2019/12/15 - 2019/12/16
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ペコちゃんさん
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毎年出かける「琴の会」の皆さんとの旅行・・・今回は静岡・愛知の寺社とお城などを巡る1泊2日の旅です。
いつもは新幹線で素通りするだけの静岡・愛知ですが
<1日目>東京駅~新富士駅~日本平夢テラス~掛川城~豊川稲荷~名古屋城
<2日目>熱田神宮~明治村~岡崎八丁味噌の郷~岡崎城~富士山本宮浅間大社~新富士駅~東京駅
と、朝早くから夜まで盛沢山の観光旅行・・・特に、日本平夢テラスと名古屋城・本丸御殿は2018年にオープンしたばかりなので、楽しみにしながら8名のお仲間と出かけました。
写真は、青空に映える掛川城。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
<1日目>
熟女8人の旅、いつも何かが起きます・・・あわや、山手線に荷物を置き忘れそうになったMちゃん!
品川駅から8時過ぎの新幹線に乗り、9時過ぎに新富士に到着。 -
改札口を出て、まず目に入るのがこの壁画・・・富士に伝わる「竹取物語」「源平の合戦」「富士の巻狩」の話が蒔絵風に描かれています。
縦2.5m、構7.2mという大きな壁画の素材は陶板で、京都の窯で焼き上げられています・・・色彩鮮やかで、素晴らしい! -
駅構内の「やすらぎ広場」に飾られたステンドグラス「時の詩(うた)」。
縦3.45m、横4.98mのステンドグラスには、富士山と富士市の姿が描かれています。 -
新富士駅は、東海道新幹線のスタート時にはなかったのですが、地元の要請により1988年(昭和63年)に開業した駅です。
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そのためか、新富士駅は東海道新幹線の駅では唯一、鉄道路線と接続していません。
あの岐阜羽島駅でも名鉄と接続しています。
一番近い駅は、約2km離れた東海道本線・身延線の富士駅で、路線バスを利用することになります。 -
『陸の孤島』とも言える新富士駅・・・駅の周辺に商店らしきものはほとんどありませんが、私達にはこの富士山の景観だけで十分です。
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これから2日間お世話になる「ドリーム観光」のバスに乗り、日本平に向かいます。
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1時間ほどで「日本平公園」に到着。
ここは、清水エスパルスのホームグラウンド「IAIスタジアム日本平」などもある総合運動公園で、標高300mの丘陵からは富士山・清水港・伊豆半島などのパノラマビューが楽しめる絶景スポット! -
2018年11月に誕生したスタイリッシュな展望施設「日本平夢テラス」・・・設計は新国立競技場を手掛けた隈研吾さんです。
後ろにあるのは、日本平デジタルタワー。 -
1階は総合案内と展示エリア。
日本平はその昔、日本武尊が東征の際、当所を支配していた豪族による野火の難にあった際、草薙剣(くさなぎのつるぎ)で豪族を倒した後、この山の頂上に登り、四方を眺めたことから「日本平」と呼ばれるようになったと言われています。 -
2Fはラウンジ、3階は展望フロア。
建物の設計は、法隆寺の夢殿にヒントを得て八角形の幾何学模様に挑戦したとのこと。
材料には地元産のヒノキ材を使用し、木の枝のようなデザインが外の富士山と呼応する、森のようなインテリア空間・・・さすが隈研吾さんです。 -
3階から続く展望回廊・・・その真ん中にあるデジタルタワーが、チョッと邪魔。
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展望回廊から見た富士山。
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いつ・どこから見ても感動的な富士山!
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右側には清水港と三保の松原、その先には伊豆半島が霞んでいます。
もっとゆっくりこの景観を見ていたかったのですが、何しろ今回は弾丸ツアーのような2日間、時間がないので先を急ぎます。 -
昭和61年(1986年)に設置された<「赤い靴」の女の子母子像>。
♪ 赤い靴はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった ♪
野口雨情の童謡「赤い靴」の女の子のモデル「岩崎きみちゃん」は、日本平山麓の東側で生まれました。
未婚の母と共に函館に移住した3歳の「きみちゃん」は、生活苦のため、米国人宣教師夫妻の養女となります。 -
その後、夫妻がアメリカに帰国する事になった時、横浜港から船で旅立つ予定でしたが、結核に罹った「きみちゃん」は麻布十番の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、3年後の明治44年に9才の短い生涯を終えました。
これは、麻布十番にある『きみちゃん像』(1989年設置)
北海道や横浜など「きみちゃん」ゆかりの所にも像が設置されています。 -
日本平から1時間余りで「掛川城」へ・・・3年ほど前にも来たことがあり、今回は二度目。
1497~1501年の戦国時代、駿河の守護大名・今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城の始まりです。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、和睦で開城させた徳川家康の領有となり、その後、1590年に全国を平定した豊臣秀吉によって山内一豊が城主として10年間在城しました。 -
一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守を造り、その美しさから「東海の名城」と謳われましたが、1854年の「安政の東海大地震」により天守閣など大半が損壊し、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年に廃城となりました。
その後、掛川市民の熱意と努力が身を結び、平成6年に日本初の「本格木造天守閣」として復元され、140年ぶりに再び美しい姿を現しました。
左にある建物は、大地震の後に建てられた「太鼓櫓」。 -
1601年に掛川から土佐に移封して初代土佐藩主となった山内一豊は、掛川城を模した高知城を築城しましたが、掛川城の天守を再建する際には高知城の天守を参考にして、それに近い構造としました。
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中央にある石段を登って本丸に通じる「四足門」へ。
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天守には、寺社建築に見られる軒の一部が曲線になった「軒唐破風(のきからはふ)」と、禅宗寺院に用いられた火燈窓(かとうまど:火炎形をした格子状の窓)が装飾として使われています。
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天守の外観は3層ですが、内部は4層。
白漆喰で塗り固められた壁を見ながら、赤い帽子のボランティアガイドさんと共に冠木門へ進むと・・・ -
中で待っていたのは、忍者(?)
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天守台の脇にある「霧吹き井戸」。
1569年、徳川家康が今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた時、井戸から霧が立ち込めて城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったとされる・・・本当かなぁ? -
靴を脱いで天守へ・・・これは山内一豊の像。
跨る馬は、良妻賢母の見性院(正室)が買い与えた馬かしら? -
2階への階段。
かなりの急勾配ですが、階段中央に手すりも完備・・・でも、3年前に登った時より、しんどい? -
平成7年に復元された「大手門」は掛川城の表玄関で、木造楼門造りの本格的な櫓門。
向かいにある大手門駐車場の屋根にも城下町の風情が漂っています。 -
天守2階に置かれた「鯱」は、天守閣に据え付けられた物と同じ大きさの複製で、長さ:95cm、高さ:120cm、重さ:200kgの青銅製。
姿は魚で頭は虎の姿をした鯱は、火事の際に水を噴き出して火を消すという火除けのまじないとして、天守や櫓門などに飾られてきました。 -
天守最上階から見た「二の丸御殿」。(総床面積:287坪)
現存する城郭御殿は、高知城と川越城の「本丸御殿」、二条城と掛川城の「二の丸御殿」のみです。
二の丸御殿は1854年の安政の東海大地震で倒壊しますが、その時の城主・太田資功(太田道灌の子孫)が1861年に再建しました。 -
二の丸御殿の玄関の屋根は、半円型をした珍しい「起り破風(むくりはふ)」。
屋根の破風板に下がる妻飾りは「懸魚(げぎょ)」と呼ばれ、水の代わりに魚を屋根に懸けて建物を火災から守るために、火伏せのまじないとして取り付けられたもの・・・二の丸御殿の懸魚は、野菜の蕪の形と似ているところから「蕪懸魚(かぶらげぎょ)」と呼ばれます。
壁の家紋は、御殿再建時の城主・太田家の桔梗紋。
表玄関からは城主や家老しか入れなかったそうです。 -
二の丸御殿は7棟からなる書院造で、約20の部屋があり、迷ってしまいそう!
これは、玄関に近い「三の間」に展示されている打掛・・・見事な美しさですが、少し小振りに見えるのは気のせいでしょうか? -
安政2年(1855年)、当時の掛川藩主・太田氏によって、時間を告げる目的で制作された「報刻の大太鼓」。
でも、子の刻(夜中の0時)に9回も鳴らされたら、うるさくて迷惑だったのでは? -
城主が藩の政務を司った「御書院上の間」・・・最も重要な対面儀式が行われた部屋で、謁見者は次の間・二の間・三の間に控えていました。
床の間の掛け軸は、太田家の家老であった太田資逢の筆で「虎」と書いてあるそうですが・・・全然読めません。 -
二の丸御殿は儀式・公式対面などの藩の公的式典の場所で、藩政の中心となる諸役所と城主の公邸が連結した建物。
明治2年の廃城後は、学校・市庁舎などに転用されましたが、昭和47年から3年間に亘って保存修理され、昭和55年に国の重要文化財に指定されました。
床に置かれた照明も、素敵ですね。 -
歌手で俳優の杉良太郎さんが、所有していた掛川城主の甲冑など5点を掛川市に寄贈しました。
左側は1706~1711年に掛川城主を務めた松平忠喬(ただたか)、右側は1746~1763年に城主だった太田資俊(すけとし)のもの。 -
杉良太郎さんがこんな貴重な物を持っていたことも驚きですが、それをゆかりの地に戻したことに感動しました。
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大名行列・・・丁寧に作られた可愛い人形に、思わず見入りました。
当時、これだけ大掛かりな大名行列には莫大な費用が掛かったことでしょう。 -
山内一豊時代の掛川城の模型。
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山内一豊の甲冑。
まだまだ見どころが多い掛川城ですが、約1時間の見学を終えて次の豊川稲荷に向かいます。 -
豊川稲荷は1441年開創の曹洞宗の寺院で、正式名は「円福山 豊川閣 妙厳寺」。
今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの武将や天下人も深く信奉した豊川稲荷は、京都の伏見稲荷と並ぶ「三大稲荷」として知られています。 -
門前町を歩いて「総門」へ。
重厚感のある総門は明治17年(1884)に改築されたもので、門扉と両袖の扉は欅の一枚板で作られています。 -
総門を入った右手にある「梛(なぎ)」の巨木(樹高:約20m)。
梛の葉は横方向に葉脈がないので裂けにくい事から魔除けのお守りとされ、また男女の縁が切れない和合の象徴ともされています。 -
本殿の落慶を記念して、昭和12年に寄進された総欅材造りの「鐘楼」。
天井から吊るされた梵鐘は戦時中に供出されましたが、戦歿者慰霊と世界平和を祈願するために、戦後、再鋳造されました。 -
天文5年(1536年)に今川義元が寄進した「山門」は、豊川稲荷で最古の建物。
昭和29年に大修理が行われました。 -
境内にある日本最古の現役郵便ポスト。
明治45年型の丸型ポストから手紙を出すことも出来ます。 -
お寺なのに鳥居・・・神仏習合の名残りでしょうか。
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これまで豊川稲荷は神社と思い込んでいましたが、なぜ曹洞宗のお寺が稲荷になったのか・・・豊川稲荷の本尊は法堂(本堂)に祀られた千手観音菩薩ですが、この「本殿」に守護神として祀られている「豊川枳尼真天(だきにしんてん)」の稲穂を担いだ姿から、「豊川稲荷」と呼ばれるようになったそうです。
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本殿は一段高くなっており、間口20m、奥行き40m、高さ30mの総欅造りの堂々たるもの。
豊川稲荷は商売繁盛の神として知られ、毎年、初詣客で賑わいます・・・2019年の第1位は明治神宮(318万人)ですが、豊川稲荷も堂々の第13位(134万人)。 -
本殿正面に掲げられている大提灯・・・手すきの和紙を使い、真っ赤に塗られた大提灯は、高さ3.8m、直径3.4m。
2016年に東京の寝具会社が寄贈し、38年ぶりに新調されました。
ボランティアガイドさんの説明では、浅草・雷門の提灯より大きいとか。 -
本殿を守るのは、狛犬でなくキツネさん・・・ちゃんと見張っています。
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厚い欅に彫られた浜縁の端にある脇障子の彫刻・・・見応えがあります。
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本殿から奥の院への参道を歩くと、境内にズラリと立ち並ぶ「千本のぼり」。
願い事・住所・名前を筆で書いて奉納すると、千日分の功徳行願に当たるそうで、数か月の間、立ててくれます。
奉納料は2千円で、絵馬(500円)の形を変えたものと言えます。 -
霊狐塚の入り口・・・ここにも千本のぼりがズラッと並んでいます。
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霊狐塚の石碑。
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狐塚の手前まで何体かの狐像が並んでいます。
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どれも顔つきが独特で、こんな可愛い狐さんも。
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この岩は富士山噴火の時の溶岩だそうで、岩の隙間には、ここを訪れた人が入れた硬貨があり、それを木の枝などでうまく取り出してお守りとして持ち帰ると、お金持ちになるという言い伝えがあります。
そして1年後にお金持ちになったら、その何倍かの硬貨を岩の間に押し込んで奉納するのだとか。 -
霊狐塚には、願いが叶った参拝者が感謝して奉納した狐像が1000体以上・・・圧巻です!
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顔は違った表情をしていますが、狐たちはバラバラの方向を向いているのではなく、ほとんどが同じところを見つめており、何とも言えない壮大なパワーを感じます。
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霊狐塚の手前にある大黒堂の「おさすり大黒天」・・・ご真言を唱えながら撫でると、ご利益が頂けるそうです。
大黒様のおなかや膝が凹んでいるのは、そのご利益にあやかろうとコインなど硬いもので削り取った跡で、皆さん、 ” 私も、あやかりた~い ” と、撫で撫で。 -
豊川と言えば「いなり寿司」の発祥地。
皆が説明を聞いている間に、Yさんが機転を利かしてひとっ走りして、豊川稲荷の入り口正面にある「門前そば山彦」で「いなほ稲荷寿司」をゲット、名古屋に向かうバスの中で頂きました。
赤坂にある豊川稲荷東京別院の稲荷寿司は何度も食べましたが、ここのも美味しい・・・Yさん、グッドジョブでした! -
豊川から約1時間、16時に名古屋城に到着。
現在、天守閣は閉館中のため入れませんが、2009年から復元工事が始まった本丸御殿が2018年に完成し、公開されています。
本丸御殿の入館時間は9~16時ですが、今回のツアータイトルは「閉園後の名古屋城本丸御殿 特別入城」・・・なので、私達だけでユッタリと観ることが出来ました。 -
入城までの間「金シャチ横丁」へ。
本丸御殿と同じく2018年にオープンした金シャチ横丁は、名古屋城の正門と東門の前に多くの飲食店やお土産店などが立ち並ぶ名古屋観光の新名所です。 -
金シャチ横丁を歩いていると、お土産屋さんで井村屋のチューブ入り餡子を見つけました。
見たことのない餡子チューブ、欲しいけど、これ重そう!
” これから本丸御殿の見学だし、後からホテルの近くで買おう ” と思ったのが、悲劇の始まり(?)・・・後で探しても何処にも売ってなくて、結局、帰宅してAmazonで手にいれるはめになりました。
<教訓>旅行中に欲しい物を見つけた時は、直ぐ手に入れること! -
見学ツアーの時間が来て、いよいよ城内へ。
名古屋城は、元々この地にあった那古野城(織田信長生誕の地と言われる)の跡地に、徳川家康が九男・義直の為に天下普請によって作らせた平城です。(築城:1609~1612年) -
大阪城・熊本城とともに日本三大名城と言われ、「尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭でも歌われ名古屋城ですが、昭和20年の空襲で、当時の天守などの主要建造物を焼失してしまいました。
正門の近くに建てられた「恩賜元離宮名古屋城」の石碑。 -
これが名古屋城の正門。
この門は明治43年に江戸城の蓮池御門が移築されましたが、昭和20年の空襲で焼失したため、昭和34年に天守閣と共に、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
左手に入場券売場があります。 -
1959年に再建された天守閣は、今年がちょうど60周年。
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全国の武将隊ブームの先駆けとなった「名古屋おもてなし武将隊」が、毎日城門でお客様をお出迎え。
2009年に結成された武将隊のメンバーは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など愛知県にゆかりのある6武将と陣笠隊(足軽)に扮し、名古屋城の観光案内等を行っています。
上の写真は、一般の入城者が16時の閉館時間に退城する際の、お見送りの様子。 -
正門近くに置かれた名古屋城の金シャチ(レプリカ)。
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夕日に染まる名古屋城の天守が見えてきました・・・素晴らしい!
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1959年に鉄筋コンクリートで再建されてから60年・・・石垣の変形やコンクリートの劣化など耐震補強が必要になってきた名古屋城ですが、「2020年7月に木造復元」を掲げる川村市長の思惑通りに進むのは困難な状況です。
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名古屋城には創建時の隅櫓が東南・西南・西北の3カ所に現存します。
これは「西南隅櫓」・・・本丸の南西隅にあり、1612年頃に建造されました。
一重目に屋根がないため二重櫓に見えますが、内部は三階櫓となっており、見学もできます。
2階の張り出しは、敵を攻撃するための石落とし。 -
本丸を中心に築かれた名古屋城の石垣は総延長が8.2km、石の総数は10万~20万個。
石垣工事を命じられたのは、徳川家康の命により元豊臣家臣の外様大名20家で、慶長15年(1610)6月に石垣の基礎となる根石が置かれ、9月には大半の工事が終わり、12月にすべての石垣工事が完了したと伝えられています。 -
石垣工事で大活躍したのが、石垣造りの名手・加藤清正・・・最も重要な天守台の石垣を担当し、肥後・熊本から約2万人を引き連れて、わずか3カ月足らずで完成させたとのこと。
大きさが約八畳、推定重量が10トンもあるこの巨石は、本丸東二之門を入った正面にある名古屋城で最大の石「清正石」。
加藤清正が運んだと言われていますが、ここの石垣の担当は黒田長政だったとのこと・・・それにしても運ぶだけでひと苦労だったでしょう。 -
「表二之門」から「本丸」に入り、「本丸御殿」へ。
本丸のほぼ中央に建てられた本丸御殿は、天守の南にある大建築で、当初は初代尾張藩主・徳川義直の住居と藩の政庁として使用され、その後、将軍が上洛する際の宿館となりました。 -
昭和20年の空襲で焼失した本丸御殿の復元工事は、3期に分けて2009年から始まり、2018年6月に完成しました。
全体は13棟の建物で構成され、総面積は3,100平方m。 -
今回は、名古屋城の営業終了後の特別拝観なので、落ち着いて鑑賞できます。
この「参加証」をつけて、拝観スタート。 -
最初は「玄関」から・・・玄関と言っても、一之間(18畳)二之間(28畳)の二部屋があり、虎や豹などが描かれたまばゆいばかりの金地の障壁画に、先ず圧倒されます。
障壁画は狩野派の絵師の作品で、戦時中は空襲に備えて ” 疎開 ” させていた実物をもとに復元模写したもの。 -
「竹林豹虎図」・・・当時は本物の虎や豹を見ることは叶わなかったので、書物や毛皮などを参考に描かれたそうです。
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藩主の謁見を待つ者たちは玄関に通され、異国の霊獣であった虎の群れに威圧されたようです。
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「玄関」から「大廊下」を挟み奥へ進み、藩主が正式な謁見に用いた「表書院」へ。
部屋の一番奥にある「上段之間」は、徳川義直が着座したと伝わる部屋で、「松竹禽鳥図」で飾られています。 -
「桜花雉子図」の襖絵・・・穏和な画題の中に風雅な趣があります。
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5部屋ある「表書院」は、部屋毎に異なる季節を描いた障壁画で飾られています。
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また、釘の頭を隠すための「釘隠し」も着目したい部品の一つ。
本丸御殿にはこのような釘隠しが約3,000個もあり、すべて忠実に復元されています。 -
「対面所」は、藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた殿舎。
上段之間(18畳)次之間(18畳)納戸一之間(24畳)納戸二之間(24畳)の四部屋があります。 -
「上段之間」と「次之間」の障壁画は「風俗図」と呼ばれ、京都や和歌山の四季の風物・名所が描かれています。
そして、ここ「上段之間」の天井は、黒漆塗の天井板に金箔が貼られた、何とも豪華な「二重折上小組格天井」。 -
豪華絢爛な「上洛殿」は、1634年(寛永11年)の三代将軍・家光の上洛に合わせ増築した建物。
家光の御座所となったこの「上段之間」など6部屋あります。 -
各部屋は狩野派による襖絵・天井板絵や彫刻欄間、飾り金具等で彩られ、贅の限りを尽くしています。
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「湯殿書院」は将軍専用の風呂場・・・風呂場と言っても湯船があるわけではなく、外にある釜で沸かした湯の湯気を浴室内に引き込む、サウナ式蒸し風呂のような構造になっており、浴室以外にも休息用に3部屋あります。
宮崎の飫肥城でも同様の風呂場を見ましたが、江戸時代の殿様はサウナ愛好家だったんですね。 -
約1時間で本丸御殿を見学し、外に出ると、まだ17時過ぎなのに、辺りは真っ暗。
提灯の紋様は、尾張藩が藩の特産品として保護した「有松絞り」の文様。 -
ライトアップされた天守を見ながらホテルに向かいます。
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今夜のお宿は、名古屋の中心部にある「名古屋クラウンホテル」。
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これは、翌日の朝食会場にあった「ふりかけ」ですが、名古屋のご当地グルメと言えば、みそカツ・ひつまぶし・手羽先など。
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夕食に選んだ店は「一富士」・・・うなぎ・ふぐを中心に、天然の素材にこだわった大正12年創業の老舗日本料理店です。
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初めて食べた「ひつまぶし」・・・表面はカリッと、中はふっくらと焼き上げた三河湾産の鰻に、皆さんも大満足。
女将さんに、 ” 正しいひつまぶしの食べ方(?) ” を指導してもらいました。
①初めに、そのまま頂きます。
②次に、薬味等を載せて頂きます。
この時の薬味のネギが美味しかったこと!・・・鰻とネギがこんなに合うとは! Kちゃん ” ネギのお替りが欲し~い ” と、叫んでいました。
③三番目にお茶漬けで食べます。
④そして最後に、一番好みの食べ方で〆ます。 -
名古屋クラウンホテルのお風呂は、天然温泉の「三蔵温泉」・・・大浴場で旅の疲れもとれました。
明日の観光も楽しみです。
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