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鳴海宿鳴海へ<br /><br />【鳴海宿】鳴海は海辺にちかく、潮騒が聞こえたことから、この地名がついた。しかし土砂の堆積により、今は遠のいている。尾張藩は木綿の鳴海絞り、有松絞りの生産を、この両地区にのみ許可した。<br />弥次さん喜多さんは二尺五寸の有松絞りの手拭いを買っている。

東海道53次、No26-1 続いて鳴海宿(40)鳴海地区へ

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2018/03/15 - 2018/03/15

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鳴海宿鳴海へ

【鳴海宿】鳴海は海辺にちかく、潮騒が聞こえたことから、この地名がついた。しかし土砂の堆積により、今は遠のいている。尾張藩は木綿の鳴海絞り、有松絞りの生産を、この両地区にのみ許可した。
弥次さん喜多さんは二尺五寸の有松絞りの手拭いを買っている。

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  • 国指定【史跡阿野一里塚】があります、両塚の遺構を残しています、<br />江戸日本橋より数えて86里目です。<br />【阿野一里塚】<br />慶長九年(1604)二月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに築かせたものである。<br />往時は東海道交通上の目安となったが、明治維新以後次第にその価値を失った。<br />今両塚が現存する例は珍しい。<br />                             豊明市教育委員会<br /><br />『国指定史跡 阿野一里塚』。<br />「徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。 県内の東海道には、18の一里塚があったが、現存するのは4か所、そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。昭和11年12月に指定を受けた。」

    国指定【史跡阿野一里塚】があります、両塚の遺構を残しています、
    江戸日本橋より数えて86里目です。
    【阿野一里塚】
    慶長九年(1604)二月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに築かせたものである。
    往時は東海道交通上の目安となったが、明治維新以後次第にその価値を失った。
    今両塚が現存する例は珍しい。
                                 豊明市教育委員会

    『国指定史跡 阿野一里塚』。
    「徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。 県内の東海道には、18の一里塚があったが、現存するのは4か所、そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。昭和11年12月に指定を受けた。」

  • 左側の塚には【森市雪の句碑】があった。<br /><br />   春風や坂をのぼりに馬の鈴    市雪<br /><br /> 東海道の阿野一里塚から「前後」に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」の意である。<br />この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る。<br />                        豊明市観光協会

    左側の塚には【森市雪の句碑】があった。

       春風や坂をのぼりに馬の鈴    市雪

     東海道の阿野一里塚から「前後」に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」の意である。
    この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る。
                            豊明市観光協会

  • 【中京競馬場前です】<br />交差点角にあった巨大な馬の蹄鉄とその上に競走馬の姿のモニュメント。<br />この場所から3~400m先が『中京競馬場』正門<br />この手前向かいが、桶狭間の古戦場跡です

    【中京競馬場前です】
    交差点角にあった巨大な馬の蹄鉄とその上に競走馬の姿のモニュメント。
    この場所から3~400m先が『中京競馬場』正門
    この手前向かいが、桶狭間の古戦場跡です

  • 【桶狭間の戦い】<br />今川義元は天下人を目論み、兵25,000人を率いて京に向け出陣した。<br />永禄3年(1560年)、これを阻止せんと織田信長は手勢2,000を率いて出陣し、桶狭間で休息する今川軍を丘陵上から急襲、突如現れた織田軍に今川軍は恐れ慄き総崩れとなり、今川義元は討ち取られた。という一戦。<br />時に雷鳴轟く、豪雨の中の出来事でした。<br /><br />時に雷鳴轟く、豪雨の中の出来事でした。

    【桶狭間の戦い】
    今川義元は天下人を目論み、兵25,000人を率いて京に向け出陣した。
    永禄3年(1560年)、これを阻止せんと織田信長は手勢2,000を率いて出陣し、桶狭間で休息する今川軍を丘陵上から急襲、突如現れた織田軍に今川軍は恐れ慄き総崩れとなり、今川義元は討ち取られた。という一戦。
    時に雷鳴轟く、豪雨の中の出来事でした。

    時に雷鳴轟く、豪雨の中の出来事でした。

  • 【桶狭間古戦場公園】<br />【古戦場】 国指定史跡(昭和12年12月指定)<br />この地は、永禄三年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。<br />  今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。文化六年(1809)には、桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。<br />                            豊明市教育委員会

    【桶狭間古戦場公園】
    【古戦場】 国指定史跡(昭和12年12月指定)
    この地は、永禄三年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。
      今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。文化六年(1809)には、桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。
                                豊明市教育委員会

  • 桶狭間古戦場

    桶狭間古戦場

  • 桶狭間古戦場跡があります、一帯は公園になっています。<br />【桶狭間の合戦】<br />今川義元は駿河から三河を平定し、甲斐の武田、相模の後北条氏と和睦をむすび、天下人を目論二万五千の兵を率いて駿府城を出陣。これを阻止せんと信長は二千の手勢を従え、永禄三年(1560)五月十九日暁の頃、太子ケ根の丘陵に着陣。ここから南西一キロの桶狭間で休息する今川勢を急襲。義元は討ち取られ、今川勢は総崩れ。時に雷雨、豪雨であった。

    桶狭間古戦場跡があります、一帯は公園になっています。
    【桶狭間の合戦】
    今川義元は駿河から三河を平定し、甲斐の武田、相模の後北条氏と和睦をむすび、天下人を目論二万五千の兵を率いて駿府城を出陣。これを阻止せんと信長は二千の手勢を従え、永禄三年(1560)五月十九日暁の頃、太子ケ根の丘陵に着陣。ここから南西一キロの桶狭間で休息する今川勢を急襲。義元は討ち取られ、今川勢は総崩れ。時に雷雨、豪雨であった。

  • 戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。<br />鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。<br />このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。<br />信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内を<br />くらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。<br />信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。<br />この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。

    戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。
    鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。
    このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。
    信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内を
    くらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。
    信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。
    この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。

  • 【桶狭間合戦のあらまし】<br />東軍、駿河、近江、三河の領主今川義元(42才)<br />   東軍所属の城:沓掛、鳴海、大高、兵数:二万五千、義元この地に戦死<br />西軍、尾張の領主織田信長(27才)<br />   西軍所属の砦、丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、兵数三千、戦闘二時間余、信長の勝利<br />                        解説小冊子高徳院にあり

    【桶狭間合戦のあらまし】
    東軍、駿河、近江、三河の領主今川義元(42才)
       東軍所属の城:沓掛、鳴海、大高、兵数:二万五千、義元この地に戦死
    西軍、尾張の領主織田信長(27才)
       西軍所属の砦、丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、兵数三千、戦闘二時間余、信長の勝利
                            解説小冊子高徳院にあり

  • 『古戦場』案内板。<br />「この地は、永禄三年(一五六○)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。 文化六年(一八○九)には、桶狭間弔古碑が建立された。 また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。」

    『古戦場』案内板。
    「この地は、永禄三年(一五六○)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。 文化六年(一八○九)には、桶狭間弔古碑が建立された。 また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。」

  • この地は信長が永禄3年(1560)今川義元を破った、有名な古戦場

    この地は信長が永禄3年(1560)今川義元を破った、有名な古戦場

  • 七石表(一号碑)があります、明和8年(1771年)の建碑で今川上総介義元戦死所と刻まれています、ここが織田方の毛利新助に討ち取られた所です。<br /><br />【七石表の一】<br />今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。<br />  元来塚のみであったが、明和八年十二月に鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之によって建碑された。<br />  北面:今川上総介義元戦死所<br />  東面:桶狭七石表之一<br />  南面:明和八年辛卯<br />  十二月十八日造

    七石表(一号碑)があります、明和8年(1771年)の建碑で今川上総介義元戦死所と刻まれています、ここが織田方の毛利新助に討ち取られた所です。

    【七石表の一】
    今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。
      元来塚のみであったが、明和八年十二月に鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之によって建碑された。
      北面:今川上総介義元戦死所
      東面:桶狭七石表之一
      南面:明和八年辛卯
      十二月十八日造

  • 【七石表(一号碑)】<br /> 明和8年12月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられた七基の石碑。一号碑は今川義元の戦死した場所を示す。二号碑は松井宗信戦死の場所。三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所であり、氏名不詳である。

    【七石表(一号碑)】
     明和8年12月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられた七基の石碑。一号碑は今川義元の戦死した場所を示す。二号碑は松井宗信戦死の場所。三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所であり、氏名不詳である。

  • 園内には【今川治部大輔義元の墓】<br />以前は塚が築かれていました。これが墓石です。<br />大河ドラマ”麒麟が来る”にも登場してた。<br /><br />【今川治部大輔義元の墓】<br />駿・遠・三の太守今川義元は、西上の途次、永禄三年(1560)五月十九日織田信長の奇襲にあい、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている。<br />以前は塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治九年五月この墓を建てた。                   豊明市教育委員会<br /><br />【今川治部大輔義元墓】<br /> 明治9年、有松の山口正義が建てたものである。碑陰記によれば、弔古碑が建てられたあと、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていた。このため、あらためて周辺を整備し義元の墓碑を造ったという。

    園内には【今川治部大輔義元の墓】
    以前は塚が築かれていました。これが墓石です。
    大河ドラマ”麒麟が来る”にも登場してた。

    【今川治部大輔義元の墓】
    駿・遠・三の太守今川義元は、西上の途次、永禄三年(1560)五月十九日織田信長の奇襲にあい、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている。
    以前は塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治九年五月この墓を建てた。                   豊明市教育委員会

    【今川治部大輔義元墓】
     明治9年、有松の山口正義が建てたものである。碑陰記によれば、弔古碑が建てられたあと、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていた。このため、あらためて周辺を整備し義元の墓碑を造ったという。

  • 園内には今川治部大輔義元の墓があります、以前は塚が築かれていました。<br />七石表(一号碑)があり、明和8年(1771年)の建碑で今川上総介義元戦死所と刻まれています、ここが織田方の毛利新助に討ち取られた所です。

    園内には今川治部大輔義元の墓があります、以前は塚が築かれていました。
    七石表(一号碑)があり、明和8年(1771年)の建碑で今川上総介義元戦死所と刻まれています、ここが織田方の毛利新助に討ち取られた所です。

  • 【高徳院】には今川本陣跡碑があります。<br />この辺りに桶狭間の亡霊が現れ、地蔵を祀ると現れなくなったと云います。<br />阿闍梨諦念墓の隣りに今川義元仏式の墓碑があります、万延元年(1860年)義元300回忌に建立された供養塔です。<br />*「家康はここを通る度に拝礼したという。」<br />*境内には今川義元本陣跡碑と芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくとも 秋の風」がある。

    【高徳院】には今川本陣跡碑があります。
    この辺りに桶狭間の亡霊が現れ、地蔵を祀ると現れなくなったと云います。
    阿闍梨諦念墓の隣りに今川義元仏式の墓碑があります、万延元年(1860年)義元300回忌に建立された供養塔です。
    *「家康はここを通る度に拝礼したという。」
    *境内には今川義元本陣跡碑と芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくとも 秋の風」がある。

  • 今川軍の重臣・松井宗信の眠る場所<br />明治27年(1894年)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転。敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。<br /><br />高徳院金剛生門(仁王門)。<br />高徳院は、真言宗高野山において9世紀に「高貴徳王菩薩」を本尊として建立され、明治26年、桶狭間の合戦の戦没者の供養と布教のため、豊明村(現豊明市)に移転された。この金剛生門は昭和62年(1987年)11月に落慶竣工。

    今川軍の重臣・松井宗信の眠る場所
    明治27年(1894年)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転。敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。

    高徳院金剛生門(仁王門)。
    高徳院は、真言宗高野山において9世紀に「高貴徳王菩薩」を本尊として建立され、明治26年、桶狭間の合戦の戦没者の供養と布教のため、豊明村(現豊明市)に移転された。この金剛生門は昭和62年(1987年)11月に落慶竣工。

  • <永禄3年><br />5月12日 今川義元、駿府を発つ<br />5月18日 大高城に兵糧を届ける<br />5月19日 織田信長、熱田神宮で先勝祈願<br />5月19日 丸根砦、鷲津砦落城 <br />5月19日 桶狭間で今川義元を討ち取る<br />5月19日 松平元康(徳川家康)、大高城より撤退<br />6月21日 信長、沓掛城を奪還 <br />「桶狭間の戦い」前後のおもな出来事<br />1551年 信長の父信秀死去<br />1556年 斎藤道三、義龍に討ち取られる<br />1560年 桶狭間の戦い<br />1562年 信長、松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ<br />1567年 信長、美濃を攻略<br /><br />『今川義元公本陣跡碑』<br />今川義元が織田信長に討たれた地はよくわかっていないらしく、名古屋市緑区の<br />桶狭間古戦場公園(田楽坪)という説もあるのだと。<br />戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、ここ豊明市側の<br />桶狭間古戦場跡には資料館ひとつないようだ。<br />別のページには「名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありませんが、名古屋市側の方が今川軍の武将の陣地や信長の進軍ルート、また義元を討ち取った時の様子など具体的な仮説が多いことから名古屋市側有利との声が上がっています。」と。<br />いずれにせよ、それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張している.<br />

    <永禄3年>
    5月12日 今川義元、駿府を発つ
    5月18日 大高城に兵糧を届ける
    5月19日 織田信長、熱田神宮で先勝祈願
    5月19日 丸根砦、鷲津砦落城 
    5月19日 桶狭間で今川義元を討ち取る
    5月19日 松平元康(徳川家康)、大高城より撤退
    6月21日 信長、沓掛城を奪還 
    「桶狭間の戦い」前後のおもな出来事
    1551年 信長の父信秀死去
    1556年 斎藤道三、義龍に討ち取られる
    1560年 桶狭間の戦い
    1562年 信長、松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ
    1567年 信長、美濃を攻略

    『今川義元公本陣跡碑』
    今川義元が織田信長に討たれた地はよくわかっていないらしく、名古屋市緑区の
    桶狭間古戦場公園(田楽坪)という説もあるのだと。
    戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、ここ豊明市側の
    桶狭間古戦場跡には資料館ひとつないようだ。
    別のページには「名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありませんが、名古屋市側の方が今川軍の武将の陣地や信長の進軍ルート、また義元を討ち取った時の様子など具体的な仮説が多いことから名古屋市側有利との声が上がっています。」と。
    いずれにせよ、それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張している.

  • 納骨堂だって

    納骨堂だって

  • 間の宿、有松に到着します

    間の宿、有松に到着します

  • 有松宿の街道

    有松宿の街道

  • 有松の家並

    有松の家並

  • 梅屋鶴壽(幕末の狂歌師)

    梅屋鶴壽(幕末の狂歌師)

  • 【有松】<br />有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、間宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九朗により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)大火が起こり全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り(ぬりごめづくり)、2階の窓は虫籠窓(むしこまど)に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。<br />                 平成7年3月31日 名古屋市教育委員会

    【有松】
    有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、間宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九朗により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)大火が起こり全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り(ぬりごめづくり)、2階の窓は虫籠窓(むしこまど)に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。
                     平成7年3月31日 名古屋市教育委員会

  • 岡家<br />江戸時代末期の重厚な有松の絞り問屋建築

    岡家
    江戸時代末期の重厚な有松の絞り問屋建築

  • 【有松 岡家住宅】<br />主屋 一棟、 作業場 一棟、<br />東倉 一棟、 西倉 一棟<br />当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。<br />主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。<br /><br />     名古屋市教育委員会

    【有松 岡家住宅】
    主屋 一棟、 作業場 一棟、
    東倉 一棟、 西倉 一棟
    当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。
    主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。

         名古屋市教育委員会

  • 【竹田家住宅】<br />主屋 一棟、 書院棟 一棟、<br />茶席 一棟、 宝蔵 一棟、<br />一・二番蔵 一棟、 縄蔵 一棟、<br />付随棟(西門・長屋門・味噌蔵) 三棟<br />当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。<br />竹田家は、屋号を笹加と言う。<br />                          名古屋市教育委員会

    【竹田家住宅】
    主屋 一棟、 書院棟 一棟、
    茶席 一棟、 宝蔵 一棟、
    一・二番蔵 一棟、 縄蔵 一棟、
    付随棟(西門・長屋門・味噌蔵) 三棟
    当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。
    竹田家は、屋号を笹加と言う。
                              名古屋市教育委員会

  • 有松絞りを開祖した【竹田家】<br />絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年(1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。<br /> 有松絞りの歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじまりました。<br /> 旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵にえががれたましたが、鳴海の宿は有松を描いたもので、「名産有松絞り」と記してあります。

    有松絞りを開祖した【竹田家】
    絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年(1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。
     有松絞りの歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじまりました。
     旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵にえががれたましたが、鳴海の宿は有松を描いたもので、「名産有松絞り」と記してあります。

  • 鳴海宿 高札場<br />『東海道 鳴海宿高札場(復元)』案内板。<br />東海道 鳴海宿では、江戸時代、宿場に中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。<br />この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています(一間:約180㎝、一尺:約30㎝)。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。<br />現存する鳴海の高札 <br />高札場には、現存する鳴海の高札8枚のうち①~⑤の5枚のレプリカを掲出しています<br />①太政官高札:慶応4年(1868年)「徒党・強訴・逃敗を禁ず」<br />②太政官高札:慶応4年(1868年)「外国人への乱暴を禁ず」<br />③江戸幕府高札:正徳元年(1711年)「キリスト教を禁ず」<br />④江戸幕府高札:慶応3年(1867年)「駄賃人足賃を記す」<br />⑤太政官高札:慶応4年(1868年)「五倫の道を記す」<br />⑥太政官高札:慶応4年(1868年)「逃散を禁ず」<br />⑦太政官高札:慶応4年(1868年)「キリスト教を禁ず」<br />⑧行政官高札:慶応4年(1868年)「金札の流通の妨げを禁ず」<br />高札の実物は名古屋市博物館に保管されています<br /><br />東海道 鳴海宿<br /> 東海道鳴海宿は、東海道五十三次の四十番目の宿場です。東海道五十三次とは、<br />江戸時代に整備された五街道のうちの「東海道」の五十三の宿場のことをいいます。」

    鳴海宿 高札場
    『東海道 鳴海宿高札場(復元)』案内板。
    東海道 鳴海宿では、江戸時代、宿場に中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。
    この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています(一間:約180㎝、一尺:約30㎝)。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。
    現存する鳴海の高札 
    高札場には、現存する鳴海の高札8枚のうち①~⑤の5枚のレプリカを掲出しています
    ①太政官高札:慶応4年(1868年)「徒党・強訴・逃敗を禁ず」
    ②太政官高札:慶応4年(1868年)「外国人への乱暴を禁ず」
    ③江戸幕府高札:正徳元年(1711年)「キリスト教を禁ず」
    ④江戸幕府高札:慶応3年(1867年)「駄賃人足賃を記す」
    ⑤太政官高札:慶応4年(1868年)「五倫の道を記す」
    ⑥太政官高札:慶応4年(1868年)「逃散を禁ず」
    ⑦太政官高札:慶応4年(1868年)「キリスト教を禁ず」
    ⑧行政官高札:慶応4年(1868年)「金札の流通の妨げを禁ず」
    高札の実物は名古屋市博物館に保管されています

    東海道 鳴海宿
     東海道鳴海宿は、東海道五十三次の四十番目の宿場です。東海道五十三次とは、
    江戸時代に整備された五街道のうちの「東海道」の五十三の宿場のことをいいます。」

  • 「鳴海宿 本陣跡<br />鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の<br />旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。<br />鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・<br />建坪235坪・総畳数159畳であった。<br />なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・<br />旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。<br />また、予備の脇本陣は、二軒あった。」<br /><br />現在、鳴海宿の遺構は残っていません。<br />ここに本陣が有ったらしいということ。<br />本陣は建坪235坪、159畳。<br /><br />東海道40番目の宿駅だった鳴海宿は、絞りを買い求める客で賑わいました。また、鳴海宿の隣の有松は、1608年(慶長13)に知多郡から移住してきた竹田庄九郎らによって開かれ、宿泊施設はないが休息ができる茶屋集落あるいは間宿として発展しました。<br /><br />現名古屋市緑区鳴海町平部の『鳴海宿』の旧東海道を進む。<br />『鳴海宿』の『鳴海』は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。<br />鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。<br />本陣:1、脇本陣2:、旅籠68:、人口:3,643人

    「鳴海宿 本陣跡
    鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の
    旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。
    鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・
    建坪235坪・総畳数159畳であった。
    なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・
    旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。
    また、予備の脇本陣は、二軒あった。」

    現在、鳴海宿の遺構は残っていません。
    ここに本陣が有ったらしいということ。
    本陣は建坪235坪、159畳。

    東海道40番目の宿駅だった鳴海宿は、絞りを買い求める客で賑わいました。また、鳴海宿の隣の有松は、1608年(慶長13)に知多郡から移住してきた竹田庄九郎らによって開かれ、宿泊施設はないが休息ができる茶屋集落あるいは間宿として発展しました。

    現名古屋市緑区鳴海町平部の『鳴海宿』の旧東海道を進む。
    『鳴海宿』の『鳴海』は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。
    鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。
    本陣:1、脇本陣2:、旅籠68:、人口:3,643人

  • 【丹下町の秋葉山常夜灯】(鳴海駅の近く)<br />寛政四年(1792)の建立、かつ鳴海宿の西口。<br /> 鳴海の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。<br /><br /> 表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。<br />寛政四年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。<br />旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。<br />平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。<br />                           名古屋市教育委員会

    【丹下町の秋葉山常夜灯】(鳴海駅の近く)
    寛政四年(1792)の建立、かつ鳴海宿の西口。
     鳴海の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。

     表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
    寛政四年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
    旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
    平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
                               名古屋市教育委員会

  • 【笠寺の一里塚】<br />塚木は榎の老木。日本橋より88里目。<br />一里塚は、慶長九年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。此処は江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが残っている。

    【笠寺の一里塚】
    塚木は榎の老木。日本橋より88里目。
    一里塚は、慶長九年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。此処は江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが残っている。

  • 笠寺一里塚

    笠寺一里塚

  • 笠寺一里塚

    笠寺一里塚

  • 【尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)】<br />鳴海長者の下女が、寺が荒れ雨ざらしになっている観音に笠を被せた。この優しさが縁で藤原兼平の妻となり玉照姫となる。今日も縁結びの祈願で賑わう。<br />宮本武蔵の供養塔、芭蕉千鳥塚春雨塚がある。<br /><br />『笠覆寺』の巨大な『山門・仁王門』が。文政3年(1820)の仁王門。<br />笠寺縁起(かさでらえんぎ)によれば、天平8年(736)浜に流れ着いた霊木に僧善光が十一面観音を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。<br />尾張四観音の一つで、仁王門・多宝塔・鐘楼・本堂等見事な伽藍(がらん)の数々を配し、四観音の中でもひときわ荘厳。<br /><br />天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。<br />天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。<br />初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。<br />                         名古屋市教育委員会

    【尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)】
    鳴海長者の下女が、寺が荒れ雨ざらしになっている観音に笠を被せた。この優しさが縁で藤原兼平の妻となり玉照姫となる。今日も縁結びの祈願で賑わう。
    宮本武蔵の供養塔、芭蕉千鳥塚春雨塚がある。

    『笠覆寺』の巨大な『山門・仁王門』が。文政3年(1820)の仁王門。
    笠寺縁起(かさでらえんぎ)によれば、天平8年(736)浜に流れ着いた霊木に僧善光が十一面観音を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。
    尾張四観音の一つで、仁王門・多宝塔・鐘楼・本堂等見事な伽藍(がらん)の数々を配し、四観音の中でもひときわ荘厳。

    天林山と号し、真言宗。俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。
    天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。
    初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。
                             名古屋市教育委員会

  • 近隣の【泉増院】には、玉照姫が祀られている。<br />代々徳川家姫君奥女中の信仰が篤かった。<br /><br />近隣の東光院には、宮本武蔵が滞在しその自筆天満宮書幅、自画像、自作木刀を所蔵してる。

    近隣の【泉増院】には、玉照姫が祀られている。
    代々徳川家姫君奥女中の信仰が篤かった。

    近隣の東光院には、宮本武蔵が滞在しその自筆天満宮書幅、自画像、自作木刀を所蔵してる。

  • 【尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)】<br />笠寺観音、正しくは真言宗の笠履寺(りゅうふくじ)<br />縁起によると、天平年間(729年~749年)に禅光という僧侶が、漂着した木で、十一面観音を彫って小堂を建て安置し、小松寺と名付けたという<br />その後寺が荒れ、観音像が野ざらしとなっていたのを付近の娘(鳴海長者の侍女)が笠を被せ、像を雨露から守ったやがて、その娘はご利益があったのか、太政大臣藤原基経の3男である兼平に嫁ぐことになった<br />そして、兼平の援助で、寺が再興され、名も笠履寺と改められたとのこと<br />今でも笠をかぶった本尊は、8年毎に開帳されている<br />(愛知県名古屋市南区)<br />

    【尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)】
    笠寺観音、正しくは真言宗の笠履寺(りゅうふくじ)
    縁起によると、天平年間(729年~749年)に禅光という僧侶が、漂着した木で、十一面観音を彫って小堂を建て安置し、小松寺と名付けたという
    その後寺が荒れ、観音像が野ざらしとなっていたのを付近の娘(鳴海長者の侍女)が笠を被せ、像を雨露から守ったやがて、その娘はご利益があったのか、太政大臣藤原基経の3男である兼平に嫁ぐことになった
    そして、兼平の援助で、寺が再興され、名も笠履寺と改められたとのこと
    今でも笠をかぶった本尊は、8年毎に開帳されている
    (愛知県名古屋市南区)

  • 尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)

    尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)

  • 尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)の本堂。本尊の十一面観音像は笠寺観音の名で知られています。<br />本堂の右(東)方向に宮本武蔵之碑があり、「新免宮本武蔵守玄信碑」と刻まれています、延享元年(1744年)武蔵の弟子の子孫等が百回忌を記念して建立したもの。<br /><br />傍らには芭蕉千鳥塚「星崎の 闇を見よとや 啼千鳥」があります。<br />

    尾張四観音之一天林山笠覆寺(りゅうふくじ)の本堂。本尊の十一面観音像は笠寺観音の名で知られています。
    本堂の右(東)方向に宮本武蔵之碑があり、「新免宮本武蔵守玄信碑」と刻まれています、延享元年(1744年)武蔵の弟子の子孫等が百回忌を記念して建立したもの。

    傍らには芭蕉千鳥塚「星崎の 闇を見よとや 啼千鳥」があります。

  • 正保年間(1644~47)建立の多宝塔の前に【徳川家康御幼少之砌(みぎり)人質交換之地碑】があります。<br />天文18年(1549年)織田家の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と、今川家に捕えられた織田信広(織田信長異母兄)の人質交換が、ここ笠覆寺で行われました。

    正保年間(1644~47)建立の多宝塔の前に【徳川家康御幼少之砌(みぎり)人質交換之地碑】があります。
    天文18年(1549年)織田家の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と、今川家に捕えられた織田信広(織田信長異母兄)の人質交換が、ここ笠覆寺で行われました。

  • 笠覆寺の正保年間(1644~47)建立の【多宝塔】<br /><br />多宝塔の裏には安永2年(1773年)建立の芭蕉春雨塚「笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨」があります。

    笠覆寺の正保年間(1644~47)建立の【多宝塔】

    多宝塔の裏には安永2年(1773年)建立の芭蕉春雨塚「笠寺や もらぬ岩屋も 春の雨」があります。

  • 笠覆寺の参拝を終えて、次へ向かいます。

    笠覆寺の参拝を終えて、次へ向かいます。

  • 宿駅制度400年記念碑<br />「「古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、<br />「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。<br />ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。 西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。<br /> 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。 また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。」

    宿駅制度400年記念碑
    「「古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、
    「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。
    ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。 西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。
    芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。 また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。」

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