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家の近くにハンセン病患者のための療養施設多摩全生園<br />(ぜんしょうえん)がある。「療養施設」と書くと聞こ<br />えがいいが、はっきり言って、隔離収容施設である。<br /><br />近くだし、やはり人として一度は訪れるべき場所だとは<br />思っていたが、なかなかその機会がなかったというか、<br />そこまで行こうという気が起きなかった。<br /><br />しかし、つい最近テレビドラマで「砂の器」のリメイク<br />版が放映され、ぼくの頭の中に深く沈んでいたハンセン<br />病という単語が再び攪拌され、浮かび上がってきた。<br /><br />「やはり行かねば」と思うようになり、5月連休のある<br />晴れた日、駅前の駐輪場で借りた貸し自転車にまたがり、<br />全生園を目指した。<br /><br /><br /><br />

Welcome To Dark Side Of Japan—かつて国家から存在を否定された人たちがいた(多摩全生園)

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2019/05/09 - 2019/05/09

67位(同エリア147件中)

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32

ハイペリオン

ハイペリオンさん

家の近くにハンセン病患者のための療養施設多摩全生園
(ぜんしょうえん)がある。「療養施設」と書くと聞こ
えがいいが、はっきり言って、隔離収容施設である。

近くだし、やはり人として一度は訪れるべき場所だとは
思っていたが、なかなかその機会がなかったというか、
そこまで行こうという気が起きなかった。

しかし、つい最近テレビドラマで「砂の器」のリメイク
版が放映され、ぼくの頭の中に深く沈んでいたハンセン
病という単語が再び攪拌され、浮かび上がってきた。

「やはり行かねば」と思うようになり、5月連休のある
晴れた日、駅前の駐輪場で借りた貸し自転車にまたがり、
全生園を目指した。



旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
  • 多摩全生園は、東村山市の東のはずれにあり、<br />隣の清瀬市との境目にある。全生園を突き抜<br />けると清瀬市である。<br /><br />周囲は緑がというか雑木林が多く、全生園の<br />中も木々がたくさん植えられていて、ハンセ<br />ン病患者のための施設ということを知らなけ<br />れば、目も心も癒されるような場所である。

    多摩全生園は、東村山市の東のはずれにあり、
    隣の清瀬市との境目にある。全生園を突き抜
    けると清瀬市である。

    周囲は緑がというか雑木林が多く、全生園の
    中も木々がたくさん植えられていて、ハンセ
    ン病患者のための施設ということを知らなけ
    れば、目も心も癒されるような場所である。

  • かなり広大な敷地の中に神社通りと中央通り<br />という大きな通りが交差する形になっていて、<br />碁盤の目に仕切られた路地には療養者の住居<br />や施設が並んでいる。

    かなり広大な敷地の中に神社通りと中央通り
    という大きな通りが交差する形になっていて、
    碁盤の目に仕切られた路地には療養者の住居
    や施設が並んでいる。

  • 東村山側から入ると、事務棟や保育園、そし<br />て、治療棟などの施設が並んでいるその奥は<br />リハビリ施設になっている。<br /><br />保育園や看護学校まであるということは、この<br />エリア内ですべてが完結できるようになってい<br />るということ。つまり、裏を返せば病人も関係<br />者でさえもなるだけここから出さないという意<br />図を持って作られたと言えるのかもしれない。

    東村山側から入ると、事務棟や保育園、そし
    て、治療棟などの施設が並んでいるその奥は
    リハビリ施設になっている。

    保育園や看護学校まであるということは、この
    エリア内ですべてが完結できるようになってい
    るということ。つまり、裏を返せば病人も関係
    者でさえもなるだけここから出さないという意
    図を持って作られたと言えるのかもしれない。

  • 園内はほぼ碁盤の目に道路が走っており、周囲は<br />緑が多い。<br /><br />この先が療養者たちが住む住居エリアである。

    園内はほぼ碁盤の目に道路が走っており、周囲は
    緑が多い。

    この先が療養者たちが住む住居エリアである。

  • 人が住んでいるエリアなので、たとえ道路でも自転<br />車で走るのはどうかと思ったが、地元の高校生たち<br />は平気で自転車で通っているので、ぼくも走らせて<br />もらうことにした。

    人が住んでいるエリアなので、たとえ道路でも自転
    車で走るのはどうかと思ったが、地元の高校生たち
    は平気で自転車で通っているので、ぼくも走らせて
    もらうことにした。

  • 住居はこのような2階建てのアパートのような造り<br />のものと1階建てのものがあった。<br /><br />住居棟はそれぞれ、利根、秋津、牡丹など、思い思<br />いの名称が付けられていた。

    住居はこのような2階建てのアパートのような造り
    のものと1階建てのものがあった。

    住居棟はそれぞれ、利根、秋津、牡丹など、思い思
    いの名称が付けられていた。

  • 既に居住者が出て行った廃墟もあるが、療養者が住ん<br />でいるところは垣根も丁寧に手入れされていた。<br /><br />ハンセン病者たちは、家族から引き離され、「1年く<br />らいで戻れるらしいから」などという甘言に弄されて<br />連れて来られ、ここに押し込められた。中には未成年<br />の子どももいたという。

    既に居住者が出て行った廃墟もあるが、療養者が住ん
    でいるところは垣根も丁寧に手入れされていた。

    ハンセン病者たちは、家族から引き離され、「1年く
    らいで戻れるらしいから」などという甘言に弄されて
    連れて来られ、ここに押し込められた。中には未成年
    の子どももいたという。

  • 鬱蒼とした雑木林の間を抜けると清瀬市側に出る。<br /><br />その手前を左折したところに納骨堂がある。

    鬱蒼とした雑木林の間を抜けると清瀬市側に出る。

    その手前を左折したところに納骨堂がある。

  • ここで亡くなったした人たちのお骨を収めた堂で<br />ある。<br /><br />ここで死んだ人たちは、故郷に埋めてもらうこと<br />もできず、ここで眠るしかなかった。<br /><br />骨になっても故郷に帰ることを許さなかったので<br />ある。

    ここで亡くなったした人たちのお骨を収めた堂で
    ある。

    ここで死んだ人たちは、故郷に埋めてもらうこと
    もできず、ここで眠るしかなかった。

    骨になっても故郷に帰ることを許さなかったので
    ある。

  • ハンセン病は、ノルウェーの医師アルマウェル・ハ<br />ンセンが菌を発見したことでハンセン病と呼ばれる<br />ことになったが、古い時代の人間としては「癩(ら<br />い)病」と言った方が通じやすいところがある。<br /><br />昔は、よく「癩病」が映画の中で出て来た。ほぼす<br />べてが、舞台装置程度の役割だった。<br /><br />初めてハンセン病というのを知ったのは「ベンハー」<br />というアメリカ映画だった。<br /><br />イエス・キリストの生涯を軸にしたストーリーだっ<br />たが、主人公の母親と妹がハンセン病に罹り、ふた<br />りは街を追われ、荒れ地の岩穴のようなところで、<br />他のハンセン病者たちと住んでいた。<br /><br />史実かどうかわからないが、2千年前から、ハンセン<br />病者は、集落を追い出され、荒涼とした場所に強制的<br />に住まわされていたようだった。<br /><br />もうひとつ、「パピヨン」という無実の罪で投獄され<br />た男が、脱獄を繰り返すという映画では、ハンセン病<br />者だけが住む島が出て来た。<br /><br />この2つの映画によって、ぼくはハンセン病の存在を<br />知った。<br /><br />そして、欧米においても一般社会から切り離された生<br />活を強制されていたことも。

    ハンセン病は、ノルウェーの医師アルマウェル・ハ
    ンセンが菌を発見したことでハンセン病と呼ばれる
    ことになったが、古い時代の人間としては「癩(ら
    い)病」と言った方が通じやすいところがある。

    昔は、よく「癩病」が映画の中で出て来た。ほぼす
    べてが、舞台装置程度の役割だった。

    初めてハンセン病というのを知ったのは「ベンハー」
    というアメリカ映画だった。

    イエス・キリストの生涯を軸にしたストーリーだっ
    たが、主人公の母親と妹がハンセン病に罹り、ふた
    りは街を追われ、荒れ地の岩穴のようなところで、
    他のハンセン病者たちと住んでいた。

    史実かどうかわからないが、2千年前から、ハンセン
    病者は、集落を追い出され、荒涼とした場所に強制的
    に住まわされていたようだった。

    もうひとつ、「パピヨン」という無実の罪で投獄され
    た男が、脱獄を繰り返すという映画では、ハンセン病
    者だけが住む島が出て来た。

    この2つの映画によって、ぼくはハンセン病の存在を
    知った。

    そして、欧米においても一般社会から切り離された生
    活を強制されていたことも。

  • ハンセン病はらい菌によって感染する。発症すると、<br />末梢神経が侵され、激しい痛みが生じる。<br /><br />関ケ原の合戦で西軍の最前線で奮戦した大谷吉継は、<br />ハンセン病だったことが知られている。<br /><br />2017年のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、片岡愛<br />之助が演じていた時は、突然うめいて腕をおさえるよ<br />うな演技をしていた。<br /><br />これは既に神経が侵されていた段階である。この後、<br />指が曲がるなどの症状が出る。目は角膜がやられ、や<br />がて失明する。<br /><br />大谷吉継は、関ケ原の合戦の頃には両目とも見えなく<br />なっていたのではないかと言われている。<br /><br />最もひどい症状になるのは皮膚で、アトピー性皮膚炎<br />のもっとすごい感じで、皮膚がボロボロとただれ、鼻<br />や耳など突起物は崩れてしまうことがある。<br /><br />ハンセン病が人を怖がらせるのはこの顔がぼろぼろに<br />なってしまう見てくれの恐ろしさにある。<br /><br />大谷吉継を描いた絵も頭巾をかぶり、口元を覆ったも<br />のが多い。

    ハンセン病はらい菌によって感染する。発症すると、
    末梢神経が侵され、激しい痛みが生じる。

    関ケ原の合戦で西軍の最前線で奮戦した大谷吉継は、
    ハンセン病だったことが知られている。

    2017年のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、片岡愛
    之助が演じていた時は、突然うめいて腕をおさえるよ
    うな演技をしていた。

    これは既に神経が侵されていた段階である。この後、
    指が曲がるなどの症状が出る。目は角膜がやられ、や
    がて失明する。

    大谷吉継は、関ケ原の合戦の頃には両目とも見えなく
    なっていたのではないかと言われている。

    最もひどい症状になるのは皮膚で、アトピー性皮膚炎
    のもっとすごい感じで、皮膚がボロボロとただれ、鼻
    や耳など突起物は崩れてしまうことがある。

    ハンセン病が人を怖がらせるのはこの顔がぼろぼろに
    なってしまう見てくれの恐ろしさにある。

    大谷吉継を描いた絵も頭巾をかぶり、口元を覆ったも
    のが多い。

  • 病状が進行すると恐ろしい症状になるハンセン病だが、<br />感染力は非常に弱く、普通の衛生状態ならまず感染す<br />ることはない。この全生園においても、職員が感染し<br />た事例は皆無だそうだ。<br /><br />この多摩全生園が設立されたのは、1907年。日露戦争<br />直後である。<br /><br />園長に就任したのは、光田健輔という人物。<br /><br />ネットでこの名前を検索すると、「ハンセン病患者に<br />寄り添い、生涯をハンセン病治療にささげた」などと<br />まるで聖人君主のような扱いである。<br /><br />しかし、実際は隔離、断種、不妊手術といった非人道<br />的な手法で、ハンセン病者を一般社会から消し去り、<br />らい予防法を戦後もかたくなに固持し続けた人物である。<br /><br />時代はすでに、ハンセン病は治療可能で、遺伝病では<br />なく、感染力が極めて弱い病気であることが定説とな<br />っていたにもかかわらずである。

    病状が進行すると恐ろしい症状になるハンセン病だが、
    感染力は非常に弱く、普通の衛生状態ならまず感染す
    ることはない。この全生園においても、職員が感染し
    た事例は皆無だそうだ。

    この多摩全生園が設立されたのは、1907年。日露戦争
    直後である。

    園長に就任したのは、光田健輔という人物。

    ネットでこの名前を検索すると、「ハンセン病患者に
    寄り添い、生涯をハンセン病治療にささげた」などと
    まるで聖人君主のような扱いである。

    しかし、実際は隔離、断種、不妊手術といった非人道
    的な手法で、ハンセン病者を一般社会から消し去り、
    らい予防法を戦後もかたくなに固持し続けた人物である。

    時代はすでに、ハンセン病は治療可能で、遺伝病では
    なく、感染力が極めて弱い病気であることが定説とな
    っていたにもかかわらずである。

  • 1943年には、予防薬のフロミンが日本にも入って来たこ<br />とで、ハンセン病は完治できる病となっていた。しかし、<br />光田健輔は、悪名高き「らい予防法」の制定を先頭で推<br />し進め、1953年に法制化にこぎつけた。<br /><br />時代がどう変わろうとも、彼にとって絶対隔離が必須の<br />危険な病人だったのである。<br /><br />「手錠着けてでも隔離すべき」<br />「軽快者とて社会に出してはならない」<br /><br />これが「救癩の父」と呼ばれ、文化勲章まで受けた人物<br />の言葉である。<br /><br />こうした発言には、医学的根拠よりも、ハンセン病者に<br />対する感情的憎悪が優先していたのではないかと思えて<br />くる。<br /><br />

    1943年には、予防薬のフロミンが日本にも入って来たこ
    とで、ハンセン病は完治できる病となっていた。しかし、
    光田健輔は、悪名高き「らい予防法」の制定を先頭で推
    し進め、1953年に法制化にこぎつけた。

    時代がどう変わろうとも、彼にとって絶対隔離が必須の
    危険な病人だったのである。

    「手錠着けてでも隔離すべき」
    「軽快者とて社会に出してはならない」

    これが「救癩の父」と呼ばれ、文化勲章まで受けた人物
    の言葉である。

    こうした発言には、医学的根拠よりも、ハンセン病者に
    対する感情的憎悪が優先していたのではないかと思えて
    くる。

  • ハンセン病者が「浮浪らい」と呼ばれ、故郷を離れ、寺<br />社周辺で物乞いをする姿や、粗末な小屋に他の病人とと<br />もに収容され、これに対し、国家が救いの手を指し伸ば<br />そうとはしなかったことに対して義憤を抱き、ハンセン<br />病治療の世界へ飛び込んだ頃の精神とはかけ離れた言動<br />である。<br /><br />今となってはいささか古臭く感じるヒューマニズム<br />を胸に抱えていた光田が、なぜ医学的根拠のない絶<br />対隔離の道を突き進んだのか。<br />

    ハンセン病者が「浮浪らい」と呼ばれ、故郷を離れ、寺
    社周辺で物乞いをする姿や、粗末な小屋に他の病人とと
    もに収容され、これに対し、国家が救いの手を指し伸ば
    そうとはしなかったことに対して義憤を抱き、ハンセン
    病治療の世界へ飛び込んだ頃の精神とはかけ離れた言動
    である。

    今となってはいささか古臭く感じるヒューマニズム
    を胸に抱えていた光田が、なぜ医学的根拠のない絶
    対隔離の道を突き進んだのか。

  • 現在言われているのは、戦後に結成された全癩患協<br />が主導する自治運動に対する敵愾心があったのだろ<br />うということだ。<br /><br />戦後、各地の隔離施設では入所者による自治会運動<br />が活発になった。<br /><br />らい予防法には懲戒規定も明文化されており、逃亡<br />を図ったり、園内の規則を守らなかった場合、管理<br />者側が懲戒を与える権利があった。<br /><br />園内には独房のような部屋もあったというから、ほ<br />とんど刑務所である。<br /><br />このような厳しい管理体制に反発した患者たちは、<br />人権侵害の事実を暴露し、隔離撤廃を要求するよ<br />うになった。<br />

    現在言われているのは、戦後に結成された全癩患協
    が主導する自治運動に対する敵愾心があったのだろ
    うということだ。

    戦後、各地の隔離施設では入所者による自治会運動
    が活発になった。

    らい予防法には懲戒規定も明文化されており、逃亡
    を図ったり、園内の規則を守らなかった場合、管理
    者側が懲戒を与える権利があった。

    園内には独房のような部屋もあったというから、ほ
    とんど刑務所である。

    このような厳しい管理体制に反発した患者たちは、
    人権侵害の事実を暴露し、隔離撤廃を要求するよ
    うになった。

  • 患者たちの活動を支援したのが社会党と共産党である。<br /><br />そして、園内には今も共産党議員のポスターが貼ら<br />れている。<br /><br />光田健輔が徹底隔離に固執したのは、園内の自治活<br />動を支援する左翼に対する敵意も相当強かったから<br />ではないか。

    患者たちの活動を支援したのが社会党と共産党である。

    そして、園内には今も共産党議員のポスターが貼ら
    れている。

    光田健輔が徹底隔離に固執したのは、園内の自治活
    動を支援する左翼に対する敵意も相当強かったから
    ではないか。

  • 戦後もハンセン病者の隔離も断種も続いた。<br /><br />1948年に国民優性法に替わり、優生保護法が成立した。<br /><br />ここにはハンセン病者とその配偶者に対する断種と<br />堕胎が明記された。<br /><br />国会の議論においても、これに対する疑問の声は上<br />がらなかったという。<br /><br />1956年、ハンセン病者への差別的な法律の撤廃を<br />宣言したローマ会議やWHOが1960年にハンセン<br />病者への差別的な法律の撤廃と外治療の実施を提<br />唱した。<br /><br />それでもなぜか日本は「らい予防法」に固執し、<br />メディアもそれを支持した。<br /><br />「らい予防法」が国際的に批判の的となっていても、<br />結局1996年の廃止まで続いた。<br /><br />「らい予防法」や「優生保護法」は、「恥ずかしいも<br />のを見られたくない」「血統の維持」といった、家レ<br />ベルの情緒を国家のレベルで実施したようなものであ<br />った。<br /><br />

    戦後もハンセン病者の隔離も断種も続いた。

    1948年に国民優性法に替わり、優生保護法が成立した。

    ここにはハンセン病者とその配偶者に対する断種と
    堕胎が明記された。

    国会の議論においても、これに対する疑問の声は上
    がらなかったという。

    1956年、ハンセン病者への差別的な法律の撤廃を
    宣言したローマ会議やWHOが1960年にハンセン
    病者への差別的な法律の撤廃と外治療の実施を提
    唱した。

    それでもなぜか日本は「らい予防法」に固執し、
    メディアもそれを支持した。

    「らい予防法」が国際的に批判の的となっていても、
    結局1996年の廃止まで続いた。

    「らい予防法」や「優生保護法」は、「恥ずかしいも
    のを見られたくない」「血統の維持」といった、家レ
    ベルの情緒を国家のレベルで実施したようなものであ
    った。

  • 清瀬市側の出口を出たところに国立ハンセン病資料館<br />がある。<br /><br />ハンセン病の医学的なことよりも全生園の歴史や人権<br />問題に展示物が費やされていた。

    清瀬市側の出口を出たところに国立ハンセン病資料館
    がある。

    ハンセン病の医学的なことよりも全生園の歴史や人権
    問題に展示物が費やされていた。

  • 入口のベンチにいた老人はぼくが資料館に入って、<br />1時間後に出てきても同じ姿勢でここにいた。

    入口のベンチにいた老人はぼくが資料館に入って、
    1時間後に出てきても同じ姿勢でここにいた。

  • ハンセン病者の親子像。かれらは「浮浪らい」と<br />呼ばれ、このような巡礼者の身なりで各地を転々<br />とし、神社仏閣周辺で物乞いをするしかなかった。<br /><br />ほとんど「砂の器」の世界である。

    ハンセン病者の親子像。かれらは「浮浪らい」と
    呼ばれ、このような巡礼者の身なりで各地を転々
    とし、神社仏閣周辺で物乞いをするしかなかった。

    ほとんど「砂の器」の世界である。

  • ハンセン病と聴いて我々中高年が思い浮かべるのは<br />やはり、映画「砂の器」だろう。<br /><br />白装束の巡礼者の服装の親子が風雨にさらされなが<br />ら海沿いを黙々と歩くシーンは、昭和生まれならば<br />誰もが知っているのではないか。<br /><br />ぼくは、中学生の時に松本清張の原作を読んだ。分<br />厚いうえに活字2段組みの大長編は中学生の手に負<br />えるようなものではなかったが、何とか読み切った。

    ハンセン病と聴いて我々中高年が思い浮かべるのは
    やはり、映画「砂の器」だろう。

    白装束の巡礼者の服装の親子が風雨にさらされなが
    ら海沿いを黙々と歩くシーンは、昭和生まれならば
    誰もが知っているのではないか。

    ぼくは、中学生の時に松本清張の原作を読んだ。分
    厚いうえに活字2段組みの大長編は中学生の手に負
    えるようなものではなかったが、何とか読み切った。

  • 物語は、国電(現JR)蒲田駅の操車場で男性の死<br />体が発見されたところから始まる。<br /><br />この事件を年配の刑事と若い刑事のコンビが地道に<br />捜査するのだが、映画では丹波哲郎と森田健作が演<br />じていた。<br /><br />捜査の中で、ひとりの若い音楽家が浮上する。<br /><br />演じていたのは昭和の超イケメン、加藤剛。<br /><br />小説では現代音楽の作曲家だったが、映画ではクラシック<br />になっていた。<br /><br />音楽家は大阪空襲で死亡した夫婦の戸籍に入り込んで「本<br />籍再生」し、一人息子に成りすました。<br /><br />彼は苦学して京都の高校を卒業し、東京の芸術大学で教授<br />に才能を見出され、現代音楽家への道を歩み始めた。

    物語は、国電(現JR)蒲田駅の操車場で男性の死
    体が発見されたところから始まる。

    この事件を年配の刑事と若い刑事のコンビが地道に
    捜査するのだが、映画では丹波哲郎と森田健作が演
    じていた。

    捜査の中で、ひとりの若い音楽家が浮上する。

    演じていたのは昭和の超イケメン、加藤剛。

    小説では現代音楽の作曲家だったが、映画ではクラシック
    になっていた。

    音楽家は大阪空襲で死亡した夫婦の戸籍に入り込んで「本
    籍再生」し、一人息子に成りすました。

    彼は苦学して京都の高校を卒業し、東京の芸術大学で教授
    に才能を見出され、現代音楽家への道を歩み始めた。

  • では、殺害された男は誰だったのか。<br /><br />男は島根県に駐在所の巡査で、短い期間ながら、<br />音楽家の養父だった。<br /><br />合同捜査会議の場面で中年刑事は音楽家の幼い頃<br />の姿を見て来たように語る。<br /><br />そこで彼の父がハンセン病者だったことが明かさ<br />れる。<br /><br />父のハンセン病がもとで彼らは故郷を追われ、物<br />乞いをしながら日本海側の村を転々とし、島根県<br />の元巡査の村にたどり着いたのだった。<br /><br />巡査は父親に療養所に入ることをすすめた。そし<br />て、息子はしばらく自分で育て、そのうちどこか<br />へ養子に出すつもりでいた。<br /><br />しかし、彼はすぐに逃げ出して行方をくらませて<br />しまう。

    では、殺害された男は誰だったのか。

    男は島根県に駐在所の巡査で、短い期間ながら、
    音楽家の養父だった。

    合同捜査会議の場面で中年刑事は音楽家の幼い頃
    の姿を見て来たように語る。

    そこで彼の父がハンセン病者だったことが明かさ
    れる。

    父のハンセン病がもとで彼らは故郷を追われ、物
    乞いをしながら日本海側の村を転々とし、島根県
    の元巡査の村にたどり着いたのだった。

    巡査は父親に療養所に入ることをすすめた。そし
    て、息子はしばらく自分で育て、そのうちどこか
    へ養子に出すつもりでいた。

    しかし、彼はすぐに逃げ出して行方をくらませて
    しまう。

  • 音楽家として順風満帆の日々を送る彼の下へその元<br />巡査が訪ねてきた。<br /><br />自分の過去が暴かれるのを恐れた音楽家は、短い期<br />間ながらも養父だった男を、顔が判別できないくら<br />いに殴りつけ、殺害してしまう。<br /><br />原作では合同捜査会議で中年刑事が淡々と語るだけ<br />の場面を映画では、音楽家が作曲した交響曲「宿命」<br />をバックに、捜査会議の進行と過去の親子のシーン<br />が交互に続き、誰もが感嘆の声を上げそうな見事な<br />構成になっていた。<br /><br />巡礼姿の老父と息子。白い波が立つ日本海沿いを歩<br />く二人。二人の声は流れず、荘重なピアノだけが響<br />く。日本各地の四季折々の美しい映像が画面一杯に<br />広がり、その中を行く不治の病を抱えた親と幼子。<br /><br />「日本映画的な、あまりに日本映画的な!」と芥川<br />龍之介なら言いそうな場面である。<br /><br />不治の病を患う家族との悲劇的な別れ、貧しい子ど<br />もの成功譚、生き別れとなった家族との再会。いず<br />れも日本の物語としては常道の手法である。

    音楽家として順風満帆の日々を送る彼の下へその元
    巡査が訪ねてきた。

    自分の過去が暴かれるのを恐れた音楽家は、短い期
    間ながらも養父だった男を、顔が判別できないくら
    いに殴りつけ、殺害してしまう。

    原作では合同捜査会議で中年刑事が淡々と語るだけ
    の場面を映画では、音楽家が作曲した交響曲「宿命」
    をバックに、捜査会議の進行と過去の親子のシーン
    が交互に続き、誰もが感嘆の声を上げそうな見事な
    構成になっていた。

    巡礼姿の老父と息子。白い波が立つ日本海沿いを歩
    く二人。二人の声は流れず、荘重なピアノだけが響
    く。日本各地の四季折々の美しい映像が画面一杯に
    広がり、その中を行く不治の病を抱えた親と幼子。

    「日本映画的な、あまりに日本映画的な!」と芥川
    龍之介なら言いそうな場面である。

    不治の病を患う家族との悲劇的な別れ、貧しい子ど
    もの成功譚、生き別れとなった家族との再会。いず
    れも日本の物語としては常道の手法である。

  • 松本清張の原作では、ハンセン病に関しては、捜査会<br />議の席で、中年刑事の「彼はらい病だったのです」の<br />ひと言だけで、音楽家と父親、元巡査との関係も深く<br />描かれていなかった。<br /><br />しかし、映画ではハンセン病の父と息子の関係を、<br />これでもかというほど前面に出し、いささか押しつ<br />けがましい涙涙のラストに作り込んだ。

    松本清張の原作では、ハンセン病に関しては、捜査会
    議の席で、中年刑事の「彼はらい病だったのです」の
    ひと言だけで、音楽家と父親、元巡査との関係も深く
    描かれていなかった。

    しかし、映画ではハンセン病の父と息子の関係を、
    これでもかというほど前面に出し、いささか押しつ
    けがましい涙涙のラストに作り込んだ。

  • この映画が上映された1974年の日本の他の代表作は、<br />「華麗なる一族」「サンダカン娼館 望郷」などだった。<br /><br />つまり、そういう時代だったということだ。<br /><br />大時代的な大作映画が受ける時代だったのである。<br /><br />「砂の器」も不治の病を患った父親の存在、主人公<br />の成功と転落といった要素を打ち出す必要があった<br />のだ。<br /><br />原作では音楽家は己の成功のためには周囲を顧みな<br />い傲慢なエゴイストで、素人にはちんぷんかんぷん<br />の現代音楽の成功者だった。しかし、映画では仰々<br />しいクラシックになっている。<br /><br />「こうすれば客は喜ぶ」というコテコテの古典的手<br />法を盛り込んだのが「砂の器」だったのだ。<br /><br />差別問題に直結し、松本清張が短く触れただけだ<br />ったハンセン病を前面に押し出したことに多少の<br />ためらいがあったのか、最後に次のような説明文<br />を付け加えている。<br /><br />

    この映画が上映された1974年の日本の他の代表作は、
    「華麗なる一族」「サンダカン娼館 望郷」などだった。

    つまり、そういう時代だったということだ。

    大時代的な大作映画が受ける時代だったのである。

    「砂の器」も不治の病を患った父親の存在、主人公
    の成功と転落といった要素を打ち出す必要があった
    のだ。

    原作では音楽家は己の成功のためには周囲を顧みな
    い傲慢なエゴイストで、素人にはちんぷんかんぷん
    の現代音楽の成功者だった。しかし、映画では仰々
    しいクラシックになっている。

    「こうすれば客は喜ぶ」というコテコテの古典的手
    法を盛り込んだのが「砂の器」だったのだ。

    差別問題に直結し、松本清張が短く触れただけだ
    ったハンセン病を前面に押し出したことに多少の
    ためらいがあったのか、最後に次のような説明文
    を付け加えている。

  • 「ハンセン氏病は、医学の進歩で特効薬もあって<br />現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。<br />非科学的な偏見と差別のみで、本浦千代吉(音楽<br />家の実父)のような患者はもうどこにもいない。<br />しかし、旅の形はどのように変わっても、「宿命」<br />は永遠のものである」<br /><br />日本語として変だし、何を言いたいのかよくわか<br />らないが、本来ならこのような「言い訳」を掲げ<br />ないで作品として成立させるべきなのだろう。<br /><br />しかし、ハンセン病を生まれる前からすでに定ま<br />った運命としたドラマ作りは昭和40年代という時<br />代を考慮としても古いと言わざるを得ない。<br /><br />しかし、ぼくを含め多くの日本人があのラスト<br />シーンを見て感動してしまうのも事実である。<br /><br />「砂の器」が持つ日本的な感性や精神性を解体し<br />なければ形を変えたハンセン病者への差別に似た<br />ようなことは今後も発生するに違いない。<br /><br /><br />https://youtu.be/9axACQoRn0E

    「ハンセン氏病は、医学の進歩で特効薬もあって
    現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。
    非科学的な偏見と差別のみで、本浦千代吉(音楽
    家の実父)のような患者はもうどこにもいない。
    しかし、旅の形はどのように変わっても、「宿命」
    は永遠のものである」

    日本語として変だし、何を言いたいのかよくわか
    らないが、本来ならこのような「言い訳」を掲げ
    ないで作品として成立させるべきなのだろう。

    しかし、ハンセン病を生まれる前からすでに定ま
    った運命としたドラマ作りは昭和40年代という時
    代を考慮としても古いと言わざるを得ない。

    しかし、ぼくを含め多くの日本人があのラスト
    シーンを見て感動してしまうのも事実である。

    「砂の器」が持つ日本的な感性や精神性を解体し
    なければ形を変えたハンセン病者への差別に似た
    ようなことは今後も発生するに違いない。


    https://youtu.be/9axACQoRn0E

  • 清瀬側に出て清瀬方面を進むと救世軍の病院があった。

    清瀬側に出て清瀬方面を進むと救世軍の病院があった。

  • 近所にはカソリック系の病院もある。

    近所にはカソリック系の病院もある。

  • これは廃墟となった入院病棟のようだが、清瀬市には、<br />キリスト教系の病院が多い。<br /><br />明治以降、ここにはハンセン病者だけでなく結核患者<br />を収容する病院もいくつかあった。<br /><br />そのほとんどがキリスト教系の病院である。<br /><br />結核患者やハンセン病者に向き合い、治療や支援を行<br />っていたのは、キリスト教の団体だったのである。<br /><br />それは、15世紀にヨーロッパから宣教師たちが上陸<br />して以来連綿と続けられている慈善行為である。<br /><br />清瀬市にこれらの病院が多いのは、この辺りは明治時<br />代は住む人もまばらな相当な田舎だったからだろう。

    これは廃墟となった入院病棟のようだが、清瀬市には、
    キリスト教系の病院が多い。

    明治以降、ここにはハンセン病者だけでなく結核患者
    を収容する病院もいくつかあった。

    そのほとんどがキリスト教系の病院である。

    結核患者やハンセン病者に向き合い、治療や支援を行
    っていたのは、キリスト教の団体だったのである。

    それは、15世紀にヨーロッパから宣教師たちが上陸
    して以来連綿と続けられている慈善行為である。

    清瀬市にこれらの病院が多いのは、この辺りは明治時
    代は住む人もまばらな相当な田舎だったからだろう。

  • 上に書いたように、は、プロミンという薬で完全に治る<br />ようになった。また、日本で発生する新規の患者は数人<br />程度。<br /><br />らい予防法を廃止したこともあって、ここに新たに入居<br />する人はもういない。<br /><br />現在の入居者もどんどんと高齢化が進んでいるはずである。<br /><br />最後の一人がこの世を去るまでこの広大な施設は残され<br />るのだろうか。

    上に書いたように、は、プロミンという薬で完全に治る
    ようになった。また、日本で発生する新規の患者は数人
    程度。

    らい予防法を廃止したこともあって、ここに新たに入居
    する人はもういない。

    現在の入居者もどんどんと高齢化が進んでいるはずである。

    最後の一人がこの世を去るまでこの広大な施設は残され
    るのだろうか。

  • らい予防法や優生保護法といった前近代的な法律がつい<br />最近まで廃止されなかったのはなぜなのか。<br /><br />責任を法制化実現に固執し続けた光田健輔という人物ひ<br />とりに押し付けるのも筋違いのような気がする。<br /><br />法制化とは国会で審議し、可決するのは我々有権者が一<br />票を投じた国会議員であるから、糸を手繰り寄せれば、<br />我々一人一人に行きつく。<br /><br />ではなぜ我々はこのようなひどい法律に怒りを覚える<br />ようなことはなかったのだろう。<br /><br />やはりそれは我々がこうした問題に無関心だったから<br />だと言わざるを得ない。<br /><br />既往歴のある患者がこの世を去るのは約20年後と言わ<br />れている。<br /><br />それと同時にハンセン病患者が強制隔離された記憶も<br />人々から消えていくのだろう。<br /><br />そして、そのころ違う形の人権侵害に当たるような差<br />別が続いていることに誰もが無関心でいるのかもしれ<br />ない。

    らい予防法や優生保護法といった前近代的な法律がつい
    最近まで廃止されなかったのはなぜなのか。

    責任を法制化実現に固執し続けた光田健輔という人物ひ
    とりに押し付けるのも筋違いのような気がする。

    法制化とは国会で審議し、可決するのは我々有権者が一
    票を投じた国会議員であるから、糸を手繰り寄せれば、
    我々一人一人に行きつく。

    ではなぜ我々はこのようなひどい法律に怒りを覚える
    ようなことはなかったのだろう。

    やはりそれは我々がこうした問題に無関心だったから
    だと言わざるを得ない。

    既往歴のある患者がこの世を去るのは約20年後と言わ
    れている。

    それと同時にハンセン病患者が強制隔離された記憶も
    人々から消えていくのだろう。

    そして、そのころ違う形の人権侵害に当たるような差
    別が続いていることに誰もが無関心でいるのかもしれ
    ない。

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