1976/08/05 - 1976/08/11
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ノスタルジアさん
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1974年(昭和49年)7月から8ヶ月間、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを旅して来たが、その間会社を休職扱いにして貰っていたのでおとなしくしていたが2年経って我慢しきれなくなって夏季休暇を利用して旅する事にした。
行先は小笠原、1968年(昭和43年)6月に本土復帰して7年経っていたが、さほど観光地化していない、それよりも船で行ける事が一番の理由だった。父島まで東京竹芝桟橋から約1,000キロ、航海時間は片道38時間で2泊3日、父島での滞在は2泊3日、帰りの船2泊3日で計6泊7日の旅だった。
ちなみに現在、就航しているおがさわら丸(3代)は航海時間24時間で随分近くなったものである。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昭和51年8月6日(金)小笠原海運父島丸から夕陽を撮る。
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昭和51年8月7日(土)父島 観光地図
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昭和51年8月7日(土)小笠原海運 父島丸 父島二見港
父島丸は当初、浮島丸として関西汽船の阪神~琉球問定期航路貨客船として、1959年12月18日に進水、1960年3月20日に竣工し同年4月1日から阪神~奄美~沖縄航路に就航した。
1973年3月、小笠原海運に売却され、父島丸となり、椿丸の代船として同年4月8日から東京~小笠原航路1,000キロに就航した。当時の航海時間は片道38時間であった。
1979年4月、おがさわら丸 (初代)の就航により台湾の長栄海運に売却され、EVER TRAININGとなり、航海練習船として使用された。
1984年10月、スクラップのため高雄に回航され、その後解体された。
当時の父島丸丸は竣工して15年経っており、かなりの老朽船で大きさは2,600トン。東京湾を出てから台風も来ていないのに船は大きく揺れ始め、船室内にははギーギーときしむ音が響き今にも船体が折れてしまうのではないかと心配した。前後左右に大きく傾くたびに床に置かれた荷物も横すべりして客室の壁にぶつかって止まり、同じ2等客室にいるほとんどの人が船酔い状態で自分の横に寝ていた若い女性の顔色が悪く今にも死にそうだったので船医室に駆け込んで診に来てくれと言ったが、それは単なる船酔いで島に着く頃には慣れるからと言って取り合ってはくれず、結局、その若い女性は一度も食事も出来ず寝たきりで下船する時は立つのがやっとで船員に支えられてタラップを降りて行った。自分は、というと立って歩くと酔うので横になっている事が多かった。船旅は慣れていて、沖縄航路の船員か教えてくれた船酔い防止の秘訣、揺れに身を任せるのではなく、合わせる事によって酔わなかったのである。食欲はそんなに無かったが、食事は船賃に含まれていたのでもったいないので全部食べた。 -
昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
僅か2泊3日の滞在なので父島に到着して宿にチェックインした後、すぐに動き始めた。船から降りるといつも天地がゆらゆらとゆっくり動くのだが、山登りを始めた頃にはそれも治まっていた。 -
昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台で
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山ウェザーステーション展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月7日(土)父島 三日月山展望台から
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昭和51年8月6日(土)父島 初寝浦展望台から北初寝浦
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昭和51年8月7日(土)父島 夜明山(標高307.4m)頂上付近で
海軍通信所跡の隣にある首なし尊徳像は、爆撃により首をもがれた二宮尊徳像がそのまま今日まで残されている。 -
昭和51年8月8日(日)父島で一番大きなビーチといわれている小港海岸
昨日で島の観光スポット巡りは終ったので、今日は海水浴に出掛けた。
小港海岸まで車で30分程で宿が送迎してくれた。 -
昭和51年8月8日(日)父島 小港海岸
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昭和51年8月8日(日)父島 小港海岸
天気は薄曇りで海の色もエメラルドグリーンには程遠く、そのせいか閑散としていた。 -
昭和51年8月8日(日)父島 小港海岸で
車で送迎してくれた宿のバイトの娘、宿は暇なのか海水浴に付き合ってくれたが、遠距離恋愛には遠過ぎた。 -
昭和51年8月8日(日)父島 小港海岸で
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昭和51年8月9日(月)父島 小港海岸聖ジョージ教会 米軍統治時代からの教会
3日目、行く所がないので仕方なく行った教会、鍵が掛かっていて中に入れず。 -
昭和51年8月9日(月)父島 二見港
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昭和51年8月9日(月)父島 二見港
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昭和51年8月9日(月)父島 境浦 濱江丸
最終日で帰る日だったが、陽が差し天気も良かったので海水浴に出掛けた。 -
昭和51年8月9日(月)父島 境浦 濱江丸
濱江丸(ひんこうまる)5,418トンは、大連汽船が1936年に建造したばら積み貨物船。太平洋戦争で日本海軍に徴用され、1944年に空襲により父島で大破放棄された。残骸が戦後も長く放置され、観光スポットとなっている。 -
民間商船として就役した濱江丸は満州産の石炭を日本本土へ運んでいた。太平洋戦争の勃発後も民需船として運航されていたが、戦争後期の1944年(昭和19年)4月10日付で日本海軍により海軍省の一般徴用船(特設艦船ではない徴用船)として徴用された。マリアナ諸島方面の輸送任務に投入され、同年5月17日から25日には第3515船団(輸送船12隻・護衛艦8隻)へ加入して航海し、館山湾からサイパン島へ無事に到着した。
1944年6月11日、サイパン島へ侵攻してくるアメリカ軍から逃れるため、濱江丸は第4611船団に加入して日本本土への退避を開始した。アメリカ海軍第58任務部隊の空襲を受けて船団は壊滅状態となったが、本船は損傷しつつも同月21日に硫黄島へ到達できた。その後、特設駆潜艇「文丸」と航空機の援護を受けて父島まで移動した。
父島の二見湾に碇泊中の同年7月4日に再びアメリカ海軍機動部隊の空襲を受けた際、被弾を免れるものの座礁してしまった。同年8月4日から5日にまたもアメリカ海軍機動部隊の空襲を浴びた濱江丸は、5日に魚雷の命中を受けて炎上し、全損となった。写真、説明文はウィキペディアから引用しました。 -
昭和51年8月9日(月)父島 境浦 濱江丸
キラキラとエメラルドグリーンに輝く海に潜ると色とりどりの魚が泳いでいた。魚の群れに付いて行くと濱江丸に着いた。錆び付いた船底は人工漁礁となっていて多くの魚が出入りしていた。海中に差し込む陽光によって泳ぐ魚の群れはガラス越しに見る水族館のようだった。
手に持っているのは流れ着いたヤシの実ではなくパイナップル。 -
昭和51年8月9日(月)父島 境浦
海から上がって浜で寝そべって全身くまなく肌をトースト焼きにして一人満悦していた。というのも1975年から76年は若者に「アグネス・ラムフィーバー」が起きていて日焼けブームだったからである。ところが帰ってからしばらくして新聞に「夏の日焼け! 肌の老化と皮膚がんのリスク!」の記事が載ったのである。こんな記事、夏前に出せば良いものを、夏が終わる頃に出しやがって、と一人憤慨した。 -
昭和51年8月9日(月)父島 二見港
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昭和51年8月9日(月)父島 二見港
出港の際には多くの島民が見送りに来てくれてこれには感動した。 -
昭和51年8月9日(月)父島~東京竹芝桟橋
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昭和51年8月9日(月)父島~東京竹芝桟橋
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昭和51年8月9日(月)父島~東京竹芝桟橋
帰りの船はほとんど揺れなかった。
今回の旅について云えば、海水浴に行っただけ、という感じで、1回行けば良い、また行くほどの所では無い、と思った。
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