2019/03/06 - 2019/03/10
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「敗戦後さまざまな戦争回顧録が出されたが,ロームシャを虐待した体験を記録したものはほとんど存在しない。そんななかにあって『パレンバンの石油部隊』に,貴重な証言が次のように記されている。これは標題の『知られざる中スマトラ燃料工廠始末記』からわかるように,投稿者の井上謹治はパレンバンの石油基地ではなく,スマトラ横断鉄道建設地に近いリアウ州の『中スマトラ燃料工廠』に所属しており,油田開発やパイプラインの敷設などに従事していた。同じく油田関連の任務に当たっていたので,『パレンバンの石油部隊』に投稿したものと考えられる。
『このような所であるから先づ道路造りから始めた。ツルハシとシャベルと大量のジャワ苦力を投入して人海戦術で工事を行った。過激な労働と糧秣不足で痩せ衰えバタバタ倒れた。泰緬鉄道に比すべき事件が起り,戦後一人部隊長のみが責任を負ったが,よく世上の問題にならなかったと思ふ。』
『よく世上の問題にならなかったと思ふ』というのは,泰緬鉄道建設での捕虜やロームシャへの虐待のようには東京裁判やBC級戦犯裁判の対象にならなかったことを指していると考えられる。つまり『中スマトラ燃料工廠』でのロームシャや捕虜への虐待は『泰緬鉄道に比すべき事件』であったと述べているわけで,(中略)『戦後一人部隊長のみが責任を負った』は,『石油人たちの太平洋戦争』によれば,『(1945年・筆者注)9月6日にいたって,工廠本部労務担当の小川義雄が南宝橋(第一,第二製油所を結ぶ橋)で自決した。(中略)小川は,戦争の名のもとに多くの労務者を徴発し,しかも死にいたらしめたことの責任を痛感していた』ことを指している。」
「ロームシャは『義勇軍』という本来とは異なった呼称で徴発され,シンガポール経由で送られて来ている。以下,『中スマ会想い出の文集』からの引用である。
『初めドウマイ進駐当初は日本人のみで伐採に取り組んだ。次に近隣の部落から募集して工事を進めて,昭南本部からの送られてくる労務者を待った。次々とシンガポールからジャワ人が送られて来た。ジャワ人は義勇軍の名で徴収されたとのことで,一千名から千四五百名位になった。(略)労働に耐えかねて逃げ出す労務者も居たがジャングル中では出口がわからなくなり迷い歩いた後遂に死亡,白骨化した者も居た(それ程ジャングルの中で迷うと,方向がわからず,出ることが出来ない)』
「主計大尉本庄弘直は戦友会誌『富の歩み』において,ロームシャが全裸で使役されていたことを述べており(152頁),それを見たのは1945年3月頃に労務関係の調査に出張した際のことである。その様子は本庄が諸星達雄に宛てた書簡にも書かれており,以下概略を記す。
スマトラ横断鉄道建設現場全工区の視察を上司の命を受け三泊四日で行ったのであるが,指示された(『密命』とある)ことの一つに『鉄道建設大手業者がロームシャ用の食用米を横流ししているという情報の真偽を確かめること』があった。また一万人分一人二着,計二万着のパンツ用原反を要望されたので,一か月前に送付したが受領支給の報告が来ていないことの調査も依頼された。(中略)視察を続け三日目,比較的開けた次の工区に行った際に目を疑う光景に出会った。最初は十分状況を把握できなかったが,少なからぬ全裸のロームシャがまるで夢遊病者のように作業していたのである。
このようにふらついて腹部が膨らんでいるのは食糧不足のためであり,全裸は先に送付した原反が使われていないことを示していた。宿舎にはマラリア患者が病臥していたが,手当てを受けている様子もない。鉄道建設隊中隊長の主張は,ブキティンギの涼しく恵まれた環境(司令部や軍政監部)で考える理想論では現場の任務は完遂できない,現場では猫の手も借りたいほどであり,ロームシャが病気などで体力が低下したとしても休養させるような余裕はないとのことであった。」
「1975年11月13日,元鉄道第九連隊第四大隊の宮崎若雄はインドネシアに向け遺骨収集に旅立った。」
「鉄道連隊がスマトラ島を離れる際,当地で戦死した者の遺骨を持ち帰ることは禁じられた。そこでムアロの山のなかに納骨堂を建て,地下をコンクリートで固めて遺骨をカロート(納骨棺)に納めてきたが,その作業は宮崎が中心になって行い,場所を特定できる適任者ということで戦友会を代表し遺骨収集団に参加したのである。」
「遺骨を納めた白木の箱は既に朽ちており,錆びた釘をたよりに遺骨を個人別に白い袋に収骨した。これらの遺骨は,『バッサンカル事件(リントウ事件)』でインドネシア独立軍によって殺傷された将兵であった。
このようにアジア・太平洋戦争中に戦死し,いまだ各地に眠ったまま家族のもとに帰ることもできない亡きがらは115万体にのぼる(2009年現在)。ムアロで10柱を収骨し,重要な役目を無事に果たした宮崎の労をねぎらいたい(収骨団全体では614柱)が,戦友会誌に寄稿された宮崎の文章はスマトラ横断鉄道建設で斃れ,野ざらしになっているロームシャのことには触れていない。
宮崎の遺骨収集から8年後,1984年6月3日から10日にかけて,元鉄道第九連隊第四大隊のメンバー7人(『九四会』としての旅。宮崎は参加せず)は39年ぶりにスマトラの地を踏んだ。『おとずれ』に掲載の7人の回想旅行記にはスマトラ横断鉄道のルートをパカンバルからムアロまで,そしてその先パダンまで足を延ばした様子が記されている。道すがら鉄道建設中に亡くなった連隊仲間には靖国神社の供物を手向け,朽ちてうち捨てられた機関車を見ては涙し,鉄路に日本酒をかけ,お経をあげて供養する様子が綴られている。
しかし,宮崎同様彼らは全裸で使役され異土に斃れたロームシャや,乏しい食料でやせ細り疫病で死んでいった捕虜たちに関心を示していない。犠牲になった人間よりも朽ちた機関車に涙しているのである。『九四会』の規約に会の目的としてロームシャや捕虜の慰霊はないかもしれないが,彼らの慰霊の対象が日本軍戦死者だけにとどまっていて良いはずはない。
侵略されたアジア諸国からの謝罪要求や,それに応じることに対しては,『いつまで謝ればいいのか』といった抗議が起こる。しかしスマトラ島を去ってから39年,使役した人々の眠っている地を初めて訪れても謝罪の言葉はない。『いつまで謝ればいいのか』ではなく,そもそも謝っていないのである。そして,その背景には,占領地で何が起きていたかの解明さえ十分進んでいない状況がある。」
江澤誠著「『大東亜共栄圏』と幻のスマトラ鉄道 玉音放送の日に完成した第二の泰緬鉄道」(彩流社)より
ブキティンギからマラッカへ 海峡と国境を横断する旅~その1:ブキティンギからプカンバルへ
https://4travel.jp/travelogue/11558641
ブキティンギからマラッカへ 海峡と国境を横断する旅~その3:ドゥマイからマラッカ港
https://4travel.jp/travelogue/11561429
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 2.5
- 交通
- 2.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
プカンバルの街はとても広かった。
しかし,市内にはトランスメトロプカンバル(TMP)という公共バス網が整備されているので,街歩きにはそんなに苦労せずに済みそうだ。 -
今回,プカンバルの街を歩く時間はほとんどなかったので,街歩きの情報について書くのは別の機会に譲らざるを得ない。
ただ,巷で言われている「プカンバルはインドネシアでもっとも清潔な都市」という話が何かの間違いであることは一目で分かった。
他のインドネシアの街と変わりはないと思う。 -
さて,プカンバルの先は,ドゥマイへの移動だ。
ホテルに着いたとき,レセプションに立っていた二人の娘にドゥマイへの行き方を尋ねると,口を揃えて「タクシーで行け」という。まったく役に立たない。 -
翌朝,再びレセプションに下りてみると,別の若い男が立っていた。
しめた,と思って男にドゥマイへの行き方を尋ねる。男は,最初笑みを浮かべていたが,その後,表情が固まってしまった。しばらく手元のマウスをカチカチやっていたが,やがて「‥‥知りません」と言う。
そこへ外からGrabFoodの配達員の兄さんが入ってきて,レセプションに出前の包みを届ける。レセプションの若い男は,これ幸いと配達員にドゥマイへの行き方を訊いたようだ。配達員の兄さんは,直接私に英語で言った。「ドゥマイ行きのバスなら,AKAPというバスターミナルですよ」。 -
調べてみると,AKAPというバスターミナルはプカンバル中心部から南西に10kmほど離れた場所にあるようだ。
ぐずぐずしていたら,今日のうちにドゥマイまで辿り着くことができないかもしれない。レセプションでブルーバードタクシーを呼んでもらってチェックアウト。
タクシーの運転手が来たので「ドゥマイへバスで行きたい。そのバスターミナルまで行ってくれ」と言うと,運転手はどこかに電話をかけ始める。しばらく誰かと話をして,私に「AKAPバスターミナルへ行く」と言った。これで間違いなかろう。
幸い渋滞には引っかからず,15分くらいで着いた。運賃65kIDR。
(1kIDR=約8円) -
AKAPバスターミナルは,大きいが閑散としていた。
-
どうやらこのターミナルは,市内バス(TMP)の2番・4番B・6番の路線の終点になっているようだ。
バスなら運賃一人4kIDRで済んだのだが,今日のところは仕方がない。
なお,市内バスの路線図上では,ここAKAPバスターミナルは「Terminal BRPS」という表記になるようなので注意。 -
建物内に切符売場の窓口はそこそこあるのだが,
-
どこも閑散としている。
この看板↑の行き先の左側は,スマトラ島ブンクル州内の細かい地名が書かれているのだが,右側は「ジャカルタ」「西ジャワ」「中部ジャワ」「東ジャワ」と大ざっぱすぎる記載になっていて,どこへ行くのかよく分からない。 -
この窓口なら,バックパッカーの利用も多そうだ。
遠距離の行き先ばかり書いてあるので,このバスターミナルは夜行バスの発着が多いのかもしれない。それなら今,閑散としているのも不思議ではない。 -
ドゥマイ行きはこのマイクロバスだった。運賃は一人70kIDR。(1kIDR=約8円)
乗客は誰もいない。もしかしたら,朝イチのドゥマイ行きのバスに乗り損ねてしまったのかもしれない。 -
10時になって,やっとバスは発車した。他に乗客はいないままだ。
ところがAKAPバスターミナルを出ると,すぐ近くの交差点で停車して30分ほど客待ち。 -
30分待っても乗客は来ない。
次は別のラウンドアバウトに移動して,ここでも30分待ち。
本当にまったく乗客が集まらない。どれだけ不人気の路線なのだか。 -
続いて,街の北にある土産物店の前で客待ち。
ここで初めて3名ほどの乗客が現れる。この時点で,もう正午近くになっていた。宿は朝に出たのに。 -
やっとプカンバルの街を出て,北へ走り始めた。
プカンバルを出ると,ミナス(Minas),ドゥリ(Duri)を経てドゥマイに至る。
ミナス~ドゥリは大油田地帯である。道路沿いにパイプラインが走る。 -
この油田は,第二次大戦前から試掘はされていたが,日本の占領時代に探査・開発が進んだ。
ところが日本は敗戦。油田は宗主国のロイヤルダッチシェルのものになりそうなところだが,戦前に試掘していたのはテキサス系のシェブロン(旧カルテックス)だったようで,同社による採掘が本格化する。 -
これはシェブロン社が建てた記念碑と思われる。累計原油生産高20億バレル。
-
シェブロン・オイルキャンプの入口。
中には,浄水場,発電所,学校,プール,ゴルフ場などが備わっているらしい。アメリカ人居住区のようなものだろう。 -
古い油田だけあって,道路沿いに見える油井で稼働しているのはかなり旧式の掘削装置である。
旅行者が眺めるぶんには,のんびりしていて面白い。 -
大油田地帯の村にあったガススタンド(というかガソリン屋台)。
産地なのでガソリンが安い‥‥なんてことはないんだろう。
屋台の上に積んであるのはプロパンガス? -
ドゥリ市街に入ったところで,他のドゥマイ行きミニバスへ「身売り」されてしまった。
乗客が少なすぎるので,これ以上ガソリンを費やすと採算が取れないのだろう。
のびのびした車内から一転して,すし詰めの座席へ。 -
ドゥリから2時間ほど走って,ドゥマイの路上で下ろされる。
現在位置がどこなのか判らない。スマホを持たないとこういうときは不便。
後で調べたら,市内南方の「Dumai Forest City」の近辺であった。
(Googleマップ座標:1.657121,101.449371)
ドゥマイ港から南へ5~6kmくらい離れた場所だ。
オジェッ(バイタク)の運転手は付近に数人いたが,私の荷物は大きくて重いので,オジェッでは不安定で怖い。
とりあえずバジャイ(トゥクトゥク)を捕まえようとするが,これが全然捕まらない。
実車というわけではなく,バジャイもベチャも通りかからないのだ。 -
バジャイを求めて待つうちに,別のミニバスが到着したりする。プカンバルからの便だ。
下りた乗客は,次々にオジェッに乗って消えていく。 -
こういうときに限って,体調上の問題が出てきてしまった。
やっと現れたバジャイ(ドゥマイではトライシクルタイプのものが走っている↑)を捕まえ,言い値の馬鹿高い運賃で宿へ向かうことになる(60kIDR)。非常に悔しい。
(1kIDR=約8円) -
ドゥマイでは,いつもより高めのホテルに泊まることなってしまった。
ドゥマイでは宿の選択肢がごく少ない上,「いざとなれば港まで歩いて行ける」という立地で探した結果である。 -
ところが幸いなことに,マラッカ行きの船会社のオフィスがこのホテルのすぐ隣にあった。
「INDOMAL EXPRESS Fast Ferry」(Google座標:1.680314,101.448218) -
翌朝は出航(09:00)にあわせて,船会社のオフィスの前から桟橋までバスが出るらしい(08:00発車)。
切符の発売は朝7時からなので,明朝その時刻に来るように言われる。 -
この船会社の国際航路についてまとめておく。
なお,時刻はすべてインドネシア西部時間(日本時間-2時間)である。マレーシア時間(日本時間-1時間)とは時差があるので注意。
〈ドゥマイ=マラッカ航路〉
毎日運航 ドゥマイ発09:00(金曜日は10:30)
マラッカ発09:00(金曜日は08:30)
片道運賃 320kIDR +港湾施設使用料50kIDR/人(往復運賃は600kIDR)
〈ドゥマイ=ポート・ディクソン航路〉
月/火/木/金/土 運航 ドゥマイ発11:00
ポート・ディクソン発09:00
片道運賃 330kIDR +港湾施設使用料50kIDR/人(往復運賃は620kIDR) -
また,ドゥマイからバタム島,ビンタン島方面への国内航路も出ていた。これを使えば,リアウ諸島を回ってシンガポールへ抜けることができそうだ。経由地は次のとおり。
ドゥマイDumai
→ブンカリスBenkalis島
→スラット・パンジャンSlat Panjang(トゥビンティンギTebingtinggi島)
→タンジュン・サマクTanjun Samak(ランサンRangsang島)
→タンジュン・バライ(・カリムン)Tanjung Balai Kalimun(カリムン島)
→バタムBatam(バタム島)
→タンジュン・ピナンTanjung Pinang(ビンタンBintan島)
ドゥマイからバタム行きが06:45発,ドゥマイからバタム経由タンジュン・ピナン行きが07:00発。バタム到着は15時前後,タンジュン・ピナン到着は17時前後というところだろう。 -
リゾート島への船便は,他社からも出ているようだった。
(つづく)
ブキティンギからマラッカへ 海峡と国境を横断する旅~その1:ブキティンギからプカンバルへ
https://4travel.jp/travelogue/11558641
ブキティンギからマラッカへ 海峡と国境を横断する旅~その3:ドゥマイからマラッカ港
https://4travel.jp/travelogue/11561429
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