2019/12/15 - 2019/12/15
40位(同エリア456件中)
ベームさん
その2の続き。
亀戸と錦糸町を歩きます。
亀戸は亀戸神社をはじめいくつかの名刹、神社があり歴史の残る地域でしたが、錦糸町はそういった跡がほとんど感じられない町でした。
この散歩もだいぶ回を重ねましたが、いよいよ行くところが無くなってきました。なんとかひねり出さねば。
写真は亀戸天神社。
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両国から総武線で亀戸に来ました。
ここは江東区です。 -
亀戸駅のホームから。
道路一杯に人が出て賑やかです。 -
その3の地図です。
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亀戸駅前。
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駅前から延びる亀戸十三間通り商店街(明治通り)では通りを歩行者天国にして、大道芸をやっていました。
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宇宙飛行士。
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あら不思議、片手だけで宙に浮いた。
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踊りのパフォーマンス。
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同。
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風船を膨らまして曲げたり延ばしたり折りたたんだり。。
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子供がたくさん順番待ち。
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蔵前橋通りに突き当たりました。亀戸4丁目交差点です。
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右角に亀戸梅屋敷という商業施設があります。
江戸時代、亀戸に呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」というのがあり、多数の梅が植えられ、梅の時期には多くの花見客でにぎわいました。「亀戸梅屋敷」と呼ばれました。 -
その場所ではありませんが、それをモチーフに亀戸のアンテナショップとして地域の物産とか江戸切子の展示販売をしています。寄席もあります。
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地元でとれる野菜。
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アンテナショップみたいなものです。
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ここには江戸切子のショールームがあります。
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切子とはカットグラスのことで、ガラスの表面に様々な文様を刻み込む技法です。
天保年間、1834年ころ大伝馬町のビードロ問屋が作り始めたのが最初とのことです。明治にイギリスよりカットグラスの専門家を招き、技法は飛躍的に向上しました。
別に薩摩藩で作られていた薩摩切子というのもあります。 -
東京都の伝統的工芸品産業、国の伝統的工芸品に指定されています。
主に江東区と墨田区に工房があり職人数は100人ほどだそうです。
ガラスにはソーダガラスとクリスタルガラスがあり、それぞれの特徴があります。 -
光線の当たり方で色が変わりまことに美しい。
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小さい器でも数万円します。
こういうのでお酒を飲んでも落ち着きませんね。やはり酒は安っぽいぐい呑みでやるのが良い。 -
江戸切子の代表的な文様。
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同。
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歌川広重 亀戸梅屋敷(清香庵)。
有名な臥龍梅(がりょうばい)です。今はありません。
古来江東の地は蒲田の梅園と共に梅の名所で、江東に梅が咲いた、という便りで寒さにちじんでいた人も炬燵から這い出してきました。 -
歌川広重 亀戸梅屋敷。
蒲田には梅屋敷公園があり、京浜急行の梅屋敷駅というのがあります。 -
亀戸4丁目交差点。
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交差点を左に少し行くと、右手に鳥居が建っています。
鳥居の上部は弓と矢になっています。 -
亀戸香取勝運(かとりかちうん)商店街の入り口です。
鳥居は突き当りにある亀戸香取神社のもの。香取神社がスポーツに勝つ神様なのでこの名を付けたようです。 -
香取神社の参道です。
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明治のころからある江東区内で一番歴史のある商店街だそうです。
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昭和30年代のレトロな雰囲気に改装されています。でも人出はそれほど。
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ちょっと右にそれ東覚寺へ。
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真言宗智山派の寺。1531年の創建。
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亀戸七福神の弁財天を祀っています。
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元に戻り、亀戸香取神社です。
天智天皇4年(665年)、藤原鎌足が東国に下向した香取神宮の香取大神を勧請し創立したという、おそろしく古い神社です。 -
平将門の乱の時、追討使俵藤太(藤原秀郷)はこの神社に戦勝を祈願し、願い通り平定した後神社に弓矢(勝矢)を奉納したという故事がある。
それで源頼朝、徳川家康などの武将、塚原卜伝、千葉周作ほか武者修行者の崇敬を受けるようになった。 -
手水舎。
それがいつの間にかスポーツの神となり、いまではアスリート達が勝利を願って多く参拝するようです。アスリートファーストなんて言われ、アスリートがおだてもてはやされる時代、さぞかしこの神社、悦に入っていることでしょうね。 -
この周辺は江戸末期から大正にかけて大根の産地でした。荒川水系の肥沃な土壌により、肉質が緻密で肌の白い大根が採れました。先が尖っているのが特徴です。
宅地化が進み、大正の終わりころから産地は小岩、高砂の方に移っていきます。 -
手水鉢。
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社殿。
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昭和63年の建築です。
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勝守(かちまもり)のお札、勝運袋を用意しています。
レスリングの吉田沙保里さん、水泳の池江璃花子さんもお参りしているようです。 -
左上:池江さん、右下:吉田さん。
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池江さん、病気平癒祈願。
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大国神と恵比寿神。
ここは亀戸七福神の一つです。 -
勝石。
この石に触れると勝運と幸運が訪れるそうです。 -
境内社。
天祖神社。 -
稲足神社。
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福神社。
恵比寿神と大国神を祀る。 -
水神、三峯、熊野神社の合祀殿。
敬虔に頭を下げるお年寄り。神仏を信じない私ですが、こういう姿を見るとなんと純朴な人だろうと尊敬します。 -
香取神社から伊藤左千夫の墓のある普門院に向かいます。
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普門院山門。
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門の脇に伊藤左千夫の墓の石柱。
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境内はなんとなく荒れた雰囲気。
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粗大ごみらしきもの。
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この観音像は優美な姿です。
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本堂。
ガラクタとビニールシート。近づける状態ではない。
なんだか変だなあ。 -
六地蔵。
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亀戸七福神の毘沙門天。
裏は落ち葉やゴミだらけ。七福神めぐりの人はびっくりするのでは。 -
あちこちにごみの塊がある。どうしてだろう、寺の意図的な方針なのか。調べてみるとこの寺には江東区の重要文化財が結構ある。どんな管理がなされているのだろうか。
お寺から、大きなお世話だ、と叱られるかもしれない。
昭和20年3月10日の東京大空襲のさい、この地一帯の犠牲者の遺体はこの寺に安置されたそうです。 -
墓地に出ました。
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伊藤左千夫の墓の標識だけはくっきりと書かれています。
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ありました。茂みに隠れるように。
伊藤左千夫:歌人、小説家。1864~1913(大正2)年。今の千葉県山武市出。
明治18年上京し牛乳店に奉公、22年、25歳の時今の錦糸町駅前に牧場を開き牛乳搾取業を始める。一方正岡子規の「歌よみに与ふる書」に啓発され、明治33年、子規の主宰する根岸短歌会に入り、子規に師事。 -
墓石は書家中村不折の字。戦火のため墓石の一部と「左」の字が欠けています。
子規の死後根岸短歌会の中心となり、短歌誌「馬酔木」、「アララギ」を発行、主宰する。同時に島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、土屋文明などの歌人を育てる。
他方小説「野菊の墓」を発表、夏目漱石の絶賛を受ける。
「野菊の墓」をもとにした木下恵介監督の映画「野菊の如き君なりき」は、お民だったかを演じた有田紀子の可憐な姿を思い出します。
いま山武市では左千夫の生家が復元されているようです。 -
代表的な歌に、
「牛飼いが歌よむ時に世のなかの新しき歌大いに興る」
「冬の夜のさ夜しづまりて釜のにえさやさや鳴るに心とまりぬ」
「わが罪を我が悔ゆる時我が命如何にかならむ哀しよ吾妹(わぎも)」
墓参に訪れた人の寄せ書きノートがありました。名前だけ書いてきました。
後で錦糸町駅前の牧舎跡も訪ねます。 -
次に回ったのは江東天祖神社。
普門院から探しながらの足で10分ほど。 -
柳島総鎮守神明社。
北十間川のそばです。 -
社務所は古い日本家屋。
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昭和2年建築の社殿は日本初の鉄筋コンクリート造りの社殿だそうです。
狭い境内で木立に覆われなにかしっとりする感じです。 -
大きな岩の上の狛犬。
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扁額。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。天祖とは天皇の祖先、天照大神のこと。 -
摂社太郎稲荷神社。
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神社の案内に樋口一葉の「たけくらべ」に出てくるとされています。
たしかに美登利が太郎様(太郎稲荷)に朝参りするところはありますが、美登利の住んでいる千束と亀戸ではちょっと朝参りするには遠すぎるのではないか。太郎稲荷でも亀戸の太郎稲荷とは違うのではないでしょうか。
追記:後日読んだ彫刻家高村光雲が描いた浅草についての随筆に、浅草寺の裏に太郎稲荷があったことが書かれていました。これなら千束から近い。
「たけくらべ」に出てくる美登利がお参りした太郎稲荷は浅草の方でしょう。
さらに調べると今でも台東区入谷2-19-2に太郎稲荷大明神というのがありました。 -
手水舎。
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可愛い童が見守っています。
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境内のあちこちにある可愛い童には名前がついています。
こころ。 -
おもいで。
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亀戸七福神の福禄寿を祀っています。
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童と道祖神。
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次に回ったのは龍眼寺(りゅうげんじ)。
1395年創建の天台宗のお寺。横十間川沿いにあります。 -
古来萩寺として有名です。
江戸初期の住職が100種類以上の萩を植えたことから、通称萩寺と言われるようになる。
この萩を求め松尾芭蕉、宝井其角、葛飾北斎、落合直文、伊藤左千夫、与謝野鉄幹、陸羯南など多くの文人墨客が訪れています。 -
山門を入ると大きな柳の木があります。
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見事な柳の木です。
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当初は柳源寺といったが、寺内の湧き水で顔を洗うと目が良くなる効果があり、眼病平癒の観音様として信仰を集めた。それで寺名も龍眼寺と改めました。
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本堂。
夢殿を模しています。 -
境内のお堂。
地蔵堂。 -
布袋堂。
亀戸七福神の布袋尊を祀っています。 -
不動堂。
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芭蕉句碑。
読めませんが、
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩 -
明治5年の碑で、都内にある37の芭蕉句碑で一番古いものだそうです。
他にも落合直文や文人墨客の句碑があります。
ことに落合直文は雅号を萩之家と号したほど萩が好きで、自分の墓をここに定めようとまで思いました。歌碑に:
萩寺の 萩面白しつゆの身の おくつきどころ ここに定めむ
おくつき/奥津城とは墓のこと。 -
綺麗に手入れされている境内。二人の人が丁寧に掃除していました。
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同。
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花時には萩のトンネルになるのでしょう。
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小さな庭園。
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池。
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夫婦の狸が月見て一杯やってます。
すがすがしい気持ちのする寺でした。 -
横十間川に沿って歩き蔵前橋通りに出ました。亀戸天神に向かいます。
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亀戸天神の横に葛餅の老舗船橋屋があります。
芥川龍之介の随筆を読むと、天神の藤や梅を見に来るたびにここに寄っています。
中学生のころ一盆3銭だったのが昭和の初めには10銭になっていたそうです。
参詣者は参詣のあとここで一休みするのが楽しみだった。今もそうでしょうか。
1805年創業。 -
亀戸天神社に来ました。
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大鳥居。
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社殿に向かって橋が三つあり、最初の橋が男橋/太鼓橋です。
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男橋の上から藤棚と弁天舎。
太鼓は結構急でした。 -
同。
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同、社殿に向かって。
2番目の平橋と3番目の女橋。 -
藤棚。
100株以上あるそうです。 -
藤棚。
池は心字池。 -
弁天社。
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3番目の女橋/太鼓橋。
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女橋。
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女橋の上から。
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社殿。
1661年、菅原道真の末裔がこの地に創建。
祭神は道真で、学問の神として崇敬される。 -
お祭りとして:
1月24日・25日のうそ替え神事、2月中旬から3月にかけ梅まつり、4月下旬から5月上旬の藤まつり、10月下旬から11月下旬の菊祭りがあります。
また学問の神として受験シーズンは大変賑わいます。 -
可愛らしいお嬢ちゃん。
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五歳菅公像。
五歳の時歌った和歌が彫られています。
美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある -
御神牛。
道真は牛と縁が深く、いろいろ故事があるようです。
昭和36年奉納。 -
吐水口は亀戸らしく亀さんです。
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境内には石碑がたくさんあります。
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歌川豊国の碑。
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花園社。
道真の妻と子供たちを祀る。 -
300本以上ある梅は藤と並んで亀戸天神の名物です。
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梅の古木。
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白加賀が多いです。
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梅の木と藤棚。
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太鼓橋・男橋を横から。
急なのが分ります。 -
紅梅殿。
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塩原太助奉納の石灯篭。1781年。
太助は本所相生町(今の両国)の薪炭商で財を成した豪商です。 -
御嶽(みたけ)神社。妙義社とも言う。
新年最初の卯の日(初卯)は多くの参詣者で賑わいます。 -
同。
菅原道真のさらに先生、卯の神を祀る神社です。 -
神楽殿。
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亀井戸跡。
神楽殿の裏にあります。 -
亀です。
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おいぬさま。
塩まみれになっています。謂れはわかりません。なんでも、この塩を削って自分の患部に摺り込むと治るそうです。平癒すると改めておいぬさまに塩を振りかけます。 -
明治31年頃の亀戸天神。
山本松谷:新選東京歳時記より。
太鼓橋があります。大鳥居から社殿に向かって一直線上に架かっていますが、この絵ではそっぽを向いていますね。
奥の妙義神社は御嶽神社のことです。画面左上に小さく臥龍梅とありますが、梅の名所亀戸梅屋敷です。 -
亀戸天神を後にして亀戸駅に戻りました。
亀戸4丁目交差点。 -
亀戸梅屋敷です。
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錦糸町駅で下車。
目的は伊藤左千夫の牧舎「茅の舎」のあった所と、芥川龍之介の学んだ府立3中、今の両国高校を訪ねることです。 -
駅のホームから。
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錦糸町駅南口前。
写真中央のバス停の先辺り、 -
交番の向かい、まさに駅の真ん前に石碑がありました。
伊藤左千夫の牧舎と住まいがあった所です。 -
1864年千葉県のいまの山武市に生まれた左千夫は、いくつかの牛乳搾取業舎で奉公したのち、明治22年25歳の時この地、当時の本所区茅場町で乳牛3頭を飼って牛乳業「茅の舎」を始めたのです。一般に牛乳が飲まれるようになった時期で、芥川龍之介の生家も牛乳搾取業でした。
牛乳業のかたはら歌にも興味を持ち、明治33年正岡子規の門をたたき、根岸短歌会に入りました。子規亡き後は会の中心となり歌誌「馬酔木」とか「アララギ」を主宰します。
”牛飼いが歌読む時に世のなかの あたらしき歌大いに起る”は子規門に入ったときの心の高ぶりを歌っています。 -
明治45年に牧舎はいまの江東区大島に移転しました。大正2年、50歳で死去。
碑に刻まれている歌は、
”よき日には 庭にゆさぶり雨の日は 家とよもして児等が遊ぶも”
家で遊ぶ子供たちを慈しんで歌ったものです。
この繁華な場所が明治時代牧場や湿地帯だったなんてどうして想像できますか。
この頃牧舎は市内に何か所かあった。一般に牛乳が飲まれるようになったのは福沢諭吉がその効能を知らしめたからと言われますが、生ものなので保冷設備のなかったころは消費地に立地せざるを得なかったのでしょう。 -
駅前から京葉道路に出て西に、大横川親水公園の方にしばらく歩くと両国高校があります。元の東京府立三中です。
ここに芥川は13歳から18歳までの5年間学びました。2級上には久保田万太郎、河合栄治郎がいます。
この時芥川に英語を教えたのが広瀬雄(たけし、のち校長)で、後に田端で近所同士となります。
堀辰雄もここに学び、広瀬の教えを受けました。田端に住む室生犀星に堀を紹介したのも広瀬でした。 -
この間に龍之介は文学に目覚め、紅葉、露伴、一葉、漱石、鴎外などを愛読しました。また同級生と回覧雑誌を発行し文章を作り始めます。
このあと成績優秀で、無試験で第一高等学校に進みました。 -
碑は正門を入ったすぐ左手に建っていました。
薄くて読めませんが、随筆「大川の水」の一節のようです。大川(隅田川、とくに吾妻橋から下流の通称)を愛する気持ちを綴っています。
”「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのに何の躊躇もしないであろう。・・・。自分は大川あるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛するのである。”
芥川は都会っ子でした。特に子供のころ住んだ本所界隈に愛着を持ち、その意味では下町っ子です。本所から新宿に移ってからも月に数回は大川の水を眺めに行ったそうです。 -
両国高校の中にはもう一つ「国産マッチ発祥の地」という碑があります。京葉道路沿いのフェンスの中です。
金沢藩出の清水誠という人がフランスでマッチ製造法を学び、1876年(明治9年)この地で製造会社「新燧社」を設立し本格的にマッチ製造を始めたそうです。 -
大横川親水公園。
これで本日の終わり、錦糸町駅から総武線快速で帰りました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2020/11/04 06:24:34
- 亀戸 錦糸町
- ベームさん おはようございます。
何度も通っておきながら、どこも深く見ていなかったことを残念に、また恥ずかしく思います。ママチャリで東京を見て回るのを何度もしましたが、行き当たりばったりでしたから、どの寺に誰の墓がある、なんてことも調べずに行きました。
伊藤左千夫の墓のあるお寺、落ち葉を掃除している人がいて、挨拶をして入りましたが、不愛想なひとでした。観音様の像がありましたが、拝む対象としては人間臭くて、ちょっといやらしい感がありましたが、見る人の感性にもよるのでしょうね。
旅行記をたいへん興味深く拝見しました。これを参考にして、もう一度訪れてみたいと思います。ユニークで素晴らしい旅行記だと思いました。
フォローさせていただきました。これからもよろしくお願いします。
pedaru
- ベームさん からの返信 2020/11/04 15:23:19
- RE: 亀戸 錦糸町
- >pedaruさん、
私の拙い旅行記に訪問いただき、フォローまで、有難うございます。
pedaruさんも歴史散策がお好きなのですね。同好の士として」嬉しいです。以前「荷風と歩く深川」を拝見させていただきました。
伊藤左千夫の墓のあるお寺はすこし異常ですね。前からそうなのか、伊藤左千夫がかわいそうに思えます。
その話はここだけのこととして、今後ともよろしくお願いいたします。
ベーム
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