2019/05/09 - 2019/05/09
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ハイペリオンさん
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家の近くにハンセン病患者のための療養施設多摩全生園
(ぜんしょうえん)がある。「療養施設」と書くと聞こ
えがいいが、はっきり言って、隔離収容施設である。
近くだし、やはり人として一度は訪れるべき場所だとは
思っていたが、なかなかその機会がなかったというか、
そこまで行こうという気が起きなかった。
しかし、つい最近テレビドラマで「砂の器」のリメイク
版が放映され、ぼくの頭の中に深く沈んでいたハンセン
病という単語が再び攪拌され、浮かび上がってきた。
「やはり行かねば」と思うようになり、5月連休のある
晴れた日、駅前の駐輪場で借りた貸し自転車にまたがり、
全生園を目指した。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
-
多摩全生園は、東村山市の東のはずれにあり、
隣の清瀬市との境目にある。全生園を突き抜
けると清瀬市である。
周囲は緑がというか雑木林が多く、全生園の
中も木々がたくさん植えられていて、ハンセ
ン病患者のための施設ということを知らなけ
れば、目も心も癒されるような場所である。 -
かなり広大な敷地の中に神社通りと中央通り
という大きな通りが交差する形になっていて、
碁盤の目に仕切られた路地には療養者の住居
や施設が並んでいる。 -
東村山側から入ると、事務棟や保育園、そし
て、治療棟などの施設が並んでいるその奥は
リハビリ施設になっている。
保育園や看護学校まであるということは、この
エリア内ですべてが完結できるようになってい
るということ。つまり、裏を返せば病人も関係
者でさえもなるだけここから出さないという意
図を持って作られたと言えるのかもしれない。 -
園内はほぼ碁盤の目に道路が走っており、周囲は
緑が多い。
この先が療養者たちが住む住居エリアである。 -
人が住んでいるエリアなので、たとえ道路でも自転
車で走るのはどうかと思ったが、地元の高校生たち
は平気で自転車で通っているので、ぼくも走らせて
もらうことにした。 -
住居はこのような2階建てのアパートのような造り
のものと1階建てのものがあった。
住居棟はそれぞれ、利根、秋津、牡丹など、思い思
いの名称が付けられていた。 -
既に居住者が出て行った廃墟もあるが、療養者が住ん
でいるところは垣根も丁寧に手入れされていた。
ハンセン病者たちは、家族から引き離され、「1年く
らいで戻れるらしいから」などという甘言に弄されて
連れて来られ、ここに押し込められた。中には未成年
の子どももいたという。 -
鬱蒼とした雑木林の間を抜けると清瀬市側に出る。
その手前を左折したところに納骨堂がある。 -
ここで亡くなったした人たちのお骨を収めた堂で
ある。
ここで死んだ人たちは、故郷に埋めてもらうこと
もできず、ここで眠るしかなかった。
骨になっても故郷に帰ることを許さなかったので
ある。 -
ハンセン病は、ノルウェーの医師アルマウェル・ハ
ンセンが菌を発見したことでハンセン病と呼ばれる
ことになったが、古い時代の人間としては「癩(ら
い)病」と言った方が通じやすいところがある。
昔は、よく「癩病」が映画の中で出て来た。ほぼす
べてが、舞台装置程度の役割だった。
初めてハンセン病というのを知ったのは「ベンハー」
というアメリカ映画だった。
イエス・キリストの生涯を軸にしたストーリーだっ
たが、主人公の母親と妹がハンセン病に罹り、ふた
りは街を追われ、荒れ地の岩穴のようなところで、
他のハンセン病者たちと住んでいた。
史実かどうかわからないが、2千年前から、ハンセン
病者は、集落を追い出され、荒涼とした場所に強制的
に住まわされていたようだった。
もうひとつ、「パピヨン」という無実の罪で投獄され
た男が、脱獄を繰り返すという映画では、ハンセン病
者だけが住む島が出て来た。
この2つの映画によって、ぼくはハンセン病の存在を
知った。
そして、欧米においても一般社会から切り離された生
活を強制されていたことも。 -
ハンセン病はらい菌によって感染する。発症すると、
末梢神経が侵され、激しい痛みが生じる。
関ケ原の合戦で西軍の最前線で奮戦した大谷吉継は、
ハンセン病だったことが知られている。
2017年のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、片岡愛
之助が演じていた時は、突然うめいて腕をおさえるよ
うな演技をしていた。
これは既に神経が侵されていた段階である。この後、
指が曲がるなどの症状が出る。目は角膜がやられ、や
がて失明する。
大谷吉継は、関ケ原の合戦の頃には両目とも見えなく
なっていたのではないかと言われている。
最もひどい症状になるのは皮膚で、アトピー性皮膚炎
のもっとすごい感じで、皮膚がボロボロとただれ、鼻
や耳など突起物は崩れてしまうことがある。
ハンセン病が人を怖がらせるのはこの顔がぼろぼろに
なってしまう見てくれの恐ろしさにある。
大谷吉継を描いた絵も頭巾をかぶり、口元を覆ったも
のが多い。 -
病状が進行すると恐ろしい症状になるハンセン病だが、
感染力は非常に弱く、普通の衛生状態ならまず感染す
ることはない。この全生園においても、職員が感染し
た事例は皆無だそうだ。
この多摩全生園が設立されたのは、1907年。日露戦争
直後である。
園長に就任したのは、光田健輔という人物。
ネットでこの名前を検索すると、「ハンセン病患者に
寄り添い、生涯をハンセン病治療にささげた」などと
まるで聖人君主のような扱いである。
しかし、実際は隔離、断種、不妊手術といった非人道
的な手法で、ハンセン病者を一般社会から消し去り、
らい予防法を戦後もかたくなに固持し続けた人物である。
時代はすでに、ハンセン病は治療可能で、遺伝病では
なく、感染力が極めて弱い病気であることが定説とな
っていたにもかかわらずである。 -
1943年には、予防薬のフロミンが日本にも入って来たこ
とで、ハンセン病は完治できる病となっていた。しかし、
光田健輔は、悪名高き「らい予防法」の制定を先頭で推
し進め、1953年に法制化にこぎつけた。
時代がどう変わろうとも、彼にとって絶対隔離が必須の
危険な病人だったのである。
「手錠着けてでも隔離すべき」
「軽快者とて社会に出してはならない」
これが「救癩の父」と呼ばれ、文化勲章まで受けた人物
の言葉である。
こうした発言には、医学的根拠よりも、ハンセン病者に
対する感情的憎悪が優先していたのではないかと思えて
くる。 -
ハンセン病者が「浮浪らい」と呼ばれ、故郷を離れ、寺
社周辺で物乞いをする姿や、粗末な小屋に他の病人とと
もに収容され、これに対し、国家が救いの手を指し伸ば
そうとはしなかったことに対して義憤を抱き、ハンセン
病治療の世界へ飛び込んだ頃の精神とはかけ離れた言動
である。
今となってはいささか古臭く感じるヒューマニズム
を胸に抱えていた光田が、なぜ医学的根拠のない絶
対隔離の道を突き進んだのか。 -
現在言われているのは、戦後に結成された全癩患協
が主導する自治運動に対する敵愾心があったのだろ
うということだ。
戦後、各地の隔離施設では入所者による自治会運動
が活発になった。
らい予防法には懲戒規定も明文化されており、逃亡
を図ったり、園内の規則を守らなかった場合、管理
者側が懲戒を与える権利があった。
園内には独房のような部屋もあったというから、ほ
とんど刑務所である。
このような厳しい管理体制に反発した患者たちは、
人権侵害の事実を暴露し、隔離撤廃を要求するよ
うになった。 -
患者たちの活動を支援したのが社会党と共産党である。
そして、園内には今も共産党議員のポスターが貼ら
れている。
光田健輔が徹底隔離に固執したのは、園内の自治活
動を支援する左翼に対する敵意も相当強かったから
ではないか。 -
戦後もハンセン病者の隔離も断種も続いた。
1948年に国民優性法に替わり、優生保護法が成立した。
ここにはハンセン病者とその配偶者に対する断種と
堕胎が明記された。
国会の議論においても、これに対する疑問の声は上
がらなかったという。
1956年、ハンセン病者への差別的な法律の撤廃を
宣言したローマ会議やWHOが1960年にハンセン
病者への差別的な法律の撤廃と外治療の実施を提
唱した。
それでもなぜか日本は「らい予防法」に固執し、
メディアもそれを支持した。
「らい予防法」が国際的に批判の的となっていても、
結局1996年の廃止まで続いた。
「らい予防法」や「優生保護法」は、「恥ずかしいも
のを見られたくない」「血統の維持」といった、家レ
ベルの情緒を国家のレベルで実施したようなものであ
った。 -
清瀬市側の出口を出たところに国立ハンセン病資料館
がある。
ハンセン病の医学的なことよりも全生園の歴史や人権
問題に展示物が費やされていた。 -
入口のベンチにいた老人はぼくが資料館に入って、
1時間後に出てきても同じ姿勢でここにいた。 -
ハンセン病者の親子像。かれらは「浮浪らい」と
呼ばれ、このような巡礼者の身なりで各地を転々
とし、神社仏閣周辺で物乞いをするしかなかった。
ほとんど「砂の器」の世界である。 -
ハンセン病と聴いて我々中高年が思い浮かべるのは
やはり、映画「砂の器」だろう。
白装束の巡礼者の服装の親子が風雨にさらされなが
ら海沿いを黙々と歩くシーンは、昭和生まれならば
誰もが知っているのではないか。
ぼくは、中学生の時に松本清張の原作を読んだ。分
厚いうえに活字2段組みの大長編は中学生の手に負
えるようなものではなかったが、何とか読み切った。 -
物語は、国電(現JR)蒲田駅の操車場で男性の死
体が発見されたところから始まる。
この事件を年配の刑事と若い刑事のコンビが地道に
捜査するのだが、映画では丹波哲郎と森田健作が演
じていた。
捜査の中で、ひとりの若い音楽家が浮上する。
演じていたのは昭和の超イケメン、加藤剛。
小説では現代音楽の作曲家だったが、映画ではクラシック
になっていた。
音楽家は大阪空襲で死亡した夫婦の戸籍に入り込んで「本
籍再生」し、一人息子に成りすました。
彼は苦学して京都の高校を卒業し、東京の芸術大学で教授
に才能を見出され、現代音楽家への道を歩み始めた。 -
では、殺害された男は誰だったのか。
男は島根県に駐在所の巡査で、短い期間ながら、
音楽家の養父だった。
合同捜査会議の場面で中年刑事は音楽家の幼い頃
の姿を見て来たように語る。
そこで彼の父がハンセン病者だったことが明かさ
れる。
父のハンセン病がもとで彼らは故郷を追われ、物
乞いをしながら日本海側の村を転々とし、島根県
の元巡査の村にたどり着いたのだった。
巡査は父親に療養所に入ることをすすめた。そし
て、息子はしばらく自分で育て、そのうちどこか
へ養子に出すつもりでいた。
しかし、彼はすぐに逃げ出して行方をくらませて
しまう。 -
音楽家として順風満帆の日々を送る彼の下へその元
巡査が訪ねてきた。
自分の過去が暴かれるのを恐れた音楽家は、短い期
間ながらも養父だった男を、顔が判別できないくら
いに殴りつけ、殺害してしまう。
原作では合同捜査会議で中年刑事が淡々と語るだけ
の場面を映画では、音楽家が作曲した交響曲「宿命」
をバックに、捜査会議の進行と過去の親子のシーン
が交互に続き、誰もが感嘆の声を上げそうな見事な
構成になっていた。
巡礼姿の老父と息子。白い波が立つ日本海沿いを歩
く二人。二人の声は流れず、荘重なピアノだけが響
く。日本各地の四季折々の美しい映像が画面一杯に
広がり、その中を行く不治の病を抱えた親と幼子。
「日本映画的な、あまりに日本映画的な!」と芥川
龍之介なら言いそうな場面である。
不治の病を患う家族との悲劇的な別れ、貧しい子ど
もの成功譚、生き別れとなった家族との再会。いず
れも日本の物語としては常道の手法である。 -
松本清張の原作では、ハンセン病に関しては、捜査会
議の席で、中年刑事の「彼はらい病だったのです」の
ひと言だけで、音楽家と父親、元巡査との関係も深く
描かれていなかった。
しかし、映画ではハンセン病の父と息子の関係を、
これでもかというほど前面に出し、いささか押しつ
けがましい涙涙のラストに作り込んだ。 -
この映画が上映された1974年の日本の他の代表作は、
「華麗なる一族」「サンダカン娼館 望郷」などだった。
つまり、そういう時代だったということだ。
大時代的な大作映画が受ける時代だったのである。
「砂の器」も不治の病を患った父親の存在、主人公
の成功と転落といった要素を打ち出す必要があった
のだ。
原作では音楽家は己の成功のためには周囲を顧みな
い傲慢なエゴイストで、素人にはちんぷんかんぷん
の現代音楽の成功者だった。しかし、映画では仰々
しいクラシックになっている。
「こうすれば客は喜ぶ」というコテコテの古典的手
法を盛り込んだのが「砂の器」だったのだ。
差別問題に直結し、松本清張が短く触れただけだ
ったハンセン病を前面に押し出したことに多少の
ためらいがあったのか、最後に次のような説明文
を付け加えている。 -
「ハンセン氏病は、医学の進歩で特効薬もあって
現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。
非科学的な偏見と差別のみで、本浦千代吉(音楽
家の実父)のような患者はもうどこにもいない。
しかし、旅の形はどのように変わっても、「宿命」
は永遠のものである」
日本語として変だし、何を言いたいのかよくわか
らないが、本来ならこのような「言い訳」を掲げ
ないで作品として成立させるべきなのだろう。
しかし、ハンセン病を生まれる前からすでに定ま
った運命としたドラマ作りは昭和40年代という時
代を考慮としても古いと言わざるを得ない。
しかし、ぼくを含め多くの日本人があのラスト
シーンを見て感動してしまうのも事実である。
「砂の器」が持つ日本的な感性や精神性を解体し
なければ形を変えたハンセン病者への差別に似た
ようなことは今後も発生するに違いない。
https://youtu.be/9axACQoRn0E -
清瀬側に出て清瀬方面を進むと救世軍の病院があった。
-
近所にはカソリック系の病院もある。
-
これは廃墟となった入院病棟のようだが、清瀬市には、
キリスト教系の病院が多い。
明治以降、ここにはハンセン病者だけでなく結核患者
を収容する病院もいくつかあった。
そのほとんどがキリスト教系の病院である。
結核患者やハンセン病者に向き合い、治療や支援を行
っていたのは、キリスト教の団体だったのである。
それは、15世紀にヨーロッパから宣教師たちが上陸
して以来連綿と続けられている慈善行為である。
清瀬市にこれらの病院が多いのは、この辺りは明治時
代は住む人もまばらな相当な田舎だったからだろう。 -
上に書いたように、は、プロミンという薬で完全に治る
ようになった。また、日本で発生する新規の患者は数人
程度。
らい予防法を廃止したこともあって、ここに新たに入居
する人はもういない。
現在の入居者もどんどんと高齢化が進んでいるはずである。
最後の一人がこの世を去るまでこの広大な施設は残され
るのだろうか。 -
らい予防法や優生保護法といった前近代的な法律がつい
最近まで廃止されなかったのはなぜなのか。
責任を法制化実現に固執し続けた光田健輔という人物ひ
とりに押し付けるのも筋違いのような気がする。
法制化とは国会で審議し、可決するのは我々有権者が一
票を投じた国会議員であるから、糸を手繰り寄せれば、
我々一人一人に行きつく。
ではなぜ我々はこのようなひどい法律に怒りを覚える
ようなことはなかったのだろう。
やはりそれは我々がこうした問題に無関心だったから
だと言わざるを得ない。
既往歴のある患者がこの世を去るのは約20年後と言わ
れている。
それと同時にハンセン病患者が強制隔離された記憶も
人々から消えていくのだろう。
そして、そのころ違う形の人権侵害に当たるような差
別が続いていることに誰もが無関心でいるのかもしれ
ない。
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