2018/01/22 - 2018/01/25
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Weiwojingさん
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3日目は大分市内を見て回った。ただ、夜は知人と会うことになっていたので日中だけしか時間がなかった。そこで、かねてから訪ねてみたいと思っていたキリシタン関係の遺跡と市内中心部をいくつか回ってみた。
先ずは「キリシタン殉教記念公園」へ行った。JR大分駅前からバスで出かけた。15分ほど乗り、遺跡公園前で降りた。
* カバー写真は「キリシタン殉教記念公園」に置かれている大きなレリーフである。この一帯は寛文年間に多くの殉教者を出したところで、彼らの霊を慰めるために1970年(昭和45)に殉教記念公園が作られ、そこに置かれたレリーフである。
- 旅行の満足度
- 5.0
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大分の旅はJR大分駅から出発し、また大分駅に戻って来た。3泊4日の短い滞在であった。前もって色々調べてみた。大分市はもちろんのこと、竹田や日田、中津、豊後高田等訪れてみたいところはたくさんあった。しかし、限られた日数ではほんの数箇所しか行くことは出来なかった。
それはそれで良しとした。今後また訪れる可能性があると思うので、今回はこれで十分であった。次回を期したい。 -
大分駅前にはフランシスコ・ザビエルの銅像が建っている。彼は1549年(天文18)に来日し、鹿児島、平戸、山口で布教し、3年後に大友宗麟の招きで大分で布教した。こうして大分とザビエルは強い関わりを持ち、日本における宣教の中心地となり、教会、孤児院、病院、学校等を建設し、西洋文化を取り入れた。
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こちらはキリシタン大名として名を馳せた大友宗麟像(1530 ~1587)で、自らキリシタンに帰依し、ザビエルを大分に招き、宣教を許した。
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この日は先ずキリシタン殉教記念公園へ出かけた。大分駅からバスで15分ほどのところにあり、バスを降りると目の前が公園である。訪れる人は全くおらず、静かな光景が広がっていた。
バス停の前に大きな十字架があり、後ろに殉教記念公園と書かれた案内板が見える。 -
大友宗麟の保護により、この地にキリスト教が広まったが、禁教後は長崎と並んで激しいキリシタン弾圧に遭い、多くの人々の血が流された。中でもこの葛木一帯は200人以上の殉教者がでた。
このような殉教者に対して1970年(昭和45)、その崇高な信仰の跡をしのび、彼らの霊を慰めるために、この「拷門原」の地に記念公園が作られた。 -
「大分県キリシタン殉教記念碑の由来」なるものがある。
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弾圧が最も激しかった寛文年間(1661年~1672年)にこの地域に住んでいた切支丹分布図がある。
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公園には次のような歌が彫られ歌碑がある(判読し難いので、拡大してご覧ください)。作者は地元の歌人・山本峯生である。
清らかに
キリストの顔
彫られて為て
閉ちしお心眼の
ふかきやさしさ (平成7年2月) -
キリシタン灯篭だろうか。
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キリシタン殉教記念公園の前に教会があった。カトリック教会かと思い、寄ってみた。近づいてみると、カトリック教会ではなく、「聖イエス会 栄光の賛美教会」という名のプロテスタント教会であった。見学したいと思い、中に入ると、たまたま職員の人がいたので、見せていただいた。
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礼拝堂に入ると、薄暗い中にも祭壇部分に照明が点され、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
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カトリック教会とはずいぶん雰囲気が違となり、シンプルで落ち着いている。
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右側にはへブル語で「エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい」と書かれている。 (詩編 137:5)
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この教会にはミニギャラリーとでも言ってよいような展示コーナーがあり、キリシタン関係の資料が展示されている。
これは「紙踏み絵」で、毎年、正月3が日にこの紙を踏ませ、信徒であるかないかを検索したものである。右側には「きりしたん ばてれんを ふまざるもの ごくもんのこと」とある。 -
「キリシタン茶碗」
大友宗麟は京都大徳寺に「瑞峯院」を菩提寺として持ち、千利休の茶道に通じていた。 -
次の2枚とともにカムフラージュされた十字架が描かれている絵皿が展示されている。
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十字架の形が描かれた皿がある。
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鮮やかな絵柄の中央に十字の形が描かれている。
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「香炉と燭台」
どちらにも小さな十字架がつけられていて、祭儀の道具として使用された。潜伏時代、仏壇の中で保存されていた。 -
「キリシタン鍔」
トンボの背中に小さな十字架が描かれている。 -
「刀の鍔」
大きく十字架がデザインされている。 -
「青銅の十字架」
十字架の中央に幼子を抱くマリア観音が付いている。 -
「キリシタン瓦」(轡十字紋)
武田・岡城主・中川家の表紋は「抱きかしわ」、裏紋は「中川クルス」と言われる。 -
「マリア観音」
籠に魚を持っているが、これは「聖母マリア」のカムフラージュだと想像できる。 -
遺跡公園のすぐわきに変わった建物がある。ビルの一部が寺院風な作りにっていて、一体何なのかと思い、中に入ってみた。
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通路を通って中に入ると、仏教寺院があった。
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入口を通って中に入った時の建物が内側から見るとこのような建物で、表側から見た時と全然違っていた。
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建物の壁面に「1995年大分市建築大賞」というプレートが掲げられているのに気が付いた。道理でこの建物が独自の風合いがあるのが分かった。
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市役所前の遊歩公園には南蛮文化の跡を示す記念碑や地元出身の著名人の碑が建っている。
「史跡 滝廉太郎 終焉之地」 -
「瀧廉太郎像」
音楽家であった彼は、ドイツから帰国後大分市に住み、1903年(明治36)この地でなく亡くなった。 -
十字架を手にしたフランシスコ・ザビエル像
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ザビエル像を拡大してみた。意志の強さを感じさせる顔つきだ。
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「西洋音楽発祥記念碑」
府内はザビエルがこの町で布教を始めてから日本最初の西洋文化の栄えた地となり、街のあちこちから美しい讃美歌の歌声が聞こえるようになった。1557年(弘治3)、府内教会で復活祭には聖歌隊が出来、オルガンの伴奏で讃美歌を合唱した。また、神父からビオラを学んだ少年たちは、1562年(永禄5)、領主大友宗麟の前でこれを演奏し、大いに賞賛を受けたという。 -
「伊東ドン・マンショ像」
織田信長時代の1579年(天正7)に来日した宣教師ヴァリニャーノの勧めで九州のキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信は少年使節団をローマに派遣することになり、伊東マンショは5人の使節団の正使として派遣された。 -
「西洋医学発祥記念像」
1557年(弘化3)、大分に日本最初の西洋式病院が建ち、ポルトガル人医師アルメイダによって内科はもとより、日本最初の西洋式外科手術が行われた。 -
「育児園と牛乳の記念碑」
アルメイダは、当時日本が戦乱が続き、貧窮から赤ん坊を殺す悪臭があり、これを知った彼は自費で孤児院を建て、赤ん坊を収容し、乳母と牝牛を置いて、牛乳で育てた。これは、近世における福祉事業の先駆けであった。 -
「府内城跡」
大友氏400年の幕が閉じた後、豊臣秀吉は豊後国を七つに分割して馬廻衆に分け与えた。1597年(慶長2)、12万石を受封して臼杵城から府内に入った石田三成の妹婿の福原直高は秀吉から築城の命を受け、四神相応の好地である荷受けのち、現在の大分市の中心市街地に当たる大分河川口で築城にかかり、城と町を建設し始めた。
1743年(寛保3)の大火により、天守閣を始めとして城の施設の多くが焼失してしまい、再建されることはなかった。現在は城址公園として保存されている。 -
赤い布を胸に巻いた地蔵像があり、顔が普通見る地蔵ぞうと異なるような気がする。
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端正な顔つきのサギがいた。
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堀には鴨一家が泳いでいた。
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スリランカから来ている留学生の知人と会った。大分駅近くにある「イスルランカ」というスリランカ・レストランで一緒に食事をした。
注文したのは「スペシャル ランチ プレート」で、7種類の野菜カレーとライス、パパダンがセットになったもので、大変おいしかった。 -
料理の他に紅茶とアイスクリームも出て来た。
この日一日は寒い中を大分市のキリシタン遺跡を見て回ったが、16世紀から続いてきた歴史の大きな流れを感じた。大分がこんなにもキリスト教と大きな関わりを持っていたことを実感出来たと思う。
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