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上野原城(うえのはらじょう、山梨県上野原市上野原)跡は平安時代末期に桂川支流である鶴川の河岸段丘の北端に古郡忠重(ふるごおり・ただしげ,<br />生没年不詳)によって造られ、戦国時代には武田信虎(たけだ・のぶとら、1494~1574)による甲斐国平定により臣属した上野原の国人領主である加藤氏の居城です。<br /><br />現在は城郭跡は住宅化され僅かな空地に稲荷神社があり、上野原城跡を紹介する案内板が建っているだけで、むしろ中央高速道路によって旧城域がことごとく破壊され、城郭と結びつける遺構は何一つ見出せないのが現状です。<br /><br />さて古郡氏は武蔵国南部から相模国北部にかけて影響を及ぼしたいわゆる武蔵七党の一つである横山党の庶流で、惣領横山孝兼(よこやま・たかかね、生没年不詳)の三男忠重(ただしげ)は古郡氏の始祖とされます。<br /><br />建保元年(1213)における和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)の乱では惣領横山時兼(よこやま・ときかね、1153~1213)の妹が義盛長男常盛(つねもり、1172~1213)の妻であったことから時兼は義盛に与し古郡経忠(ふるごおり・つねただ、生誕不詳~1213)・保忠(やすただ、生誕不詳~1213)兄弟ら一族もこれに従います。<br /><br />戦闘は鎌倉市中で繰り広げられ大激戦の中、和田氏の全面的な敗北に終わり、これに勝利した北条氏を中心とする幕府軍の追及は厳しく、追討を受けた時兼ら横山党の一族は没落、経忠兄弟は所領の甲斐国坂東波加利荘にて自害するに至ります。<br /><br />乱後自害した保忠の遺領配分が行われ、甲斐国都留郡古郡郷(現在の上野原)については加藤景長(かとう・かげなが)に与えられ、正治2年(1200)梶原景時没落に連座して失脚以来甲斐国に拠点を設けることになります。<br /><br />以降加藤氏の動向は定かでなく、南北朝時代から室町時代にかけては不安定ながらも甲斐国の守護であった武田氏に接近、武田信永の頃当主加藤梵玄が信永に従って鎌倉府に赴き同地で信永に仕えたようです。<br /><br />戦国時代では上野原城主は加藤虎景(かとう・とらかげ、生没年不詳)の時代となり、武田信玄の頃旗本武者奉行を勤め若き信玄に弓矢を指南したとされ、子息の景忠(かげただ、生誕不詳~1575)の代では緊張が続く小田原北条氏との関係において信玄の厳命により甲斐と相模の国境である津久井口の警備に従事しています。<br /><br />蛇足ですが一般には郡内と称される都留郡は武田氏の家老格である小山田氏(本拠:谷村)の支配が全域に及んでいるとされていますが、同氏の発給文書の分布を見れば上野原までは至らず、加藤氏は「上野原七騎」と呼ばれる武士団を傘下に置いた地域領主的な立場だったと思われます。(但し武田軍の臨戦態勢の位置付としては小山田氏を寄親として参陣しています)<br /><br />天正10年(1582)武田氏は織田・徳川連合軍に破れ武田勝頼は郡内に向かう途中田野にて自害し滅亡、上野原にいた加藤信景(かとう・のぶかげ)は一族を引き連れ武蔵国に逃れますが、多摩郡箱根ケ崎にて地元農民の手にかかり家臣ともども討死するに至りますが上野原城の廃城時期などについては不明です。<br /><br /><br />上野原城跡を示す唯一の案内板には下記の通り書かれています。<br /><br /><br />「 内城館跡(上野原城跡)<br /><br />この稲荷神社周辺には、古代から中世に上野原地域を支配した有力者の館がありました、館は周囲を切り立った断崖や深い谷に囲まれた島のような土地にあり、敵を防ぐのに絶好でした。この島の中を内城(面積約一万一千平方キロメ-トル)と呼び、西側に空堀があったと言われています。<br /><br />この館を最初に築いたのは、平安時代末期、八王子横山党から分かれた忠重であり、古郡姓を名乗って移り住みました。古郡氏は現在の上野原から大月市域まで支配しましたが、建暦3年(1213)、和田合戦に破れて没落しました。その後、加藤景長が内城館に入りました。加藤氏は上野原七騎と共に武田氏による北条攻めなどで活躍しましたが、天正10年(1582)、武田氏と共に滅亡しました。<br /><br />現在、館の中心を中央自動車道が通り、周囲の谷や空堀は埋め立てられましたが、館跡の一部は地下に残されている可能性があります。このため、付近で工事を行う場合は必ず上野原教育委員会にご相談下さい。<br /><br />       平成23年9月 上野原市教育委員会 」

甲斐上野原 武蔵七党の横山党支流で郡内に本拠を置く古郡氏が築き戦国期は武田氏に属し小田原北条氏の武蔵相模境を守った国衆加藤氏『上野原城』訪問

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2018/04/06 - 2018/04/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

上野原城(うえのはらじょう、山梨県上野原市上野原)跡は平安時代末期に桂川支流である鶴川の河岸段丘の北端に古郡忠重(ふるごおり・ただしげ,
生没年不詳)によって造られ、戦国時代には武田信虎(たけだ・のぶとら、1494~1574)による甲斐国平定により臣属した上野原の国人領主である加藤氏の居城です。

現在は城郭跡は住宅化され僅かな空地に稲荷神社があり、上野原城跡を紹介する案内板が建っているだけで、むしろ中央高速道路によって旧城域がことごとく破壊され、城郭と結びつける遺構は何一つ見出せないのが現状です。

さて古郡氏は武蔵国南部から相模国北部にかけて影響を及ぼしたいわゆる武蔵七党の一つである横山党の庶流で、惣領横山孝兼(よこやま・たかかね、生没年不詳)の三男忠重(ただしげ)は古郡氏の始祖とされます。

建保元年(1213)における和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)の乱では惣領横山時兼(よこやま・ときかね、1153~1213)の妹が義盛長男常盛(つねもり、1172~1213)の妻であったことから時兼は義盛に与し古郡経忠(ふるごおり・つねただ、生誕不詳~1213)・保忠(やすただ、生誕不詳~1213)兄弟ら一族もこれに従います。

戦闘は鎌倉市中で繰り広げられ大激戦の中、和田氏の全面的な敗北に終わり、これに勝利した北条氏を中心とする幕府軍の追及は厳しく、追討を受けた時兼ら横山党の一族は没落、経忠兄弟は所領の甲斐国坂東波加利荘にて自害するに至ります。

乱後自害した保忠の遺領配分が行われ、甲斐国都留郡古郡郷(現在の上野原)については加藤景長(かとう・かげなが)に与えられ、正治2年(1200)梶原景時没落に連座して失脚以来甲斐国に拠点を設けることになります。

以降加藤氏の動向は定かでなく、南北朝時代から室町時代にかけては不安定ながらも甲斐国の守護であった武田氏に接近、武田信永の頃当主加藤梵玄が信永に従って鎌倉府に赴き同地で信永に仕えたようです。

戦国時代では上野原城主は加藤虎景(かとう・とらかげ、生没年不詳)の時代となり、武田信玄の頃旗本武者奉行を勤め若き信玄に弓矢を指南したとされ、子息の景忠(かげただ、生誕不詳~1575)の代では緊張が続く小田原北条氏との関係において信玄の厳命により甲斐と相模の国境である津久井口の警備に従事しています。

蛇足ですが一般には郡内と称される都留郡は武田氏の家老格である小山田氏(本拠:谷村)の支配が全域に及んでいるとされていますが、同氏の発給文書の分布を見れば上野原までは至らず、加藤氏は「上野原七騎」と呼ばれる武士団を傘下に置いた地域領主的な立場だったと思われます。(但し武田軍の臨戦態勢の位置付としては小山田氏を寄親として参陣しています)

天正10年(1582)武田氏は織田・徳川連合軍に破れ武田勝頼は郡内に向かう途中田野にて自害し滅亡、上野原にいた加藤信景(かとう・のぶかげ)は一族を引き連れ武蔵国に逃れますが、多摩郡箱根ケ崎にて地元農民の手にかかり家臣ともども討死するに至りますが上野原城の廃城時期などについては不明です。


上野原城跡を示す唯一の案内板には下記の通り書かれています。


「 内城館跡(上野原城跡)

この稲荷神社周辺には、古代から中世に上野原地域を支配した有力者の館がありました、館は周囲を切り立った断崖や深い谷に囲まれた島のような土地にあり、敵を防ぐのに絶好でした。この島の中を内城(面積約一万一千平方キロメ-トル)と呼び、西側に空堀があったと言われています。

この館を最初に築いたのは、平安時代末期、八王子横山党から分かれた忠重であり、古郡姓を名乗って移り住みました。古郡氏は現在の上野原から大月市域まで支配しましたが、建暦3年(1213)、和田合戦に破れて没落しました。その後、加藤景長が内城館に入りました。加藤氏は上野原七騎と共に武田氏による北条攻めなどで活躍しましたが、天正10年(1582)、武田氏と共に滅亡しました。

現在、館の中心を中央自動車道が通り、周囲の谷や空堀は埋め立てられましたが、館跡の一部は地下に残されている可能性があります。このため、付近で工事を行う場合は必ず上野原教育委員会にご相談下さい。

       平成23年9月 上野原市教育委員会 」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 上野原市市街地<br /><br />JR中央線上野原駅から河岸段丘を登り切り中央高速道路の跨橋を過ぎると上野原市の市街地に通じる道路に入ります。

    上野原市市街地

    JR中央線上野原駅から河岸段丘を登り切り中央高速道路の跨橋を過ぎると上野原市の市街地に通じる道路に入ります。

  • 高速道路跨橋北詰信号<br /><br />左折して一路ス-パ-マ-ケットを目指します。

    高速道路跨橋北詰信号

    左折して一路ス-パ-マ-ケットを目指します。

  • ス-パ-マ-ケット<br /><br />中央高速道をを眼下にして右手にはス-パ-マ-ケットが控えています。

    ス-パ-マ-ケット

    中央高速道をを眼下にして右手にはス-パ-マ-ケットが控えています。

  • 宅地化された上野原城跡<br /><br />途中のスパ-マ-ケットを過ぎると住宅が視野に入ります。

    宅地化された上野原城跡

    途中のスパ-マ-ケットを過ぎると住宅が視野に入ります。

  • 稲荷神社

    稲荷神社

  • 稲荷神社境内

    稲荷神社境内

  • 稲荷神社社殿

    稲荷神社社殿

  • 上野原城跡説明板

    上野原城跡説明板

  • 上野原城説明板(拡大)

    上野原城説明板(拡大)

  • 上野原城縄張(説明板より抜粋)

    上野原城縄張(説明板より抜粋)

  • 上野原城跡

    上野原城跡

  • 中央高速道脇道路

    中央高速道脇道路

  • 中央高速道脇道路

    中央高速道脇道路

  • 中央高速道路跨橋(北側から)

    中央高速道路跨橋(北側から)

  • 「外城橋」銘板<br /><br />中央高速道路を跨ぐ道路の詰には「外城橋」と刻された銘板が設置されています。

    「外城橋」銘板

    中央高速道路を跨ぐ道路の詰には「外城橋」と刻された銘板が設置されています。

  • 中央高速道(東京方向)<br /><br />跨橋から中央高速道路を窺います。

    中央高速道(東京方向)

    跨橋から中央高速道路を窺います。

  • 中央高速道(大月方向)

    中央高速道(大月方向)

  • 中央高速道路南側風景

    中央高速道路南側風景

  • 鶴川(桂川支流)<br /><br />断崖のすぐ眼下には桂川の支流にあたる鶴川が流れています。

    鶴川(桂川支流)

    断崖のすぐ眼下には桂川の支流にあたる鶴川が流れています。

  • 上野原城跡断崖<br /><br />城跡南端は断崖となってたちまち鶴川に落ちています。

    上野原城跡断崖

    城跡南端は断崖となってたちまち鶴川に落ちています。

  • 鶴川

    鶴川

  • 中央高速道路跨橋(南側から)

    中央高速道路跨橋(南側から)

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