刈谷・知立旅行記(ブログ) 一覧に戻る
岡崎公園前駅を出発。矢作川を渡り、一路知立宿へ。その後知立宿(旧名:池鯉鱒ちりゅう)から鳴海方面へ。<br /><br />【知立宿について】<br />東海道五十三次の39番目の宿場である。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。現在の愛知県知立市に位置する。江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれている。<br />歌川広重は、知立の馬市を描く。<br /><br />表紙フォトは、著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 池鯉鱒(ちりゅう) 広重画】

東海道53次、No25 岡崎宿(38)を抜けて、知立宿(旧名:池鯉鱒ちりゅう)(39)から鳴海方面へ

8いいね!

2018/02/15 - 2018/02/15

115位(同エリア206件中)

0

63

ムッシュ

ムッシュさん

岡崎公園前駅を出発。矢作川を渡り、一路知立宿へ。その後知立宿(旧名:池鯉鱒ちりゅう)から鳴海方面へ。

【知立宿について】
東海道五十三次の39番目の宿場である。歴史的仮名遣いでは「ちりふ」。現在の愛知県知立市に位置する。江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれている。
歌川広重は、知立の馬市を描く。

表紙フォトは、著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 池鯉鱒(ちりゅう) 広重画】

旅行の満足度
4.5

PR

  • 八丁味噌の蔵通り。<br />岡崎城から八丁の位置にある八丁村で起こった。

    八丁味噌の蔵通り。
    岡崎城から八丁の位置にある八丁村で起こった。

  • 八丁味噌屋さんは、朝ドラ純情きらりの舞台でした。朝ドラ”純情きらり”に主演した宮崎藍さんの手形です。かわいいです。

    八丁味噌屋さんは、朝ドラ純情きらりの舞台でした。朝ドラ”純情きらり”に主演した宮崎藍さんの手形です。かわいいです。

  • 岡崎の地場産業である八丁味噌造り説明板。<br />八丁とは、岡崎城から西へ八町の距離にある八丁村との由来。カクキュの始祖・久右衛門勝久が味噌の仕込みを始めたのがカクキュ八丁味噌の起こり。三河武士の兵糧としても愛用された。<br />*まるや八丁味噌<br />岡崎八丁の太田弥次右衛門が自家製味噌を八丁味噌と名つけた事にはじまる。<br />敷地内に、日吉丸が仕込み用の重石を投げ込んだという「石投げの井戸」がある。

    岡崎の地場産業である八丁味噌造り説明板。
    八丁とは、岡崎城から西へ八町の距離にある八丁村との由来。カクキュの始祖・久右衛門勝久が味噌の仕込みを始めたのがカクキュ八丁味噌の起こり。三河武士の兵糧としても愛用された。
    *まるや八丁味噌
    岡崎八丁の太田弥次右衛門が自家製味噌を八丁味噌と名つけた事にはじまる。
    敷地内に、日吉丸が仕込み用の重石を投げ込んだという「石投げの井戸」がある。

  • 【矢作(やはぎ)川】です。<br />矢作橋の架橋は1634年で、長さ208間、374mで東海道一の長橋であった。川の名前は、日本武尊が東征伐の際、川の中州に生えていた竹で矢を作り、勝利したことによる。<br /><br />『矢作川』に架かる『矢作橋』を渡る。<br />『矢作橋』は、『矢作川』に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって架けられた橋であった。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていた。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もある。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたのだと。<br />五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしたのだ。

    【矢作(やはぎ)川】です。
    矢作橋の架橋は1634年で、長さ208間、374mで東海道一の長橋であった。川の名前は、日本武尊が東征伐の際、川の中州に生えていた竹で矢を作り、勝利したことによる。

    『矢作川』に架かる『矢作橋』を渡る。
    『矢作橋』は、『矢作川』に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって架けられた橋であった。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていた。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もある。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたのだと。
    五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしたのだ。

  • 【歌川広重の東海道名所図会「岡崎」。矢作川に架かる矢作橋】<br />岡崎は、家康ゆかりの地であり、矢矧川水運の基地として、西三河地方の経済、文化、交通の中心都市として栄えた。矢矧川に架けられた370メートルもある街道一長い橋の上を、大名行列が進みます。画面中央を横切る橋を遠近法で強調し、遠くには、岡崎城をはじめ、多くの人家が連なる賑わった街を巧みに表現してる。<br />矢作川は大川入山を発し、信濃、美濃、三河を流れ、三河湾に注ぐ大河です。<br />

    【歌川広重の東海道名所図会「岡崎」。矢作川に架かる矢作橋】
    岡崎は、家康ゆかりの地であり、矢矧川水運の基地として、西三河地方の経済、文化、交通の中心都市として栄えた。矢矧川に架けられた370メートルもある街道一長い橋の上を、大名行列が進みます。画面中央を横切る橋を遠近法で強調し、遠くには、岡崎城をはじめ、多くの人家が連なる賑わった街を巧みに表現してる。
    矢作川は大川入山を発し、信濃、美濃、三河を流れ、三河湾に注ぐ大河です。

  • 矢作川を渡った橋の袂には、「出会いの像」<br />誰が出会ったの? <br />かの日吉丸(後の秀吉)と蜂須賀小六です。そう、秀吉の出世物語の始まりはここからです。しかし、当時橋は無かったとか。<br /><br />『矢作川(やはぎがわ)』。<br />『矢作川』は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。<br />長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた<br />水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市と西尾市との境で三河湾に注ぐ。<br /><br />『出合乃像』<br />「日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出した。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。<br />ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。<br />小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。<br />目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、<br />乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。」<br /><br />しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっているのだと。<br />矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことで、すでに、秀吉は<br />亡くなった後。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっていると。<br />話を面白くするためにこういう筋書きにしたのであろうか。 <br /><br />『明治天皇御駐蹕の碑』<br />「旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。<br />明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。<br />この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。

    矢作川を渡った橋の袂には、「出会いの像」
    誰が出会ったの? 
    かの日吉丸(後の秀吉)と蜂須賀小六です。そう、秀吉の出世物語の始まりはここからです。しかし、当時橋は無かったとか。

    『矢作川(やはぎがわ)』。
    『矢作川』は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。
    長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた
    水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市と西尾市との境で三河湾に注ぐ。

    『出合乃像』
    「日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出した。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。
    ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。
    小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。
    目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、
    乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。」

    しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっているのだと。
    矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことで、すでに、秀吉は
    亡くなった後。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっていると。
    話を面白くするためにこういう筋書きにしたのであろうか。 

    『明治天皇御駐蹕の碑』
    「旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。
    明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。
    この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。

  • 橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。矢作橋は慶長6年(1601)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋であった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置し、さらにもう少し南へ下ると名鉄名古屋本線の矢作橋駅と岡崎公園前駅を結ぶ鉄橋(矢作川橋梁)が架かっている。その後矢作橋は昭和26年(1951年)に15代目が架け替えられ、平成23年(2011年)3月13日に16代目の橋が完成した。、現代の矢作橋の橋長は300mである。(Wikipedia)

    橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。矢作橋は慶長6年(1601)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋であった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置し、さらにもう少し南へ下ると名鉄名古屋本線の矢作橋駅と岡崎公園前駅を結ぶ鉄橋(矢作川橋梁)が架かっている。その後矢作橋は昭和26年(1951年)に15代目が架け替えられ、平成23年(2011年)3月13日に16代目の橋が完成した。、現代の矢作橋の橋長は300mである。(Wikipedia)

  • 矢作川を渡り少し行くと、誓願寺の十王堂が建つ。<br />【誓願寺(十王堂)】<br />少し先の右手にある。義経の愛妾、浄瑠璃姫ゆかりの寺。寿永3年(1138年)三月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り弔った。但し浄瑠璃姫の墓というのは蒲原宿にもあった。

    矢作川を渡り少し行くと、誓願寺の十王堂が建つ。
    【誓願寺(十王堂)】
    少し先の右手にある。義経の愛妾、浄瑠璃姫ゆかりの寺。寿永3年(1138年)三月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り弔った。但し浄瑠璃姫の墓というのは蒲原宿にもあった。

  • 十王堂の内部。見事な壁画あります。<br />【誓願寺・十王堂】案内板	<br /> 長徳三年三月(997)恵心僧都が、溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。<br /> 時代は下り、寿永三年(1138)三月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。<br />  十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。すなわち、秦広王、初江王、宗帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。死者は冥府に入り、初七日に泰広王の庁に至り、以下順次に、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周年、三周年に各王の庁を過ぎて娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。<br />  この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。<br />                   寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

    十王堂の内部。見事な壁画あります。
    【誓願寺・十王堂】案内板
     長徳三年三月(997)恵心僧都が、溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
     時代は下り、寿永三年(1138)三月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。
      十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。すなわち、秦広王、初江王、宗帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。死者は冥府に入り、初七日に泰広王の庁に至り、以下順次に、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周年、三周年に各王の庁を過ぎて娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。
      この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。
                       寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

  • 十王堂に、不動明王ほか10の王様が祭られています。<br />

    十王堂に、不動明王ほか10の王様が祭られています。

  • 十王堂の内部。こちら右壁面。

    十王堂の内部。こちら右壁面。

  • 境内に、【浄瑠璃姫の菩提所碑】岡崎宿<br />奥州に向かう源義経は兼高長者の屋敷に宿をとり、娘の浄瑠璃姫と契りを結んだ。義経は名笛「薄墨の笛」を姫に託して旅だった。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、乙川に入水した。寿永3年(1138年)<br /><br />『浄瑠璃姫縁起』<br />「浄瑠璃姫は、年老いても子どものなかった矢作の長者 兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺(ほうらいじ)の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)にお願いして授かった子といわれ、浄瑠璃姫と名付けられて、たいそう美しく育ちました。承安4年(1174)、牛若丸(源義経)は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作を去りました。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、悲しみのあまり、ついに菅生川(すごうがわ)に身を投じて短い人生を終えました。<br />時に浄瑠璃姫は十七才であったという。兼高長者はその遺体を当誓願寺に埋葬した。十王堂を建て義経と浄瑠璃姫の木造を造り、「名笛・薄墨」と姫の鏡を安置し、冥福を祈った。浄瑠璃姫の墓や供養塔は、岡崎公園の北口や成就院にもあり人々にその悲しい恋をしのばせてくれる。」。

    境内に、【浄瑠璃姫の菩提所碑】岡崎宿
    奥州に向かう源義経は兼高長者の屋敷に宿をとり、娘の浄瑠璃姫と契りを結んだ。義経は名笛「薄墨の笛」を姫に託して旅だった。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、乙川に入水した。寿永3年(1138年)

    『浄瑠璃姫縁起』
    「浄瑠璃姫は、年老いても子どものなかった矢作の長者 兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺(ほうらいじ)の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)にお願いして授かった子といわれ、浄瑠璃姫と名付けられて、たいそう美しく育ちました。承安4年(1174)、牛若丸(源義経)は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作を去りました。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、悲しみのあまり、ついに菅生川(すごうがわ)に身を投じて短い人生を終えました。
    時に浄瑠璃姫は十七才であったという。兼高長者はその遺体を当誓願寺に埋葬した。十王堂を建て義経と浄瑠璃姫の木造を造り、「名笛・薄墨」と姫の鏡を安置し、冥福を祈った。浄瑠璃姫の墓や供養塔は、岡崎公園の北口や成就院にもあり人々にその悲しい恋をしのばせてくれる。」。

  • 西本願寺派【聖善寺】<br />慶長二年(1597)造立の聖徳太子16歳時の木像孝養太子立像(岡崎市指定文化財)を安置しています、境内には樹齢300年の枝垂れ桜があります。

    西本願寺派【聖善寺】
    慶長二年(1597)造立の聖徳太子16歳時の木像孝養太子立像(岡崎市指定文化財)を安置しています、境内には樹齢300年の枝垂れ桜があります。

  • 松並木

    松並木

  • 「東海道 (尾崎)一里塚跡』。<br />ここは鎌倉街道の分岐点であり、江戸日本橋から数えて83里目の一里塚である。<br /><br />『鎌倉街道跡』<br />「1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。 街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。 ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する 「目印しの松」 が残されている。」

    「東海道 (尾崎)一里塚跡』。
    ここは鎌倉街道の分岐点であり、江戸日本橋から数えて83里目の一里塚である。

    『鎌倉街道跡』
    「1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。 街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。 ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する 「目印しの松」 が残されている。」

  • 尾崎村の鎮守【熊野神社】<br />昔はこの神社奥に「鎌倉街道」が通っていてそこを「踏分の森」と呼んでいたという。「義経」もこの鎌倉街道を越えて矢作宿に出ていただろうと考えられる。

    尾崎村の鎮守【熊野神社】
    昔はこの神社奥に「鎌倉街道」が通っていてそこを「踏分の森」と呼んでいたという。「義経」もこの鎌倉街道を越えて矢作宿に出ていただろうと考えられる。

  • 【禅宗永安寺山門】<br />雲竜の松が見えています。<br />大浜茶屋村の庄屋柴田助太夫の霊を祀っている。(墓がある)<br />延宝5年(1677年)刈谷藩はこの地を再検地し、過酷な年貢を課した、助太夫は反対を申し立て、助郷の免除を願い出たが、捕らわれ処刑されてた、しかし後に助郷は免除となりました。<br />村民はその遺徳を称え、助太夫の屋敷跡に草庵を結んだ、境内の雲竜松は樹齢350年です。

    【禅宗永安寺山門】
    雲竜の松が見えています。
    大浜茶屋村の庄屋柴田助太夫の霊を祀っている。(墓がある)
    延宝5年(1677年)刈谷藩はこの地を再検地し、過酷な年貢を課した、助太夫は反対を申し立て、助郷の免除を願い出たが、捕らわれ処刑されてた、しかし後に助郷は免除となりました。
    村民はその遺徳を称え、助太夫の屋敷跡に草庵を結んだ、境内の雲竜松は樹齢350年です。

  • 【永安寺の雲竜の】。樹齢350年です。<br />「永安寺」が見えてくる。 この寺は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て刑死した、「大浜茶屋」の庄屋(柴田助太夫)の霊を祀る。天然記念物に指定されている見事な「雲龍松」と呼ぶ松がある。この松はまるで龍が雲の上を飛んでいるように横に広がった枝ぶり

    【永安寺の雲竜の】。樹齢350年です。
    「永安寺」が見えてくる。 この寺は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て刑死した、「大浜茶屋」の庄屋(柴田助太夫)の霊を祀る。天然記念物に指定されている見事な「雲龍松」と呼ぶ松がある。この松はまるで龍が雲の上を飛んでいるように横に広がった枝ぶり

  • 永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。<br />〔雲竜の松〕 県指定天然記念物(昭和60年11月25日指定)<br /> 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。<br />助太夫延宝五年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。<br /> この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢300年くらいと推定されます。<br />  この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。

    永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。
    〔雲竜の松〕 県指定天然記念物(昭和60年11月25日指定)
     永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。
    助太夫延宝五年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。
     この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢300年くらいと推定されます。
      この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。

  • 永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。<br />樹高 : 4.5m  幹の周 : 3.7m  枝張り : 東西17m、南北24m<br /><br />『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』案内板。<br />「永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村(浜屋町)の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場町へ必要に応じて人馬を提供する助郷役村を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たとる伝えられています。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。<br />村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。<br />村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山永安寺」と名付けられました。一般に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。<br />この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と<br />呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。」

    永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。
    樹高 : 4.5m  幹の周 : 3.7m  枝張り : 東西17m、南北24m

    『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』案内板。
    「永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村(浜屋町)の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場町へ必要に応じて人馬を提供する助郷役村を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たとる伝えられています。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。
    村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。
    村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山永安寺」と名付けられました。一般に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。
    この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と
    呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。」

  • 永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。うねった枝ぶり。

    永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。うねった枝ぶり。

  • 永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。すごい幹。

    永安寺の雲竜の松。樹齢350年です。すごい幹。

  • 本日のランチは、新安城駅に近い、国道1号沿いの”今寿司”さんで食した。美味でした。<br />

    本日のランチは、新安城駅に近い、国道1号沿いの”今寿司”さんで食した。美味でした。

  • 御鍬(おくわがみ)神社<br />近村八ケ村が伊勢より御鍬神(おくわがみ)を勧請したものです、各村輪番にて御鍬祭を奉祀し、豊作を祈願しました。<br /><br />『御鍬神社 由緒』<br />「江戸時代来迎寺村を初め、近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し各村輪番にて御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきたが、 明和年中(1764-71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。 明治5年、村社に列格となり同6年現在の拝殿が造営され同時に宇西中畑に鎮座の山神社と字石田の鎮座の秋葉社と弁天社を境内に遷された。<br />その後、本殿は大正3年に神明宮を忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の二分の一の大きさに造営された。」

    御鍬(おくわがみ)神社
    近村八ケ村が伊勢より御鍬神(おくわがみ)を勧請したものです、各村輪番にて御鍬祭を奉祀し、豊作を祈願しました。

    『御鍬神社 由緒』
    「江戸時代来迎寺村を初め、近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し各村輪番にて御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきたが、 明和年中(1764-71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。 明治5年、村社に列格となり同6年現在の拝殿が造営され同時に宇西中畑に鎮座の山神社と字石田の鎮座の秋葉社と弁天社を境内に遷された。
    その後、本殿は大正3年に神明宮を忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の二分の一の大きさに造営された。」

  • 【来迎寺(らいこうじ)一里塚】<br />江戸日本橋より数えて84里目。塚の大きさは9M□。道の両側とも塚が残っている。<br /><br /> 慶長八年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。<br />  こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった 。塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。<br />この塚のように両塚とも完全に遺されているのは大変珍しい。<br />県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。<br />                        知立市教育委員会

    【来迎寺(らいこうじ)一里塚】
    江戸日本橋より数えて84里目。塚の大きさは9M□。道の両側とも塚が残っている。

     慶長八年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。
      こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった 。塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。
    この塚のように両塚とも完全に遺されているのは大変珍しい。
    県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。
                            知立市教育委員会

  • 【来迎寺一里塚】<br />慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。この塚のように両塚とも完全に遺されているのは大変珍しい。県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。(知立市教育委員会)

    【来迎寺一里塚】
    慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。この塚のように両塚とも完全に遺されているのは大変珍しい。県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。(知立市教育委員会)

  • 歩道橋から見下ろす松並木<br /><br />【知立松並木】 <br />慶長九年江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と松並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅 7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。また、この松並木の西の地 名を馬引野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌<br />「引馬野爾(ひくまのに) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱(いりみだれ) 衣爾保波勢多鼻能(ころもにほわせたびの) 知師爾(しるしに) 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。(知立市教育委員会)

    歩道橋から見下ろす松並木

    【知立松並木】 
    慶長九年江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と松並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅 7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。また、この松並木の西の地 名を馬引野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌
    「引馬野爾(ひくまのに) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱(いりみだれ) 衣爾保波勢多鼻能(ころもにほわせたびの) 知師爾(しるしに) 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。(知立市教育委員会)

  • 東海道松並木<br />松並木は街道の旅人に風情を添え、夏は緑蔭の憩い、冬は寒風と風雪を防ぐ役割を果たした。現在も500mにわたり170本の松並木が残り、往時の東海道の姿をとどめている。<br />

    東海道松並木
    松並木は街道の旅人に風情を添え、夏は緑蔭の憩い、冬は寒風と風雪を防ぐ役割を果たした。現在も500mにわたり170本の松並木が残り、往時の東海道の姿をとどめている。

  • 【知立松並木】 市指定文化財(名勝)昭和44年4月指定 <br />「馬市之跡碑」のすぐ先に案内板が立っていました。<br />  慶長九年江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と松並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅 七m、約五百mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。<br /> また、この松並木の西の地名を馬引野と呼び、大宝二年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾(ひくまのに) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱(いりみだれ) 衣爾保波勢多鼻能(ころもにほわせたびの) 知師爾(しるしに) 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。<br />                        知立市教育委員会

    【知立松並木】 市指定文化財(名勝)昭和44年4月指定 
    「馬市之跡碑」のすぐ先に案内板が立っていました。
      慶長九年江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と松並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅 七m、約五百mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
     また、この松並木の西の地名を馬引野と呼び、大宝二年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾(ひくまのに) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱(いりみだれ) 衣爾保波勢多鼻能(ころもにほわせたびの) 知師爾(しるしに) 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。
                            知立市教育委員会

  • 街道沿いには、色々と芸術的なオブジェが立っています。<br /><br />遠藤 透 「旅の途中」 2015年制作 ブロンズ<br />江戸時代、東海道を訪れる旅人が池鯉鮒宿に向かう途中、松並木で一休みする姿を、渡り鳥に例えて、旅の魅力を表現しています。<br /><br />「旅の途中<br />知立は「池鯉鮒」と呼ばれ、東海道三十九番目の宿場である。旅人は、この町で疲れた体と心を癒し、再び旅立ったのだろう。東海道松並木は昔の旅人を彷彿させる場所である。また旅をしよう。」

    街道沿いには、色々と芸術的なオブジェが立っています。

    遠藤 透 「旅の途中」 2015年制作 ブロンズ
    江戸時代、東海道を訪れる旅人が池鯉鮒宿に向かう途中、松並木で一休みする姿を、渡り鳥に例えて、旅の魅力を表現しています。

    「旅の途中
    知立は「池鯉鮒」と呼ばれ、東海道三十九番目の宿場である。旅人は、この町で疲れた体と心を癒し、再び旅立ったのだろう。東海道松並木は昔の旅人を彷彿させる場所である。また旅をしよう。」

  • 【池鯉鮒(現知立)】日本橋から331.8km<br />京都三条まで四十一里の標示石柱。<br />本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口1600人

    【池鯉鮒(現知立)】日本橋から331.8km
    京都三条まで四十一里の標示石柱。
    本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口1600人

  • 永井 はな子 「かきつばた姫」 2015年制作 ブロンズ<br />知立市の花かきつばたを、凛とした成長していく女性に例えています。<br /><br />「かきつばた<br />八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を折り込んで歌を詠んだといわれ有名です。<br />また、江戸時代尾形光琳が描いた国宝『燕子花図屏風』は、伊勢物語九段「八橋」の場面を描いたとされています。<br />かきつばたは知立市の花として親しまれており、八橋町にある「八橋かきつばた園」では、4月末から5月末までの間、かきつばたが咲き誇る ”かきつばたまつり” が開催されます。」

    永井 はな子 「かきつばた姫」 2015年制作 ブロンズ
    知立市の花かきつばたを、凛とした成長していく女性に例えています。

    「かきつばた
    八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を折り込んで歌を詠んだといわれ有名です。
    また、江戸時代尾形光琳が描いた国宝『燕子花図屏風』は、伊勢物語九段「八橋」の場面を描いたとされています。
    かきつばたは知立市の花として親しまれており、八橋町にある「八橋かきつばた園」では、4月末から5月末までの間、かきつばたが咲き誇る ”かきつばたまつり” が開催されます。」

  • 馬市の彫刻オブジェ。この地で馬市が開かれていたとのこと。<br />【馬市之址】 <br />池鯉鮒(ちりゅう)の馬市は古来、牛田~八橋間の野原にあったとする言い伝えがある。その付近に、“馬場池”と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったとか。<br />古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。<br />江戸初期東海道が開け、池鯉鮒宿が設けられて、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬を繋いだともいわれている。

    馬市の彫刻オブジェ。この地で馬市が開かれていたとのこと。
    【馬市之址】 
    池鯉鮒(ちりゅう)の馬市は古来、牛田~八橋間の野原にあったとする言い伝えがある。その付近に、“馬場池”と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったとか。
    古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。
    江戸初期東海道が開け、池鯉鮒宿が設けられて、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬を繋いだともいわれている。

  • 万葉句碑と馬市句碑

    万葉句碑と馬市句碑

  • 『馬市句碑』は『池鯉鮒宿 馬市之趾』の裏に。<br /> 「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」<br />  俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。<br />『万葉の歌碑』<br /> 「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」<br />  この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。

    『馬市句碑』は『池鯉鮒宿 馬市之趾』の裏に。
     「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」
      俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。
    『万葉の歌碑』
     「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」
      この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。

  • 『池鯉鮒宿 馬市之趾』<br />三河は、奈良時代から度々馬を献上し、古くは鎌倉街道に近い牛田周辺に馬市が開かれていたそうです。東海道が整備されてからは、池鯉鮒宿近く、慈眼寺あたりに移り、街道一の賑わいを見せました。<br />裏面には、麦人の句が刻まれている。<br />「杜若 名に八ツ橋の なつかしく 蝶乙鳥 馬市たてし あととめて」

    『池鯉鮒宿 馬市之趾』
    三河は、奈良時代から度々馬を献上し、古くは鎌倉街道に近い牛田周辺に馬市が開かれていたそうです。東海道が整備されてからは、池鯉鮒宿近く、慈眼寺あたりに移り、街道一の賑わいを見せました。
    裏面には、麦人の句が刻まれている。
    「杜若 名に八ツ橋の なつかしく 蝶乙鳥 馬市たてし あととめて」

  • 池鯉鱒の馬市を表現した浮世絵<br />【歌川広重の「首夏馬市」】<br />で知られる池鯉鮒の馬市は、もとは八つ橋の鎌倉街道に近いい野原で開かれ、その後新しい東海道に移動したとされる。「東海道名所図会」には、杭につながれた馬や、談合松の下で商談する人々が描かれ、馬数400‐500頭と記されている。1943年に最後に馬市歴史をとじた。

    池鯉鱒の馬市を表現した浮世絵
    【歌川広重の「首夏馬市」】
    で知られる池鯉鮒の馬市は、もとは八つ橋の鎌倉街道に近いい野原で開かれ、その後新しい東海道に移動したとされる。「東海道名所図会」には、杭につながれた馬や、談合松の下で商談する人々が描かれ、馬数400‐500頭と記されている。1943年に最後に馬市歴史をとじた。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五拾三次之内・池鯉鮒『首夏馬市』 広重画】】<br />「東海道名所図会」には、杭につながれた馬や、談合松(真ん中の大きな松ノ木)の下で商談する人々が描かれ、馬数400‐500頭と記されている。<br /><br />「歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。 鎌倉時代の初期に書かれた「海道記」に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、<br />早くから馬にかかわる地であったことがわかる。 また、江戸時代の浅井了意の「東海道名所記」、梅月堂宣阿「富士一覧表」、井原西鶴「一目玉鉾」、秋里籬島「東海道名所図会」等に、馬市の盛大な様子が述べられている。 これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。<br />馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。 <br />刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。」

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五拾三次之内・池鯉鮒『首夏馬市』 広重画】】
    「東海道名所図会」には、杭につながれた馬や、談合松(真ん中の大きな松ノ木)の下で商談する人々が描かれ、馬数400‐500頭と記されている。

    「歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。 鎌倉時代の初期に書かれた「海道記」に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、
    早くから馬にかかわる地であったことがわかる。 また、江戸時代の浅井了意の「東海道名所記」、梅月堂宣阿「富士一覧表」、井原西鶴「一目玉鉾」、秋里籬島「東海道名所図会」等に、馬市の盛大な様子が述べられている。 これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。
    馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。
    刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。」

  • お洒落です。マンホールの蓋には、伊勢物語の一節が。<br />「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」の歌のまわりにかきつばたの花が描かれています。<br />  この歌は歌人在原業平が伊勢物語の中で、京の都から東へおもむく際に妻のことをしみじみ思い出して詠んだものですが、句の先頭(一番上の文字)がそれぞれ「か」「き」「つ」「ば」「た」になっています。現在の知立市八橋に咲くかきつばたを目にして、その美しさに心を動かされて詠んだ歌とされています。

    お洒落です。マンホールの蓋には、伊勢物語の一節が。
    「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」の歌のまわりにかきつばたの花が描かれています。
      この歌は歌人在原業平が伊勢物語の中で、京の都から東へおもむく際に妻のことをしみじみ思い出して詠んだものですが、句の先頭(一番上の文字)がそれぞれ「か」「き」「つ」「ば」「た」になっています。現在の知立市八橋に咲くかきつばたを目にして、その美しさに心を動かされて詠んだ歌とされています。

  • こちら、カキツバタ。<br />市の花である「かきつばた」が咲き誇る様子を描いています。市内の八橋(やつはし)のかきつばたは有名で、5月には美しい花々を水辺に咲かせます。

    こちら、カキツバタ。
    市の花である「かきつばた」が咲き誇る様子を描いています。市内の八橋(やつはし)のかきつばたは有名で、5月には美しい花々を水辺に咲かせます。

  • 【八橋は、知立の無量寿寺の”かきつばた”】<br />知立の無量壽寺(むりょうじゅじ)の境内にある回遊式庭園。毎年4月下旬~5月中旬にかけてカキツバタが咲き誇ります。<br />古くからの名勝で、多くの歌人たちによる名歌も生まれていますが、中でも「伊勢物語」で在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて詠んだ「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」は有名です。庭園内にもその歌碑と業平像が建てられています。<br />カキツバタの花が咲きそろう期間、毎年4月下旬から5月中旬には「史跡八橋かきつばたまつり」が開催され、多彩なイベントが開催されます。<br />ちなみにカキツバタは“愛知県の花”“知立市の花”です。(知立市広報より)

    【八橋は、知立の無量寿寺の”かきつばた”】
    知立の無量壽寺(むりょうじゅじ)の境内にある回遊式庭園。毎年4月下旬~5月中旬にかけてカキツバタが咲き誇ります。
    古くからの名勝で、多くの歌人たちによる名歌も生まれていますが、中でも「伊勢物語」で在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて詠んだ「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」は有名です。庭園内にもその歌碑と業平像が建てられています。
    カキツバタの花が咲きそろう期間、毎年4月下旬から5月中旬には「史跡八橋かきつばたまつり」が開催され、多彩なイベントが開催されます。
    ちなみにカキツバタは“愛知県の花”“知立市の花”です。(知立市広報より)

  • 『東海道池鯉鮒宿碑』 <br />本陣1、脇本陣1、旅籠35、家数292、人口1620・・・天保14年(1843)時点<br />古くは「知立」と書き、語源は「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味している。<br />御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は「池鯉鮒」と書いたが、明治2年(1869)に再び「知立」が正式名になった。知立神社の神主の館である知立古城があったため、古くから城下町的村落で、鎌倉街道の要衡の地としても栄え、開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだったようだ。<br />ここが池鯉鮒宿の東の入口となる。

    『東海道池鯉鮒宿碑』 
    本陣1、脇本陣1、旅籠35、家数292、人口1620・・・天保14年(1843)時点
    古くは「知立」と書き、語源は「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味している。
    御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は「池鯉鮒」と書いたが、明治2年(1869)に再び「知立」が正式名になった。知立神社の神主の館である知立古城があったため、古くから城下町的村落で、鎌倉街道の要衡の地としても栄え、開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだったようだ。
    ここが池鯉鮒宿の東の入口となる。

  • 交差点には、こんな屋敷も。<br />旧東海道(県道285号線)が県道51号線に合流、100m程で中町交差点へ。<br />旧東海道はこの交差点を渡り正面の小道へ。ここを左へ曲がると吉良道。<br />中町交差点の角に「ゑびすや」

    交差点には、こんな屋敷も。
    旧東海道(県道285号線)が県道51号線に合流、100m程で中町交差点へ。
    旧東海道はこの交差点を渡り正面の小道へ。ここを左へ曲がると吉良道。
    中町交差点の角に「ゑびすや」

  • 【知立古城跡】<br />今川義元滅亡と共に落城した。<br />池鯉鮒神社の神官永見氏の居城であった知立城は、桶狭間合戦後、織田軍により落城。その後、刈谷城主水野忠重が御屋形を建て、信長を迎えたと言われる。江戸初期はしょうぐん上洛用の宿舎とされたが、元禄期の地震で倒壊。その後再建は無し。<br /><br />『知立古城跡』。<br />城跡は天正9年(1581)頃、刈谷城主の水野忠重が信長接待のために御殿を建て、江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊。<br />明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。

    【知立古城跡】
    今川義元滅亡と共に落城した。
    池鯉鮒神社の神官永見氏の居城であった知立城は、桶狭間合戦後、織田軍により落城。その後、刈谷城主水野忠重が御屋形を建て、信長を迎えたと言われる。江戸初期はしょうぐん上洛用の宿舎とされたが、元禄期の地震で倒壊。その後再建は無し。

    『知立古城跡』。
    城跡は天正9年(1581)頃、刈谷城主の水野忠重が信長接待のために御殿を建て、江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊。
    明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。

  • 知立古城址碑が立っています、時の城主が今川義元に組みした為、織田信長の攻めにより落城となりました。<br />【知立古城跡】<br />かつては、街道の南西に知立神社の神官・氷見氏(ひみ)が築いた城があり城下町的な村落だった。氷見氏は平安時代末に後白河院の北面の武士として13代永見貞春の頃には保元・平治の乱に従軍。29代貞英まで続いたが永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで落城した。城には今川義元が本陣を置いたこともある。天正年間(1573~92)に御殿が立てられ、江戸時代に増築されて将軍の宿泊・休憩所となったが、元禄12年(1699)地震により倒壊、再建されなかった。(案内板)

    知立古城址碑が立っています、時の城主が今川義元に組みした為、織田信長の攻めにより落城となりました。
    【知立古城跡】
    かつては、街道の南西に知立神社の神官・氷見氏(ひみ)が築いた城があり城下町的な村落だった。氷見氏は平安時代末に後白河院の北面の武士として13代永見貞春の頃には保元・平治の乱に従軍。29代貞英まで続いたが永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで落城した。城には今川義元が本陣を置いたこともある。天正年間(1573~92)に御殿が立てられ、江戸時代に増築されて将軍の宿泊・休憩所となったが、元禄12年(1699)地震により倒壊、再建されなかった。(案内板)

  • 徳川の世に、城には今川義元が本陣を置いたこともある。天正年間(1573~92)に御殿が立てられ、江戸時代に増築されて将軍の宿泊・休憩所となったが、元禄12年(1699)地震により倒壊、再建されなかった。

    徳川の世に、城には今川義元が本陣を置いたこともある。天正年間(1573~92)に御殿が立てられ、江戸時代に増築されて将軍の宿泊・休憩所となったが、元禄12年(1699)地震により倒壊、再建されなかった。

  • 明治天皇が行幸された地。<br /><br />【池鯉鮒宿本陣跡】<br /> 本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。<br /> 東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文二年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治八年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。<br />                           知立市教育委員会

    明治天皇が行幸された地。

    【池鯉鮒宿本陣跡】
     本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。
     東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文二年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治八年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。
                               知立市教育委員会

  • 【了運寺の鐘楼門】<br />楼上が鐘楼になった門が印象的。本陣の近くに建つ。<br />浄土宗鎮西派。知立神社の別当院であった神宮寺の一坊として開かれたと伝わる。当初は天台宗だったが明応2年(1493)浄土宗に改宗したとされる。<br /><br />浄土宗の『神前山 浄林院 了運寺』そして見事な『山門』。<br />山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚鐘楼門(上層部が鐘撞堂の山門)

    【了運寺の鐘楼門】
    楼上が鐘楼になった門が印象的。本陣の近くに建つ。
    浄土宗鎮西派。知立神社の別当院であった神宮寺の一坊として開かれたと伝わる。当初は天台宗だったが明応2年(1493)浄土宗に改宗したとされる。

    浄土宗の『神前山 浄林院 了運寺』そして見事な『山門』。
    山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚鐘楼門(上層部が鐘撞堂の山門)

  • 店の角には『常夜燈』があり柱には『地鯉鮒大明神』の文字が。<br />この後訪ねた『知立神社』は『池鯉鮒大明神』と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社。

    店の角には『常夜燈』があり柱には『地鯉鮒大明神』の文字が。
    この後訪ねた『知立神社』は『池鯉鮒大明神』と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社。

  • 『知立神社と知立公園案内図』。<br />●知立神社(112年創建)<br /> 東海道屈指の名社であり、霊験もあらたかである。分K剤には、多宝塔、古額、舞楽面などがあり保存されています。例祭(5月3日)には、山車文楽や山車からくりなどが奉納されます。<br />●花菖蒲園(はなしょうぶ園)<br /> 明治神宮より特別下賜された数十種の花菖蒲が6月上旬に美しく咲き誇ります。

    『知立神社と知立公園案内図』。
    ●知立神社(112年創建)
     東海道屈指の名社であり、霊験もあらたかである。分K剤には、多宝塔、古額、舞楽面などがあり保存されています。例祭(5月3日)には、山車文楽や山車からくりなどが奉納されます。
    ●花菖蒲園(はなしょうぶ園)
     明治神宮より特別下賜された数十種の花菖蒲が6月上旬に美しく咲き誇ります。

  • 知立神社の花菖蒲園。季節になれば花いっぱいに咲かせるでしょう。<br />『知立公園の花菖蒲について』<br />「当公園の花菖蒲は昭和30年、仝32年、仝35年の三回に亘って明治神宮から特に御下賜いただいたものであって明治天皇並びに昭憲皇太后御遺愛の名品種約60種類が年々其の?を競い5月の八橋の杜若と共に当知立市に於ける名花の双璧と謳われて居る。花の見頃は6月の5日から18日頃までの間であって6月の花期には毎年菖蒲祭りの期間を設けて茶会、宝物展、学童の写生会、写真の撮影会等の諸行事が催され、尚、花期直前には「さつき展」も行われている。」

    知立神社の花菖蒲園。季節になれば花いっぱいに咲かせるでしょう。
    『知立公園の花菖蒲について』
    「当公園の花菖蒲は昭和30年、仝32年、仝35年の三回に亘って明治神宮から特に御下賜いただいたものであって明治天皇並びに昭憲皇太后御遺愛の名品種約60種類が年々其の?を競い5月の八橋の杜若と共に当知立市に於ける名花の双璧と謳われて居る。花の見頃は6月の5日から18日頃までの間であって6月の花期には毎年菖蒲祭りの期間を設けて茶会、宝物展、学童の写生会、写真の撮影会等の諸行事が催され、尚、花期直前には「さつき展」も行われている。」

  • 知立神社の花菖蒲園。今の季節では、花は無し。

    知立神社の花菖蒲園。今の季節では、花は無し。

  • 参考フォト<br />知立公園 花菖蒲(開花時)

    参考フォト
    知立公園 花菖蒲(開花時)

  • 【知立神社の多宝塔】<br />知立神社は、三河國二宮で,、三島大社、熱田神社と並び東海道三大社の一つといわれた。西三河一の名社。中世は鎌倉街道の要衝として栄えた。<br /><br />社伝によれば、嘉祥3年(850)天台僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。現存する多宝塔は、永正6年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板(はめいた)張りである。屋根は杮葺で、塔高は約10mあり、室町時代の建築である。明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。(知立市教育委員会)

    【知立神社の多宝塔】
    知立神社は、三河國二宮で,、三島大社、熱田神社と並び東海道三大社の一つといわれた。西三河一の名社。中世は鎌倉街道の要衝として栄えた。

    社伝によれば、嘉祥3年(850)天台僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。現存する多宝塔は、永正6年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板(はめいた)張りである。屋根は杮葺で、塔高は約10mあり、室町時代の建築である。明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。(知立市教育委員会)

  • 【知立神社の多宝塔】<br />國指定重要文化財。寛政5年、1793年建立。<br />現存する多宝塔は、1590年に重原城主・山岡忠左衛門によって再建されたものである。<br /><br />『知立神社多宝塔』。<br />「嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を創立したと言われます。その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は柿葺(こけらぶき)、四隅に宝珠を置きます。<br />これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、<br />大正九年(1920)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。<br />和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。」

    【知立神社の多宝塔】
    國指定重要文化財。寛政5年、1793年建立。
    現存する多宝塔は、1590年に重原城主・山岡忠左衛門によって再建されたものである。

    『知立神社多宝塔』。
    「嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を創立したと言われます。その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は柿葺(こけらぶき)、四隅に宝珠を置きます。
    これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、
    大正九年(1920)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。
    和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。」

  • 【知立神社の本堂】<br />江戸時代、東海道三社の一つとして崇められた名社。三河国二宮。日本武尊が東征の折、ここに皇祖神をお祀りしたと言われるている。<br /><br />境内には、寛政5年(1793年)建立の芭蕉句碑<br />「不断立つ 池鯉鮒の宿の 木綿市」があります。<br /><br />旧称池鯉鮒大明神。式内、三河国二宮で旧社挌は県社。東海道三大社の一社。社伝によれば景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の際に当地で皇祖の神々に平定の祈願を行ったという。そして無事平定を終えた帰途、その感謝のため皇祖神を祀ったのに始まるとされる。850年には、後に知立神社の別当寺となる神宮寺が天台宗の僧円仁によって建てられた。この頃に多宝塔も建てられたという。ただし現存する多宝塔は、1590年に重原城主・山岡忠左衛門によって再建されたものである。<br />古来より「蝮よけ・長虫よけ」の特殊信仰があり、神札を身につければ蝮蛇に咬まれないと伝えられ、北関東から山陰地方に至る各地に分社がある。<br />『東海道名所図会』には、知立神社(多宝塔、古額、末社、神籬門、石橋、的場、除蝮蛇神札、御手洗池神宝古作面、芭蕉句碑)と、詳細な記載がある。(Wikipedia)<br /><br />『知立神社由緒』。<br />「当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路 此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賛のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、原稿襲来に際して異国調伏の勅願あり、明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献する等、夫々赤誠を捧げた。亦衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。<br />又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝社の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。」

    【知立神社の本堂】
    江戸時代、東海道三社の一つとして崇められた名社。三河国二宮。日本武尊が東征の折、ここに皇祖神をお祀りしたと言われるている。

    境内には、寛政5年(1793年)建立の芭蕉句碑
    「不断立つ 池鯉鮒の宿の 木綿市」があります。

    旧称池鯉鮒大明神。式内、三河国二宮で旧社挌は県社。東海道三大社の一社。社伝によれば景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の際に当地で皇祖の神々に平定の祈願を行ったという。そして無事平定を終えた帰途、その感謝のため皇祖神を祀ったのに始まるとされる。850年には、後に知立神社の別当寺となる神宮寺が天台宗の僧円仁によって建てられた。この頃に多宝塔も建てられたという。ただし現存する多宝塔は、1590年に重原城主・山岡忠左衛門によって再建されたものである。
    古来より「蝮よけ・長虫よけ」の特殊信仰があり、神札を身につければ蝮蛇に咬まれないと伝えられ、北関東から山陰地方に至る各地に分社がある。
    『東海道名所図会』には、知立神社(多宝塔、古額、末社、神籬門、石橋、的場、除蝮蛇神札、御手洗池神宝古作面、芭蕉句碑)と、詳細な記載がある。(Wikipedia)

    『知立神社由緒』。
    「当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路 此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賛のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、原稿襲来に際して異国調伏の勅願あり、明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献する等、夫々赤誠を捧げた。亦衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。
    又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝社の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。」

  • 知立神社境内の石橋と多宝塔。境内の御手洗池の鯉、鮒が池鯉鮒の由来。<br /><br />【知立神社石橋】(市指定文化財)<br />この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、水面より高さ1.7mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。<br />「東海道名所図会」には「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。(知立市教育委員会)<br /><br />『芭蕉句碑』<br />「『不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市』 芭蕉翁<br />元禄5年(1692)秋9月に江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。<br />池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがえる。<br />池鯉鮒の蕉門の俳人井村祖風が寛政5年(1793)この句が作られて100年にあったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。」

    知立神社境内の石橋と多宝塔。境内の御手洗池の鯉、鮒が池鯉鮒の由来。

    【知立神社石橋】(市指定文化財)
    この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、水面より高さ1.7mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。
    「東海道名所図会」には「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。(知立市教育委員会)

    『芭蕉句碑』
    「『不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市』 芭蕉翁
    元禄5年(1692)秋9月に江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。
    池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがえる。
    池鯉鮒の蕉門の俳人井村祖風が寛政5年(1793)この句が作られて100年にあったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。」

  • 天台宗門宗【総持寺】の山門。<br />廃寺後の大正十三年(1924年)に再興されました。<br />ここには、徳川秀康(家康の次男)の生母、於萬の方生誕地碑がある。知立は家康の側室、於萬の方の生誕地。<br /><br />元和2年(1616)に創建された玉泉坊が前身で、貞亨3年(1686)に総持寺に改称した。明治5年(1572)、神仏混淆禁止令により廃寺となったが、大正13年に天台寺門宗としてこの地に再興された。明治以前の総持寺は東海道の道筋、知立神社の手前の右側にあった。寺の跡には樹齢200年余の大銀杏がある。<br /><br />『本堂』<br />「神路山 総持寺は、三河国二宮「知立神社」の別当寺として創建されています。<br />嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が巡錫でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に祈願したところ忽ち治癒しました。大師は神意に感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと伝えられています。この時創建されたのが神宮寺七坊であり「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊」などが創建されたそうです。総持寺は、塔頭の一つ玉泉坊が承応二年(1653年)、当時の住職宥海が寛永寺住職天海大僧正に師事したことから寛永寺の末寺となり寺号を現在の総持寺に改めました。創建の経緯もあり、当時から神仏習合してきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により住職が知立神社の神官となったため、廃寺となります。<br />その後昭和二年(1927年)に再興され現在地に境内を移して堂宇も再建されました。又、徳川家康の側室お万の方は知立神社の神官氷見氏一族から出たことからお万の方の生誕地とされています。」

    天台宗門宗【総持寺】の山門。
    廃寺後の大正十三年(1924年)に再興されました。
    ここには、徳川秀康(家康の次男)の生母、於萬の方生誕地碑がある。知立は家康の側室、於萬の方の生誕地。

    元和2年(1616)に創建された玉泉坊が前身で、貞亨3年(1686)に総持寺に改称した。明治5年(1572)、神仏混淆禁止令により廃寺となったが、大正13年に天台寺門宗としてこの地に再興された。明治以前の総持寺は東海道の道筋、知立神社の手前の右側にあった。寺の跡には樹齢200年余の大銀杏がある。

    『本堂』
    「神路山 総持寺は、三河国二宮「知立神社」の別当寺として創建されています。
    嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が巡錫でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に祈願したところ忽ち治癒しました。大師は神意に感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと伝えられています。この時創建されたのが神宮寺七坊であり「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊」などが創建されたそうです。総持寺は、塔頭の一つ玉泉坊が承応二年(1653年)、当時の住職宥海が寛永寺住職天海大僧正に師事したことから寛永寺の末寺となり寺号を現在の総持寺に改めました。創建の経緯もあり、当時から神仏習合してきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により住職が知立神社の神官となったため、廃寺となります。
    その後昭和二年(1927年)に再興され現在地に境内を移して堂宇も再建されました。又、徳川家康の側室お万の方は知立神社の神官氷見氏一族から出たことからお万の方の生誕地とされています。」

この旅行記のタグ

関連タグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP