2018/02/16 - 2018/02/17
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belleduneさん
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今回はほんの触りです。夜のライトアップは9時までですが、ちょっと間に合わず、こんな感じの初めてでしたが、時間がなく、夜の広坂通りを歩いてきました。先日テレビで雪の兼六園を見ましたが、翌日の兼六園の琴柱灯篭の雪も溶けて、ちょっと残念でした。金沢城向かいにある金沢21世紀美術館も、金、土のみライトアップされていました。ちょうど係りの方が歩いておられたので、訊ねると本館1階東口エントランスのみ入館でき、ガラス越しに中庭のプールを見ることができるとのことだったので、夜のプール辺りを見て来ました。次回は、内部もゆっくり見たいです。
- 旅行の満足度
- 4.5
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香林坊から広坂通りを進むと、すぐ左手に見えてくるのが、「いしかわ四高記念公園」に建つ「石川四高記念館」です。昨夜は10時までライトアップされていましたが、スマートフォンを忘れたので、今朝6時過ぎに来て見たら、灯りがなく、帰りに見ることにしました。
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金沢城、向かいに兼六園のある広坂交差点に来ました。今朝は曇りなので、6時過ぎだと暗いですね。
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9時までの週末ライトアップが終わっても、城壁周りのライトはずっと点いているようです。今立っているところは、辰巳櫓台石垣下です。
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広坂交差点の兼六園向かいにある石浦神社。この神社は昨夜も煌々と灯りがついていましたが、今朝も明るいですね。防犯のためでしょうか。
古墳時代(547年)に草創され、金沢最古の宮として三輪神社を号し、奈良時代には江戸時代には、石浦山王、石浦大現を祀り、明治の神仏分離によって、石浦郷の地名を取り、石浦神社と改称されたそうです。 -
そろそろ明るくなって来ました。こちらは、旧石川県庁舎本館だった建物で、現在は「石川県政記念 しいのき迎賓館」として色々な施設・店舗・レストランが入っています。平成22年4月に開館営業しています。
玄関前にある2本の大きな椎木は、樹齢300年を越す堂形のシイノキです。 -
正面玄関。大正11年6月に着工し、大正15年3月に完成しました。鉄筋コンクリート3階建、前面塔屋4階建です。設計は、旧大蔵省の矢橋賢吉氏で、国会議事堂の建築
責任者だった人です。施工は日本土木(現・大成建設)。
外装レンガは、大正11年建設の旧帝国ホテル本館で使用されたと言われている愛知県武豊産のスクラッチダイルを使っているそうです。内装は、漆喰仕上げの天井や正面玄関の漆塗りの扉など当時のモダニズムを反映しているということです。機会があったら、次回内部も見たいです。 -
文禄4年(1595)に前田利家が京都の三十三間堂を模した堂形の的場をここに建て、家臣に通り矢を練習させていたそうです。
17世紀前半には、通称「堂形」と呼ばれた米蔵(2万5千石)があり、家臣に給付する扶持米、切り米が収蔵されていました。切り米とは、下級の藩士に春、夏、冬に分けて付与する米のこと。 -
平成15年に通りの向かい側に、新県庁舎が建てられました。
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樹齢300年を越す「堂形のシイノキ」は、昭和18年に天然記念物に指定されています。建物に向かって、この左側の椎木は、根元周囲12,2m、幹周り5,2m、高さ13mで、右側の椎木は、根元周囲12m、幹周り7,38m、高さ12mとなっています。
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その隣が、朝来る時に見た石川四高記念館、石川近代文学館です。
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まだ暗い石川四校記念館、石川近代文学館の門です。
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石川四高記念館は、当時文部技師の山口半六、久留正道両氏によって設計され、明治22年着工、明治24年に完成した「旧第四高等中学校本館」です。煉瓦造りの2階建、桟瓦噴き。建築面積は1068mで、本館の屋根は寄棟造りで、外観は腰周り、軒周りに釉薬煉瓦や白煉瓦を壁面の赤煉瓦とのコントラストが、単調になりがちな煉瓦造りの建物全体を引き締めています。
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屋根には棟飾りや雪止めの金物グリルを載せ、煉瓦造の煙道を6箇所に立てています。1階は教員室、事務室などに使用され、2階は教室に使われていました。
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昭和25年に学制改革により、明治26年から約60年間の幕を閉じ、閉校となります。
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石川近代文学館は、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星の三文豪から現代文学で活躍する作家の作品が展示されています。
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石川四高記念文化交流館
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いしかわ四高記念公園も随分明るくなって来ました。
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カトリック金沢教会で、明治21年(1888)に建てられました。北イタリアのボルザの教会をモデルとしているそうです。内部に綺麗なステンドグラスがありましたが、礼拝されている方がおられたので、写真撮影は控えました。
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今日は、兼六園だけなので、金沢城は次回の楽しみにします。
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金沢城の石川門は、搦手門とも言われ、河北門、橋爪門と共に金沢城の三大門という重要な位置にあります。石川郡に向いているため、この名前が付いたそうです。
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向かい側の道路脇に立っている灯篭らしきものが随分背の高い理由は積雪のためでしょうか...
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折角の雪なので、石川門に近づいてみます。枡形構造で、一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と2層2階建の石川櫓から成っています。
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これが2層2階の石川櫓。
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石川門を入ると枡形虎口で、右手に曲がると二の門があります。この枡形はどこでも同じですが、敵が攻めて来た際、90度に曲がっているとそこでスピードが落ちるため、敵の攻撃力を低下させるのに適しています。石川門を入ると右手の石垣が切り込み接ぎ、左が打ち込み接ぎ技法になっています。この石垣は、慶長年間(1596~1614)頃で、その後、寛永8年(1631)頃、明和2年(1765)、文化2年(1805~1807)、そして昭和2年(1765)の改修がなされています。元は、左右の石垣共、打ち込み接ぎ技法で造られていたとされています。
宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建されています。 -
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兼六園に向かいました。霞池の周囲を歩きます。先日のこんもりした雪は溶けていて、ちょっと残念でした。うっすらと氷が張っています。
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琴柱灯篭は手前の橋が琴に例えられ、灯篭の足が駒のように見えるので、琴柱と呼ばれていますが、多くの人がいたので、撮りませんでした。灯篭の高さは2,67mです。
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兼六園は、第5代藩主前田綱紀が延宝4年(1676)にこの地にあった作事所を城内に移して、蓮池御亭を建てました。その周辺を作庭したのが、兼六園の始まりでした。当時は、蓮地庭と呼ばれていました。宝暦9年の大火で、庭の一部が焼失し、荒廃していましたが、第11代藩主治脩(はるなが)が整備し、安永3年(1774)に夕顔亭や翠滝を築造しました。兼六園と名付けられたのは、第12代藩主斉広(なりなが)が宋の詩人・李格非の「洛陽名園記」の中から宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六勝を兼備するという意味から命名されたそうです。
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唐崎松と言われ、第13代藩主前田斉泰が琵琶湖畔の唐崎から種を取り寄せて、育てた黒松です。
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中の島は蓬莱島と呼ばれ、不老長寿を表しています。また、亀の形をしているので、亀甲島とも言われているそうです。
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向こうに中橋亭が見えます。
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霞池から左手に進むと、舟之御亭、梅林、時雨亭方向です。
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栄螺山へ上って、池の景色を眺めに行きます。
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霞池は、天保8年(1837)に掘り広げられたもので、広さは約5800平方mあります。その際の土を盛り上げたのが、栄螺山です。登り道が螺旋状になって入りことからこの名前が付けられています。山頂に唐傘型の避雨亭があり、からかさ山とも言われています。
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霞池の畔に虎石という苔むした岩があります。13代藩主前田斉泰が七尾から運ばせたもの。兼六園の龍石、獅子巌と共に、兼六園の三名石とされています。
次回を楽しみにまた来ます。
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