ミナミ(難波・天王寺)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東京「上野の森美術館」では68万人を動員したという脅威の祭典「フェルメール展」が大阪にも巡回してまいりました。大阪では2019年2月16日から5月12日まで開催されます。<br />17世紀のオランダ絵画の黄金期を代表する寡作の画家として知られるヨハネス・フェルメールは、43歳という若さで亡くなったため現存する作品が35点しかなく、その希少性から世界屈指の人気を誇る画家です。独裁者ヒトラーもフェルメールに魅せられ、『画家の寓意』や『天文学者』、『姦通の女』を所有していました。しかし、14億円もの大金を払って手にした『姦通の女』は、世紀の贋作でした。偽物を描いた男は、ナチスを騙した男として英雄扱いされたほどです。<br />初来日の『取り持ち女』や、かつて盗難事件に遭った大阪展限定公開の『恋文』など6点が集結し、西日本では最大規模のフェルメール展です。会場にはフェルメールの作品を集めたフェルメール・ルームが3部屋あり、広い部屋で作品を堪能できます。<br />精密な描写力や素材感、「フェルメール・ブルー」とも称されるラピスラズリの青色をはじめとする美しい色彩が魅力ですが、絵画のモチーフが持つ象徴的意義、絵画に込められたメッセージ性も観る人を魅了してやまない理由のひとつです。<br />また、ハブリエル・メツー、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーンなどオランダ絵画の傑作39点が展示されています。

早春賦 大阪 天王寺逍遥<後編>大阪市立美術館・通天閣

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2019/03/12 - 2019/03/12

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

東京「上野の森美術館」では68万人を動員したという脅威の祭典「フェルメール展」が大阪にも巡回してまいりました。大阪では2019年2月16日から5月12日まで開催されます。
17世紀のオランダ絵画の黄金期を代表する寡作の画家として知られるヨハネス・フェルメールは、43歳という若さで亡くなったため現存する作品が35点しかなく、その希少性から世界屈指の人気を誇る画家です。独裁者ヒトラーもフェルメールに魅せられ、『画家の寓意』や『天文学者』、『姦通の女』を所有していました。しかし、14億円もの大金を払って手にした『姦通の女』は、世紀の贋作でした。偽物を描いた男は、ナチスを騙した男として英雄扱いされたほどです。
初来日の『取り持ち女』や、かつて盗難事件に遭った大阪展限定公開の『恋文』など6点が集結し、西日本では最大規模のフェルメール展です。会場にはフェルメールの作品を集めたフェルメール・ルームが3部屋あり、広い部屋で作品を堪能できます。
精密な描写力や素材感、「フェルメール・ブルー」とも称されるラピスラズリの青色をはじめとする美しい色彩が魅力ですが、絵画のモチーフが持つ象徴的意義、絵画に込められたメッセージ性も観る人を魅了してやまない理由のひとつです。
また、ハブリエル・メツー、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーンなどオランダ絵画の傑作39点が展示されています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />都会のオアシス「慶沢園」を堪能した後は、天王寺公園エントランスエリア(愛称:てんしば)にあるトラットリアでフェルメール鑑賞に向けて腹ごしらえです。<br />

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    都会のオアシス「慶沢園」を堪能した後は、天王寺公園エントランスエリア(愛称:てんしば)にあるトラットリアでフェルメール鑑賞に向けて腹ごしらえです。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />イタリア製の薪窯で職人が一枚一枚焼きあげる本格ナポリピッツァのガーデンピッツェリアを予約しました。東京 小石川で愛され続けている人気店「青いナポリ」の2号店です。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    イタリア製の薪窯で職人が一枚一枚焼きあげる本格ナポリピッツァのガーデンピッツェリアを予約しました。東京 小石川で愛され続けている人気店「青いナポリ」の2号店です。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />「てんしば」の緑溢れる芝生広場に面した2階建のトラットリアです。カジュアルで寛ぎ満天のインテリアは、まるで地中海のヨーロピアンリゾートのような雰囲気です。ナポリピッツァやイタリアンパスタ以外にも野菜を豊富に使ったメニューが揃っています。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    「てんしば」の緑溢れる芝生広場に面した2階建のトラットリアです。カジュアルで寛ぎ満天のインテリアは、まるで地中海のヨーロピアンリゾートのような雰囲気です。ナポリピッツァやイタリアンパスタ以外にも野菜を豊富に使ったメニューが揃っています。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />お店の中にどっしりと構えた、細かくタイル貼りされたイタリア製薪窯がトレードマークです。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    お店の中にどっしりと構えた、細かくタイル貼りされたイタリア製薪窯がトレードマークです。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />ガラス張りのスケルトン構造のため目の前に空と緑が広がり、開放感に溢れた居心地の良いトラットリアです。<br />

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    ガラス張りのスケルトン構造のため目の前に空と緑が広がり、開放感に溢れた居心地の良いトラットリアです。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />ランチセットのスープです。<br />ビーンズにスイートポテト、トマトなどが入ったヘルシーなベジタブル・スープです。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    ランチセットのスープです。
    ビーンズにスイートポテト、トマトなどが入ったヘルシーなベジタブル・スープです。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />「生パスタ」ランチ(パスタ+スープ)です。<br />生パスタとは、小麦粉に卵、塩、水を練り込んだ生地を様々な太さや長さに成形してそのまま茹でたパスタです。お蕎麦屋さんで言えば、手打ち蕎麦のようなものです。乾麺のアルデンテとはまた違うモチモチ食感と素材の風味が際立つのが特徴です。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    「生パスタ」ランチ(パスタ+スープ)です。
    生パスタとは、小麦粉に卵、塩、水を練り込んだ生地を様々な太さや長さに成形してそのまま茹でたパスタです。お蕎麦屋さんで言えば、手打ち蕎麦のようなものです。乾麺のアルデンテとはまた違うモチモチ食感と素材の風味が際立つのが特徴です。

  • 青いナポリ イン・ザ・パーク<br />王道の「マルゲリータ」ランチです。<br />外はカリッと香ばしく、中はもっちりしていて素材の旨さを引き立てるピッツァです。<br />生地のボリュームもご覧の通りです。ナポリピッツァの特徴であるコルニチョーネと呼ばれるぷっくりと膨らんだフチの食感も最高です。<br />注文を受けてから薪窯で焼くため、少々時間がかかります。

    青いナポリ イン・ザ・パーク
    王道の「マルゲリータ」ランチです。
    外はカリッと香ばしく、中はもっちりしていて素材の旨さを引き立てるピッツァです。
    生地のボリュームもご覧の通りです。ナポリピッツァの特徴であるコルニチョーネと呼ばれるぷっくりと膨らんだフチの食感も最高です。
    注文を受けてから薪窯で焼くため、少々時間がかかります。

  • 林芙美子文学碑<br />小説家 林芙美子のデビュー作でありベストセラーは、東京での貧しい暮らしを綴った『放浪記』でした。暗い現実と庶民の苦悩をリアルに表現する作風で知られ、『うず湖』『晩菊』『浮雲』などの名作を残しました。<br />旧黒田藩蔵屋敷長屋門と大阪市立美術館の間に文学碑が立ち、遺作となった「昔 通天閣のあったころは……」で始まる『めし』の一説が刻まれています。『めし』は、親の反対を押し切って結婚し、大阪で暮らす夫婦の日常を描いた作品です。過去形で登場する「通天閣」は、明治36年建設の初代通天閣です。戦災で焼失後、現在の2代目通天閣が昭和31年に再建されました。倦怠期に邁遇した妻の苦闘をテーマにし、随所にジャンジャン横丁や新世界など大阪 天王寺の下町風情が登場します。昭和26年の朝日新聞連載中に林女史が急逝したために絶筆となりましたが、その後、成瀬巳喜男監督の手によって映画化されて絶大な成功を収めています。

    林芙美子文学碑
    小説家 林芙美子のデビュー作でありベストセラーは、東京での貧しい暮らしを綴った『放浪記』でした。暗い現実と庶民の苦悩をリアルに表現する作風で知られ、『うず湖』『晩菊』『浮雲』などの名作を残しました。
    旧黒田藩蔵屋敷長屋門と大阪市立美術館の間に文学碑が立ち、遺作となった「昔 通天閣のあったころは……」で始まる『めし』の一説が刻まれています。『めし』は、親の反対を押し切って結婚し、大阪で暮らす夫婦の日常を描いた作品です。過去形で登場する「通天閣」は、明治36年建設の初代通天閣です。戦災で焼失後、現在の2代目通天閣が昭和31年に再建されました。倦怠期に邁遇した妻の苦闘をテーマにし、随所にジャンジャン横丁や新世界など大阪 天王寺の下町風情が登場します。昭和26年の朝日新聞連載中に林女史が急逝したために絶筆となりましたが、その後、成瀬巳喜男監督の手によって映画化されて絶大な成功を収めています。

  • 「いのちいきいき」像  <br />ブロンズ像の制作は、アートプロデューサー&彫刻家 田村務氏です。因みに、構想は吉田叡氏、監修は吉田瑞生氏となっています。<br />この像は、1987年に大阪21世紀計画の開幕を飾って天王寺博覧会が「いのちいきいき」をテーマとして開催された際、そのテーマをモチーフに制作された作品です。<br />少年の吹く笛の音色に動物たちが集まり、聞き惚れているという長閑な情景です。この位置から見ると、はにかんだ熊さんに皆の視線が集まっています。その理由は不明ですが、牧歌的でほのぼのとさせるブロンズ像です。

    「いのちいきいき」像
    ブロンズ像の制作は、アートプロデューサー&彫刻家 田村務氏です。因みに、構想は吉田叡氏、監修は吉田瑞生氏となっています。
    この像は、1987年に大阪21世紀計画の開幕を飾って天王寺博覧会が「いのちいきいき」をテーマとして開催された際、そのテーマをモチーフに制作された作品です。
    少年の吹く笛の音色に動物たちが集まり、聞き惚れているという長閑な情景です。この位置から見ると、はにかんだ熊さんに皆の視線が集まっています。その理由は不明ですが、牧歌的でほのぼのとさせるブロンズ像です。

  • プロムナード・ブリッジ<br />大阪市立美術館と天王寺動物園の入口とを連絡するプロムナード・ブリッジから美術館のファサードを撮影したものです。<br />大阪市立美術館は、東京府、京都市美術館に次いで日本で3番目に1936(昭和11)年に設立された公立美術館です。本館の設計は、武田五一と片岡安の指導の下、大阪市建築課 主任技師 伊藤正文と海上静一、設計顧問 日高胖が担いました。近代日本式建築で、長い翼廊を持つシンメトリーの古典的な構成に、アクセントとなる銀灰色のスパニッシュ瓦を載せているのが特徴です。<br />モダンさと重厚さを兼備し、外光を採り入れる天窓や英国から輸入したガラスを用いた展示ケースなど、往時の最新の設備は「大阪の美の殿堂」に相応しいものでした。2015年に国の登録有形文化財に登録されています。 <br />余談ですが、伊藤氏は、大阪市建築課主任技師を務めた後、大阪市立大学で教鞭をとりました。現存する土佐堀川可動堰「錦橋」は彼の設計になります。

    プロムナード・ブリッジ
    大阪市立美術館と天王寺動物園の入口とを連絡するプロムナード・ブリッジから美術館のファサードを撮影したものです。
    大阪市立美術館は、東京府、京都市美術館に次いで日本で3番目に1936(昭和11)年に設立された公立美術館です。本館の設計は、武田五一と片岡安の指導の下、大阪市建築課 主任技師 伊藤正文と海上静一、設計顧問 日高胖が担いました。近代日本式建築で、長い翼廊を持つシンメトリーの古典的な構成に、アクセントとなる銀灰色のスパニッシュ瓦を載せているのが特徴です。
    モダンさと重厚さを兼備し、外光を採り入れる天窓や英国から輸入したガラスを用いた展示ケースなど、往時の最新の設備は「大阪の美の殿堂」に相応しいものでした。2015年に国の登録有形文化財に登録されています。
    余談ですが、伊藤氏は、大阪市建築課主任技師を務めた後、大阪市立大学で教鞭をとりました。現存する土佐堀川可動堰「錦橋」は彼の設計になります。

  • 大阪市立美術館<br />本館の正面に張出す玄関とホール部を翼廊より一層分高い切妻造とし、左右に連なる翼廊に展示室を配置する構造です。どっしりとした威厳を湛えた帝冠建築ではあるものの、蔵造のような妻入の佇まいを呈しています。<br />片岡安は日本近代建築の創始者 辰野金吾と共同で事務所を設立した大阪建築界の重鎮です。日本生命創業家の片岡家の養子となり、建築家でありながら財界でも権勢を振るい、国務大臣とも対等に話したといいます。辰野の死後は幾何学模様と垂直のラインを強調したヴィーン・ゼツェッシオン(分離派)の意匠を加えたルネッサンス様式の大規模建築を多く残しました。<br />武田五一は、「関西建築界の父」とも称されますが、どちらかと言えば京都に軸足を置いた建築家です。フランク・ロイド・ライトとも親交があり、国会議事堂建設をはじめ多くのプロジェクトに関与し、代表作には旧松風嘉定邸などがあります。

    大阪市立美術館
    本館の正面に張出す玄関とホール部を翼廊より一層分高い切妻造とし、左右に連なる翼廊に展示室を配置する構造です。どっしりとした威厳を湛えた帝冠建築ではあるものの、蔵造のような妻入の佇まいを呈しています。
    片岡安は日本近代建築の創始者 辰野金吾と共同で事務所を設立した大阪建築界の重鎮です。日本生命創業家の片岡家の養子となり、建築家でありながら財界でも権勢を振るい、国務大臣とも対等に話したといいます。辰野の死後は幾何学模様と垂直のラインを強調したヴィーン・ゼツェッシオン(分離派)の意匠を加えたルネッサンス様式の大規模建築を多く残しました。
    武田五一は、「関西建築界の父」とも称されますが、どちらかと言えば京都に軸足を置いた建築家です。フランク・ロイド・ライトとも親交があり、国会議事堂建設をはじめ多くのプロジェクトに関与し、代表作には旧松風嘉定邸などがあります。

  • 大阪市立美術館<br />天王寺公園一帯は、大阪城から続く高台の上町台地の南部にあり、緑地の少ない大阪都心部では貴重なグリーンベルト地域を構成し、アクセスも便利な都会のオアシスです。<br />元々、茶臼山一帯の敷地は、住友家本邸があった場所です。大阪市立美術館は、住友家15代当主 吉左衛門友純(春翠)が美術館の建設を目的に慶沢園と共に大阪市に寄贈した土地に建てられています。

    大阪市立美術館
    天王寺公園一帯は、大阪城から続く高台の上町台地の南部にあり、緑地の少ない大阪都心部では貴重なグリーンベルト地域を構成し、アクセスも便利な都会のオアシスです。
    元々、茶臼山一帯の敷地は、住友家本邸があった場所です。大阪市立美術館は、住友家15代当主 吉左衛門友純(春翠)が美術館の建設を目的に慶沢園と共に大阪市に寄贈した土地に建てられています。

  • 大阪市立美術館<br />フェルメールは貴重な鉱物「ラピスラズリ」を用いた「ウルトラ・マリンブルー」を効果的に使って印象的な作品に仕上げたことで知られる画家です。それに因んで「フェルメール・ブルー」とも称される青をイメージしたビオラ2千株が玄関の踊り場や階段に設置されたプランターに植えられています。<br />装飾を抑えた平滑で3層構成の立面を基調としつつ、壁頂の本瓦葺や蛇腹、大窓の洋風装飾などに和風の意匠を折衷しています。上部に連なる小窓も町屋の虫籠窓を彷彿とさせます。「洋の中に和を魅せる設計」とは、こうしたものを褒めるための言葉なのかもしれません。

    大阪市立美術館
    フェルメールは貴重な鉱物「ラピスラズリ」を用いた「ウルトラ・マリンブルー」を効果的に使って印象的な作品に仕上げたことで知られる画家です。それに因んで「フェルメール・ブルー」とも称される青をイメージしたビオラ2千株が玄関の踊り場や階段に設置されたプランターに植えられています。
    装飾を抑えた平滑で3層構成の立面を基調としつつ、壁頂の本瓦葺や蛇腹、大窓の洋風装飾などに和風の意匠を折衷しています。上部に連なる小窓も町屋の虫籠窓を彷彿とさせます。「洋の中に和を魅せる設計」とは、こうしたものを褒めるための言葉なのかもしれません。

  • 大阪市立美術館 大窓<br />NHK朝ドラ『ごちそうさん』は大阪が舞台でした。ヒロインのお相手は帝大卒の大阪市職員で、地下鉄建設を担う建築技師という設定でした。ドラマでは古参の先輩にいじめられていましたが、大阪市建築課には優れた人材が揃っていました。建築課 主任技師 伊藤正文は、近代建築運動をリードした「日本インターナショナル建築会」(モダニズム建築を標榜)の創立を呼び掛けた6名の建築家のひとりに名を連ねています。この会は、無駄な装飾を捨て、機能中心のモダニズムを志向する欧州、米国のインターナショナル建築様式を日本で具体化しようと、1927年に関西を基盤とする近代建築家を中心に結成されました。伊藤氏は、日本固有の風土に伴う「ローカリティ」を世界共通の「インターナショナル」な合理的手法を用いて解決することにより、「日本に於けるインターナショナル」な建築が実現できると説きました。<br />外国人会員には、ブルーノ・タウトやグヴァルター・グロピウス、ペーター・ベーレンスなどの著名建築家が名を連ねました。会の活動実績としては、ナチス・ドイツから逃れたブルーノ・タウトを日本に招待し、桂離宮や伊勢神宮を案内しています。その結果、ブルーノ・タウトは、3年間日本に滞在し、桂離宮を絶賛して世界に紹介しました。

    大阪市立美術館 大窓
    NHK朝ドラ『ごちそうさん』は大阪が舞台でした。ヒロインのお相手は帝大卒の大阪市職員で、地下鉄建設を担う建築技師という設定でした。ドラマでは古参の先輩にいじめられていましたが、大阪市建築課には優れた人材が揃っていました。建築課 主任技師 伊藤正文は、近代建築運動をリードした「日本インターナショナル建築会」(モダニズム建築を標榜)の創立を呼び掛けた6名の建築家のひとりに名を連ねています。この会は、無駄な装飾を捨て、機能中心のモダニズムを志向する欧州、米国のインターナショナル建築様式を日本で具体化しようと、1927年に関西を基盤とする近代建築家を中心に結成されました。伊藤氏は、日本固有の風土に伴う「ローカリティ」を世界共通の「インターナショナル」な合理的手法を用いて解決することにより、「日本に於けるインターナショナル」な建築が実現できると説きました。
    外国人会員には、ブルーノ・タウトやグヴァルター・グロピウス、ペーター・ベーレンスなどの著名建築家が名を連ねました。会の活動実績としては、ナチス・ドイツから逃れたブルーノ・タウトを日本に招待し、桂離宮や伊勢神宮を案内しています。その結果、ブルーノ・タウトは、3年間日本に滞在し、桂離宮を絶賛して世界に紹介しました。

  • 大阪市立美術館 大窓<br />壁面のテラコッタ・レリーフや窓のあしらいも洋風でありながら和のテイストを織り込んでいます。幾何学模様に配された瑞雲のような意匠や生命の木を彷彿とさせる植物のレリーフは見応えがあります。<br />窓格子は、日本的な伝統模様の流水模様をアール・デコ風にアレンジしたような軽やかなデザインです。<br />一番下の窓にはレースのカーテンが取り付けられています。

    大阪市立美術館 大窓
    壁面のテラコッタ・レリーフや窓のあしらいも洋風でありながら和のテイストを織り込んでいます。幾何学模様に配された瑞雲のような意匠や生命の木を彷彿とさせる植物のレリーフは見応えがあります。
    窓格子は、日本的な伝統模様の流水模様をアール・デコ風にアレンジしたような軽やかなデザインです。
    一番下の窓にはレースのカーテンが取り付けられています。

  • 大阪市立美術館<br />美術館の設計に当たってはデザインコンペを実施しており、京都市美術館の設計を手がけた逓信省 前田健二郎案で進められることが決まっていたそうです。しかし、市の財政難により急遽設計者を大阪市建築課に変更し、その直後に世界恐慌が発生したために工事が長期間中断し、それに加えて1934(昭和9)年の室戸台風の影響もあり、1914年の建築計画の決定から22年後に漸く完成しています。

    大阪市立美術館
    美術館の設計に当たってはデザインコンペを実施しており、京都市美術館の設計を手がけた逓信省 前田健二郎案で進められることが決まっていたそうです。しかし、市の財政難により急遽設計者を大阪市建築課に変更し、その直後に世界恐慌が発生したために工事が長期間中断し、それに加えて1934(昭和9)年の室戸台風の影響もあり、1914年の建築計画の決定から22年後に漸く完成しています。

  • 大阪市立美術館<br />玄関の柱の装飾は、フランク・ロイド・ライトのアール・デコ風のデザインを思わせます。<br />1929(昭和 4)年の世界大恐慌では、デフレによって世界中に失業者が溢れました。このような情勢の中、何とか開館できたのは、大蔵大臣 高橋是清のおかげとされています。彼は、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げ、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた上、更に金輸出再禁止や日銀を受け皿にした政府支出(軍事予算)の増額等で混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させたのです。この時代にはこうした豪傑たちが日本の舵取り役でした。<br />翻って、史上空前の「異次元緩和」を陣頭指揮してきた日銀 黒田総裁は、4月に再任され新たな5年がスタートしました。「異次元緩和」を任期中に終えられなかったのは「失敗」に等しく、手法の選択ミスか目標設定が誤っていたかのいずれかです。しかし、黒田総裁は反省すらなく、企業収益や賃金の改善が進んでいるのを訴え、功績を強調しました。成果として挙げられた数字も操作されたものと知りながら…。<br />さて、任命責任を問われる立場の安倍首相ですが、「4選あり」とも囁かれています。こんな状態で、果たして日本の未来に夢と希望はあるのでしょうか?

    大阪市立美術館
    玄関の柱の装飾は、フランク・ロイド・ライトのアール・デコ風のデザインを思わせます。
    1929(昭和 4)年の世界大恐慌では、デフレによって世界中に失業者が溢れました。このような情勢の中、何とか開館できたのは、大蔵大臣 高橋是清のおかげとされています。彼は、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げ、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた上、更に金輸出再禁止や日銀を受け皿にした政府支出(軍事予算)の増額等で混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させたのです。この時代にはこうした豪傑たちが日本の舵取り役でした。
    翻って、史上空前の「異次元緩和」を陣頭指揮してきた日銀 黒田総裁は、4月に再任され新たな5年がスタートしました。「異次元緩和」を任期中に終えられなかったのは「失敗」に等しく、手法の選択ミスか目標設定が誤っていたかのいずれかです。しかし、黒田総裁は反省すらなく、企業収益や賃金の改善が進んでいるのを訴え、功績を強調しました。成果として挙げられた数字も操作されたものと知りながら…。
    さて、任命責任を問われる立場の安倍首相ですが、「4選あり」とも囁かれています。こんな状態で、果たして日本の未来に夢と希望はあるのでしょうか?

  • 大阪市立美術館<br />コンクリート造の上に瓦屋根を載せた帝冠様式に分類される建物ですが、西洋的な装飾要素として中央部の窓枠のテラコッタ・レリーフにモダニズムが認められ、帝冠様式の定義から逸脱する珍しい外観です。<br />こうしたモダニズム要素は、古典主義的要素とも解釈されるのですが、設計に携わった大阪市建築課の伊藤主任技師がモダニズムに傾倒した建築家だったことから、古典主義には嵌りません。<br />モダニズムからすれば帝冠様式は対極となる様式ですが、デザインコンペで選ばれた帝冠派の前田案を尊重しながら、伊藤氏らがモダンテイストを散らして完成させたものと思われます。本瓦葺の傾斜屋根と相俟って「近代日本式」と称される名建築と言えます。

    大阪市立美術館
    コンクリート造の上に瓦屋根を載せた帝冠様式に分類される建物ですが、西洋的な装飾要素として中央部の窓枠のテラコッタ・レリーフにモダニズムが認められ、帝冠様式の定義から逸脱する珍しい外観です。
    こうしたモダニズム要素は、古典主義的要素とも解釈されるのですが、設計に携わった大阪市建築課の伊藤主任技師がモダニズムに傾倒した建築家だったことから、古典主義には嵌りません。
    モダニズムからすれば帝冠様式は対極となる様式ですが、デザインコンペで選ばれた帝冠派の前田案を尊重しながら、伊藤氏らがモダンテイストを散らして完成させたものと思われます。本瓦葺の傾斜屋根と相俟って「近代日本式」と称される名建築と言えます。

  • 大阪市立美術館<br />テラコッタ・レリーフは王冠をモチーフにしたデザインのようです。<br />ここにも大窓に施されたレリーフと同じ植物を配しています。

    大阪市立美術館
    テラコッタ・レリーフは王冠をモチーフにしたデザインのようです。
    ここにも大窓に施されたレリーフと同じ植物を配しています。

  • 大阪市立美術館<br />建築史的には、「歴史主義建築」に分類されています。歴史主義建築とは、19~20世紀初頭にかけて西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築様式を言います。18世紀の新古典主義建築と20世紀のモダニズム建築に挟まれた時期に現れた特定の傾向の建築を指します。<br />「歴史主義」という言葉は英国建築史家ニコラス・ペブスナーによるもので、モダニズムの観点から見た19世紀建築に対する蔑称とされています。モダニズム全盛時代の価値観で歴史主義建築を見れば、過去の様式に捉われて価値が低いように思われるかもしれませんが、欧州の主要都市を飾っている歴史的建造物はこの時代の建築物が主流で、今日に続く都市の美観を形成する上で大きな役割を果たした建築様式です。

    大阪市立美術館
    建築史的には、「歴史主義建築」に分類されています。歴史主義建築とは、19~20世紀初頭にかけて西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築様式を言います。18世紀の新古典主義建築と20世紀のモダニズム建築に挟まれた時期に現れた特定の傾向の建築を指します。
    「歴史主義」という言葉は英国建築史家ニコラス・ペブスナーによるもので、モダニズムの観点から見た19世紀建築に対する蔑称とされています。モダニズム全盛時代の価値観で歴史主義建築を見れば、過去の様式に捉われて価値が低いように思われるかもしれませんが、欧州の主要都市を飾っている歴史的建造物はこの時代の建築物が主流で、今日に続く都市の美観を形成する上で大きな役割を果たした建築様式です。

  • 大阪市立美術館 翼廊<br />現在の美術館は設立当初の本館と翼廊、1992年に美術館の正面地下に新設した地下展覧会室からなります。鉄筋コンクリート地上3階、地下2階建で、本館陳列室では、特別展覧会や平常展示を開催しています。<br />しかし、太平洋戦争中の1942(昭和17)年には陸軍に接収され、戦争末期には高射第3師団司令部が置かれました。1945(昭和20)年から2年間に亘り占領軍が接収したため活動休止を余儀なくされていました。

    大阪市立美術館 翼廊
    現在の美術館は設立当初の本館と翼廊、1992年に美術館の正面地下に新設した地下展覧会室からなります。鉄筋コンクリート地上3階、地下2階建で、本館陳列室では、特別展覧会や平常展示を開催しています。
    しかし、太平洋戦争中の1942(昭和17)年には陸軍に接収され、戦争末期には高射第3師団司令部が置かれました。1945(昭和20)年から2年間に亘り占領軍が接収したため活動休止を余儀なくされていました。

  • 大阪市立美術館 翼廊<br />こちらは、つがいの鳳凰のレリーフです。<br />

    大阪市立美術館 翼廊
    こちらは、つがいの鳳凰のレリーフです。

  • 大阪市立美術館 翼廊<br />慶沢園編でも紹介したように、この飾り瓦と鬼瓦の意匠は、形は異なりますが「青海波(せいがいは)」と呼ばれる伝統文様です。古代ペルシャからシルクロードを経て伝わったとされる文様です。波を扇状の形に描く幾何学模様で、どこまでも広がる大海原に絶えず繰り返される柄になります。

    大阪市立美術館 翼廊
    慶沢園編でも紹介したように、この飾り瓦と鬼瓦の意匠は、形は異なりますが「青海波(せいがいは)」と呼ばれる伝統文様です。古代ペルシャからシルクロードを経て伝わったとされる文様です。波を扇状の形に描く幾何学模様で、どこまでも広がる大海原に絶えず繰り返される柄になります。

  • 大阪市立美術館 翼廊側面<br />戦前の日本の美術館建築様式は、展示品の大部分が東洋美術品だったこともあり、「帝冠建築」が主流でした。しかし大阪市立美術館は、城郭風の京都市美術館(1933年 設計:前田健二郎)、寺院風の東京帝室博物館本館(1937年 設計:渡辺仁)に対して表情の柔らかい町家の土蔵風としており、帝冠建築の中でも異色の存在とされます。これは、土地寄贈者の住友家、あるいは商都大阪のイメージが多分に反映されたためと考えると理解し易いかもしれません。

    大阪市立美術館 翼廊側面
    戦前の日本の美術館建築様式は、展示品の大部分が東洋美術品だったこともあり、「帝冠建築」が主流でした。しかし大阪市立美術館は、城郭風の京都市美術館(1933年 設計:前田健二郎)、寺院風の東京帝室博物館本館(1937年 設計:渡辺仁)に対して表情の柔らかい町家の土蔵風としており、帝冠建築の中でも異色の存在とされます。これは、土地寄贈者の住友家、あるいは商都大阪のイメージが多分に反映されたためと考えると理解し易いかもしれません。

  • 大阪市立美術館 翼廊側面<br />大阪市立美術館は、大阪市民の美術活動の拠点でもあります。<br />平常展示では購入や寄贈によって集まった日本・中国の絵画・彫刻・工芸など8000件を越える収蔵品と、社寺などから寄託された作品を随時陳列しています。これらの作品には国宝や重文に指定された作品も多く含まれており、地下展覧会室では常時様々な美術団体が主催する展覧会が開催されています。また、本館地下には美術研究所があり、素描、絵画、彫塑の実技研究が行われています。同研究所からは白髪一雄、吉原英雄、村岡三郎など多くの作家を輩出しています。

    大阪市立美術館 翼廊側面
    大阪市立美術館は、大阪市民の美術活動の拠点でもあります。
    平常展示では購入や寄贈によって集まった日本・中国の絵画・彫刻・工芸など8000件を越える収蔵品と、社寺などから寄託された作品を随時陳列しています。これらの作品には国宝や重文に指定された作品も多く含まれており、地下展覧会室では常時様々な美術団体が主催する展覧会が開催されています。また、本館地下には美術研究所があり、素描、絵画、彫塑の実技研究が行われています。同研究所からは白髪一雄、吉原英雄、村岡三郎など多くの作家を輩出しています。

  • 大阪市立美術館 <br />水都大阪のシンボルである中之島に、大阪市が2021年度の開館を目指している新美術館があります。その名称が公募により 「大阪中之島美術館」に決定しました。大阪の実業家 山本發次郎氏の収集作品約600点をはじめ、現時点で5600点におよぶ作品を所蔵しています。<br />同館は5階建の構造で、設計は遠藤克彦建築研究所が担当しています。館内には全フロアを縦に貫く吹き抜けやオープンな屋内空間「パッサージュ」があり、様々な人が自由に行き来できる構造だそうです。<br />一方で心配な面もあります。中之島周辺は海抜が低いため、南海トラフ地震に伴う津波で名画が水没しないかということです。5階建ですので、展示する場所に配慮されるものと思いますが・・・。

    大阪市立美術館
    水都大阪のシンボルである中之島に、大阪市が2021年度の開館を目指している新美術館があります。その名称が公募により 「大阪中之島美術館」に決定しました。大阪の実業家 山本發次郎氏の収集作品約600点をはじめ、現時点で5600点におよぶ作品を所蔵しています。
    同館は5階建の構造で、設計は遠藤克彦建築研究所が担当しています。館内には全フロアを縦に貫く吹き抜けやオープンな屋内空間「パッサージュ」があり、様々な人が自由に行き来できる構造だそうです。
    一方で心配な面もあります。中之島周辺は海抜が低いため、南海トラフ地震に伴う津波で名画が水没しないかということです。5階建ですので、展示する場所に配慮されるものと思いますが・・・。

  • 大阪市立美術館 <br />書き方からして、明らかに戦前のブロンズ製の表札です。<br />

    大阪市立美術館
    書き方からして、明らかに戦前のブロンズ製の表札です。

  • 大阪市立美術館 <br />表門の扉には、寄贈者の住友家に因んだデザインなのか、「菱井桁」風の飾り窓が見られます。また、暗示に掛けられたように、明かり採りの欄間の面格子も住友家の家紋「井桁」に見えてきます。

    大阪市立美術館
    表門の扉には、寄贈者の住友家に因んだデザインなのか、「菱井桁」風の飾り窓が見られます。また、暗示に掛けられたように、明かり採りの欄間の面格子も住友家の家紋「井桁」に見えてきます。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />今回の展示形態は、中央部の吹き抜けとなったエントランスホールを介し、建物の両翼廊に配置された1階展示ルームを時計回りに巡回する観覧導線になっています。<br />

    大阪市立美術館 エントランスホール
    今回の展示形態は、中央部の吹き抜けとなったエントランスホールを介し、建物の両翼廊に配置された1階展示ルームを時計回りに巡回する観覧導線になっています。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />近代建築では珍しいクリスタルガラス製の暖色系の大きなシャンデリアが2基設けられ、空間の豪華さや絢爛さを象徴するに相応しい装飾です。<br />

    大阪市立美術館 エントランスホール
    近代建築では珍しいクリスタルガラス製の暖色系の大きなシャンデリアが2基設けられ、空間の豪華さや絢爛さを象徴するに相応しい装飾です。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />吹き抜けを囲む大理石の列柱は頂上部分でアーチをなし、少し波打たせたイスラム様式の多弁式アーチになっているのが特徴です。西洋の真ん中を意図的に避け、ユーラシア大陸の様々な要素を紡いだデザインとしています。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    吹き抜けを囲む大理石の列柱は頂上部分でアーチをなし、少し波打たせたイスラム様式の多弁式アーチになっているのが特徴です。西洋の真ん中を意図的に避け、ユーラシア大陸の様々な要素を紡いだデザインとしています。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />イスラム教のモスクにでも迷い込んだかのような荘厳な雰囲気です。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    イスラム教のモスクにでも迷い込んだかのような荘厳な雰囲気です。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />大窓にはステンドグラスが嵌め込まれています。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    大窓にはステンドグラスが嵌め込まれています。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />気品に溢れた格調高い佇まいです。<br />

    大阪市立美術館 エントランスホール
    気品に溢れた格調高い佇まいです。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />シャンデリアの輝きも魅力的です。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    シャンデリアの輝きも魅力的です。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール 大窓<br />偶像崇拝を禁止するイスラム教に敬意を払ってのことか、人面のレリーフなどは配さず、大窓のステンドグラスも絵柄のないシンプルな幾何学模様の色ガラスで仕上げています。一見、住友家の「菱井桁」の連なりに見えなくもありませんが…。外観からは、こうした立派なステンドグラスが嵌め込まれていとは想像だにできません。<br />外観、内装ともに豪華かつユニークな拘りが貫かれており、日本屈指の美術館に相応しい名建築と言えます。

    大阪市立美術館 エントランスホール 大窓
    偶像崇拝を禁止するイスラム教に敬意を払ってのことか、人面のレリーフなどは配さず、大窓のステンドグラスも絵柄のないシンプルな幾何学模様の色ガラスで仕上げています。一見、住友家の「菱井桁」の連なりに見えなくもありませんが…。外観からは、こうした立派なステンドグラスが嵌め込まれていとは想像だにできません。
    外観、内装ともに豪華かつユニークな拘りが貫かれており、日本屈指の美術館に相応しい名建築と言えます。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />ステンドグラスの下にある小窓からは、このように天通閣も望めます。<br />窓格子の中央部の意匠は、大阪府の木「イチョウ」をあしらった十字形のデザインです。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    ステンドグラスの下にある小窓からは、このように天通閣も望めます。
    窓格子の中央部の意匠は、大阪府の木「イチョウ」をあしらった十字形のデザインです。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />フェルメール作品の色遣い中で、ラピスラズリを用いたフェルメール・ブルーと並んで印象的なのが黄色です。好んで使った顔料はインディアン・イエローと呼ばれるインド・ベンガル地方の特産品で、マンゴーの葉だけを食べさせた牛の尿を集めて乾燥させて作られたものです。<br />やや赤みを帯びた黄色で多くの画家に愛用されましたが、牛の方は過度の栄養失調状態を強いられるため衰弱死が多発し、製法が知れ渡ると動物虐待として1908年以降は市場取引が禁じられました。尚、インディアン・イエローという色名は、今も色を似せて調合された顔料に使われています。<br />青と黄の色彩は「反対色」の関係であり、互いの色を引き立て合います。今回展示されているフェルメール作品には、『手紙を書く女』や『恋文』など青と黄色による視覚的な効果を活かした作品が見られます。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    フェルメール作品の色遣い中で、ラピスラズリを用いたフェルメール・ブルーと並んで印象的なのが黄色です。好んで使った顔料はインディアン・イエローと呼ばれるインド・ベンガル地方の特産品で、マンゴーの葉だけを食べさせた牛の尿を集めて乾燥させて作られたものです。
    やや赤みを帯びた黄色で多くの画家に愛用されましたが、牛の方は過度の栄養失調状態を強いられるため衰弱死が多発し、製法が知れ渡ると動物虐待として1908年以降は市場取引が禁じられました。尚、インディアン・イエローという色名は、今も色を似せて調合された顔料に使われています。
    青と黄の色彩は「反対色」の関係であり、互いの色を引き立て合います。今回展示されているフェルメール作品には、『手紙を書く女』や『恋文』など青と黄色による視覚的な効果を活かした作品が見られます。

  • 大阪市立美術館 エントランスホール<br />記念撮影用の顔出しパネルも粋な装いです。<br />今回展示されているフェルメール作品6点がセットされています。<br />フェルメールの絵画のひとつになった気分にさせられます。

    大阪市立美術館 エントランスホール
    記念撮影用の顔出しパネルも粋な装いです。
    今回展示されているフェルメール作品6点がセットされています。
    フェルメールの絵画のひとつになった気分にさせられます。

  • 『マルタとマリアの家のキリスト』1654~55年 <br />National Galleries of Scotland所蔵<br />それでは、フェルメール作品を展示順に紹介していきます。<br /><br />現存するフェルメール作品の中で最大規模の初期作品です。彼の真骨頂となる庶民の生活を映した風俗画ではないため、説明がなければ他の画家の作品と思うかもしれません。彼が画家を目指した時代は、宗教画や肖像画などが主流でした。初期の頃の作品は僅か2点しか現存しませんが、それは往時の彼の作品の価値が低かったこともに一因があるそうです。<br />『新約聖書』「ルカ伝」10章の一節を描いた作品です。巡礼の旅を続けるイエスが姉妹の家を訪れた際、食事の世話をしようとする姉マルタが家事を手伝わずに熱心に説話を聞く妹マリアへの不満をイエスに訴えますが、イエスは傾聴するマリアを讃えています。要するに、イエスの説話を聞くことが労働よりも尊いと説いています。<br />姉妹の姿にプロテスタントとカトリックを投影した作品とされ、元々はプロテスタント信者だったフェルメールがプチブルジョワでカトリック信者のカタリーナと結婚するためにカトリックに改宗した頃に描かれた作品です。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgalleries.org/art-and-artists/artists/johannes-vermeer

    『マルタとマリアの家のキリスト』1654~55年
    National Galleries of Scotland所蔵
    それでは、フェルメール作品を展示順に紹介していきます。

    現存するフェルメール作品の中で最大規模の初期作品です。彼の真骨頂となる庶民の生活を映した風俗画ではないため、説明がなければ他の画家の作品と思うかもしれません。彼が画家を目指した時代は、宗教画や肖像画などが主流でした。初期の頃の作品は僅か2点しか現存しませんが、それは往時の彼の作品の価値が低かったこともに一因があるそうです。
    『新約聖書』「ルカ伝」10章の一節を描いた作品です。巡礼の旅を続けるイエスが姉妹の家を訪れた際、食事の世話をしようとする姉マルタが家事を手伝わずに熱心に説話を聞く妹マリアへの不満をイエスに訴えますが、イエスは傾聴するマリアを讃えています。要するに、イエスの説話を聞くことが労働よりも尊いと説いています。
    姉妹の姿にプロテスタントとカトリックを投影した作品とされ、元々はプロテスタント信者だったフェルメールがプチブルジョワでカトリック信者のカタリーナと結婚するためにカトリックに改宗した頃に描かれた作品です。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgalleries.org/art-and-artists/artists/johannes-vermeer

  • 『取り持ち女』1656年 Gemaldegalerie Alte Meister所蔵<br />第2次世界大戦で敗北したドイツは、この絵をソ連に奪われました。しかし流転の絵画は10年後に無事に戻ってきました。21世紀に修復され、鮮やかな姿を甦らせています。<br />フェルメールの初期の作品であり、宗教画から風俗画への過渡期に聖書の「放蕩息子」をテーマに描いたものです。しかし、当初はオランダ画家ホントホルストの作品と見做されていました。その理由は、16世紀のイタリア画家カラバッジョの影響によります。ホントホルストは、絵画のストーリー性や人物像をクローズアップする効果、劇的な光と影の使い方など、カラバッジョの技法を学びました。そして、フェルメールもまたカラバッジョの洗礼を受けたひとりだったのです。『取り持ち女』ががフェルメールの絵と鑑定されたのは、「フェルメール再発見」の仏研究者が現れた19世紀半ばのことでした。<br />「放蕩息子」とは、父親から財産譲与された息子が富を散財して無一文になり、やがて帰郷するも父親は寛容に息子を受け入れたという説話です。父の寛大さと息子の後悔と懺悔の教訓とされます。フェルメールは、舞台を娼家に置き換え、娼婦と客の駆け引きをクローズアップしています。娼婦が客からお金を受け取ろうとする刹那を切り取り、娼婦の黄色の服装とお金を渡す男の赤色のコントラストが鮮やかです。また、タペスリーや娼婦の頭巾のレース、陶器のワイン差し、ワイングラスなどは質感に溢れた繊細な描写であり、後のフェルメール作品の特徴が垣間見られます。<br />一方、この絵画の最大の謎が、左端の笑みを浮かべたベレー帽の男です。実はフェルメールの自画像と言われています。巨匠レンブラントもこうしたコスチュームで自画像を描いており、また、彼の絵には珍しく鑑賞者に視線を向けている点からも自画像ではないかとの説が有力です。<br />この画像は、以下のサイトから引用させていただきました。<br />https://artsandculture.google.com/story/HQJS1gyNEcirIg

    『取り持ち女』1656年 Gemaldegalerie Alte Meister所蔵
    第2次世界大戦で敗北したドイツは、この絵をソ連に奪われました。しかし流転の絵画は10年後に無事に戻ってきました。21世紀に修復され、鮮やかな姿を甦らせています。
    フェルメールの初期の作品であり、宗教画から風俗画への過渡期に聖書の「放蕩息子」をテーマに描いたものです。しかし、当初はオランダ画家ホントホルストの作品と見做されていました。その理由は、16世紀のイタリア画家カラバッジョの影響によります。ホントホルストは、絵画のストーリー性や人物像をクローズアップする効果、劇的な光と影の使い方など、カラバッジョの技法を学びました。そして、フェルメールもまたカラバッジョの洗礼を受けたひとりだったのです。『取り持ち女』ががフェルメールの絵と鑑定されたのは、「フェルメール再発見」の仏研究者が現れた19世紀半ばのことでした。
    「放蕩息子」とは、父親から財産譲与された息子が富を散財して無一文になり、やがて帰郷するも父親は寛容に息子を受け入れたという説話です。父の寛大さと息子の後悔と懺悔の教訓とされます。フェルメールは、舞台を娼家に置き換え、娼婦と客の駆け引きをクローズアップしています。娼婦が客からお金を受け取ろうとする刹那を切り取り、娼婦の黄色の服装とお金を渡す男の赤色のコントラストが鮮やかです。また、タペスリーや娼婦の頭巾のレース、陶器のワイン差し、ワイングラスなどは質感に溢れた繊細な描写であり、後のフェルメール作品の特徴が垣間見られます。
    一方、この絵画の最大の謎が、左端の笑みを浮かべたベレー帽の男です。実はフェルメールの自画像と言われています。巨匠レンブラントもこうしたコスチュームで自画像を描いており、また、彼の絵には珍しく鑑賞者に視線を向けている点からも自画像ではないかとの説が有力です。
    この画像は、以下のサイトから引用させていただきました。
    https://artsandculture.google.com/story/HQJS1gyNEcirIg

  • 『手紙を書く婦人と召使い』1669~70年 National Gallery of Ireland所蔵<br />一心不乱に手紙を書く婦人の傍らで、メイドは目を合わせたくないのか無関心を装って窓の外を眺めています。婦人は誰にどんな手紙を書き、メイドは何を思っているのか…。フェルメールの絵画に登場する人物は寡黙でミステリアスに満ちています。少し前の2人のやり取りや現在の緊迫した息遣いが今にも聞こえてきそうです。画中画は『モーセの発見』であることから、「和解の大切さ」を説いているとの説があるのですが…。<br />一方、この絵は、2度も絵画を人質にしたアート・テロに遭った神秘性を帯びた作品としても知られています。無事に返却された後、90年代半ばに個人からナショナルギャラリーに寄贈されました。<br />1度目は、1974年にアイルランドのダブリン郊外にあるラスボローハウスから盗まれました。犯人の要求は、自動車爆破犯のプライス姉妹の故郷への移送でした。犯人はダグデールと言う女性で、イギリスの裕福な家庭に育ち、オックスフォード大学を卒業した超エリートでしたが、IRA(北アイルランドの英国からの独立を主張するテロ集団)に傾倒するようになり、犯行に及んだといいます。2度目は、1986年にまたもやラスボローハウスから盗まれました。しかし、犯人はIRAでもテロリストでもなく、ダブリンの悪名高き犯罪者カ-ヒルでした。動機は2つあり、1つは闇市場で絵を転売して金を手に入れること、もう1つは世間を騒がせて警察や政府に恥をかかせることでした。しかし、彼には強盗の前科があり、転売先を探すのは困難を極め、ヨーロッパ中の犯罪者や組織、果てはIRAにも接触しましたが信用されませんでした。結局、IRAの敵対組織「アルスター義勇軍」に転売した後、逮捕されました。<br />逮捕から4年後、カ-ヒルは自宅を車で出た所を至近距離で撃たれて惨殺されました。犯行声明を出したのはIRAでした。<br />フェルメール作品が絡んだ事件は、何の因果かいつもサスペンスドラマのように奇想天外な結末でエンディングを迎えます。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.ie/art-and-artists/highlights-collection/woman-writing-letter-her-maid-johannes-vermeer

    『手紙を書く婦人と召使い』1669~70年 National Gallery of Ireland所蔵
    一心不乱に手紙を書く婦人の傍らで、メイドは目を合わせたくないのか無関心を装って窓の外を眺めています。婦人は誰にどんな手紙を書き、メイドは何を思っているのか…。フェルメールの絵画に登場する人物は寡黙でミステリアスに満ちています。少し前の2人のやり取りや現在の緊迫した息遣いが今にも聞こえてきそうです。画中画は『モーセの発見』であることから、「和解の大切さ」を説いているとの説があるのですが…。
    一方、この絵は、2度も絵画を人質にしたアート・テロに遭った神秘性を帯びた作品としても知られています。無事に返却された後、90年代半ばに個人からナショナルギャラリーに寄贈されました。
    1度目は、1974年にアイルランドのダブリン郊外にあるラスボローハウスから盗まれました。犯人の要求は、自動車爆破犯のプライス姉妹の故郷への移送でした。犯人はダグデールと言う女性で、イギリスの裕福な家庭に育ち、オックスフォード大学を卒業した超エリートでしたが、IRA(北アイルランドの英国からの独立を主張するテロ集団)に傾倒するようになり、犯行に及んだといいます。 2度目は、1986年にまたもやラスボローハウスから盗まれました。しかし、犯人はIRAでもテロリストでもなく、ダブリンの悪名高き犯罪者カ-ヒルでした。動機は2つあり、1つは闇市場で絵を転売して金を手に入れること、もう1つは世間を騒がせて警察や政府に恥をかかせることでした。しかし、彼には強盗の前科があり、転売先を探すのは困難を極め、ヨーロッパ中の犯罪者や組織、果てはIRAにも接触しましたが信用されませんでした。結局、IRAの敵対組織「アルスター義勇軍」に転売した後、逮捕されました。
    逮捕から4年後、カ-ヒルは自宅を車で出た所を至近距離で撃たれて惨殺されました。犯行声明を出したのはIRAでした。
    フェルメール作品が絡んだ事件は、何の因果かいつもサスペンスドラマのように奇想天外な結末でエンディングを迎えます。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.ie/art-and-artists/highlights-collection/woman-writing-letter-her-maid-johannes-vermeer

  • 『リュートを調弦する女』1664年頃 The Metropolitan Museum of Art所蔵<br />女性が着ける真珠のネックレスと耳飾りが窓から入る光を反射し、暗がりに白く浮かび上がっています。「光の魔術師」と称されるフェルメールにとり、真珠は格好のモチーフでした。<br />女性の視線は窓の外に向けられていますが、地図の下部の軸に付けられた矢印は女性の耳に向けられています。つまり、視覚のみならず、聴覚までもこの絵で表現しようとの暗示です。<br />画中には「ヨーロッパ地図」があり、これは女性の思い人が海外に渡っているのを暗示しています。女性はリュートを抱え、テーブルの向かい側の椅子にはヴィオラ・ダ・ガンバという弦楽器があることから、アンサンブルの相手が旅に出ており、女性はその帰りを待ち焦がれていると推察できます。間もなくやって来る思い人の姿を早く見たいと、窓の外に気を取られているのかもしれません。それが証拠に、調弦しようとしているのは高音の弦にもかかわらず、つま弾こうとしてるのは低音の弦です。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437880?searchField=All&amp;amp;sortBy=Relevance&amp;amp;ft=vermeer&amp;amp;offset=0&amp;amp;rpp=20&amp;amp;pos=5

    『リュートを調弦する女』1664年頃 The Metropolitan Museum of Art所蔵
    女性が着ける真珠のネックレスと耳飾りが窓から入る光を反射し、暗がりに白く浮かび上がっています。「光の魔術師」と称されるフェルメールにとり、真珠は格好のモチーフでした。
    女性の視線は窓の外に向けられていますが、地図の下部の軸に付けられた矢印は女性の耳に向けられています。つまり、視覚のみならず、聴覚までもこの絵で表現しようとの暗示です。
    画中には「ヨーロッパ地図」があり、これは女性の思い人が海外に渡っているのを暗示しています。女性はリュートを抱え、テーブルの向かい側の椅子にはヴィオラ・ダ・ガンバという弦楽器があることから、アンサンブルの相手が旅に出ており、女性はその帰りを待ち焦がれていると推察できます。間もなくやって来る思い人の姿を早く見たいと、窓の外に気を取られているのかもしれません。それが証拠に、調弦しようとしているのは高音の弦にもかかわらず、つま弾こうとしてるのは低音の弦です。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437880?searchField=All&amp;sortBy=Relevance&amp;ft=vermeer&amp;offset=0&amp;rpp=20&amp;pos=5

  • 『恋文』1669~70年頃 Rijksmuseum, Amsterdam所蔵<br />メイドから手紙を渡された刹那を別の部屋から盗み見する「家政婦は見た」的な視野から切り取り、鑑賞者が思い描くストーリーを逞しくさせる作品です。<br />暗い部屋からこっそり覗く構図から、女主人が受け取ったのは誰にも知られたくない秘密の手紙と察しがつきます。女主人は、訳知り顔のメイドに目で問いかけています。こうしたことから、メイドは、女主人と恋人を取り持つ仲介訳となり、女主人を見下ろす姿から立場が逆転しているのかもしれません。手紙には何が書かれているのか…。覗き見の構図が緊迫したシーンをドラマチックに引き立てます。<br />さて、女主人が抱えるリュートはその甘美な音色から恋愛を暗示する楽器なのですが、対になる楽譜は部屋の外に置かれています。これは、一緒に楽器を奏でていた恋人が今は不在という暗示です。画中画が、波風を受ける海に浮かぶ船であり、恋愛の困難さを裏付けています。<br />実は、タイトル『恋文』はフェルメールの命名ではありません。アムステルダム国立美術館の購入時は『手紙』と呼ばれていましたが、後に恋愛を暗示するリュートなどのモチーフが複数描写されていることから『恋文』に改名されました。こうした謎解きもフェルメール作品の鑑賞の愉しみのひとつです。<br />一方、この絵画は1971年に史上初のアート・テロの標的にされた作品でもあります。出稼ぎ先のブリュッセル パレ・デ・ボザール美術館から、この作品だけが消えました。無残にも額縁からナイフで切り取られ、犯人が宿泊していたホテルのベットの枕の下から発見されました。犯人は、レストランで働くベルギー人ウエイターのロイマンスでした。犯人の要求は、東西パキスタンの内戦で敗れた東パキスタン難民への支援でした。彼は有罪となりましたが、半年で釈放されました。「光と影」のフェルメールの絵が、難民に「光」を当てる救いの絵となったのです。因みに、フェルメールの絵画が狙われ易いのは作品が小さいからです。4作品、5回の盗難に遭っています。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.rijksmuseum.nl/en/search/objects?q=vermeer&amp;p=1&amp;ps=12&amp;st=Objects&amp;ii=4#/SK-A-1595,4

    『恋文』1669~70年頃 Rijksmuseum, Amsterdam所蔵
    メイドから手紙を渡された刹那を別の部屋から盗み見する「家政婦は見た」的な視野から切り取り、鑑賞者が思い描くストーリーを逞しくさせる作品です。
    暗い部屋からこっそり覗く構図から、女主人が受け取ったのは誰にも知られたくない秘密の手紙と察しがつきます。女主人は、訳知り顔のメイドに目で問いかけています。こうしたことから、メイドは、女主人と恋人を取り持つ仲介訳となり、女主人を見下ろす姿から立場が逆転しているのかもしれません。手紙には何が書かれているのか…。覗き見の構図が緊迫したシーンをドラマチックに引き立てます。
    さて、女主人が抱えるリュートはその甘美な音色から恋愛を暗示する楽器なのですが、対になる楽譜は部屋の外に置かれています。これは、一緒に楽器を奏でていた恋人が今は不在という暗示です。画中画が、波風を受ける海に浮かぶ船であり、恋愛の困難さを裏付けています。
    実は、タイトル『恋文』はフェルメールの命名ではありません。アムステルダム国立美術館の購入時は『手紙』と呼ばれていましたが、後に恋愛を暗示するリュートなどのモチーフが複数描写されていることから『恋文』に改名されました。こうした謎解きもフェルメール作品の鑑賞の愉しみのひとつです。
    一方、この絵画は1971年に史上初のアート・テロの標的にされた作品でもあります。出稼ぎ先のブリュッセル パレ・デ・ボザール美術館から、この作品だけが消えました。無残にも額縁からナイフで切り取られ、犯人が宿泊していたホテルのベットの枕の下から発見されました。犯人は、レストランで働くベルギー人ウエイターのロイマンスでした。犯人の要求は、東西パキスタンの内戦で敗れた東パキスタン難民への支援でした。彼は有罪となりましたが、半年で釈放されました。「光と影」のフェルメールの絵が、難民に「光」を当てる救いの絵となったのです。因みに、フェルメールの絵画が狙われ易いのは作品が小さいからです。4作品、5回の盗難に遭っています。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.rijksmuseum.nl/en/search/objects?q=vermeer&p=1&ps=12&st=Objects&ii=4#/SK-A-1595,4

  • 『手紙を書く女』1665年頃 National Gallery of Art所蔵 <br />手紙を書く手を休め、カメラ目線で微笑むようにこちらを見つめる女性。寡黙な女性は、鑑賞者に何かドラマが潜んでいそうな予感を投げかけます。画中画には愛の象徴である弦楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」が描かれ、手紙は恋文と判ります。恋文を認める女性の表情にも幸せ感が溢れています。<br />一方、フェルメールの絵画には、主役が鑑賞者と目線を合わせる作品はこれ以外にありません。ですから、この絵画を「肖像画」と捉え、モデルをフェルメールの妻カタリーナとする専門家もいます。<br />左から差し込む光を反射し、耳飾りと手元のネックレスの真珠が蠱惑的な光を放っています。これらの真珠および宝石箱は、ポワンティエと言う点描技法で光り輝く様を描いています。現存作品のうち、12作品で真珠を身に着けた女性を描いていますが、それは17世紀前半のオランダは海洋国家として東洋から様々な物品がもたらされ、真珠は往時の女性の憧れの的だったからです。因みに、フェルメールが描いた真珠のネックレスは、留め金タイプではなく、リボンで結んで身に着けるタイプでした。また、白オコジョの毛皮で縁取られた黄色の上着はアーミンと呼ばれるコートで、『真珠の首飾りの女』や『女と召使い』など6作品に描かれています。この毛皮はとても高価なもので高貴の象徴とされ、フェルメール没後の財産目録にも挙げられていたそうです。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46437.html

    『手紙を書く女』1665年頃 National Gallery of Art所蔵
    手紙を書く手を休め、カメラ目線で微笑むようにこちらを見つめる女性。寡黙な女性は、鑑賞者に何かドラマが潜んでいそうな予感を投げかけます。画中画には愛の象徴である弦楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」が描かれ、手紙は恋文と判ります。恋文を認める女性の表情にも幸せ感が溢れています。
    一方、フェルメールの絵画には、主役が鑑賞者と目線を合わせる作品はこれ以外にありません。ですから、この絵画を「肖像画」と捉え、モデルをフェルメールの妻カタリーナとする専門家もいます。
    左から差し込む光を反射し、耳飾りと手元のネックレスの真珠が蠱惑的な光を放っています。これらの真珠および宝石箱は、ポワンティエと言う点描技法で光り輝く様を描いています。現存作品のうち、12作品で真珠を身に着けた女性を描いていますが、それは17世紀前半のオランダは海洋国家として東洋から様々な物品がもたらされ、真珠は往時の女性の憧れの的だったからです。因みに、フェルメールが描いた真珠のネックレスは、留め金タイプではなく、リボンで結んで身に着けるタイプでした。 また、白オコジョの毛皮で縁取られた黄色の上着はアーミンと呼ばれるコートで、『真珠の首飾りの女』や『女と召使い』など6作品に描かれています。この毛皮はとても高価なもので高貴の象徴とされ、フェルメール没後の財産目録にも挙げられていたそうです。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46437.html

  • 天通閣<br />初代天通閣は、1903(明治36)年に大阪に誘致された第5回内国勧業博覧会の跡地に、1912(明治45)年にパリのエッフェル塔と凱旋門を模した破天荒なデザインで建設されました。75mという東洋一の高さを誇りましたが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年に通天閣の直下にあった映画館「大橋座」の火災で脚部が熱せられて強度不足となって湾曲したため軍需用鉄材として解体され、姿を消しました。<br />1954(昭和29)年に通天閣観光株式会社創立事務所が設置され、その2年後に2代目通天閣が誕生して現在に至ります。2代目の誕生は、初代が姿を消してから13年後のことだったそうです。

    天通閣
    初代天通閣は、1903(明治36)年に大阪に誘致された第5回内国勧業博覧会の跡地に、1912(明治45)年にパリのエッフェル塔と凱旋門を模した破天荒なデザインで建設されました。75mという東洋一の高さを誇りましたが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年に通天閣の直下にあった映画館「大橋座」の火災で脚部が熱せられて強度不足となって湾曲したため軍需用鉄材として解体され、姿を消しました。
    1954(昭和29)年に通天閣観光株式会社創立事務所が設置され、その2年後に2代目通天閣が誕生して現在に至ります。2代目の誕生は、初代が姿を消してから13年後のことだったそうです。

  • 天通閣<br />大阪市浪速区の新世界中心部に建てられた塔高108mの展望塔です。「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味があり、命名したのは明治時代の儒学者 藤沢南岳です。<br />2代目の設計者は、名古屋テレビ塔や東京タワーなどを手がけた内藤多仲です。<br />4階の展望台が84mあり、展望台の位置が既に初代の高さを抜いています。公式キャラクター「ビリケン」を祀るビリケン神殿のあるのが5階で87.5mです。<br />文字広告は、再建翌年から日立製作所が掲げています。当初、松下電器産業に広告の掲出を打診したそうですが、松下幸之助の判断で見送ったそうです。幸之助は日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年、広告の掲出を見送ったことを大変後悔したそうです。因みに、初代天通閣の工事には、大阪電灯社員で当時17歳の幸之助も参加していたそうです。<br />2007年に国の登録有形文化財となっています。

    天通閣
    大阪市浪速区の新世界中心部に建てられた塔高108mの展望塔です。「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味があり、命名したのは明治時代の儒学者 藤沢南岳です。
    2代目の設計者は、名古屋テレビ塔や東京タワーなどを手がけた内藤多仲です。
    4階の展望台が84mあり、展望台の位置が既に初代の高さを抜いています。公式キャラクター「ビリケン」を祀るビリケン神殿のあるのが5階で87.5mです。
    文字広告は、再建翌年から日立製作所が掲げています。当初、松下電器産業に広告の掲出を打診したそうですが、松下幸之助の判断で見送ったそうです。幸之助は日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年、広告の掲出を見送ったことを大変後悔したそうです。因みに、初代天通閣の工事には、大阪電灯社員で当時17歳の幸之助も参加していたそうです。
    2007年に国の登録有形文化財となっています。

  • 天王寺動物園<br />プロムナード・ブリッジの下にあるのは、1915(大正4)年に日本で3番目の動物園として開園した歴史ある動物園です。

    天王寺動物園
    プロムナード・ブリッジの下にあるのは、1915(大正4)年に日本で3番目の動物園として開園した歴史ある動物園です。

  • 新世界ゲート<br />ここが新世界への入口です。<br />通天閣にジャンジャン横丁、大きなふぐ提灯の看板などでお馴染みの大阪市南部の下町です。映画『自虐の詩』の爆笑ラブストーリーの舞台設定もこのエリア近郊でしたが、映画の雰囲気そのものの世界がこの地に息づいています。<br />新世界の始まりは1903(明治36)年、天王寺および現在の新世界で催された第5回内国勧業博覧会に遡ります。その跡地の東半分には天王寺公園が造営され、残りの西半分の中央にシンボルとして初代「通天閣」とその南側に遊園地「ルナパーク」が造られました。これを契機に芝居小屋や映画館などが集結して発展し、新世界が形成されていきました。

    新世界ゲート
    ここが新世界への入口です。
    通天閣にジャンジャン横丁、大きなふぐ提灯の看板などでお馴染みの大阪市南部の下町です。映画『自虐の詩』の爆笑ラブストーリーの舞台設定もこのエリア近郊でしたが、映画の雰囲気そのものの世界がこの地に息づいています。
    新世界の始まりは1903(明治36)年、天王寺および現在の新世界で催された第5回内国勧業博覧会に遡ります。その跡地の東半分には天王寺公園が造営され、残りの西半分の中央にシンボルとして初代「通天閣」とその南側に遊園地「ルナパーク」が造られました。これを契機に芝居小屋や映画館などが集結して発展し、新世界が形成されていきました。

  • 新世界 「味の大丸」<br />今や「串かつ」は大阪名物のひとつに定着しましたが、串かつ以上に大阪名物とされるのが「たこ焼き」です。新世界にも数軒のたこ焼き屋さんがありますが、天王寺動物園の新世界ゲートを出た先にある「味の大丸」は、串カツとたこ焼きの2枚看板が売りです。<br />この巨大なタコのオブジェが目印です。客席は約200席あり、超ビッグなたこ焼き屋です。30種類の串かつが食べ放題なだけではなく、たこ焼きも食べ放題のコースメニューがあります。事前予約すれば、自身で焼くこともでき、14種類の具材から選べます。クレ-プのたこ焼きもあり、具材にはフル-ツや餡子などバラエティーに富んでいます。

    新世界 「味の大丸」
    今や「串かつ」は大阪名物のひとつに定着しましたが、串かつ以上に大阪名物とされるのが「たこ焼き」です。新世界にも数軒のたこ焼き屋さんがありますが、天王寺動物園の新世界ゲートを出た先にある「味の大丸」は、串カツとたこ焼きの2枚看板が売りです。
    この巨大なタコのオブジェが目印です。客席は約200席あり、超ビッグなたこ焼き屋です。30種類の串かつが食べ放題なだけではなく、たこ焼きも食べ放題のコースメニューがあります。事前予約すれば、自身で焼くこともでき、14種類の具材から選べます。クレ-プのたこ焼きもあり、具材にはフル-ツや餡子などバラエティーに富んでいます。

  • 新世界 串カツ専門店「寅勝」<br />名店と言われる「だるま(動物園前店)」の真横にある、コストパフォーマンスの高いお店です。<br />串カツ1時間食べ放題:1000円<br />季節により期間限定串があり、『ぎんなん』『プチトマト』『いちご』などがあります。注意点としては、食べ残すと1本につき100円を支払うことになります。<br />アルコール飲み放題1時間:1000円(ソフトドリンクは500円)<br />ところで、大阪のソウルフードとして親しまれる「串カツ」には、不文律のルールがあります。<br />新世界に限らず、串カツ店での基本ルールは、「ソースの2度漬け禁止」です。器に入れられたソースは共有のため、一度口に入れた物をそこへ入れるのは衛生的にNGです。ソースが足りない場合は、付け合わせとして出てくるキャベツですくって付けます。キャベツは食べ放題です。また、人気店は連日混み合うため、長時間の居座りはNGです。食事を愉しんだら、サッと席を空けるのがマナーです。

    新世界 串カツ専門店「寅勝」
    名店と言われる「だるま(動物園前店)」の真横にある、コストパフォーマンスの高いお店です。
    串カツ1時間食べ放題:1000円
    季節により期間限定串があり、『ぎんなん』『プチトマト』『いちご』などがあります。注意点としては、食べ残すと1本につき100円を支払うことになります。
    アルコール飲み放題1時間:1000円(ソフトドリンクは500円)
    ところで、大阪のソウルフードとして親しまれる「串カツ」には、不文律のルールがあります。
    新世界に限らず、串カツ店での基本ルールは、「ソースの2度漬け禁止」です。器に入れられたソースは共有のため、一度口に入れた物をそこへ入れるのは衛生的にNGです。ソースが足りない場合は、付け合わせとして出てくるキャベツですくって付けます。キャベツは食べ放題です。また、人気店は連日混み合うため、長時間の居座りはNGです。食事を愉しんだら、サッと席を空けるのがマナーです。

  • 新世界 串カツ専門店「寅勝」ビリケンさん<br />タイガース・バージョンのビリケンさんです。<br />笑っているのか怒っているのか、不思議な表情と愛嬌あるポーズが人気で、幸運をお願いする人が絶えません。<br />通天閣観光の資料によると、誕生は1908(明治41)年、作者は米国女流美術家フローレンス・プリッツだそうです。命名は、その彫刻の形が往時の米国大統領ウィリアム・タフトの頭部を思わせたことから、ウィリアムの愛称「Billy」に小さいを表す接尾語「-ken」を加えたのが由来とされます。<br />一方、異論も多数あります。往時の認識では、足を突き出す座り方はアフリカ人、顔立ちは東洋人がモデルで、足の裏をかいて笑えば願いが叶う福の神とされたとの説もあります。日本への輸入は明治42年頃、家内和合や商売繁盛の神として日本中の花街を中心に流行したといいます。

    新世界 串カツ専門店「寅勝」ビリケンさん
    タイガース・バージョンのビリケンさんです。
    笑っているのか怒っているのか、不思議な表情と愛嬌あるポーズが人気で、幸運をお願いする人が絶えません。
    通天閣観光の資料によると、誕生は1908(明治41)年、作者は米国女流美術家フローレンス・プリッツだそうです。命名は、その彫刻の形が往時の米国大統領ウィリアム・タフトの頭部を思わせたことから、ウィリアムの愛称「Billy」に小さいを表す接尾語「-ken」を加えたのが由来とされます。
    一方、異論も多数あります。往時の認識では、足を突き出す座り方はアフリカ人、顔立ちは東洋人がモデルで、足の裏をかいて笑えば願いが叶う福の神とされたとの説もあります。日本への輸入は明治42年頃、家内和合や商売繁盛の神として日本中の花街を中心に流行したといいます。

  • 新世界 「横綱」新世界本店<br />「横綱」は大阪市内に10店舗を構え、大阪の串カツ文化の一翼を担うお店です。<br />店の内外の壁には相撲絵や提灯などが飾られ、相撲感が溢れています。<br />新鮮な食材をジューシーに揚げる串カツは、お店独自の配合のサクサク・フワフワな衣と秘伝の甘口ソースがクセになる美味しさです。<br />目玉メニューは、横綱サイズの「メガ盛り」です。通常サイズの3倍のボリュームがあります。

    新世界 「横綱」新世界本店
    「横綱」は大阪市内に10店舗を構え、大阪の串カツ文化の一翼を担うお店です。
    店の内外の壁には相撲絵や提灯などが飾られ、相撲感が溢れています。
    新鮮な食材をジューシーに揚げる串カツは、お店独自の配合のサクサク・フワフワな衣と秘伝の甘口ソースがクセになる美味しさです。
    目玉メニューは、横綱サイズの「メガ盛り」です。通常サイズの3倍のボリュームがあります。

  • 新世界 「づぼらや」 新世界本店<br />大阪でふぐ料理と言えば、「大阪づぼらや」と言われる程の超有名店です。<br />誰もが何処かで一度は目にしたことがある、店先に下げられた大きな「ふぐ提灯」が目印です。<br />食いだおれの街の顔となる数ある看板店舗のうちのひとつで、1920(大正9)年創業の老舗でもあります。老舗ながら、食通の舌を満足させるリーズナブルで美味しいふぐ鍋が味わえます。ふぐ料理に欠かせない、徳島県産のスダチとユコウを丹念に手で搾り、特別醸造した醤油を使用した自家製ポン酢との相性が抜群です。

    新世界 「づぼらや」 新世界本店
    大阪でふぐ料理と言えば、「大阪づぼらや」と言われる程の超有名店です。
    誰もが何処かで一度は目にしたことがある、店先に下げられた大きな「ふぐ提灯」が目印です。
    食いだおれの街の顔となる数ある看板店舗のうちのひとつで、1920(大正9)年創業の老舗でもあります。老舗ながら、食通の舌を満足させるリーズナブルで美味しいふぐ鍋が味わえます。ふぐ料理に欠かせない、徳島県産のスダチとユコウを丹念に手で搾り、特別醸造した醤油を使用した自家製ポン酢との相性が抜群です。

  • 新世界 串カツ「だるま」動物園前店<br />右端の店舗が、「だるま」です。<br />大阪の「串カツ」と言えば、新世界の串カツ発祥の老舗として全国に名を馳せる「だるま」です。1929(昭和4)年創業で大阪に10店舗以上、海外進出も果たした最大手の串カツチェーン店です。<br />しかし、元々は「新世界総本店」のカウンターのみ12席から細々とスタートしたそうです。現在は、新世界だけでも4店舗あります。<br />特製ソース、衣、ジューシーな油、この3つが絶妙のバランスで素材の味を引き立てます。肉・海鮮・野菜・卵とバランスの良い「道頓堀セット」は、串カツに一品スピードメニューが付いてきます。一通りの串をセットで食べた後、足りなければ単品串を頼んでもOKです。「紅しょうが串」は、爽やかな酸味と軽快な食感がクセになる味わいです。大阪ではポピュラーな串です。

    新世界 串カツ「だるま」動物園前店
    右端の店舗が、「だるま」です。
    大阪の「串カツ」と言えば、新世界の串カツ発祥の老舗として全国に名を馳せる「だるま」です。1929(昭和4)年創業で大阪に10店舗以上、海外進出も果たした最大手の串カツチェーン店です。
    しかし、元々は「新世界総本店」のカウンターのみ12席から細々とスタートしたそうです。現在は、新世界だけでも4店舗あります。
    特製ソース、衣、ジューシーな油、この3つが絶妙のバランスで素材の味を引き立てます。肉・海鮮・野菜・卵とバランスの良い「道頓堀セット」は、串カツに一品スピードメニューが付いてきます。一通りの串をセットで食べた後、足りなければ単品串を頼んでもOKです。「紅しょうが串」は、爽やかな酸味と軽快な食感がクセになる味わいです。大阪ではポピュラーな串です。

  • 新世界 ビリケンさん<br />初代ビリケンさんが大阪に登場したのは明治45年のことでした。通天閣と共に新世界に開業した遊園地「ルナパーク」にあった「ビリケン堂」に展示され、新世界の名物になったそうです。しかし、このビリケンさんは遊園地の閉鎖と共に行方不明になったそうです。<br />1979(昭和54)年、通天閣に「通天閣ふれあい広場」をつくる際、ビリケンさんを復刻させる運びとなり、2代目ビリケンさんを通天閣の展望台に鎮座させました。<br />御利益を求めて足の裏を撫でる人が後を絶たず、足の裏の磨り減りが進んだため、2012年、通天閣並びに新世界100周年を記念して新たに3代目が新調されました。3代目の中には、金のビリケンさん「ビリ金さん」が納められています。

    新世界 ビリケンさん
    初代ビリケンさんが大阪に登場したのは明治45年のことでした。通天閣と共に新世界に開業した遊園地「ルナパーク」にあった「ビリケン堂」に展示され、新世界の名物になったそうです。しかし、このビリケンさんは遊園地の閉鎖と共に行方不明になったそうです。
    1979(昭和54)年、通天閣に「通天閣ふれあい広場」をつくる際、ビリケンさんを復刻させる運びとなり、2代目ビリケンさんを通天閣の展望台に鎮座させました。
    御利益を求めて足の裏を撫でる人が後を絶たず、足の裏の磨り減りが進んだため、2012年、通天閣並びに新世界100周年を記念して新たに3代目が新調されました。3代目の中には、金のビリケンさん「ビリ金さん」が納められています。

  • 通天閣<br />「新世界」という名の由来は、ドボルザークの交響曲「新世界より」に因むとの説や、儒学者の藤澤南岳が「天にも通じるように」という意を込めて名付けたとする説、江戸時代の記憶術のカリスマ和田守菊次郎が創案したとする説、江戸時代の「旧世界」に対比した命名など、諸説紛々です。<br />それはともかくとして、2025年に2度目の大阪万博を迎えるに当たり、グローバルな「新世界」に脱皮する時期が来ているかもしれません。

    通天閣
    「新世界」という名の由来は、ドボルザークの交響曲「新世界より」に因むとの説や、儒学者の藤澤南岳が「天にも通じるように」という意を込めて名付けたとする説、江戸時代の記憶術のカリスマ和田守菊次郎が創案したとする説、江戸時代の「旧世界」に対比した命名など、諸説紛々です。
    それはともかくとして、2025年に2度目の大阪万博を迎えるに当たり、グローバルな「新世界」に脱皮する時期が来ているかもしれません。

  • 通天閣<br />初代通天閣のエントランスには、地元の化粧品メーカ「中山太陽堂(現クラブコスメチックス)」が孔雀の天井画の広告を掲げていました。 <br />元々は2代目には天井画はなかったのですが、クラブコスメチックスが耐震化工事の決定を機に天井画を復刻させて寄贈しました。初代天井画を描いた織田一磨四の草稿を基に、日本画家の沖谷晃司氏が原画『花園に遊ぶクジャク図』を制作し、2015年に一般公開されました。 地上12mのエントランス天井に、直径17mの八角形の中の花園に3羽の孔雀が戯れています。尚、復刻版にも初代の天井画に記されていた商品名のロゴが再現されています。

    通天閣
    初代通天閣のエントランスには、地元の化粧品メーカ「中山太陽堂(現クラブコスメチックス)」が孔雀の天井画の広告を掲げていました。
    元々は2代目には天井画はなかったのですが、クラブコスメチックスが耐震化工事の決定を機に天井画を復刻させて寄贈しました。初代天井画を描いた織田一磨四の草稿を基に、日本画家の沖谷晃司氏が原画『花園に遊ぶクジャク図』を制作し、2015年に一般公開されました。 地上12mのエントランス天井に、直径17mの八角形の中の花園に3羽の孔雀が戯れています。尚、復刻版にも初代の天井画に記されていた商品名のロゴが再現されています。

  • 通天閣<br />あまり知られていないのですが、通天閣の下にある車止めのポールは、通天閣の形をしています。

    通天閣
    あまり知られていないのですが、通天閣の下にある車止めのポールは、通天閣の形をしています。

  • 新世界 「無添 くら寿司」新世界通天閣店<br />新世界を訪れた3月12日は、プレオープンの日でした。インバウンド観光客をターゲットにした初の店舗だそうです。<br />回転する巨大なオブジェはくら寿司の回転レーンをイメージしたもので、ビジュアル的に「回転寿司」であることを海外からの来阪客に伝える広告塔です。回転するだけではなく、毎時0分から15分毎に驚きの仕掛けがありますが、それは来店時のお楽しみとさせていただきます。<br />また、対応可能な外国語(英語、中国語、韓国語、ベトナム語)のスタッフが一目で判る名札、無料Wi-Fi「KURA Wi-Fi」、多言語対応の自動案内機なども設置されています。<br />座席数は199席あり、4月11日までは1皿88円となる「全皿88キャンペーン」が実施されます。

    新世界 「無添 くら寿司」新世界通天閣店
    新世界を訪れた3月12日は、プレオープンの日でした。インバウンド観光客をターゲットにした初の店舗だそうです。
    回転する巨大なオブジェはくら寿司の回転レーンをイメージしたもので、ビジュアル的に「回転寿司」であることを海外からの来阪客に伝える広告塔です。回転するだけではなく、毎時0分から15分毎に驚きの仕掛けがありますが、それは来店時のお楽しみとさせていただきます。
    また、対応可能な外国語(英語、中国語、韓国語、ベトナム語)のスタッフが一目で判る名札、無料Wi-Fi「KURA Wi-Fi」、多言語対応の自動案内機なども設置されています。
    座席数は199席あり、4月11日までは1皿88円となる「全皿88キャンペーン」が実施されます。

  • 茶臼山<br />天王寺公園の北東部に立つ茶臼山(標高26m)は、1614(慶長19)年の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となり、現在は大阪府史跡に指定されています。<br />茶臼山は5世紀の豪族の墓との説もあるのですが(墓の主は不明)、そうではなくて円墳または自然丘陵との見方もあるそうです。もしこれが、古墳だとすれば、全長200mの大阪市内では最大級の前方後円墳となるそうです。

    茶臼山
    天王寺公園の北東部に立つ茶臼山(標高26m)は、1614(慶長19)年の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となり、現在は大阪府史跡に指定されています。
    茶臼山は5世紀の豪族の墓との説もあるのですが(墓の主は不明)、そうではなくて円墳または自然丘陵との見方もあるそうです。もしこれが、古墳だとすれば、全長200mの大阪市内では最大級の前方後円墳となるそうです。

  • 和気橋(わけばし)<br />茶臼山へは、1937(昭和12)年に河底池に架けられた朱色の和気橋を渡っていきます。池には噴水もあり、西には通天閣、南にはあべのハルカスの姿を見ることができます。<br />和気清麻呂が上町台地を横断する堀川を掘った名残がこの河底池(かわぞこいけ)であり、その際に掘り出した土を積み上げたものが茶臼山だとの説もあります。<br />この説によると、河底池(通称:ちゃぶいけ)は788(延暦7)年に和気清麻呂が大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地だそうです。

    和気橋(わけばし)
    茶臼山へは、1937(昭和12)年に河底池に架けられた朱色の和気橋を渡っていきます。池には噴水もあり、西には通天閣、南にはあべのハルカスの姿を見ることができます。
    和気清麻呂が上町台地を横断する堀川を掘った名残がこの河底池(かわぞこいけ)であり、その際に掘り出した土を積み上げたものが茶臼山だとの説もあります。
    この説によると、河底池(通称:ちゃぶいけ)は788(延暦7)年に和気清麻呂が大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地だそうです。

  • 茶臼山<br />和気橋を渡ると、「史跡 茶臼山 及 河底池」と記された碑が立てられています。<br />前述したように茶臼山を古墳と見做すか否かは説が分かれています。古来荒陵あるいは荒陵山と呼ばれてきた同地は昔から古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる長持型石棺蓋が四天王寺に伝わっています。古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳とされてきました。<br />しかし、1986年の発掘調査の結果、古墳に欠かせない埴輪や葺石などが確認されなかったことから「古墳ではない」とする説が現れました。<br />一方、規則正しい造られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通しており、古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられています。<br />また、四天王寺境内の発掘調査では埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めて更なる周囲の発掘調査が望まれる状況にあります。2009年の発掘調査では、水銀朱が塗られた石室らしきものが発掘されています。

    茶臼山
    和気橋を渡ると、「史跡 茶臼山 及 河底池」と記された碑が立てられています。
    前述したように茶臼山を古墳と見做すか否かは説が分かれています。古来荒陵あるいは荒陵山と呼ばれてきた同地は昔から古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる長持型石棺蓋が四天王寺に伝わっています。古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳とされてきました。
    しかし、1986年の発掘調査の結果、古墳に欠かせない埴輪や葺石などが確認されなかったことから「古墳ではない」とする説が現れました。
    一方、規則正しい造られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通しており、古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられています。
    また、四天王寺境内の発掘調査では埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めて更なる周囲の発掘調査が望まれる状況にあります。2009年の発掘調査では、水銀朱が塗られた石室らしきものが発掘されています。

  • 茶臼山 大坂の陣史跡碑<br />孔雀の羽を彷彿とさせるオブジェは高さ2.5mあり、2014年に一心寺が制作し大阪市に寄贈したものです。<br />荒波をデザインした扇形の巨石の上に「大坂の陣史跡 茶臼山」と刻んだ円形の石を乗せています。荒波は戦国時代の群雄割拠を表し、円形の石は天下統一と平和を象徴しているそうです。<br />因みに、一心寺は茶臼山に隣接する浄土宗の名刹で、大坂の陣の後、50年毎に追悼の法要を執り行ってきました。<br /><br />2019年1月12日に逝去された哲学者 梅原猛氏は、「中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、奈良県明日香村にある石舞台古墳も暴かれた墓ではないか」と言われていました。それを茶臼山古墳に照らし合わせると、埴輪や葺石などが出土しなかった理由が見えてきます。<br />587年、仏教派の蘇我馬子と神道派の物部守屋の戦いがあり、物部氏は敗北し、蘇我氏側の聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢を用いて四天王寺を建立しました。<br />この茶臼山古墳は四天王寺西南にある石鳥居から西南に360m程の至近距離にあります。そうであれば、茶臼山古墳は物部氏を葬った古墳と考えるのが妥当です。しかし物部氏は謀反人であり、茶臼山古墳は謀反人を葬った墓であるとして葺石を剥がされ、埴輪も撤去されたとは考えられないでしょうか?

    茶臼山 大坂の陣史跡碑
    孔雀の羽を彷彿とさせるオブジェは高さ2.5mあり、2014年に一心寺が制作し大阪市に寄贈したものです。
    荒波をデザインした扇形の巨石の上に「大坂の陣史跡 茶臼山」と刻んだ円形の石を乗せています。荒波は戦国時代の群雄割拠を表し、円形の石は天下統一と平和を象徴しているそうです。
    因みに、一心寺は茶臼山に隣接する浄土宗の名刹で、大坂の陣の後、50年毎に追悼の法要を執り行ってきました。

    2019年1月12日に逝去された哲学者 梅原猛氏は、「中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、奈良県明日香村にある石舞台古墳も暴かれた墓ではないか」と言われていました。それを茶臼山古墳に照らし合わせると、埴輪や葺石などが出土しなかった理由が見えてきます。
    587年、仏教派の蘇我馬子と神道派の物部守屋の戦いがあり、物部氏は敗北し、蘇我氏側の聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢を用いて四天王寺を建立しました。
    この茶臼山古墳は四天王寺西南にある石鳥居から西南に360m程の至近距離にあります。そうであれば、茶臼山古墳は物部氏を葬った古墳と考えるのが妥当です。しかし物部氏は謀反人であり、茶臼山古墳は謀反人を葬った墓であるとして葺石を剥がされ、埴輪も撤去されたとは考えられないでしょうか?

  • 茶臼山<br />大阪の五低山のひとつに数えられています。標高26mの山頂には、2017年に天王寺観光ボランティア協議会と一心寺より「頂上碑」が寄贈されています。<br />大坂夏の陣では、藤井寺周辺での「道明寺・誉田の合戦」、八尾周辺での「八尾・若江の合戦」と続き、やがて大坂城近くまで追い詰められました。そして最後の闘いとなる「天王寺・岡山の合戦」が繰り広げられました。その時、真田幸村の本陣となったのが茶臼山でした。<br />南北に細長い上町台地の地形を利用した毛利勝永勢の奮闘により、徳川勢の前線は混乱状態でした。その期を狙って、真田幸村勢が家康本陣を3度に渡って衝きまくりました。その時、家康は死を覚悟したといいます。<br />後日、あの絶対絶命の危機から逃れられたのは、茶臼山山頂の「茶臼山稲荷」のおかげとし、堀越神社境内に遷座して厚く祀ったといいます。<br />古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されています。

    茶臼山
    大阪の五低山のひとつに数えられています。標高26mの山頂には、2017年に天王寺観光ボランティア協議会と一心寺より「頂上碑」が寄贈されています。
    大坂夏の陣では、藤井寺周辺での「道明寺・誉田の合戦」、八尾周辺での「八尾・若江の合戦」と続き、やがて大坂城近くまで追い詰められました。そして最後の闘いとなる「天王寺・岡山の合戦」が繰り広げられました。その時、真田幸村の本陣となったのが茶臼山でした。
    南北に細長い上町台地の地形を利用した毛利勝永勢の奮闘により、徳川勢の前線は混乱状態でした。その期を狙って、真田幸村勢が家康本陣を3度に渡って衝きまくりました。その時、家康は死を覚悟したといいます。
    後日、あの絶対絶命の危機から逃れられたのは、茶臼山山頂の「茶臼山稲荷」のおかげとし、堀越神社境内に遷座して厚く祀ったといいます。
    古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されています。

  • 大阪市立美術館<br />茶臼山山頂付近から眺めた美術館です。<br />茶臼山には、戦国時代には城や砦に使われたとの記録が残されています。<br />1546(天文15)年、往時の管領であった細川晴元の家臣 山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に大塚城を築きましたが、翌年には舎利寺の戦いの際に細川氏綱・遊佐長教に攻められてあっけなく落城しています。

    大阪市立美術館
    茶臼山山頂付近から眺めた美術館です。
    茶臼山には、戦国時代には城や砦に使われたとの記録が残されています。
    1546(天文15)年、往時の管領であった細川晴元の家臣 山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に大塚城を築きましたが、翌年には舎利寺の戦いの際に細川氏綱・遊佐長教に攻められてあっけなく落城しています。

  • 一心寺(いっしんじ) リス<br />石垣の雨樋に白いリスがいると思ったら、石でできたオブジェでした。<br />北海道の帯広畜産大の構内に生息している、 アルビノと思われる白いエゾリスがここまで逃げてきたのかと焦ったのですが…。<br />これもお寺のユーモアのひとつなのでしょう。

    一心寺(いっしんじ) リス
    石垣の雨樋に白いリスがいると思ったら、石でできたオブジェでした。
    北海道の帯広畜産大の構内に生息している、 アルビノと思われる白いエゾリスがここまで逃げてきたのかと焦ったのですが…。
    これもお寺のユーモアのひとつなのでしょう。

  • 一心寺 リス<br />近くで観ると、とてもリアルにできています。

    一心寺 リス
    近くで観ると、とてもリアルにできています。

  • 一心寺 南門<br />正式名称は「坂松山高岳院一心寺」と言い、発祥は1185(文治元)年に遡ります。浄土宗の開祖 法然上人がこの地の草庵「荒陵の新別所(あらはかのしんべっしょ)」で『日想観』を修せられたのが由来とされます。草庵は法然の本名に因んで「源空庵」と呼ばれていたそうですが、その後「一心寺」へ改称されました。<br />関ヶ原の合戦の年、徳川家康の8男 仙千代が夭折しました。一心寺で葬儀が営まれ、その導師を務めたのが時の住職 本誉存牟(ほんよぞんむ)上人でした。以来、家康との結び付きが強く、大坂冬の陣では一心寺に家康の本陣が置かれました。<br />江戸時代末期からは年中無休で施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として賑わい、明治20年にお骨佛が造立されてからは「お骨佛の寺」として親しまれ、開かれた「お金のない人の駆け込み寺」としての歴史を刻んできました。

    一心寺 南門
    正式名称は「坂松山高岳院一心寺」と言い、発祥は1185(文治元)年に遡ります。浄土宗の開祖 法然上人がこの地の草庵「荒陵の新別所(あらはかのしんべっしょ)」で『日想観』を修せられたのが由来とされます。草庵は法然の本名に因んで「源空庵」と呼ばれていたそうですが、その後「一心寺」へ改称されました。
    関ヶ原の合戦の年、徳川家康の8男 仙千代が夭折しました。一心寺で葬儀が営まれ、その導師を務めたのが時の住職 本誉存牟(ほんよぞんむ)上人でした。以来、家康との結び付きが強く、大坂冬の陣では一心寺に家康の本陣が置かれました。
    江戸時代末期からは年中無休で施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として賑わい、明治20年にお骨佛が造立されてからは「お骨佛の寺」として親しまれ、開かれた「お金のない人の駆け込み寺」としての歴史を刻んできました。

  • 一心寺 <br />古瓦を用いたオブジェです。<br />浄土宗の寺院ですが、宗派を問わず納骨を受け付けています。納骨料は、永代供養でも1~3万円(骨の大小による)とリーズナブルで、一般的な寺院の1/10程です。<br />リーズナブルな理由は、「お骨佛さま」(骨仏)という方法が採られているからです。骨仏とは、納められた大勢の人の遺骨を粉末化して、布糊や土を混ぜて造られた仏像のことです。一体の仏像に15万人分の遺骨を用い、通常のお墓よりも省スペースで済むのが理由です。<br />また、金銭的な理由だけでなく、夫の家族と同じ墓に入りたくないという奥さんや、仏教の金儲け主義に嫌気がさした人など、幅広い層から支持を得ているようです。

    一心寺
    古瓦を用いたオブジェです。
    浄土宗の寺院ですが、宗派を問わず納骨を受け付けています。納骨料は、永代供養でも1~3万円(骨の大小による)とリーズナブルで、一般的な寺院の1/10程です。
    リーズナブルな理由は、「お骨佛さま」(骨仏)という方法が採られているからです。骨仏とは、納められた大勢の人の遺骨を粉末化して、布糊や土を混ぜて造られた仏像のことです。一体の仏像に15万人分の遺骨を用い、通常のお墓よりも省スペースで済むのが理由です。
    また、金銭的な理由だけでなく、夫の家族と同じ墓に入りたくないという奥さんや、仏教の金儲け主義に嫌気がさした人など、幅広い層から支持を得ているようです。

  • 一心寺 納骨堂<br />この堂宇で「お骨佛さま」を祀っています。<br />10年毎に1体、阿弥陀如来像を造立する習わしだそうです。<br />

    一心寺 納骨堂
    この堂宇で「お骨佛さま」を祀っています。
    10年毎に1体、阿弥陀如来像を造立する習わしだそうです。

  • 一心寺 香炉<br />線香の煙が絶えず、大切な人に会いに沢山の人々が訪れていることが窺えます。<br />寺紋は、浄土宗の宗紋「月影杏葉」です。この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来します。1915(大正4)年に、しべは7個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められました。

    一心寺 香炉
    線香の煙が絶えず、大切な人に会いに沢山の人々が訪れていることが窺えます。
    寺紋は、浄土宗の宗紋「月影杏葉」です。この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来します。1915(大正4)年に、しべは7個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められました。

  • 一心寺 <br />大本堂には本尊 阿弥陀如来像を祀っていますが、現在、修復工事中のようでシートにすっぽり覆われています。2019年末まで工事中のようです。<br />大坂冬の陣では徳川家康が一心寺に本陣を敷きました。当時の住職 本誉存牟上人は、寺の周辺が戦場となり多くの無名戦士の死体が累々と横たわっているのを見て大いに悲しみ、3000体にも及ぶ死体を1ヶ所に集めてねんごろに供養されたそうです。 <br />住職は三河国の出身で、家康と同郷でした。不思議な縁ではありませんか!

    一心寺
    大本堂には本尊 阿弥陀如来像を祀っていますが、現在、修復工事中のようでシートにすっぽり覆われています。2019年末まで工事中のようです。
    大坂冬の陣では徳川家康が一心寺に本陣を敷きました。当時の住職 本誉存牟上人は、寺の周辺が戦場となり多くの無名戦士の死体が累々と横たわっているのを見て大いに悲しみ、3000体にも及ぶ死体を1ヶ所に集めてねんごろに供養されたそうです。 
    住職は三河国の出身で、家康と同郷でした。不思議な縁ではありませんか!

  • 一心寺 開山堂<br />法然上人の木像を造立して祀っている堂宇です。<br />かつてここに建っていた堂宇と法然上人の真影は、大阪大空襲に遭い、焼尽してしまったそうです。現在の堂宇は1973(昭和48)年に再建されたものです。

    一心寺 開山堂
    法然上人の木像を造立して祀っている堂宇です。
    かつてここに建っていた堂宇と法然上人の真影は、大阪大空襲に遭い、焼尽してしまったそうです。現在の堂宇は1973(昭和48)年に再建されたものです。

  • 一心寺 開山堂<br />向拝の「むくり」が船底のようで尋常ではありません。<br />

    一心寺 開山堂
    向拝の「むくり」が船底のようで尋常ではありません。

  • 一心寺 おばけ燈籠<br />手水舎の近くに大きな石燈籠が佇みます。<br />何故か「おばけ燈籠」と呼ばれています。「大きい」という意味でしょうか?<br />赤味がかった色合いから、鞍馬石でできているように思います。

    一心寺 おばけ燈籠
    手水舎の近くに大きな石燈籠が佇みます。
    何故か「おばけ燈籠」と呼ばれています。「大きい」という意味でしょうか?
    赤味がかった色合いから、鞍馬石でできているように思います。

  • 一心寺 灰皿<br />風変わりな、獅子が口を開けたような陶器製の灰皿が置かれています。<br />寺院には珍しく、境内で喫煙できるようです。<br />ゴミ駕籠と並んでいることから、間違って可燃物を入れられたら大変なことになるのでは…。建屋からは距離がありますが、用心に越したことはありませんから…。

    一心寺 灰皿
    風変わりな、獅子が口を開けたような陶器製の灰皿が置かれています。
    寺院には珍しく、境内で喫煙できるようです。
    ゴミ駕籠と並んでいることから、間違って可燃物を入れられたら大変なことになるのでは…。建屋からは距離がありますが、用心に越したことはありませんから…。

  • 一心寺 仁王門<br />イベント会場に迷い込んだのかと錯覚しそうですが、これが仁王門です。<br />極楽浄土の天空を覆うヴェールをガラスで表現し、聖なるターラ樹の並樹を三角形の鋼板と鉄パイプで表わした、「サンチーの仏塔」に現存するインド古式様式です。大法要の際、舞楽の野外舞台になるよう工夫されています。<br />元々の山門は、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれたものでした。しかし、大阪大空襲で焼失し、1997年に建築家・工学博士であり一心寺の前住職、現長老である高口恭行氏が「黒門」をイメージしてインド古式様式風に設計されたものです。    <br />現代彫刻風のブロンズ造の仁王像もユニークです。<br />1997年に彫刻家 神戸峰男氏が制作された、高さ5mもある阿吽形像です。武器を持たず、裸かつ素手で立ち向かっていきます。これは、武器の無い非暴力の知恵によって社会の悪に立ち向かい、人々の邪心を戒める姿を、隆々たる筋骨で表現しています。 

    一心寺 仁王門
    イベント会場に迷い込んだのかと錯覚しそうですが、これが仁王門です。
    極楽浄土の天空を覆うヴェールをガラスで表現し、聖なるターラ樹の並樹を三角形の鋼板と鉄パイプで表わした、「サンチーの仏塔」に現存するインド古式様式です。大法要の際、舞楽の野外舞台になるよう工夫されています。
    元々の山門は、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれたものでした。しかし、大阪大空襲で焼失し、1997年に建築家・工学博士であり一心寺の前住職、現長老である高口恭行氏が「黒門」をイメージしてインド古式様式風に設計されたものです。    
    現代彫刻風のブロンズ造の仁王像もユニークです。
    1997年に彫刻家 神戸峰男氏が制作された、高さ5mもある阿吽形像です。武器を持たず、裸かつ素手で立ち向かっていきます。これは、武器の無い非暴力の知恵によって社会の悪に立ち向かい、人々の邪心を戒める姿を、隆々たる筋骨で表現しています。 

  • 一心寺 仁王門 門扉<br />豊満な四天女が浮彫りにされています。原画は画家 秋野不矩作、浮彫りは彫刻家 神戸峰男作です。<br />このレリーフの縁起には次の記載があり、佛教伝播のプロセスとその変容を考える材料にもなっているようです。<br />「インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。」<br />しかし、胸や腰に手を触れているような方は誰ひとりとしていません。

    一心寺 仁王門 門扉
    豊満な四天女が浮彫りにされています。原画は画家 秋野不矩作、浮彫りは彫刻家 神戸峰男作です。
    このレリーフの縁起には次の記載があり、佛教伝播のプロセスとその変容を考える材料にもなっているようです。
    「インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。」
    しかし、胸や腰に手を触れているような方は誰ひとりとしていません。

  • 一心寺 本多出雲守忠朝の墓<br />この一心寺付近は大坂夏の陣の戦の舞台となった場所で、最終局面の「天王寺口の戦い」で討ち死にした徳川方の武将 本多忠朝が眠る墓です。この墓には禁酒を誓う人が後を絶たないようです。<br />本多忠朝は、冬の陣では酒を飲んでいたために敗退して家康に叱責され、その汚名を挽回しようと夏の陣で奮戦するも討ち死にしました。そして死の間際に言い残した言葉が「戒むべきは酒なり」の一言でした。そうした逸話から、「酒封じの神」として崇められているようです。

    一心寺 本多出雲守忠朝の墓
    この一心寺付近は大坂夏の陣の戦の舞台となった場所で、最終局面の「天王寺口の戦い」で討ち死にした徳川方の武将 本多忠朝が眠る墓です。この墓には禁酒を誓う人が後を絶たないようです。
    本多忠朝は、冬の陣では酒を飲んでいたために敗退して家康に叱責され、その汚名を挽回しようと夏の陣で奮戦するも討ち死にしました。そして死の間際に言い残した言葉が「戒むべきは酒なり」の一言でした。そうした逸話から、「酒封じの神」として崇められているようです。

  • 一心寺 霧降りの松<br />北門を入って直ぐの左手には、真田幸村が赤備えの軍を率いて徳川家康を追い詰めた時に家康が身を隠したと伝わる「霧降りの松」があります。<br />この松から吹き出した霧が立ち込め、家康を助けたという伝説を持つ松です。松は枯れてしまい、根本の幹部分だけが往時を偲ぶよすがとなっています。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    一心寺 霧降りの松
    北門を入って直ぐの左手には、真田幸村が赤備えの軍を率いて徳川家康を追い詰めた時に家康が身を隠したと伝わる「霧降りの松」があります。
    この松から吹き出した霧が立ち込め、家康を助けたという伝説を持つ松です。松は枯れてしまい、根本の幹部分だけが往時を偲ぶよすがとなっています。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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