2017/12/05 - 2017/12/05
74位(同エリア230件中)
アリヤンさん
木枯らしにアラレ、最悪な天候に耐えながら初瀬路古道の探索は続きます。
今も生活道として使われている古道の痕跡を探すのは難しいものです。
詳しい研究本を見ながら、右往左往・前後行ったり来たりするので時間がかかります。
自転車のスピードでは速すぎて、まさに歩きのスピードでないと目に留まらないものが多いのです。
手はかじかむし、鼻水は垂れるわ、本を出したり直したり、自転車を走らせたり止まったり・後戻りしたり・行きすぎたり。
昔の道を走るのは大変なんですよ~
でも時空を超えて発見する地蔵や石碑や古い町並みを見るにつけ、しばしタイムトラベルができるのです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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国道165号線をまたいで渡ると、苔むした高い石段があった。
下から見上げるとかすかに鳥居らしきものが見え、神社があることがうかがわれる。 -
「鹿高(かたか)智護神社」である。
思兼神(おもひかね:日本の神話に出てくる知恵をつかさどる神)を祀っていた。 -
智護神社の境内から名張方面を見下ろす。
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神社より降りて宇陀川沿いの隘路に入ってすぐにこの「庚申堂」がある。
元禄二年(1689年)建立。あの「赤穂浪士討ち入り事件」以前のことです。
*庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ):道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた三つの虫。」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。(ウィキ) -
イチオシ
連子格子の旧家が並ぶ隘路。
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川底が大きな岩盤となって清らかな水が流れる宇陀川の兵頭瀬(ひよどせ)と呼ばれる川の流れ。
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しばらく宇陀川沿いに北上。
突然、こんな鳥居。
てっきりここが鹿高(かたか)神社だと思ったが、社がみえないので今はもう無くなったのか?
名前からしてここらには昔はよく鹿が出ていたのか? -
鳥居の左手を見て、ンッ!?っと反応。
「菅笠日記」「本居宣長」とある石碑。 -
本居宣長は江戸時代の国学者、ということは高校の教科書で名前だけは知っていた。
それに今探索中の初瀬路古道でも名張の桔梗が丘駅裏手で、本居宣長が散策したという山道を最近おとずれたばかしでした。
*本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。末裔には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。(ウィキ)
「菅笠日記」は彼が初瀬路を訪れたときに書いた日記のこと。
*伊勢神宮とを結ぶ道路のうち、初瀬街道は比較的平地が多い街道としてよく利用されていた。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている。 桜井市 初瀬 宇陀市 萩原 (伊勢本街道との分岐・追分) 名張市 鹿高 - 名張 - 新田 伊賀市 阿保 - 伊勢路 津市(ウィキ)
古道探索で思わぬ日本史の勉強になっている。
学生のころから世界史の方だけに興味があって日本史をおろそかにしてきたが、こうなると日本の歴史も面白い。 -
宇陀川沿いの鳥居から少し神社敷地に入って、この神社の社本体が国道の向こうにあることに気づいた。
国道を挟んで、合掌。 -
イチオシ
鹿高神社より北上しばらくして「しずみ橋(沈橋)」という名の昔の橋があることは持っている本で知っていた。
コレです。
見て、なぜ「沈み」なのか納得。
本名は「猪尻橋」という。 -
その「沈橋」のたもとの「水神」石碑。
享和2年(1802年)建立。
十返舎一九による東海道中膝栗毛の初刷り開始、という時代のものです。 -
すぐに国道165号線に合流してしばらくすると「坂之下橋」。
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国道わきに佇む「地蔵道標」。
初瀬街道に面する奈良街道の登り口に立ち、「右ならみち」と刻まれている。
笠間峠を越えるこの道は、奈良時代には名張から奈良へ向かう重要な道であった。
っと持参の本に書かれてあったのを見て、以前に自転車で笠間峠越えをしたことを思い出した。⇒https://4travel.jp/travelogue/10271467 -
「右ならみち」と確かに書いてある、と思う。
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この坂の下の交差点には「天下錦」ブランドの清酒酒造店があり、酒蔵わきの「水神」碑を探し出すのにかなり苦労した。
文化元年(1804年)建立。
*ロシア使節ニコライ・レザノフが通商を求め長崎へ来た時代。 -
坂の下橋を対岸に渡りしばし東南下。
赤目四十八滝から流れてきている宇陀川のもう一つの支流「滝川」が見えてくる。
その支流にかかる「丈六橋」を渡ったところ、橋に向かって右手に川原石の道標がある。
「右はせミち是より五里、南無阿弥陀仏、左りゅうぐうミち」と明和6年(1769年)の日付が刻まれている。
*江戸幕府第10代将軍徳川家治の治世の時代である。 -
丈六橋の東詰めには「水神碑」。
安政6年(1859年)に川が決壊し、村が大被害をこうむったため建立された。 -
この「水神碑」のいわれの案内板。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9912/IMG_0071.JPG -
イチオシ
水神碑より初瀬路を東北に少し進むと、常夜灯が見える。
ここのは珍しく二基の常夜灯が並んでいる。
常夜灯のあいだの道をまっすぐ行くと八幡神社がある。
いわゆる「はちまん」さんへの参道で二基の常夜灯はその入り口なのだ。 -
常夜灯のわきにはこのような用水路があり、今も清らかな水がサラサラ流れている。
かつて日本の田舎ではどこでも山からの水の流れてくる溝があり、住宅街でもその清流の流れ込む箇所では手ですくって水が飲めた。その後ろでは野菜などが洗われ、次に食器やら洗濯物がゆすがれたりしていたものです。
この「かつて」はワタクシの小さなころ、約60年くらい前の我が故郷の播州赤穂の商屋町での実体験です。
ここの初瀬路古道の溝には赤目四十八滝の水も流れてきたはずだから、その昔はさぞかしうまかったに違いないと、想像します。
さて、ワタクシの初瀬路古道のサイクリングはまだ続きます。 -
今回のサイクリング・マップ。
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