
2019/09/15 - 2019/09/15
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風 魔さん
本日は、明治時代の有力政治家で引退後も日本の政治に対して助言と指導を行った「西園寺公望公」の別邸(興津坐漁荘)を訪ねて、旧東海道を興津町まで行く。
今年は坐漁荘が大正8年(1919年)に創建されてから100年・西園寺公の生誕170年、さらに現在の建物に再建されてから15年、という節目の記念の年にも当たります。
別邸は旧国道一号線に面して、当時は前面が駿河湾の「清見潟」という気候温暖な場所にあり、引退後も大正~昭和の多くの政治家が別邸を訪れて、西園寺公と面談し政治に関する指導を仰ぎ「興津詣で」と呼ばれた大物政治家でした。明治時代末期には文相・外相・蔵相などを歴任した後、総理大臣として第一次~第二次西園寺内閣を組閣、近代日本の発展に寄与しました。
☆ 第一次内閣 1906~1908年(明治39年~)
☆ 第二次 〃 1911~1912年(明治44年~)
その後建物は「明治村」へ移築公開され、現存するものは平成16年(2004年)に復元されたものです。
今では、登録有形文化財として「興津坐漁荘」の名称で「指定管理者の静岡市」により、一般に公開展示されています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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JR東海道本線・興津駅を出て、旧東海道(旧国道一号線)を西へ下り歩いて行く。
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東海道の名所と云われる「清見寺」。
前面にある駿河湾の海岸一帯は、「清見潟」と呼ばれています。 -
「興津坐漁荘」の案内板。
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西園寺公望公は、「さいおんじきんもち」と読みます。
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「興津坐漁荘址」の石碑。
「坐漁荘」は2017年(平成29年)には、数寄屋造住宅の貴重な現存例として『登録有形文化財』に指定されました。
その後公共建造物の「指定管理者制度」により、静岡市の運営管理となり誰でも入場無料で見学できます。 -
「興津坐漁荘」へはJR興津駅より、旧東海道沿いに西へ徒歩15分で到ります。
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人けのない入り口を歩いて行く。
「坐漁荘」は、明治の元老・西園寺公望公が70歳になった大正8年(1919)に、老後の静養の家としてこの地に建てた別荘です。 -
庭園へつづく小道。
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「坐漁荘」の看板。
西園寺公は総理大臣を退任した後、本宅のある東京・神田駿河台から離れて、別邸でのんびりと魚釣りでもして、過ごすつもりと云う意味を込めて『坐漁荘』と命名しました。 -
数寄屋造りの和風建物。
建物二階の寝室へ通じる廊下には、鴬張りが施されています。
原型の建物は、1970年(昭和45年)に「明治村」へ移築公開され、ここにある「興津坐漁荘」はそれを忠実に再現したものです。 -
石灯籠と手水場。
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「興津坐漁荘」にまつわる、思い出の写真集。
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当時、水泳の監視台がある海岸風景。
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真ん中に「興津坐漁荘」がありました。
昭和30年代頃までは、西側に「袖師海水浴場」があり夏休みには海水浴客で賑わいJR東海道本線に臨時・「袖師駅」を設置して、その跡地のプラットホーム台は今でも残っています。 -
2階から眺めた、当時の庭園からつづく海岸風景。
前面は清見潟の海浜、背面はミカンの山という気候温暖な南向きの立地です。
我が母校の校歌(土井晩翠作詞)の一節には、「清見潟」が歌われており特に愛着を感じます。
「 校歌 」 その二番.
あゝ東海の 五十三
駅はいにしへ 今にして ⇒ 「旧袖師駅」?
三保の松原 清見潟
我が感興ぞ 新なる ~♪ -
別邸からつづく「プライベート・ビーチ」の前面は、砂浜と岩場の海岸でした。
土井晩翠氏の作詞を調べると有名な「荒城の月」ほか、全国の旧制高校~小中高校の校歌を数多く手掛けています。 -
近くにある名所と史跡。
この辺りは、旧東海道を江戸へ上る「興津 ⇒由比 ⇒蒲原」と宿場町でつながっているため、東海道ウォーキングで名所・旧跡を訪ねる人の往来が多いところです。 -
「昭和天皇」の皇太子時代の海水浴記念碑。
昭和天皇が即位された昭和元年(1926年)の際に、天皇陛下・26才に対して、西園寺公・78才の折、昭和天皇が摂政時代から自身を補佐した西園寺公への想いと信頼が深く、昭和天皇が興津滞在時に詠んだ「御製」に表われています。
「 そのかみの 君をしみじみ 思うかな
ゆかりも深き この家にして 」 -
居室の窓からは、西日が見えました。
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秋の月夜。
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ご本人愛用の机と椅子。
西園寺公は1871年~80年までソルボンヌ大学(パリ大学)に留学して、法律を学び、帰国後明治法律学校(のちの明治大学)、立命館大学を創立しました。
さらに文相・外相・蔵相などを歴任した後、総理大臣として第一次~第二次西園寺内閣を組閣して、近代日本の発展に寄与しました。
第一次内閣 1906~1908年(明治39年~)
第二次 〃 1911~1912 (明治44年~) -
歴史的な関連資料。
「興津坐漁荘」は2003年(平成15年)に『登録有形文化財』に登録され、2012年5月より建物保存のために大規模工事が行われました。
さらに2017年(平成29年)2月には、数寄屋造住宅の貴重な現存例として、『重要文化財』に指定されたました。 -
西園寺公愛用の木刀。(ブロンズ製)
木刀は太くて重そうで、まるでこん棒のようでした。
西園寺公は京都の公家出身(清華家の一つ徳大寺家、後に西園寺の養子となる)でありながら、幕末期には官軍の戊辰戦争、会津戦争では前線の指揮官を務めました。 -
風情ある「鶯張り」の廊下にある、レトロな電灯。
大正~昭和時代に軍部が強くなり、外敵の多い西園寺公は木刀、鶯張り廊下と防犯の備えは万全でした。
さらに地元の警察では身辺警護のために、係員を駐在するため玄関口の近くには控えの部屋がありました! -
小窓からは、外光が差し込む。
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日当たりのよい、2階の廊下から庭園を眺める。
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庭園越しには、国道一号線の高架線が見えます。
以前には、庭園より先は広い砂浜と岩場のある海浜で、遠くに伊豆の山々と三保松原が眺められましたが、時代の移り変わりを実感します。 -
西園寺公望公の自筆の書。
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西園寺公の自筆の書。
西園寺公の名言。
「 時流に逆らいもしなければ
時流に従いもしない 」
― 西園寺公が自身の性格を語った言葉です― -
西園寺公は明治・大正・昭和の時代の自由主義の政治家として、我が国の近代化に尽力して、昭和15年この地で「逝去」されました。
また現在の立命館大学の学祖であり、近代日本の重要施策について天皇のご諮問に応え、さらに後継の総理大臣を推挙する強力な発言権をもった元老(重臣)でした。 -
1970年(昭和45年)に、明治村へ移築公開された「興津坐漁荘」。
(現在の姿) -
「節目の記念すべき年として特別展の開催」:期間(11/30 ~ 12/8)
1.オープニング・セレモニー
「いったい この国をどこへもっていくのや」
11/30 14時開演 :興津生涯学習交流館
2.西園寺公に関わる遺品・資料などの展示・VTR放映
11/30 ~ 12/8 :興津生涯学習交流館
3.ゆかりの地巡回「スタンプラリー」
4.清見寺・宝物殿見学
拝観料 :300円 12/1のみ見学可
5.西脇本陣跡・西園寺公ゆかりの宿「水口屋」ギャラリー
伊藤博文ほか明治時代の有力政治家の墨跡
6.坐漁荘記念館
西園寺公にまつわる諸々の話・復元された建築の魅力
7.エンディング・セレモニー
興津生涯学習交流館・大ホール
「フリー・トーク:坐漁荘と西園寺公の想い出の話」 -
玄関口へ戻ります。
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富嶽=富士山と「清見寺」の墨絵。
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幕末から明治時代にかけての偉人たち。
日本の国の将来のあり方についてあまり主義主張が感じられない、今の徒党を組むだけの「へなちょこ政治家」は、つよい自己の信念をもった文武両道の西園寺公の生き方を見習うべきです! -
書斎からの景色。
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庭園の先は、「清水清見潟公園」として整備されています。
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旧東海道を挟んで、「清見寺」(中央)と、「興津坐漁荘」(左手)の風景。
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皇太子海水浴記念碑。
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玄関口より出て、帰途に着く。
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この旅行記へのコメント (2)
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- aoitomoさん 2019/09/22 22:41:39
- 『西園寺公望』勉強になりました。
- 風 魔さん こんばんは~
本日、中国(武陵源・西安)旅から帰ってきました。
『西園寺 公望』は名前は知ってましたが、
それ以外は不勉強で何も知らず勉強させてもらいました。
『坐漁荘』
貴重な邸宅が移築復元されるとは言え、
維持保存され公開されるようになるのは嬉しいですね。
このような場所に訪れる事で歴史も興味深く学べるように思います。
当時の貴重な写真も見れるのも凄いことですよ。
知識を蓄えて訪れてみたくなります。
旅行記楽しませていただきました。
aoitomo
- 風 魔さん からの返信 2019/09/22 23:59:58
- Re: 『西園寺公望』勉強になりました。
- aoitomoさん
こんばんは~
この度は、中国・西安の旅とはまさに「東奔西走」ですね!
西安はシルクロードの入り口であり、憧れの地で一度は訪れ
てみたい旅行先の一つです。
坐漁荘へは、ドライブで富士~富士宮へ行く時にこの前を通過
することがありますが、今回の訪問は初めてのことでした。
建物は「指定管理者制度」により、静岡市が無料で一般公開
しており、所用で向えにある「清見寺」を訪問した際に歩いて
5分ほどの「坐漁荘」を見学することになり訪れたものです!
前面の「清見潟」は駿河湾の一部で、我が母校の校歌の一節に
唄われていますので、なんとなく愛着を感じました。
当地は、江戸時代以前の歴史的な建物や史跡が比較的少なく
西日本から生活~文化面が進展してきた表れだと思います。
江戸時代には、諸大名が参勤交代で江戸幕府に参上する際には
家康公ゆかりの「清見寺」を訪問したと思われます。
徳川家康公は、幼い頃に今川家の人質(幼名:竹千代)として
駿府に居住して、当寺の住職・「太原雪斎」に師事し勉学に励
んだため、後に清見寺は徳川幕府から特に庇護されました。
なんといっても「駿府城下町」のため、まさに「葵の紋=頭が
高い控えおろう」の水戸黄門の世界です!
自分も戦国時代以降の日本史に興味があますが、まだ知識の蓄え
が足りないと自覚しております。まだまだ勉学の時です!
またの訪問と情報交換を!
風 魔
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