2018/03/15 - 2018/03/15
550位(同エリア674件中)
ムッシュさん
鳴海宿の有松から宮宿(現名古屋市内)へ向かう
表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 有松 広重】
有松の家並にクローズアップしています。
広重は鳴海として間の宿である有松の街並みを描いています。
知立宿から鳴海宿までは二里十二町(約9.3km)と長い為、尾張藩は桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から?戸を移住させ、有松を間の宿としました。
名産の有松絞りは阿久比村の竹田庄九郎が名古屋城築城に際し、豊後高田の人の手拭いにヒントを得て、考案したものです。
【有松】
有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、間宿として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九朗により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。
有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)大火が起こり全村ほとんどが焼失。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り(ぬりごめづくり)、2階の窓は虫籠窓(むしこまど)に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。(名古屋市教育委員会)
- 旅行の満足度
- 5.0
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知立宿から鳴海宿まで二里十二町(約9.3km)と長いため、尾張藩は桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、有松を間の宿とした
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【間の宿、絞りの町有松】
では、各戸にの入り口に”有松絞り”ののれん”ありまつ”がかかっています。 -
左端の背の高い、白い館は、唐子車山車の倉庫です。
三体のからくり人形が唐子になっています。有松祭に曳きだされる -
唐子「有松山車庫」と、その右は有松絞りを扱う合資会社。
からくり人形の山車
【布袋車山車】 市指定有形民俗文化財
奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれている。明治二十四年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られた。延宝三年(1675)から若宮祭へ参加している記録は残っているが、いつ製作されたかは明らかではない。
この山車には、布袋、文字書き唐子、蓮台を廻す唐子とざい振童子の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(鳳凰、亀、龍、麒麟)の下絵は、山本梅逸であり、猩々緋(しょうじょうひ)に金糸で刺繍されているのは、市指定文化財の山車では唯一である。
毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。
名古屋市教育委員会 -
少し進みました。山車倉庫屋が右手に見えています。
『有松山車会館』。
有松にある山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、まつり文化を紹介している。慶長年間より現在まで400年を経て、まちなみも江戸風情を残し落ち着きと潤いを感じさせてくれるとともに、生きた歴史資料として貴重なものと。 -
【唐子車(からこしゃ)山車庫(だしこ)】
三体のからくり人形が唐子になっています、有松祭に曳き出されます。
【唐子車(中町)山車庫】
この中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳航した山車は祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容・格納している。唐子車は天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを明治8年(1875)に中町が購入した。(名古屋市教育委員会) -
【有松の山車】 このフォトは、西町の山車
有松には、「布袋車(東町)」、「唐子車(中町)」、「神功皇后車(西町)」の3台の山車があります。
これらは、有松の氏神、有松天満社の秋季大祭(10月第1日曜日)に曳き出されます。昔の町並みを残す有松東海道を曳行される姿は、誠に勇壮で風情があります。道中の随所でからくり人形の演技が披露されます。 -
【布袋車山車】 市指定有形民俗文化財
奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれている。明治二十四年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られた。延宝三年(1675)から若宮祭へ参加している記録は残っているが、いつ製作されたかは明らかではない。
この山車には、布袋、文字書き唐子、蓮台を廻す唐子とざい振童子の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(鳳凰、亀、龍、麒麟)の下絵は、山本梅逸であり、猩々緋(しょうじょうひ)に金糸で刺繍されているのは、市指定文化財の山車では唯一である。
毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。
名古屋市教育委員会 -
有松絞りを使用した小間物屋のアトリエ。
裁縫作業が見学でき、商品を展示販売もしている。
【有松絞り】
絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。
有松絞りの歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじまりました。
旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵にえががれたましたが、鳴海の宿は有松を描いたもので、「名産有松絞り」と記してあります。 -
パンフより
名産の有松絞は、阿久比村の竹田庄九郎が名古屋城築城に際し、豊後高田の人の手拭にヒントを得て考案したもの。今の町並みは天明4年(1784)の大火以降のもの。 -
井桁屋(服部家)さん。有松絞り商い中。
【服部家住宅】
店舗並居住部 一棟、 井戸屋形 一棟、 客室部 一棟、 土蔵・絞倉・藍倉 六棟 門並門長屋 二棟 当住宅は東海道に面する町屋建築の遺稿であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。
主屋は塗籠造りで卯建を設け、倉は土蔵造りで腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。服部家は屋号を井桁屋と言う。(名古屋市教育委員会) -
ありまつの飾り雛
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【絞問屋山形屋(小野塚家住宅)】
母屋は塗篭造りで卯建をあげている。有松絞り問屋の代表的な建物。
中2階建切妻平入り、壁は塗籠(ぬりごめ)造り、2階の窓は白の『虫籠窓(むしこまど)』。
虫籠窓は、窓の形式の一つで、目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子(むしこごうし)をつけた窓のこと。 虫籠窓は、「虫篭窓」、「虫子窓」、「蒸子窓」とも書かれ、形状が虫籠(むしかご)に似ているところからこの名があるとも、竹を編んで作った蒸子(むしこ、蒸籠)に似ているところからとも。
「服部家住宅
服部家は、寛政二年(一七九○)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。
屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。 中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍蔵、門など合わせて十一棟の建物が有力な絞問屋の屋敷造構の典型として、 昭和三十九年(一九六四)県の有形文化財に指定された価値のある遺構となっている。
主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯建を設ける。土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。有松を代表する価値ある建物群である。」 -
中浜家住宅。有松の街並み
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【屋号笹加(竹田家住宅)】があります、絞問屋でした。
竹田庄九郎ゆかりの建物
竹田庄九郎は絞の元祖。五代将軍綱吉に手綱を献上してから名声を高めた。
【竹田家住宅】
主屋 一棟、 書院棟 一棟、茶席 一棟、 宝蔵 一棟、一・二番蔵 一棟、 縄蔵 一棟、付随棟(西門・長屋門・味噌蔵) 三棟 当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。竹田家は、屋号を笹加と言う。(名古屋市教育委員会)
『中舛竹田荘』
「中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。
老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、所有者である竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました。」 -
【ありまつの飾り雛】
珍しい!瓦屋根の上にも飾りあり。 -
ありまつの飾り雛。珍しい!木の枝にも飾りあり。
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通りに面した格子にも、吊るし雛が。可愛いです。なんと風流な文化でしょう。
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同上。この建物は中桝竹田家。
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竹田家住宅
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竹田庄九郎ゆかりの建物
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『名古屋市有松伝統的建築物群保存地区 名古屋市有松街並み保存地区』案内板。
「まちの成り立ち.
慶長13年(1608)、有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿の間に尾張藩によって開かれました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。
町並みの特徴
東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見られます。比較的ゆったりとした町並みが継承されています。また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体的にゆったりとした印象の町並みとなっています。」 -
「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ」 梅屋鶴寿 -
右側、山形屋(小野塚住宅)があります、塗篭(ぬりごめ)造では有松で最も古いものです、絞問屋でした。
中2階建切妻平入り、2階の窓は虫籠(むしこ)窓 -
【山形屋(小塚家住宅)】があります、
塗篭(ぬりごめ)造では有松で最も古いものです、絞問屋でした。
【小塚家住宅主屋】
一棟、 表倉 一棟、 南倉 一棟 当住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。(名古屋市教育委員会) -
竹田家住宅
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有松の街並みと、正面は高速道路。「名古屋第二環状自動車道」の高架
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【鳴海宿:名物有松絞】
間の宿有松の町並み、有松絞で有名な有松は藩の保護を受けて発展し、染め物屋の立派な店構えからも繁栄ぶりがわかる。笠を上げて反物を眺める様子から、女性の買い物への情熱がわかる。
東海道40番目の宿駅だった鳴海宿は、絞りを買い求める客で賑わいました。また、鳴海宿の隣の有松は、1608年(慶長13)に知多郡から移住してきた竹田庄九郎らによって開かれ、宿泊施設はないが休息ができる茶屋集落あるいは間宿として発展しました。 -
日本橋より87番目。
【有松一里塚】
一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、 榎などを
植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、 荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。 しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。」
鳴海宿へ続きます。もうすぐです。
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