2019/04/23 - 2019/04/23
67位(同エリア631件中)
ベームさん
その2の続きです。
その2、その3共なんだか博物館の紹介になってしまいました。
飛鳥山公園の紙の博物館、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、七社神社、東京ゲーテ記念館、平塚神社と周り帰途に就きました。
写真は東京ゲーテ記念館の展示。
昭和44年、帝国劇場における公演。
ゲーテ「若きウェルテルの悲しみ」:ロッテ役の加茂さくらの舞台衣装。
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北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、七社神社、ゲーテ記念館、平塚神社を廻ります。
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紙の博物館の隣に北区飛鳥山博物館があります。
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平成10年、「紙の博物館」、「渋沢史料館」とともにオープン。
北区の歴史、自然、文化に関する郷土資料を蒐集・展示しています。
春季企画展としておあつらえ向きに「明治東京名所・うつろいゆく風景と名所」を開催していました。当館所蔵の石版画や名所案内などを展示しています。 -
展示物を紹介します。
「正倉(せいそう)」。
奈良時代今の北区一帯は武蔵国豊島郡に属し郡衙(ぐんが、役所)が置かれていました。郡司(役人)が農民に税金である米を倉に納める指示をしている。 -
縄文時代中期の土器。
北区中里貝塚出土。 -
西ヶ原貝塚剥ぎ取り標本。縄文時代後期。
武蔵丘陵のはずれに当たるこの地一帯には海が入りこんでいました。そこに西ヶ原貝塚とか中里貝塚が形成されました。
シジミが多く、ハマグリ、カキ、アマニシなども含まれる。 -
中里貝塚出土の貝層剥ぎ取り標本。縄文時代中期。
中里貝塚はいまの上中里から尾久辺りにあった日本最大の貝塚で、幅100m、長さ500m、厚さ4.5mもありました。ほとんどはカキとハマグリです。 -
丸木舟。縄文時代中期、約4700年前。
ムクノキの一木をくり抜いています。
全長5.8m、幅70㎝、深さ40㎝。 -
小学生の校外学習に格好の施設です。大勢の子供が訪れていました。
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壺型土器。弥生時代中期、飛鳥山遺跡出土。
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壺棺。弥生時代後期。
小さいので子供用か。 -
下駄。古墳時代前期、というと3世紀後半から4世紀頃か。
豊島馬場遺跡出土。
紐を通す穴が開いています。 -
横鍬。
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又鍬。
刃が5本ある。 -
源頼朝が1180年平氏打倒の兵を挙げた時、武蔵国豊島郡を本拠とする豊島氏は頼朝に味方し武蔵入国を助けました。
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豊島氏の滅亡。
1474年の山内上杉氏の内紛で一方の長尾景春についた豊島氏は平塚城に拠って上杉の家臣太田道灌と戦い破れ滅亡した。
後で行く上中里駅の傍、平塚神社のある処です。 -
地元の農産物。
滝野川人参、練馬大根、滝野川牛蒡(ごぼう)。
練馬大根以外は姿を消したようです。 -
北区はお金持ちなのか。
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地方自治体の博物館というものはあまり見学したことがありませんが、ここは施設といい展示物といい素晴らしいものです。
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志んけん工夫双六。1857(安政4年)年。
すごろく遊びで、江戸の名所を円形に配し、中央の隅田川の花火を「上がり」とする絵双六。「けん」は狐拳のこと。両側から中央の隅田川で出会った両者が狐拳で勝負した。
「王子」には王子稲荷神社が描かれています。 -
王子、上野、日本橋、隅田川、吉原、霞が関、湯島。
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同。明治中期。
安政のものを基に明治の風景に改めて作ったもの。「日本橋」には鉄道馬車、「御殿山」には台場など近代化が進む風景が描かれている。 -
芝浦、新富町、浅草、愛宕山、亀戸、梅屋敷、御殿山、王子。
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以下は企画展の展示物です。
東京名所一覧獨案内。明治初期、歌川国輝画。
中央に江戸城、右端に上野不忍池と東叡山、下に隅田川。 -
江戸、明治時代の東京の名所の版画が沢山展示されています。
東京名所「向島隅田堤」。
東京名所は明治31年に描かれた東京を代表する16カ所の名所を色鮮やかに描いた石版画集。版画家広瀬春孝作。
左上の丸の中は三囲神社。当時の一般庶民の服装が分かります。 -
上野公園/東照宮。
手前の紳士と淑女はモダーンな洋装です。 -
吉原大門(おおもん)。
大門には幾つか変遷がありますが、これは明治14年に作られた鉄製の門です。
大門は夜の10時には閉められました。 -
浅草公園之景/浅草寺。
雪景色です。 -
浅草公園凌雲閣。
通称一二階。明治23年建築の展望塔。レンガ造り、12階建て、高さ52mは当時日本一だった。エレベーターもあったという。
塔の下はいつのまにか銘酒屋街(私娼窟)と化した。安く遊べたため石川啄木などけっこう貧乏文士たちも通っており、文学作品に取り上げられている。
今の浅草2丁目13番から14番にかけて辺りです。 -
浅草仁王門/一二階(凌雲閣)。
一二階は大正12年の関東大震災で倒壊し以後再建されなかった。その時一二階下の多くの銘酒屋が移転して行った先が今の東向島の玉の井遊郭です。玉の井は震災のおかげで大発展したのです。 -
浅草公園凌雲閣登覧寿語六。四世歌川国政作。
寿語六/すごろくになっています。
江戸東京博物館蔵。 -
王子飛鳥山ヨリ製糸会社ノ真景。明治26年。
王子製紙の工場が描かれています。飛鳥山では花見の際歌ったり踊ったり仮装が許可されていました。それでこんな光景が見られたのでしょう。褌姿で踊る男と芸者、今では考えられないことです。
踊り天狗、唄天狗が昂じて風紀を乱すようになり、一時警視庁が禁止しましたが、庶民の楽しみを抑えられるものではなく、うやむやになったそうです。 -
古今東京名所「飛鳥山公園地/王子製紙会社」。明治16年。
製紙工場も名所の一つでした。
なにせ江戸から明治にかけて東京人の3大遊楽は、1に花見、2に演劇、3が相撲といわれ、花見の為に庶民は1年間労苦を忍のび、花見に出かける衣装や酒がなければ女房を質に入れ娘を女郎屋に売ってでも金を作った、なんて話もあります。 -
東京名所鑑「王子飛鳥山乃図」。明治23年。
ここでも仮装して踊ったり跳ねたりしています。 -
王子区飛鳥山公園。昭和9年。
とんびを着てソフトを被った旦那と三味線を弾くお師匠さんか。緋毛氈の上にはビールとコップ。隣は子供と家族連れか。のんびりした風景です。
さすがに昭和になると裸踊りやどんちゃん騒ぎはないようです。 -
武蔵百景乃内「王子瀧の川」。明治17年、小林清親。
滝野川渓谷も昔はこんな風景だったのですね。 -
「田端の春色」 新選東京近郊名所図会。明治43年。
明治43年といえば田端に陶芸家など芸術家が集まって来た頃です。そこら辺りのことは旅行記:東京文学歴史散歩23・24田端文士村を歩く、で取り上げています。 -
北区出身の洋画家、大野五郎の作品展が催されていました。
1901~2006年。東京府北豊島郡岩淵町(今の北区岩淵町)生まれ。
藤島武二門下。 -
長江をゆく。
私は全く知らなかった画家ですが分かりやすい絵で親しみが持てました。 -
裸婦。
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大野寺の石仏。
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六月の多摩風景。
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風景ひらかれた土。
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真夏の築港。
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真夏の午後。
もっと時間をかけてじっくり見たい博物館ですが、今日の目的は博物館見学ではないので先へ急ぎました。 -
北村西望作「平和の女神像」。1974年。
長崎の「平和祈念像」の作者です。 -
渋沢史料館辺り。
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渋沢史料館です。
紙の博物館、北区飛鳥山博物館と渋沢史料館は並んでいます。 -
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として1982年(昭和57年)開館。
かっての渋沢邸のあった所で、財団法人渋沢栄一記念財団の運営。 -
渋沢栄一については目下時の人なのでいまさらですが、
1840年、深谷の豪農の家に生まれる。尊皇攘夷思想に傾倒し幕臣となる。
1867年パリ万博に幕府使節の一員として渡仏、ヨーロッパ文明に触れる。帰国後大蔵官僚となる。退官後実業界に転じ第一銀行をはじめ500社に上る会社を設立し、日本資本主義の父と言われる。1931年(昭和6年)死去。
中は撮影禁止なので写真はありません。係員に訊くと来館者が増えたそうです。 -
飛鳥山公園の四分の一ほどを占める一帯は渋沢栄一の邸宅があり、日本館、西洋館、茶室、文庫などがありました。殆どは戦災で焼失し今残るのは青淵文庫と晩香廬(ばんこうろ)だけです。
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晩香廬。
1917年、栄一の喜寿を祝って清水組(今の清水建設)より贈られた洋風茶室。
栄一はこれを賓客を迎えるレセプションルームとして使ったそうです。
青淵文庫と共に重文。 -
青淵文庫。
1925年、栄一の傘寿(80歳)の祝いに竜門社(渋沢栄一に共鳴し慕う経済人たちの組織、現渋沢栄一記念財団)が贈ったもの。
渋沢栄一の所蔵する書籍の文庫です。
青淵(せいえん)は栄一の雅号。 -
外壁。
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閲覧室。
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この部屋のみ撮影可でした。
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ステンドグラスの拡大。
渋沢家の家紋だそうです。 -
渋沢栄一筆。
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大正ムードが感じられる部屋。
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シャンデリア。
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透かしの唐草模様が優雅ですね。
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当時の椅子とテーブル。
腰板にある白枠の部分は電気ストーブです。中にヒーターと蒸発皿がありスチームの役割も果たしています。 -
周りは旧渋沢庭園となっています。
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飛鳥山公園から本郷通りに出ました。
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国指定史跡「西ヶ原一里塚」趾です。
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1604年幕府は日本橋を起点として主要街道に一里塚を置きました。
西ヶ原一里塚は日光御成道の本郷追分の次、2番目の一里塚です。 -
一里塚の向かい、本郷通り脇、七社神社の鳥居の横に大きな榎の木があります。
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もと一里塚の所あった二本の榎の大木で、夏など旅人の憩いの場となっていました。当時の木は枯れてしまい、いまのは植え替えられたものです。
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鳥居をくぐり進むと七社(ななしゃ)神社があります。
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1793年の火災で社殿の記録が失われ由緒は不明ですが、「新編武蔵風土記」に「村ノ鎮守トス・・・」と書かれており、西ヶ原の総鎮守として奉祀されました。
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手水舎。
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拝殿。
イザナミノミコト、イザナギノミコト、応神天皇など七つの神を祀っているので七社神社という。 -
子供を抱えた狛犬/子守犬で子宝、安産、家庭円満の御利益があるとされます。
神社の境内付近は「七社神社裏貝塚」の跡があり、縄文土器、弥生土器が発掘されています。 -
八重桜が咲いています。
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七社神社の絵馬には八重桜です。
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境内に立つ大きな公孫樹。
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願掛けの公孫樹です。
周りの柵には絵馬がずらり。 -
夫婦円満
○○が公務員試験に合格しますように -
神楽殿。
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摂社天祖神社/一本杉神明宮。
この地はかって神明宮の社地でした。神木が樹齢一千年を超える杉の大木だった所から一本杉神明宮と呼ばれました。
明治初年にこの地に七社神社が移って来たので、神明宮は七社神社の摂社となり天祖神社と呼ばれるようになりました。 -
杉の木は枯れたため明治44年に伐採されました。これはその切り株です。
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稲荷神社。
末社には稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峰神社があります。 -
菅原神社。
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歯固め石は当社で初宮詣の記念品として授与している。生後100日目に行う「お食い初め」のとき使う。
お食い初めとは、「一生涯食べることに困らないように」、「丈夫な歯が生えてくるように」と願う平安時代からの家庭行事です。 -
使った石はここに納めます。
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一里塚の所で本郷通りを渡り奥にしばらく行くと東京ゲーテ記念館があります。西ヶ原2-30-1。
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財団法人東京ゲーテ記念館。
1949年、実業家の粉川忠氏がゲーテ生誕200年を記念し設立。ゲーテに関する資料や情報を提供する非営利の私設機関です。パンフレットより。 -
エントランス。
今4時過ぎ。4時半閉館ですが入れてくれました。
ドイツで発行された著作集の全集の他、日本における初訳本、研究書、インターネットデータ等を整理収蔵しています。 -
展示室。
居るのは私一人。 -
1969年(昭和44)、帝国劇場で上演されたゲーテの「若きウェルテルの悲しみ」の公演関係資料が展示されていました。
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毎年テーマを決めて企画展示をしています。
例えば今までに:
ゲーテと自然科学、ファウスト展、ゲーテの旅、ゲーテと音楽など。 -
その時のポスター。
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ウェルテル:石坂浩二。
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シャルロッテ・ブフ:那智わたる。
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シャルロッテ・ブフ:加茂さくら。
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シャルロッテ・ブフ:淀かほる。
いずれも宝塚スターですね。トリプルキャストというのでしょうか。 -
歌劇にもなっています。
マスネ作曲「ウェルテル」。
2002年2月、新国立劇場公演。五十嵐喜芳芸術監督。東京交響楽団。
ウェルテル:ジュゼッペ・サバティーニ。
シャルロット:アンナ・カテリーナ・アントナッチ。 -
マスネー歌劇「ウェルテル」。
1999年10月、練馬文化センター。 -
以下展示品。
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各国語に翻訳されている「若きヴェルテルの悩み」。
スペイン語? -
韓国語。
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中国語。
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日本語訳も沢山あります。日本語に翻訳された外国文学では最多ではないでしょうか。
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久保天髄訳。1904(明治37)年。
完訳として本邦初訳です。
金港堂は当時の大出版社。教科書出版がスタートで、文学方面に進出。硯友社の山田美妙を引き抜き文芸誌「都の花」、美妙の「夏木立」、二葉亭四迷の「浮雲」などを出版、明治20~30年代の最大の出版社だった。 -
秦豊吉訳。1917年。
秦豊吉:三菱に務める傍らドイツ文学の翻訳を手掛ける。翻訳にゲーテの「ファウスト」、レマルクの「西部戦線異状なし」、シラーの「ウイリアムテル」、「群盗」ほか。
東京宝塚劇場に関与し日劇ダンシングチームを育てる。1950年帝国劇場社長。
昭和44年の帝劇公演で秦豊吉訳を使っている理由が分かりました。 -
秋山六郎兵衛訳。1950年。
馴染みのない古めかしい名前ですが調べてみるとなかなかの人物でした。
1900年生まれ、一高、東大独文科卒。九州大学、中央、学習院大学教授。ヘルマン・ヘッセ研究者。
私はヘッセが好きですが秋山氏の翻訳書は読んだことがありません。 -
実吉捷郎訳。1955年。
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高橋健二訳。1957年。
高橋義孝訳。 -
竹山道雄訳。1951年。私の愛読する翻訳です。
若きウェルテルの悲しみ/悩み/愁い、若きヴェルテルの悲しみ/悩み、若きエルテル/ヱルテルの悲しみ、エに濁点など、色々あります。最近では「若きウェルテルの悩み」が一般的のようです。 -
ゲーテの手稿「ファウスト」。
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友人への手紙。1831年。
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ゲーテの華麗なる女性遍歴。
ゲーテは生涯10人以上の女性に恋をしただ一度の結婚をしています。
子供時代、フランクフルトの娘ケートヒェン。ライプチヒの学生時代、酒場(アウアーバッハスケラー?)の娘アンナ・カタリーナ・シェーンコプフから、74歳の時の17歳のウルリケ・フォン・レヴェツォーへの求婚まで。 -
クリスティアーネ・ヴルピウス。
ゲーテ唯一の正妻。
ゲーテ39歳のとき同棲を始め、50歳を過ぎてから正式に結婚しました。ヴァイマール公国の枢密顧問官と貧しい平民の娘の組合わせに世間は沸きました。
ゲーテとプラトニックな恋愛関係にあったシュタイン夫人はこのことでゲーテとの交際を絶ちます。 -
リリー・シェーネマン。
フランクフルトの銀行家の娘。婚約まで交わしたが両家の宗教観の相違で婚約解消。ゲーテがカール・アウグストの招きを受けヴァイマールに赴いたのもこのことが原因だったとも。
ゲーテは晩年になってもリリーを偲んでおり、「リリーを愛していた頃ほど本当の幸福に近づいたことはなかった」と述べている。 -
シャルロッテ・フォン・シュタイン/シュタイン夫人。
ヴァイマール公国の高級官僚の妻。ゲーテより7歳年上。気位高く才媛だった。ゲーテに大きな影響を与えた。お互い深く理解、尊敬しあい、ゲーテからは1000通に及ぶ手紙が寄せられている。
ゲーテとヴルピウスの関係を知り、ゲーテとの交際を絶ち、手紙はすべて焼き捨てたという。ヴァイマールにはシュタイン夫人の住んでいた館が残っています。 -
シャルロッテ・ブフ。
ゲーテが司法官見習いで赴任していたヴェツラーの官僚の娘。ゲーテは彼女に恋するが既にシャルロッテはゲーテの知人の許婚だった。ゲーテは傷心のうちヴェツラーを去る。
この時の一連の出来事をモチーフにして出来たのが後の「若きヴェルテルの悩み」。作中のロッテのモデル。 -
マクシミリアーネ・フォン・ラ・ロシュ。
閨秀作家ゾフィー・ラ・ロシュの娘。ゲーテとマクシミリアーネは愛し合うが、母ゾフィーは彼女をフランクフルトの豪商ブレンターノに嫁がせてしまう。
ブレンターノとマクシミリアーネの間に生まれたのがドイツロマン主義の最高峰詩人のクレメンス・ブレンターノとベッティーナ・ブレンターノ兄妹。 -
ゲーテは多彩な活動をしています。
政治家にして官僚。 -
文学者にして科学者。
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評論家にして演劇家。
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ゲーテ記念館の向かいにポケット・パーク/ゲーテ・パークがあります。
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ゲーテ記念館前ポケットパーク。
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ティッシュバイン作「カンパーニャのゲーテ」のレリーフ。
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上中里駅に向かうべく本郷通りに戻りました。
滝野川警察署です。 -
一里塚、七社神社の鳥居と滝野川警察。
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隣りに国立印刷局東京工場。
全国に6つの工場があり、ここでは日本銀行券(お札)、収入印紙、国の予算・決算書などを印刷しています。
独立行政法人で、職員の身分は国家公務員。こんなとこに就職しておとなしくしていたら一生気楽なものでしょう、どうやって就職できるのかな。 -
同。
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地下鉄南北線西ヶ原駅。
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その隣にある花と緑の東京病院。
1936年に国立印刷局東京病院として設立。2013年日本医科大学関連の花と緑の東京病院に委譲された。 -
さらにその隣に「東京高等蚕糸学校発祥之地」の碑。
今の東京農工大学の前身。
明治19年の農商務省蚕病試験場としてスタート。
大正3年東京高等蚕糸学校。
昭和24年東京農林学校と合併し、東京農工大学。 -
さらにその隣に滝野川公園。
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北区防災センター。
公園には応急給水槽、災害備蓄倉庫、地震の科学館などがあり北区の防災拠点となっています。 -
池。
水は張ってなかったです。 -
滝野川体育館。
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公園管理事務所の横に碑があります。
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農業技術研究発祥之地の碑です。
大正5年、宮沢賢治が最初の上京の折、恩師の関豊太郎を訪ねたのがここでした。 -
明治26年、この地に農商務省農事試験場として開設。
昭和25年、農業技術研究所と改称。
昭和55年、筑波研究学園都市に移転、西ヶ原での幕を閉じる。
常に近代農業を先導し、我が国における農業の発展に寄与してきた。 -
公園の横にある平塚神社に来ました。
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平安時代後期、源義家/八幡太郎義家奥州征伐(後三年の役、1083~1087年)凱旋の途次この地により、領主の豊島氏に鎧一式を与えた。豊島氏はこれを埋めて塚(平らな塚、平塚)を築き神社を建てたのが始まり。
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祭神は源義家、弟の加茂次郎義綱、息子の新羅(しんら)三郎義光。
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ちょっと変わった狛犬です。
ご利益は、病気平癒、家内安全、立身出世、商売繁盛、旅行安全、武芸上達、心願成就、その他。
その他、とあるからには何にでもご利益があるのでしょう。便利な神様です。 -
豊島氏は15世紀後半、上杉家の内紛に関与し兵を挙げたが、上杉家の家臣太田道灌に滅ぼされました。
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平塚神社から上中里駅はすぐ。
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京浜東北線で座れたので乗り換えなしで横浜まで帰りました。
渋沢資料館あたりで足が攣りかけましたが軽くて済みました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2019/05/09 22:29:23
- ベームさんの『春』の到来!
- ベームさんこんばんは。
やっと花粉に悩まされない「ベームさんの春」の到来ですね。
待ってました!と言わんばかりの精力的な文学散策。
私にはあまり馴染みのない北区ですが、いろんな博物館があるのですね。
表紙の写真を見て、ベームさん、宝塚にご興味がおありなのかしら(後からあれは帝劇だとわかりましたが)と思いましたら、東京ゲーテ記念館って!?。青山のドイツ語学校が北区にもあるのかしらと思いました。
ベームさんのご説明でゲーテの女性遍歴がよーくわかりました。知っている女性の名前も出てきて興味深かったです。
やはりベームさんの旅行記、奥が深いです。
3篇とも大変楽しませていただきました。
次はどちらに足を向けられるのでしょうか?
himmel
- ベームさん からの返信 2019/05/10 10:26:39
- Re: ベームさんの『春』の到来!
- himmelさん、
お早うございます、という時間でもないですが。
お寄り頂き有難うございます。
ようやくの春ですが、だんだん行くところが無くなってきました。史跡がある程度集まっていないと効率が悪くなってしまいます。北区は地味ですが調べると意外に歴史がありますね、見どころが少ないなんて言って北区にお住まいの方にお詫びいたします。
何年か前ドイツへ行ったとき、ゲーテを巡る女性/Frauen um Goetheという本を買いました。勿論拾い読みしかしていません。たしかにゲーテは超有名人だったでしょう。でも74歳で17歳の少女に求婚するなんてよっぽどの自信家だったのでしょう。ゲーテにとって恋は至上で年齢なんて関係なかったのでしょうね。
最近「太平記」を抜粋ですが読み直し、近辺でゆかりの地がないか調べています。himmelさんは今年もドイツへ行かれるのですね、羨ましいです。
ベーム
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