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八戸市博物館の展示品紹介の締めくくりです。遺跡から出土の炭化した木の実などの展示のほか、青森県では弥生時代早期に稲作が始まっていたことなどが紹介されていました。

2017秋、道南と青森の名城(26/31):10月26日(6):根城(6/11):民具、米の伝来

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2017/10/24 - 2017/10/26

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旅人のくまさん

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八戸市博物館の展示品紹介の締めくくりです。遺跡から出土の炭化した木の実などの展示のほか、青森県では弥生時代早期に稲作が始まっていたことなどが紹介されていました。

交通手段
観光バス ANAグループ 新幹線
  • (左)『えんぶり烏帽子』(ながえんぶり)<br />(右)『えんぶり烏帽子』(どうさいえんぶり)<br /><br />えんぶりは、初春の神事として、八戸市一円て行われる豊作を祈る行事です。『ながえんぶり』と『どうさいえんぶり』が、その二つの踊りの型です。

    イチオシ

    (左)『えんぶり烏帽子』(ながえんぶり)
    (右)『えんぶり烏帽子』(どうさいえんぶり)

    えんぶりは、初春の神事として、八戸市一円て行われる豊作を祈る行事です。『ながえんぶり』と『どうさいえんぶり』が、その二つの踊りの型です。

  • 左の写真が、国の重要無形文化財の『えんぶり』、右の写真が『八戸三社大祭』の祭の模様です。

    左の写真が、国の重要無形文化財の『えんぶり』、右の写真が『八戸三社大祭』の祭の模様です。

  • 民具の展示品です。手前に見えるのは、お米の脱穀に使う木製の道具のようです。比較的最近まで、農村地帯では目にした記憶があります。

    民具の展示品です。手前に見えるのは、お米の脱穀に使う木製の道具のようです。比較的最近まで、農村地帯では目にした記憶があります。

  • 『遠野民俗芸能しし踊り・しし頭』のタイトルがあった展示品です。遠野市からの寄贈品と紹介されていました。

    イチオシ

    『遠野民俗芸能しし踊り・しし頭』のタイトルがあった展示品です。遠野市からの寄贈品と紹介されていました。

  • 先に紹介した、2種類の『えんぶり』とは別の2種類の『えんぶり』などが展示されていたコーナーの光景です。右側の説明文には、『八戸の湖面移管する祭」のタイトルがありました。

    先に紹介した、2種類の『えんぶり』とは別の2種類の『えんぶり』などが展示されていたコーナーの光景です。右側の説明文には、『八戸の湖面移管する祭」のタイトルがありました。

  • 中央、やや左手の吊り下げパネルには、『八戸藩の米どころ「志和」』のタイトルがありました。江戸幕府が決めた公式の石高(表高)は、2万石でしたが、実際に収穫できた石高(内高、実高)』は4万石ほどだったとされます。『志和』では、その20%ほどの石高があったようです。<br /><br />

    中央、やや左手の吊り下げパネルには、『八戸藩の米どころ「志和」』のタイトルがありました。江戸幕府が決めた公式の石高(表高)は、2万石でしたが、実際に収穫できた石高(内高、実高)』は4万石ほどだったとされます。『志和』では、その20%ほどの石高があったようです。

  • 天井から吊り下げられた札には、『米を食べる』のタイトルがありました。土器を利用した時代から、近代の釜、陶磁器の茶碗などが展示されていました。

    天井から吊り下げられた札には、『米を食べる』のタイトルがありました。土器を利用した時代から、近代の釜、陶磁器の茶碗などが展示されていました。

  • 民具の内、農機具などが展示されたコーナーの光景です。湖が他の脱穀機、木臼、鎌などが展示されているようです。天井

    民具の内、農機具などが展示されたコーナーの光景です。湖が他の脱穀機、木臼、鎌などが展示されているようです。天井

  • 天井から、『なつかしの八戸』の表示が吊り下げられ、展示室の中央に展示してあった『唐箕(とうみ)』です。唐箕は、臼などで籾殻を外したあと、風力を起して穀物を 籾殻、玄米、塵などに選別するための農具です。部屋の中央に展示してあったのは、実演のためのようでした。

    天井から、『なつかしの八戸』の表示が吊り下げられ、展示室の中央に展示してあった『唐箕(とうみ)』です。唐箕は、臼などで籾殻を外したあと、風力を起して穀物を 籾殻、玄米、塵などに選別するための農具です。部屋の中央に展示してあったのは、実演のためのようでした。

  • 右上の写真入りの説明文には、『米がやってきた』のタイトルがありました。日本で米が作られるようになったのは、弥生時代早期(縄文時代晩期)で始まる説明文でした。

    右上の写真入りの説明文には、『米がやってきた』のタイトルがありました。日本で米が作られるようになったのは、弥生時代早期(縄文時代晩期)で始まる説明文でした。

  • 『米がやってきた』のタイトルがあった説明文のズームアップ光景です。弥生時代早期の稲作は北九州に始まり、急速に全国に広がったと説明されていました。また、青森では弘前市の砂沢遺跡で弥生時代早期の水田跡が見付かったことも粗油買いされていました。

    『米がやってきた』のタイトルがあった説明文のズームアップ光景です。弥生時代早期の稲作は北九州に始まり、急速に全国に広がったと説明されていました。また、青森では弘前市の砂沢遺跡で弥生時代早期の水田跡が見付かったことも粗油買いされていました。

  • 『クルミ(胡桃)』<br />長七谷内貝塚出土<br />縄文時代早期<br />

    『クルミ(胡桃)』
    長七谷内貝塚出土
    縄文時代早期

  • 『クルミ(胡桃)』<br />長七谷内貝塚出土<br />縄文時代早期<br /><br />先程の写真のズームアップです。

    『クルミ(胡桃)』
    長七谷内貝塚出土
    縄文時代早期

    先程の写真のズームアップです。

  • 『クリ(栗)』<br />松ヶ崎遺蹟出土<br />縄文時代中期

    『クリ(栗)』
    松ヶ崎遺蹟出土
    縄文時代中期

  • 『トチノミ(栃の実)』<br />風張1遺跡出土<br />縄文時代後期

    『トチノミ(栃の実)』
    風張1遺跡出土
    縄文時代後期

  • 『トチノミ(栃の実)』の出土品の表示パネルの光景です。トチノキ(栃の木)は、ムクロジ科(クロンキスト体系ではトチノキ科)トチノキ属の落葉広葉樹です。現代でも実が食用にされます。

    『トチノミ(栃の実)』の出土品の表示パネルの光景です。トチノキ(栃の木)は、ムクロジ科(クロンキスト体系ではトチノキ科)トチノキ属の落葉広葉樹です。現代でも実が食用にされます。

  • 『クルミ(胡桃)』<br />風張1遺跡出土<br />縄文時代後期

    『クルミ(胡桃)』
    風張1遺跡出土
    縄文時代後期

  • 『クルミ(胡桃)』の出土品の表示パネルの光景です。クルミ(胡桃、山胡桃)は、クルミ科クルミ属の落葉高木の総称です。

    『クルミ(胡桃)』の出土品の表示パネルの光景です。クルミ(胡桃、山胡桃)は、クルミ科クルミ属の落葉高木の総称です。

  • 『石皿(いしざら)』<br />松ヶ崎遺蹟出土<br />縄文時代中期

    『石皿(いしざら)』
    松ヶ崎遺蹟出土
    縄文時代中期

  • 『磨石(すりいし)』<br />松ヶ崎遺蹟出土<br />縄文時代中期

    『磨石(すりいし)』
    松ヶ崎遺蹟出土
    縄文時代中期

  • 『在地の土器と外来系の土器」のタイトルがあった展示です。中央から左側が『外来系の土器』、右側が『在来の土器』の展示です。『縄文時代からのムラが、その伝統を残しながら、弥生文化を受け入れてきた』と考証されていました。

    『在地の土器と外来系の土器」のタイトルがあった展示です。中央から左側が『外来系の土器』、右側が『在来の土器』の展示です。『縄文時代からのムラが、その伝統を残しながら、弥生文化を受け入れてきた』と考証されていました。

  • これから先は、発掘調査の上再建された根城跡の見学です。その入口にあった、『八戸市・史蹟根城の広場・入口』の標識です。

    これから先は、発掘調査の上再建された根城跡の見学です。その入口にあった、『八戸市・史蹟根城の広場・入口』の標識です。

  • 樹木も剪定され、綺麗に整備された『史蹟根城の広場・入口』の付近の光景です。根城は、1941年(昭和16年)12月に国の史跡に指定されました。

    樹木も剪定され、綺麗に整備された『史蹟根城の広場・入口』の付近の光景です。根城は、1941年(昭和16年)12月に国の史跡に指定されました。

  • 根城の略史の紹介です。1333年(元弘3年、正慶2年)、 南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向しました。父の後醍醐天皇は、第96代天皇にして、南朝の初代天皇です。下向の時、甲斐国波木井の地頭職だった南部師行も同行し、国代に任じられました。写真は、『史蹟根城の広場』の入口門の光景です。かつては、旧八戸城の東門でした。

    イチオシ

    根城の略史の紹介です。1333年(元弘3年、正慶2年)、 南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向しました。父の後醍醐天皇は、第96代天皇にして、南朝の初代天皇です。下向の時、甲斐国波木井の地頭職だった南部師行も同行し、国代に任じられました。写真は、『史蹟根城の広場』の入口門の光景です。かつては、旧八戸城の東門でした。

  • 根城の略史の紹介を続けます。義良親王の読み方は、『のりよし』または、『のりなが』ですが、私は『のりなが親王』として覚えていました。後醍醐天皇の跡を継いで、南北朝時代の第97代の後村上天皇となりました。南朝の第2代天皇にも当たります。明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった経緯があります。写真は、『史蹟根城の広場』の平面図です。

    根城の略史の紹介を続けます。義良親王の読み方は、『のりよし』または、『のりなが』ですが、私は『のりなが親王』として覚えていました。後醍醐天皇の跡を継いで、南北朝時代の第97代の後村上天皇となりました。南朝の第2代天皇にも当たります。明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった経緯があります。写真は、『史蹟根城の広場』の平面図です。

  • 『史蹟根城の広場』の光景です。根城跡のメインの施設は、先程の平面図に記された西側(左側)にある本丸跡にあります。現在は空堀ですが、かつては水を湛えた堀に囲まれた高台でした。

    『史蹟根城の広場』の光景です。根城跡のメインの施設は、先程の平面図に記された西側(左側)にある本丸跡にあります。現在は空堀ですが、かつては水を湛えた堀に囲まれた高台でした。

  • 現在は緩やかな底の形をした空堀となった、北側方面の堀跡の光景です。

    現在は緩やかな底の形をした空堀となった、北側方面の堀跡の光景です。

  • 同じく、現在は緩やかな底の形をした空堀となった、北側方面の堀跡の光景です。堀跡を歩けるように、階段が設けてありました。

    同じく、現在は緩やかな底の形をした空堀となった、北側方面の堀跡の光景です。堀跡を歩けるように、階段が設けてありました。

  • 現在は緩やかな底の形をした空堀となった、南側方面の堀跡の光景です。根城が廃城となったのは、江戸時代の寛永4年(1627年)でしたが、堀などの遺構の保存状態は良いようです。

    現在は緩やかな底の形をした空堀となった、南側方面の堀跡の光景です。根城が廃城となったのは、江戸時代の寛永4年(1627年)でしたが、堀などの遺構の保存状態は良いようです。

  • 『堀跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査時の朱阿新が添えられていましたが、かつてはV字形に彫られた空堀とされます。城郭の東側を守る重要施設だったようです。

    『堀跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査時の朱阿新が添えられていましたが、かつてはV字形に彫られた空堀とされます。城郭の東側を守る重要施設だったようです。

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