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何度も行き、もう行くことはないかなと思っていた中国ですが、今年2回目の大連。<br />5月に旅順に行った際、二百三高地から霧で旅順港がのぞめなかったことと、故宮博物院のうち北京・台北には行ったものの、瀋陽の故宮博物院には行ったことがなかったので、寒い中3泊4日のツアーで出かけてきました。<br />今回は寒かったものの天候に恵まれ、念願の旅順港を二百三高地から見ることができ、瀋陽の故宮博物院にも行け、目標を達成することができました。<br />今回の旅程は、<br />11月10日(金):関空より大連に行き、そこからバスで瀋陽に移動して宿泊。<br />11月11日(土):午前中、世界遺産の昭陵、瀋陽故宮博物院と九・一八事変歴史博物館を見学し、バスで大連に移動して宿泊。<br />11月12日(日):大連市内観光後旅順に移動し、東鶏冠山、二百三高地、水師営会見所など見学し大連に戻って宿泊。<br />11月13日(月):大連の旧ロシア人街見学後、大連空港より関空に帰国<br />瀋陽へは、大連から約450kmの距離をバスで約5時間かけて移動したので結構しんどかったです。<br />とはいうものの、ツアーの参加者が20名のため大型バスの座席を一人が2席使えたのでその移動も思ったよりましでした。<br />今回は、旅行3日目の午後から観光した旅順を紹介します。<br />旅順では念願叶い、二百三高地から旅順港をのぞむことができました。<br />旅順港の入り口があんなに狭いとはびっくりしました。

瀋陽・大連・旅順を巡る旅(旅順観光編)その5

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2017/11/10 - 2017/11/13

395位(同エリア1053件中)

旅好き長さん

旅好き長さんさん

何度も行き、もう行くことはないかなと思っていた中国ですが、今年2回目の大連。
5月に旅順に行った際、二百三高地から霧で旅順港がのぞめなかったことと、故宮博物院のうち北京・台北には行ったものの、瀋陽の故宮博物院には行ったことがなかったので、寒い中3泊4日のツアーで出かけてきました。
今回は寒かったものの天候に恵まれ、念願の旅順港を二百三高地から見ることができ、瀋陽の故宮博物院にも行け、目標を達成することができました。
今回の旅程は、
11月10日(金):関空より大連に行き、そこからバスで瀋陽に移動して宿泊。
11月11日(土):午前中、世界遺産の昭陵、瀋陽故宮博物院と九・一八事変歴史博物館を見学し、バスで大連に移動して宿泊。
11月12日(日):大連市内観光後旅順に移動し、東鶏冠山、二百三高地、水師営会見所など見学し大連に戻って宿泊。
11月13日(月):大連の旧ロシア人街見学後、大連空港より関空に帰国
瀋陽へは、大連から約450kmの距離をバスで約5時間かけて移動したので結構しんどかったです。
とはいうものの、ツアーの参加者が20名のため大型バスの座席を一人が2席使えたのでその移動も思ったよりましでした。
今回は、旅行3日目の午後から観光した旅順を紹介します。
旅順では念願叶い、二百三高地から旅順港をのぞむことができました。
旅順港の入り口があんなに狭いとはびっくりしました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
JTB
  • 旅行3日目の大連市内観光後の旅順観光を紹介します。<br />大連市内を11時に出発し、旅順へバス移動します。<br />この長い橋を渡って旅順に向かいます。

    旅行3日目の大連市内観光後の旅順観光を紹介します。
    大連市内を11時に出発し、旅順へバス移動します。
    この長い橋を渡って旅順に向かいます。

  • 昔は山沿いの道を時間をかけて大連から旅順に向かっていましたが、この橋が完成したことによってかなり時間が短縮されたそうです。

    昔は山沿いの道を時間をかけて大連から旅順に向かっていましたが、この橋が完成したことによってかなり時間が短縮されたそうです。

  • 橋の向かいには大連のビル群が眺められます。<br />ここは夜になると夜景がきれいだそうです。

    橋の向かいには大連のビル群が眺められます。
    ここは夜になると夜景がきれいだそうです。

  • 望遠で観るとこんな感じです。<br />ちょっとしたリゾート地のような感じです。

    望遠で観るとこんな感じです。
    ちょっとしたリゾート地のような感じです。

  • 大連からバスで1時間走り、旅順の東鶏冠山に到着。<br />この駐車場から堡塁(要塞)まで歩いて行きます。<br />5月に来たときはもっと山の上の駐車場だったので、ほとんど山登りをしなかったのですが、ここからは山道を登っていきます。

    大連からバスで1時間走り、旅順の東鶏冠山に到着。
    この駐車場から堡塁(要塞)まで歩いて行きます。
    5月に来たときはもっと山の上の駐車場だったので、ほとんど山登りをしなかったのですが、ここからは山道を登っていきます。

  • これが東鶏冠山堡塁の案内図です。<br />東鶏冠山と言えば日露戦争で旅順における二百三高地に次ぐ激戦地です。

    これが東鶏冠山堡塁の案内図です。
    東鶏冠山と言えば日露戦争で旅順における二百三高地に次ぐ激戦地です。

  • この東鶏冠山堡塁は、ロシア軍が旅順東側の防御地として作った当時最大級の要塞です。

    この東鶏冠山堡塁は、ロシア軍が旅順東側の防御地として作った当時最大級の要塞です。

  • その堡塁の周囲にはロシア軍によりこのような塹壕がたくさん掘られていました。<br />今は木が生えていますが、昔は何も無かったそうです。

    その堡塁の周囲にはロシア軍によりこのような塹壕がたくさん掘られていました。
    今は木が生えていますが、昔は何も無かったそうです。

  • これがその堡塁で、壁には日本軍が撃った弾痕が沢山残っています。<br />日本軍の第11師団が何度も攻撃を加えましたが、攻め落とせなくて最終的には地下トンネルを掘って要塞の下からダイナマイト2.3トンを爆破さて占領しました。

    これがその堡塁で、壁には日本軍が撃った弾痕が沢山残っています。
    日本軍の第11師団が何度も攻撃を加えましたが、攻め落とせなくて最終的には地下トンネルを掘って要塞の下からダイナマイト2.3トンを爆破さて占領しました。

  • これがその堡塁です。<br />残っている堡塁は直線上に見えますが、当時は不規則な五角形をしていて、周囲が496m、面積が9900m2もありました。<br />その周囲には先ほどの塹壕が有り、その外には高圧電流が流れる鉄条網があったそうです。<br />司馬遼太郎さんの坂の上の雲を読みましたが、当時の悲惨さが目に浮かびます。

    これがその堡塁です。
    残っている堡塁は直線上に見えますが、当時は不規則な五角形をしていて、周囲が496m、面積が9900m2もありました。
    その周囲には先ほどの塹壕が有り、その外には高圧電流が流れる鉄条網があったそうです。
    司馬遼太郎さんの坂の上の雲を読みましたが、当時の悲惨さが目に浮かびます。

  • その堡塁の中はこんな感じで、思ったより狭いです。

    その堡塁の中はこんな感じで、思ったより狭いです。

  • そばの木には、鳥がとまっていました。<br />何という鳥かな?

    そばの木には、鳥がとまっていました。
    何という鳥かな?

  • ここはロシア軍司令官のコンドラチェンコ少将が日本軍が発射した28センチ榴弾砲で爆死したところです。<br />要塞の上に立っているこの碑は、コンドラチェンコ少将の死を悼んで日本軍が建てたものです。<br />戦争は勝者も敗者も共に悲惨で、やってはけません。<br />ここでは日本兵が約8000人も亡くなりました。

    ここはロシア軍司令官のコンドラチェンコ少将が日本軍が発射した28センチ榴弾砲で爆死したところです。
    要塞の上に立っているこの碑は、コンドラチェンコ少将の死を悼んで日本軍が建てたものです。
    戦争は勝者も敗者も共に悲惨で、やってはけません。
    ここでは日本兵が約8000人も亡くなりました。

  • この堡塁は台所・治療室です。

    この堡塁は台所・治療室です。

  • そしてこれは兵舎になっています。<br />実際は中央の溝部が床になっていて、2階造りになっています。

    そしてこれは兵舎になっています。
    実際は中央の溝部が床になっていて、2階造りになっています。

  • この碑は、ここで亡くなった日本人兵士約8000人の慰霊碑です。

    この碑は、ここで亡くなった日本人兵士約8000人の慰霊碑です。

  • この東鶏冠山から眺めた景色です。<br />この山から周囲が見渡せますので当時ここは戦略的にも重要な場所でした。<br />現在の東鶏冠山は木が茂っていますが、当時はハゲ山でした。<br />そのためこの堡塁は守るに易く、攻めるに難しかったと思います。

    この東鶏冠山から眺めた景色です。
    この山から周囲が見渡せますので当時ここは戦略的にも重要な場所でした。
    現在の東鶏冠山は木が茂っていますが、当時はハゲ山でした。
    そのためこの堡塁は守るに易く、攻めるに難しかったと思います。

  • 東鶏冠山堡塁観光後、昼食レストランに向かいます。<br />レストランは5月に旅順に来たときと同じ水師営 会見所前。<br />ここでもレストランの入り口には新鮮な魚介が並んでいます。

    東鶏冠山堡塁観光後、昼食レストランに向かいます。
    レストランは5月に旅順に来たときと同じ水師営 会見所前。
    ここでもレストランの入り口には新鮮な魚介が並んでいます。

  • レストランの中はこんな感じで、お昼を回っていたのでお客は少なめです。<br />とはいうものの、このレストランを利用する客は場所柄ほとんどが日本人です。

    レストランの中はこんな感じで、お昼を回っていたのでお客は少なめです。
    とはいうものの、このレストランを利用する客は場所柄ほとんどが日本人です。

  • この日の料理は郷土料理。<br />冷えた青島ビールと一緒にいただきます。<br />ここのビールは青島ビールでも25元と安かったです。

    この日の料理は郷土料理。
    冷えた青島ビールと一緒にいただきます。
    ここのビールは青島ビールでも25元と安かったです。

  • 昼食後隣の水師営会見所に向かいます。<br />この建物がそれで、もともとは農家の家を借りたものです。<br />建物は古くなっていますが、現在のものは1966年に復元されたものです。

    昼食後隣の水師営会見所に向かいます。
    この建物がそれで、もともとは農家の家を借りたものです。
    建物は古くなっていますが、現在のものは1966年に復元されたものです。

  • ここで1905年1月15日にロシア軍のステッセル中将と乃木将軍とで、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。

    ここで1905年1月15日にロシア軍のステッセル中将と乃木将軍とで、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。

  • このナツメの木は、ステッセル将軍が乃木将軍にプレゼントした馬をつないだ木だそうです。<br />もちろん当時の木は枯れて、この木は何代目かのものだそうです。

    このナツメの木は、ステッセル将軍が乃木将軍にプレゼントした馬をつないだ木だそうです。
    もちろん当時の木は枯れて、この木は何代目かのものだそうです。

  • 水師営会見所内では専門のガイドさんが中を案内してくれます。<br />右側の部屋には当時の写真がこのように掲示され、それぞれガイドさんが説明してくれます。

    水師営会見所内では専門のガイドさんが中を案内してくれます。
    右側の部屋には当時の写真がこのように掲示され、それぞれガイドさんが説明してくれます。

  • この写真は、旅順港閉塞作戦に参戦した広瀬中佐が写っています。<br />中央の白い軍服の方が広瀬中佐です。

    この写真は、旅順港閉塞作戦に参戦した広瀬中佐が写っています。
    中央の白い軍服の方が広瀬中佐です。

  • この写真は、ロシア軍との旅順軍港攻防戦の停戦条約締結後に撮った記念写真です。<br />ステッセル将軍と乃木大将が写っています。<br />皆さんしんどそうにしているのは、飲み過ぎて二日酔いだったためです。

    この写真は、ロシア軍との旅順軍港攻防戦の停戦条約締結後に撮った記念写真です。
    ステッセル将軍と乃木大将が写っています。
    皆さんしんどそうにしているのは、飲み過ぎて二日酔いだったためです。

  • この馬が乃木将軍にプレゼントした馬だそうです。

    この馬が乃木将軍にプレゼントした馬だそうです。

  • この大砲が旅順港攻防戦で最も活躍し、勝敗に寄与した28センチ榴弾砲です。<br />この大砲は、1884年に大阪砲兵工廠がイタリア式の大砲を参考に試製したもので、元々は日本内地の海岸用に配備されていたものを旅順に持ってきました。<br />その後この28センチ榴弾砲は、日露戦争の陸戦における最終決戦の奉天会戦にも投入され活躍したそうです。

    この大砲が旅順港攻防戦で最も活躍し、勝敗に寄与した28センチ榴弾砲です。
    この大砲は、1884年に大阪砲兵工廠がイタリア式の大砲を参考に試製したもので、元々は日本内地の海岸用に配備されていたものを旅順に持ってきました。
    その後この28センチ榴弾砲は、日露戦争の陸戦における最終決戦の奉天会戦にも投入され活躍したそうです。

  • この写真は、先ほど見学した東鶏冠山北堡塁の写真です。<br />当時はこの写真のようにハゲ山だったようです。

    この写真は、先ほど見学した東鶏冠山北堡塁の写真です。
    当時はこの写真のようにハゲ山だったようです。

  • そしてこの写真はこれから行く、もう一つの激戦地である二百三高地の写真です。<br />この高地も全くのハゲ山です。

    そしてこの写真はこれから行く、もう一つの激戦地である二百三高地の写真です。
    この高地も全くのハゲ山です。

  • 水師営会見所の観光後、立ち寄ったのがこの旅順駅舎。<br />

    水師営会見所の観光後、立ち寄ったのがこの旅順駅舎。

  • この駅は1903年に開業したもので、ロシア風の木造建築です。<br />現在は使われておらず、フェンスで覆われて中には入られません。

    イチオシ

    この駅は1903年に開業したもので、ロシア風の木造建築です。
    現在は使われておらず、フェンスで覆われて中には入られません。

  • 駅舎の屋根には大きな文字で旅順駅と書かれています。<br />ここは軍港のそばですので周囲を自由に歩いたり、港内の写真撮影は禁止されています。

    駅舎の屋根には大きな文字で旅順駅と書かれています。
    ここは軍港のそばですので周囲を自由に歩いたり、港内の写真撮影は禁止されています。

  • 次に向かったのが旅順博物館。<br />博物館は2棟あり、見学したのはもう一つの建物の博物館です。

    次に向かったのが旅順博物館。
    博物館は2棟あり、見学したのはもう一つの建物の博物館です。

  • それがこの博物館です。<br />何が展示されているのかわからず、ガイドさんに連れられ中に入ります。

    それがこの博物館です。
    何が展示されているのかわからず、ガイドさんに連れられ中に入ります。

  • 中に展示されていたものは旅順で発掘された遺物や陶器などが展示されていました。<br />ただ中国語の説明板だけだったのでよくわかりませんでした。<br />これは銅製の器のようで、ヤカンかな?

    中に展示されていたものは旅順で発掘された遺物や陶器などが展示されていました。
    ただ中国語の説明板だけだったのでよくわかりませんでした。
    これは銅製の器のようで、ヤカンかな?

  • これも銅製の蓋のある壺のようです。<br />説明板を見ると紀元前475~221年当時のものだそうです。

    これも銅製の蓋のある壺のようです。
    説明板を見ると紀元前475~221年当時のものだそうです。

  • これは新しく、宋の時代(960年~1279年)のもので水の容器だそうです。<br />中には文字が書かれています。

    これは新しく、宋の時代(960年~1279年)のもので水の容器だそうです。
    中には文字が書かれています。

  • この色が残っている人形は南朝時代(420年~589年)のもので、文官の人形だそうです。

    この色が残っている人形は南朝時代(420年~589年)のもので、文官の人形だそうです。

  • これは景徳鎮の陶磁器です。<br />これをお宝鑑定団に出品して値段を聞いてみたいものです。

    これは景徳鎮の陶磁器です。
    これをお宝鑑定団に出品して値段を聞いてみたいものです。

  • これは漢の時代の四天王像です。<br />左の像が持国天、右の像が多聞天です。<br />何れも色が残っています。<br />

    これは漢の時代の四天王像です。
    左の像が持国天、右の像が多聞天です。
    何れも色が残っています。

  • 次からは車窓観光になります。<br />この建物は、旅順ヤマトホテルです。<br />このホテルは1908年に開業したもので、現在は人民解放軍招待所として使用されているそうです。<br />瀋陽や大連のヤマトホテルよりは豪華さでは劣る感じです。<br />これで瀋陽・大連・旅順の3ヶ所のヤマトホテルを見学したことになります。<br />残りは長春と星ケ浦ヤマトホテルの2ヶ所だけですが、そこまでは見学できそうにありません。

    次からは車窓観光になります。
    この建物は、旅順ヤマトホテルです。
    このホテルは1908年に開業したもので、現在は人民解放軍招待所として使用されているそうです。
    瀋陽や大連のヤマトホテルよりは豪華さでは劣る感じです。
    これで瀋陽・大連・旅順の3ヶ所のヤマトホテルを見学したことになります。
    残りは長春と星ケ浦ヤマトホテルの2ヶ所だけですが、そこまでは見学できそうにありません。

  • そしてこの建物は、川島芳子の旧居です。<br />川島芳子こと愛新覚羅顕琦さんは1918年にこの家で生まれたそうです。<br />この建物は1900年にロシア人経営のホテルとして建築され、建物面積1058m2もあるそうです。<br />1904年までホテルとして使用された後、1905~12年までは関東軍民生部長官が使用し、1912~1945年までは粛親王一族の邸宅として使用した建物です。

    そしてこの建物は、川島芳子の旧居です。
    川島芳子こと愛新覚羅顕琦さんは1918年にこの家で生まれたそうです。
    この建物は1900年にロシア人経営のホテルとして建築され、建物面積1058m2もあるそうです。
    1904年までホテルとして使用された後、1905~12年までは関東軍民生部長官が使用し、1912~1945年までは粛親王一族の邸宅として使用した建物です。

  • その後向かったのが二百三高地。<br />この駐車場から歩いて二百三高地に向かいます。<br />今回は旅順港が眺められるのか楽しみです。

    その後向かったのが二百三高地。
    この駐車場から歩いて二百三高地に向かいます。
    今回は旅順港が眺められるのか楽しみです。

  • これが爾霊山の慰霊碑です。<br />元々この山は203m以上あったのですが日本軍の砲弾により高度が203mになったそうです。<br />またこの爾霊山という名は乃木大将が名付けたもので、自作の漢詩でこの203高地を当て字で爾霊山(に・れい・さん)と名付けました。

    これが爾霊山の慰霊碑です。
    元々この山は203m以上あったのですが日本軍の砲弾により高度が203mになったそうです。
    またこの爾霊山という名は乃木大将が名付けたもので、自作の漢詩でこの203高地を当て字で爾霊山(に・れい・さん)と名付けました。

  • ここから眺めた旅順港がこれです。<br />今回は旅順港がくっきりと見渡せます。<br /><br /><br />

    ここから眺めた旅順港がこれです。
    今回は旅順港がくっきりと見渡せます。


  • アップにするとこんな感じです。<br />こうやって見ると旅順港の入口の狭さがよくわかります。<br />この後下山し旅順港のそばをバスで走った際、それを見ました幅が273mとのことでしたが、それより狭く見えました。<br />日本海海戦を立案した秋山真之が旅順港閉塞作戦を立案したのがよくわかります。

    アップにするとこんな感じです。
    こうやって見ると旅順港の入口の狭さがよくわかります。
    この後下山し旅順港のそばをバスで走った際、それを見ました幅が273mとのことでしたが、それより狭く見えました。
    日本海海戦を立案した秋山真之が旅順港閉塞作戦を立案したのがよくわかります。

  • そして次に向かったのが旅順港を見渡せる二百三高地の重砲観測所。<br />この道をまっすぐに進みます。

    そして次に向かったのが旅順港を見渡せる二百三高地の重砲観測所。
    この道をまっすぐに進みます。

  • ここが重砲観測所で、現在では展望台になっています。<br />この大砲は28センチりゅう弾砲のレプリカです。<br />(実物よりかなり小さいです)<br />ここから旅順港が一望できます。

    ここが重砲観測所で、現在では展望台になっています。
    この大砲は28センチりゅう弾砲のレプリカです。
    (実物よりかなり小さいです)
    ここから旅順港が一望できます。

  • その景色がこれで、ここから旅順港までは直線距離で約4Km。<br />思ったより近いです。<br />この観測点からの指示で旅順港に停泊していたロシア艦隊を撃沈しました。<br />のちの調査で分かったのですがロシア艦隊は、黄海開戦で損傷した部位の修理ができておらず、その当時ほとんど無力化された状態だったそうです。<br />しかも日本軍の砲弾は不発が多く、沈没したのは船のキングストン弁を開けて自沈したとのことでした。

    その景色がこれで、ここから旅順港までは直線距離で約4Km。
    思ったより近いです。
    この観測点からの指示で旅順港に停泊していたロシア艦隊を撃沈しました。
    のちの調査で分かったのですがロシア艦隊は、黄海開戦で損傷した部位の修理ができておらず、その当時ほとんど無力化された状態だったそうです。
    しかも日本軍の砲弾は不発が多く、沈没したのは船のキングストン弁を開けて自沈したとのことでした。

  • 望遠レンズで見るとこんな感じで、旅順港内を一望できます。<br />司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で児玉源太郎が言った『そこから旅順港が見えるか』の声が聞こえてきそうです。<br />やっとこの景色が見られて大満足。<br />その後、バスで大連に戻り夕食をいただき、再び夜の中山広場を散策しました。<br />その様子は旅行記4で紹介していますので良ければそちらも見てください。

    イチオシ

    望遠レンズで見るとこんな感じで、旅順港内を一望できます。
    司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で児玉源太郎が言った『そこから旅順港が見えるか』の声が聞こえてきそうです。
    やっとこの景色が見られて大満足。
    その後、バスで大連に戻り夕食をいただき、再び夜の中山広場を散策しました。
    その様子は旅行記4で紹介していますので良ければそちらも見てください。

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