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人気が高い防衛省・市ヶ谷台ツアーの予約が取れたので、仲間7名で参加しました。<br />ツアーは午後からなので、午前中は防衛省に近い靖国神社へ参拝し、遊就館を見学。<br /><1>靖国神社<br />明治元年~明治2年の戊辰戦争を経て明治政府が樹立され、近代国家の道を歩み始めた日本ですが、戊辰戦争で新政府軍のために戦った戦没者(7,751柱)を招魂鎮斎するために、明治2年(1869年) 明治新政府により創祀された「東京招魂社」が始まりで、明治12年に「靖国神社」と改称されました。<br />その後の西南戦争・日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争までの戦没者(246万6584柱)が英霊として祀られています。<br />戦没者であっても反乱側に属する者は合祀されておらず、戊辰戦争時の新撰組や彰義隊、西南戦争時の西郷隆盛などは対象外です。<br />昭和21年に、日本国政府の管理を離れて宗教法人となった後、A級戦犯を合祀した関係で、中国・韓国がネガティブキャンペーンを行うことがありますが、尊い命を犠牲にして散った御霊を祀る靖国神社に参拝すると、いつまでも平和な国で有り続けて欲しいと思わずにはいられません。<br /><2>遊就館<br />靖国神社の境内の一角にある「遊就館」は、明治15年(1882年)に開館した日本初の軍事博物館で、歴史資料館として充実した展示内容になっています。<br />武士の時代から太平洋戦争に至るまでの日本の軍事史を一覧しながら、考えさせられたり感慨に浸りつつ展示物を見て回りました。<br /><3>市ヶ谷台ツアー<br />防衛省本省のある市ヶ谷地区は、戦前は陸軍士官学校、近衛師団の駐屯地、戦時中は陸軍参謀本部が置かれました。<br />戦後は陸上自衛隊・東部方面総監部、陸海空自衛隊の幹部学校が設置されていましたが、その後の再開発で2000年に防衛省本省が移転し、建物内の一部が見学できるようになりました。<br />因みに、東部方面総監部は朝霞駐屯地に、幹部学校は目黒駐屯地に移転し、六本木の旧防衛庁の跡地は現在、東京ミッドタウンになっています。<br />写真は、遊就館に展示されている艦上爆撃機「彗星」とロケット特攻機「桜花」。

靖国神社・遊就館と防衛省・市ヶ谷台ツアー

8いいね!

2017/10/11 - 2017/10/11

163位(同エリア232件中)

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79

ペコちゃん

ペコちゃんさん

人気が高い防衛省・市ヶ谷台ツアーの予約が取れたので、仲間7名で参加しました。
ツアーは午後からなので、午前中は防衛省に近い靖国神社へ参拝し、遊就館を見学。
<1>靖国神社
明治元年~明治2年の戊辰戦争を経て明治政府が樹立され、近代国家の道を歩み始めた日本ですが、戊辰戦争で新政府軍のために戦った戦没者(7,751柱)を招魂鎮斎するために、明治2年(1869年) 明治新政府により創祀された「東京招魂社」が始まりで、明治12年に「靖国神社」と改称されました。
その後の西南戦争・日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争までの戦没者(246万6584柱)が英霊として祀られています。
戦没者であっても反乱側に属する者は合祀されておらず、戊辰戦争時の新撰組や彰義隊、西南戦争時の西郷隆盛などは対象外です。
昭和21年に、日本国政府の管理を離れて宗教法人となった後、A級戦犯を合祀した関係で、中国・韓国がネガティブキャンペーンを行うことがありますが、尊い命を犠牲にして散った御霊を祀る靖国神社に参拝すると、いつまでも平和な国で有り続けて欲しいと思わずにはいられません。
<2>遊就館
靖国神社の境内の一角にある「遊就館」は、明治15年(1882年)に開館した日本初の軍事博物館で、歴史資料館として充実した展示内容になっています。
武士の時代から太平洋戦争に至るまでの日本の軍事史を一覧しながら、考えさせられたり感慨に浸りつつ展示物を見て回りました。
<3>市ヶ谷台ツアー
防衛省本省のある市ヶ谷地区は、戦前は陸軍士官学校、近衛師団の駐屯地、戦時中は陸軍参謀本部が置かれました。
戦後は陸上自衛隊・東部方面総監部、陸海空自衛隊の幹部学校が設置されていましたが、その後の再開発で2000年に防衛省本省が移転し、建物内の一部が見学できるようになりました。
因みに、東部方面総監部は朝霞駐屯地に、幹部学校は目黒駐屯地に移転し、六本木の旧防衛庁の跡地は現在、東京ミッドタウンになっています。
写真は、遊就館に展示されている艦上爆撃機「彗星」とロケット特攻機「桜花」。

旅行の満足度
5.0
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩

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  • 東京メトロ・九段下駅から歩いて、靖国神社へ向かいます。

    東京メトロ・九段下駅から歩いて、靖国神社へ向かいます。

  • 「靖国神社」・・・明治2年(1869年)に東京招魂社が建てられてから、2年後の平成31年には創立150年を迎えます。

    「靖国神社」・・・明治2年(1869年)に東京招魂社が建てられてから、2年後の平成31年には創立150年を迎えます。

  • 「第一鳥居(大鳥居)」・・・靖国神社の創建50周年記念として、大正10年に青銅製で建てられた大鳥居でしたが、第2次大戦の敗色が濃くなった昭和18年に、「風雨による老朽化」を理由に撤去され、軍事物資として供出されました。<br />その後は小さな檜の鳥居が建てられ、現在の鳥居は昭和49年に再建されたものです。<br />耐候性高張力鋼版を使用し、柱の内部はコンクリートを充填して補強、高さは25mで8階建のビル高さに相当する日本一の規模です。

    「第一鳥居(大鳥居)」・・・靖国神社の創建50周年記念として、大正10年に青銅製で建てられた大鳥居でしたが、第2次大戦の敗色が濃くなった昭和18年に、「風雨による老朽化」を理由に撤去され、軍事物資として供出されました。
    その後は小さな檜の鳥居が建てられ、現在の鳥居は昭和49年に再建されたものです。
    耐候性高張力鋼版を使用し、柱の内部はコンクリートを充填して補強、高さは25mで8階建のビル高さに相当する日本一の規模です。

  • 大鳥居をくぐると、大村益次郎の銅像があります。

    大鳥居をくぐると、大村益次郎の銅像があります。

  • 近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力した大村益次郎・・・この像は、明治26年(1893年)に日本最初の西洋式銅像として建てられました。

    近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力した大村益次郎・・・この像は、明治26年(1893年)に日本最初の西洋式銅像として建てられました。

  • 明治20年(1887)に建てられた「第二鳥居」・・・青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇ります。

    明治20年(1887)に建てられた「第二鳥居」・・・青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇ります。

  • 第二鳥居の先にある「神門」・・・昭和9年に建てられたもので、中央の二つの扉には、直径1.5mの菊の御紋があります。

    第二鳥居の先にある「神門」・・・昭和9年に建てられたもので、中央の二つの扉には、直径1.5mの菊の御紋があります。

  • 氏子を持たない靖国神社は、戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されていますが、財政的には厳しいようです。

    氏子を持たない靖国神社は、戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されていますが、財政的には厳しいようです。

  • 神門を進むと「中門鳥居」・・・現在の中門鳥居は平成18年に建て替えられたもので、埼玉県の檜が用いられています。

    神門を進むと「中門鳥居」・・・現在の中門鳥居は平成18年に建て替えられたもので、埼玉県の檜が用いられています。

  • 拝殿に入る中門の所に「皇族下乗」の立て札があります。<br />つまりここからは、皇族であっても乗り物から降りなくてはなりません。

    拝殿に入る中門の所に「皇族下乗」の立て札があります。
    つまりここからは、皇族であっても乗り物から降りなくてはなりません。

  • 「拝殿」は明治34年(1901)に建てられたもので、この前には賽銭箱が置かれており、通常はこの場所で参拝します。<br />明治5年に建てられた本殿は、この奥にあります。

    「拝殿」は明治34年(1901)に建てられたもので、この前には賽銭箱が置かれており、通常はこの場所で参拝します。
    明治5年に建てられた本殿は、この奥にあります。

  • 拝殿の屋根は、平成元年(1989)に葺き替えられました。

    拝殿の屋根は、平成元年(1989)に葺き替えられました。

  • 皆さん、久しぶりに靖国神社へお参りしました。

    皆さん、久しぶりに靖国神社へお参りしました。

  • 「能楽堂」は、明治14年に東京・芝公園に建てられたもので、明治36年に靖国神社に奉納、移築されました。<br />この舞台では、神霊を慰めるための能や日本舞踊などの芸能が行われます。

    「能楽堂」は、明治14年に東京・芝公園に建てられたもので、明治36年に靖国神社に奉納、移築されました。
    この舞台では、神霊を慰めるための能や日本舞踊などの芸能が行われます。

  • 戦争で死んだのは人間ばかりではありません。<br />戦争では軍馬や軍犬、伝書鳩も多くの命を失っています。<br />大東亜戦争だけでも軍馬20万頭、軍犬1万頭以上が戦場に導入されたそうです。<br />靖国会館(無料休憩所)の向かいに建つ「戦歿馬慰霊像」は実物大の軍馬の銅像で、戦場で倒れた馬の霊を慰めるため昭和33年に奉納されました。

    戦争で死んだのは人間ばかりではありません。
    戦争では軍馬や軍犬、伝書鳩も多くの命を失っています。
    大東亜戦争だけでも軍馬20万頭、軍犬1万頭以上が戦場に導入されたそうです。
    靖国会館(無料休憩所)の向かいに建つ「戦歿馬慰霊像」は実物大の軍馬の銅像で、戦場で倒れた馬の霊を慰めるため昭和33年に奉納されました。

  • 靖国会館の右側にある「遊就館」・・・遺品などを収蔵・展示する施設の遊就館は、明治15年に開館した後、関東大震災や東京空襲などで大きな被害を受けましたが、平成14年に改修・増築が行われました。

    靖国会館の右側にある「遊就館」・・・遺品などを収蔵・展示する施設の遊就館は、明治15年に開館した後、関東大震災や東京空襲などで大きな被害を受けましたが、平成14年に改修・増築が行われました。

  • 遊就館は、22部屋の展示室と2つの映像ホールがあり、エスカレーターで2階に上がって1階に降りる順路になっています。(入館料:800円)

    遊就館は、22部屋の展示室と2つの映像ホールがあり、エスカレーターで2階に上がって1階に降りる順路になっています。(入館料:800円)

  • 玄関ホールに入ると、いきなり本物のゼロ戦が展示されてます。<br />第二次世界大戦中に、海軍の艦上攻撃機として三菱重工で作られたゼロ戦の正式名称は「零式艦上戦闘機」・・・1万機が三菱と中島飛行機で生産され、戦争末期は特攻機として利用されました。

    玄関ホールに入ると、いきなり本物のゼロ戦が展示されてます。
    第二次世界大戦中に、海軍の艦上攻撃機として三菱重工で作られたゼロ戦の正式名称は「零式艦上戦闘機」・・・1万機が三菱と中島飛行機で生産され、戦争末期は特攻機として利用されました。

  • これも玄関ホールにある、泰緬鉄道C56型31号蒸気機関車・・・昭和11年に製造され、大東亜戦争中はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した機関車です。<br />昭和52年までタイで使用されていましたが、昭和54年にタイ国鉄から譲り受け、靖国神社に奉納されました。

    これも玄関ホールにある、泰緬鉄道C56型31号蒸気機関車・・・昭和11年に製造され、大東亜戦争中はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した機関車です。
    昭和52年までタイで使用されていましたが、昭和54年にタイ国鉄から譲り受け、靖国神社に奉納されました。

  • この後はエスカレーターで2階へ。<br />兵士像の後ろはガラスの金屏風になっています。

    この後はエスカレーターで2階へ。
    兵士像の後ろはガラスの金屏風になっています。

  • 仏郎機砲および子砲(複製)・・・天正7年頃に大友宗麟がポルトガルから入手し、豊後・臼杵城に配備していたもの。

    仏郎機砲および子砲(複製)・・・天正7年頃に大友宗麟がポルトガルから入手し、豊後・臼杵城に配備していたもの。

  • 文化勲章を受章した彫刻家・中村晋也(1926~)作の「かへりみはせじ」の像。

    文化勲章を受章した彫刻家・中村晋也(1926~)作の「かへりみはせじ」の像。

  • 同じく文化勲章を受章し、「長崎平和祈念像」を造った彫刻家・北村西望(1884~1987)作の「平和の女神」。

    同じく文化勲章を受章し、「長崎平和祈念像」を造った彫刻家・北村西望(1884~1987)作の「平和の女神」。

  • 歴代の天皇陛下が元帥に下賜された「元帥刀」・・・明治31年から昭和20年まで、陸軍・海軍の大将のうち、30人に元帥の称号が授けられました。

    歴代の天皇陛下が元帥に下賜された「元帥刀」・・・明治31年から昭和20年まで、陸軍・海軍の大将のうち、30人に元帥の称号が授けられました。

  • 「戦友」の銅像と「航空特攻出撃」のレリーフ。

    「戦友」の銅像と「航空特攻出撃」のレリーフ。

  • 1階の大展示室には、戦後、アジア・太平洋の戦地で収集された多くの戦跡収集品が展示されています。<br />これは「九三式魚雷三型」・・・日本海軍が世界に先駆けて開発した「酸素魚雷」で、のちに「人間魚雷・回天」の動力としてこの魚雷の機関が使用されました・・・国内では唯一の実物だそうです。

    1階の大展示室には、戦後、アジア・太平洋の戦地で収集された多くの戦跡収集品が展示されています。
    これは「九三式魚雷三型」・・・日本海軍が世界に先駆けて開発した「酸素魚雷」で、のちに「人間魚雷・回天」の動力としてこの魚雷の機関が使用されました・・・国内では唯一の実物だそうです。

  •  艦上爆撃機「彗星一一型」・・・昭和47年に中部太平洋の西カロリン諸島・ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見されたものです。

    艦上爆撃機「彗星一一型」・・・昭和47年に中部太平洋の西カロリン諸島・ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見されたものです。

  • ロケット特攻機「桜花」・・・約2トンの火薬を搭載し、母機に懸吊されて上空より敵艦目がけて体当たり攻撃を行う特攻機。<br />人間が乗り込んで敵艦に体当たりするために作られたもので、簡素な造りになっています。

    ロケット特攻機「桜花」・・・約2トンの火薬を搭載し、母機に懸吊されて上空より敵艦目がけて体当たり攻撃を行う特攻機。
    人間が乗り込んで敵艦に体当たりするために作られたもので、簡素な造りになっています。

  • 館内には、軍艦「武蔵」の模型や戦没者の遺影や遺品など、多くのものが展示されています。

    館内には、軍艦「武蔵」の模型や戦没者の遺影や遺品など、多くのものが展示されています。

  • 海軍大将・東郷平八郎の肖像画。

    海軍大将・東郷平八郎の肖像画。

  • 1階の売店。<br />戦争を美化しているなど批判されることもある遊就館ですが、実際にあったことを記録しておく場所として、このような資料館も必要ではないかと思いました。

    1階の売店。
    戦争を美化しているなど批判されることもある遊就館ですが、実際にあったことを記録しておく場所として、このような資料館も必要ではないかと思いました。

  • 靖国神社を出て市ヶ谷駅方面に歩いて行くと、法政大学・市ケ谷キャンパスがあります。<br />この建物は、市ヶ谷キャンパスのシンボル、ボアソナード・タワー(地上27階・地下4階)。

    靖国神社を出て市ヶ谷駅方面に歩いて行くと、法政大学・市ケ谷キャンパスがあります。
    この建物は、市ヶ谷キャンパスのシンボル、ボアソナード・タワー(地上27階・地下4階)。

  • 昼食は市ヶ谷駅の近くで。

    昼食は市ヶ谷駅の近くで。

  • 昼食後、歩いて防衛省正門へ。<br />市谷台ツアーは午後1:30から。

    昼食後、歩いて防衛省正門へ。
    市谷台ツアーは午後1:30から。

  • 敷地内に入る前に、全員が係員に免許証など身分証明書類を提示して、この「見学者用立入証」を受取ります。

    敷地内に入る前に、全員が係員に免許証など身分証明書類を提示して、この「見学者用立入証」を受取ります。

  • 見学者用立入証にはICチップが埋め込まれており、正門の自動改札にタッチして入場。<br />ツアー開始まで、正門脇で待機していると、係員が「多い日は100名にもなりますが、今日の皆さんはゆっくりご覧になれますヨ~」・・・今回は約30名。

    見学者用立入証にはICチップが埋め込まれており、正門の自動改札にタッチして入場。
    ツアー開始まで、正門脇で待機していると、係員が「多い日は100名にもなりますが、今日の皆さんはゆっくりご覧になれますヨ~」・・・今回は約30名。

  • この地は、かつて尾張徳川家の上屋敷があった場所。<br />明治時代には陸軍士官学校として使用され、さらに、太平洋戦争時代には陸軍参謀本部、大本営陸軍部が 置かれていたという、常に日本の国の「最前線基地」なのです。<br />2000年に六本木から移転して、もう13年経ちますが、まだ新築の風情があります。

    この地は、かつて尾張徳川家の上屋敷があった場所。
    明治時代には陸軍士官学校として使用され、さらに、太平洋戦争時代には陸軍参謀本部、大本営陸軍部が 置かれていたという、常に日本の国の「最前線基地」なのです。
    2000年に六本木から移転して、もう13年経ちますが、まだ新築の風情があります。

  • 市ヶ谷台ツアーは午前・午後の2回あり、午後のツアーは 《 正門 → 儀仗広場(西側) → 屋外ヘリ展示場 → 市ヶ谷記念館 → 厚生棟(広報展示室 →1階で見学・休憩) → 儀仗広場(東側) → 正門 》 というコースで、距離にして約1.3km、所要時間は約2時間。<br />市ヶ谷庁舎群は『平等院鳳凰堂』をイメージした『伽藍建築』の形状で、各棟の屋上部は地域環境との調和を図るため、銅瓦葺の緑青色になっています。

    市ヶ谷台ツアーは午前・午後の2回あり、午後のツアーは 《 正門 → 儀仗広場(西側) → 屋外ヘリ展示場 → 市ヶ谷記念館 → 厚生棟(広報展示室 →1階で見学・休憩) → 儀仗広場(東側) → 正門 》 というコースで、距離にして約1.3km、所要時間は約2時間。
    市ヶ谷庁舎群は『平等院鳳凰堂』をイメージした『伽藍建築』の形状で、各棟の屋上部は地域環境との調和を図るため、銅瓦葺の緑青色になっています。

  • 「見学者立入証」を首からぶら下げて隊列を組んで正門を出発。<br />市ヶ谷「台」というだけあって起伏のある敷地で、海抜は31.4mあり、自然の地形としては都内23区で1番の高さです。 <br />階段もありますが、見学者はエスカレーターで上がります。

    「見学者立入証」を首からぶら下げて隊列を組んで正門を出発。
    市ヶ谷「台」というだけあって起伏のある敷地で、海抜は31.4mあり、自然の地形としては都内23区で1番の高さです。
    階段もありますが、見学者はエスカレーターで上がります。

  • 儀仗広場(東側)から見たA棟(左)およびD棟(右)。

    儀仗広場(東側)から見たA棟(左)およびD棟(右)。

  • 儀仗広場(西側)の正面は、敷地内で一番高いA棟・・・屋上には都内最大規模のヘリポートもある防衛の中枢ビルで、大臣室をはじめ内部部局、統合幕僚監部、陸・海・空各幕僚監部等の防衛の中枢機関が使用しています。

    儀仗広場(西側)の正面は、敷地内で一番高いA棟・・・屋上には都内最大規模のヘリポートもある防衛の中枢ビルで、大臣室をはじめ内部部局、統合幕僚監部、陸・海・空各幕僚監部等の防衛の中枢機関が使用しています。

  • 中学生が社会科見学で訪れています。

    中学生が社会科見学で訪れています。

  • 「儀仗広場」・・・国賓や高官などに対して敬意を表する「儀仗(ぎじょう)」が行われる場所です。

    「儀仗広場」・・・国賓や高官などに対して敬意を表する「儀仗(ぎじょう)」が行われる場所です。

  • 儀仗広場の国旗掲揚台横の生垣に2つある石灯籠・・・和の風景を大切にしていると思ったら、実は「目隠し」で、この下には地下壕があり、通風孔が上空から見つからないようにしたもの。

    儀仗広場の国旗掲揚台横の生垣に2つある石灯籠・・・和の風景を大切にしていると思ったら、実は「目隠し」で、この下には地下壕があり、通風孔が上空から見つからないようにしたもの。

  • 屋外ヘリ展示場には、陸上自衛隊で実際に使用されていた多用途ヘリ「UH-1H(ひよどり)」を展示しています。<br />昭和52年の富士重工(機体)・川崎重工(エンジン)製で、定員はパイロット(2名)+11名。

    屋外ヘリ展示場には、陸上自衛隊で実際に使用されていた多用途ヘリ「UH-1H(ひよどり)」を展示しています。
    昭和52年の富士重工(機体)・川崎重工(エンジン)製で、定員はパイロット(2名)+11名。

  • こんな間近でヘリを見るのは、初めて。

    こんな間近でヘリを見るのは、初めて。

  • 通信塔のあるB棟は、陸・海・空各自衛隊の通信関連の建物で、屋上アンテナの高さは220mもあります。

    通信塔のあるB棟は、陸・海・空各自衛隊の通信関連の建物で、屋上アンテナの高さは220mもあります。

  • ツアーのメインは、この「市ヶ谷記念館」の見学・・・市ヶ谷記念館は、現庁舎のA棟の所にあった旧1号館を解体した際の部材を可能な限り利用し、象徴的な部分を移設・復元した建物です。

    ツアーのメインは、この「市ヶ谷記念館」の見学・・・市ヶ谷記念館は、現庁舎のA棟の所にあった旧1号館を解体した際の部材を可能な限り利用し、象徴的な部分を移設・復元した建物です。

  • 旧1号館は、昭和12年に陸軍士官学校本部として建てられ、戦時中は大本営陸軍部、参謀本部などとして利用。<br />戦後は米軍に接収され、大講堂で極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷やGHQ司令部として使用され、昭和34年に返還された後は、陸自東部方面総監部および陸・海・空自衛隊隊幹部学校などで使用されました。<br />昭和45年には、バルコニーや旧陸軍大臣室で三島由紀夫事件が起きるなど、数々の歴史を見てきた建物です。

    旧1号館は、昭和12年に陸軍士官学校本部として建てられ、戦時中は大本営陸軍部、参謀本部などとして利用。
    戦後は米軍に接収され、大講堂で極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷やGHQ司令部として使用され、昭和34年に返還された後は、陸自東部方面総監部および陸・海・空自衛隊隊幹部学校などで使用されました。
    昭和45年には、バルコニーや旧陸軍大臣室で三島由紀夫事件が起きるなど、数々の歴史を見てきた建物です。

  • 入り口と反対側にある玉座側から見た大講堂・・・入口から玉座方向に上りの傾斜をつけ、2階席と玉座が同じ目線になるようにしたり、天井を高く見せるためにドアのふちを大きくするなど、工夫が施されています。<br />天井の照明は、創建当時のもの。

    入り口と反対側にある玉座側から見た大講堂・・・入口から玉座方向に上りの傾斜をつけ、2階席と玉座が同じ目線になるようにしたり、天井を高く見せるためにドアのふちを大きくするなど、工夫が施されています。
    天井の照明は、創建当時のもの。

  • 寄木の床板(7200枚)は、損傷の激しい399枚を除いて創建当時のもので、番号を振って正確に同じ順番で移築したそうです。<br /><br />

    寄木の床板(7200枚)は、損傷の激しい399枚を除いて創建当時のもので、番号を振って正確に同じ順番で移築したそうです。

  • ツアーは、最初にビデオ「市ヶ谷台の歩み」を観てから、大講堂内を見学。<br />ビデオ内の極東軍事裁判の箇所で再生を一時中断し、大講堂がどのように使われたのか説明がありました。<br />ここで、極東軍事裁判が行われたのだと思うと、複雑な心境になります。

    ツアーは、最初にビデオ「市ヶ谷台の歩み」を観てから、大講堂内を見学。
    ビデオ内の極東軍事裁判の箇所で再生を一時中断し、大講堂がどのように使われたのか説明がありました。
    ここで、極東軍事裁判が行われたのだと思うと、複雑な心境になります。

  • 正面の舞台の上は、天皇陛下の玉座・・・戦前は、昭和天皇も行事などでよく来られていたようです。

    正面の舞台の上は、天皇陛下の玉座・・・戦前は、昭和天皇も行事などでよく来られていたようです。

  • 織布も豪華なもの。

    織布も豪華なもの。

  • 舞台の右側に造られた、玉座への天皇陛下専用の階段。<br />人が立っている左隣が一般用の階段。

    舞台の右側に造られた、玉座への天皇陛下専用の階段。
    人が立っている左隣が一般用の階段。

  • 専用階段の横板は中央が丸みを帯び、足が馴染むように工夫が施されています。

    専用階段の横板は中央が丸みを帯び、足が馴染むように工夫が施されています。

  • 館内の左右には、軍服・軍刀や極東軍事裁判の写真など、多数の史料が展示されています。

    館内の左右には、軍服・軍刀や極東軍事裁判の写真など、多数の史料が展示されています。

  • ステッキの仕込刀や銃剣・青龍刀などの展示。

    ステッキの仕込刀や銃剣・青龍刀などの展示。

  • 日露戦争時の荒木貞夫大将が愛用した軍刀。

    日露戦争時の荒木貞夫大将が愛用した軍刀。

  • 大東亜戦争の指揮官・今村均中将が着用した勲一等瑞宝章(左)と勲一等旭日大綬章(右)。

    大東亜戦争の指揮官・今村均中将が着用した勲一等瑞宝章(左)と勲一等旭日大綬章(右)。

  • 昭和22年の極東軍事裁判の様子・・・まさに、この大講堂で行われました。

    昭和22年の極東軍事裁判の様子・・・まさに、この大講堂で行われました。

  • 大講堂の照明は控えめですが、裁判の時は眩しいほどの照明を増設したそうです。

    大講堂の照明は控えめですが、裁判の時は眩しいほどの照明を増設したそうです。

  • 1946~48年に開かれた極東軍事裁判で、連合国11カ国は「A級戦犯」(28名)を裁きました。

    1946~48年に開かれた極東軍事裁判で、連合国11カ国は「A級戦犯」(28名)を裁きました。

  • 映画『硫黄島からの手紙』で、渡辺謙が演じた栗林中将の写真や絵手紙も展示されています。

    映画『硫黄島からの手紙』で、渡辺謙が演じた栗林中将の写真や絵手紙も展示されています。

  • 「極東軍事裁判壁掛地図」。

    「極東軍事裁判壁掛地図」。

  • 米軍と戦った大東亜戦争の足跡です。

    米軍と戦った大東亜戦争の足跡です。

  • 入口上の2階席から玉座をみると、目線が一緒になります。<br />遠近法を巧みに利用し、実際の奥行よりも更に深く広く見えるように設計されているそうで、1階の講堂で見た距離よりも演壇までが遠く感じられます。<br />極東軍事裁判の時には、一般傍聴人席として2階席が使われました。

    入口上の2階席から玉座をみると、目線が一緒になります。
    遠近法を巧みに利用し、実際の奥行よりも更に深く広く見えるように設計されているそうで、1階の講堂で見た距離よりも演壇までが遠く感じられます。
    極東軍事裁判の時には、一般傍聴人席として2階席が使われました。

  • 2階の旧陸軍大臣室にある旧1号館の模型・・・中央に講堂がある巨大な建物で、現在は、正面玄関と大講堂および2階の大臣室・テラス・「旧便殿の間」が移築されています。

    2階の旧陸軍大臣室にある旧1号館の模型・・・中央に講堂がある巨大な建物で、現在は、正面玄関と大講堂および2階の大臣室・テラス・「旧便殿の間」が移築されています。

  • 「三島事件」・・・昭和45年に三島由紀夫らが旧陸軍大臣室(事件当時は陸自・東部方面総監室)に立てこもり、割腹自殺を図った衝撃的な事件でした。

    「三島事件」・・・昭和45年に三島由紀夫らが旧陸軍大臣室(事件当時は陸自・東部方面総監室)に立てこもり、割腹自殺を図った衝撃的な事件でした。

  • 部屋の扉には、その時の乱闘でついたた生々しい刀傷が残されています。

    部屋の扉には、その時の乱闘でついたた生々しい刀傷が残されています。

  • 「旧便殿の間」は、天皇陛下が式典などで来訪した際に、休憩所として使われた部屋です。<br />戦後は、陸上自衛隊幹部学校の校長室として利用されました。

    「旧便殿の間」は、天皇陛下が式典などで来訪した際に、休憩所として使われた部屋です。
    戦後は、陸上自衛隊幹部学校の校長室として利用されました。

  • 室内には、昭和9年に群馬県で行われた特別大演習時の集合写真が展示されています。

    室内には、昭和9年に群馬県で行われた特別大演習時の集合写真が展示されています。

  • 3,800名の将兵の写真。

    3,800名の将兵の写真。

  • 天皇陛下・東条英機・山本五十六なども写っているようです。

    天皇陛下・東条英機・山本五十六なども写っているようです。

  • 内山小二郎大将が大正天皇から拝領した煙草盆。

    内山小二郎大将が大正天皇から拝領した煙草盆。

  • 市ヶ谷記念館から厚生棟に向かう途中にある隊舎B棟・・・ここは自衛官の宿舎で、市ヶ谷駐屯地内では約800人が住んでおり、理髪店・食堂などもあります。

    市ヶ谷記念館から厚生棟に向かう途中にある隊舎B棟・・・ここは自衛官の宿舎で、市ヶ谷駐屯地内では約800人が住んでおり、理髪店・食堂などもあります。

  • 厚生棟は、職員の福利厚生の場で、中には食堂、売店、体育館、図書室、医務室や保育園などがあります。<br />ここで20分ほどの休憩&ショッピングタイム・・・コンビニやスタバ、サブウェイの他、お土産物屋さん、宝くじ売り場などがあります。

    厚生棟は、職員の福利厚生の場で、中には食堂、売店、体育館、図書室、医務室や保育園などがあります。
    ここで20分ほどの休憩&ショッピングタイム・・・コンビニやスタバ、サブウェイの他、お土産物屋さん、宝くじ売り場などがあります。

  • 厚生棟の2階は広報展示館。<br />シアタールーム、各自衛隊等の展示コーナーおよびパソコンによる情報コーナーがあります。

    厚生棟の2階は広報展示館。
    シアタールーム、各自衛隊等の展示コーナーおよびパソコンによる情報コーナーがあります。

  • 航空自衛隊のコーナーに展示された、ブルーインパルスの航空ショーのパネル。<br />靖国神社・遊就館・市ヶ谷台と回り、平和を守るために何が出来るか考えさせられた一日でした。

    航空自衛隊のコーナーに展示された、ブルーインパルスの航空ショーのパネル。
    靖国神社・遊就館・市ヶ谷台と回り、平和を守るために何が出来るか考えさせられた一日でした。

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