2019/12/15 - 2019/12/15
78位(同エリア795件中)
ベームさん
その1の続き。
総武線の南側を歩き両国駅に戻ります。
写真は本所松坂町、吉良上野介屋敷跡。
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両国駅と総武線の北がその1、南側がその2です。
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その2。
両国駅まで戻ります。 -
すみだ北斎美術館から総武線のガードをくぐって清澄通りを下るとすぐに東京東信用金庫のビルがあります。
その建物の壁に葛飾北斎の絵(コピー)が掲げられていました。幟に「THE HIGASIN HOKUSAI GALLERY」とあります。 -
綺麗なので幾つか撮りました。
真崎の神燈、木母寺の鉦鼓。
真崎(まっさき)稲荷神社と梅若伝の木母寺。 -
橋場の田家、隅田の都鳥。
のんびりした橋場の風景、画面左奥に羽を休める都鳥。 -
白髭の松、今戸の夕烟。
松の名勝白髭神社と瓦を焼く職人。今戸は瓦など今戸焼が盛んだった。 -
待乳山の紅葉。
紅葉の名所、待乳山聖天。 -
首尾松の鉤船、椎の木の夕蝉。
幕府の米蔵(今の蔵前)にあった首尾の松と、本所七不思議の椎の木。 -
新柳橋の百雨、御竹蔵の虹。
新柳橋(今の柳橋)の上で夕立に遭い逃げる人。対岸の橋は今はない御蔵橋。 -
両国納涼。
納涼の人出で賑わう両国橋。 -
京葉道路に出てきました。
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西に歩くと説明版があり、「芥川龍之介生育の地」となっています。
明治25年(1892)、京橋区入舟町(今の中央区明石町、聖路加病院のあたり)に牛乳販売業新原敏三の長男として生まれる。その年母ふくが発狂し、龍之介は本所区小泉町(ここ、今の両国3-22-11)にある母の実家、芥川家に引き取られ養育される。当主は母の兄、芥川道章。 -
ここで江東尋常小学校(現両国小学校)、府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校に学ぶ。明治43年、18歳の時、芥川家は新宿に転居。
したがって龍之介は生まれて間もなくから18歳までその幼、少年、青年の多感な時期をこの地で過ごしたのです。
12歳の時、龍之介は芥川家と正式に養子縁組を結び、新原龍之介から芥川龍之介になりました。 -
向かい側にもう一枚案内板がありました。
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生育地付近の京葉道路。なんという変わりよう。
随筆「本所両国」で書いています。「明治二三十年代の本所は・・・、江戸二百年の文明に疲れた生活上の落後者が大勢住んでいた町である。・・・。殊に僕が住んでいたのは「お竹倉」にちかい小泉町である。・・・雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だった。」 -
当時の事は随筆「本所両国」のほか半自伝的作品「大導寺信輔の半生」に描かれています。
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京葉道路を渡って少し入ると両国小学校があります。
龍之介が学んだところです。当時江東尋常小学校。斎藤緑雨も学んでいます。 -
敷地の片隅に芥川龍之介文学碑が建っていました。
「杜子春」の一節です。 -
龍之介は小学時代に俳句を知り、同級生と文芸回覧雑誌を発行するなど早くもその文才の片鱗を見せています。
徳富蘆花、泉鏡花の作品、水滸伝や草双紙を愛読しました。 -
荒川放水路が出来る前、向島とか本所一帯は大雨の降るたびに隅田川の浸水に見舞われました。芥川家がこの地を離れ内藤新宿、次に田端に転居したのもそれが原因でした。
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両国小学校の隣に両国公園があります。
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勝海舟生誕の地です。
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勝海舟。旧幕臣。1823年~1899年(明治32年)。
あまりにも有名であり、かつ私はこの人物をあまり好きではないのでこれでやめときます。
西郷吉之助とは西郷隆盛の孫だと思います。 -
パネルが何枚かあります。
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同。
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同。
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両国小学校のフェンスにかかっている説明版。
尺振八(せきしんぱち)。
幕末期の英語学者だそうです。ジョン万次郎に英語を学び、門下生に田口卯吉、島田三郎がいました。 -
吉良邸跡を探していると道端に立札が見えます。
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織田信長に遡る囲碁の名門、本因坊家の屋敷があった所です。
信長は囲碁が好きで、本能寺の変の夜は就寝前に碁を打っていたとか。 -
吉良邸跡の立て札を見つけました。
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吉良邸表門跡。
元禄15年(1702年)12月14日、二組に分かれた浪士たちのうち、大石内蔵助以下23名がこの正門から討ち入りました。
山鹿流陣太鼓を打ち鳴らした、というのはのちの歌舞伎などの作り話でしょう。極秘の行動なのにそんなことをしたら、吉良方に気づかれます。 -
その先を曲がると本所松坂町公園、吉良邸上屋敷跡です。
もっともこの地が本所松坂町となったのは討ち入り後吉良邸がつぶされた後のことで、当時は本所一つ目だった。 -
吉良邸は当初江戸城に近い鍛冶橋にありましたが、赤穂浪士の仇討などの噂もあり、江戸城の近くで騒動があっては面白くないと幕府は吉良邸をこの地に移させました。
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敷地の広さ約二千五百坪もある広大なものでした。
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今は猫の額ほどの公園です。
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吉良上野介義央像。
愛知県西尾市にある吉良家の菩提寺、華蔵寺にある上野介50歳の時の寄木造の座像そっくりに作ってあるそうです。 -
上野介の首を洗った井戸。
映画などでは討ち入りの時、雪が深々と降るなかの立ち回りになっているようですが、史実は前日までの雪が止んで凍り付き、冴えわたった月夜だったそうです。 -
敷地内にある松坂稲荷大明神。
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殺された吉良方の家臣は20名。
小林平八郎、清水一学の名があります。
吉良方の死傷者38名に対し赤穂浪士の方は軽傷2名だったそうです。完全武装に対し寝込みを襲われた丸腰ではどうしようもなかったでしょう。 -
門外に飯澄稲荷。
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もう一つ吉良邸の説明版を見つけました。
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吉良邸裏門があった所です。
大石主税以下24名がここから討ち入りました。 -
鏡師中島伊勢住居跡の看板。
よくわかりませんが、葛飾北斎に関係する人物のようです。 -
またまた建物の角に看板。
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江東義塾跡です。
夏目漱石が19歳、第一高等学校時代(この年大学予備門が改称)に1年間ほど中村是公と共にこの塾の寄宿舎に住みながら塾の英語の講師をしていました。そしてここから一ツ橋まで通っていました。月給5円。
漱石によると英語で地理と幾何学を教えていたというから、英語の教師か理科の教師かどっちなんですかね。
”湿気の多い土地で、1年間ほどいたらトラホームに罹った”なんて言っています。 -
塩原橋で堅川を渡ります。
漱石は元は建築士を志望していたが、友人(米山保三郎)から「少しくらい建物を造っても後世に残らない。やるなら文学だ」と言われ趣旨替えをしています。したがって漱石は理科系にも造詣が深く、寺田寅彦も著作物の中でそのことについて述べています。 -
上は首都高速7号小松川線。
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塩原橋。
この近くに塩原太助が住んでいました。江戸時代中期の薪炭を扱う豪商。
群馬水上の生まれで、江戸に出て炭屋奉公から始まり、勤勉で金を貯え、ついには大商人となった。富んでも質実で道路改修、治水事業に金をつぎ込んだという。
”本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原”とまで言いはやされた。
津軽屋敷とはその1で見たすみだ北斎美術館のあるところです。
三遊亭円朝の「塩原太助一代記」は有名。 -
塩原橋を渡り右に曲がると江島(えじま)杉山神社があります。
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拝殿。
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江の島弁財天と杉山和一検校を祀っています。
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元禄時代、5代将軍綱吉の難病を鍼で治した杉山検校が、綱吉から何でも望みのものを取らすぞと言われ、「では目を一つ頂きとう存じます」といった。綱吉これには困り、「目は出来ないが、本所一つ目の土地を取らすぞ」といった。落語の話で真実のほどはわかりません。
検校が賜った土地に江の島の弁財天を勧請して建てた神社。本所一ツ目弁天として人々の崇敬を集めた。 -
明治41年頃の一つ目弁天。
山本松谷:新選東京名所図会より。
前の写真にある太鼓橋も描かれている。 -
杉山検校頌徳碑。
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手水舎。
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銭洗い弁天の銭洗い。
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美玉洗。
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銭洗いの一種でしょう。
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岩屋というのがあります。
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いわやみち。
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今だ鍼の奥義を極めない頃、弁財天を信仰する杉山は江の島の岩屋で断食修業をした。それを模したのがこの岩屋です。
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中に祀られている像。
杉山和一検校像。 -
宗像三女神像。
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人頭蛇尾の宇賀神像。
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堅川(たてかわ)に架かる一之橋を渡ります。
地図で見ると堅川は東西に、横に流れています。一方南北、縦に流れているのに大横川とか横十間川です。なぜかというと、江戸城から見ると堅川は縦に、大横川は横に流れているからです。隅田川に対して堅川は縦に、大横川は並行しているからとも言われます。 -
一之橋。
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吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちが引き上げる際最初に渡った橋です。
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堅川が隅田川に注ぐ堅川水門。
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回向院に来ました。
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明暦3年(1657年)の大火、振袖火事のさい焼死した身元不明の10万人を超す犠牲者を供養するため建立された寺です。その後の安政2年の大震災による火災の犠牲者とか、江戸で起こった災害の無縁仏がここに葬られています。
宗派を超えた人だけでなく、命ある生き物すべてを供養するという理念から、犬、猫、馬、小鳥、オットセイなどの供養塔もある。 -
力塚。
相撲の物故力士や年寄りの霊を祭る。昭和11年。
天保4年(1833年)から明治42年、旧両国国技館が出来るまでの76年間ここで勧進相撲が行われた。回向院相撲と呼ばれる。 -
化政期の戯作者岩瀬京伝(山東京伝)の墓や、
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同じく江戸中期の国学者、歌人、書家である加藤千蔭の墓もありますが見つからなかった。
ひらがな千蔭流の創始者で、中島歌子、樋口一葉の流麗な字は千蔭流のものです。 -
社務所。
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何の供養塔だったか。
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鼠小僧次郎吉の墓です。
江戸後期、もっぱら武家、大名屋敷を狙って盗みに入り、貧しい庶民に分け与えたという。それで義賊と呼ばれ人気が出た。それはあくまで講談などの伝説の域を出ないようで実際は酒、賭博、女に使い果たしたようです。当時10両以上盗めば死罪と言われ、次郎吉は1832年小塚原で処刑された。
ある旗本の見聞録には、鼠小僧は10年ほどの間に99か所の武家屋敷に122回も忍び込み、3000両あまりも盗んだと書かれています。 -
長年捕まらなかった次郎吉に幸運をあやかろうと墓石を削る輩が多く、寺では墓石の前に前立を据えて、これを削ってくださいとお願いしている。手前の白い石。
私が見ているあいだにも削っている人がいました。
幸運ならよいが、盗癖にあやかってしまったらと心配です。
墓は次郎吉物の狂言、芝居などで儲けさせてもらった歌舞伎役者が明治の始めころ建てたそうです。芥川龍之介に「鼠小僧次郎吉」という短編があります。 -
猫塚。
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猫の恩返しの話です。どうかお読みください。
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塩地蔵。
地蔵菩薩ですが、願いが叶うと塩を供えたところからこう呼ばれます。 -
その由来。
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犬猫供養塔。
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相撲の呼び出しですね。
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豊竹湊太夫。
義太夫語り(浄瑠璃語り)の墓もあります。 -
竹本義太夫。
義太夫節の始祖。近松門左衛門と組んで人形浄瑠璃を大成した。
しかし大阪で活躍し大阪でなくなった竹本義太夫の墓がここにあるのはおかしい。調べてみると、これは墓ではなく、江戸にいる竹本流の門人たちが芸祖を祀って建てた碑のようです。 -
水子塚。
寛政4年(1793年)、老中松平定信の命により建てられた。水子供養の発祥とされる。 -
木遣り塚。
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先を急ぎます。
両国橋の近くの駐車場のフェンスにいくつか説明版がかかっています。 -
旧両国橋と広小路跡です。
もとの両国橋は今より50mほど下手のこの辺りに架かっていました。 -
吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士たちが回向院での休息を断られ、最初に休息した場所がここ広小路でした。
それから浪士たちは先ほどの一之橋、永代橋を渡り泉岳寺へ向かったのです。 -
この辺りが広小路があった所です。明暦の大火、振袖火事で、隅田川に橋がなかったため多くの人が逃げ場を失い焼死したことから架けられた橋です。そこで橋への延焼を防ぐため橋の両側に広い火除け地を設けたのが両国広小路です。
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橋の西側を両国、ここ東側を向両国とか東両国と呼びました。いずれも格好の広場で、常設の建物は認められなかったが、仮設の見世物小屋、食べ物屋が軒をならべたいそう賑わったそうです。
今両国の地名は西側にはなく(東日本橋)、東側にのみ残っています。 -
そのほか色々あった跡です。
駒留橋跡、片葉の葦(本所七不思議の一つ)、藤代町跡。 -
両国橋の袂に来ました。
赤穂浪士の一人、大高源吾が討ち入りを果たし、吉良邸の前にある酒屋に飛び込んで主人に樽を抜かせながら詠んだ句とされています。
ひのおんや たちまちくたく あつこおり -
両国橋。
全長164m、京葉道路が通っています。 -
この辺りにも百本杭がありました。
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今の橋は1932年(昭和7年)完成。
武州と総洲に跨るから両国橋、江戸時代の書物には二洲橋とも書かれています。
丸い形の親柱が面白い。 -
江戸時代末期の両国橋。
歌川広重「両国橋大川ばた」。名所江戸百景より。
橋の西側からの構図で、画面下の茶屋が並んで人が居るところが両国広小路です。 -
明治31年の両国川開き。
山本松谷:新選東京歳時記より。
当時は木の橋だった。前年の明治30年の川開きの時、押すな引くなの花火客で橋の欄干の一部が崩れ、数十人が川に落ち死者も出た。橋の上もそうだが、橋の下の川面も漕ぎ出した船で一杯です。金持ちの商人などが芸者を侍らせ飲みながらの花火見物です。 -
対岸、神田川の河口に架かる柳橋が見えます。
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柳橋。
10月にあちら側を歩きました。 -
上流方面。
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このあたり猪や鹿の肉、軍鶏(しゃも)を食べさせる店が多かったそうです。
いまジビエ料理が人気になりつつあるようですが、天武天皇の時代に獣食が禁じられて以来、江戸時代も四つ足の動物を食べることは汚らわしい、罪悪とされていた。猪を”山くじら”と称してこっそり食べていて、公けには薬としてしか口にできなかった。それが徳川慶喜が豚を煮て食ったことから、庶民も次第に馬、牛の肉を食べるようになりました。東京に牛鍋屋が出来たのは明治元年で、皇室は明治4年に肉食を始めたようです。
ももんじいとは猪や鹿、うさぎなど、獣の肉の事です。 -
こんな民家も。
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両国駅に戻ってきました。南口を出たところに正直正太夫の名で活躍した明治の文筆家斎藤緑雨住居跡の説明版がありました。
斎藤緑雨:小説家、評論家。慶應3年~明治37(1904)年。三重県鈴鹿出。
戯作者仮名垣魯文に師事。小説「油地獄」、「かくれんぼ」などを表す。緑雨の真骨頂は評論にあり、万朝報、読売新聞、二六新報などの誌上で辛辣な風刺をもって時の社会・世相、政治家、同業の文士たちを痛烈に批判し恐れられた。 -
森鴎外、幸田露伴と文芸誌「めさまし草」の「三人冗語」欄で文芸時評を展開、樋口一葉の真価を見出した。一葉とは親交を深め、一葉死後「一葉日記」など遺作の保存に努め、博文館の「一葉全集」の発刊に寄与した。
世間を斜に見て極貧のうち、結核によりこの地で37歳の生涯を閉じる。
警句に”按ずるに筆は一本也、箸は二本也、衆寡敵せずと知るべし” -
駅構内に両国ステーションギャラリーというのがあります。
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駅の歴史展。
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突き当りは閉鎖されていますが、幻の3番線ホームの入り口です。
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パネル写真が展示されていました。
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同。
亀戸に向かいます。
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