2017/12/05 - 2017/12/05
118位(同エリア243件中)
アリヤンさん
木枯らし吹き、時々アラレ吹きすさぶ中、指先は凍っても初瀬路古道の探索は続きます。
でも正直「もう早くあきらめて暖かい我が家に帰りたいなあ!!」であった。
あまりに寒い天候なのでランチも食べずに古道に集中。
お天気さえ良ければ、どこか静かなところでガスボンベで湯を沸かしインスタント味噌汁でも作って持参のお弁当でも食べようと、すべて運んできましたが、時々アラレでは、ゆっくりできませんでした。
ランチは我が家でゆっくりだ!
早く予定のシゴト?を済ませよう!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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赤目丈六、八まんさんの常夜灯から再出発です。
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少し進むと「丈六寺」。
真言宗。鎌倉時代から室町時代にかけてはもっと大きな地域をしめていたというが、安土桃山時代の「天正伊賀の乱」で全焼したといわれている。
現在の本堂は寛政4年(1792年)に再建されたらしい。
ここ赤目も伊賀忍者の里であったのだ。
*「天正伊賀の乱」は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。(ウィキ)
*今年2017年5月に封切られた映画「忍びの国」でも放じられた。 -
本堂への入り口西側の道標。
みぎの道標に「伊賀西国第二十八番霊場」と刻まれている。
左の道標には「左一ノ井大師堂十三丁」と刻まれている。 -
丈六寺から少し東に進むと、側溝をまたいで古い道標が鉄柵に囲まれて立っている。
天保14年(1843年)建立。阿弥陀寺西の街道脇。旧赤目滝道との三叉路にあったのをここに移動されたらしい。
「右はせむろう道 左あめが(可)堂(た)き」と刻まれている。
天保時代では楕円形の「天保通寶」が発行され「天保の大飢饉」が起こり「大塩平八郎の乱」、「お伊勢さんのお陰まいり」が流行った時代である。 -
イチオシ
先ほどの「みちしるべ」をちょっと進むと、このようなお地蔵様がならんでいる。
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木の陰に隠れて分かりにくいが斯様な石碑が立っていた。
「やくよけ阿弥陀寺」とある。 -
左側に障子破れた小さな荒れ寺があり、右奥にはいかにも古い墓地が見える。
現在は廃寺となった「阿弥陀寺」のいわれ。 -
阿弥陀寺まえの溝には今も清らかな水がサラサラと先を急いでいる。
初瀬路はこの先の赤目丈六の交差点」で左に曲がって165号線に合流する道と、直進して名張箕輪の新町橋方面に行く道とに分かれている。
当方はそのまま直進北上です。 -
宇陀川沿いに北上、名張川との合流地点の黒田橋のたもと、古い「みちしるべ」があります。
「右 はせ・なら みち」 -
イチオシ
「左 あめがたき」
と刻まれている。
天保15年(1844年)のもの。 -
となりに天保3年(1832年)の川原石の道標、供養碑がある。
ここの黒田橋で赤目丈六交差点から分かれた初瀬路とこちらの初瀬路が合流して、名張川にかかる新町橋に繋がる。
新町橋を渡ると名張市旧町の隘路を少し東に進み名張市中心地へと走る。 -
途中「やなせ宿」があったり、「梁瀬稲荷神社」があったりと
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旧下町風情がつづき、
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イチオシ
イオン名張店のすぐそばに出る。
名張街道と交差する地点に立つ宇流冨志禰神社鳥居の「一の鳥居」とそばに立つ街道名残の松。
「伊勢お陰まいり」の盛んな頃、鳥居の下で名物の焼き餅やお茶をだしてもてなした、という。 -
昔ながらの「梁瀬水路」が今も流れる。
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しばらく国道と並行した隘路の下町筋を進み、道なりに一旦国道165号線に合流し、すぐにまた東側の隘路に離れるとのどかな田園風景。
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その後本来の初瀬路は田んぼ、畑の中に消えている。
そのたんぼ、畑の道を国道沿いに北東進。
のどかである。 -
蔵持(くらもち)あたりで国道と合流すると、シャックリ川を渡る小さな橋のたもとに大きな常夜灯と4つの石碑が立ってある。
常夜灯は「湯舟谷開路碑」。
明治17年建立。もとは開立坂の登り口にあったものをここに移設。
右隣の石碑は「二月堂はん」
明治24年建立。二月堂の東香水講の記念碑。
その右2つの石碑はここの橋名がしるされた石柱で「まちだ橋」と記されている。 -
名張川の支流「シャックリ川」
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橋を渡るとすぐ左側に隘路がある。
本来の初瀬路だ。
この旧家並ぶ狭い道は途中で道路で寸断されている。 -
寸断された向かい側に木立に隠れた説明板が見え隠れする。
なにやら、とよく見てみると、江戸時代の国学者・本居宣長(伊勢の出身)が初瀬路を巡ってここ、開立坂(かいだてさか)に出てきた。彼の残した紀行記「菅笠日記」に「蔵持里」の地名が記されている、云々とある。
明和九年1772年のことである。 -
横切る道をへだてて「開立坂」登りくちがある。
ちょうど民家の駐車場の続きにあるので、最初少しためらった。
でもコンクリの道が続いており、その先は山の中に入って行くようなので、コレが本居宣長の歩いた初瀬路だと確信した。 -
ワタクシの自転車はマウンテン・バイクなので山道もドンドン走れます。
ここは近鉄大阪線・桔梗が丘駅のすぐ裏で、桔梗が丘団地が広がっているはずです。
30数年前に桔梗が丘駅の裏にやってきたことがあるが、裏全体が山になっていて団地は駅東側一帯に広がっていた。
30年くらいまえに近鉄がこの山を崩して新しい住宅地を大開発したのです。
それで、初瀬路古道・開立峠は見事に無機質な団地となってしまったのです。
この場所がまさに開立坂で本居宣長は団地の北側の新田や里方面からここ開立峠を越えてこの坂にやって来たわけです。
ワタクシとは逆方向です。
本居宣長のことをもっと詳しく知っていれば、こんな古道ではその姿が思い浮かべることができたかも知れません。まさにイルージョンの世界だろう。
でもその想像力が残念ながらアリマセン! -
枯れ葉積もる坂を少し登ると右手に高い「道中安全」碑が屹立しています。
静かです。
この峠道はどこまであるのか? -
すぐにその答えが出ました。
現代の道に削り取られていました。
初瀬路はこのまま桔梗が丘西の団地内を通っており、今はもう存在しません。 -
イチオシ
開立坂を下ります。
無機質なニュータウンのすぐソバにもこのような「哲学の道」ようなシックな空間があったのは驚きでした。 -
初瀬路が消えたので、仕方なく団地前の道路を北上した。
旧国道368号線、現在「鉛街道」と呼ばれている道です。
自転車が走るスペースが数センチしかないので注意が必要です。
桔梗が丘団地が終わり西原町、東田原に出て左側に「殿塚古墳」の小さなこんもりがある。
安永2年(1773年)建立の「供養碑」が祠の中にある。
ここから初瀬路古道はまた始まる。 -
供養碑をま近にみると、表面にはワシかタカが木の枝にとまっている図柄が刻まれている。
この古墳は誰のものかはわからない。 -
その隣にお地蔵さん。
本体は古いものだがガワは非常に新しい。 -
殿塚古墳のわきを見やると、開立峠からの山道が残っていた。
これが本来の初瀬路古道なのだろう。
かすかだが古道の跡が残っていた。 -
今回の初瀬路探索ルート。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9912/Akame-NabariKaidateMap.jpg
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