2017/06/24 - 2017/06/24
91位(同エリア238件中)
愛走路さん
旧中山道 板橋宿 昔の街道が 今も商店街として残る。
板橋宿東側に加賀百万石前田家下屋敷
(敷地は約22万坪 金沢の兼六園の約7倍。敷地内に石神井川)が
隣接していたこともあり
現在も加賀中学校 金沢小学校などの名を残す文教地区
緑地帯(公園・動物園など)区民に親しみのある地区を歩く。
写真 東光寺内にある 戦国大名宇喜多秀家の供養塔
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
PR
-
東光寺
江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像 -
東光寺 室町時代の創建 浄土宗
境内には、青面金剛のみごとな彫刻がほどこされた
寛文2年(1662)の庚申塔
江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像、
明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた
戦国時代の武将宇喜多秀家の供養塔など
境内を自由に拝観できる。 -
豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。
秀吉の寵愛を受け、猶子となり、
天正16年(1588年)秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。
外様とはいえ秀吉の一門衆 -
右の細い道は前田家下屋敷との境
左の坂道は、明治になってできた王子新道
東光寺は、この前田家下屋敷敷地外にある。 -
戦国時代1457年(長禄元年)扇谷上杉氏の上杉持朝が、家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城の築城を命じ、自ら城主となった。
同時期下総国との境に江戸城も築城させ、道灌が江戸城主となる。
この二つの城を結ぶ街道が川越道。
江戸時代 川越街道は、中山道板橋宿平尾の追分で分かれ脇往還として栄える。
国道17号と別れ右へ旧中山道が残る -
板橋JCT
右 首都高速5号線高島平方面
左 首都高速中央環状線池袋線へ
戻ると飛鳥山方面へ -
川越街道が整備されたのは、江戸時代。
江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐
川越城下に至る。
伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」実測、10里34町33間半(約43km)。
現在、旧川越街道とほぼ平行して、国道254号が走る。
現在の起点は、
池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿町(北)交差点となっている。
写真は、消防署・板橋警察署の裏手 四ツ又公園。奥のビルは板橋区役所。 -
通勤客が
登り坂ペダル漕ぐ
板橋宿の仲宿商店街 -
土曜日の朝
商店街に続く街灯は、消えている。 -
仲宿商店街の朝
まだ シャッターはおりている。 -
仲宿(板橋宿の一部)商店街
車は、志村坂上方面(北へ)への
一方通行(環状七号線まで) -
旧中山道は、やや蛇行しながら
石神井川を板橋で渡る。 -
板橋の記念碑
-
蛇行する 石神井川を
旧中山道 板橋上から撮る。 -
桜並木の石神井川
上の橋は、首都高速
下は、国道17号線 新板橋と呼ばれる -
板橋(石神井川)から
上り坂が続く
珍しい 看板?のある坂道 -
板橋にある『縁切榎』は、江戸時代からの名所。
元々は大六天神の神木があった場所。
悪縁を切って良縁を結んでくれると庶民の間で礼拝されている。 -
文久元年(1861年)10月20日、和宮一行は桂御所を出立。
東海道筋では川留めや過激派による妨害の恐れがあるとし、
中山道を江戸へ。
行列は警護や人足を含めると総勢3万人超、
50kmにもなる行列は、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員。
和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた。
11月 この縁切り稲荷前は、縁起が悪いと迂回された。 -
環状七号線で遮断された 旧中山道
この先も、志村坂上の一里塚へと続く。 -
文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った。
約3週間の御輿の旅。皇女和宮に紅葉を楽しむ余裕があったことを願う。
写真は、坂を登りきり環状七号線の高架橋にぶつかる。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
20