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ベルリンの壁を最初に見たのは東ベルリン側からでした。つまり東ドイツからベルリンに入ったのでした。<br /> 当時(1970年代)ベルリンに入る一般的なルートは西ドイツから国際急行列車(D-Zug)に乗り、国境を越えると東ドイツの駅には停車することなくベルリンのツォー駅に入線するものでした。<br /><br />*D-ZugはDurchgangszug のことで、これは国境を越えて走る急行列車の意味で良いと思います。もちろんここでベルリンに入るにはD-Zug以外にもICやE-Zugもありましたが本数はD-Zugが多いようでした。<br /><br /> 当時(1972年10月23日の深夜)私はベルリン行のD-Zug105列車に乗っていたが隣の車両がすいていたので荷物を持って隣の車両に引っ越して席を変えたところ西ドイツ側国境駅(ヘルムシュテッド駅)で切り離されてしまいました。弱ったなと思ったのもつかの間、東ドイツの国境駅(マリエンボルン駅)でおろされ、そこで24時間ビザを買わされました。<br /> 同じような人は自分の他にもう一人いました。その間列車は待っていました。この列車はマグデブルグ止まり(午前5時57分)であったので列車を降りて銀行が開くのを待ちました。<br /> そこで意外な光景を見ました。こんな早朝なのに駅はラッシュアワーなのです。労働者も小学生もいました。当時の東ドイツでは会社も学校も二部制で交代していたのかと思います。それだけ施設などのインフラが不足していたものと思われます。<br /> 銀行で両替して東独マルクを最小限持ち、駅の壁に貼ってある時刻表を見てあせりました。実はBerlinの文字が全くないのです。でもBln.OstやBln.schoenefeldやBln.friedrichstrasseがありました。なあんだBln.がBerlinの短縮なのだとわかりBln.friedrichstrasseまでの切符を一枚買いました。<br /> こうして無事ベルリンに入りました。東ベルリンはさっとひと目見て回るだけでした。実はここで前回4thで書いた共産党宮殿を見ていました。さてどこにも寄らずにチャーリー検問所に向かいました。そこでしっかり荷物を調べられ、それが終わるとようやくブランデンブルク門に向かい歩いてくぐりました。当時ベルリンの壁はブランデンブルク門の左右に延々と伸びていました。かなり高いものでした。<br /> 西側に入るとまず安堵した勢いでベンツのタクシーに乗り西ベルリンの中心の駅であったツォー駅に行き、そこから歩いてヨーロッパセンターへ行きました。同センターでいろいろと情報を得ました。当時は携帯も、パソコンもなく、電話すら殆んど使うことなく、ペーパーの情報を目でみるだけです。多くの海外からの旅行者はベルリンではまずヨーロッパセンターに行ったものでした。           (注 これは46年前の話です)  <br /> 写真は46年前、1972年のブランデンブルク門です。エンタシスの右手奥に戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)が見えるので手前が東です。これから西ベルリン方向へ向かうところでとったと思えます。 <br /> なお列車の番号はこのひと月後にパリで購入したトーマス・クック社の時刻表で確認してます。それはまだ所有してます。      ではまた

ヒストリカルストーリイ5th.

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1972/10/24 - 1972/10/28

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やすたびろくさん

ベルリンの壁を最初に見たのは東ベルリン側からでした。つまり東ドイツからベルリンに入ったのでした。
 当時(1970年代)ベルリンに入る一般的なルートは西ドイツから国際急行列車(D-Zug)に乗り、国境を越えると東ドイツの駅には停車することなくベルリンのツォー駅に入線するものでした。

*D-ZugはDurchgangszug のことで、これは国境を越えて走る急行列車の意味で良いと思います。もちろんここでベルリンに入るにはD-Zug以外にもICやE-Zugもありましたが本数はD-Zugが多いようでした。

 当時(1972年10月23日の深夜)私はベルリン行のD-Zug105列車に乗っていたが隣の車両がすいていたので荷物を持って隣の車両に引っ越して席を変えたところ西ドイツ側国境駅(ヘルムシュテッド駅)で切り離されてしまいました。弱ったなと思ったのもつかの間、東ドイツの国境駅(マリエンボルン駅)でおろされ、そこで24時間ビザを買わされました。
 同じような人は自分の他にもう一人いました。その間列車は待っていました。この列車はマグデブルグ止まり(午前5時57分)であったので列車を降りて銀行が開くのを待ちました。
 そこで意外な光景を見ました。こんな早朝なのに駅はラッシュアワーなのです。労働者も小学生もいました。当時の東ドイツでは会社も学校も二部制で交代していたのかと思います。それだけ施設などのインフラが不足していたものと思われます。
 銀行で両替して東独マルクを最小限持ち、駅の壁に貼ってある時刻表を見てあせりました。実はBerlinの文字が全くないのです。でもBln.OstやBln.schoenefeldやBln.friedrichstrasseがありました。なあんだBln.がBerlinの短縮なのだとわかりBln.friedrichstrasseまでの切符を一枚買いました。
 こうして無事ベルリンに入りました。東ベルリンはさっとひと目見て回るだけでした。実はここで前回4thで書いた共産党宮殿を見ていました。さてどこにも寄らずにチャーリー検問所に向かいました。そこでしっかり荷物を調べられ、それが終わるとようやくブランデンブルク門に向かい歩いてくぐりました。当時ベルリンの壁はブランデンブルク門の左右に延々と伸びていました。かなり高いものでした。
 西側に入るとまず安堵した勢いでベンツのタクシーに乗り西ベルリンの中心の駅であったツォー駅に行き、そこから歩いてヨーロッパセンターへ行きました。同センターでいろいろと情報を得ました。当時は携帯も、パソコンもなく、電話すら殆んど使うことなく、ペーパーの情報を目でみるだけです。多くの海外からの旅行者はベルリンではまずヨーロッパセンターに行ったものでした。           (注 これは46年前の話です)  
 写真は46年前、1972年のブランデンブルク門です。エンタシスの右手奥に戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)が見えるので手前が東です。これから西ベルリン方向へ向かうところでとったと思えます。 
 なお列車の番号はこのひと月後にパリで購入したトーマス・クック社の時刻表で確認してます。それはまだ所有してます。      ではまた

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