2019/09/18 - 2019/09/18
93位(同エリア198件中)
愛吉さん
2012年7月に早稲田文学散歩として同じ道を歩きました、7年前の事です。
報道によると、その間に漱石山房跡地は整備され、漱石山房記念館が新しく開設されたそうです。
是非一度訪ねたいと念願して居りましたが、暑さが収まった一日、かみさんを誘って出掛けます。
東京の天気予報は曇り午後から雨でしたが、歩き始めると直ぐに降り始め、その後は終日降り続きます。
傘を指しての街歩きでしたが、7年前とは大幅に変わり、記念館では背広姿の漱石が出迎え記念写真にも応じて呉れます。
その後は早稲田大学の演劇博物館に立寄りますが、耐震工事中で見学出来ません、でも有意義な一日でした。
それでは歩いた順にアップします。
漱石山房とは
漱石が晩年の9年間を過ごした処、この地で「三四郎」「こころ」「道草」等の名作を世に出します。
尚記念館の中には当時の書斎が復元されています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
都営地下鉄牛込神楽坂駅に到着しました。
時間は午前10時30分。 -
大久保通りを渡り、袖摺坂を登ります。
石垣と黒板塀に挟まれた狭い階段で、すれ違うのに袖が摺れるので名付けられました。
文学散歩に相応しい風情を感じるスタート地点です。 -
坂を登ると朝日坂通りに突き当たります、そこを右折し神楽坂方向に30M程進むと左側のブロック塀の前に小さな標識が立っています。
塀の向うは木造二階建てのアパート、知らないと通り過ぎてしまいます。 -
近寄って読んで見ましょう。
大正2年に島村抱月と松井須磨子が創設した芸術倶楽部の跡地です。
写真で見るとなかなか立派ですね。
この地で島村抱月は、大正11年11月スペイン風邪で亡くなり、須磨子はその七七忌の夜、ここで後追い自殺を遂げます。
当時人気NO1の女優でした。 -
途中に圓福寺というお寺があります。
本堂の前に置かれた福朗ちゃん。
可愛らしいマスコット、明るく行きましょう。 -
朝日坂通りを戻り、早稲田方向に進むと、左側に小さな路地があります。
路地を入り20M程進むと、こんな門を持った屋敷が、門の脇には標識が。
尾崎紅葉屋敷跡です。 -
標識を読んでみましょう。
紅葉が明治24年から亡くなる明治36年までの12年間住んだ旧居跡です。
ここで多くの作品を執筆し、亡くなる時には代表作”金色夜叉”を新聞連載中でした。 -
塀越しに庭を覗きます。
建物は戦災で焼失したので、当時の面影が残るかは不明です。 -
通りに戻り早稲田方向に進むと左側に”林氏墓地”の石柱。
解説板もあります。 -
江戸時代、朱子学をもって幕府に仕えた林羅山とその一族の墓地です。
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非公開なので、塀の隙間から一枚写しました。
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宝竜寺坂、別名幽霊坂を下ります。
下りた処は、外苑東通り。 -
東通りを右折して、暫く進むと右側に多聞院。
門柱を過ぎS字の参道を登ります。 -
本堂の左前、本堂に向って一つの詩碑が立っています。
生田春月のものです。
わが空しくも斃れなば
あまたの友よあとつぎて
われにまされる詩を書けよ
ジャンコクトオやヴァレリイの
伊達のすさびをやめにして
書けよ心の血の叫び 春月
純情な魂の苦悩をうたい、浪漫的、虚無的な詩人でしたが、昭和5年38才で瀬戸内海に投身自殺しました。
牛込に住み、この地をこよなく愛したそうです。 -
生垣で仕切られた墓地に入ると、中ほどに松井須磨子の墓が在ります。
先ず解説板を読んで見ましょう。
大正時代前半に一世を風靡した新劇女優松井須磨子とあります。 -
松井須磨子の墓を正面から。
須磨子は師であり恋人であった島村抱月をスペイン風邪で失うと、其の七七忌の夜、想い出の芸術倶楽部で縊死します。
尚その遺書で抱月と合葬して欲しいと哀願しますが、島村家は拒絶。
従いここで一人寂しく眠っています。
カチューシャの歌を小声で歌ってきました。
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墓の側面。
芸名と本名が記されています。
命日は大正8年1月5日 行年34才。
横に卒塔婆が供えられています、今年は亡くなってから丁度100年なのですね。
遠い昔の事、須磨子の名前を知る人も少なくなりました。 -
墓の横に芸術比翼塚が立っています。
これは須磨子の最後の願いが聞き入れられなかった事を哀れに感じた人が、須磨子の七七忌を待たず建立したのです。 -
裏面にそのいわれが記されています。
読んで見ましょう。
抱月須磨子二霊位の幽を慰める為に、川柳之徒が謹んでこれを建てる
大正八年二月
なかなか粋な計らいです。
尚この碑は7年前には、入口坂の上がった処にあったと思います。
今回は須磨子墓の横に移設されて良くなりました。 -
寺を出て、外苑東通りを進むと、左側にこんな道標が出ています。
標識に従い左折します。
猫が道案内をしてくれるのかな・ -
漱石公園に到着。
入口には漱石の胸像が鎮座。 -
公園に入ります、ここは漱石家の庭であった処。
猫の墓、”吾輩は猫である”の主人公をはじめ、夏目家で買われた動物を埋葬した塚。
この石塔は旧夏目家の遺構で現存する唯一のものになります。 -
傍に建つ解説板。
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公園の前に建つ、新宿区立漱石山房記念館。
ガラス張りの立派な記念館です、入館料は500円。 -
館内にある漱石山房俯瞰図。
敷地面積は340坪、建坪60坪の平屋建だったそうです。 -
再現されたベランダ。
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書斎部分の屋根。
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漱石山房書斎の再現について、書斎内の書物の再現について。
2枚の説明板が展示されています。
それでは、書斎に入りましょう。 -
これが漱石山房書斎を再現したものです。
広さは10畳あります。 -
書斎内部の解説板。
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漱石山房の記憶 Ⅰ
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漱石山房の記憶 Ⅱ
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書斎の横に回ると、ベランダに誰か座っています。
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山房の主、漱石先生でした。
隣に立って記念写真も撮れます。 -
夏目坂に出て来ました。
坂の上に大きなマンションが聳え、その前に小さな案内板があります。 -
近寄って見ると、作家有島武郎旧居跡とあります。
有島武郎が最晩年の大正11年から約1年間暮らした家の場所です。
有島は学習院在学中に当時皇太子であった大正天皇の学友に選ばれる程の良家の秀才で、卒業後はアメリカ、ヨーロッパに留学、帰国後は学習院の教壇にも立ちます。
父の死後は遺産である北海道の広大な農園を小作人達に開放する等、人道主義を貫きます。
その有島に転機が訪れます、女性記者波多野秋子と恋愛感情が芽生えたのです。
当時秋子には夫があり、夫から膨大な慰謝料の請求がなされます。
これに対し有島は、自分の恋人を金に換える事は出来ないと拒否、そして二人は、有島の軽井沢の別荘に入ります。
有島がその軽井沢に出発したのがこの家なのです。
そして数日間”幼児のたわむれるごとき日々”を過ごした後心中します。
有島の辞世の歌
”雲に入るみさごのごとき一筋の恋とし知れば心は足りぬ”
有島武郎 42才でした。
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夏目坂を下りきった処に、夏目漱石誕生之地と記された碑が立っています。
文部大臣を務めた安倍能成の書です。
ここで夏目漱石は慶応3年2月9日に生まれたのです。
尚当時夏目家は江戸町奉行支配下の町方名主で、夏目坂の由来もそこから来ています。
傍に父母と漱石幼少時の写真入りの案内板が立っています。 -
傍らには、漱石が硝子戸の中で描写した生家のあり様と歌が記された碑もあります。
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穴八幡宮に立寄ります。
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立派な銅像があります。
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傍に建つ解説板。
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階段を登りお参りします。
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穴八幡宮の前は早稲田大学、大隈講堂の時計台が見えます。
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大隈重信像、朝倉文雄作。
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大隈重信像と大隈講堂の位置関係はこんな感じ。
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構内の演劇博物館に到着。
しかし残念ながら、耐震工事中で閉館中。
この建物はシエクスピア時代の英国フォーチュン劇場を模したもので、昭和3年に弟子達により逍遥古希の祝いに建てられました。 -
正面には”全世界は劇場なり”のラテン文字。
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館前に建つ坪内逍遥の胸像。
逍遥は早稲田大学創世記に文学部を創り、わけても演劇芸術の振興に尽くした人として知られます。
そして明治43年島村抱月と共に文芸協会を起ち上げ、松井須磨子を育てます。
逍遥の右手が光ってますね、受験生がこの手と握手をすると早大に合格するといわれているのです。 -
大隈重信の屋敷跡、大隈公園に立寄ります。
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大きな孔子像がありす。
長くなりましたが早稲田文学散歩は、ここが終点です。
お付合い下さり有難う御座いました。
終
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