2017/11/25 - 2017/11/25
71位(同エリア75件中)
ちふゆさん
2017年11月25日(土)の午後、ブエノスアイレス(Buenos Aires)からウルグアイのモンテビデオ(Montevideo)へ向かう。ブエノスアイレスのアエロパルケ(Aeroparque)空港ことホルヘニューベリー空港(Aeroparque Metropolitano Jorge Newbery)発13時40分。今回のフライトはウルグアイアマゾネス航空(Amaszonas Uruguay)の753便。元々は朝8時50分発の751便がキャンセルされて変更になった便。この便はいずれも日曜は飛んでない便なので、日程検討時に考慮が必要だった。
この航空会社はボリビアのアマゾネス航空(Linea Aerea Amaszonas)の100%子会社で、2015年に10年設立のBQB航空(BQB Lineas Aereas)を買収して設立された。BQB航空はウルグアイの国営航空でもあったプルーナ航空(PLUNA Lineas Aereas Uruguayas SA)が12年に破綻した後、ウルグアイの非公式フラッグキャリア(Flag Carrier)であった。現在、ウルグアイアマゾネス航空はモンテビデオをハブとしてブエノスアイレスの他、アルゼンチンのコルドバ(Cordoba)、パラグアイのアスンシオン(Asuncion)、ボリビアのサンタクルス(Santa Cruz de la Sierra)、国内のプンタデルエステ(Punta del Este)との間に定期便を就航している。
使用機材はカナダのボンバルディアエアロスペース(Bombardier Aerospace)社の小型のリージョナルジェット(Regional Jet)、CRJ200ER(表紙の写真)。標準座席数は50席。日本でもJAL系のジェイエア(J-AIR)などで使われていたが、現在は定期便には使われていない。
ウルグアイ、私の今回の旅では5ヶ国目の国。正式にはウルグアイ東方共和国(Republica Oriental del Uruguay)。ウルグアイは国の西部、アルゼンチンとの国境を流れるウルグアイ川(Rio Uruguay)に、「東方」は同川東岸地域をかつて東方州(Banda Oriental)と呼んだことに由来し、ウルグアイ川の東側を意味する。ウルグアイの原義は先住民のグアラニー語(Guarani)で「ウルという鳥の(uru)飛ぶ(住む)(gua)川(y)」とか「曲がった川」とか「巻貝が多い川」とか諸説ある。
コーノスール(Cono Sur)と呼ばれる南回帰線以南の南米大陸の南端部一帯の南東部に位置する立憲共和制国家で、首都はモンテビデオ。北と東をブラジルと、西はアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナム(Suriname)に続いて南米大陸で2番目に面積が小さな国で、ほとんどが草原の国。森林は国土の5%しかなく、高い山もない。最高峰はカテドラル山(Cerro Catedral)の513.66m。
チリに続いてラテンアメリカで2番目に生活水準が安定しているとされるが、近年、治安は少し悪化して来ている。人口は345万人。ヨーロッパ系白人が90%近くを占める。規定はないが、ラプラタ川(Rio de la Plata)流域で話されているスペイン語のリオプラテンセ方言(Castellano Rioplatense)が事実上の公用語。約60%がカトリック(Catholica)教徒で、約30%が無宗教。プロテスタント(Protestant)は少ない。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ移民に無政府主義者が多かったことから無信教の国民が多く、またカトリック教会の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。
この辺りは、ヨーロッパ人の到達直前には、約5000人程の先住民がいたと推測されており、グアラニー人やチャルーア人(Charrua)などの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。
グアラニー人は元来が農耕民族で比較的穏やかにヨーロッパ人との同盟が進んだ。16世紀後半からイエズス会(Societas Iesu)に教化されていったが、18世紀に入り、スペインとポルトガルのこの地域の覇権争いの中でイエズス会と共にこの地を追われ、パラグアイに撤退し、ウルグアイでは今は地名にその影響を残すだけとなった。
一方チャルーア人は元来が狩猟民族で闘争心が高かった。1536年に造られたブエノスアイレスを攻撃しいったん滅ぼしたのもチャルーア人だった。彼らは果敢にスペイン人征服者と戦ったが、18世紀終わりにはウルグアイ北部に追い詰められていった。19世紀に入りウルグアイの独立戦争に加わり、独立を勝ち取ったが、彼らの闘争性を脅威と見た初代大統領フルクトゥオソ・リベラ(Fructuoso Rivera)の裏切りに逢い、虐殺され、絶滅した。ただ、彼らの誇り高い闘争心は今もウルグアイ人にとって誇りで、ウルグアイ人の魂のようなものを表現する時にチャルーアの爪(Garra Charrua)という彼らの不屈の闘争心を表す言葉が使われている。
1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリス(Juan Diaz de Solis)がここを探検し、1520年には初の世界一周で有名なフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)がラプラタ川を遡上した。鉱山資源がないため、さほど植民は進まなかったが、やがて酪農資源の豊かさからスペインとポルトガルが取り合い、最終的には東方州(Banda Oriental)の南側(現在のウルグアイに相当)はスペインの植民地となる。1776年にリオ・デ・ラプラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata)が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第2の港として発展したが、ウルグアイはスペイン植民地の中でもコスタリカと並んで特に辺境の地であった。
1806年にはイギリス軍に占領されるが、翌年ブエノスアイレスでポポルテーニョ(Porteno)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。1811年からはスペインに対する独立戦争がウルグアイでも始まったが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領され、ブラジルに併合される。1825年、ブラジルからの独立が宣言され、ラプラタ連合州(Provincias Unidas del Rio de la Plata)への再編入を求めた戦い、シスプラティーナ戦争(Guerra da Cisplatina)が始まる。シスプラティーナはブラジル帝国時代のウルグアイに相当する地域の州名で、ポルトガル語でラプラタ川手前の州を意味する。
戦争はラプラタ連合州改めアルゼンチン優位で進んだが、アルゼンチンの国内情勢が大きく乱れ、とても戦争が継続できる状態ではなくなり、1828年4月イギリスの仲介でモンテビデオ条約(Tratado de Montevideo)が結ばれた。この条約ではラプラタ川の両岸を領有することでアルゼンチンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの意向が強く反映され、その結果1828年8月27日、ウルグアイとして独立することになった。アルゼンチン(戦争開始時にはラプラタ連合州)に加わろうとして出された独立宣言だったが、思わぬ展開で独立国となったと云うこと。ただし、ウルグアイ川と大西洋、ラプラタ川に囲まれた東方州(Banda Oriental)の北半分(実際には60%以上)はブラジル領のままとなり、現在もブラジルのリオグランデ・ド・スル州(Estado do Rio Grande do Sul)となっている。
しかし、独立後も政情は全く安定せず、親アルゼンチン派、親ブラジル派の争いが続く。1839年にはアルゼンチンを巻き込んだ大戦争(Guerra Grande)が勃発、51年まで続く。さらに64年からはパラグアイとブラジル、アルゼンチンとウルグアイの三国同盟軍との間の三国同盟戦争(La Guerra de la Triple Alianza)が始まり70年まで続く。いずれもウルグアイの内戦から発している。これらの戦争後、アルゼンチン、ブラジル両国の内政干渉が和らぎ、多くの移民が渡来し、畜産業の発展と鉄道網の拡大により経済は繁栄したが、政治的には安定せず内戦が続いた。
20世紀に入ると、新たに就任したホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス(Jose Batlle y Ordonez)大統領によって、スイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となり、「南米のスイス(La Suiza de America)」と呼ばれ、南米で最も安定した民主主義国となった。
しかし、第二次世界大戦後は主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞し、政情も不安定になり、73年にはクーデターにより軍部は政治の実権を握った。この後警察国家体制による弾圧が続いたが、85年に民政移管され、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。
国家元首は現在は大統領で、任期は5年、再任は禁止。前大統領のホセ・ムヒカ(Jose Alberto Mujica Cordano)氏は「世界で最も貧しい大統領」として有名だった。現在(19年9月)の大統領はタバレ・バスケス(Tabare Ramon Vazquez Rosas)。議会は二院制で、こちらの任期も5年。政治腐敗はなく、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。現在の軍隊は志願制で、陸海空の3軍を併せて約2万5千人。現在は政治的影響力は少ない。
南米諸国の関税同盟であるメルコスール(Mercosur)、「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」を目指す政府間機構である南米諸国連合(UNASUR)の加盟国。2018年の経済成長率(GDP)は1.6%。農牧業が最も重要な産業で、輸出品目はセルロース,肉類,乳製品,大豆が主。
通貨はウルグアイペソ($)で、現在(19年9月)の為替レートは、1US$が36ペソ程度(1ペソが約3円)。ただし、私の訪問時は1US$は23ペソほどで、1ペソ約4円だった。 国旗の白と青の9本のストライプは独立時の9つの地方を表わし、青は自由、白は平和を意味する。太陽は先住民の独立のシンボル。
ウルグアイで何が有名かと云えば、やはりサッカー。先住民の名からロス・チャルーアス(Los Charruas)とも呼ばれる代表チームは、近年こそ優勝はないが、ワールドカップ(FIFA World Cup)の初代チャンピオンであり、2度の優勝を飾っている。昨年(18年)のロシアWC(2018 FIFA World Cup)では準々決勝で優勝したフランスに敗れ、ベスト8に留まった。今年(19年)のコパアメリカ(Copa America)も準々決勝でペルーを押し込みながらPK負けしたが、過去15回優勝している。
現在の中心選手はFCバルセロナ(Futbol Club Barcelona)のルイス・スアレス(Luis Alberto Suarez Diaz)やパリ・サンジェルマンFC(Paris Saint-Germain Football Club, PSG)のエディンソン・カバーニ(Edinson Roberto Cavani Gomez)ら。14年から15年シーズンにセレッソ大阪に在籍したディエゴ・フォルラン(Diego Forlan Corazo)は南アフリカWC(2010 FIFA World Cup)でウルグアイ代表を4位に導き、大会MVPに選出された。
クラブチームでもCAペニャロール(Club Atletico Penarol)とナシオナル(Club Nacional de Football)は現在のFIFAクラブワールドカップ(FIFA Club World Cup)の前身のインターコンチネンタルカップ(Intercontinental Cup)でそれぞれ3回優勝している世界の強豪。
サッカーのほかには自転車競技、ラグビー、バスケットボール、ボクシングなどが盛ん。
日本とは1921年に外交関係樹立。第二次世界大戦で中断したが、1952年に国交回復。経済協力や国際場裡での協力等を中心として友好関係を維持している。米州開発銀行、中国に次ぐ援助国(機関)。在留邦人は永住者含み350人程度と少ない。2015年11月には,バスケス現大統領が来日し首脳会談を実現、日・ウルグアイ共同声明を発表した。昨年18年には、逆に安倍総理が日本の総理としては史上初となるウルグアイ公式訪問を実施した。
日本との時差は12時間遅れで、サマータイムは採用していない。
正直、サッカーで以外は知らなかった国で、今回の旅で行くまで、地理的にはウルグアイとパラグアイは私の中ではゴッチャだった。どうやってこんな位置にこんな小さな国が出来たのか、なぜブラジルにならず、アルゼンチンにもならなかったのか、まずはウルグアイ川と云う自然の境界が存在したこと、そしてブラジルとアルゼンチンの緩衝地帯が必要だったこと、歴史は面白い。
モンテビデオに続く。
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