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いよいよ近畿地方の桑名宿(三重県)に入ってきました。桑名から四日市方面の海岸部は、現在工業地帯であり、交通量が多く、街道の趣は少ない。<br /><br />表紙は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 桑名 広重画】<br />広重は桑名宿の渡し口と桑名城の播龍櫓(ばんりゅう、物見櫓)を描いています。七里の渡しの旅を終える二隻の帆船。桑名に到着したので帆を下しています。帆船を主に庶民が使い、大名らは豪華な御座船を使った。海は大きく波立ち船の揺れはいかがでしょうね。

東海道53次、No28 いよいよ七里の渡しを過ぎれば桑名宿(42)へ

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2018/03/16 - 2018/03/16

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ムッシュ

ムッシュさん

いよいよ近畿地方の桑名宿(三重県)に入ってきました。桑名から四日市方面の海岸部は、現在工業地帯であり、交通量が多く、街道の趣は少ない。

表紙は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 桑名 広重画】
広重は桑名宿の渡し口と桑名城の播龍櫓(ばんりゅう、物見櫓)を描いています。七里の渡しの旅を終える二隻の帆船。桑名に到着したので帆を下しています。帆船を主に庶民が使い、大名らは豪華な御座船を使った。海は大きく波立ち船の揺れはいかがでしょうね。

旅行の満足度
4.0
  • 桑名マンホール。桑名の七里の渡し湊が描かれている。<br />桑名から京三条大橋まで123.6kmです。

    桑名マンホール。桑名の七里の渡し湊が描かれている。
    桑名から京三条大橋まで123.6kmです。

  • 【桑名宿側の七里の渡し跡】<br />七里の渡し場は伊勢國の東口にあたるため、天明年間(1781~89)に伊勢神宮の一の鳥居が建てられ、遷宮ごとに建て替えられています。<br />天保3年(1833)建立の常夜燈は鍛冶町にあったものです。<br />	<br />【史跡 七里の渡し】<br />  この七里の渡しは室町時代から栄え、慶長六年東海道五十三次の制度が定まると、宮(熱田)からの海上七里が本往還とされ、またのちに脇往還として宮から佐屋を経てくる道筋も認められた。鳥居は伊勢神宮一の鳥居で天明以来建てられている。<昭和33年 県史跡指定><br /><br />【七里の渡し跡】<br />  江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)との間は、海路七里(約28Km)の舟渡しであった。<br />  桑名宿の舟着場は伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられた。<br />  舟着場付近は桑名宿の中心であり舟着場の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいた。舟着場の南側には舟会所、人馬問屋や丹波本陣があった。<br />  三十三年(1958)には七里の渡し跡付近は県指定史跡となった。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風後の高潮対策工事で、街道と舟着場跡との間に防波堤が設けられた。<br /><br />【七里の渡し】<br />「桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。<br />七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(一七八一~一七八九)に建てられました。<br />七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。<br />昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。<br />昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる<br />表情を見せています。」

    【桑名宿側の七里の渡し跡】
    七里の渡し場は伊勢國の東口にあたるため、天明年間(1781~89)に伊勢神宮の一の鳥居が建てられ、遷宮ごとに建て替えられています。
    天保3年(1833)建立の常夜燈は鍛冶町にあったものです。

    【史跡 七里の渡し】
      この七里の渡しは室町時代から栄え、慶長六年東海道五十三次の制度が定まると、宮(熱田)からの海上七里が本往還とされ、またのちに脇往還として宮から佐屋を経てくる道筋も認められた。鳥居は伊勢神宮一の鳥居で天明以来建てられている。<昭和33年 県史跡指定>

    【七里の渡し跡】
      江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)との間は、海路七里(約28Km)の舟渡しであった。
      桑名宿の舟着場は伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられた。
      舟着場付近は桑名宿の中心であり舟着場の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいた。舟着場の南側には舟会所、人馬問屋や丹波本陣があった。
      三十三年(1958)には七里の渡し跡付近は県指定史跡となった。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風後の高潮対策工事で、街道と舟着場跡との間に防波堤が設けられた。

    【七里の渡し】
    「桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。
    七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(一七八一~一七八九)に建てられました。
    七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
    昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。
    昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる
    表情を見せています。」

  • 【伊勢神宮の第一の鳥居と七里の渡し場跡】<br />七里の渡し公園に立っています。伊勢国の東口にあたる。<br />七里の渡しの渡船場には天明年間に建てられた「伊勢の国一の鳥居」が現存するほか、安政3年(1856年)と刻まれた常夜灯(フォトの左側に立つ)が多度神社から移築されています。<br />鳥居の向こうは、揖斐川と長良川が広がり、遠く名古屋の高層ビル群んも。<br /><br />桑名宿からは津島神社の参拝道が分岐する佐屋宿(現・愛知県愛西市佐屋町)へ川路3里の渡船「三里の渡し」も行なわれていました(佐屋宿~宮宿=佐屋街道)。<br />明治になって街道が廃れてからも、大垣とを結ぶ揖斐川の川船の発着場として機能していました。<br /><br />渡し場に建つ大鳥居は、下船後に伊勢路を歩くため「伊勢国一の鳥居」と称され、現在も神宮(伊勢神宮)の遷宮ごとに建て替えられているのです。<br />「伊勢国一の鳥居」は江戸時代の天明年間(1781年~1789年)に伊勢国の初めの地にふさわしい鳥居をと願い、桑名片町の商人・矢田甚右衛門、船馬町の大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたのが始まり。明治以降になって、遷宮ごとに宇治橋外側の鳥居が移されるようになりました。<br /><br />常夜燈は1833(天保4)年に遠く江戸や地元・桑名の人達の寄進によって鍛冶町の東海道筋に建立されたもの。<br />伊勢湾台風で倒壊し、その後、上部のみ多度大社から移したもので補修され、安政3年(1856年)の銘が刻まれています。<br /><br />【七里の渡跡の大鳥居】<br />鳥居が建てられたのは天明年間(1781~1789年)。桑名の商人、矢田甚左衛門・大塚与六郎が発起人となり関東地方を廻って寄付を集めて建立された。<br />当時は、東海道をまたぐように道路上に建っていたと言われている。

    【伊勢神宮の第一の鳥居と七里の渡し場跡】
    七里の渡し公園に立っています。伊勢国の東口にあたる。
    七里の渡しの渡船場には天明年間に建てられた「伊勢の国一の鳥居」が現存するほか、安政3年(1856年)と刻まれた常夜灯(フォトの左側に立つ)が多度神社から移築されています。
    鳥居の向こうは、揖斐川と長良川が広がり、遠く名古屋の高層ビル群んも。

    桑名宿からは津島神社の参拝道が分岐する佐屋宿(現・愛知県愛西市佐屋町)へ川路3里の渡船「三里の渡し」も行なわれていました(佐屋宿~宮宿=佐屋街道)。
    明治になって街道が廃れてからも、大垣とを結ぶ揖斐川の川船の発着場として機能していました。

    渡し場に建つ大鳥居は、下船後に伊勢路を歩くため「伊勢国一の鳥居」と称され、現在も神宮(伊勢神宮)の遷宮ごとに建て替えられているのです。
    「伊勢国一の鳥居」は江戸時代の天明年間(1781年~1789年)に伊勢国の初めの地にふさわしい鳥居をと願い、桑名片町の商人・矢田甚右衛門、船馬町の大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたのが始まり。明治以降になって、遷宮ごとに宇治橋外側の鳥居が移されるようになりました。

    常夜燈は1833(天保4)年に遠く江戸や地元・桑名の人達の寄進によって鍛冶町の東海道筋に建立されたもの。
    伊勢湾台風で倒壊し、その後、上部のみ多度大社から移したもので補修され、安政3年(1856年)の銘が刻まれています。

    【七里の渡跡の大鳥居】
    鳥居が建てられたのは天明年間(1781~1789年)。桑名の商人、矢田甚左衛門・大塚与六郎が発起人となり関東地方を廻って寄付を集めて建立された。
    当時は、東海道をまたぐように道路上に建っていたと言われている。

  • 桑名城遺構。一部復元された【ばん龍櫓】<br />本田忠勝が桑名城主になり、鋳造業を盛んに興した。航海の守護神でした。<br /><br />【蟠龍櫓について】<br /> 桑名城には、元禄大火災後に再建された時点でも51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と詠われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。<br />  蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所絵図」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。<br />  「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。<br />  文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。<br /><br />

    桑名城遺構。一部復元された【ばん龍櫓】
    本田忠勝が桑名城主になり、鋳造業を盛んに興した。航海の守護神でした。

    【蟠龍櫓について】
     桑名城には、元禄大火災後に再建された時点でも51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と詠われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
      蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所絵図」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
      「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
      文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。

  • 【桑名城絵図】<br />海に面したお城の絵図。復元された櫓は、水門統合管理所です。1959年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたため、七里の渡し前に堤防が築かれた。<br /><br />1591(天正19)年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣(かしん)である一柳右近が桑名に入り、その4年後に伊勢神戸城(かんべじょう)の天守閣を移築して、揖斐川沿いに桑名城を築きました。<br /><br />これが現在の桑名城の原型になり、1601(慶長6)年、本多忠勝は桑名藩に入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始し、船着場の整備、4重6階の天守をはじめ51基の櫓(やぐら)、46基の多聞(たもん)を立ち並ばせました。<br /><br />蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の建設時期は定かではありませんが、元禄期の大火後、再建された櫓(やぐら)の中に、蟠龍櫓が含まれていたと考えられています。<br /><br />「蟠龍(ばんりゅう)」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。この「蟠龍」をかたどった瓦(かわら)が置かれたことから蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入ってくる船の監視(かんし)などの役割を果たしていました。<br /><br />現在の建物は、2003(平成15)年に水門の管理棟として建てられ、当時の外観を再現しています。2階は展示室として、公開されています。<br /><br />『宝暦治水』。<br />木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑はもちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。<br />木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは<br />同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の方へ流れてきてしまったのです。<br />こうした時代背景の中、宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を出しました。これには、旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を弱めるねらいがあったと考えられています。<br />薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、意見はまとまらず、むしろ「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が大勢を占めました。<br />そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を<br />水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」というものでした。これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始されたのだと。<br />

    【桑名城絵図】
    海に面したお城の絵図。復元された櫓は、水門統合管理所です。1959年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたため、七里の渡し前に堤防が築かれた。

    1591(天正19)年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣(かしん)である一柳右近が桑名に入り、その4年後に伊勢神戸城(かんべじょう)の天守閣を移築して、揖斐川沿いに桑名城を築きました。

    これが現在の桑名城の原型になり、1601(慶長6)年、本多忠勝は桑名藩に入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始し、船着場の整備、4重6階の天守をはじめ51基の櫓(やぐら)、46基の多聞(たもん)を立ち並ばせました。

    蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の建設時期は定かではありませんが、元禄期の大火後、再建された櫓(やぐら)の中に、蟠龍櫓が含まれていたと考えられています。

    「蟠龍(ばんりゅう)」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。この「蟠龍」をかたどった瓦(かわら)が置かれたことから蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入ってくる船の監視(かんし)などの役割を果たしていました。

    現在の建物は、2003(平成15)年に水門の管理棟として建てられ、当時の外観を再現しています。2階は展示室として、公開されています。

    『宝暦治水』。
    木曽三川流域の輪中(わじゅう)地帯の歴史は、水害の歴史であり、水害がおきるたびに田畑はもちろん、家も流され、家族の誰かが溺れて亡くなっていきました。人々はこうした度重なる水害に対応するため、村を輪中堤で囲むなど個別に対策をとる一方、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流を解決することを悲願としてきました。
    木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していましたが、三川それぞれの川底の高さは
    同じではなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていたため、水が増えるとみな揖斐川の方へ流れてきてしまったのです。
    こうした時代背景の中、宝暦3年(西暦1753年)江戸幕府はこの美濃から1,200kmも離れた薩摩藩に、幕府の設計に基づいて、人手・お金・材料を負担して工事を実施するよう命令を出しました。これには、旧高須藩主であった尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が今は実子が藩主を務める高須藩領や尾張藩領、幕府領を水害から守り、さらに雄藩であった薩摩藩の経済力を弱めるねらいがあったと考えられています。
    薩摩藩ではこの命令に対し、おもだった家臣の全てが集められての会議が行われましたが、意見はまとまらず、むしろ「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が大勢を占めました。
    そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)公の意見は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を
    水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本である。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」というものでした。これによって、薩摩藩は幕府の命令に従うことを決め、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始されたのだと。

  • 桑名城の石垣が三之丸堀に、一部城壁を残している。桑名城は、三方を海に囲われ、扇を広げた形の似ていることから扇城とも呼ばれた。<br /><br />関ケ原の合戦後、家康は徳川四天王の一人本多忠勝を桑名十万石に封じました、忠勝は四層六重の天守をはじめ、 五十一基の櫓と四十六基の多聞が立ち並んだ桑名城を築城しました。

    桑名城の石垣が三之丸堀に、一部城壁を残している。桑名城は、三方を海に囲われ、扇を広げた形の似ていることから扇城とも呼ばれた。

    関ケ原の合戦後、家康は徳川四天王の一人本多忠勝を桑名十万石に封じました、忠勝は四層六重の天守をはじめ、 五十一基の櫓と四十六基の多聞が立ち並んだ桑名城を築城しました。

  • 九華公園(桑名城跡公園)。本多忠勝の居城。<br />【九華公園】<br />  昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。<br />  城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇城」と呼ばれました。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付いていますが、「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。<br /><br /> 現在の九華公園は8.65ヘクタールあり、桜・つつじ・花菖蒲などの名所として、市民の憩いの場所となっています。

    九華公園(桑名城跡公園)。本多忠勝の居城。
    【九華公園】
      昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。
      城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇城」と呼ばれました。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付いていますが、「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。

     現在の九華公園は8.65ヘクタールあり、桜・つつじ・花菖蒲などの名所として、市民の憩いの場所となっています。

  • 【歴史をかたる公園】という名称の公園です。<br />ここには、江戸、日本橋から京都・三条大橋までの東海道五十三次を模した構成の公園となっている。

    【歴史をかたる公園】という名称の公園です。
    ここには、江戸、日本橋から京都・三条大橋までの東海道五十三次を模した構成の公園となっている。

  • 【春日神社の青銅鳥居の柱と道標石(しるべいし)】<br />桑名は鋳物で栄えた町でもある。<br />俗謡歌碑「勢州に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱の女郎」と云われた青銅の鳥居です。 <br />慶長7年(1602年)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された木造鳥居が大風で倒壊した為、<br />寛文7年(1667年)桑名藩七代藩主松平定重が辻内善右衛門(鋳物師)に命じ、建立した青銅鳥居です。鳥居の脇にはしるべ石がある<br /><br />鳥居脇に”しるべいし”があります、子が迷子になると左側面の”たづぬるかた”に特徴を記し、心当たりのある人は右側面の”おしえるかた”に情報を記しました。<br /><br />慶長7年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が亜大風によって倒壊したため、寛文7年(1667)七代桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。楼門(随神門)は1833年(天保4年)15代藩主松平定永が建立したものがあったが、1945年(昭和20年)空襲により焼失。現在建っているのは1995年(平成7年)に再建されたもの。<br />

    【春日神社の青銅鳥居の柱と道標石(しるべいし)】
    桑名は鋳物で栄えた町でもある。
    俗謡歌碑「勢州に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱の女郎」と云われた青銅の鳥居です。
    慶長7年(1602年)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された木造鳥居が大風で倒壊した為、
    寛文7年(1667年)桑名藩七代藩主松平定重が辻内善右衛門(鋳物師)に命じ、建立した青銅鳥居です。鳥居の脇にはしるべ石がある

    鳥居脇に”しるべいし”があります、子が迷子になると左側面の”たづぬるかた”に特徴を記し、心当たりのある人は右側面の”おしえるかた”に情報を記しました。

    慶長7年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が亜大風によって倒壊したため、寛文7年(1667)七代桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。楼門(随神門)は1833年(天保4年)15代藩主松平定永が建立したものがあったが、1945年(昭和20年)空襲により焼失。現在建っているのは1995年(平成7年)に再建されたもの。

  • 【桑名宗社参道(春日神社)】<br />	<br />【春日神社青銅鳥居】 県重要文化財(昭和40年指定)<br />  慶長七年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が大風によって倒壊したため、寛文七年(1667)に桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。2,3階建ての民家と同じくらいの高さ。<br /><br />【しるべいし】<br />鳥居の左端に小さく見える石。「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まるところに建てられました。東京浅草観音のしるべいしは有名です。<br />  自分の子供が迷子になると、左側面の「たずぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼ります。この子供に心当たりがある人は右側面の「おしへるかた」へ子供の居た場所などを書いて貼ります。<br />                       桑名市教育委員会<br /><br />正式には桑名神社と中臣神社を合わせて祀っている桑名宗社というが、一般に春日神社と呼ばれる。 古来から桑名の総鎮守。県指定文化財として石取祭、青銅鳥居があり、市指定文化財としては、千姫が寄進したと伝えられる徳川家康坐像、松尾芭蕉真蹟短冊、村正作の太刀および短刀、 千子正重作の太刀、御車祭奏楽、御膳水井、銅鏡及び古鈴などがある。 境内には山口誓子と千葉兎月の句碑がある。<br />

    【桑名宗社参道(春日神社)】

    【春日神社青銅鳥居】 県重要文化財(昭和40年指定)
      慶長七年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が大風によって倒壊したため、寛文七年(1667)に桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。2,3階建ての民家と同じくらいの高さ。

    【しるべいし】
    鳥居の左端に小さく見える石。「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まるところに建てられました。東京浅草観音のしるべいしは有名です。
      自分の子供が迷子になると、左側面の「たずぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼ります。この子供に心当たりがある人は右側面の「おしへるかた」へ子供の居た場所などを書いて貼ります。
                           桑名市教育委員会

    正式には桑名神社と中臣神社を合わせて祀っている桑名宗社というが、一般に春日神社と呼ばれる。 古来から桑名の総鎮守。県指定文化財として石取祭、青銅鳥居があり、市指定文化財としては、千姫が寄進したと伝えられる徳川家康坐像、松尾芭蕉真蹟短冊、村正作の太刀および短刀、 千子正重作の太刀、御車祭奏楽、御膳水井、銅鏡及び古鈴などがある。 境内には山口誓子と千葉兎月の句碑がある。

  • 【桑名宗社(春日神社)】<br />桑名神社と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、「春日さん」の名で親しまれています。<br /><br />神門。見事な2階建て。こんな立派な門は初めて見た気がします。<br />桑名宗社は、繁栄の一途をたどり、織田信長・徳川家康などより神領の寄進、本多忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から篤く崇敬され、明治になってからも元年の御東行・二年の東京遷都と、共に天皇・勅使が御泊りするなどされました。このような崇敬篤く、荘厳な一大社となりましたが惜しくも昭和二十年の戦災で全て消失。しかしこの敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解によって立派に再興されるに至っています。<br /><br />桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。また、7月末の石採御神事は天下の奇祭としても有名である。(Wikipedia)<br /><br />

    【桑名宗社(春日神社)】
    桑名神社と中臣神社の両社を合わせて桑名宗社といい、古来から桑名の総鎮守として崇敬されてきました。永仁4年(1296)に奈良から春日大明神を勧請して合祀したため、「春日さん」の名で親しまれています。

    神門。見事な2階建て。こんな立派な門は初めて見た気がします。
    桑名宗社は、繁栄の一途をたどり、織田信長・徳川家康などより神領の寄進、本多忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から篤く崇敬され、明治になってからも元年の御東行・二年の東京遷都と、共に天皇・勅使が御泊りするなどされました。このような崇敬篤く、荘厳な一大社となりましたが惜しくも昭和二十年の戦災で全て消失。しかしこの敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解によって立派に再興されるに至っています。

    桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。また、7月末の石採御神事は天下の奇祭としても有名である。(Wikipedia)

  • 【桑名宗社】 <br />神門を抜けると本堂

    【桑名宗社】 
    神門を抜けると本堂

  • 【道標】<br />左は江戸へ、右は京への文字。

    【道標】
    左は江戸へ、右は京への文字。

  • 【桑名宿大塚本陣跡の舟津屋】<br />明治から続く、今は高級料亭として営業している。<br /><br />天保14年(1843年)頃の桑名宿の宿内家数は2,544軒、うち本陣2、脇本陣4、旅籠120軒で、宿内人口は8,848人でした。<br /><br />「七里の渡し跡」の手前に料亭●「船津屋」がある。かっての大塚本陣の跡である。ここは格式の高い本陣で、川から直接船が着けられたという。また泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台ともなっている。<br /><br />塀を窪ませて久保田万太郎の句碑が(歌行灯句碑)建っている。(左側の柵内に)<br />「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」がある<br /><br />隣りの料理屋●「山月」は駿河屋脇本陣跡である。俗謡歌碑「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に、二朱の女郎」がある。

    【桑名宿大塚本陣跡の舟津屋】
    明治から続く、今は高級料亭として営業している。

    天保14年(1843年)頃の桑名宿の宿内家数は2,544軒、うち本陣2、脇本陣4、旅籠120軒で、宿内人口は8,848人でした。

    「七里の渡し跡」の手前に料亭●「船津屋」がある。かっての大塚本陣の跡である。ここは格式の高い本陣で、川から直接船が着けられたという。また泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台ともなっている。

    塀を窪ませて久保田万太郎の句碑が(歌行灯句碑)建っている。(左側の柵内に)
    「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」がある

    隣りの料理屋●「山月」は駿河屋脇本陣跡である。俗謡歌碑「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に、二朱の女郎」がある。

  • 【一目連神社(いちもくれん)】<br />一目連(いちもくれん)神社は鋳物師の守護神でした。<br />一目連(またの名を多度権現)は三重県桑名市にある多度大社に祀られている<br />暴風を司る神様です。<br />また一つ目(一目)という所から台風の守護神ともされています。<br />多度大社の別宮に祀られていて<br />本来の名前は天目一箇神(あめのまひとつかみ)といわれています。<br /><br />一目連神社は、我が国金属工業の祖神であり、鋳物及鉄工に関して御利益がある神として知られている<br /><br />【一目連神社の由来】<br />御祭神は天目一箇命にして大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたらせらる一目連神社は我が国金属工業の祖神である鋳物及鉄工に関する御利益殊に顕たかな神として知られ御神徳のお高い御神であらせらる 鍋屋町は町名の如く鍋屋の多き所にして一目連神社の新興篤く ある日町民が一目連神社に商賣繁盛の祈願をせるに祈祷も終り賽銭をあげたるに不思議にも供酒皿の中に飛びこみたるを見て町内繁盛の御印しなりと深く感激し守護神として神社を建立し御祀りすることになったと伝えらる(今より約百五拾年前) 以来商賣益々繁盛し非常に発展せり 又一目連神社は天変地異ある毎に現に御霊を現はし諸難を救い給ひ時に竜神となりて天翔り干天に慈雨を恵み給うことは廣く世人の知るところにして農業水産の神としての信仰者も多くあり其他不思議なる御利益の伝説も少なからず<br />

    【一目連神社(いちもくれん)】
    一目連(いちもくれん)神社は鋳物師の守護神でした。
    一目連(またの名を多度権現)は三重県桑名市にある多度大社に祀られている
    暴風を司る神様です。
    また一つ目(一目)という所から台風の守護神ともされています。
    多度大社の別宮に祀られていて
    本来の名前は天目一箇神(あめのまひとつかみ)といわれています。

    一目連神社は、我が国金属工業の祖神であり、鋳物及鉄工に関して御利益がある神として知られている

    【一目連神社の由来】
    御祭神は天目一箇命にして大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたらせらる一目連神社は我が国金属工業の祖神である鋳物及鉄工に関する御利益殊に顕たかな神として知られ御神徳のお高い御神であらせらる 鍋屋町は町名の如く鍋屋の多き所にして一目連神社の新興篤く ある日町民が一目連神社に商賣繁盛の祈願をせるに祈祷も終り賽銭をあげたるに不思議にも供酒皿の中に飛びこみたるを見て町内繁盛の御印しなりと深く感激し守護神として神社を建立し御祀りすることになったと伝えらる(今より約百五拾年前) 以来商賣益々繁盛し非常に発展せり 又一目連神社は天変地異ある毎に現に御霊を現はし諸難を救い給ひ時に竜神となりて天翔り干天に慈雨を恵み給うことは廣く世人の知るところにして農業水産の神としての信仰者も多くあり其他不思議なる御利益の伝説も少なからず

  • 【矢田立場に復元された火の見櫓】<br />突当りの右手に火の見櫓が復元されている。ここが矢田立場跡です。<br />この立場は「食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし」と云われました。<br />ここは、桑名宿の京方口(西口)でした<br /><br />江戸時代の矢田町は、東海道の立場。「久波奈名所図会」には「此立場は、食物自由にして河海の魚鱗、山部の蕗菜四時無きし」とある。福江町へ曲がる角には、火のみ櫓(平成3年に再建)もあった。現在でも馬を繋ぎ止めた鉄環のある家や、連子格子のある家も見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために宿屋の人達が集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内した。(案内板)

    【矢田立場に復元された火の見櫓】
    突当りの右手に火の見櫓が復元されている。ここが矢田立場跡です。
    この立場は「食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし」と云われました。
    ここは、桑名宿の京方口(西口)でした

    江戸時代の矢田町は、東海道の立場。「久波奈名所図会」には「此立場は、食物自由にして河海の魚鱗、山部の蕗菜四時無きし」とある。福江町へ曲がる角には、火のみ櫓(平成3年に再建)もあった。現在でも馬を繋ぎ止めた鉄環のある家や、連子格子のある家も見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために宿屋の人達が集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内した。(案内板)

  • 【了順寺】<br />浄土真宗本願寺派了順寺。山門は桑名城の城門を移築したものです<br />戦国時代桑部城主毛利秀重の孫秀元が出家し創建した。山門は桑名城門を移築した。<br /><br />了順寺は、桑部城主毛利秀重(織田信長によって落城)の孫の秀元が出家して、<br />元和7年(1621)に創建した。桑部城は、室町時代末期に町屋川南岸に舌状に張り出した低丘陵地の先端部に築かれた城である。

    【了順寺】
    浄土真宗本願寺派了順寺。山門は桑名城の城門を移築したものです
    戦国時代桑部城主毛利秀重の孫秀元が出家し創建した。山門は桑名城門を移築した。

    了順寺は、桑部城主毛利秀重(織田信長によって落城)の孫の秀元が出家して、
    元和7年(1621)に創建した。桑部城は、室町時代末期に町屋川南岸に舌状に張り出した低丘陵地の先端部に築かれた城である。

  • 【桑名 浄泉坊】<br />徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。<br /><br />【浄泉坊の由来】<br />当坊は正治元年(1199)正治寺として小向の寺山に小向御厨神明宮の別当寺として建てられ、禅宗であった。その後、愛洲宗貫が小向に城を構え、延元4年(1339)に朝明郡の地頭職に補せられて伊勢守を名乗り、この寺を菩提寺として愛洞山と言った。寛正の頃(1460-65)伊勢左衛門尉真弘の末裔が出家して小向坊浄泉と言って正治寺に住み、応仁元年(1467)蓮如上人が関東より帰洛の節、其の教化を受けた。天正の頃、沼木宗喜や飯田庄之助の城が寺院付近に有り、この城を攻めた滝川一益の兵火にかかり焼失した。<br />今も字名に寺山阿弥陀堂の名が残っている。慶長8年(1603)伊勢氏の末裔慶昭が正治寺を再興して小向山浄泉坊と改称し、寛永15年(1683)西本願寺より木仏及び寺号の公称を受けた。山門の扉や屋根瓦に徳川家三つ葉葵が貼ってあり、徳川家に由緒ある桑名藩の奥方の菩提寺であった。参勤交代の大名は、この寺の門前で駕籠から一礼したと言う。現本堂は明治43年の建立であり、今度本堂屋根修復工事を記念して旧本堂の鬼瓦をここに安置せり。」

    【桑名 浄泉坊】
    徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。

    【浄泉坊の由来】
    当坊は正治元年(1199)正治寺として小向の寺山に小向御厨神明宮の別当寺として建てられ、禅宗であった。その後、愛洲宗貫が小向に城を構え、延元4年(1339)に朝明郡の地頭職に補せられて伊勢守を名乗り、この寺を菩提寺として愛洞山と言った。寛正の頃(1460-65)伊勢左衛門尉真弘の末裔が出家して小向坊浄泉と言って正治寺に住み、応仁元年(1467)蓮如上人が関東より帰洛の節、其の教化を受けた。天正の頃、沼木宗喜や飯田庄之助の城が寺院付近に有り、この城を攻めた滝川一益の兵火にかかり焼失した。
    今も字名に寺山阿弥陀堂の名が残っている。慶長8年(1603)伊勢氏の末裔慶昭が正治寺を再興して小向山浄泉坊と改称し、寛永15年(1683)西本願寺より木仏及び寺号の公称を受けた。山門の扉や屋根瓦に徳川家三つ葉葵が貼ってあり、徳川家に由緒ある桑名藩の奥方の菩提寺であった。参勤交代の大名は、この寺の門前で駕籠から一礼したと言う。現本堂は明治43年の建立であり、今度本堂屋根修復工事を記念して旧本堂の鬼瓦をここに安置せり。」

  • 【桑名 浄泉坊】<br />浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正冶寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。嘉永十五年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。<br /> 徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。(案内板)

    【桑名 浄泉坊】
    浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正冶寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。嘉永十五年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。
     徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。(案内板)

  • 【街道沿いの住居。趣あるなー】<br /><br />この辺り、かつては、松並木が続き、鈴鹿山系や伊勢海が見えていたとのこと。<br />江場から安永にかけての192間(約345m)は、両側とも家がなく松並木となっていた。眺望が良く、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは松並木も残っていたが、現在は家が並び、一本の松も残っていない。(案内板)

    【街道沿いの住居。趣あるなー】

    この辺り、かつては、松並木が続き、鈴鹿山系や伊勢海が見えていたとのこと。
    江場から安永にかけての192間(約345m)は、両側とも家がなく松並木となっていた。眺望が良く、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは松並木も残っていたが、現在は家が並び、一本の松も残っていない。(案内板)

  • 【浄土真宗本願寺派走井山善西寺(ぜんさいじ)l】<br />戦国時代、走井山に矢田城があり、城主の矢田俊元は織田信長に敗れ廃城となった。孫の利勝が出家して善西寺を創建。

    【浄土真宗本願寺派走井山善西寺(ぜんさいじ)l】
    戦国時代、走井山に矢田城があり、城主の矢田俊元は織田信長に敗れ廃城となった。孫の利勝が出家して善西寺を創建。

  • 【安永の常夜燈】 伊勢神宮両宮常夜灯。<br />文政元年(1818年)建立。舟運の燈台を兼ねた。傍には明治の里程標がある。<br />この安永の常夜灯前の道路は東海道筋にあたり、七里の渡しから約1里。戦災まで堤から町屋橋が繋がり川向こう縄生には、一里塚があった。このところは町屋川の清流に望み上流からの船運の筏と旅人の小憩する茶店などで賑わったという。

    【安永の常夜燈】 伊勢神宮両宮常夜灯。
    文政元年(1818年)建立。舟運の燈台を兼ねた。傍には明治の里程標がある。
    この安永の常夜灯前の道路は東海道筋にあたり、七里の渡しから約1里。戦災まで堤から町屋橋が繋がり川向こう縄生には、一里塚があった。このところは町屋川の清流に望み上流からの船運の筏と旅人の小憩する茶店などで賑わったという。

  • 立派な「常夜燈」と「道標」が建つ。 <br />ここの常夜燈は、「伊勢両宮の常夜燈」と呼ばれ、文政元年(1818年)に「伊勢神宮祈願」のために桑名、岐阜の材木商の寄進によるもの。<br />* 常夜灯の脇の石柱。それぞれの面に「従 町屋川中央地 桑名郡」、「距 三重縣廰 拾一里丗甼餘」、「距 桑名郡役所丗三町余 明治廿六年二月」と刻まれていた<br /><br />『伊勢両宮常夜燈』<br />「有形民俗文化財 昭和46年4月15日指定<br />この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込めて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。 石工は桑名の根来市蔵とある。安永は、町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜灯は、その頃をしのばせる遺物である。<br />竿正面 大神宮常夜燈  <br />右面  五穀成就 <br />左面  国家安全 <br />裏面  文政元年寅九月吉日 」

    立派な「常夜燈」と「道標」が建つ。
    ここの常夜燈は、「伊勢両宮の常夜燈」と呼ばれ、文政元年(1818年)に「伊勢神宮祈願」のために桑名、岐阜の材木商の寄進によるもの。
    * 常夜灯の脇の石柱。それぞれの面に「従 町屋川中央地 桑名郡」、「距 三重縣廰 拾一里丗甼餘」、「距 桑名郡役所丗三町余 明治廿六年二月」と刻まれていた

    『伊勢両宮常夜燈』
    「有形民俗文化財 昭和46年4月15日指定
    この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込めて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。 石工は桑名の根来市蔵とある。安永は、町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜灯は、その頃をしのばせる遺物である。
    竿正面 大神宮常夜燈  
    右面  五穀成就 
    左面  国家安全 
    裏面  文政元年寅九月吉日 」

  • 山口誓子句碑<br />「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ   誓子」

    山口誓子句碑
    「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ   誓子」

  • 【西光寺】  伊勢朝日駅の近く。<br />浄土真宗大谷派朝明山西光寺があります、明応5年(1496年)の開基で、本尊は絵像で、阿弥陀如来立像。<br /><br />真宗大谷派、朝日山と号する。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に「明應5年丙辰年6月2日 願主釋念正 本願寺釋実如(第9世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享2年(1685)大谷派に転じ現在に至っている。現在の建物は明治10~23年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え松並木の面影をとどめている。(案内板)

    【西光寺】 伊勢朝日駅の近く。
    浄土真宗大谷派朝明山西光寺があります、明応5年(1496年)の開基で、本尊は絵像で、阿弥陀如来立像。

    真宗大谷派、朝日山と号する。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に「明應5年丙辰年6月2日 願主釋念正 本願寺釋実如(第9世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享2年(1685)大谷派に転じ現在に至っている。現在の建物は明治10~23年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え松並木の面影をとどめている。(案内板)

  • 弘化3年(1846年)建立の【多賀大社常夜燈】。元は朝明川の土手にありました。<br /><br />常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。<br /> 碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている。<br /> この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。<br />                        富田地区文化財保存会 <br /><br />

    弘化3年(1846年)建立の【多賀大社常夜燈】。元は朝明川の土手にありました。

    常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。
     碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている。
     この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。
                            富田地区文化財保存会 

  • 【朝明川】<br />この川を渡れば四日市の北玄関になる。<br />鈴鹿山系の釈迦ケ岳に源を発し流末は伊勢ノ海に注ぐ。川名は日本武尊が東征中、この地で夜明けを向かえ、この川水で口をすすいだところに由来する。<br /><br />朝明川(あさけがわ)<br />鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳に源を発し、鈴鹿国定公園に含まれる朝明渓谷を刻みつつ丘陵地に出る。上流部には明治期にオランダ人技師、ヨハニス・デ・レーゲの指導のもと築かれた「オランダ堰堤」や「なわだるみ堰堤」と呼ばれる砂防堰堤群があり、国の登録有形文化財に登録されている。また1907年(明治40年)開設と県内の発電所では最古の中部電力千草水力発電所がある。中流域の多くが砂底。菰野町北部を北東流しながら田光川などの支流を併せ、四日市市に入ってからは概ね東流。下流部で川越町を流れ伊勢湾へ注ぐ。河口一帯は工業地帯で、河口左岸に中部電力川越火力発電所がある。「朝明」の名は『和名抄』伊勢国の項に「朝明郡」として見える。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承もある。下流部の「川越町」(かつては川越村)は、明治期の町村制施行にあたり、朝明川を挟んだ南北の村々が川を越えて合併したことに因む。(Wikipedia)

    【朝明川】
    この川を渡れば四日市の北玄関になる。
    鈴鹿山系の釈迦ケ岳に源を発し流末は伊勢ノ海に注ぐ。川名は日本武尊が東征中、この地で夜明けを向かえ、この川水で口をすすいだところに由来する。

    朝明川(あさけがわ)
    鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳に源を発し、鈴鹿国定公園に含まれる朝明渓谷を刻みつつ丘陵地に出る。上流部には明治期にオランダ人技師、ヨハニス・デ・レーゲの指導のもと築かれた「オランダ堰堤」や「なわだるみ堰堤」と呼ばれる砂防堰堤群があり、国の登録有形文化財に登録されている。また1907年(明治40年)開設と県内の発電所では最古の中部電力千草水力発電所がある。中流域の多くが砂底。菰野町北部を北東流しながら田光川などの支流を併せ、四日市市に入ってからは概ね東流。下流部で川越町を流れ伊勢湾へ注ぐ。河口一帯は工業地帯で、河口左岸に中部電力川越火力発電所がある。「朝明」の名は『和名抄』伊勢国の項に「朝明郡」として見える。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承もある。下流部の「川越町」(かつては川越村)は、明治期の町村制施行にあたり、朝明川を挟んだ南北の村々が川を越えて合併したことに因む。(Wikipedia)

  • ここから四日市の標。北の玄関松寺。この橋は朝明橋。有名な四日市の浮世絵。<br /><br />歌川広重の東海道五拾三次之内・四日市『三重川』 <br />三重川は三滝川ともいう。この橋を渡った先に四日市宿があった。<br />町の名前は、毎月四のつく日に市が立っていたためについた。<br />帆柱と屋根が見る箇所は、四日市湊です。

    ここから四日市の標。北の玄関松寺。この橋は朝明橋。有名な四日市の浮世絵。

    歌川広重の東海道五拾三次之内・四日市『三重川』 
    三重川は三滝川ともいう。この橋を渡った先に四日市宿があった。
    町の名前は、毎月四のつく日に市が立っていたためについた。
    帆柱と屋根が見る箇所は、四日市湊です。

  • ここはもう四日市宿。<br />【力石】重さ三十二貫目(120kg)。村人が力自慢に持ち上げた石<br />【力石の由来】<br />  明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。<br /> その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。その後、茂福地区の青年若衆が大正の終り頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。<br /> およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。<br />        平成五年七月吉日建立 茂福地区自治会 茂福地区白寿会<br /><br />【力石】<br />この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店<br />「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。<br />石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されていたものである。<br />東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。」

    ここはもう四日市宿。
    【力石】重さ三十二貫目(120kg)。村人が力自慢に持ち上げた石
    【力石の由来】
      明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
     その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。その後、茂福地区の青年若衆が大正の終り頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
     およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。
            平成五年七月吉日建立 茂福地区自治会 茂福地区白寿会

    【力石】
    この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店
    「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。
    石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されていたものである。
    東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。」

  • 海蔵川緑地公園の【三ツ谷の一里塚跡】 江戸より九十九里目。<br />海蔵川は鈴鹿山系に源を発し、伊勢の海に注いでる。<br />ここを過ぎると、四日市宿の中心部に至る。<br /><br /> 東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は昭和二十年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之図」(元禄三年&lt;1690&gt;)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。<br />    平成十三年&lt;2001&gt;三月吉日 海蔵地区地域社会づくり推進委員会

    海蔵川緑地公園の【三ツ谷の一里塚跡】 江戸より九十九里目。
    海蔵川は鈴鹿山系に源を発し、伊勢の海に注いでる。
    ここを過ぎると、四日市宿の中心部に至る。

     東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は昭和二十年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之図」(元禄三年<1690>)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。
        平成十三年<2001>三月吉日 海蔵地区地域社会づくり推進委員会

  • 【三ツ谷の一里塚跡】 江戸より九十九里目。

    【三ツ谷の一里塚跡】 江戸より九十九里目。

  • 【歌行燈句碑(うたあんどんくひ)】<br />かはをそに<br />  火をぬすまれて<br />     あけやすき  万<br />明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。<br />昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。<br />船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。<br />俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。」

    【歌行燈句碑(うたあんどんくひ)】
    かはをそに
      火をぬすまれて
         あけやすき  万
    明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。
    昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。
    船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。
    俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。」

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