2019/03/11 - 2019/03/11
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アルプ・グリュムさん
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江戸城の赤坂御門から、青山、二子、溝口、厚木、伊勢原を通り、大山(神奈川県)山頂に向かう道。現在の国道246号にほぼ相当する道です。
今回は二子新地駅から溝の口駅間の大山街道を散策しました。
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- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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散策のスタートは二子新地駅から始めます。
二子新地駅は大井町線の駅だと思っていましたが田園都市線の駅となっていました。
大井町線にはプラットホームがないのです。二子新地駅 駅
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二子新地駅には川崎歴史ガイド 大山街道ルート案内図が掲示されてあります。
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多摩川の二子橋
鉄道と道路の橋が異常に接近している理由は以前の二子橋は鉄道と道路の併用橋だったのです。
道路の中心に大井町線が単線で走っていたのでその名残です。 -
二子橋から大山街道を見ています、
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田園都市線と大井町線の鉄橋
二子玉川駅のプラットホームは多摩川の河川の上まで伸びていますが大井町線がすぐにカーブして方向が変わるために苦肉の策なのです。 -
旧二子橋の親柱と右に二子の渡しの案内板
何某政党のポスターが目障りです。 -
二子の渡し
ニ子橋の完成は大正十四年。それまで、街道を行く人々はここニ子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑わった。 -
旧大山街道二子の渡し入口
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旧大山街道二子の渡し入口の案内板の左には細い路地がありますがこの道が本来の大山街道の道です。
地図を見ると大山街道は二子橋側に曲がっていますが、本来は真っすぐは多摩川へ伸びていたのです。 -
多摩川沿いに少し歩くと岡本かの子文学碑が見られます。
「かの子碑」は、岡本太郎の作。母を思い「誇り」と題している。岡本かの子文学碑 名所・史跡
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岡本かの子文学碑
この碑は地元有志の発意により前衛的な画家・彫刻家の岡本太郎、建築家の丹下健三等の協力を得て昭和37年(1962)11月に建てられたもので、岡本太郎がモニュメントを製作し、丹下健三が台座と築山を設計しました。この碑は岡本太郎が、父、岡本一平と母、かの子がこよなく愛したこの地、ニ子の多摩川のほとりを懐かしみ、本人が「誇り」と命名しました。
また、岡本かの子の業績を讃える文芸評論家・思想家の亀井勝一郎の文を、小説家、川端康成の直筆によって刻んだ碑が「誇り」の横にあります。 -
岡本かの子文学碑
岡本かの子は明治二十二年三月一日誕生し多摩河畔ニ子の郷家にて生長せり祖先代々武蔵相模に栄えし旧家の血筋と多摩川の清流とはかの子の生命に深く愛染し作品のうちに多様なるすがたをもって表現されたりかの子は若くして和歌を学び長じて佛道を修めあるひは東西の藝文にひろく接して昭和十四年二月十八日眠去の日まで華麗なるいのちを燃えあがらせつつ幽玄にしてまた絢爛たる文学の道を辿れりここに川崎市有志ならびに友人知己その業績を讃え故人をしのびてかの子文学碑を建立す -
岡本かの子文学碑
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岡本かの子文学碑は二子神社境内にあります。
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二子神社の狛犬
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二子神社の狛犬の銘版を見ると大貫の名がずらりと並んでいますが岡本かの子の実家なのです。
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二子神社の鳥居の左右には碑が設置されています。
左にニ子神社とかの子碑、右に大山燈籠 -
大山燈籠
大山は神奈川県中央部にある山岳で標高一、ニ四六メートル、年間降雨量が多く雨降山の別名がある。
山頂に阿夫利神社があり、山腹に不動尊で有名な大山寺がある。両者を総称して一般に大山様と呼ばれ、古くから農業、商売繁盛、技能芸能の神仏として農工商の庶民に厚く信仰された。
阿夫利神社の神官や大山寺の社僧を「御師」といった、御師は関東一円に特定の受持ち区域を持ち常々村々を巡回し大山信仰の布教と大山講の組織作りにつとめた。
大山信仰がさかんになったのは江戸文化が発達した中期頃からで、江戸市民は多くの大山講を組織して集団で登山参拝した。
落語の題材にもなっているように、江戸から大山街道を通り伊勢原に至り大山登山参拝後は一路平塚に出て、江ノ島・鎌倉・藤沢等の名所旧跡を見物し神奈川より舟で品川に渡り江戸に帰る行程は、江戸市民が大山詣を兼ねた、三、四泊の観光慰安旅行であった。
往来する大山詣での鈴の音は夜の大山街道に遠くからひびき、ニ子宿や溝口宿は大山詣の御客でにぎわった。
古くから阿夫利神社は農業の神として信仰され、特に日照りが続くと大山様に雨乞いすればかならず雨が降ると信じられた、事実雨乞いをすれば不思議と雨が降った、このため各村々には早くから大山講が組織され信者は毎年七月二十六日の山開きには村内一定の場所に大山燈籠を建て八月二十七日まで、連夜にかかさず灯明をつけた。
大山街道沿いに立つ大山燈籠は夜間通過する大山講中の道標ともなった。
この燈籠は当時の夏の風物詩であった、旧高津村がニ子神社前に建てた実物です。総桧造りで大正末期に再築されたもので電球で灯明した、その昔はニ子の渡場に建てられ油、ローソクで灯明されていた。 -
境内のわきにある「かの子碑」は、岡本太郎の作。母を思い「誇り」と題している。昭和三十七年秋完成。現実的なこの抽象彫刻と隣り合うニ子神社の創建は古く。優に二百年をこえる。
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大山街道へ戻ると道路の電柱には大山街道
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二子二丁目公園には大貫家の人々の碑があります。
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大貫家の人々
大貫家は岡本かの子の生家。若くして逝った兄・雪之助は藤村門下で、谷崎潤一郎とも親交が深かった。かの子は、のちに漫画家岡本一平と結婚。岡本太郎は、その長男である。 -
大貫家の人々碑の後ろ側には敷石が
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敷石の前にある案内板
大山街道沿いのこの地域はかつての宿場でありました。
この石は古い町並みとしてあった建物の敷石としとして実際に使われていたものです。 -
これがその敷石です。
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光明寺
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光明寺とニ子学舎
浄土真宗光明寺。江戸初期にニ子塚から移された。農民たちも一緒に移住し、ニ子村を形づくっていく。
明治七~九年、本堂には「ニ子学舎」が置かれ、近代小学教育の場となった。 -
光明寺には大貫雪乃助の墓
大貫雪之助(晶川)は、明治20年(1887)2月22日橘樹郡高津村ニ子(当光明寺前が元大貫家)の大貫寅吉の次男として生まれました。
第一高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新思想」が主宰する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(21912)11月2日丹毒の病で急逝しました。
当光明寺境内の大貫家墓地にその墓碑があります。 -
飯島商店
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飯島商店の店の前には大釜が
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飯島商店の大釜
口上
この釜こそは、あのNHKテレビ大河ドラマ「黄金の日々」に出演した根津甚八ふんする石河五右衛門を釜ゆでにした代物である。
提供 (株)飯島商店 -
大山街道活性化推進協議会
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文教大学附属幼稚園、小学校跡地の公園
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公園内には国木田独歩の文学碑
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国木田独歩碑
明治30年(1897)みぞれまじりの春に、国木田独歩が溝口を訪ねたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。このことは独歩の作品「忘れ得ぬ人々」のモデルとなり、この作品によって明治文壇に不動の地位を築きました。
独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志しなかばで世を去りました。彼の俳友達が意思を継ぎ、独歩27回忌を記念し、昭和9年(1934)夏、亀屋の前に碑を建てました。
題字は島崎藤村が書いたものです。 -
国木田独歩の碑
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同じ公園にはに文教大学附属幼稚園、小学校跡を示す碑があります。
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文教大学附属幼稚園、小学校跡の碑
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タナカヤ呉服店
シャッターが閉じられているのがとても残念です。 -
タナカヤ呉服店
歴史を感じられ、川崎市の案内板も設置されてあるのでこのまま残されるのだと思います。 -
蔵造りの店
重い瓦屋根と土の壁、母屋との境は厚い土戸。二階には頑丈な格子窓。防火、防犯などの蔵の特徴を生かした重厚な店構え。田中呉服店は、明治に建築された代表的な蔵造りの店である -
タナカヤ呉服店の隣には写真のたなかやがあり大山街道の垂れ幕が
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高津交差点
この辺りが宿場の中心だったのです。 -
川崎信用金庫には大きな大山街道を示しています。
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大山街道
武士らしき人物が納太刀を振り上げています。 -
田中屋
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田中屋
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田中屋
江戸時代からのはかり屋
歴史を感じます。 -
大山小径
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大山小径
タイルには大山街道の各地域の絵が見られます。 -
灰吹屋の薬局はすでに取り壊されていました。
灰吹屋の蔵は養生シートで囲まれていますが取り壊されてしまうのでしょうか? -
灰吹屋
川崎市の歴史ガイドが設置されてあれば保存されると思いますが見当たりません。
壊すのは一晩あれば可能ですが? -
灰吹屋
灰吹屋薬局は江戸時代に鈴木仁兵衛が創業し、街道で唯一の薬屋として繁盛していた。店の隣には蔵がある。 -
大山街道ふるさと館
大山街道ふるさと館 名所・史跡
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大山街道ふるさと館
無料で展示物を見られますがあまり大山街道に関するものはありませんでした。 -
大山街道ふるさと館横には陶芸家濱田庄司 ゆかりの家
濱田庄司は第1回人間国宝で、溝口に生まれ、幼少の一時期を祖父の家であったここ大和屋で暮らした。庄司は栃木県益子で制作し、民芸品としての益子焼に高い芸術性を与えた。お墓は宗隆寺にある。 -
大石橋の横には溝口・二子の問屋跡
丸屋・鈴木七右衛門は、溝口・二子宿の問屋役(人馬の継立などの事務を行った)として宿駅を取り仕切った。本業は卸問屋で秦野の煙草や厚木の麦などを扱った。 -
大石橋
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大石橋
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二ヶ領用水と大石橋
徳川家康の命を受け、代官小泉次太夫は、十四年に及ぶ難事業を完成。用水は、川崎のほぼ全域にあたる稲毛・川崎の二ヶ領を潤した。その本流は、ここ大石橋で大山街道と交わる。 -
溝口神社
溝口神社 寺・神社・教会
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溝口神社
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溝口神社と簡易水道
この辺りは飲み水に不自由し、参道脇の水神宮や水道組合碑から当時の苦労がしのばれる。また勝海舟の大のぼりは、明治9年(1876年)、自筆によるもので今は珍しい“杜宝”となっている。正月3が日間に見ることができる。 -
宗隆寺
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宗隆寺
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宗隆寺
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宗隆寺
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さかえ橋の親柱石
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さかえ橋の親柱石
この角型で細長い石造物は欄干の親柱で、橋の名は字の通り「さかえはし」。
その名は平瀬川と根方掘(二ヶ領用水)が交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中盤にかけ、このあたりに馬上からの検見(見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とも呼ばれてきた。
また、明治二十一年の溝口村の「地誌」には「栄橋」とある。これは溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して命名されたものであろう。その地誌には
栄橋 所在 字南耕地 幅 巾弐間
長 長四間 構造 木造
雑項 本橋ハ矢倉沢往還ニ属シ橘樹郡菅生村字長沢ヨリ発源ノ谷川ニ架設ス
とある。橋は、長さ四間(約七・二m)・幅二間(三・六m)の「木橋」であったので、この親柱が建った「石橋」は、それ以降に架けられたことになろう。
このたび溝口駅北口再開発事業の工事にともない、さかえ橋の親柱石の一本が掘り出されたので、それをここに保存・展示し、地域に伝わる貴重な歴史を後世に伝承することにした。 -
南武線の踏切を越えます。
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濱口庄司生誕の地
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濱口庄司生誕の地
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濱口庄司生誕の地
第一回人間国宝・文化勲章受章者 濱田庄司は、ここで生まれました。
父の家は溝口の和菓子「大和屋」です。
「陶芸こそ人の役に立つ」とのルノワールの言葉で陶芸作家板谷波山が教える東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に進み、卒後は京都市窯業試験場で釉薬調合の実験に従事しました。
河井寛次郎や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチと意気投合し、帰国するリーチと共に英国セントアイブスに窯を構え、最先端の芸術運動に触れました。帰国後、栃木県益子で陶作に励み、世界各地の民芸品を収集し「益子参考館」に展示しました。
夏は益子、冬は沖縄で作陶し、昭和53年1月5日益子にて84年の生涯を終えました。菩提寺の溝口宗隆寺で本葬され眠っています。碑意は「陶匠は跡を留めず」 -
唐申塔と大山道標
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唐申塔と大山道標
通称片町の十字路に山角柱形の道標をかねた庚申塔がある。青面金剛が邪鬼を踏んで立ち、下に見ざる言わざる聞かざるの三猿が刻まれている。庚申待ちは、庚申の夜に眠ると人の体にいる三戸が抜け出して、罪を天帝に告げるといわれ、世間ばなしや村の決めごとなどをして徹夜する俗習。 -
庚申塔と大山道標と濱口庄司生誕の地はすぐ横に設置されています。
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田園都市線溝の口駅で大山街道の散策は終了します。
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