17代目・本多忠敬(ただあつ)から寄付されました。

  • 「東隅櫓」は「望楼式二重櫓」と呼ばれる木造2階建で、入母屋造りの屋根は岡崎藩主を務めた本多氏の家紋・立葵が刻まれた本瓦葺き、壁は白漆喰塗りで、高さ約9.4m。

    「東隅櫓」は「望楼式二重櫓」と呼ばれる木造2階建で、入母屋造りの屋根は岡崎藩主を務めた本多氏の家紋・立葵が刻まれた本瓦葺き、壁は白漆喰塗りで、高さ約9.4m。

  • 江戸から数えての39番目の宿場だった岡崎宿は、家康の祖父・松平清康が岡崎城を居城として以来、城下町として発展し、天保の頃には東海道53宿の中で人口は第7位、旅籠屋数では第3位と、東海道有数の宿場町でした。

    江戸から数えての39番目の宿場だった岡崎宿は、家康の祖父・松平清康が岡崎城を居城として以来、城下町として発展し、天保の頃には東海道53宿の中で人口は第7位、旅籠屋数では第3位と、東海道有数の宿場町でした。

  • 1993年に再建された「大手門」・・・今日は12月16日なので、立派な門松が飾られています。

    1993年に再建された「大手門」・・・今日は12月16日なので、立派な門松が飾られています。

  • お出迎えは、<グレート家康公「葵」武将隊>の本多忠勝。<br />武将隊は、岡崎市の魅力を広く発信しようと、2011年に結成された岡崎の観光PR部隊で、武将が身につける甲冑は、紙で作られたエコ甲冑のため、軽量で身軽。<br />因みに、本多忠勝(1548~1610)は、酒井忠次・榊原康政・井伊直政と共に家康を支えた「徳川四天王」の一人。<br /> ” 本多忠勝さん? ” と声をかけたら 、” よう来られたのう ” と返事が返ってきました。

    お出迎えは、<グレート家康公「葵」武将隊>の本多忠勝。
    武将隊は、岡崎市の魅力を広く発信しようと、2011年に結成された岡崎の観光PR部隊で、武将が身につける甲冑は、紙で作られたエコ甲冑のため、軽量で身軽。
    因みに、本多忠勝(1548~1610)は、酒井忠次・榊原康政・井伊直政と共に家康を支えた「徳川四天王」の一人。
    ” 本多忠勝さん? ” と声をかけたら 、” よう来られたのう ” と返事が返ってきました。

  • 観光ボランティアガイドの案内で岡崎城を見学。<br />1452年:岡崎城の築城<br />1531年:松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を拡大<br />1542年:城内で竹千代(後の徳川家康)誕生<br />1549年:今川家の支城となる<br />1560年:今川義元の敗死(桶狭間の戦)により松平元康(後の家康)は岡崎城を取り戻し今川家から独立<br />1570年:徳川家康は本拠を浜松城に移し、長男の松平信康が岡崎城主へ

    観光ボランティアガイドの案内で岡崎城を見学。
    1452年:岡崎城の築城
    1531年:松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を拡大
    1542年:城内で竹千代(後の徳川家康)誕生
    1549年:今川家の支城となる
    1560年:今川義元の敗死(桶狭間の戦)により松平元康(後の家康)は岡崎城を取り戻し今川家から独立
    1570年:徳川家康は本拠を浜松城に移し、長男の松平信康が岡崎城主へ

  • 岡崎公園内にある天守閣の電話ボックス・・・いい雰囲気ですね。

    岡崎公園内にある天守閣の電話ボックス・・・いい雰囲気ですね。

  • 没後350年祭を記念して、1965年に建てられた「徳川家康公銅像」。<br />江戸時代は、男性の身長が155~158cm、女性は143~146cmと推定されていますが、家康公の身長は159cm、体重は70kgで体形は肩幅が広く、ずんぐりむっくりの肥満体・・・それでも全国統一の念願を叶え、徳川幕政300年の基盤をつくり、1616年・75歳まで長生きしました。

    没後350年祭を記念して、1965年に建てられた「徳川家康公銅像」。
    江戸時代は、男性の身長が155~158cm、女性は143~146cmと推定されていますが、家康公の身長は159cm、体重は70kgで体形は肩幅が広く、ずんぐりむっくりの肥満体・・・それでも全国統一の念願を叶え、徳川幕政300年の基盤をつくり、1616年・75歳まで長生きしました。

  • これは、家康公生誕450年祭の一環として、1992年に設置された若き家康の騎馬像「松平元康像」。<br />川を渡る元康像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。

    これは、家康公生誕450年祭の一環として、1992年に設置された若き家康の騎馬像「松平元康像」。
    川を渡る元康像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。

  • 錦を敷き詰めたような紅葉。

    錦を敷き詰めたような紅葉。

  • 天守の近くにある「龍城(たつき)神社」。<br />東照宮と映世神社を合併した社で、祭神は徳川家康公と本多忠勝公の2柱です。<br />社殿は昭和23年に焼失したため、本殿は市内の大聖寺にあった東照宮を移築し、拝殿は昭和39年に再建されました。

    天守の近くにある「龍城(たつき)神社」。
    東照宮と映世神社を合併した社で、祭神は徳川家康公と本多忠勝公の2柱です。
    社殿は昭和23年に焼失したため、本殿は市内の大聖寺にあった東照宮を移築し、拝殿は昭和39年に再建されました。

  • 2012年に造られた家康幼少の頃の竹千代と、天下人・家康公の「出世ベンチ」・・・勿論、隣に座って写真も撮りました。

    2012年に造られた家康幼少の頃の竹千代と、天下人・家康公の「出世ベンチ」・・・勿論、隣に座って写真も撮りました。

  • 東側の空堀の方から望む天守。

    東側の空堀の方から望む天守。

  • 作業員の方が、天守を支える石垣の落ち葉を取り除いて、石垣を保全しています。<br />この石垣は「打ち込みハギ」という工法・・・石垣の接合部分を加工して組み合わせ、スキマには小石を打ち込んで埋めています。

    作業員の方が、天守を支える石垣の落ち葉を取り除いて、石垣を保全しています。
    この石垣は「打ち込みハギ」という工法・・・石垣の接合部分を加工して組み合わせ、スキマには小石を打ち込んで埋めています。

  • こちらは隙間がないように石を加工して組み合わせた「切り込みハギ」という工法の石垣・・・築くのに手間ヒマがかかりますが、敵が登る事が困難で、見た目もキレイですね。

    こちらは隙間がないように石を加工して組み合わせた「切り込みハギ」という工法の石垣・・・築くのに手間ヒマがかかりますが、敵が登る事が困難で、見た目もキレイですね。

  • 岡崎城の正面。<br />3層5階建の城内は、各階ごとにテーマを分けた歴史資料館になっていますが、弾丸ツアーのため入場はパス。

    岡崎城の正面。
    3層5階建の城内は、各階ごとにテーマを分けた歴史資料館になっていますが、弾丸ツアーのため入場はパス。

  • 天守の前に建てられた「亀趺(きふ)」の台座が印象的な「東照公遺訓碑」。<br /> ” 人の一生は 重荷を負いて 遠き道をゆくがごとし・・・ ” <br />ちょっと長い文章ですが、じっくり読むと、いいことが書いてあります。

    天守の前に建てられた「亀趺(きふ)」の台座が印象的な「東照公遺訓碑」。
    ” 人の一生は 重荷を負いて 遠き道をゆくがごとし・・・ ”
    ちょっと長い文章ですが、じっくり読むと、いいことが書いてあります。

  • 遺訓碑と並んで建つ「家康公遺言碑」。<br /> ” 将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである。政権が他家に移っても民が幸せならば、本意であり恨みに思うことはない ” といった意味の言葉が刻まれています。<br />自分の跡継ぎに遺した遺言に、家康公の人となりが感じられる思いがしました。

    遺訓碑と並んで建つ「家康公遺言碑」。
    ” 将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである。政権が他家に移っても民が幸せならば、本意であり恨みに思うことはない ” といった意味の言葉が刻まれています。
    自分の跡継ぎに遺した遺言に、家康公の人となりが感じられる思いがしました。

  • ふるさとの名木「岡崎公園の大くろまつ」。

    ふるさとの名木「岡崎公園の大くろまつ」。

  • 西側から見た天守。

    西側から見た天守。

  • 岡崎城を描いたマンホールの蓋。

    岡崎城を描いたマンホールの蓋。

  • 豊臣秀吉から「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と称賛された武将「本多平八郎忠勝公の像」。<br />鹿角兜と甲冑で身を固め、愛用の槍「蜻蛉(とんぼ)切り」を構え、像の後ろには、先ほどの武将隊の本多忠勝が歩いています。

    豊臣秀吉から「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と称賛された武将「本多平八郎忠勝公の像」。
    鹿角兜と甲冑で身を固め、愛用の槍「蜻蛉(とんぼ)切り」を構え、像の後ろには、先ほどの武将隊の本多忠勝が歩いています。

  • 公園内の「三河武士のやかた家康館」前の広場にある、高さ約6mの「からくり時計」。

    公園内の「三河武士のやかた家康館」前の広場にある、高さ約6mの「からくり時計」。

  • 毎時00分・30分に約3分のからくりタイムがあり、ちょうど14時だったので見学しました。<br />定刻になると、時計台の3面が跳びあがり・・・

    毎時00分・30分に約3分のからくりタイムがあり、ちょうど14時だったので見学しました。
    定刻になると、時計台の3面が跳びあがり・・・

  • 家康公が登場して能を舞い、遺訓を語ります。<br />見る人の心を和ませるからくり時計に、最後まで見入りました。

    家康公が登場して能を舞い、遺訓を語ります。
    見る人の心を和ませるからくり時計に、最後まで見入りました。

  • 岡崎を後にして富士宮に向かう途中、バスの車窓から富士山を見ると、夕日を受けた赤富士がとても綺麗でした。

    岡崎を後にして富士宮に向かう途中、バスの車窓から富士山を見ると、夕日を受けた赤富士がとても綺麗でした。

  • 17時前に「富士山本宮浅間大社」に到着。<br />富士山本宮浅間大社はその昔、富士山の噴火を鎮めたことにより崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた約1300社の浅間神社の総本宮となりました。<br />「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇(紀元前342~317年)の御代に富士山が大噴火をし、周辺が荒れ果てた状態が長期に及んだため、第11代垂仁天皇(紀元前69~紀元後70年)はこれを憂い、富士山を浅間大神として祀って山霊を鎮めたのが当社の起源とあります。

    17時前に「富士山本宮浅間大社」に到着。
    富士山本宮浅間大社はその昔、富士山の噴火を鎮めたことにより崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた約1300社の浅間神社の総本宮となりました。
    「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇(紀元前342~317年)の御代に富士山が大噴火をし、周辺が荒れ果てた状態が長期に及んだため、第11代垂仁天皇(紀元前69~紀元後70年)はこれを憂い、富士山を浅間大神として祀って山霊を鎮めたのが当社の起源とあります。

  • 二之鳥居と三之鳥居の間にある、菊の御紋の灯籠・・・当社には菊の御紋があちこちにありますが、これはその昔、朝廷が創建したからなのでしょうね。

    二之鳥居と三之鳥居の間にある、菊の御紋の灯籠・・・当社には菊の御紋があちこちにありますが、これはその昔、朝廷が創建したからなのでしょうね。

  • 境内に置かれた「流鏑馬像」。<br />当社には多数の武将が訪れましたが、中でも特に篤い崇敬を寄せたのは、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康。<br />1193年に頼朝公が富士山麓で狩りを行った際、流鏑馬を奉納したことから、現在も5月5日に「流鏑馬祭」が行われます。

    境内に置かれた「流鏑馬像」。
    当社には多数の武将が訪れましたが、中でも特に篤い崇敬を寄せたのは、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康。
    1193年に頼朝公が富士山麓で狩りを行った際、流鏑馬を奉納したことから、現在も5月5日に「流鏑馬祭」が行われます。

  • 関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、征夷大将軍になった翌年(1604年)に、社殿とともにこの「楼門」を造営しました。<br />左右には随身が安置されています。

    関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、征夷大将軍になった翌年(1604年)に、社殿とともにこの「楼門」を造営しました。
    左右には随身が安置されています。

  • 夕闇に浮かぶ「拝殿」。

    夕闇に浮かぶ「拝殿」。

  • 富士山頂にある神社が、当社の奥宮とは知りませんでした。<br />富士山本宮浅間大社は、1609年に山頂部の散銭取得の優先権を得、1779年には幕府の裁許により八合目以上の支配権が認められます。<br />明治時代に国有化されますが、昭和49年の最高裁判決で平成16年に当社に譲渡(返還)されました・・・ということは、八合目の山小屋は土地代を払っているのかしら?

    富士山頂にある神社が、当社の奥宮とは知りませんでした。
    富士山本宮浅間大社は、1609年に山頂部の散銭取得の優先権を得、1779年には幕府の裁許により八合目以上の支配権が認められます。
    明治時代に国有化されますが、昭和49年の最高裁判決で平成16年に当社に譲渡(返還)されました・・・ということは、八合目の山小屋は土地代を払っているのかしら?

  • 境内には、富士山の雪解け水が溶岩の間から湧出した地下水が池となった「湧玉池」があり、水温は年間を通じて約13度。<br />富士山溶岩流の末端にある当社は、噴火を水によって鎮めるということから、湧玉池のほとりに造営されたと考えられます。

    境内には、富士山の雪解け水が溶岩の間から湧出した地下水が池となった「湧玉池」があり、水温は年間を通じて約13度。
    富士山溶岩流の末端にある当社は、噴火を水によって鎮めるということから、湧玉池のほとりに造営されたと考えられます。

  • 夕暮れの中に浮かび建つ「二之鳥居」。

    夕暮れの中に浮かび建つ「二之鳥居」。

  • 駐車場から望む富士山の夕景。<br />新富士駅の富士山からスタートした今回の旅行・・・最後も富士山で締めくくることが出来て、思い出に残る旅となりました。

    駐車場から望む富士山の夕景。
    新富士駅の富士山からスタートした今回の旅行・・・最後も富士山で締めくくることが出来て、思い出に残る旅となりました。

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