2017/12/31 - 2018/01/01
760位(同エリア1264件中)
むしころさん
直前になって決めたので新幹線で行けるところを探したら
浜松が年末年始も大河ドラマ館とかががんばって営業しているではないか!
「スタートはここしかないな!」ということで、行って来ました。
今回の旅の大まかな予定としては・・・
浜松で井伊や家康の関連史跡を見て→岡崎で家康関連史跡を見て→大垣で関が原の合戦関連の史跡見て→愛知に行って長久手の古戦場に行って→おしまい
浜松では、井伊直虎のゆかりの地と、思いがけず三方ヶ原の合戦があった場所とかも行けて大満足でした
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
新幹線で浜松駅到着。
(混んでいたけど座れた)
時刻は15:12
駅の観光案内所がやっていて(年末年始なのに休んでいないなんてありがたや~)
マップを入手。史跡を廻るモデルコースがあったのでこれにしたがってみました。
まずは出世の館。
色んなお土産が売ってました。
ここで初めて家康君のちょんまげが鰻で袴がピアノってことに気づいた!!
これは・・・すばらしい・・・
自販機にもいた。家康君。・・・いやあ、気に入った。 -
北上して、秀忠公誕生の井戸という場所にきた。
誕生したときにこの井戸の水を産湯に使ったとか・・・
(浜松上二の丸の井戸という説もあるらしい。) -
一応井戸をつくってみたらしい。
-
さらに北上して浜松八幡宮
明日の初詣の準備してました。 -
とても立派な大木があった
雲立楠
樹齢1000年超だそうです
根回り約15m、枝張り四方約25m、樹高約15m
永承6年(1051)八幡太郎義家が参籠したときに樹下に旗を立てたことから「御旗楠」と称されたそうです。
のち元亀3年(1572)に家康が三方原合戦に敗れてこの楠の下のところの穴に潜んでいたところ瑞雲がたちあがったという故事から「雲立の楠」と称されるようになったとのこと。
幹は数枝に分かれ、基となる古木の部分は樹勢が衰 -
社殿
浜松八幡宮 寺・神社・教会
-
砂利がやたら多いのか、足がずぶずぶはまってとても歩きにくい・・・
今までで一番歩きにくかった気がする!!! -
次に西へ。
椿姫観音
とても小さいけど地元の人に愛されている感じがしました・・・
家康が浜松に侵攻してきたため、引間城主のお田鶴の方(夫の飯尾氏が今川氏真に徳川との内通を疑われて暗殺されてしまい、嫡男がまだ幼かったため妻のお田鶴の方が城主になっていた)と侍女らはこれと戦い、討ち死にしたそうです。
その後お田鶴の方と侍女18人は、この地に手厚く葬られて多くの椿の木を植えて供養されたことから、椿姫観音と呼ばれているそうです。 -
引間城本丸跡
戦国時代に築かれたお城で
歴代城主は斯波方の巨海(こみ)氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがいたそうです
当時の浜松には今川方の頭陀寺城城主の松下加兵衛がいて、少年時代の秀吉が彼に仕えていたことから、松下氏に連れられて秀吉も引間城に訪れているとのこと。ほんとかな~?
家康も浜松を手に入れて最初に居城にしたのはこの城だそうです。
その後、城主になった豊臣系の堀尾吉晴以降に浜松城の増改築が進み引間城がお城の主要部から外れて「古城」と呼ばれて米蔵などに使われるようになったそうです。
今は元城町東照宮が建ってます。
明治19年に旧幕臣の井上延陵がここに勧請したそうです。 -
引間城から大きな道路を挟んで浜松城本丸などがあります。
今日は天守の資料館はおやすみなのでとりあえずぐるっと縄張りを見て廻ろう -
昭和33年に建てられた鉄筋コンクリートの模擬天守、兼資料館
実際どんな天守だったのかよく分かっていない模様
夕方になったのでホテルへ・・・
今日は終了~浜松城 名所・史跡
-
1月1日 晴れ
時刻は8:54
バスで井伊谷へ行くぞ~! -
駅前
植物でできた家康君
歓迎ムード満載。大河ドラマやると関連史跡とか観光しやすくなってとても助かる。 -
遠鉄で『直虎1Dayパス』2300円を販売していて遠鉄のバスと電車が乗り放題になる一日券が売ってました。大河ドラマ館と龍潭寺拝観料も込み。
いちいち支払うのが面倒だし気が向いたら好きなところで降りたりできるのでこれを買いました。(1月14日までで終了の予定。←お正月休みに来ておいてよかった~)
駅から9:15発のバスで気賀へ。駅前到着9:54 -
まずは気賀の関所に行ってみた
今だけ無料開放中だった。 -
番所の役人がおる
ここを見てから大河ドラマ館見て、再びバスで今度は龍潭寺へ(15分くらい)
(気賀から龍譚寺へのバスは1月14日までの期間限定路線らしい) -
龍潭寺の前に着いた。結構賑わっている。
先に伝・井伊共保出生の井戸っていう場所に来てみた。 -
中はこんなかんじ
-
井戸の傍らにあった
「八幡宮
井伊氏・・備中守・・・
御手洗・・・」
ううむ、薄くなっててよく読めない・・・・ -
これも薄くてよく読めないなあ~
父直該が貞享5年 ってあるからその年修理したことが書いてあるんだと思う。
そのあと直惟が再修理したってことも書いてあるようだ -
共保とかかいてある
あと龍潭寺って書いてあるなあ -
井戸は
畑の中にこんな感じであった
まわりの土塀とかって今回の大河ドラマ化にあわせて作ったのかな??? -
そしていよいよ龍潭寺へ
山門で合掌一礼
天平5年(733)、行基菩薩開創の八幡寺地蔵寺に始まると伝わっているそうです
ここは井伊八幡宮の境内だったのですが500年前に井伊氏が龍泰寺(今の龍潭寺)を造営したそうです。 -
一番上の瓦、井伊の家紋がはいってる!
-
中を拝観。
龍の襖絵。かっこいい
美術館とかの展覧会で見るより、やっぱりお部屋に使われている状態でみるほうが好き。
旭英筆、龍虎古襖で 江戸時代のものらしいです。 -
龍と向かい合って虎の襖絵
-
籠も赤かったんだな。
-
だるまだ~
どこのだるまだろう。
高崎だったりして。井伊直政が城主だったときもあるし。 -
井伊家御霊屋
新年からお邪魔します・・・
右から初代・共保公、22代直盛公(今川に従い桶狭間の戦いに従軍し戦死)、24代直政公 -
庭園
書院から庭園、御霊屋がちょうどみえるようになっています
井伊直弼公も龍潭寺を訪れるとこの書院にしばらくいたそうな -
本堂立派だな~
人がいたので上のほうだけ撮った -
井戸だ
このお寺は井伊の城の前衛でもあったらしいので、篭城に備えて井戸も重用だなと思った -
井伊谷三人衆のお墓
こちらはその中の 近藤康用(やすもち)公のお墓。
天正16年3月2日井伊谷で死去 享年73歳 ←結構長生き。
井伊氏が彦根に移った後はこの近藤家が幕末まで井伊領を治めていたそうです。 -
こちらは中野氏のお墓
井伊氏の一族
中野三代目、直由公は直政が幼いときに井伊谷城代を務めて永禄7年に引馬城攻めで戦死
右から初代、2代、3代の模様 -
小野玄蕃のお墓(一番右)
と
桶狭間戦死者のお墓 -
龍潭寺歴代住職のお墓
真ん中の大きい石碑の左側が龍潭寺二世の南渓瑞聞和尚
井伊家の軍師的存在だった人です
真ん中から右二つ目が三世 傑山宗俊さん 強弓の達人だったらしい
その右隣が五世 昊天宗建さん 長刀の名手だったらしい。
お二人とも井伊直政が小牧長久手の戦いに出陣した際に随行しているそうだ。
本当にただの寺じゃないな。ここは。 -
小野家歴代の墓
ただし小野正次のお墓はここには無いです -
井伊家のお墓
初代から24代直政公までのお墓があります
正面右側が初代・共保公
左側が22代・直盛公
左側奥から二番目妙雲院殿(直虎)
左側一番手前(チラッとしか写ってない・・・)が直政公
だって。 -
次に北上して井伊谷城跡に向かう!
只今の時刻11:54
・・・・頂上でお昼食べよ。 -
すぐ着くぞ
-
完全に公園だな。
見てくださいこの舗装された道を。 -
サルと蜂に注意
だって。 -
街が見渡せるぞ。
-
もうちょっと
-
一番上ちょっと小高くなっているところ
御所の丸 だって。
この一番上の本丸(?)のところ、周りにぐるっと土塁がしてあるだけのシンプルな城でした。
南側出入り口が大手。西側に搦め手口。
江戸時代の記録で井伊谷城が「御所の丸」と呼ばれていて、南北朝期に南朝方の拠点として宗良親王を擁した場所と関連づけられていたと考えられているそうです。 -
あっちにある山には最終的な詰め城。三岳城があるらしい。きになる・・
-
標高は約115m
-
真ん中の木がいっぱいあるところが龍潭寺
-
後から作ったのか初めからあったのか不明な帯曲輪をあるいてみた
一周できるぞ -
で、東側の二宮神社方面への道へ進む。
-
二宮神社の本殿の右にある天王社
この中に但馬神社(祭神は小野但馬守)が他の6社と一緒に合祀されているそうです。
創建当時は但馬神社として独立していたのですが明治時代末期に寺社整理統合が行われて合祀の形になったらしい。 -
但馬守供養塔とされている石塔群
二宮神社から東へ進むと石碑群がありました
昔は井伊谷川の川岸、処刑場と蟹淵辺りに建てられていたそうですが、昭和初期に河川改修と耕地整理の際に現在地に移転されたそうです。
石碑をよ~く見ても文字が薄くなってて読めなかった・・・
地元の伝承だと小野政次とその二人の幼子の供養塔だということです。 -
で、このあたりが蟹淵と呼ばれていた場所らしい
-
次は南へ・・・
井伊氏の居館跡があった場所です
こちらは井殿の塚
井伊直政の祖父・井伊直満とその弟・直義を祀った塚
彼らは天文13年(1544)に小野正直の讒言により謀反の疑いをかけられて駿府で殺害されたそうです。
大きなタブの木が目印 -
この公民館はニノ丸跡にあるらしい
ここの案内板に書いてあった
ここから南大手門を通ると本丸・井伊家居館などがあったようだ -
ここは井伊家家老の小野屋敷跡地だそうです
-
バス停
13:11に乗るため10分くらい待つ -
途中で三方ヶ原合戦場跡があるので降りてみた!
次のバスは・・・13:45か。 -
霊園のところに古戦場跡の碑があった。
まあ。。あるのはこれだけ。でした・・・
でも小高い台地にあって浜松からそれほど遠くなくて、へえ~こういうところだったのかあ~って分かってよかった。当時はどんな風景だったのかなあ?? -
あとあったのは霊園の駐車場とその奥に運動公園・・・
ちなみに三方が原の合戦は元亀3年(1572)の12月に起こった戦い
ここの説明板によると
武田軍2万5000、家康軍は1万1000(徳川8000と織田の援軍3000)
ってなってた -
浜松まで戻ってきた。
で、浜松城の天守兼資料館へ
200円(8:30~16:30)
三方が原合戦についての説明資料などが勉強になった。
で、一番上の展望台。さっき行った古戦場が見える -
信玄随分近くまで来たなあ・・・
-
めでたい
-
若き日の家康公だって
これにて浜松観光終了!!JRで岡崎へ!
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