2018/11/04 - 2018/11/04
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しゅいぐーさん
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最後に御師旧外川家住宅へ行ってきました。ここは、昔富士山へ登る人たちの宿でした。御師の家は、個人の住宅でありながら、夏の登拝シーズンは富士講の信仰者を迎え入れ、宿坊として、また祈祷などの信仰の案内までも請けおっていた。御師とは、そもそも祈祷師のことで、家々の主が今でいう神官の役割を果たしながら、富士山をお守りする聖域の町を担っていたのだ。
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表通りから奥まった屋敷までは、「タツミチ」と呼ぶ細長い引きこみ道が通じていた。これは、御師町が成立した当初の古い“本御師”の家の特徴だという。これに対し、表通りに面した“町御師”もある。さらに中門をくぐると、「ヤーナ川(間の川)」という禊ぎのための小川が今も音をたて流れている。
懐かしい、歴史ある神社などにも似た豊饒な空気が「御師の家」には満ちていた。心の奥底がふとゆるみ、自分という一本の木が、大地に深く根を張りなおしていく気がした。
広く開け放たれた表玄関から、立派なご神木が根を張る奥庭まで、やわらかな秋風がのびのびと通りぬけていく。御師旧外川家住宅 美術館・博物館
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最盛期には、御師町の両側八十六軒連なったという御師住宅のなかで、この「旧外川家住宅」は、二百四十年という歴史を今まで長えられてきた。このご神木が、屋敷の命を守ったという、いかにも富士山の神様に仕えてきた家らしい不思議な逸話まで、後継人の原寅夫さんは、大切そうにお話してくださった。
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『二百四十年もの間、壊さず、直さず残してあったというのは、ぼく自身も不思議に思うんですね。寒いですし、家族も増えていく、二世帯三世帯と住む時代に、それをガマンして守り抜いてきた。当時は世界遺産がどうのこうの、ということもなかった。それでも残そうとしたというのは、信仰者さんへの責任とか、歴史を汚しちゃいけないとか、富士山の神様への忠誠心とか、それだけ想いが強かったということでしょうね。
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そういうご先祖さまの想いを、ご神木が無言で伝えていたのかもしれません』御師の家は、個人の住宅でありながら、夏の登拝シーズンは富士講の信仰者を迎え入れ、宿坊として、また祈祷などの信仰の案内までも請けおっていた。
御師とは、そもそも祈祷師のことで、家々の主が今でいう神官の役割を果たしながら、富士山をお守りする聖域の町を担っていたのだ。 -
『富士山に信仰のために登山する人々に、みずからの住宅を宿坊として提供し、お祈りもして、富士山信仰の布教もする。それが“富士吉田御師”ですね。
江戸や千葉など関東一円からやってくる富士講の信仰者さんたちは、わざわざ北口の浅間神社に行って拝まなくても、ここに泊まりながら必要な祈りは全て果たせ、翌日そのまま富士山に行けた。御師の家には、そういうメリットもあったわけです』 -
そんな御師の家の最たる特徴は、家のなかに必ず一間、富士山の浅間神社を祀る「御神前の間」がある。つまり家のなかに一つの神社があり、富士山の神様「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」と夫神様の「彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)」、さらに父神様の「大山祗神(おおやまつみ)」が祀られている。
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外川家の場合、神様の隣に富士講の行者「食行身禄(じきぎょうみろく)」さんの像が並んでいた。身禄さんといえば、もとは一般庶民の出でありながら、富士山で修行を積み、ついに即身仏となって富士講の中興の祖として人々に敬われた。
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神様の横に富士講の行者さん…。それは、いかにも、富士山信仰を庶民に広める大潮流の源となった、“富士吉田御師”の家らしい姿に思えた。
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隣は、観光案内所です
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ふじさんミュージアムに展示してあった、昔のジオラマはここにありました
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