2017/06/13 - 2017/06/13
2位(同エリア8件中)
ベームさん
6/13(火)、20日目。
昨日ブルゴーニュから帰ってきて今日はパリから日帰りでモレ・シュル・ロワンへ、さらにパリに戻りマルモッタン・モネ美術館へ行きました。
パリの南東80キロ、フォンテーヌブローの森の尽きる辺りにたたずむ中世の城塞都市モレ・シュル・ロワンは印象派の画家アルフレッド・シスレーが愛しその最期を迎えた地です。
シスレーが描いた風景、とくにロワン川の岸辺の景色をこの目で見たいと思いました。
写真はロワン川の風景。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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リヨン駅。
迷彩服の兵士。今回の旅行ではこういう場面にあまり出くわしませんでした。
主要駅の警備は2014年の時の方が物々しかったように思います。 -
朝のリヨン駅。
8時49分発のTERに乗ります。
切符はモビリス1~5ゾーン、17.3ユーロ。
後ろは有名なレストラン、ル・トラン・ブルー。 -
途中、国王の森駅。
ここら辺は広大な王家の領地だったのでしょう。 -
フォンテーヌブロー駅。
何回かフランスに来ていますがフォンテーヌブロー宮殿には行かずじまいです。
ナポレオンと縁が深い宮殿のようで、軍人はあまり好きではないので。 -
グーグルアースで見るとフォンテーヌブローの広大な森が尽きる辺り、モレ・ヴニュー・レ・サブロン駅で降ります。
モレ・シュル・ロワンへはここから歩きます。 -
駅員にモレ・シュル・ロワンはどっちだと訊くとこのホームをまっすぐ真っすぐという。まっすぐ真っすぐホームの端まで行ってホームから落ちかかっていると、そこにいた駅員がどこに行くのかと訊くのでモレ・シュル・ロワンだと言うと、ここからは降りられない、引き返せという。
やむなく引き返すと途中に気が付かなかったホームから降りる石段がありました。フランスの鉄道は改札が無いので駅舎を通らなくともホームに自由に出入りできるのです。 -
アヴェニュー・ド・ラ・ガール/駅大通りをひたすら真っすぐ歩きます。
遥かにモレ・シュル・ロワンの入り口サモワ門が見えてきました。 -
途中1962年3月19日ロータリー。
どういう日なのか調べてみると、1954年から続いていたアルジェリア民族解放戦線とフランスとの間のアルジェリア独立戦争の終結の協定/エビアン協定が締結された日でした。これによりアルジェリアは悲願の独立を達成します。
フランスには過去の歴史的な出来事が起こった日を通りや広場の名前に使うことが多いようです。 -
その先のジャン・ジョーレス大通り。
これは第1次世界大戦勃発の前日に右翼愛国主義者により暗殺された社会主義の政治家です。遺体はパリのパンテオンに葬られています。フランスは社会主義者をも国の霊廟に迎え入れる度量を持っています。 -
サモワ広場。
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モレ・シュル・ロワンの入り口サモワ門。
歩くこと25分は掛かったでしょうか、ようやく到着です。 -
広場の隅にアルフレッド・シスレーの像。1911年に一般からの寄付金で建てられました。失礼、頭のてっぺんが切れていました。
この女性は二つの意味を表しているそうです。
一つはロワン川、もう一つは芸術の女神ミューズ。 -
観光案内所です。
感じの良い係員の応対でした。日本人と名乗る前に日本語のパンフレット、地図を出してくれました。嬉しいですねえ。シスレーが好きな日本人が多いのでしょう。 -
門を潜ると街を東西に横切るグランド・リュ/大通りです。
街なかを突っ切って先にロワン川に出ます。と云っても端から端まで数百メートルの小さな町です。 -
グランド・リュの終わりにもう一つ門があります。
ブルゴーニュ門。 -
ブルゴーニュ門を潜って外側から。
ロワン川に架かるモレ橋から。 -
ラ・ポルト・ド・ブルゴーニュ、12世紀末の建設です。
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モレ橋の上からのロワン川。
右の建物は大麦糖博物館。川中島にありモレ橋から橋で渡ります。 -
大麦糖博物館。
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モレ橋を渡りました。
目指すはシスレーがロワン川の情景を描いた場所です。 -
橋を渡るとルクレルク広場。左に曲がるとロワン川の岸辺に出ます。
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最初のポイントが橋の袂にありました。
「モレ橋」。1893年。 -
一寸角度が違いました。
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セーヌ川の支流ロワン川の岸辺に降りてきました。
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美しい景色です。シスレーならずとも画家ならだれでも絵心を掻き立てられるとおもいます。
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ロワン川とモレ橋とノートルダム教会とブルゴーニュ門。
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ここにもシスレーが絵を描いたポイントがあります。
アルフレッド・シスレー(1839~1899)はてっきりフランス人と思っていましたがイギリス人なのですね。でもその制作活動の大部分はフランスでした。
1839年イギリス人の富裕な商人の子としてパリで生まれています。 -
「モレ・シュル・ロワン」。1891年。
父の後を継いで商人になるべく18歳の頃ロンドンに渡り商業を学びますが、そこでターナーやコンスタブルの絵を見て画家になることにしパリに戻ります。
パリでモネ、ドガ、ルノワールなどと知り合います。 -
シスレーの繪。ノートルダム教会、ブルゴーニュ門とモレ橋が描かれています。
彼らの絵はなかなか世間に受け入れられず売れませんでしたがシスレーは父の援助があり他の画家よりは恵まれていました。
ところが1870年普仏戦争の勃発に関連し父の事業が破産してしまいます。
一転すでに妻と二人の子を抱えてシスレーの困窮の生活が始まりました。 -
120年前、画家がここに座ってこの風景を描いたのです。
パリ、ブージヴァル、ルーヴェシェンヌ・ポール・マルリと居を変えながら風景画を描き続けたシスレー。1889年終焉の地となるモレ・シュル・ロワンに居を移します。1899年、妻の死後数か月のちシスレーは亡くなります。妻もシスレーも共に癌でした。 -
ノートルダム教会とブルゴーニュ塔とモレ橋、変わらない景色です。
900点近い作品の大部分はパリ周辺、イル・ド・フランスの風景画でした。多くの印象派の画家がその作風を変えていくなかシスレーは最後まで印象派の技法を変えませんでした。ピサロはシスレーをこう評したそうです。「彼こそ典型的な印象派の画家だ」。 -
引いて一枚。この風景何枚撮っても飽き足りません。
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鴨が沢山泳いできました。
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鰐が出た!!
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巨大な鰐が口を開いているように見えます。
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水車。
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皮なめしに使われていたそうです。
モレ・シュル・ロワンは木材、ワイン、なめし皮をセーヌ川経由パリへ積み出す河川貿易で栄えました。 -
「洗濯女」。1888年。
川沿いに洗濯場というのはあちこちにあります。水道の普及する前は川の水は綺麗だったのでしょう。 -
ここですね。
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ここかな。
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カミーユ・ピサロもこの場所で絵を描いています。
「モレ、ロワン運河」。1902年。 -
「モレ・シュル・ロワン、雨」。1888年。
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上の絵はモレ橋の手前からノートルダム教会とブルゴーニュ門を描いています。
道路の舗装が変ったくらいで他は変わっていませんね。 -
橋を戻ります。
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ミュゼー・シュークル・ドルジュ/大麦糖博物館。
大麦糖のことは後で。 -
博物館へ渡る橋がモレ橋から突き出ています。クローズでした。
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モレ橋を戻ってきました。大通りです。
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エグリーズ通りにそれるとノートルダム教会があります。
シスレーは度々この教会を描いています。ただ私はその絵には出会っていません。 -
12~15世紀にかけ造られました。
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身廊。
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入口方向。
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宙に浮かぶオルガン。よく落ちないものです。
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おお、ここにもジャンヌ・ダルクが。
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教会の前。
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教会の向かいに町で一番古い15世紀の木組みの家が建っています。
メゾン・ド・シュークル・ドルジュ。大麦糖本舗です。 -
大麦糖とは大麦を煮出した汁に砂糖を混ぜ煮詰めて固めた飴のことです。
1638年、モレのベネディクト会の修道女が作りはじめたもので、爾来400年近くモレ・シュル・ロワンの名産物となっています。
その美味しさは庶民から王侯貴族にまで好まれたそうです。 -
1638年。モレの修道女のシュークル・ドルジュ/大麦糖。
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ここでお土産に大麦糖/シュークル・ドルジュを買いました。
中に入っていた栞と実物です。
飴は棒状のもの、丸い物などがありました。 -
もう少し先、右ドン・ジョン通りと左モンマルトル通りの角に白っぽい塀があります。
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これがアルフレッド・シスレーの住みかつ終の棲家となった家です。
「アルフレッド・シスレー。印象派の画家。この家に住みここで死す。
1899年1月29日」。 -
1889年から死の1899年まで住んでしました。
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ノートルダム教会からすぐの所です。
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塀の中はこんな立派な家です。貧しかったというシスレー、この家に住んでいたのでしょうか。
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ルノワールが描いた睦まじいシスレーと妻ウジェニーです。
ウジェニーは貧しいなか最後までシスレーを助け忠実な妻だったそうです。シスレーが妻の死後数か月で亡くなったのもそのショックがあったのでしょう。 -
ドン・ジョン通りにドン・ジョンがありました。
モレ・シュル・ロワンは中世は城塞都市だったのです。 -
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ドン・ジョン。
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大通りに戻りました。通りの先にはサモワ門。
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小さな町の中心、市役所広場。
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長四辺形の広場です。
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広場を囲む建物。
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役場。町役場?、村役場?。
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市役所の隣にポワン・シスレー。なんと訳せばよいのでしょう。シスレーの店、専門店。シスレーに関するいろんなグッズがあるようです。
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ここにはこんな出来事があったのです。
「ナポレオン1世。
エルバ島から帰還の途中1815年3月19日から20日にかけての夜この部屋に立ち寄った」。
再起をかけてエルバ島を脱出しパリに帰る途中のことです。この町は丁度そのルート上にあったのですね。 -
ラコレ邸、元ギルド・ホール。
右に建つ像は第1次世界大戦の戦死した兵士の慰霊碑。 -
郵便局。
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役所の裏にあるシャボーイエ邸のフランソワ1世の回廊。
フランソワ1世の財務官でした。 -
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左アンリ2世(フランソワ1世の息子)、中その愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ、右フランソワ1世だそうです。
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フランソワ1世の紋章サラマンダーが浮き彫りにされています。王への忠誠心の顕れでしょうか。
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露店市が開かれていました。
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ジャン・ジョーレス通りをてくてく歩き、モレ・ヴニュー・レ・サブロン駅に戻り12時53分のRERでパリに帰りました。
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一旦ホテルで休んでまた出かけました。マルモッタン・モネ美術館へ行きます。
地下鉄1号線リヨン駅。
車内放送:日本語で「足元にご注意ください」。 -
フランクラン・D・ローズヴェルト駅で6号線に乗換え。
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ラ・ミュエット駅で降ります。
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ラ・ミュエット付近。
16区、少し先はブーローニュの森でパリ市街のほぼ西端です。 -
ラヌラグ公園の中をしばらく歩きます。
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左マルモッタン・モネ美術館。
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バルザック像。
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マルモッタン・モネ美術館です。ラ・ミュエット駅から10分ほどでした。
美術収集家ポール・マルモッタンの邸宅と収集品がその死後の1934年に美術館として公開されました。ただし収蔵されているうちモネ他印象派の絵の殆どは、モネの主治医だったジョルジュ・ド・ベリオの収集品が遺族より寄贈されたもの、およびモネの二男ミシェル・モネより寄贈されたものだそうです。 -
パンフレット。
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写真撮影禁止なので幾つか求めた絵葉書をスキャンしました。
ちょうどカミーユ・ピサロ回顧展が催されていました。ポントワーズのカミーユ・ピサロ美術館であまりピサロの作品が無く少しくがっかりしたので非常に幸運でした。今展示されているのは各地の美術館、収蔵家から貸し出されたものです。
カミーユ・ピサロ:小枝を持った羊飼いの娘。
1881年。 -
カミーユ・ピサロ:田舎の若いメイド。
1882年。 -
カミーユ・ピサロ:干し草刈りの女。
1884年。 -
カミーユ・ピサロ:えんどう豆の収穫。
1887年。 -
カミーユ・ピサロ:ポントワーズ、ポテュイ河岸。
1868年。
ポントワーズでこの絵が描かれた場所を見てきました。 -
カミーユ・ピサロ:並木道、雪の効果。
1879年。 -
エドゥアール・マネ(1832~1883):横たわるベルト・モリゾーの肖像。
1873年。
ベルト・モリゾーはマネの弟子であると同時に彼のモデルも務めました。後にはマネの弟と結婚し義妹となります。 -
ベルト・モリゾー(1841~1895):ブージヴァルの庭のユジェーヌ・マネと娘。
1881年。
ベルトはエドゥアール・マネの弟ユジェーヌ・マネと結婚しています。 -
ベルト・モリゾー:青いジャージーの娘。
1886年。
多分8歳の娘ジュリーでしょう。モリゾーの描く絵はどれも女性らしい優しさにあふれていてとても好きです。 -
ベルト・モリゾー:サクランボ摘み。
1891年。 -
ベルト・モリゾー:立葵/タチアオイ。
1884年。 -
ベルト・モリゾー:横たわる羊飼いの娘。
1891年。 -
ベルト・モリゾー:舞踏会にて。
1875年。 -
オーギュスト・ルノワール(1841~1919):ジュリー・マネの肖像。
1894年。
ジュリー・マネはユジェーヌ・マネとベルト・モリゾーの娘でこの時16歳です。 -
クロード・モネ:トゥルーヴィルの浜辺で。
1871年。
モネの収蔵品はマルモッタン・モネ美術館最大の財産です。 -
クロード・モネ:印象、日の出。
1872年。
これが”印象派”の名前の由来となった絵です。 -
クロード・モネ:ルーアン大聖堂、太陽の効果、一日の終わり。
1892年。 -
クロード・モネ:アルジャントゥイユの散歩道。
1873年。 -
クロード・モネ:雪の効果。夕日。
1875年。 -
クロード・モネ:チュイリュリー公園。
1876年。 -
クロード・モネ:サン・ラザール駅、ヨーロッパ橋。
1877年。 -
クロード・モネ(1840~1926):アガパンサス。
1917年。 -
クロード・モネ:睡蓮、夜の効果。
1897年。 -
クロード・モネ:睡蓮。
1919年。 -
ギュスターヴ・カイユボット:パリの通り、雨。
1877年。 -
フランソワ・グザヴィエ・ファーブル(1776~1837):フェルトル公爵夫人と子供たち。
1810年。 -
ジャンヌ・エリザベス・ショード:サクランボを食べる少女。
1817年。
小粒でもピリリとした絵のある素晴らしい美術館でした。 -
ホテルに帰ってBBCのテレビに驚きました。
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ロンドンで高層ビルが燃えています。すはニューヨークのテロ事件の再来か、と思いました。
あすはいよいよ最後の日です。
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この旅行記へのコメント (1)
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- wiz さん 2017/09/01 19:40:08
- Moret-sur-Loing
- ベームさん、Bonsoir!
モレシュルロワン~マルモッタン美術館編拝見致しました。
ロワン川の対岸のあの芝生のようなところが、私が訪問した時は雨で滑りやすくこわくて全然写真が撮れなかったのが心残りとなっていたのですが、ベームさんがたくさん撮られ堪能されたようで良かったです。
ベームさんやトラベラーさんのお写真を拝見すると、最近は、観光案内所からもらえる地図も詳しく、町中に絵の看板もけっこう立っているようですね。
ところで、去年の6月にモレが大雨の被害にあったことご存じでしょうか? この映像の最後の方にモレの橋あたりが映っています・・。
https://youtu.be/9rZ-VcSBdF8
ベームさん、モレの教会の絵は未見だったとのこと・・ 私はモレに行く前日にパリの無料の美術館、プチ・パレ美術館の常設で1点見て、モレの翌々日にルーアンの美術館の常設で1点見ました。
印象派画家が描いた地を見たいと思って巡ったのが2008年で、その時、私もポントワーズやアルジャントゥイユも考えたのですが、色々調べて、結局、現在も絵が描かれた当時の面影が感じられそうなところを選び、ルーヴシエンヌやブージヴァル、ポール・マルリ、マルリ・ル・ロワあたりと、モレ・シュル・ロワン、ルーアン、トゥルーヴィルなどに足を運びました。
マルモッタンは、現在も写真撮影不可なのですね~。
wiz
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