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景徳院(けいとくいん、山梨県甲州市大和町田野)は偉大な父信玄から家督を継ぎ、強力な武士団を有しながらも、設楽ケ原において織田・徳川連合軍に致命的な敗戦を喫し、これを機に領国勢力後退するなか新府城退去を経て田野にて自害し武田家を滅亡させた武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)の菩提寺です。<br /><br />勝頼は信玄の四男として諏訪に生まれ、母は「諏訪御料人」と呼ばれその出自は信濃国諏訪を領有していた諏訪頼重(すわ・よりしげ、生誕不明~1335)の娘で、かつては信玄妹の嫁ぎ先で諏訪氏とは同盟関係でしたが、父信虎(のぶとら、1494~1574)追放後当主に収まった信玄が信濃攻略を実現するため頼重を捕えて切腹に処した経緯があります。<br /><br />信玄は勝頼を諏訪氏の後継者とすることにより、不安定な信濃国を親武田氏のシンボルとして育て上げ諏訪四郎勝頼の呼称を以て伊那郡の郡代として高遠城の城番の地位を与えます。<br /><br />しかしながら信玄と嫡男義信(よしのぶ、1538~1567)との対立が表面化し、信玄は父信虎を駿河に追放した経験があるだけに義信の動きには敏感で、遂に永禄8年(1565)に義信を幽閉、これが契機となって勝頼の人生が大きく転換します。<br /><br />信玄は義信を幽閉した後に新たな後継者を考えざるを得ず、頼りになるのは諏訪家を継いでいた勝頼だけで今までの経緯を大きく変更し急遽勝頼を甲府に呼び入れます。<br /><br />以降信玄の対外戦役には必ず勝頼を伴い、勝頼も数々の合戦で信玄の期待に応える活躍を示し、やがて軍団の中枢というべき親族衆では信玄の実弟武田信繁(たけだ・のぶしげ、1525~1561)に次ぐ軍事力を有するに至り、武田家を継承するにふさわしい位置を占めます。<br /><br /><br />勝頼親子の宝篋印塔・五輪塔の傍らには「勝頼の墓」と題する詳細に亘る説明が書かれています。<br /><br />「 武田勝頼の墓<br /><br />武田勝頼は武田信玄の第4子である。天文15(1546)年、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(1573)年に家督を継いだ。天正3(1575)年5月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以降勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府から敵軍侵攻に備え、天正9(1581)年新府築城に着手、9月には落成し、11月から12月頃に躑躅ケ崎の館から新府城に移ったようである。<br /><br />天正10(1582)年2月25日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、3月3日に徳川家康とともに.北上、更に信州の高遠城を落とし織田信忠が南下し、親族を始め味方の多くが勝頼の元から離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向うべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎた頃小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は極まった。新府を出た時には5~600人ほどいたとされる従者は、このときには4~50人しかいなかったといわれる。<br />田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。3月11日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼37歳、北条夫人19歳、嫡男信勝16歳であった。<br /><br />甲斐国曹洞宗総本山・中山広巌院の住職・站橋の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。站橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。<br /><br />勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首の無い三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。<br /><br />織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。<br /><br />天正16(1588)年に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裏・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広巌院住職であった站橋が入ることになった。<br /><br />武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右側に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の墓壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導艘」「維持 安永四乙未歳三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四(1775)年3月11日に、当時第11世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。<br /><br />景徳院では平成18年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、12月に弘治着手したが、その最中基壇内部から5千点を超える経石が出土した。そのため甲州市では、平成19・20年度に出土した経石の整理と分析を、20年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。<br /><br />整理作業の結果、経石は中央基壇から4710点、左右基壇から545点、その他として20点の、計5275点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅密経・宝篋印陀羅尼経など複数の経典を写経していることなどが判った。<br /><br />特筆は右基壇から出土した「戒名文字資料」裏面に「安永九年」(1780)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(1774)銘の経石が三点出土していることである。また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永8(1779)年に執行されたことが明らかで、3月15日から21日まで7日間に及ぶ厳粛なものであった。<br /><br />発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運びれ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結び付く直接的な遺物は出土していない。<br /><br />二百年遠忌により墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。.つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。<br /><br />勝頼没後124年を経過した宝永3(1706)年、甲府城主柳沢吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文「峡中紀行」に戦没者の供養の様子が書かれている。」

甲斐大和 諏訪氏出自の勝頼が義信廃嫡を機に信玄の後継なるが設楽原合戦後は国力凋落し重臣に見放され天目山を前に武田氏終焉迎えた『景徳院』散歩

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2018/04/06 - 2018/04/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

景徳院(けいとくいん、山梨県甲州市大和町田野)は偉大な父信玄から家督を継ぎ、強力な武士団を有しながらも、設楽ケ原において織田・徳川連合軍に致命的な敗戦を喫し、これを機に領国勢力後退するなか新府城退去を経て田野にて自害し武田家を滅亡させた武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)の菩提寺です。

勝頼は信玄の四男として諏訪に生まれ、母は「諏訪御料人」と呼ばれその出自は信濃国諏訪を領有していた諏訪頼重(すわ・よりしげ、生誕不明~1335)の娘で、かつては信玄妹の嫁ぎ先で諏訪氏とは同盟関係でしたが、父信虎(のぶとら、1494~1574)追放後当主に収まった信玄が信濃攻略を実現するため頼重を捕えて切腹に処した経緯があります。

信玄は勝頼を諏訪氏の後継者とすることにより、不安定な信濃国を親武田氏のシンボルとして育て上げ諏訪四郎勝頼の呼称を以て伊那郡の郡代として高遠城の城番の地位を与えます。

しかしながら信玄と嫡男義信(よしのぶ、1538~1567)との対立が表面化し、信玄は父信虎を駿河に追放した経験があるだけに義信の動きには敏感で、遂に永禄8年(1565)に義信を幽閉、これが契機となって勝頼の人生が大きく転換します。

信玄は義信を幽閉した後に新たな後継者を考えざるを得ず、頼りになるのは諏訪家を継いでいた勝頼だけで今までの経緯を大きく変更し急遽勝頼を甲府に呼び入れます。

以降信玄の対外戦役には必ず勝頼を伴い、勝頼も数々の合戦で信玄の期待に応える活躍を示し、やがて軍団の中枢というべき親族衆では信玄の実弟武田信繁(たけだ・のぶしげ、1525~1561)に次ぐ軍事力を有するに至り、武田家を継承するにふさわしい位置を占めます。


勝頼親子の宝篋印塔・五輪塔の傍らには「勝頼の墓」と題する詳細に亘る説明が書かれています。

「 武田勝頼の墓

武田勝頼は武田信玄の第4子である。天文15(1546)年、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(1573)年に家督を継いだ。天正3(1575)年5月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以降勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府から敵軍侵攻に備え、天正9(1581)年新府築城に着手、9月には落成し、11月から12月頃に躑躅ケ崎の館から新府城に移ったようである。

天正10(1582)年2月25日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、3月3日に徳川家康とともに.北上、更に信州の高遠城を落とし織田信忠が南下し、親族を始め味方の多くが勝頼の元から離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向うべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎた頃小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は極まった。新府を出た時には5~600人ほどいたとされる従者は、このときには4~50人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。3月11日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼37歳、北条夫人19歳、嫡男信勝16歳であった。

甲斐国曹洞宗総本山・中山広巌院の住職・站橋の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。站橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。

勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首の無い三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。

織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。

天正16(1588)年に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裏・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広巌院住職であった站橋が入ることになった。

武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右側に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の墓壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導艘」「維持 安永四乙未歳三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四(1775)年3月11日に、当時第11世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。

景徳院では平成18年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、12月に弘治着手したが、その最中基壇内部から5千点を超える経石が出土した。そのため甲州市では、平成19・20年度に出土した経石の整理と分析を、20年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。

整理作業の結果、経石は中央基壇から4710点、左右基壇から545点、その他として20点の、計5275点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅密経・宝篋印陀羅尼経など複数の経典を写経していることなどが判った。

特筆は右基壇から出土した「戒名文字資料」裏面に「安永九年」(1780)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(1774)銘の経石が三点出土していることである。また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永8(1779)年に執行されたことが明らかで、3月15日から21日まで7日間に及ぶ厳粛なものであった。

発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運びれ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結び付く直接的な遺物は出土していない。

二百年遠忌により墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。.つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。

勝頼没後124年を経過した宝永3(1706)年、甲府城主柳沢吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文「峡中紀行」に戦没者の供養の様子が書かれている。」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 武田勝頼立像<br /><br />JR中央線甲斐大和駅北側に小規模広場があり、そこには武田勝頼のミニ立像が配されています。

    武田勝頼立像

    JR中央線甲斐大和駅北側に小規模広場があり、そこには武田勝頼のミニ立像が配されています。

  • 武田勝頼立像(近景)

    武田勝頼立像(近景)

  • 武田勝頼立像(接近)

    武田勝頼立像(接近)

  • 武田勝頼立像の由来<br /><br />立像の背後には下記の如く記載されています。<br /><br />「武田勝頼公之像の由来<br /><br />天正10年3月武田勝頼ひきいる武田軍は織田・徳川連合軍との戦いで天目山栖雲寺を目指したが田野の地においてあえなく武田家の終えんを迎えた。<br /><br />甲斐国主である武田勝頼公の遺徳を偲び末永く後世に伝えるため大和村制60周年記念事業として各位のご協力を得てここ「武田勝頼公之像」を建立する。<br /><br />      平成14年3月<br />               大和村長 佐藤繁則  」<br /><br /><br />

    武田勝頼立像の由来

    立像の背後には下記の如く記載されています。

    「武田勝頼公之像の由来

    天正10年3月武田勝頼ひきいる武田軍は織田・徳川連合軍との戦いで天目山栖雲寺を目指したが田野の地においてあえなく武田家の終えんを迎えた。

    甲斐国主である武田勝頼公の遺徳を偲び末永く後世に伝えるため大和村制60周年記念事業として各位のご協力を得てここ「武田勝頼公之像」を建立する。

          平成14年3月
                   大和村長 佐藤繁則  」


  • 甲斐大和駅周辺の観光案内図<br /><br />勝頼が命を落とした田野の先には天目山栖雲寺(せいうんじ)があります。当該寺は武田氏と因縁深く、甲斐守護武田信満(たけだ・のぶみつ)が鎌倉公方に反乱を起こした上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)に与したため、禅秀の自害後公方の追討軍に囲まれ自刃した信満の霊を祀る寺院です。

    甲斐大和駅周辺の観光案内図

    勝頼が命を落とした田野の先には天目山栖雲寺(せいうんじ)があります。当該寺は武田氏と因縁深く、甲斐守護武田信満(たけだ・のぶみつ)が鎌倉公方に反乱を起こした上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)に与したため、禅秀の自害後公方の追討軍に囲まれ自刃した信満の霊を祀る寺院です。

  • 甲斐大和駅周辺の観光案内図(拡大)

    甲斐大和駅周辺の観光案内図(拡大)

  • 景徳院山門写真<br /><br />

    景徳院山門写真

  • 武田氏家紋

    武田氏家紋

  • JR甲斐大和駅ホ-ム

    JR甲斐大和駅ホ-ム

  • 景徳院入口<br /><br />暫く国道20号(甲州街道)に沿って大月方向に歩きますが、「景徳院入口」にて内陸部(県道218号)に方向を変えます。

    景徳院入口

    暫く国道20号(甲州街道)に沿って大月方向に歩きますが、「景徳院入口」にて内陸部(県道218号)に方向を変えます。

  • 大和村ガイドマップ

    大和村ガイドマップ

  • 沿道石碑

    沿道石碑

  • 四郎作古戦場石碑

    四郎作古戦場石碑

  • 四郎作古戦場跡標柱

    四郎作古戦場跡標柱

  • 四郎作古戦場周辺風景

    四郎作古戦場周辺風景

  • 四郎作古戦場石碑

    四郎作古戦場石碑

  • 四郎作古戦場周辺風景

    四郎作古戦場周辺風景

  • 日川(にっかわ)<br /><br />県道218号に沿って日川が流れ、五十余名となった勝頼一行もこの川を左右に見ながら天目山を目指したことでしょう。

    日川(にっかわ)

    県道218号に沿って日川が流れ、五十余名となった勝頼一行もこの川を左右に見ながら天目山を目指したことでしょう。

  • 鳥居畑古戦場石碑・標柱

    鳥居畑古戦場石碑・標柱

  • 鳥居畑古戦場石碑(近景)

    鳥居畑古戦場石碑(近景)

  • 鳥居畑古戦場説明板<br /><br />この案内板には下記のように書かれています。<br /><br />「 鳥居畑古戦場<br /><br />時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼に着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌垣が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦することに決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌垣等43人、初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に入った。その時かねて側人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。<br /><br />その夜、天目山の頂きは残雪を残して寒気厳しく疲れ果てた主従は明日の命運を悟りきって深い眠りにおちていた。明くれば3月11日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押し寄せてきた。織田信長の先鋒滝川一益、川尻鎮吉らの軍勢約4千である。勝頼公は己の命運つきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き新羅三郎以来武田家に相伝された楯無の鎧を着せて「かん甲」の式を挙げた(現在景徳院内に有り)<br /><br />秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山膳正信友、土屋昌垣等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退すること数度以て勝頼公として従溶死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北條氏世子信勝公の生害せし処(現在景徳院に有り)<br /><br />「山雲月をほふて夜色自ら惨たり」と史書はlこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。以下略」

    鳥居畑古戦場説明板

    この案内板には下記のように書かれています。

    「 鳥居畑古戦場

    時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼に着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌垣が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦することに決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌垣等43人、初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に入った。その時かねて側人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。

    その夜、天目山の頂きは残雪を残して寒気厳しく疲れ果てた主従は明日の命運を悟りきって深い眠りにおちていた。明くれば3月11日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押し寄せてきた。織田信長の先鋒滝川一益、川尻鎮吉らの軍勢約4千である。勝頼公は己の命運つきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き新羅三郎以来武田家に相伝された楯無の鎧を着せて「かん甲」の式を挙げた(現在景徳院内に有り)

    秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山膳正信友、土屋昌垣等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退すること数度以て勝頼公として従溶死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北條氏世子信勝公の生害せし処(現在景徳院に有り)

    「山雲月をほふて夜色自ら惨たり」と史書はlこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。以下略」

  • 日川風景

    日川風景

  • 景徳院前バス停広場

    景徳院前バス停広場

  • 景徳院全景

    景徳院全景

  • 景徳院総門

    景徳院総門

  • 景徳院山号<br /><br />総門に掲げてあるのは山号である「天童山」です。

    景徳院山号

    総門に掲げてあるのは山号である「天童山」です。

  • 史跡石標<br /><br />「史跡 武田勝頼之墓」と刻された石標が建っています。

    史跡石標

    「史跡 武田勝頼之墓」と刻された石標が建っています。

  • 武田勝頼墓所石碑

    武田勝頼墓所石碑

  • 景徳院案内板

    景徳院案内板

  • 景徳院境内説明板

    景徳院境内説明板

  • 景徳院案内板<br /><br />当該寺院は天正16年(1588)、勝頼菩提を弔うため家康が建立したものとされます。

    景徳院案内板

    当該寺院は天正16年(1588)、勝頼菩提を弔うため家康が建立したものとされます。

  • 景徳院バス停広場付近<br /><br />景徳院バス停広場には桜並木が美しく咲いています、

    景徳院バス停広場付近

    景徳院バス停広場には桜並木が美しく咲いています、

  • 景徳院案内図

    景徳院案内図

  • 景徳院総門付近

    景徳院総門付近

  • 景徳院説明板

    景徳院説明板

  • 没頭地蔵尊説明板

    没頭地蔵尊説明板

  • 景徳院参道

    景徳院参道

  • 景徳院山門

    景徳院山門

  • 景徳院山門

    景徳院山門

  • 景徳院山門柱標

    景徳院山門柱標

  • 景徳院山門上部

    景徳院山門上部

  • 景徳院参道(境内側)

    景徳院参道(境内側)

  • 景徳院境内案内図

    景徳院境内案内図

  • 景徳院本堂

    景徳院本堂

  • 景徳院本堂(近景)<br /><br />武田家の家紋が掲げられています。

    景徳院本堂(近景)

    武田家の家紋が掲げられています。

  • 「武田勝頼公まつり」ポスタ-

    「武田勝頼公まつり」ポスタ-

  • 甲州市PRポスタ-

    甲州市PRポスタ-

  • 景徳院境内風景

    景徳院境内風景

  • 景徳院鐘楼

    景徳院鐘楼

  • 景徳院鐘楼(近景)

    景徳院鐘楼(近景)

  • 境内庭園

    境内庭園

  • 景徳院本堂

    景徳院本堂

  • 「武田慕情」石碑

    「武田慕情」石碑

  • 旗堅松

    旗堅松

  • 旗堅松説明板

    旗堅松説明板

  • 甲将殿

    甲将殿

  • 甲将殿<br /><br />内部には勝頼・北条夫人・信勝の位牌が安置されています。

    甲将殿

    内部には勝頼・北条夫人・信勝の位牌が安置されています。

  • 嫡男信勝生涯石

    嫡男信勝生涯石

  • 北条夫人生涯石

    北条夫人生涯石

  • 武田勝頼生涯石

    武田勝頼生涯石

  • 武田勝頼親子の墓石<br /><br />中央が勝頼の宝篋印塔で、右側には北条夫人の五輪塔そして左側には嫡男信勝の五輪塔が建てられています。<br /><br /><br /><br />

    イチオシ

    武田勝頼親子の墓石

    中央が勝頼の宝篋印塔で、右側には北条夫人の五輪塔そして左側には嫡男信勝の五輪塔が建てられています。



  • 勝頼宝篋印塔<br /><br />享年37歳<br /><br />戒名:景徳院殿頼山勝公大居士<br /><br />辞世の句:「おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端」

    イチオシ

    勝頼宝篋印塔

    享年37歳

    戒名:景徳院殿頼山勝公大居士

    辞世の句:「おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端」

  • 北条夫人五輪塔<br /><br />享年19歳<br /><br />戒名:北条院殿模安妙相大禅定尼<br /><br />辞世の句:「黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思ひに消ゆる露の玉の緒」<br />      

    北条夫人五輪塔

    享年19歳

    戒名:北条院殿模安妙相大禅定尼

    辞世の句:「黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思ひに消ゆる露の玉の緒」
          

  • 信勝五輪塔<br /><br />享年19歳<br /><br />戒名:法雲院殿甲巌勝信大居士<br /><br />辞世の句:「あだに見よ誰も嵐の櫻花 咲き散るほどの春の夜の夢」

    信勝五輪塔

    享年19歳

    戒名:法雲院殿甲巌勝信大居士

    辞世の句:「あだに見よ誰も嵐の櫻花 咲き散るほどの春の夜の夢」

  • 勝頼墓説明板

    勝頼墓説明板

  • 歴代住職墓石

    歴代住職墓石

  • 武田勝頼墓石

    武田勝頼墓石

  • 武田勝頼墓説明板

    武田勝頼墓説明板

  • 景徳院境内説明板

    景徳院境内説明板

  • 景徳院境内風景

    景徳院境内風景

  • 北条夫人と側女のレリ-フ

    北条夫人と側女のレリ-フ

  • 姫ヶ淵の由来説明碑

    姫ヶ淵の由来説明碑

  • 「日川渓谷と武田の秘境」等案内地図

    「日川渓谷と武田の秘境」等案内地図

  • 「景徳院入口」バス停<br /><br />運行本数が限られています。

    「景徳院入口」バス停

    運行本数が限られています。

  • 「景徳院入口」バス停

    「景徳院入口」バス停

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この旅行記へのコメント (2)

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  • lagunaさん 2018/06/27 13:08:41
    はじめて知りました
    はじめまして、LAGUNAと申します。
    武田勝頼の菩提寺「景徳院」は初めて知りました。
    私がまだ若い頃に井上靖の「天目山の雲」?という時代小説を読んだ記憶があります。
    盛者必衰の例にたがわず、武田勝頼も滅亡していったわけですが、終焉にしては、怨みが相当深かったと思います。信頼していた小山田信茂に裏切られるわけですから。
    今回滝山様が行かれた「景徳院」ですが、興味深く、読ませてもらいました。
    また、説明記事の中に「上杉禅秀の乱」にも関連してきて、大変参考になりました。
    有難うございました。

    滝山氏照

    滝山氏照さん からの返信 2018/06/28 21:29:20
    景徳院勝頼
    LAGUNAさん、こんばんは


    この度はお便り賜りありがとうございます。


    勝頼は凋落の武田家を一身に背負った武将ですが、首を見た信長に「日本にかくれなき弓取」と言わしめ、長年に亘って戦い続けた勝頼に敬意を示したそうです。

    歴史には「もし」という言葉は無意味ですが、没落に至る岐路として上杉景勝との同盟、設楽原の戦い、(真田幸村の)岩櫃城へ退避等が考えられます。

    上記項目のいずれかが別の選択肢がなかったのだろうかと自分を勝頼に置き換えてみるのですが・・・・・。勝頼本人も随分悩んだのかも知れず、忠臣の軍師にも恵まれなかったこともあって「負のスパイラル」に陥ったと思われます。

    3ケ月後の6月に本能寺の変で信長があっけなく横死したことを考慮すれば没落の道は回避できたのではないかなどと自分ながら密かに想像してしまいます。

    景徳院は山間の地にあってひっそりとたたずんでいますが、源頼家の実弟、新羅三郎義光を遠祖とする気が遠くなるような武田氏の歴史を考えれば相当な重みがのしかかてくるようです。

    同地に来られましたら是非お立ち寄りください。とにかく甲斐の国は歴史の宝庫ですから。

    今後ともよろしくお願いします。



    滝山氏照



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