2018/05/05 - 2018/05/05
458位(同エリア2915件中)
Oppachelさん
- OppachelさんTOP
- 旅行記4冊
- クチコミ1件
- Q&A回答0件
- 8,911アクセス
- フォロワー1人
念願のサイパン旅行へ夫婦で行って参りました。人生初のSaipan!行ってみた感想は最高の一言。直行便廃止直前のDelta航空で行ってきました。
◆日程表◆
5/1 サイパン→スターマリアナスエアー乗継→テニアン
5/2 テニアン島でシュノーケル&島内観光
5/3 朝一でサイパン島へ、慰霊巡拝ツアー参加
5/4 ガラパン散策、お土産購入、帰国
3日目の目的は
「ドンニィの野戦病院」
です!
PR
-
おはようございます。ちょっと寝坊…。始発のセスナでサイパンに戻るということで、早起きしてパッキングするつもりが、前日の酒盛りで寝過ごした!それでも6:00には目が覚めましたが、なんとお互い目覚ましをかけておらず…もし寝過ごしていたら…考えるだけでゾッ!これぞ太平洋の奇跡…!言うてる場合か!早く支度しろー!あぁ、それにしても今日も美しい海。帰りたくない!
-
朝は程よく涼しくて、本当に気持ちがいい。テニアン全泊でも全然いいんだけど、今回は高校生の頃からサイパンに行きたいと思っていた、最大の理由「サイパン玉砕」の跡地を巡るツアーに参加するのでそうも言ってられない。テニアン、また来るからね!
空港にまたMIHOさん夫婦がお見送りにきてくださいました!
なんと細やかなサービス。始めて来た場所なのに、見送ってくれる人がいて「またね」と言ってくれる。
帰る場所がまた一つ増えた感覚…。
MIHOさん,旦那さん 本当にありがとうございました! -
ベテランパイロットさん…。何言ってるか全然分からないけどとにかく安全に私をサイパンへ連れてってー!
-
無事定刻にサイパンへ到着。タクシーが全然来なくて焦ったけど空港の警備にあたってる警察官の人が空港職員に頼んでタクシーを読んでくれた模様。今回サイパン初旅行にもか変わらずすべて個人手配するという賭けにでた私…しかし、全てがOn timeに進むラッキーぶり。天気も味方につけて、ひまわりホテルにアーリーチェックイン!パウパウツアーズ様にお迎えに来ていただき、戦跡ツアーへGo!ガイドのオガワさんに「戦争遺族なんですか?」と聞かれてしまいました…いえ、私は単純にサイパン、そしてこの島が日本統治下にあった時代のファンなだけなんです。(写真はテニアン島が見える、アギガン岬)
-
「慰霊巡拝ツアー」その名の通りこれはパウパウツアーズ様の催行している戦跡巡りツアーです。まっすぐ目を背けず受け止めるにはあまりに酷な歴史。何度も本を読み、心待ちにしていたサイパン。犠牲になられたあなた方の骨肉と血の上に我々の「自由」があることを私は決して忘れません。この日はリゾートを忘れ、この島、そして我々の歴史に全神経を集中させます…そう思っても、目を奪われるこの海の美しさ。ふと、「さとうきび畑の唄」を思い出した。
-ある日、海の向こうから戦がやってきた。夏の日差しの中で… -
-
旧日本軍の使用していた防空壕。ハチが飛んでいましたが、思い切って中に入ります。
-
このツアーに参加して初めて知ったのですが、こう言った当時の建物、全て手作りなんだそう。凄いですよね。
-
-
当時の日本軍の中では大型の戦車とのこと。生で見ると分かるのですが、とても小さいです。厚さもわずか2.5センチほど。4人乗りタイプ。米軍の戦車は最小のもので6人乗り、厚さは5センチほど。戦力の違いが如実に現れています。
-
-
-
魚雷
-
カタカナで「ヨコハマタイヤ」と書かれています
-
次は、ドンニィの野戦病院です。私の最も見たかった場所。
私はサイパン旅行に向けて主に2冊の本を読みました。
1冊目は「日本領サイパン島の1万日」(著者:野村進)
2冊目は「戦火と死の島に生きる」(著者:菅野静子)
「日本領サイパン島の1万日」については後述するとして、先に「戦火と死の島に生きる」について簡単に説明します。
この本はサイパンに米軍が上陸した直後、民間人だった菅野静子さん(旧姓:三浦)当時18歳が「特志看護師」として負傷兵の看護にあたった際の体験記になります。静子さんは生まれて間もない頃両親に連れられて「開拓移民」としてテニアン島へ移り住みます。18歳になった際、サイパン島の南興水産に就職しその後サイパンにも大平洋戦争の戦火が忍び寄ります。静子さんは自ら看護師に志願しました。 -
ドンニィの野戦病院がどのような場所であったか、象徴的なパートを一部分抜粋し掲載します。(酷な描写です。ご容赦ください)
-中でも特別私の心を引いたのはすり鉢の端の方に一人だけ離れてうつ伏せにになって寝ている患者であった。(中略)私はそばにひざまづいて、「兵隊さん」と呼んでみた。「苦しいですか?」重ねて声をかけてみた。兵隊さんは、私の声の方に少し顔を向けた。その瞬間私は思わず「あっ!」と言ってしまった。ピンポン玉ほどの大きさに、黒い目玉が飛び出している。しかもそれが動いている…。だが、よく見ると、それはウジであった。(中略)
流石に、薬を持つ私の手は震えた。しかし、自分の腕の赤十字の腕章に目をやった時、私の心はやっと落ち着いた。(中略)右の眼球が、えぐり取られて空洞になっている。その空洞いっぱいにウジだ。(中略)私は処置に困った。しかし、とにかく眼窩の中のウジを取り出さなければならない。(中略)兵隊さんは黙って私のするがままにさせている。兵隊さんも苦しいだろうが、私も苦しい。(中略)すると兵隊さんは、しばらく考えていたが、やがて一枚の写真を取り出して、私の手のほうへのばした。私が受け取って見ると、それはくしゃくしゃに折れ、血と泥に汚れていたが、和服を着た少し丸顔の若い女の人であった。「これ、兵隊さんの奥さん?」兵隊さんはうなづいた。(中略)そして兵隊さんは静かな声で話した。
「自分は結婚して三日目に応召した。怪我をした時も、まず心に浮かんだのは、妻のことだった。女々しいようだけれど、自分は妻のために生きたいと思った。しかし自分は死ぬだろう。例え生きれたとしてもこの目では仕方がない。右の目はこの通りだ。左の目も見えなくなってしまった…。」
私は兵隊さんの言葉に胸が詰まって、何も返事ができなかった。
(戦火と死の島に生きるより抜粋) -
-
-
-
玉砕命令が出た時のことも、菅野さんは記されています。
こちらも抜粋させていただきます。
-私はみなの顔を見て驚いた。隊長も森中尉も軍医さん達も、衛生兵も、今まで見たことのないほど緊張した顔つきになっている。首を垂れている衛生兵の軍曹は声を出して泣いていた。(中略)しかし、あまりにみんなが緊張しているので、私は思わず聞いた。「隊長どの、何があったんですか?」隊長は私の顔を見て「うん、玉砕命令が出たんだ。」と、低く、静かに言った。しかし、私には、その言葉の意味がはっきり分からない。「玉砕って、なんですか?」私はまた聞いた。隊長はちょっと困ったような顔をしたが、私の顔を見て、ゆっくり言った。「うん。あのね、サイパンはもう敵に囲まれて全滅なんだ。それでみんな死ぬんだ……死ぬことなんだ。」まるで子供ににでも言って聞かせるような優しい口調であった。 -
逃げ惑う人々が、命からがら持ち出した当時の生活用品です。ジャングルでのあてのない逃亡生活。水も食料もない。空からは雨のように降り注ぐ米軍からの猛攻撃、鉄の雨、艦砲射撃…野戦病院の洞窟の写真が所々黒いのは、火炎放射器の跡です。
水のない苦しみを、如実に表している体験記を「日本領サイパン島の1万日」より抜粋いたします。
「日本領サイパン島の1万日」は、第二次世界大戦前の日本統治時代から戦後にかけてのサイパンについて戦争遺族へのインタビューを交えた、6年の歳月をかけて紡がれたドキュメンタリー小説です。この本が大好きで何回も繰り返し読んだのでサイパンに来れたこと、本当に嬉しく思います。
-石山一家には、ほんの少しばかり生米が残っていた。それを口に含んでみたけれど、噛み締めても唾液が出てこない。喉がひりつくほど渇いていて、無理に飲み込もうとすると、むせ返ってしまう。
これまでひとことも弱音を吐かなかった万太郎が「水があればなぁ」とつぶやいた。
(中略)正太郎は、危険を承知で水を探しにゆくことにした。(中略)辿り着いたところはどこかのサトウキビ畑で
一面の焼け野原だった。その中から焦げ方のひどくない茎を選んで刈り取り、持ち帰って家族全員に分け与えた。生のサトウキビなら、一本で二日くらいは十分しのげるはずだが、焼けた上に炎天下に晒されていたので、水分がほとんどない。それを噛みしめ、根気よく残り汁を啜った。顎がだるく重たくなっても、昆虫みたいに吸いつづけた。 -
ドンニィの野戦病院周辺はすでに私有地となっていますが、理解のあるオーナーが自宅周辺から出てくる当時のものを全てこのように丁寧に保管してくださっています。
-
当時のビール瓶
-
当時のジュースの瓶。栓が開いてませんので、中身は当時のものと思われます。
-
何かの大砲?ガイドさんもこれは何だか分からないそうです。
-
続いてタッポーチョ山へやってきました。美しい景色です。この山をアメリカに奪われれば形勢は完全に日本の不利となります。そのことは日米どちらもよく分かっていました。絶対に守らなければいけない…壮絶な攻防戦の末にタッポーチョ山もアメリカの手中に…
日本統治時代は「達宝頂山」と表記されていたとのこと。
サイパンは彩帆、ガラパンは柄帆ですものね。 -
タッポーチョ山には説明書きが残っています。
-
-
-
-
-
遠くにマニャガハ島が見えます。
-
腹ごしらえをすませ、続いては極楽谷へ向かいます。
ドンニィの野戦病院から、約2千名ほどいた兵隊のうち300名近くがこの極楽谷にある野戦病院へ移動します。
残りの約1700名はどうしたか?
極楽谷へ移動できたのは、自分で歩ける兵隊のみ。
歩くこともできない負傷兵達は自決を求められ、8人あたり1個渡された手榴弾や、刀等で自決をしました。 -
-
-
白いのは便器ですが、アメリカの使用していたものです。
日本は、穴を掘り、板を二枚敷き、正にボットン便所のような様式で用を足していました。 -
-
-
鉄兜。時が経ち過ぎて、朽ちて崩れています。
-
当時使用していた医療器具です。
-
73年前、この洞窟からおびただしい数の米軍機を眺め、絶望し、死んでいったことでしょう。
それなのに、この空の青さ。悲しい歴史と美しい景観のアンビバレンツなコントラストに、言葉を失います。 -
続いては、地獄谷です。
南雲中将達が自決したと言われる洞窟です(自決した場所等は諸説あるそうです) -
このツアー、一番の体力勝負!道は険しいです。
-
-
-
またまた当時のものが。
-
ビールですね。
-
-
-
-
-
またまた「日本領サイパン島の1万日」から南雲中将に関する記述について抜粋します。
-その日の午前十時ごろ、日本軍合同司令部のある通称「地獄谷」の洞窟に、数発の銃声が鳴り響いた。南雲忠一、斎藤義次ら陸海軍の最高指導者が、自決を遂げたのだった(時刻や場所、顔ぶれなどに関して異説もあるが、南雲中将らに最後まで随行した南洋憲兵隊の加賀学氏の証言による)この少し前、南雲の最後の訓示となった「『サイパン』島ノ皇軍将兵二告グ」が連絡将校を通じて各部隊に告げられた。
「今ヤ止マルモ死、進ムモ死、生死須ラクソノ時ヲ得テ帝国男児ノ真骨頂アリ。今米軍二一撃ヲ加エ、太平洋ノ防波堤トシテ『サイパン』島二骨ヲ埋メントス。戦陣訓二曰ク『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』、『勇躍全力ヲ尽シ、従容トシテ悠久ノ大義二生クルコトヲ悦ビトスベシ』ト。茲二将兵ト共二聖寿ノ無窮、皇国ノ弥栄ヲ祈念スベク敵ヲ索メテ発進ス。続ケ。」
南雲の訓示からは、山中をさまよう民間人一万数千人に対する配慮は、一片たりとも読み取れない。
(日本領サイパン島の1万日より)
ただし、南雲中将も今は仏様。私も心からお祈りさせていただきました。お疲れ様でした。安らかにお眠りください。
お線香もあげました。タバコを吸う人には、半分吸ってもらいお供えにするそうです。次回はタバコ持ってこよう。 -
当時の薬瓶。正露丸のようなお薬とのこと。ただ、瀕死の負傷兵ばかりだったので、役に立ったかどうか…
-
バンザイクリフです。今は、あまり日本人の姿が見えないような気がします。日本人がサイパンを忘れてしまったら、今も海の底に眠る先人たちが浮かばれない。どうか、みなさん時々思い出してバンザイクリフだけでも足を運んでください。
-
-
「米軍に捕まれば強姦されて殺される」
プロバガンダを信じた民間の婦女子達は恐れおののき、この崖に身を投じます。
恐いくらいに青いこの海が、真っ赤な血に染まりました。 -
たくさんの慰霊碑があります。
-
つくづく思うのは、やはり人は死んだら終わりだと言うこと。
どんなに慰霊碑を立てても、亡くなられた方が生き返るわけではない。
そんなことは当時の人たちもわかっていて、だけど何もせずにはいられなくて…。
「なぜ自分は助かった?」
「捕虜になどなるべきではなかった?」
きっと、現代の我々が感じたことのない葛藤や後悔に苛まれて余生を過ごされたことと思います。
生きているうちに、何ができるか。
そのことを考え続けなければならない。 -
観光地としてのラスト・コマンド・ポスト(最後の司令塔)へ。
ですが本当のラストコマンドポストは先ほどの「地獄谷」になります。 -
-
-
韓国の小さな女の子が遊んでいました。
これは戦車ではなく、サトウキビを運んでいた滑車?機関車?の残骸とのこと。 -
ここはラストコマンドポストではなく、監視所だったそう。ぽっかり穴が空いてます。艦砲射撃によるものかな?
-
-
スーサイドクリフ。バンザイクリフの更に上に位置する「マッピ山」です。ここからも同じようにたくさんの民間人が自決しました。
-
「国籍のいかんを問わず」
そう、日本人だけではなくアメリカ人も韓国人もチャモロ人もカナカ人も、みんな巻き込まれて死にました。
命の重さに人種は関係ない。
特に、チャモロやカナカはサイパンの先住民ですが侵略されたうえに戦争に巻き込まれています。 -
ツアーの最後はパウパウビーチへ。
美しい海です。 -
-
海を堪能したら、車でホテルまで送ってもらいます。
パウパウツアー様、本当に貴重な体験ありがとうございます。
また必ず参加します。次はタバコを持ってくぞー! -
サイパン最後の夜は、ずっと来たかったオレアイビーチグリルで!
今日一日のことを興奮しながら語り合いました。
そのため、すみません、肝心のお料理の写真を撮り忘れました…
次回来た時に必ず! -
オーシャンフロントのパティオの席を予約して良かったぁ!
日がゆっくり沈むのを眺めながらビール。
あっという間のサイパン旅行でした。
美しい海、リゾートとしてのサイパン。
悲しいけど忘れちゃいけない、重要な歴史的な島としてのサイパン。
私はどちらの面のサイパンも好きになりました。
サイパンへ訪れる人たちが、そのどちらも楽しめるといいなぁとボンヤリ…
「戦争の話は気分が落ち込むから嫌!」という人の気持ちもとてもよく分かります。
だけど、もし自分がいつか戦争に巻き込まれて、戦争で死んでしまって、骨がそこに残されてしまったら。
そして、ほとんどの人がそのことを忘れ、会いに来なくなったら。
逆に、名前も知らない誰かが偲んでくれたら。
私だったら、会いにきて欲しいから。
これからも、定期的に来ますよ。
直行便がなくてもね!笑 -
-
-
遠くに見える、綺麗な光る船は、米軍の船です。
ものすごく大きい船です。有事の際のために、待機しているそう。 -
-
オレアイビーチにも夜の帳が下ります。
オーナーが行きも帰りも送迎してくださいました!
オーナーのブログのファンで、定期的にブログをチェックしたりコメントしたりしてたので生でお会いできてちょっとした芸能人に会った気分でした笑
それにしても、オレアイのステーキは絶品!
スタッフのホスピタリティも抜群で、次回も必ずお邪魔しようと心の中で決めました。
ホテルに帰ってからも、興奮がさめやらずなかなか寝付けない夜でした。
旦那はおやすみ3秒だったけど笑
明日は帰国かぁ、やだなぁ…
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- Oppachelさん 2018/05/08 11:49:52
- ありがとうございます!
- ちゃんと記事を読んでくださりありがとうございます。
またその節はお世話になりました~!
wakupakuさんのおっしゃる通り、ヒマワリ周辺、夜は暗かったのでレストランの送迎を利用して正解でした!
ヒマワリホテルは、最近水回りの設備を一新したようですよ!
ただし、我々もハズレ部屋だったようで…
大きな声じゃ言えないんですが、部屋がすこくカビ臭いというか、生臭いというか(笑)
でも、この値段ですから文句は言えませんね。
デルタの件、本当に残念なニュースですよね。
まだ検討中のようですが、スカイマークが成田から国際線として直行便を出すとの話が出ています。是非とも成田からの直行便再開を願うばかりです。
-
- wakupaku2さん 2018/05/08 11:02:04
- サイパン、テニアン、また行きたいな・・・
- Oppachelさん
こんにちは。
濃い歴史旅されてますね。
以前、ひまわりホテルで回答したものです。
ひまわりホテルの水回り、大丈夫だったんですね。私は部屋が外れだったのかな?
ひまわりホテルもテニアンエクスプレス、も懐かしくて、旅行記を楽しませて頂きました。
サイパンの悲しい歴史・・私は外国人ガイドとサッと島内観光したので、詳しくわからず。ちゃんと向き合わなければダメですね。
デルタは台北もサイパンも飛ばなくなり・・どうなるんでしょうね?・好きなエアだから残念です。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
サイパン(北マリアナ諸島) の人気ホテル
北マリアナ諸島で使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
北マリアナ諸島最安
559円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
2
76