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その1の続きです。<br />神楽坂から大久保通りを越えて、箪笥町、横寺町、赤城元町、矢来町、榎町から早稲田南町までです。早稲田大学までは行きつけませんでした。<br />なんだかその1、その2、特にその2の後半は夏目漱石特集みたいになってしまいました。それだけ神楽坂から牛込、早稲田界隈は漱石が若い時も晩年も深く関わり続けた地だったのです。<br /><br />写真は夏目漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。

東京文学・歴史散歩13。神楽坂から早稲田までその2:牛込の台地を歩く。

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2017/12/02 - 2017/12/02

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ベーム

ベームさん

その1の続きです。
神楽坂から大久保通りを越えて、箪笥町、横寺町、赤城元町、矢来町、榎町から早稲田南町までです。早稲田大学までは行きつけませんでした。
なんだかその1、その2、特にその2の後半は夏目漱石特集みたいになってしまいました。それだけ神楽坂から牛込、早稲田界隈は漱石が若い時も晩年も深く関わり続けた地だったのです。

写真は夏目漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。

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  • その2の地図です。<br />右下の宮城道雄記念館から大久保通りを渡り、地図左の漱石山房記念館まで。

    その2の地図です。
    右下の宮城道雄記念館から大久保通りを渡り、地図左の漱石山房記念館まで。

  • 宮城道雄記念館から大久保通りに出てきました。地下鉄大江戸線の牛込神楽坂駅のそばです。

    宮城道雄記念館から大久保通りに出てきました。地下鉄大江戸線の牛込神楽坂駅のそばです。

  • 通りを渡ると幅の狭い袖摺坂という石段があります。そばに公衆便所がありました。

    通りを渡ると幅の狭い袖摺坂という石段があります。そばに公衆便所がありました。

  • 袖摺坂。<br />すれ違うと互いの袖が摺れ合うほど狭い坂です。

    袖摺坂。
    すれ違うと互いの袖が摺れ合うほど狭い坂です。

  • 坂上から。<br />丁度すれ違うお2人がおられます。

    坂上から。
    丁度すれ違うお2人がおられます。

  • 坂を上って突き当りの長源寺を左に。横寺町です。

    坂を上って突き当りの長源寺を左に。横寺町です。

  • 道の左に人家の入り口のフェンスがあります。入っても良いのでしょうか。

    道の左に人家の入り口のフェンスがあります。入っても良いのでしょうか。

  • 多分私道でしょう。こわごわ入っていくと案内板がありました。という事はここまで入っても良いということでしょうか。

    多分私道でしょう。こわごわ入っていくと案内板がありました。という事はここまで入っても良いということでしょうか。

  • 尾崎紅葉旧居跡で、終の棲家となった場所です。横寺町47番地。<br />尾崎紅葉:1868(慶應3年)~1903(明治36年)。<br />東大国文科中退。明治18年、山田美妙、石橋思案らと「硯友社」を設立し雑誌「我楽多文庫」を発刊。東大在学中に読売新聞社入社、新聞連載小説で文名をあげる。明治20年代には幸田露伴とともに紅露時代といわれ文壇の盟主となる。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声、田山花袋などが弟子として集まって来た。<br />晩年は読売新聞社を退社し病を得やや不遇であった。明治36年3月紅葉は胃の不快を訴え東大病院に入院、胃癌を宣告される。癌の治療を断り、余生を気ままに生きる。明治36年10月30日逝去、36歳。墓は青山霊園にある。

    尾崎紅葉旧居跡で、終の棲家となった場所です。横寺町47番地。
    尾崎紅葉:1868(慶應3年)~1903(明治36年)。
    東大国文科中退。明治18年、山田美妙、石橋思案らと「硯友社」を設立し雑誌「我楽多文庫」を発刊。東大在学中に読売新聞社入社、新聞連載小説で文名をあげる。明治20年代には幸田露伴とともに紅露時代といわれ文壇の盟主となる。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声、田山花袋などが弟子として集まって来た。
    晩年は読売新聞社を退社し病を得やや不遇であった。明治36年3月紅葉は胃の不快を訴え東大病院に入院、胃癌を宣告される。癌の治療を断り、余生を気ままに生きる。明治36年10月30日逝去、36歳。墓は青山霊園にある。

  • ここには明治24年から死の明治36年10月まで住んだ。借家だったが自分の号をつけて「十千萬堂(とちまんどう)」と名付けました。<br />作家生活の大部分を過ごした家で、「多情多恨」、「金色夜叉」などが生まれています。泉鏡花、小栗風葉は書生時代ここの玄関の2畳の部屋で玄関番をしていました。<br />鏡花は書いている。「志を述ぶるや、ただちに門下たることを許され、翌日より玄関番を承る。其の中三月は、紅葉先生、令夫人と新婚の当年なりといふ。」<br />

    ここには明治24年から死の明治36年10月まで住んだ。借家だったが自分の号をつけて「十千萬堂(とちまんどう)」と名付けました。
    作家生活の大部分を過ごした家で、「多情多恨」、「金色夜叉」などが生まれています。泉鏡花、小栗風葉は書生時代ここの玄関の2畳の部屋で玄関番をしていました。
    鏡花は書いている。「志を述ぶるや、ただちに門下たることを許され、翌日より玄関番を承る。其の中三月は、紅葉先生、令夫人と新婚の当年なりといふ。」

  • 紅葉と同年の生まれながらその文壇へのスタートは紅葉の死後だった夏目漱石は紅葉について、紅葉の作品は後世まで生き残らないだろう、と評しています。はたして今日寛一お宮の名は知っていても実際に「金色夜叉」や「多情多恨」を読んだ人は少ないのではないでしょうか。<br /><br />横寺町の大家といわれ文壇の盟主だった紅葉の家には、さぞかし多くの文士、ジャーナリストたちが訪れたことでしょう。<br />建物は戦災で焼失したが、今も当時の持ち主のご子孫が住んでおられるという。

    紅葉と同年の生まれながらその文壇へのスタートは紅葉の死後だった夏目漱石は紅葉について、紅葉の作品は後世まで生き残らないだろう、と評しています。はたして今日寛一お宮の名は知っていても実際に「金色夜叉」や「多情多恨」を読んだ人は少ないのではないでしょうか。

    横寺町の大家といわれ文壇の盟主だった紅葉の家には、さぞかし多くの文士、ジャーナリストたちが訪れたことでしょう。
    建物は戦災で焼失したが、今も当時の持ち主のご子孫が住んでおられるという。

  • 表の通りはこんな景色。右の材木が立てかけられている手前が旧居跡の入り口です。<br />11月2日の葬儀の日は2千人の会葬者でこの通りは人で埋まりました。<br />柩は終の棲家を出て、神楽坂、お濠端を市ヶ谷、四谷見付へと出て青山墓地へと向かいました。小栗風葉が香炉を、泉鏡花が位牌を捧げ門人弟子一同いずれも足袋裸足だったそうです。<br />辞世の句。<br />”死なば秋  露のひぬまぞおもしろき”

    表の通りはこんな景色。右の材木が立てかけられている手前が旧居跡の入り口です。
    11月2日の葬儀の日は2千人の会葬者でこの通りは人で埋まりました。
    柩は終の棲家を出て、神楽坂、お濠端を市ヶ谷、四谷見付へと出て青山墓地へと向かいました。小栗風葉が香炉を、泉鏡花が位牌を捧げ門人弟子一同いずれも足袋裸足だったそうです。
    辞世の句。
    ”死なば秋  露のひぬまぞおもしろき”

  • 尾崎紅葉旧居跡の前の通りを早稲田通りの方に歩くと円福寺というお寺があります。1596年加藤清正の創建。<br />泉鏡花夫人すずの墓があります。<br />伊藤すず:明治14~昭和25年。神楽坂で桃太郎の名で芸妓をしているとき泉鏡花に見初められ同棲、尾崎紅葉の死後結婚する。

    尾崎紅葉旧居跡の前の通りを早稲田通りの方に歩くと円福寺というお寺があります。1596年加藤清正の創建。
    泉鏡花夫人すずの墓があります。
    伊藤すず:明治14~昭和25年。神楽坂で桃太郎の名で芸妓をしているとき泉鏡花に見初められ同棲、尾崎紅葉の死後結婚する。

  • 泉鏡花の墓は雑司ヶ谷霊園にありますが、なぜか夫人の墓はここなのです。夫人の意志だったそうです。自分の出自をおもんばかったのか。<br />墓所には入れませんでした。

    泉鏡花の墓は雑司ヶ谷霊園にありますが、なぜか夫人の墓はここなのです。夫人の意志だったそうです。自分の出自をおもんばかったのか。
    墓所には入れませんでした。

  • 昔の円福寺の賑わい。

    昔の円福寺の賑わい。

  • さらに進むと、

    さらに進むと、

  • 左に入る路地があります。

    左に入る路地があります。

  • 路地際のアパートの塀際に立つ案内板。<br />路地の入口にはなんの標識もなくうっかり通り過ぎてしまいそうです。

    路地際のアパートの塀際に立つ案内板。
    路地の入口にはなんの標識もなくうっかり通り過ぎてしまいそうです。

  • ここが島村抱月と松井須磨子が活動の拠点とし、亡くなった芸術倶楽部があった所です。<br />早稲田大学で教え、早稲田文学を主宰していた抱月は明治39年、師坪内逍遥と文芸協会設立に参加した。ここにイプセンの「人形の家」のノラを体現したような女、松井須磨子が現れたのです。今を時めく大学教授・脚本・演出家と女優。妻子ある抱月と須磨子との不倫関係は醜聞となり、二人は大正2年文芸協会を脱会し芸術座を立ち上げ、この横寺町に活動の拠点芸術倶楽部を建てました。

    ここが島村抱月と松井須磨子が活動の拠点とし、亡くなった芸術倶楽部があった所です。
    早稲田大学で教え、早稲田文学を主宰していた抱月は明治39年、師坪内逍遥と文芸協会設立に参加した。ここにイプセンの「人形の家」のノラを体現したような女、松井須磨子が現れたのです。今を時めく大学教授・脚本・演出家と女優。妻子ある抱月と須磨子との不倫関係は醜聞となり、二人は大正2年文芸協会を脱会し芸術座を立ち上げ、この横寺町に活動の拠点芸術倶楽部を建てました。

  • 芸術座の活動は「サロメ」、「復活」、「アンナ・カレニナ」、「人形の家」など西洋翻訳劇を中心に人気を集めます。須磨子の歌う「復活」のなかのカチューシャの唄は大ヒットしました。<br />ところが大正7年11月、抱月は折から流行ったスペイン風邪で芸術倶楽部の一室で急逝してしまいます。抱月の遺骸に取りすがって号泣した須磨子はその2か月後の大正8年1月同じ芸術倶楽部で縊死自殺を遂げました。抱月47歳、須磨子33歳。<br />その跡も今はアパートが建ち、ブロック塀にそこがそうだったことを示すプレートが建つだけです。

    芸術座の活動は「サロメ」、「復活」、「アンナ・カレニナ」、「人形の家」など西洋翻訳劇を中心に人気を集めます。須磨子の歌う「復活」のなかのカチューシャの唄は大ヒットしました。
    ところが大正7年11月、抱月は折から流行ったスペイン風邪で芸術倶楽部の一室で急逝してしまいます。抱月の遺骸に取りすがって号泣した須磨子はその2か月後の大正8年1月同じ芸術倶楽部で縊死自殺を遂げました。抱月47歳、須磨子33歳。
    その跡も今はアパートが建ち、ブロック塀にそこがそうだったことを示すプレートが建つだけです。

  • 文芸協会時代。<br />中央島村抱月と松井須磨子。右坪内逍遥。<br />最前列の中央、いかに須磨子が看板女優だったかが分かります。<br />抱月と須磨子の死については親交のあった薄田泣菫が新聞の随想欄にその思いを書いています。(冨山房刊「茶話」)。須磨子は劇場帰りのままの姿で、薄い化粧が施されていたそうです。

    文芸協会時代。
    中央島村抱月と松井須磨子。右坪内逍遥。
    最前列の中央、いかに須磨子が看板女優だったかが分かります。
    抱月と須磨子の死については親交のあった薄田泣菫が新聞の随想欄にその思いを書いています。(冨山房刊「茶話」)。須磨子は劇場帰りのままの姿で、薄い化粧が施されていたそうです。

  • 早稲田通りに出ました。<br />地下鉄東西線神楽坂駅の近くです。早稲田通りのうち飯田橋の神楽坂下からここら辺りまでを神楽坂通りと云うようです。

    早稲田通りに出ました。
    地下鉄東西線神楽坂駅の近くです。早稲田通りのうち飯田橋の神楽坂下からここら辺りまでを神楽坂通りと云うようです。

  • 矢来能楽堂の案内。

    矢来能楽堂の案内。

  • 音楽の友社があります。

    音楽の友社があります。

  • 音楽の友、レコード芸術などは学生時代、下宿の部屋でレコードをかけながら読みふけったものです。まだ出版が続いているとは息の長い雑誌ですね。レコードは親の仕送りの中から毎日の昼食を抜いてためた金で買っていました。その分ひもじい思いをして痩せていました。その頃LPレコードは1枚1500~2000円ほどでした。親から翌月分の仕送りがあるといの一番にレコード屋に駆け付けました。<br />私が初めて買ったレコードはベートーヴェンの交響曲7番で、カール・ベーム指揮、ウイーンフィルの演奏でした。

    音楽の友、レコード芸術などは学生時代、下宿の部屋でレコードをかけながら読みふけったものです。まだ出版が続いているとは息の長い雑誌ですね。レコードは親の仕送りの中から毎日の昼食を抜いてためた金で買っていました。その分ひもじい思いをして痩せていました。その頃LPレコードは1枚1500~2000円ほどでした。親から翌月分の仕送りがあるといの一番にレコード屋に駆け付けました。
    私が初めて買ったレコードはベートーヴェンの交響曲7番で、カール・ベーム指揮、ウイーンフィルの演奏でした。

  • 地下鉄東西線神楽坂駅から右に入ると牛込の総鎮守赤城神社があります。赤城元町。

    地下鉄東西線神楽坂駅から右に入ると牛込の総鎮守赤城神社があります。赤城元町。

  • 赤城神社の鳥居。

    赤城神社の鳥居。

  • 一杯お店が出ていました。<br />パワースポットばやりの今日、ここは女性に人気のスポットだそうです。

    一杯お店が出ていました。
    パワースポットばやりの今日、ここは女性に人気のスポットだそうです。

  • 伝承によると、起源は1300年、上州赤城山の大胡氏(牛込城の牛込氏の先祖)が牛込に移住したとき、赤城神社の分霊を祀ったことによる、とされています。

    伝承によると、起源は1300年、上州赤城山の大胡氏(牛込城の牛込氏の先祖)が牛込に移住したとき、赤城神社の分霊を祀ったことによる、とされています。

  • 徳川時代に牛込の総鎮守となり、日枝神社、神田明神とともに江戸の三社と称されました。

    徳川時代に牛込の総鎮守となり、日枝神社、神田明神とともに江戸の三社と称されました。

  • スフィンクスの様な狛犬です。

    スフィンクスの様な狛犬です。

  • 社殿は昭和20年戦災で焼失、今のは平成22年建築家隈研吾氏の監修で建てられました。

    社殿は昭和20年戦災で焼失、今のは平成22年建築家隈研吾氏の監修で建てられました。

  • 硝子張りのモダーンな造りです。

    硝子張りのモダーンな造りです。

  • 境内。

    境内。

  • 明治37年頃の赤城神社。<br />山本松谷:新選東京名所図会。<br /><br />桜が二三分咲きと云ったところでしょうか。早くも待ち焦がれていた人たちが出ています。

    明治37年頃の赤城神社。
    山本松谷:新選東京名所図会。

    桜が二三分咲きと云ったところでしょうか。早くも待ち焦がれていた人たちが出ています。

  • 女性向の小物が人気のようです。

    女性向の小物が人気のようです。

  • 境内の横にカフェがあったので一休み。あかぎカフェと云う名前です。<br />境内内にマンションを建てたりカフェを併設したり、商売熱心な神社です。課税関係はどうなっているのでしょう。なんのかんのと理屈をつけて免れているのでは。<br />先日事件のあった富岡八幡宮の宮司も豪遊していたとか、人気のある神社仏閣にはうなるほどお金があるようです。

    境内の横にカフェがあったので一休み。あかぎカフェと云う名前です。
    境内内にマンションを建てたりカフェを併設したり、商売熱心な神社です。課税関係はどうなっているのでしょう。なんのかんのと理屈をつけて免れているのでは。
    先日事件のあった富岡八幡宮の宮司も豪遊していたとか、人気のある神社仏閣にはうなるほどお金があるようです。

  • カプチーノを注文したら出てきました。

    カプチーノを注文したら出てきました。

  • 崩すのが勿体なくてしばらく見ていました。

    崩すのが勿体なくてしばらく見ていました。

  • 境内の片隅。

    境内の片隅。

  • 一つの祠で出世稲荷神社、八耳(やつみみ)神社、東照宮/葵神社の三つを賄っています。お賽銭箱は別々。

    一つの祠で出世稲荷神社、八耳(やつみみ)神社、東照宮/葵神社の三つを賄っています。お賽銭箱は別々。

  • 社殿の裏の方に回ってみました。

    社殿の裏の方に回ってみました。

  • 手押しポンプです。

    手押しポンプです。

  • 赤城神社の裏は高い崖になっています。<br />赤城神社と文学の関係は野田宇太郎氏によると、<br />この崖の上あたりに明治時代清風亭という貸席がありました。坪内逍遥、島村抱月らが演劇の研究会を開いたり、早稲田の文科の学生が集まったりしています。北原白秋、長田秀雄、河井酔茗、人見東明などが集まった「新体詩同好会」の会場でもありました。

    赤城神社の裏は高い崖になっています。
    赤城神社と文学の関係は野田宇太郎氏によると、
    この崖の上あたりに明治時代清風亭という貸席がありました。坪内逍遥、島村抱月らが演劇の研究会を開いたり、早稲田の文科の学生が集まったりしています。北原白秋、長田秀雄、河井酔茗、人見東明などが集まった「新体詩同好会」の会場でもありました。

  • その後大正時代に清風亭は長生館という下宿屋になって、片上伸、近松秋江が居たことがあります。<br />いずれにしても早稲田が近い所から、早稲田派の文人、学生がこの界隈には多かったのでしょう。<br />早稲田派の 忘年会や 神楽坂  正岡子規<br />子規の伝記などを読んでも早稲田とか神楽坂は縁がなさそうですが。

    その後大正時代に清風亭は長生館という下宿屋になって、片上伸、近松秋江が居たことがあります。
    いずれにしても早稲田が近い所から、早稲田派の文人、学生がこの界隈には多かったのでしょう。
    早稲田派の 忘年会や 神楽坂  正岡子規
    子規の伝記などを読んでも早稲田とか神楽坂は縁がなさそうですが。

  • 神社の横手から降りました。

    神社の横手から降りました。

  • 赤城坂。

    赤城坂。

  • 赤城神社のそばにあるから赤城坂。もっともです。

    赤城神社のそばにあるから赤城坂。もっともです。

  • 赤城坂。

    赤城坂。

  • 亀井堂というパン屋、はやっていそうです。

    亀井堂というパン屋、はやっていそうです。

  • 早稲田通りに戻りました。矢来町に入っています。<br />よく早稲田から神楽坂に通った夏目漱石、その往来はこの道だったのでしょう。<br />漱石の小品「硝子戸の中」によると、(早稲田から神楽坂に出るのに)「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森(いんしん)として、大空が曇ったように始終薄暗かった」

    早稲田通りに戻りました。矢来町に入っています。
    よく早稲田から神楽坂に通った夏目漱石、その往来はこの道だったのでしょう。
    漱石の小品「硝子戸の中」によると、(早稲田から神楽坂に出るのに)「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森(いんしん)として、大空が曇ったように始終薄暗かった」

  • 神楽坂駅。<br />早稲田方面へ歩きます。

    神楽坂駅。
    早稲田方面へ歩きます。

  • しばらく歩いて牛込中央通りを左に。

    しばらく歩いて牛込中央通りを左に。

  • 新潮社です。<br />明治29年秋田人佐藤義亮が起こした新聲社が前身。それは失敗し、明治37年新潮社を設立、文芸誌「新潮」発刊、これは名編集長中村武羅夫を迎え佐藤紅緑、小栗風葉、真山青果、徳田秋声、生田長江などの執筆人を抱え、「中央公論」、「改造」と並ぶ総合雑誌に成長していった。<br />大正3年新潮文庫発刊。昭和31年には雑誌社で初めての週刊誌「週刊新潮」発刊。<br />当時「中央公論」は瀧田樗陰(ちょいん)、「改造」は山本実彦、「新潮」は中村武羅夫と名編集者を持ち、雑誌の消長は編集者次第だった。一部高名な作家を除き多くの文士たちはそれら編集者へ売り込むのに懸命だった。<br />

    新潮社です。
    明治29年秋田人佐藤義亮が起こした新聲社が前身。それは失敗し、明治37年新潮社を設立、文芸誌「新潮」発刊、これは名編集長中村武羅夫を迎え佐藤紅緑、小栗風葉、真山青果、徳田秋声、生田長江などの執筆人を抱え、「中央公論」、「改造」と並ぶ総合雑誌に成長していった。
    大正3年新潮文庫発刊。昭和31年には雑誌社で初めての週刊誌「週刊新潮」発刊。
    当時「中央公論」は瀧田樗陰(ちょいん)、「改造」は山本実彦、「新潮」は中村武羅夫と名編集者を持ち、雑誌の消長は編集者次第だった。一部高名な作家を除き多くの文士たちはそれら編集者へ売り込むのに懸命だった。

  • 裏に佐藤と表札のある大きな邸宅があります。<br />今も新潮社の経営は創業者一族が担っています。<br />広津柳浪が住んでいたのもこの辺りです。

    裏に佐藤と表札のある大きな邸宅があります。
    今も新潮社の経営は創業者一族が担っています。
    広津柳浪が住んでいたのもこの辺りです。

  • 新潮社の裏辺り、夏目漱石夫人中根鏡子の実家があった所です。<br />鏡子の父中根重一は貴族院書記官長まで務めた人でしたが、退官後相場に失敗し貧乏しました。漱石は金銭的な援助はいくらかしましたが、借金の保証人の判をつくのは断ったそうです。<br />漱石のイギリス留学中、鏡子と子供はここに住んでいます。漱石も帰国後千駄木の借家を見つけるまでしばらく厄介になっていました。<br />その留学中留守宅手当月25円、そこから建艦費が差し引かれ月22円強で生活していた鏡子の生活はとても苦しいものでした。帰国した漱石が目にした妻の姿はみすぼらしいものだったそうです。

    新潮社の裏辺り、夏目漱石夫人中根鏡子の実家があった所です。
    鏡子の父中根重一は貴族院書記官長まで務めた人でしたが、退官後相場に失敗し貧乏しました。漱石は金銭的な援助はいくらかしましたが、借金の保証人の判をつくのは断ったそうです。
    漱石のイギリス留学中、鏡子と子供はここに住んでいます。漱石も帰国後千駄木の借家を見つけるまでしばらく厄介になっていました。
    その留学中留守宅手当月25円、そこから建艦費が差し引かれ月22円強で生活していた鏡子の生活はとても苦しいものでした。帰国した漱石が目にした妻の姿はみすぼらしいものだったそうです。

  • 新潮社の先の路地を右に入ると矢来能楽堂があります。

    新潮社の先の路地を右に入ると矢来能楽堂があります。

  • 矢来能楽堂。矢来町60番地。<br />矢来観世流の本拠地。

    矢来能楽堂。矢来町60番地。
    矢来観世流の本拠地。

  • 昭和27年建築で国登録有形文化財。

    昭和27年建築で国登録有形文化財。

  • 都内の能楽堂では2番目に古いそうです。

    都内の能楽堂では2番目に古いそうです。

  • 玄関。

    玄関。

  • 矢来の住宅地。<br />矢来は夏目漱石の三兄、和三郎/直矩が住んでいた街です。鏡子夫人は”矢来の兄さん”と呼んでいました。漱石の機嫌の悪い時、家族に暴力を振るうときなど、よくとりなしを頼んでいます。漱石が夫人に、実家に帰れ、と執拗に迫る時は夫人を慰めて力づけてくれたそうです。<br />鏡子の実家の母や親戚筋が「あんな精神病の男の所にいないで実家に帰ったらどうか」と云うと、鏡子は「私が不貞をはたらいたとでも言うならともかく、私に落ち度はない。実家に帰れば私は安全だが、夫や子供はどうなる。病気の夫の側で看護するのが妻の役目ではないですか」と主張したそうです。<br />小宮豊隆の漱石伝などで鏡子は悪妻のようにされていますが、実際はそうではないようです。漱石の突発的な錯乱に堪え、家庭と子供を守って辛抱強く包容力のある人だったようです。<br /><br />

    矢来の住宅地。
    矢来は夏目漱石の三兄、和三郎/直矩が住んでいた街です。鏡子夫人は”矢来の兄さん”と呼んでいました。漱石の機嫌の悪い時、家族に暴力を振るうときなど、よくとりなしを頼んでいます。漱石が夫人に、実家に帰れ、と執拗に迫る時は夫人を慰めて力づけてくれたそうです。
    鏡子の実家の母や親戚筋が「あんな精神病の男の所にいないで実家に帰ったらどうか」と云うと、鏡子は「私が不貞をはたらいたとでも言うならともかく、私に落ち度はない。実家に帰れば私は安全だが、夫や子供はどうなる。病気の夫の側で看護するのが妻の役目ではないですか」と主張したそうです。
    小宮豊隆の漱石伝などで鏡子は悪妻のようにされていますが、実際はそうではないようです。漱石の突発的な錯乱に堪え、家庭と子供を守って辛抱強く包容力のある人だったようです。

  • 漱石の小説にも矢来は度々登場します。<br />「彼岸過迄」の主人公須永の叔父、高等遊民を自称する松本は矢来に住んでいることになっています。<br />高等遊民とは、大学など高等教育を受けながら家産があるので仕事にも付かず、読書とか趣味の世界で日々を過ごす人のこと。漱石は、実業家みたいに毎日金の事ばかり心配し、擂鉢の中で擂粉木でこね回されている味噌のような者より、高等遊民のほうがよっぽどましだ、と松本に言わしています。<br />漱石は実業家、官僚、政治家が嫌いで、高等遊民的な人物を小説に登場させています。漱石は金銭的にはとても高等遊民ではありませんが、精神的には高等遊民だったと思います。

    漱石の小説にも矢来は度々登場します。
    「彼岸過迄」の主人公須永の叔父、高等遊民を自称する松本は矢来に住んでいることになっています。
    高等遊民とは、大学など高等教育を受けながら家産があるので仕事にも付かず、読書とか趣味の世界で日々を過ごす人のこと。漱石は、実業家みたいに毎日金の事ばかり心配し、擂鉢の中で擂粉木でこね回されている味噌のような者より、高等遊民のほうがよっぽどましだ、と松本に言わしています。
    漱石は実業家、官僚、政治家が嫌いで、高等遊民的な人物を小説に登場させています。漱石は金銭的にはとても高等遊民ではありませんが、精神的には高等遊民だったと思います。

  • 矢来能楽堂の先に小さな公園があります。

    矢来能楽堂の先に小さな公園があります。

  • 矢来公園。

    矢来公園。

  • 小浜藩主酒井家の下屋敷跡です。

    小浜藩主酒井家の下屋敷跡です。

  • 小浜藩士の子杉田玄白はこの屋敷で生まれました。後に藩医になっています。

    小浜藩士の子杉田玄白はこの屋敷で生まれました。後に藩医になっています。

  • 屋敷の周りに竹矢来をめぐらしていたことから、この地を矢来と呼ぶようになったそうです。

    屋敷の周りに竹矢来をめぐらしていたことから、この地を矢来と呼ぶようになったそうです。

  • 矢来公園。

    矢来公園。

  • 再び三度早稲田通り、矢来天神町の交差点。伸びるのは江戸川橋通り。<br />真っすぐ行くと神田川の江戸川橋に出ます。

    再び三度早稲田通り、矢来天神町の交差点。伸びるのは江戸川橋通り。
    真っすぐ行くと神田川の江戸川橋に出ます。

  • 早稲田通り。

    早稲田通り。

  • 早稲田通りぞいに宗柏寺というお寺があります。榎町です。<br />以前この寺の隣に鰹節屋があり、そこのお神さんが商売に似合わないすらりとした粋な美人だった。夏目漱石は気になりここの前を通るたびに店の中を覗いたそうです。<br />時々その亭主と目が合うと、何か悪い事をしているようで(漱石は)うつむいてしまいます。謹厳な漱石のほほえましいエピソードです。<br />漱石の生涯で夫人以外の女性に関心がありそうだったのは結婚前の学生時代、井上眼科で出会った若い美人、兄嫁登世(とせ)、結婚後の閨秀歌人大塚楠緒子とこの鰹節屋の女房位なものです。しかし漱石の作品のテーマは多くが男女の淡い三角関係なのはどうしてでしょう。しょせんこの世は男と女、しかも三角関係でないと面白くない。

    早稲田通りぞいに宗柏寺というお寺があります。榎町です。
    以前この寺の隣に鰹節屋があり、そこのお神さんが商売に似合わないすらりとした粋な美人だった。夏目漱石は気になりここの前を通るたびに店の中を覗いたそうです。
    時々その亭主と目が合うと、何か悪い事をしているようで(漱石は)うつむいてしまいます。謹厳な漱石のほほえましいエピソードです。
    漱石の生涯で夫人以外の女性に関心がありそうだったのは結婚前の学生時代、井上眼科で出会った若い美人、兄嫁登世(とせ)、結婚後の閨秀歌人大塚楠緒子とこの鰹節屋の女房位なものです。しかし漱石の作品のテーマは多くが男女の淡い三角関係なのはどうしてでしょう。しょせんこの世は男と女、しかも三角関係でないと面白くない。

  • ペット供養碑。<br /><br />漱石のある日の日記にこんなことが書いてあります。<br />「今日も曇り。きのう鰹節屋の御上さんが新しい半襟と新しい羽織を着ていた。派手に見えた。歌麿の描いた女はくすんだ色をしている方が感じがよい」<br />別の日には、<br />「散歩のとき、鰹節屋の御上さんの後姿を久し振りに見る」<br /><br />よほど気になっていたようですね。漱石といえども木石ではなかったようです。<br />

    ペット供養碑。

    漱石のある日の日記にこんなことが書いてあります。
    「今日も曇り。きのう鰹節屋の御上さんが新しい半襟と新しい羽織を着ていた。派手に見えた。歌麿の描いた女はくすんだ色をしている方が感じがよい」
    別の日には、
    「散歩のとき、鰹節屋の御上さんの後姿を久し振りに見る」

    よほど気になっていたようですね。漱石といえども木石ではなかったようです。

  • 釈迦堂。<br />矢来のお釈迦様、と民に慕われています。漱石が癇癪を起すと夏目鏡子は毎日のようにお百度詣りをしていたそうです。<br /><br />漱石は「それから」の中で三千代の容姿に鰹節屋の女房の姿を借りています。<br />主人公代助の言葉です。代助は大学を出ても働かず親の仕送りで生活する高等遊民です。<br />「平岡の細君(三千代)は、色の白いわりに髪の黒い、細面の眉毛の判然映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起こるところが、古版の浮世絵に似ている。」

    釈迦堂。
    矢来のお釈迦様、と民に慕われています。漱石が癇癪を起すと夏目鏡子は毎日のようにお百度詣りをしていたそうです。

    漱石は「それから」の中で三千代の容姿に鰹節屋の女房の姿を借りています。
    主人公代助の言葉です。代助は大学を出ても働かず親の仕送りで生活する高等遊民です。
    「平岡の細君(三千代)は、色の白いわりに髪の黒い、細面の眉毛の判然映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起こるところが、古版の浮世絵に似ている。」

  • 鬼子母神堂。<br /><br />「それから」でさらに続きます。<br />「三千代は美しい線を綺麗に重ねた鮮やかな二重瞼を持っている。目の恰好は細長い方であるが、瞳を据えてじっと物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。」

    鬼子母神堂。

    「それから」でさらに続きます。
    「三千代は美しい線を綺麗に重ねた鮮やかな二重瞼を持っている。目の恰好は細長い方であるが、瞳を据えてじっと物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。」

  • 浄行菩薩。<br /><br />かって代助と三千代は思い思われる中だった。しかし代助は義侠心から友人平岡に三千代を譲った過去がある。<br />職を失い生活苦にあえぐ今の平岡夫婦を見て遂に代助は平岡に、三千代さんを譲ってくれ、と打ち明ける。平岡は承諾するが、そのことを代助の父と兄に通告する。父と兄は怒り代助との縁を切る。仕送りを絶たれた代助は職を探しに家を飛び出す。<br /><br />井上眼科の女、大塚楠緒子も三千代と同じような容姿の女性でした。漱石の好みが分かります。

    浄行菩薩。

    かって代助と三千代は思い思われる中だった。しかし代助は義侠心から友人平岡に三千代を譲った過去がある。
    職を失い生活苦にあえぐ今の平岡夫婦を見て遂に代助は平岡に、三千代さんを譲ってくれ、と打ち明ける。平岡は承諾するが、そのことを代助の父と兄に通告する。父と兄は怒り代助との縁を切る。仕送りを絶たれた代助は職を探しに家を飛び出す。

    井上眼科の女、大塚楠緒子も三千代と同じような容姿の女性でした。漱石の好みが分かります。

  • 六地蔵。<br />人間は死後六つの世界、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上に生まれ変わる。それぞれの苦を救ってくれるのが六地蔵だそうです。<br /><br />兄嫁登世(三兄直矩の妻)が亡くなったとき漱石は正岡子規にこんな俳句を書き送っています。<br />「朝顔や 咲いたばかりの 命かな」 (登世は25歳で亡くなりました。)<br />「君逝きて 浮世に花は なかりけり」<br />「今日よりは 誰に見立てん 秋の月」<br />母を亡くし長兄、次兄を亡くし、身内の死に慣れているものの、兄嫁の死は漱石にとってよほど無念だったようです。また子規への手紙に兄嫁のことをこう評しています。<br />「彼女ほどの人物は男の中にもそうは得られず、ましてや婦人のなかにはおそらく居ないであろう。人間としてはまことに敬服すべき婦人で、節操の毅然たるは申すに及ばず・・・」

    六地蔵。
    人間は死後六つの世界、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上に生まれ変わる。それぞれの苦を救ってくれるのが六地蔵だそうです。

    兄嫁登世(三兄直矩の妻)が亡くなったとき漱石は正岡子規にこんな俳句を書き送っています。
    「朝顔や 咲いたばかりの 命かな」 (登世は25歳で亡くなりました。)
    「君逝きて 浮世に花は なかりけり」
    「今日よりは 誰に見立てん 秋の月」
    母を亡くし長兄、次兄を亡くし、身内の死に慣れているものの、兄嫁の死は漱石にとってよほど無念だったようです。また子規への手紙に兄嫁のことをこう評しています。
    「彼女ほどの人物は男の中にもそうは得られず、ましてや婦人のなかにはおそらく居ないであろう。人間としてはまことに敬服すべき婦人で、節操の毅然たるは申すに及ばず・・・」

  • 平将門一族之霊位。<br />なぜここにあるのか、平将門と宗柏寺の関係は分かりません。<br />東京で平将門と云えば大手町にある将門塚や神田明神ですが。<br />以上宋柏寺。

    平将門一族之霊位。
    なぜここにあるのか、平将門と宗柏寺の関係は分かりません。
    東京で平将門と云えば大手町にある将門塚や神田明神ですが。
    以上宋柏寺。

  • 両社稲荷。<br />赤城神社の末社。

    両社稲荷。
    赤城神社の末社。

  • 宗柏寺を出て弁天町の交差点を左に、外苑東通りを進むと多聞院があります。南榎町です。

    宗柏寺を出て弁天町の交差点を左に、外苑東通りを進むと多聞院があります。南榎町です。

  • 多聞院。<br />ここに松井須磨子の墓があります。

    多聞院。
    ここに松井須磨子の墓があります。

  • 多聞院。

    多聞院。

  • 吉川湊一(そういち)の墓。<br />初耳です。

    吉川湊一(そういち)の墓。
    初耳です。

  • 江戸時代後期の平家琵琶の名人、検校。1748~1829年、紀州熊野の生まれ。

    江戸時代後期の平家琵琶の名人、検校。1748~1829年、紀州熊野の生まれ。

  • 松井須磨子の墓。<br />新劇女優。本名小林正子。1886(明治19)~1919(大正8)年。長野出。<br />17歳の時姉を頼って上京。女優を志す。俳優養成所に入学、明治42年坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。その間2度結婚に失敗している。<br />文芸協会公演の「ハムレット」のオフィーリア、「人形の家」のノラ役で女優の座を確立。

    松井須磨子の墓。
    新劇女優。本名小林正子。1886(明治19)~1919(大正8)年。長野出。
    17歳の時姉を頼って上京。女優を志す。俳優養成所に入学、明治42年坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。その間2度結婚に失敗している。
    文芸協会公演の「ハムレット」のオフィーリア、「人形の家」のノラ役で女優の座を確立。

  • 文芸協会内で妻子ある島村抱月と不倫関係になり醜聞となる。島村抱月は早稲田大学教授を辞職、抱月、須磨子は坪内逍遥と袂を分かち芸術座を結成。<br />芸術座でも「サロメ」、「アンナ・カレーニナ」、「復活」など西洋翻訳劇で人気を博す。「復活」で須磨子が歌う「カチューシャの唄(島村抱月作詞、中山晋平作曲)」はレコードで大ヒットした。<br />”カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに 神に願ひをララかけましょか”

    文芸協会内で妻子ある島村抱月と不倫関係になり醜聞となる。島村抱月は早稲田大学教授を辞職、抱月、須磨子は坪内逍遥と袂を分かち芸術座を結成。
    芸術座でも「サロメ」、「アンナ・カレーニナ」、「復活」など西洋翻訳劇で人気を博す。「復活」で須磨子が歌う「カチューシャの唄(島村抱月作詞、中山晋平作曲)」はレコードで大ヒットした。
    ”カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに 神に願ひをララかけましょか”

  • 大正7年11月、当時はやった流行性感冒スペイン風邪で抱月急死。2か月後の大正8年1月須磨子は抱月の後を追い自殺した。<br />須磨子は遺書で、島村抱月と同じ墓(雑司ヶ谷霊園)に埋めてほしいと望みましたが、二人は不倫の間です。叶うべくもなく、長野市松代町の小林家の墓に、のちに分骨がこの多聞院に納められました。<br />遺書には「何卒(なにとぞ)なにとぞはかだけを一緒にしていただけます様」、と書いています。不倫とはいえ哀れですね。

    大正7年11月、当時はやった流行性感冒スペイン風邪で抱月急死。2か月後の大正8年1月須磨子は抱月の後を追い自殺した。
    須磨子は遺書で、島村抱月と同じ墓(雑司ヶ谷霊園)に埋めてほしいと望みましたが、二人は不倫の間です。叶うべくもなく、長野市松代町の小林家の墓に、のちに分骨がこの多聞院に納められました。
    遺書には「何卒(なにとぞ)なにとぞはかだけを一緒にしていただけます様」、と書いています。不倫とはいえ哀れですね。

  • 大正8年1月5日逝去<br />芸名 松井須磨子  俗名 小林正子  行年34歳<br /><br />

    大正8年1月5日逝去
    芸名 松井須磨子  俗名 小林正子  行年34歳

  • 墓の横には芸術比翼塚。<br />抱月との合葬を願って叶えられなかった須磨子。それを憐れんだある篤志家がこれを建てたという。<br />この南榎町にはやはり自殺した川上眉山の住まいが有りました。

    墓の横には芸術比翼塚。
    抱月との合葬を願って叶えられなかった須磨子。それを憐れんだある篤志家がこれを建てたという。
    この南榎町にはやはり自殺した川上眉山の住まいが有りました。

  • 境内の片隅に生田春月詩碑がありました。<br />詩人、翻訳家。1892(明治25)~1930(昭和5)。米子生まれ。<br />ゲーテ、ハイネなど外国文学の翻訳が多い。「ハイネ詩集」など。<br />大阪から別府への別府航路上から瀬戸内海播磨灘で投身自殺した。原因は不明なるも文学上の行きずまりか厭世観かも知れない。<br />この近くに旧居跡があります。

    境内の片隅に生田春月詩碑がありました。
    詩人、翻訳家。1892(明治25)~1930(昭和5)。米子生まれ。
    ゲーテ、ハイネなど外国文学の翻訳が多い。「ハイネ詩集」など。
    大阪から別府への別府航路上から瀬戸内海播磨灘で投身自殺した。原因は不明なるも文学上の行きずまりか厭世観かも知れない。
    この近くに旧居跡があります。

  • わが空しくも斃(たお)れなば あまたの友よあとつぎて<br />われにまされる詩を書けよ<br />ジャン・コクトオやワ”レリイの 伊達のすさびをやめにして<br />書けよ心の血の叫び 春月

    わが空しくも斃(たお)れなば あまたの友よあとつぎて
    われにまされる詩を書けよ
    ジャン・コクトオやワ”レリイの 伊達のすさびをやめにして
    書けよ心の血の叫び 春月

  • 場所をとらない新しい形態の墓です。<br />

    場所をとらない新しい形態の墓です。

  • 隣にあるのが淨輪寺。

    隣にあるのが淨輪寺。

  • 淨輪寺。

    淨輪寺。

  • ここには関孝和の墓があります。

    ここには関孝和の墓があります。

  • 関孝和。和算家(数学者)、幕臣。1642~1708年。<br />日本の和算を西洋数学の水準にまで引き上げた。<br />

    関孝和。和算家(数学者)、幕臣。1642~1708年。
    日本の和算を西洋数学の水準にまで引き上げた。

  • 外苑東通りを早稲田通りの方に少し戻ると、牛込保険センターの向かいに、

    外苑東通りを早稲田通りの方に少し戻ると、牛込保険センターの向かいに、

  • 漱石山房記念館に続く道、漱石山房通り入り口の標識がありました。

    漱石山房記念館に続く道、漱石山房通り入り口の標識がありました。

  • 漱石山房通り。

    漱石山房通り。

  • 漱石公園です。<br />この地に夏目漱石は明治40年から大正5年の死まで住んでいたのです。

    漱石公園です。
    この地に夏目漱石は明治40年から大正5年の死まで住んでいたのです。

  • 夏目漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。<br />本年9月、漱石生誕150年を記念して新装なった新宿区立漱石山房記念館が開館しました。<br />元の漱石山房は昭和20年3月に空襲で焼失しました。漱石の遺品、文献資料などは事前に小宮豊隆(東北大学教授)により東北大学附属図書館に移されていました。漱石の愛弟子小宮は師の資料保存に多大なる貢献をしたのでした。<br />

    夏目漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。
    本年9月、漱石生誕150年を記念して新装なった新宿区立漱石山房記念館が開館しました。
    元の漱石山房は昭和20年3月に空襲で焼失しました。漱石の遺品、文献資料などは事前に小宮豊隆(東北大学教授)により東北大学附属図書館に移されていました。漱石の愛弟子小宮は師の資料保存に多大なる貢献をしたのでした。

  • 先日龍泉にある立派な樋口一葉記念館を訪ねましたが、最近のこういった記念館はどれも豪華ですね。もうすこし作家の日常を偲べるような施設であってほしいと思います。<br />ここも何十年かまえ訪ねたことがありますが、記憶では荒れた広場でした。<br />

    先日龍泉にある立派な樋口一葉記念館を訪ねましたが、最近のこういった記念館はどれも豪華ですね。もうすこし作家の日常を偲べるような施設であってほしいと思います。
    ここも何十年かまえ訪ねたことがありますが、記憶では荒れた広場でした。

  • 右端のガラス張りの1階は漱石がよく座っていたベランダが再現されています。

    右端のガラス張りの1階は漱石がよく座っていたベランダが再現されています。

  • 先ず記念館の横から漱石公園に入りました。

    先ず記念館の横から漱石公園に入りました。

  • 富永直樹製作。平成3年。

    富永直樹製作。平成3年。

  • 今回私が辿った道がほぼ重なっています。

    今回私が辿った道がほぼ重なっています。

  • 漱石存命中は借地借家でしたが、漱石の死後遺族が買い取りました。土地340坪ほどだったそうです。漱石は結局存命中は自分の持ち家を持たなかった。戦前はそれが普通で、よっぽどの金持ち以外大部分の庶民は借家住まいでした。漱石の遺族がこの家を買い取れたのは、死後夏目漱石ブームとなり全集の発行が相次ぎ多額の印税が入ったからです。印税と云えば、制度としては明治初期からありましたが殆どは買い取りで、印税を作家の権利として出版社側に認めさせ一般化させたのは漱石でした。<br />公園は記念館の裏に広がっています。

    漱石存命中は借地借家でしたが、漱石の死後遺族が買い取りました。土地340坪ほどだったそうです。漱石は結局存命中は自分の持ち家を持たなかった。戦前はそれが普通で、よっぽどの金持ち以外大部分の庶民は借家住まいでした。漱石の遺族がこの家を買い取れたのは、死後夏目漱石ブームとなり全集の発行が相次ぎ多額の印税が入ったからです。印税と云えば、制度としては明治初期からありましたが殆どは買い取りで、印税を作家の権利として出版社側に認めさせ一般化させたのは漱石でした。
    公園は記念館の裏に広がっています。

  • 猫塚。<br />漱石が飼っていた猫、犬や小鳥の墓。のち大正9年に遺族が建てました。戦火の中よく残ったものです。<br />丁度猫塚を見ていると目の前を着物を着た若い女性が通り過ぎました。綺麗な、しかし少しきつい顔をしています。シャンと背を伸ばし歩き方も颯爽としています。私はとっさに「虞美人草」の藤尾を思い浮かべました。漱石山房に藤尾が現われた。

    猫塚。
    漱石が飼っていた猫、犬や小鳥の墓。のち大正9年に遺族が建てました。戦火の中よく残ったものです。
    丁度猫塚を見ていると目の前を着物を着た若い女性が通り過ぎました。綺麗な、しかし少しきつい顔をしています。シャンと背を伸ばし歩き方も颯爽としています。私はとっさに「虞美人草」の藤尾を思い浮かべました。漱石山房に藤尾が現われた。

  • 猫は有名な「吾輩は猫である」の福猫。犬はヘクトー。小鳥は鈴木三重吉に勧められて飼った文鳥。始めのうちは漱石自ら餌をやり水を取り換えていましたが、その内家人任せになり、あるとき家人もうっかりしている間に餌と水がきれて死んでしまいます。<br />漱石は随筆「文鳥」でこう書いています。<br />「餌壺には粟の殻ばかり溜っている。啄(つい)ばむべきは一粒もない。水入れは底の光るほど涸れている。・・・・。自分は・・・空になった餌壺を眺めた。空しく橋を渡している二本の止まり木を眺めた。そうしてその下に横たわる硬い文鳥を眺めた」。

    猫は有名な「吾輩は猫である」の福猫。犬はヘクトー。小鳥は鈴木三重吉に勧められて飼った文鳥。始めのうちは漱石自ら餌をやり水を取り換えていましたが、その内家人任せになり、あるとき家人もうっかりしている間に餌と水がきれて死んでしまいます。
    漱石は随筆「文鳥」でこう書いています。
    「餌壺には粟の殻ばかり溜っている。啄(つい)ばむべきは一粒もない。水入れは底の光るほど涸れている。・・・・。自分は・・・空になった餌壺を眺めた。空しく橋を渡している二本の止まり木を眺めた。そうしてその下に横たわる硬い文鳥を眺めた」。

  • 猫塚。<br />漱石は猫が死んだとき門下生に死亡通知を出しています。<br />要約すると、「ご存知の猫、病気療養の甲斐なく、昨夜物置のヘッツイの上にて亡くなりました。埋葬は車屋に頼んで蜜柑箱に詰めて裏の庭に行いました。ただいま主人(漱石)は「三四郎」執筆中につき、ご会葬には及びません。9月14日。<br /><br />また漱石は猫や犬ヘクトーの死に際し句を詠んで手向けています。<br />福猫へ:この下に 稲妻起こる 宵あらん <br />ヘクトーへ:秋風の 聞えぬ土に 埋めてやりぬ<br /><br />

    猫塚。
    漱石は猫が死んだとき門下生に死亡通知を出しています。
    要約すると、「ご存知の猫、病気療養の甲斐なく、昨夜物置のヘッツイの上にて亡くなりました。埋葬は車屋に頼んで蜜柑箱に詰めて裏の庭に行いました。ただいま主人(漱石)は「三四郎」執筆中につき、ご会葬には及びません。9月14日。

    また漱石は猫や犬ヘクトーの死に際し句を詠んで手向けています。
    福猫へ:この下に 稲妻起こる 宵あらん 
    ヘクトーへ:秋風の 聞えぬ土に 埋めてやりぬ

  • 園内にある「道草庵」。

    園内にある「道草庵」。

  • 西片町から移った漱石は明治40年9月から大正5年12月の死までの9年間ここに住まいしました。<br />毎週木曜日を面会日と定め門下生が集まりました。漱石の死後は毎月9日の命日を九日会として集まり、その後長く続いています。鏡子夫人は手料理などでもてなしたそうです。<br />「虞美人草」、「三四郎」以下の名作がここで書かれたのです。

    西片町から移った漱石は明治40年9月から大正5年12月の死までの9年間ここに住まいしました。
    毎週木曜日を面会日と定め門下生が集まりました。漱石の死後は毎月9日の命日を九日会として集まり、その後長く続いています。鏡子夫人は手料理などでもてなしたそうです。
    「虞美人草」、「三四郎」以下の名作がここで書かれたのです。

  • 鈴木三重吉、安倍能成、内田百間、和辻哲郎、芥川龍之介。<br />門下生は、松山中学時代、熊本五高時代、一高・東大講師時代の教え子など、あるいはその作を読んで慕ってきた学生たちでした。<br />漱石は門下生たちの話をよく聞き、自由に喋らせ、時にはその思い上がりを叱り実によく面倒を見ました。門下生の書いた作品を、少しでも彼らの生計に足しになるよう新聞社や雑誌社に斡旋しています。忙しい教師時代にも新聞社時代にも懇切丁寧に手紙を書き、門下生の作品を批評し自分の考えを述べています。

    鈴木三重吉、安倍能成、内田百間、和辻哲郎、芥川龍之介。
    門下生は、松山中学時代、熊本五高時代、一高・東大講師時代の教え子など、あるいはその作を読んで慕ってきた学生たちでした。
    漱石は門下生たちの話をよく聞き、自由に喋らせ、時にはその思い上がりを叱り実によく面倒を見ました。門下生の書いた作品を、少しでも彼らの生計に足しになるよう新聞社や雑誌社に斡旋しています。忙しい教師時代にも新聞社時代にも懇切丁寧に手紙を書き、門下生の作品を批評し自分の考えを述べています。

  • 高浜虚子、寺田寅彦、小宮豊隆、森田草平。<br />そのほかにも、阿部次郎、岩波茂雄、久米正雄、津田青楓、野上豊一郎、松岡譲(のち漱石の長女筆子の夫)、松根東洋城、中勘助、高浜虚子など。<br />久米正雄は筆子を松岡譲と争ったが、筆子は松岡の方に気があり、久米の素行を中傷する文書が出回るなど形勢不利となり敗れる。しかし久米はその失恋の顛末を本に書いたりして女性の同情を買い結構売れたらしいです。<br />松岡譲と筆子の間に生まれた娘が半藤末利子氏(歴史家、文筆家半藤一利氏夫人)。

    高浜虚子、寺田寅彦、小宮豊隆、森田草平。
    そのほかにも、阿部次郎、岩波茂雄、久米正雄、津田青楓、野上豊一郎、松岡譲(のち漱石の長女筆子の夫)、松根東洋城、中勘助、高浜虚子など。
    久米正雄は筆子を松岡譲と争ったが、筆子は松岡の方に気があり、久米の素行を中傷する文書が出回るなど形勢不利となり敗れる。しかし久米はその失恋の顛末を本に書いたりして女性の同情を買い結構売れたらしいです。
    松岡譲と筆子の間に生まれた娘が半藤末利子氏(歴史家、文筆家半藤一利氏夫人)。

  • 門下生への手紙の一例として、漱石が芥川龍之介の「鼻」について書き送った手紙です。<br />”拝啓。「新思潮」のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んでみました。あなたのものは大変面白いと思います。落着きがあってふざけていなくって自然そのままの可笑味がおっとり出ている所に上品な趣があります。・・・。文章が要領を得て能く整っています。・・・。ああいうものをこれから二、三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。・・・。 夏目金之助  芥川龍之介様” 大正5年2月19日。<br />東大生だった龍之介は感激しました。そして漱石の期待したとおり類のない作家になりました。

    門下生への手紙の一例として、漱石が芥川龍之介の「鼻」について書き送った手紙です。
    ”拝啓。「新思潮」のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んでみました。あなたのものは大変面白いと思います。落着きがあってふざけていなくって自然そのままの可笑味がおっとり出ている所に上品な趣があります。・・・。文章が要領を得て能く整っています。・・・。ああいうものをこれから二、三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。・・・。 夏目金之助  芥川龍之介様” 大正5年2月19日。
    東大生だった龍之介は感激しました。そして漱石の期待したとおり類のない作家になりました。

  • 漱石山房の玄関。書斎、板の間に絨毯を敷き紫檀の机で執筆しました。漱石山房記念館でこの部屋が再現されています。<br />ベランダ。ベランダでくつろぐ漱石、大正4年、死の前年です。<br />漱石の言葉。<br />「地坪は三百坪あるから、庭は狭い方ではない。部屋は七間あり、家賃は三百円である。しかし、・・・子供が六人もあるから狭い。私の書斎は、壁は落ちているし、天井は雨漏りのしみがあって汚い。・・・。板の間から風が吹き込んで冬などたまらない。・・・」<br />

    漱石山房の玄関。書斎、板の間に絨毯を敷き紫檀の机で執筆しました。漱石山房記念館でこの部屋が再現されています。
    ベランダ。ベランダでくつろぐ漱石、大正4年、死の前年です。
    漱石の言葉。
    「地坪は三百坪あるから、庭は狭い方ではない。部屋は七間あり、家賃は三百円である。しかし、・・・子供が六人もあるから狭い。私の書斎は、壁は落ちているし、天井は雨漏りのしみがあって汚い。・・・。板の間から風が吹き込んで冬などたまらない。・・・」

  • 左:立っている漱石26歳、座っているのは「吾輩は猫である」の中で天然居士として描かれている米山保三郎。建築家を目指していた漱石に建築家になってもつまらん、文学をやれとけしかけ、文学者夏目漱石誕生の功績者です。<br /><br />右:幼い漱石(金之助)、左次兄栄之助(漱石21歳の時死亡)、中漱石の異母姉ふさの夫高田庄吉。学生時代漱石は栄之助とともに神楽坂にある高田の家でよくとぐろを巻いたり近所の芸者とトランプをして遊びました。

    左:立っている漱石26歳、座っているのは「吾輩は猫である」の中で天然居士として描かれている米山保三郎。建築家を目指していた漱石に建築家になってもつまらん、文学をやれとけしかけ、文学者夏目漱石誕生の功績者です。

    右:幼い漱石(金之助)、左次兄栄之助(漱石21歳の時死亡)、中漱石の異母姉ふさの夫高田庄吉。学生時代漱石は栄之助とともに神楽坂にある高田の家でよくとぐろを巻いたり近所の芸者とトランプをして遊びました。

  • 見合い写真。漱石29歳、鏡子19歳。<br />明治28年、見合いは当時松山中学に勤めていた漱石が上京し鏡子の実家中根家で行われました。<br />その時の印象を漱石は「歯並びが悪くてきたないのに、しいてそれを隠そうとしないで平気でいるのが気に入った」と兄に話しています。鏡子の方もまんざらではなく、とくに父が漱石の学識、真面目そうな人柄を気に入ったようです。それで話は纏まりました。<br />翌明治29年二人は熊本で(漱石は熊本の第五高等学校教授になっていました)結婚式をあげます。

    見合い写真。漱石29歳、鏡子19歳。
    明治28年、見合いは当時松山中学に勤めていた漱石が上京し鏡子の実家中根家で行われました。
    その時の印象を漱石は「歯並びが悪くてきたないのに、しいてそれを隠そうとしないで平気でいるのが気に入った」と兄に話しています。鏡子の方もまんざらではなく、とくに父が漱石の学識、真面目そうな人柄を気に入ったようです。それで話は纏まりました。
    翌明治29年二人は熊本で(漱石は熊本の第五高等学校教授になっていました)結婚式をあげます。

  • 鏡子夫人は1963年/昭和38年に86歳で亡くなっています。漱石の死後47年もの存命で長生されました。<br />小宮豊隆など漱石に心酔する門下生の漱石伝によると、鏡子夫人は悪妻だったように描かれていますが、神経衰弱から夫人や子供に暴力を振るい、何度も里に帰れと迫る漱石にじっと我慢をし、看病し、沢山の子供を育て上げた夫人は云われるような悪妻ではなかったと思います。もっとも長男純一の夫人は「義母(鏡子)はいい人だったが子供のしつけは間違っていた」と云っています。鏡子は父の少ない愛情を受けていた息子たちを不憫に思ったのかとても甘かったそうです。

    鏡子夫人は1963年/昭和38年に86歳で亡くなっています。漱石の死後47年もの存命で長生されました。
    小宮豊隆など漱石に心酔する門下生の漱石伝によると、鏡子夫人は悪妻だったように描かれていますが、神経衰弱から夫人や子供に暴力を振るい、何度も里に帰れと迫る漱石にじっと我慢をし、看病し、沢山の子供を育て上げた夫人は云われるような悪妻ではなかったと思います。もっとも長男純一の夫人は「義母(鏡子)はいい人だったが子供のしつけは間違っていた」と云っています。鏡子は父の少ない愛情を受けていた息子たちを不憫に思ったのかとても甘かったそうです。

  • 記念館に入りました。<br />館内の写真撮影はこのパネル写真だけOKでした。身長158センチ、体重14貫、当時の日本人としても少し小柄だったでしょう。<br />明治40年5月、朝日新聞社入社時の写真。漱石40歳。家は早稲田南町、いまの漱石山房の家、昭和20年空襲で焼失。<br />英国仕込みの紳士然として、身だしなみはきちんとしていました。教師時代、廊下をハイカラーで、胸を反らし磨かれた靴をきゅっきゅっ鳴らして歩いたそうです。<br />館内で又先ほどの虞美人草の藤尾を見かけました。

    記念館に入りました。
    館内の写真撮影はこのパネル写真だけOKでした。身長158センチ、体重14貫、当時の日本人としても少し小柄だったでしょう。
    明治40年5月、朝日新聞社入社時の写真。漱石40歳。家は早稲田南町、いまの漱石山房の家、昭和20年空襲で焼失。
    英国仕込みの紳士然として、身だしなみはきちんとしていました。教師時代、廊下をハイカラーで、胸を反らし磨かれた靴をきゅっきゅっ鳴らして歩いたそうです。
    館内で又先ほどの虞美人草の藤尾を見かけました。

  • 漱石と新宿。<br />生まれたのも亡くなったのも新宿。松山と熊本、イギリス留学および数年間の千駄木時代以外は人生のすべてを送ったのが今の新宿区です。新宿と云っても繁華な今の新宿駅近辺ではなく早稲田、牛込界隈です。

    漱石と新宿。
    生まれたのも亡くなったのも新宿。松山と熊本、イギリス留学および数年間の千駄木時代以外は人生のすべてを送ったのが今の新宿区です。新宿と云っても繁華な今の新宿駅近辺ではなく早稲田、牛込界隈です。

  • 記念館には興味ある展示が沢山ありますが、撮影禁止なのであちこちから資料を引っ張って来ました。<br />漱石47歳、右長男純一7歳、左次男伸六6歳。大正3年12月。<br />夏目純一:1907~1999年。ヴァイオリニスト。東京交響楽団(のちの東フィル)の第1ヴァイオリン奏者を務めた。漫画評論家の夏目房之介は息子。<br />夏目伸六:1908~1975年。ジャーナリスト、随筆家。「父・夏目漱石」の著がある。

    記念館には興味ある展示が沢山ありますが、撮影禁止なのであちこちから資料を引っ張って来ました。
    漱石47歳、右長男純一7歳、左次男伸六6歳。大正3年12月。
    夏目純一:1907~1999年。ヴァイオリニスト。東京交響楽団(のちの東フィル)の第1ヴァイオリン奏者を務めた。漫画評論家の夏目房之介は息子。
    夏目伸六:1908~1975年。ジャーナリスト、随筆家。「父・夏目漱石」の著がある。

  • 修善寺の大患の時主治医だった森成医師の故郷高田での開業のため、帰郷を送る送別会。明治44年。<br />後列左端より松根東洋城、森成、四人目から漱石、野上豊一郎、安倍能成。<br />前列左より二女恒子、鏡子夫人、長男純一、四女愛子、長女筆子、三女栄子、小宮豊隆、坂元雪鳥、野村伝四。<br />丸の中は左より鈴木三重吉、森田草平。<br />漱石夫婦は5女(内一人は夭逝)2男の子だくさんでした。漱石は、どうして次々とこんなに子供が出来るのだろう、なんて無責任なことを言っています。

    修善寺の大患の時主治医だった森成医師の故郷高田での開業のため、帰郷を送る送別会。明治44年。
    後列左端より松根東洋城、森成、四人目から漱石、野上豊一郎、安倍能成。
    前列左より二女恒子、鏡子夫人、長男純一、四女愛子、長女筆子、三女栄子、小宮豊隆、坂元雪鳥、野村伝四。
    丸の中は左より鈴木三重吉、森田草平。
    漱石夫婦は5女(内一人は夭逝)2男の子だくさんでした。漱石は、どうして次々とこんなに子供が出来るのだろう、なんて無責任なことを言っています。

  • 大正3年12月、随筆「硝子戸の中」執筆中の漱石。<br />漱石がやや顔を緩めている唯一の写真。「硝子戸の中」でその間の事情を漱石は書いています。<br />「あるときある雑誌社が写真を撮らしてくれと云ってきた。その雑誌社は有名人の笑っている写真ばかり載せるので断ると、笑わなくても良いから是非と云うので承知した。いざ写真を撮る段になるとカメラマンは「お約束ではございますが、すこし笑っていただけますまいか」と云う。私はとりあわず「これでいいでしょう」と写真を撮らした。<br />後日雑誌社から送ってきた写真を見るとたしかに少し笑っているようにも見える。いやな顔だ。どうもカメラマンにひっかかったようだ。」

    大正3年12月、随筆「硝子戸の中」執筆中の漱石。
    漱石がやや顔を緩めている唯一の写真。「硝子戸の中」でその間の事情を漱石は書いています。
    「あるときある雑誌社が写真を撮らしてくれと云ってきた。その雑誌社は有名人の笑っている写真ばかり載せるので断ると、笑わなくても良いから是非と云うので承知した。いざ写真を撮る段になるとカメラマンは「お約束ではございますが、すこし笑っていただけますまいか」と云う。私はとりあわず「これでいいでしょう」と写真を撮らした。
    後日雑誌社から送ってきた写真を見るとたしかに少し笑っているようにも見える。いやな顔だ。どうもカメラマンにひっかかったようだ。」

  • 岡本一平描くところの漱石先生と猫。<br />漱石の髭はいわゆるカイゼル髭。ドイツ帝国3代目皇帝、ヴィルヘルム2世が生やしていた髭で、当時日本でも大いに流行っていました。森鷗外、徳富蘇峰、岩野泡鳴、島崎藤村など文人の多くもカイゼル髭を蓄えています。<br />漱石も自分の髭がカイゼル髭であることは承知していて、「吾輩は猫である」のなかで猫をしてそのことを語らしめている。<br />「彼(苦紗彌、漱石のこと)のアムビションは独逸皇帝陛下のように、向上の念のさかんな髭を蓄えるにある。」

    岡本一平描くところの漱石先生と猫。
    漱石の髭はいわゆるカイゼル髭。ドイツ帝国3代目皇帝、ヴィルヘルム2世が生やしていた髭で、当時日本でも大いに流行っていました。森鷗外、徳富蘇峰、岩野泡鳴、島崎藤村など文人の多くもカイゼル髭を蓄えています。
    漱石も自分の髭がカイゼル髭であることは承知していて、「吾輩は猫である」のなかで猫をしてそのことを語らしめている。
    「彼(苦紗彌、漱石のこと)のアムビションは独逸皇帝陛下のように、向上の念のさかんな髭を蓄えるにある。」

  • 「坊ちゃん」原稿。ホトトギスの明治39年4月号に載ったもの。<br />ちょっと脱線しますが、当時(明治中期以降)の日本とドイツとカイゼル髭について。<br />明治維新で近代日本が成立したのが1868年。プロイセンがフランスを破りドイツ帝国が成立したのが1871年。同じころに両国は統一近代国家のスタートを切っています。最初日本はフランスの諸制度を取り入れたが、その後ドイツに接近するようになる。憲法はプロイセン憲法。軍政、教育、医学もドイツに学ぶ。ついでに取り入れたのがカイゼル髭というわけ。1888年、明治21年にヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位して以降、日本でカイゼル髭が大流行したのです。<br />半藤一利氏によるとカイゼル髭の流行が終息したのは、第1次世界大戦で日本がドイツに宣戦布告した大正3年だそうです。

    「坊ちゃん」原稿。ホトトギスの明治39年4月号に載ったもの。
    ちょっと脱線しますが、当時(明治中期以降)の日本とドイツとカイゼル髭について。
    明治維新で近代日本が成立したのが1868年。プロイセンがフランスを破りドイツ帝国が成立したのが1871年。同じころに両国は統一近代国家のスタートを切っています。最初日本はフランスの諸制度を取り入れたが、その後ドイツに接近するようになる。憲法はプロイセン憲法。軍政、教育、医学もドイツに学ぶ。ついでに取り入れたのがカイゼル髭というわけ。1888年、明治21年にヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位して以降、日本でカイゼル髭が大流行したのです。
    半藤一利氏によるとカイゼル髭の流行が終息したのは、第1次世界大戦で日本がドイツに宣戦布告した大正3年だそうです。

  • 「椿」。水彩画。大正4年。<br />椿とも 見えぬ花かな 夕曇<br />絵は津田青楓に、俳句は正岡子規、高浜虚子に、書は東大時代の学友菅虎雄の指導を受けました。<br />漱石の半切、短冊などが比較的多く残っているのは、周りから求められ割りと応じていたからでしょう。中央公論の名編集長瀧田樗陰は木曜日の面会日には、筆、墨、硯、半切などを持参して一人早く来て、さあ何か書け、と漱石に迫った。<br />門下生の一人が「先生は瀧田ばかりに書いてあげる」と不服を漏らすと、漱石は「瀧田は紙と筆を持ってくる、君たちは何も持ってこないじゃないか」と云ったそうです。冗談半分にやり込めたのです。

    「椿」。水彩画。大正4年。
    椿とも 見えぬ花かな 夕曇
    絵は津田青楓に、俳句は正岡子規、高浜虚子に、書は東大時代の学友菅虎雄の指導を受けました。
    漱石の半切、短冊などが比較的多く残っているのは、周りから求められ割りと応じていたからでしょう。中央公論の名編集長瀧田樗陰は木曜日の面会日には、筆、墨、硯、半切などを持参して一人早く来て、さあ何か書け、と漱石に迫った。
    門下生の一人が「先生は瀧田ばかりに書いてあげる」と不服を漏らすと、漱石は「瀧田は紙と筆を持ってくる、君たちは何も持ってこないじゃないか」と云ったそうです。冗談半分にやり込めたのです。

  • 「達磨」。大正2年。<br />漱石の趣味は句作、絵、漢詩でした。どれもレベルが高いです。特に漢詩は一流でした。宝生流の謡も好きでしたが周りの評判は良くありません。漱石が唸りだすと家人は頭を抱えたそうです。あるとき漱石は奥さんを前にして一曲謡い、奥さんに「有難うと言え」というと、奥さんは「我慢して聞いてあげたのだからあなたこそ有難うと言いなさい」と、やり込めました。<br />「吾輩は猫である」では後架(便所)でも唸るので近所から、後架先生とあだ名されています。漱石の弟子で謡仲間だった野上豊一郎によると、漱石の謡は上手とは言えないが下手でもなかった。声量は十分あり艶のある声だったそうです。漱石は学生時代水泳、ボート、器械体操、弓道で体を鍛えていました。漱石夫人も漱石の上半身は筋肉隆々だったようなことを語っています。数多くの講演をこなしているのもその声量があったからでしょう。<br /><br />絵は初め水彩画から始まり、ちょっと油絵をかじり(津田清楓から才能なしと云われすぐ止める)晩年は南画をよく描いた。<br />瀧田樗陰が漱石に「先生の興味は小説よりも書画にあるようですね」といったら漱石は「そりゃそうさ、一方は商売で一方は道楽なんだから。話だって商売よりも道楽の方が面白いんだよ」と言ったという。

    「達磨」。大正2年。
    漱石の趣味は句作、絵、漢詩でした。どれもレベルが高いです。特に漢詩は一流でした。宝生流の謡も好きでしたが周りの評判は良くありません。漱石が唸りだすと家人は頭を抱えたそうです。あるとき漱石は奥さんを前にして一曲謡い、奥さんに「有難うと言え」というと、奥さんは「我慢して聞いてあげたのだからあなたこそ有難うと言いなさい」と、やり込めました。
    「吾輩は猫である」では後架(便所)でも唸るので近所から、後架先生とあだ名されています。漱石の弟子で謡仲間だった野上豊一郎によると、漱石の謡は上手とは言えないが下手でもなかった。声量は十分あり艶のある声だったそうです。漱石は学生時代水泳、ボート、器械体操、弓道で体を鍛えていました。漱石夫人も漱石の上半身は筋肉隆々だったようなことを語っています。数多くの講演をこなしているのもその声量があったからでしょう。

    絵は初め水彩画から始まり、ちょっと油絵をかじり(津田清楓から才能なしと云われすぐ止める)晩年は南画をよく描いた。
    瀧田樗陰が漱石に「先生の興味は小説よりも書画にあるようですね」といったら漱石は「そりゃそうさ、一方は商売で一方は道楽なんだから。話だって商売よりも道楽の方が面白いんだよ」と言ったという。

  • 自作の漢詩と書。<br />解説によると、<br />大観天地趣  天地の趣を大観し、<br />円覚自然情  自然の情を円覚す。<br />任手時揮灑  手に任せて時に揮灑(きさい)すれば、<br />雲煙筆底生  雲煙 筆底に生ず。<br /><br />漢学は14歳のころ漢学塾「二松学舎」で学んでいます。<br />晩年は午前中に新聞小説の1回分を書き、午後は漢詩、書、絵を楽しんでいました。<br />書は良寛のを好んだようで、また朝日新聞社主筆の池辺三山の書を徳川時代以降最も優れたものだと褒めていた。揮毫を頼まれると一字一句非常に丁寧に書き、気に入った物が出来るまで何十枚も書き潰したという。

    自作の漢詩と書。
    解説によると、
    大観天地趣  天地の趣を大観し、
    円覚自然情  自然の情を円覚す。
    任手時揮灑  手に任せて時に揮灑(きさい)すれば、
    雲煙筆底生  雲煙 筆底に生ず。

    漢学は14歳のころ漢学塾「二松学舎」で学んでいます。
    晩年は午前中に新聞小説の1回分を書き、午後は漢詩、書、絵を楽しんでいました。
    書は良寛のを好んだようで、また朝日新聞社主筆の池辺三山の書を徳川時代以降最も優れたものだと褒めていた。揮毫を頼まれると一字一句非常に丁寧に書き、気に入った物が出来るまで何十枚も書き潰したという。

  • 初版本の装幀。<br />「吾輩は猫である」上巻<br />明治38年10月 大倉書店・服部書店 橋口五葉装幀<br />漱石はデビュー作「吾輩は猫である」を出すにあたって装幀にこだわった。高くなって売れなくてもよいから立派な美しい本にしたい、と言っている。表紙は漱石5高時代の教え子の橋口貢の弟橋口五葉に、挿絵は当時すでに高名だった中村不折に頼みました。<br />巨大な猫が市井でうごめく人間どもを鋭い目で観察しています。

    初版本の装幀。
    「吾輩は猫である」上巻
    明治38年10月 大倉書店・服部書店 橋口五葉装幀
    漱石はデビュー作「吾輩は猫である」を出すにあたって装幀にこだわった。高くなって売れなくてもよいから立派な美しい本にしたい、と言っている。表紙は漱石5高時代の教え子の橋口貢の弟橋口五葉に、挿絵は当時すでに高名だった中村不折に頼みました。
    巨大な猫が市井でうごめく人間どもを鋭い目で観察しています。

  • 「虞美人草」<br />明治41年1月 春陽堂 橋口五葉装幀。明治40年、漱石朝日新聞社入社後初めて書かれた小説。40年6月から10月にかけて朝日新聞に連載された。<br /><br />「猫」は漱石の予想に反して飛ぶように売れた。漱石は中村不折に、本が売れたのはあなたの挿絵のお陰だ、と言っています。

    「虞美人草」
    明治41年1月 春陽堂 橋口五葉装幀。明治40年、漱石朝日新聞社入社後初めて書かれた小説。40年6月から10月にかけて朝日新聞に連載された。

    「猫」は漱石の予想に反して飛ぶように売れた。漱石は中村不折に、本が売れたのはあなたの挿絵のお陰だ、と言っています。

  • 「三四郎」<br />明治42年5月 春陽堂 橋口五葉装幀<br /><br />橋口五葉は「ホトトギス」の挿絵を担当したほか、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の本の装幀も行っています。<br />中村不折は洋画家、書道の大家で、挿絵も「猫」の他島崎藤村の「若菜集」、伊藤左千夫の「野菊の墓」を手掛け、森鷗外や伊藤左千夫の墓碑銘は不折の字です。

    「三四郎」
    明治42年5月 春陽堂 橋口五葉装幀

    橋口五葉は「ホトトギス」の挿絵を担当したほか、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の本の装幀も行っています。
    中村不折は洋画家、書道の大家で、挿絵も「猫」の他島崎藤村の「若菜集」、伊藤左千夫の「野菊の墓」を手掛け、森鷗外や伊藤左千夫の墓碑銘は不折の字です。

  • 「それから」<br />明治43年1月 春陽堂 橋口五葉装幀

    「それから」
    明治43年1月 春陽堂 橋口五葉装幀

  • 「彼岸過迄」<br />大正元年9月 春陽堂 橋口五葉装幀

    「彼岸過迄」
    大正元年9月 春陽堂 橋口五葉装幀

  • 「心」<br />大正3年9月 岩波書店 夏目漱石装幀<br /><br />今まで専門家に依頼していた表紙を含む装幀すべてを漱石はふとした動機から自分でする気になりました。動機とはなにか。それは「心」が実質的に漱石の自費出版だったからと言われています。<br />大正3年、漱石の門下生岩波茂雄が神田神保町で古本屋兼出版業を開く。今の岩波書店の始まりです。岩波は漱石に「心」を是非自分の所で出版させてほしいと懇願する。岩波は金がない。可愛い弟子の頼みだ、ここは自費出版で出させてやろう、ついては装幀すべてをオレがやろう、と漱石は考えたのです。<br />作家の遊び心ではなく、漱石は「心」の装幀に心血を注ぎました。表紙は古い中国の拓本からとったものだそうです。今でも岩波の漱石全集の装幀に使われています。<br /><br />

    「心」
    大正3年9月 岩波書店 夏目漱石装幀

    今まで専門家に依頼していた表紙を含む装幀すべてを漱石はふとした動機から自分でする気になりました。動機とはなにか。それは「心」が実質的に漱石の自費出版だったからと言われています。
    大正3年、漱石の門下生岩波茂雄が神田神保町で古本屋兼出版業を開く。今の岩波書店の始まりです。岩波は漱石に「心」を是非自分の所で出版させてほしいと懇願する。岩波は金がない。可愛い弟子の頼みだ、ここは自費出版で出させてやろう、ついては装幀すべてをオレがやろう、と漱石は考えたのです。
    作家の遊び心ではなく、漱石は「心」の装幀に心血を注ぎました。表紙は古い中国の拓本からとったものだそうです。今でも岩波の漱石全集の装幀に使われています。

  • 「硝子戸の中(うち)」<br />大正4年3月 岩波書店 夏目漱石装幀<br /><br />それまでほぼ春陽堂から出版されていた漱石の単行本は以降岩波から出版されます。今の岩波の大を築くもととなったのです。

    「硝子戸の中(うち)」
    大正4年3月 岩波書店 夏目漱石装幀

    それまでほぼ春陽堂から出版されていた漱石の単行本は以降岩波から出版されます。今の岩波の大を築くもととなったのです。

  • 「道草」<br />大正4年10月 岩波書店 津田青楓装幀<br /><br />津田青楓も漱石と親交があり、漱石の絵の先生でした。漱石は最初洋画を試みますが、青楓に洋画の才なしと言われ南画に転じました。「猫」に油絵を始めてすぐ放り出す所があったように覚えています。

    「道草」
    大正4年10月 岩波書店 津田青楓装幀

    津田青楓も漱石と親交があり、漱石の絵の先生でした。漱石は最初洋画を試みますが、青楓に洋画の才なしと言われ南画に転じました。「猫」に油絵を始めてすぐ放り出す所があったように覚えています。

  • 「明暗」<br />大正6年1月 岩波書店 津田青楓装幀<br />漱石未完の遺作で、死後出版された。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    「明暗」
    大正6年1月 岩波書店 津田青楓装幀
    漱石未完の遺作で、死後出版された。
















  • 漱石山房記念館前。

    漱石山房記念館前。

  • 漱石山房記念館だけで一日は掛かってしまいそうなので切り上げます。<br />近くの宗参寺に来ました。

    漱石山房記念館だけで一日は掛かってしまいそうなので切り上げます。
    近くの宗参寺に来ました。

  • ここには山鹿素行と牛込城主牛込氏の墓があります。

    ここには山鹿素行と牛込城主牛込氏の墓があります。

  • 牛込家累代の墓。

    牛込家累代の墓。

  • 牛込氏は宗参寺の開基だそうです。

    牛込氏は宗参寺の開基だそうです。

  • 説明板。

    説明板。

  • 山鹿素行先生墓所。

    山鹿素行先生墓所。

  • 山鹿素行。儒学者、兵学者。1622~1685年。会津生まれ。<br />林羅山に朱子学を学ぶ。赤穂藩に預けられていた時、大石良雄ら赤穂藩士に朱子学を教えた。山鹿流兵法の祖。

    山鹿素行。儒学者、兵学者。1622~1685年。会津生まれ。
    林羅山に朱子学を学ぶ。赤穂藩に預けられていた時、大石良雄ら赤穂藩士に朱子学を教えた。山鹿流兵法の祖。

  • 墓には乃木将軍遺愛の梅「春日野」という木が植えられていました。<br />乃木は山鹿素行を畏敬していました。

    墓には乃木将軍遺愛の梅「春日野」という木が植えられていました。
    乃木は山鹿素行を畏敬していました。

  • 宗参寺。<br />夏目漱石の「硝子戸の中」に名指しではありませんが宗参寺とわかる一節があります。飼っていた犬ヘクトーがいなくなって数日後、近所の人が犬が自宅の池に浮んでいる、と知らせてきました。<br />「私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅が何処にあるか知らなかった。ただ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうと許(ばかり)考えていた。それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多(あまた)の屋根を越して能く見えた。」<br /><br />冬の日は早くも翳り、辺りは薄暗くなってきています。

    宗参寺。
    夏目漱石の「硝子戸の中」に名指しではありませんが宗参寺とわかる一節があります。飼っていた犬ヘクトーがいなくなって数日後、近所の人が犬が自宅の池に浮んでいる、と知らせてきました。
    「私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅が何処にあるか知らなかった。ただ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうと許(ばかり)考えていた。それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多(あまた)の屋根を越して能く見えた。」

    冬の日は早くも翳り、辺りは薄暗くなってきています。

  • ここで力尽き今日の散歩は終わりとします。4時半頃です。<br />地下鉄早稲田駅から新宿に出て湘南新宿ラインで帰りました。

    ここで力尽き今日の散歩は終わりとします。4時半頃です。
    地下鉄早稲田駅から新宿に出て湘南新宿ラインで帰りました。

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