2018/02/24 - 2018/02/24
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先に森鴎外ゆかりの地を探訪したが,それなら夏目漱石ゆかりの地も探訪しなければならないと思い,早稲田の漱石誕生之地の記念碑と,終焉の地に2017年9月に新設オープンした漱石山房記念館を訪れた.別の日なのですが,漱石が在籍したお茶の水の錦華小学校にある碑も立ち寄りました.
ついでではありますが,すぐ近くの早稲田大学キャンパス内の写真も載せます.また新大久保駅近くの小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)終焉の地と記念公園も訪れました.
明治の文豪,鴎外(文久2(1862)-大正11(1922))と漱石(慶応3(1867)-大正5(1916))は鴎外が5歳上になる.両者は交際は余りなかったが,互いに意識し合っていたようです.漱石の「三四郎」を意識して,鴎外は「青年」を書いている.
よく知らなかったですが漱石はロンドン留学時代から神経衰弱を患い,その他の病もありで長く苦しんでいました.作品からはその様子は見てとれないですが.
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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メトロ東西線早稲田駅を出るとそこは夏目坂通り.
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角に小倉屋酒店. 夏目漱石誕生之地石碑はこのすぐ隣.
この小倉屋酒店は江戸時代からで,堀部安兵衛が高田馬場の決闘に行く前に枡酒を飲んだ. -
小倉屋酒店の掲示. 堀部安兵衛は高田の馬場で敵を打つ時に,此処に立ち寄って,桝酒を飲んでいった,とあり.
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堀部安兵衛というオリジナル吟醸清酒を売っている.
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夏目漱石誕生之地石碑.
慶應3年(1867)にこの地で生まれた.1868が明治元年なので,明治の年と漱石の年齢は一致.夏目漱石誕生の地 名所・史跡
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夏目漱石誕生之地の説明板.
5男3女の末っ子だった.生後すぐに里子に出されたが,すぐに戻された.再度,塩原家の養子になり,夏目家に復籍したのは21歳のとき. -
漱石は正岡子規と親しい仲で,俳句のたしなみもあり.
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夏目坂通りの標識.
漱石の父はこの辺りの名主で,通りを自分の姓で呼んでいたのが広まって,夏目坂になった. -
緩い夏目坂を上っていき,途中で大通りから分岐して狭くなった通りを進んだが,なかなか標識が現れず心配になってきた.この標識が現れホッとした.左折して住宅地の細い道を進んだ.
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この漱石山房通りに突き当たると,そこが漱石山房記念館.
早稲田駅からこの通りを来た方が分かり易いと思う. -
漱石山房記念館.2017年9月に新設オープンしたモダンな建物.
漱石(慶応3(1867)-大正5(1916))は明治40年(1907)から死(49歳)までの9年間をここで過ごした.
ここで執筆した作品は,「坑夫」,「夢十夜」,「三四郎」,「それから」,「門」,「彼岸過迄」,「行人」,「こ々ろ」,「道草」,「明暗」. -
別方向からの漱石山房記念館.
ガラスの内側に白い漱石山房が見える. -
庭の入口にある漱石胸像.
記念館に入る前に先に庭を回ることにしました.新宿区立漱石公園 公園・植物園
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漱石のよく見かける写真.
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周辺のマップ.
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庭の道草庵. 喫茶室かと思ったら,小展示場だった.
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道草庵内部の展示物. ここは写真OKだった.
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漱石の生涯の経歴.
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幾つかの初版本あり(記念館本館の展示室は写真NGだが,ここはOKだった).
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漱石山房記念館の裏側になる庭.
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漱石山房記念館の裏側.
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猫塚. 「吾輩は猫である」は千駄木の家で書かれ,モデルになった福猫は1908(明41)に亡くなった.この石塔は福猫の十三回忌に夏目家で飼われていた生き物を供養するため,1920(大9)に漱石の長女の夫が造らせた九重の塔.
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左に猫塚の由来が書いてある.
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漱石山房記念館入口部分. ここは写真OKだが,展示室はNGだった.
展示室1階にはベランダがある外観白の漱石山房が再現されており,その中に漱石の書斎が再現されていた.再現書斎はそこに漱石が座っているような雰囲気があった(写真NGで残念).
2階の展示室は作品関係遺品(原稿,初版本,解説),交流のあった文人や門下生などの充実した資料がありました(これも写真NG). -
再現したベランダがある白の漱石山房をガラス越しに外から撮った写真.
この中に再現した漱石書斎あり. -
漱石時代の漱石山房の写真(Webより).
漱石時代は借家だったが,漱石死後に遺族が購入した(印税の十分な収入があったので). -
庭の看板に,漱石山房の見取り図イラストと当時の写真があった.
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漱石山房の内部鳥観図イラスト. 書斎は右端.
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再現された漱石書斎(写真NGだったのでWebから借用).
漱石が座って著作しているような雰囲気ありでした. -
漱石山房記念館地下の図書室. 漱石本が揃っている.
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別の日なのですが,お茶の水にも漱石ゆかりの地があり,碑があるというので行ってみました.
漱石が通った錦華小学校脇に立つ石碑.「明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ」とあり. -
「先輩・夏目漱石・略歴」とある錦華中学卒業生作成の説明板.
市ヶ谷小学校に入学後,錦華小学校に転ず.同校卒業後一ツ橋中学校に入り,業を卒ずして退き,二松学舎に入りて漢学を学ぶ,とあり.
明23:東京帝大入学.松岡子規と交わる.
明28:松山の中学に赴任.
明29:熊本第五高等学校・教授.・
明33:ロンドン留学ー2年間.
明35:帰国.東京帝大・講師になり,英文学を講義.
明40:東京帝大・講師を辞し,朝日新聞社に入社.この年に西片から早稲田南町7番地に転居(漱石山房). -
先に森鴎外記念館に行った後に立ち寄った,千駄木の夏目漱石旧居跡の写真も載せておきます.
ロンドン留学から帰国後に漱石はここに3年10ヵ月住み,処女小説「吾輩は猫である」をここで執筆.「倫敦塔」,「坊ちゃん」,「草枕」もここで執筆.
東京帝大・講師であったので,徒歩で通う.此処の後に一時西片に住む.東京帝大からは教授に誘われたようだが,小説家として身を立てるため辞退したよう(それで良かった).
この住居は森鴎外も漱石の住む13年前に1年余り住んでいたという珍しい巡り合わせ.住居は愛知県犬山市の明治村に移築されている.夏目漱石旧居跡 (猫の家) 名所・史跡
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漱石山房から近くの早稲田大学にも行きました. これは大隈講堂.
漱石と早稲田とは幾分関りがあり,漱石が東京帝大学生時代に東京専門学校(今の早稲田大学)英語科・文学科で2年ほど教えていた.漱石は英語がよく出来た.早稲田大学大隈記念講堂 名所・史跡
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お馴染み大隈重信像.
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坪内逍遥記念・演劇博物館(略称:エンパク).
昭和3年,坪内逍遥が古稀(70歳)に達したのと,半生を傾倒した「シェークスピア全集」全40巻の翻訳を完成したのを記念して設立された.
建築は16世紀英国の劇場フォーチュン座(シェークスピア劇が演じられた)を模している.正面の屋根の下が舞台で,舞台の両翼は桟敷席になり,舞台の前が一般席となる.早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 美術館・博物館
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坪内逍遥(1859-1935). 演劇,文学,舞踊での近代日本文化の開拓者.東京専門学校(早稲田大学)に教授として文科を創設し,雑誌「早稲田文学」を創刊.
漱石は東京帝大学生時代に東京専門学校(今の早稲田大学)英語科・文学科で2年ほど教えていたが,自分の授業後は坪内逍遥のシェイクスピア講義を学生に交じって聴講していたとのこと. -
坪内逍遥記念・演劇博物館の入口部分. ここは写真OKだが,展示室はNG.
館内にはシェークスピア演劇,日本の古代芸能,中世の能,近世の人形浄瑠璃と歌舞伎の展示あり.中国の京劇もあり.
床がミシミシ音がする木造の趣ある建物です(昭和3年のままか?).
以下の「展示:常設展」のところに展示が紹介されてます.
http://www.waseda.jp/enpaku/ -
坪内博士記念・演劇博物館の説明.
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逍遥記念室. ここは写真OKだった.
逍遥が来館時はこの部屋を使用した. -
逍遥記念室.
坪内逍遥記念・演劇博物館は無料ですが寄付歓迎. -
逍遥記念室の説明.
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早稲田キャンパスにはもう一つ「會津八一記念博物館」があります.
會津八一(1881-1956)は東洋美術研究家で,歌人,書家としても知られている.在学中は坪内逍遥のもとで英文学を学んだ.早稲田で美術史を教え,中国の明器,鏡,瓦?弦など4000点を寄付した(會津八一コレクション).その他にも考古学発掘資料,アイヌ民族資料などもあり.入場無料です.
こちらも館内撮影NGで写真なしだが,以下Webあります.
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/會津八一記念博物館 美術館・博物館
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あまり知られていないが早稲田に「杉原千畝(1900-86)顕彰碑」がある.場所は14号館横.
リトアニアでユダヤ人へVisa発行の外交官.早稲田卒であり,早稲田出身の超党派国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し,この顕彰碑が建てられた.割と新しく2011年のことだった.日本外務省による名誉回復も死後の2000年だった. -
大隈講堂の隣には大隈庭園があります.巡ります.
大隈庭園の由来は,井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった名園を,早稲田大学創設者の大隈重信が文人風に改造したもの.大隈重信没後,邸宅とともに早稲田大学に寄贈.大隈庭園 公園・植物園
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大隈庭園.
大隈庭園の詳しい説明は以下にあり:
https://www.waseda.jp/culture/assets/uploads/2015/04/campus-museum-2.pdf -
稲友の石碑.
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2004年に韓国の校友から送られた韓鍾閣のエミレの鐘.
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孔子像. 2008年に中国政府より寄贈.
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大隈庭園の中心部は芝生. 後ろはリーガロイヤル・ホテル.
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背高の灯籠.
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雪見灯籠.
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五重の層塔.
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池もあります.
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大隈公園の池.
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この銅像は大隈重信夫人の大隈綾子像.
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田中穂積(早稲田第4代総長)銅像.
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和風屋敷・完之荘. 早稲田校友の小倉房蔵から1952年に寄贈された.
後ろはリーガロイヤル・ホテル. -
完之荘の門.
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大隈庭園と大隈講堂の塔.
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大隈庭園と後ろは大隈会館.
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早稲田からは30-40分ほど歩くが,東新宿/新大久保にある小泉八雲の旧邸跡(終焉の地)も訪れた.
私は大分前に松江の小泉八雲邸跡にも行ったことがあります.小泉八雲終焉の地 名所・史跡
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小泉八雲終焉の地の説明文.
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(1850-1904(明37))はギリシャ生まれ(父はアイルランド人,母はギリシャ人)で,1890(明23)にアメリカの出版社の通信員として来日.その後,記者をやめ小泉セツと結婚.松江,熊本で教鞭をとった.
東京帝国大学文科大学の英文学講師(1896(明29)-1903(明36))をし,この後任が夏目漱石だった.1904年より早稲田大学・講師を務めたが,同年死去(54歳).
「怪談」等の英文による名作を執筆. -
小泉八雲の旧邸.
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旧居跡からしばらく歩いたところの小泉八雲記念公園(新宿区立)の門.入ります.
小泉八雲記念公園 公園・植物園
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これはトイレ棟だった.
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小泉八雲記念公園の別の門.
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ギリシャ風の柱あり.
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西洋式の庭園.
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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)胸像.
小泉八雲記念公園 公園・植物園
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Lafcadio Hearn (小泉八雲) 円形銘板.
おしまいです.お付き合いいただき有難うございました.
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