2018/01/18 - 2018/01/18
12位(同エリア198件中)
ベームさん
年が明け15日も過ぎ、ようやく人出も落ち着いた頃であろうと、昨年からの続きをするべく神輿をあげました。
前回牛込を歩いた時早稲田まで辿りつけなかったので、今回はその早稲田からスタートし、夏目漱石、永井荷風、坪内逍遥などの文人の跡を訪ねながら、余丁町、大久保まで歩きました。
天気予報は一日中晴て暖かいとのご宣託。
写真の枚数から2回に分け、その1は早稲田大学から夏目漱石の生誕の地夏目坂です。
写真は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館。
PR
-
今日のコースです。
左上高田馬場駅からぐるっと時計回りに左下の東新宿、大久保まで。 -
その1の部分。
右下の夏目坂通りが若松町、大久保通りに突き当たる所まで。 -
今日のスタートはJR山手線高田馬場駅です。9時半頃。
脚の痙攣防止の薬を飲んで歩きだしたのですが・・・。 -
駅前から都営バスで西早稲田まで行きました。
学生が多く、乗降車時の混雑を避けるのでしょう、乗る前の歩道でパスモなどのチェックをしていました。 -
バス停西早稲田で下車。
-
まずバス停(現在位置)からちょっと北へ、水稲荷神社と甘泉園公園に行きました。
-
水稲荷前。
-
水稲荷神社の石段。
今の時期どこの神社に行っても合格祈願の幟を見ます。神社にとって稼ぎ時ですね。 -
石段を上ると左手に堀部安兵衛顕彰碑が建っています。
-
本名武庸(たけつね)。旧姓中山武庸、通称中山安兵衛。のち堀部家の養子になり堀部安兵衛。1670~1703年。
元禄7年(1694年)2月、高田馬場の果し合いで叔父の菅野六郎左衛門を助太刀し評判となる。
のち播州赤穂藩の家臣堀部家の婿養子になる。元禄15年、赤穂四十七士の一人として吉良邸に討ち入り。
高田馬場とは、江戸幕府が旗本のために造った馬術調練場のことdす。 -
堀部安兵衛が高田馬場に駆けつけるとき立ち寄って枡酒を飲んだという酒屋が近くにあります。後で寄ります。
高田馬場の決闘の映画を子供のころ見ました。嵐寛壽郎だったか市川右太衛門だったか。そのころ時代劇にはほかに片岡千恵蔵、長谷川一夫、大河内伝次郎、ばんつまこと阪東妻三郎など重量級のスターがいて熱中しました。その後私も成長するにつれ、時代劇スターも中村錦之介、東千代之介、大川橋蔵など軽量級になっていき、私は時代劇映画に興味を失いました。 -
先に甘泉園公園に寄ります。
水稲荷と甘泉園公園は隣接しています。 -
新宿区立唯一の回遊式庭園だそうです。
-
徳川御三卿の一つ清水家の下屋敷で、回遊式の大名庭園でした。湧水がお茶に適して美味しかったので「甘泉園」とよばれました。
戦前一時早稲田大学の所有でしたが、戦後土地交換で東京都を経て新宿区の所有となりました。 -
静かなたたずまいです。。
-
雪吊りの木の姿が美しい。
-
今は水は湧いていないそうです。
-
戻って水稲荷神社へ。
-
鳥居をくぐるとすぐ左にあります。
-
先の大戦で亡くなった出陣新宿区内の英霊、早稲田大学教職員、学徒出陣学生4300余の英霊を祀るとあります。
-
手水舎。
-
大国社。
大国主命を祀る。身体強健、金銀融通の神。 -
太田道灌駒繋ぎの松。
道灌はここ山吹の里でよく狩りをしたそうです。その時ここに馬を繋いで休んだのでしょう。
太田道灌は15世紀後半の人ですから、500年以上経ったにしては貧相な木です。何代目かのものでしょう。 -
駒繋松。
-
これらの間を通ると本殿がありました。
-
本殿。
創建は941年、鎮守府将軍俵藤太秀郷が今の早稲田大学構内にあった冨塚の上に冨塚稲荷を勧請。
元禄15年、大椋(むく)の木の下に霊水が湧きだし眼病に効ありと評判になり、また信仰すれば水難を免れるとされ、以来「水稲荷」と称されるようになった。 -
昭和20年、戦災で焼失。翌年再建。
昭和38年、早稲田大学と土地交換し現在の甘泉園の地に遷座。 -
早稲田大学の守り神です。
合格守、祈祷符、初穂料セットで1500円。
水稲荷ホームページより。 -
西早稲田の交差点に戻ってきました。
戸山、早稲田一帯は江戸時代には広い大名屋敷があった所で、尾張徳川家、御三卿の一橋家、彦根井伊家などの下屋敷がありました。 -
早稲田西門商店街。これから早稲田大学、西門から入ります。
かっては神田川沿いには田畑が広がっており、稲は生育の速い早生(わせ)が栽培されていたのが地名の由来だそうです。 -
早稲田大学の制服、上下28000円より。
銀座、泰明小学校のブランド制服より安い。使用する生地の面積は違うのに。小学校の校長の独断だそうですが、偏った考えの持ち主がトップになることの恐ろしさですね。父兄たちはさぞかし虚栄心をくすぐられたことでしょう。 -
早稲田大学漫画研究会作成。
-
西門から構内を望む。
-
まずは坪内博士記念演劇博物館へ。
-
坪内博士記念演劇博物館。
昭和3年、坪内逍遥の古希とシェークスピア全集の翻訳完成を記念して設立されました。逍遥の発案で建物はエリザベス朝、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模しています。
逍遥は開館式に際し「よき演劇をつくり出すには、内外古今の劇に関する資料を蒐集し、整理し、これを比較研究することによって基礎をつくる必要がある」と述べたそうです。 -
その言葉通りここには古今東西の演劇資料が蒐集されています。
例えば戯曲、台本、書籍、記事、公文書、写真、チラシ・ポスター類、衣裳、かつら、装置、小道具、映像など100万点以上の資料があるそうです。
正面張り出しが舞台になって劇の上演も行われます。左右が桟敷席、前の広場が一般席になります。 -
正面軒下に刻まれた文字。
Totus Mundus Agit Histrionem、ラテン語で書かれており、「全世界は劇場なり」と云う意味で、シェークスピア時代のロンドンの劇場「グローブ座」に掲げられていた言葉だそうです。
期待して行きましたが、内部整理中で3月末まで閉館でした。がっかり。 -
博物館前に建つシェークスピア講義中の坪内逍遥像。
坪内逍遥:小説家、評論家、劇作家、翻訳家。1859~1935(昭和10)年。岐阜出。近代日本文学の成立、演劇改良運動に大きな影響をもたらす。東大卒後明治16年から大正4年まで30年以上東京専門学校(早稲田大学の前身)、早大教授を務める。
明治24年「早稲田文学」創刊。明治39年、島村抱月と「文芸協会」設立。
小説に「小説神髄」、「当世書生気質」。戯曲に「桐一葉」、「役の行者」。翻訳に「シェークスピア全集」など。 -
説明板。
逍遥の講義は面白かったそうです。
予備校で逍遥の英語の授業を受けた正岡子規:まるで落語のように面白かった。
井伏鱒二、講演を聞いて:びっくりするような大声で、役者の声色を混ぜて飽きさせなかった。 -
「早稲田文学」は東大系の「新思潮」、慶応大学系の「三田文学」と並んで有力な文芸誌でした。
東京専門学校、早稲田大学から巣立った(中退も含め)著名な文学者は次のようです。
島村抱月、北原白秋、若山牧水、正宗白鳥、近松秋江、長田幹彦、相馬御風、窪田空穂、野口雨情、吉井勇、宇野浩二、広津和郎、国木田独歩、北村透谷、岩野泡鳴、會津八一、葛西善蔵、三木露風、横光利一、立原正秋、種田山頭火。
まだまだいます。
夏目漱石が東大、同大学院生の時、明治25年から28年にかけて学資稼ぎのため東京専門学校で英語の講師を務めています。それ以外にも漱石は大学予備門時代に江東義塾、東大大学院時代に東京高等師範学校(今の筑波大学)で講師をしています。 -
有名な総長服姿の大隈重信公像。
明治15年、早稲田大学の前身東京専門学校設立。明治35年早稲田大学と改称。
東京専門学校設立に大隈重信に協力したのが坪内逍遥の東大時代の学友高田早苗で、のち学長、総長になっている。 -
製作者は朝倉文夫です。
-
何号館だったか。
-
大隈公像の先に正門を挟んで大隈講堂が見えます。
-
會津八一記念博物館です。
大正14年2号館として建てられ早稲田大学で2番目に古い建物です。平成3年に今の中央図書館が出来るまで図書館として使われました。平成10年會津八一記念博物館となりました。東京都選定歴史的建造物。 -
會津八一(あいずやいち)。
歌人、東洋美術史家、書家。1881(明治14)~1956(昭和31)年。新潟市生まれ。
東京専門学校で坪内逍遥に学び、のち早大教授(英文学、東洋美術)。文学博士。
奈良の仏教美術に造詣深く、また美術史の研究には作品と直に接することが不可欠であると述べ、私財を投じて中国の明器、瓦、鏡など4千点もの美術品を集めました。これがこの博物館の収蔵品の柱となっています。 -
東洋美術、近代美術品、考古学、アイヌ民族資料など内外から寄贈された2万点を超えるコレクションがあります。
-
Aizu Museum
-
駱駝図。
文政4年オランダ人が持ってきた二匹のラクダ。 -
パンフレットより。
-
中原淳一「初雪」。1939年(昭和14)。
-
東洋磁器。
パンフレット。 -
古赤絵。
-
禅書画。
-
臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の絵。
-
法華経絵部分。室町時代。
-
會津八一自書の歌。秋艸(しゅうそう)道人は号。
万葉調のひらがな書、独特の歌風、書格を持っていました。 -
會津八一の書。
-
早稲田大学のシンボル、大隈記念講堂。
-
1927(昭和2)年落成。国の重要文化財。
東大安田講堂、神田共立講堂とともに東京の三大講堂と云われます。 -
正門前、といっても東大赤門、正門のような門らしきものはありません。
「無門の門」といい、学びたいものは拒まず、開かれた大学という建学の精神を具現しているそうです。 -
正門前。
-
大学を出て馬場下に向かいます。
寶泉寺。 -
寶泉寺。
-
梵鐘。
1711年、江戸時代の鋳物技術が頂点に達したころの作。 -
戦争の供出に免れた貴重なものです。
-
古いしもた屋風の家が残っています。
-
大福寺。お寺が続きます。
-
馬場下町の交差点に来ました。
早稲田通りと諏訪通りの合流点。 -
穴八幡宮です。
-
一之鳥居。
もう1月も18日というのに結構な人出です。お金を増やしたい人たちが期間限定の一陽来復のお守りを求めて大賑わい。 -
高田馬場の流鏑馬。
1728年将軍吉宗が世継ぎの病回復を祈願して穴八幡宮に流鏑馬を奉納した。
明治維新後は中断を繰り返したが、昭和54年以降毎年10月10日に戸山公園で保存会により行われているそうです。 -
鳥居をくぐるといきなり沢山の屋台が参道を挟んでいました。
-
石段の上から。
石の鳥居は二之鳥居。 -
打出の小槌。
お客の求めに応じ祈念の声が響かせながら細工しています。 -
金運、福を招く塩のお守り。
-
随神門。
平成10年の再建。 -
随神門。
-
右の随神。
-
金運財布、参道はまさに利殖のデパートみたいです。
-
利殖を図るほどの元手もない私はささやかに甘酒で一休み。一杯300円。
-
定番七味唐がらし。
-
布袋尊像の水鉢。なでなでしています。
-
一陽来復のお守りを求める長い列。皆さん辛抱強いですね。商売繁盛、金運向上のためならなんのこれしき。私のようなそもそも元手のない者には無縁です。
このお札が頒布されるのは冬至から節分の間だけだそうです。
赤い建物は鐘楼。 -
ようやくお札所に到着した行列の先頭です。
-
社殿。
戦災で焼失し、平成元年再建。 -
穴八幡宮。
1062年、八幡太郎義家(源義家)が奥州征伐から帰還の途中この地に立ち寄り、八幡神を祀ったのが始まり。1641年、境内の山すそを開いていると穴があり、そこから阿弥陀如来像が出てきので爾来穴八幡と称するようになった。
三代将軍家光のとき幕府の祈願所、江戸城北の総鎮護となる。 -
蟲封じ、商売繁盛、金銀融通にご利益があると云われ庶民の信仰が篤かった。
夏目漱石の夫人鏡子はおまじない好きで、漱石の発作(神経衰弱)が始まると穴八幡宮の蟲封じのお札を貰ってきました。あるとき漱石がいない隙に鏡子がお札を金づちで柱に打ち込んでいると、いきなり漱石が帰ってきてそれを見て、何をしているんだと怒鳴りお札をびりびりに引き裂いてしまったそうです。
鏡子はそのほかお百度詣り、祈祷師、占い師などを非常に大事にしていました。 -
氏子の神輿蔵。
若松町、喜久井町。 -
馬場下町、早稲田南町。
-
出現殿。
穴から阿弥陀如来が出てきた場所。 -
商売熱心なな放生寺。
穴八幡宮と背中合わせにある穴八幡宮の別当寺。 -
1642年穴八幡宮の別当寺として開かれました。
-
ここも蟲封じの霊場になっています。
-
ここのお守りは一陽来福で、穴八幡宮の一陽来復と「ふく」の字が違います。
-
お金を増やすご利益は一緒なのでしょう。
穴八幡宮のと両方集めるともっと霊験あらたかだそうです。神社とお寺がタッグを組んで売りまくっています。 -
地蔵菩薩。
-
特に由緒のある地蔵さんではないようです。
-
修行大師像。
若き日の弘法大師。 -
茅の輪。
潜り方には決まりがあるそうです。 -
お金と縁のない私は異邦人みたいで退散します。
早稲田通りから穴八幡宮方面を振り返る。 -
早稲田通りから夏目坂通りに入る角に、KOKURAYAという酒屋があります。
ここが堀部安兵衛が高田馬場の果し合いに駆けつける際に立ち寄って酒を飲んだ酒屋です。夏目漱石の「硝子戸の中(うち)」に書いています。
「坂を降りきった所に、間口の広い小倉屋といふ酒屋もあった。・・・、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を討つ時に、此処へ立ち寄って枡酒を飲んで行ったといふ履歴のある家柄であった。」
小倉屋の隣のマンションの所が夏目漱石生誕の場所です。
この付近、漱石が住んでいたころのことは随筆「硝子戸の中」にいろいろ書かれていますので、しばらく大いに引用させていただきます。 -
漱石はこんな事も書いています。要約すると、「(兄から聞いた話として):まだ自分(漱石)が生まれる前、ある夜8人ほどの泥棒が家に押し入ってきた。勤王とか佐幕の志士だったのだろう。軍用金を出せと家人を脅す。金はないと父が言うと、そんなはずはない、いま角の小倉屋という酒屋に入ってそこで教えられて来たのだから隠しても駄目だ、と脅かされ結局50両ばかし持って行かれた。泥棒は先に小倉屋に入ったが、其処の主人がうちには金は無い、裏の夏目さんなら金は沢山あるからそこへいらっしゃい、と言ったそうだ。」
-
その隣に立つのが「夏目漱石誕生之地」の碑です。当時牛込馬場下、今新宿区喜久井町1番地。
慶應3年(1867年)新暦2月9日、父直克50歳、母ちえ41歳の末っ子として生まれる。異母姉二人、兄三人。本名夏目金之助。父は神楽坂から高田馬場まで辺りの11カ町を取り仕切る町方名主だった。
両親は、年取ってからできた子で世間にみっともない、と生まれてすぐの金之助を縁のある四谷の古道具屋に里子に出した。ついで1歳の時内藤新宿の名主塩原昌之助の所に養子に出される。8歳の時養父母の不和で、金之助は塩原姓のままで実家に戻る。21歳になりようやく塩原に養育費(手切れ金)を払い夏目姓に戻る。
複雑な漱石の幼少年時代です。養父母との関わり合いは「道草」に詳しく書かれています。
碑は門下生安倍能成の字。昭和41年、漱石生誕100周年記念に建立。 -
8歳の時養家からもどってから28歳で松山中学に赴任するまで、漱石はその間寺に下宿したり寮にはいったりの暮らしが多かったが実家はずっとこの家でした。
またまたの引用ですが、「硝子戸の中」で漱石はこう書いています。
「当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、何うしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。」 -
「買物らしい買物は大抵神楽坂迄出る例になっていたので、さうした必要に馴らされた私には、・・・・、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようといふ、あの五六町の一筋道などになると、晝でも陰森として、大空が曇った様に始終薄暗かった」、今の早稲田通りのことでしょう。
当時早稲田一帯は早稲田田圃と云われ、早稲田の校舎も田んぼの中にぽつんと建っていたそうです。米と早稲田みょうがが名産でした。田山花袋も「東京の三十年」のなかで、「早稲田から鶴巻町へ出て来るところは、一面の茗荷畑で、早稲田の茗荷と言えば、野菜市場にもきこえたものであった。」と書いています。 -
「硝子戸の中」から:「尤も私の家は・・・、派手な付合いをしなければならない名主の町人であった。・・・。青山に田地があって、其処から上がって来る米だけでも、家のものが食うには不足がなかったとか聞いた。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関玄関と称えていた。・・・、今考えると、式台のついた厳めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。」
漱石の実家は結構裕福な暮らしをしていたようです。父も兄たちも道楽者でした。その血を引く漱石が正反対の謹厳実直なのは不思議なくらいです。時代の移り変わりと父、兄たちの道楽で夏目家は衰微していきました。
句は漱石松山時代の作ですが、この松は実家の庭にあった松のことと言われます。 -
夏目坂。ゆるい上りになっています。
-
夏目坂。
坂下から坂上方向。 -
坂下、早稲田通り方面。真ん中電信柱の右が夏目漱石生誕の碑がある所です。
-
漱石生誕地の碑の少し先、夏目坂を右に入ると誓閑寺という寺があります。
-
この寺についても漱石は「硝子戸の中」で書いています。寺の名は西閑寺となっています。
「其の豆腐屋について曲がると半町程先に西閑寺といふ寺の門が小高く見えた。・・・・、其の奥でする朝晩のお勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の深い秋から木枯しの吹く冬に掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい在物を叩き込むやうに、小さい私の気分を寒くした。」 -
漱石が聞いたのはこの鐘の音だったのでしょう。
-
1682年の鋳造。新宿区内最古の鐘。新宿区指定有形文化財。
-
近在の住民の寄進により鋳造されたものだそうです。
-
狭い境内。六地蔵ですか。
-
ここら辺りは喜久井町。「硝子戸の中」を読むとこの町名の由来が分かります。
「私の家の定紋が井桁に菊なので、夫にちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聴いたのか、・・・。父は名主がなくなってから、一時区長といふ役を勤めていたので、或いはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇りにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭な気持は疾くに消え去って、只微笑したくなる丈である。」 -
夏目坂の名の由来が書かれています。
-
「硝子戸の中」から、
「父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名を付けた。不幸にして是は喜久井町程有名にならずに、只の坂として残っている。」
町の名も坂の名もつけたというのですから、昔の名主というのは力を持っていたのですね。 -
夏目坂上にはいくつかお寺が並んでいます。
本松寺。 -
感通寺。
-
感通寺。
なかなか大きな寺です。 -
境内。
-
さざれ石。
昭和45年の大阪万博で日本館に展示されていたものだそうです。 -
さざれ石とは、沢山のもともと小さな石が、長い年月をかけて天然のカルシウムなどの作用によりくっついて、一つの大きな岩の塊になったものです。
物理的に言えば味も素っ気もないですが、国家繁栄の象徴でもあるようです。 -
感通寺の先、夏目坂通りをそれて少し行くとマンションの前に案内板があります。
有島武郎が最晩年の1922(大正11)年3月から約1年間住んでいた場所です。新宿区原町2-71-1。 -
有島武郎。1878(明治11)~1923(大正12)年。
裕福な実業家の長男に生まれる。学習院中学、札幌農学校(ここで新渡戸稲造に学ぶ)卒後アメリカ、ヨーロッパに遊学。帰国後「白樺」同人。
大正12年6月、軽井沢の別荘で婦人公論記者波多野秋子と縊死心中。
著に「カインの末裔」、「生まれ出づる悩み」、「或る女」、「惜しみなく愛は奪う」ほか。
弟に画家有島生馬、作家里見弴。子にのちの映画俳優森雅之(長男行光)。 -
波多野秋子。
「婦人公論」の記者。青山学院出の才媛で、当時女性の記者は珍しく、しかも美人ときたので評判だった。本人もそれは承知していて、作家に原稿を依頼するのに武器になったと思います。永井荷風、芥川龍之介のような気難しい作家も秋子の来訪には門を開き、依頼に応じたという。
夫がありながら有島武郎と恋愛関係になり、夫の知る処となり追いつめられてついに二人は武郎の軽井沢の別荘で心中(縊死自殺)した。大正12年6月、武郎45歳、秋子29歳。当時有島武郎は妻に死なれ、3人の男児のいる独身だった。
当時の職業婦人の服装。美人です。こんな佳人になにか書いてください、と見つめられたらノーと言える作家はいないでしょう。 -
武郎の遺書の一部です。
「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。・・・。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかった。恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう。」
梅雨の時期でした。一か月後に発見された二人の遺体は男女の別も分からない無残なものでした。 -
夏目坂通りに戻り若松町の方に下ると寶祥寺があります。
-
境内の桜、ヒカンザクラと思います。少し綻びています。
-
一人のご婦人がカメラをかまえて、鳥が来るのをじっと待っていました。時々飛んでくるそうです。
-
常泉寺。
夏目坂通りは寺の多い通りです。 -
大久保通りと交差する若松町の交差点に出てきました。
写真の枚数が多くなりました。ここまでをその1とします。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
早稲田・高田馬場(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
134