本牧・根岸・磯子旅行記(ブログ) 一覧に戻る
前編では鶴翔閣から天授院までを急ぎ足で紹介いたしました。レポ内容から、京都 桂離宮と神戸 相楽園、京都 渉成園を足して3で割ったようなスポットとイメージされたかもしれません。しかし三渓園の真骨頂はそれだけではありません。<br />具体的に言えば、関東最古の三重塔や最大級の合掌造の古民家などが外苑に配置されています。三重塔は原三渓が幼少期にいつも見上げていた故郷の日吉神社 三重塔を懐かしみ、横浜の地にその景観を再現しようと廃寺となった燈明寺から買い取って後世に遺したものです。同様に古民家の矢箆原家住宅は、高度経済成長期の大型ダムの乱開発に伴い水没する寸前だったところを三渓に救われて後世に遺され、国の重要文化財にまで昇り詰めました。その他、三渓が傾倒していた茶人としての趣味人の一面も見逃せません。<br />多彩な嗜好が高密度に配置された庭園ですので、それぞれの感性で的を絞り、そこをズームアップされると満足感もより高くなると思います。<br />難点なのは、交通アクセスがあまり良くないことです。JR根岸駅が最寄り駅となりますが、徒歩では40程要し、市バスを併用することになります。市バスを使われるのであれば、JR桜木町駅から乗車されることをお勧めします。JR桜木町駅まではJR横浜市内チケットが使えます。市バスは、8・148系統は2番乗り場、106系統は11番乗り場から乗車し、所要25分程で「本牧三渓園前」に到着します。バス停から三渓園までは、徒歩5分です。因みに11番乗り場は、JR桜木町駅の西側になりますので留意してください。

松風水月 横浜逍遥 三渓園(後編)

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2017/05/25 - 2017/05/25

2位(同エリア481件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

前編では鶴翔閣から天授院までを急ぎ足で紹介いたしました。レポ内容から、京都 桂離宮と神戸 相楽園、京都 渉成園を足して3で割ったようなスポットとイメージされたかもしれません。しかし三渓園の真骨頂はそれだけではありません。
具体的に言えば、関東最古の三重塔や最大級の合掌造の古民家などが外苑に配置されています。三重塔は原三渓が幼少期にいつも見上げていた故郷の日吉神社 三重塔を懐かしみ、横浜の地にその景観を再現しようと廃寺となった燈明寺から買い取って後世に遺したものです。同様に古民家の矢箆原家住宅は、高度経済成長期の大型ダムの乱開発に伴い水没する寸前だったところを三渓に救われて後世に遺され、国の重要文化財にまで昇り詰めました。その他、三渓が傾倒していた茶人としての趣味人の一面も見逃せません。
多彩な嗜好が高密度に配置された庭園ですので、それぞれの感性で的を絞り、そこをズームアップされると満足感もより高くなると思います。
難点なのは、交通アクセスがあまり良くないことです。JR根岸駅が最寄り駅となりますが、徒歩では40程要し、市バスを併用することになります。市バスを使われるのであれば、JR桜木町駅から乗車されることをお勧めします。JR桜木町駅まではJR横浜市内チケットが使えます。市バスは、8・148系統は2番乗り場、106系統は11番乗り場から乗車し、所要25分程で「本牧三渓園前」に到着します。バス停から三渓園までは、徒歩5分です。因みに11番乗り場は、JR桜木町駅の西側になりますので留意してください。

同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル
旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 月華殿から一旦下り、春草廬へ向かいます。その途中にある石段の左脇には石碑が建てられ、「不許酒肉五辛入山門」と刻まれています。いわゆる結界石と言われるもので、多くの寺院の門前にあるものと同じです。<br />ところでこの意味、お判りでしょうか?お酒やお肉、香辛料を食した人は通ってはいけませんという意味です。<br />五辛(ごじん)とは、『梵網經』に説かれる四十八軽戒の第四食五辛戒の中に「若佛子。不得食五辛。大蒜革葱慈葱蘭葱興?拉。是五種一切食中不得食。若故食者。犯輕垢罪」とあり、葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・蘭葱(ひる)を指します。

    月華殿から一旦下り、春草廬へ向かいます。その途中にある石段の左脇には石碑が建てられ、「不許酒肉五辛入山門」と刻まれています。いわゆる結界石と言われるもので、多くの寺院の門前にあるものと同じです。
    ところでこの意味、お判りでしょうか? お酒やお肉、香辛料を食した人は通ってはいけませんという意味です。
    五辛(ごじん)とは、『梵網經』に説かれる四十八軽戒の第四食五辛戒の中に「若佛子。不得食五辛。大蒜革葱慈葱蘭葱興?拉。是五種一切食中不得食。若故食者。犯輕垢罪」とあり、葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・蘭葱(ひる)を指します。

  • 石棺<br />それほど長くはないアプローチなのですが、途中には苔生した石棺が安置されています。<br />手前が、奈良 海竜寺付近から出土した5~6世紀の家形石棺です。後方にあるのが、3~4世紀のものとされる、法華寺付近から出土した舟形の石棺の蓋です。<br />こんな所で古代に思いを馳せるとは想定外のことでした。

    石棺
    それほど長くはないアプローチなのですが、途中には苔生した石棺が安置されています。
    手前が、奈良 海竜寺付近から出土した5~6世紀の家形石棺です。後方にあるのが、3~4世紀のものとされる、法華寺付近から出土した舟形の石棺の蓋です。
    こんな所で古代に思いを馳せるとは想定外のことでした。

  • 春草廬(重文) <br />内苑の奥地にひっそりと佇む桃山時代の茶室です。<br />元々は伏見城に建てられ、その後、三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属する茶室として移され、1918(大正7)年に三渓の隠居所となる白雲邸に接続して移築されました。太平洋戦争中は解体して保存されており、戦後、三溪園が横浜市に寄贈された折に現在の場所に建てられました。<br />三畳台目の小間茶室は、信長の弟 織田有楽斎(利休十哲のひとり)の作と伝えられています。有楽斎は、信長が暗殺された本能寺の変以後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では徳川家康につき、大坂冬の陣では和議交渉をまとめるなど大車輪の活躍をしましたが、豊臣家滅亡となる夏の陣前に大坂を離れ、京都で茶道に専念する隠居生活を送っています。<br />有楽斎は、姪である茶々、初、江の浅井三姉妹を一時期引き取って養育したとも言われています。2人の姪が嫁いだ豊臣と徳川、どちらかに肩入れして出世を求めるより、そこから距離を置き、残された人生を茶人として趣味の世界に生きようと考えたのでしょう。大河ドラマ『真田丸』では、少し優柔不断な人物として描かれていましたが…。

    春草廬(重文) 
    内苑の奥地にひっそりと佇む桃山時代の茶室です。
    元々は伏見城に建てられ、その後、三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属する茶室として移され、1918(大正7)年に三渓の隠居所となる白雲邸に接続して移築されました。太平洋戦争中は解体して保存されており、戦後、三溪園が横浜市に寄贈された折に現在の場所に建てられました。
    三畳台目の小間茶室は、信長の弟 織田有楽斎(利休十哲のひとり)の作と伝えられています。有楽斎は、信長が暗殺された本能寺の変以後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では徳川家康につき、大坂冬の陣では和議交渉をまとめるなど大車輪の活躍をしましたが、豊臣家滅亡となる夏の陣前に大坂を離れ、京都で茶道に専念する隠居生活を送っています。
    有楽斎は、姪である茶々、初、江の浅井三姉妹を一時期引き取って養育したとも言われています。2人の姪が嫁いだ豊臣と徳川、どちらかに肩入れして出世を求めるより、そこから距離を置き、残された人生を茶人として趣味の世界に生きようと考えたのでしょう。大河ドラマ『真田丸』では、少し優柔不断な人物として描かれていましたが…。

  • 春草廬<br />三畳台目に床の間が付いた広さの茶室に9つもの窓があることから、三室戸寺金蔵院にあった頃は「九窓亭」と呼ばれていました。小さな空間に多くの窓を持つため、やさしげで華やかな印象を持つ茶室です。因みに8窓の茶室には、桂離宮の松琴亭、南禅寺の金地院などがあります。<br />右側の屋根の高いガラス戸を持つ部分は、後世に増設されたものであり、待合と広間があります。屋根の低い部分が重文の茶室です。どちらの屋根もむくりになっており、その膨らみが全体を柔らかく見せています。<br />どのもてなし空間にも茶室がありますから、三渓の趣味人ぶりがよく窺えます。

    春草廬
    三畳台目に床の間が付いた広さの茶室に9つもの窓があることから、三室戸寺金蔵院にあった頃は「九窓亭」と呼ばれていました。小さな空間に多くの窓を持つため、やさしげで華やかな印象を持つ茶室です。因みに8窓の茶室には、桂離宮の松琴亭、南禅寺の金地院などがあります。
    右側の屋根の高いガラス戸を持つ部分は、後世に増設されたものであり、待合と広間があります。屋根の低い部分が重文の茶室です。どちらの屋根もむくりになっており、その膨らみが全体を柔らかく見せています。
    どのもてなし空間にも茶室がありますから、三渓の趣味人ぶりがよく窺えます。

  • 春草廬<br />庭の中央に置かれた巨大な「伽藍石(がらんせき)」は、奈良 東大寺の礎石です。<br />茶室の入口には実用に耐えられそうにない形だけの刀掛けを設け、窓を潤沢に設けた開放的なこの茶室を見ていると、天下統一の争いごとから身を引いて静かに茶の湯を極めたいという有楽斎の気持ちが伝わってくる気がします。

    春草廬
    庭の中央に置かれた巨大な「伽藍石(がらんせき)」は、奈良 東大寺の礎石です。
    茶室の入口には実用に耐えられそうにない形だけの刀掛けを設け、窓を潤沢に設けた開放的なこの茶室を見ていると、天下統一の争いごとから身を引いて静かに茶の湯を極めたいという有楽斎の気持ちが伝わってくる気がします。

  • 春草廬<br />庭の右手には広間専用の蹲踞があります。4面に仏が彫られた石塔の一部を使った味わいのある蹲踞です。<br /><br />かつて「臨春閣」が大坂春日出新田にあり、「八州軒」と呼ばれていた頃、その敷地内には茶亭「春草廬」があったそうです。三渓はこの「春草廬」を扁額と共に電力王 松永安左ヱ門氏に贈与しました。後年、この扁額だけが返還されたのを期に、「九窓亭」にこの扁額を掲げて「春草廬」と改名しています。<br />因みに本来の茶亭「春草廬」は、現在東京国立博物館に寄贈されています。

    春草廬
    庭の右手には広間専用の蹲踞があります。4面に仏が彫られた石塔の一部を使った味わいのある蹲踞です。

    かつて「臨春閣」が大坂春日出新田にあり、「八州軒」と呼ばれていた頃、その敷地内には茶亭「春草廬」があったそうです。三渓はこの「春草廬」を扁額と共に電力王 松永安左ヱ門氏に贈与しました。後年、この扁額だけが返還されたのを期に、「九窓亭」にこの扁額を掲げて「春草廬」と改名しています。
    因みに本来の茶亭「春草廬」は、現在東京国立博物館に寄贈されています。

  • 春草廬<br />この茶室には多彩な仕掛けが施されており、それは門を入った先からはじまります。<br />露地と呼ばれる門から茶室への小径には大小取り混ぜた飛び石が配され、手や口を清める水を溜める蹲踞があり、その傍らには石燈籠も置かれています。<br />この蹲踞は、嵯峨野 天龍寺にあったものとされ、夢窓疎石の手洗い石と伝えられています。夢窓疎石は、三溪が尊敬した禅僧であり、西芳寺や鎌倉 瑞泉寺など十指に余る名庭園を造ったと伝えられています。

    春草廬
    この茶室には多彩な仕掛けが施されており、それは門を入った先からはじまります。
    露地と呼ばれる門から茶室への小径には大小取り混ぜた飛び石が配され、手や口を清める水を溜める蹲踞があり、その傍らには石燈籠も置かれています。
    この蹲踞は、嵯峨野 天龍寺にあったものとされ、夢窓疎石の手洗い石と伝えられています。夢窓疎石は、三溪が尊敬した禅僧であり、西芳寺や鎌倉 瑞泉寺など十指に余る名庭園を造ったと伝えられています。

  • 春草廬<br />門を入ってから少しずつ日常から心が解き離されていき、飛び石を伝い終えれば、もうそこは茶室の深い庇の下です。<br />右下の丸い石の奥に見られる4角い穴は、塵穴と呼ばれるものです。客人がここで最後に残った心の塵を落とすためという、粋な設えです。竹の雨樋を細い木材で支え、金具をほとんど用いていないのもこの茶室が侘び・寂びを醸す所以です。<br />壁に開けられた狭く小さい片引き戸の躙口(にじりぐち)は、桂離宮のものと同様に身をかがめなければ入れません。這うように茶室に入ると、窓の障子から柔らかい光の小さな空間が迎えてくれる趣向です。躙口の右上に見える棚が刀掛けです。<br />間取りは三畳台目と言い、三畳の客座に台目畳と呼ばれるやや小ぶりな畳で茶席の亭主がお茶を点てる点前座が付けられています。点前座と客座の間にある袖壁の下部を吹き抜けにした風炉先窓(ふろさきまど)を設けることで、客席からも茶道具がよく見えるよう工夫されているそうです。

    春草廬
    門を入ってから少しずつ日常から心が解き離されていき、飛び石を伝い終えれば、もうそこは茶室の深い庇の下です。
    右下の丸い石の奥に見られる4角い穴は、塵穴と呼ばれるものです。客人がここで最後に残った心の塵を落とすためという、粋な設えです。竹の雨樋を細い木材で支え、金具をほとんど用いていないのもこの茶室が侘び・寂びを醸す所以です。
    壁に開けられた狭く小さい片引き戸の躙口(にじりぐち)は、桂離宮のものと同様に身をかがめなければ入れません。這うように茶室に入ると、窓の障子から柔らかい光の小さな空間が迎えてくれる趣向です。躙口の右上に見える棚が刀掛けです。
    間取りは三畳台目と言い、三畳の客座に台目畳と呼ばれるやや小ぶりな畳で茶席の亭主がお茶を点てる点前座が付けられています。点前座と客座の間にある袖壁の下部を吹き抜けにした風炉先窓(ふろさきまど)を設けることで、客席からも茶道具がよく見えるよう工夫されているそうです。

  • 蓮華院<br />蓮華院手前の竹林には、キノコのような笠が深い燈籠が配されています。

    蓮華院
    蓮華院手前の竹林には、キノコのような笠が深い燈籠が配されています。

  • 蓮華院 1917(大正6)年建築 <br />元々は現在の春草廬の場所に建てられていましたが、 太平洋戦争後に竹林にある茶室という構想の下に現在の位置へ移築されました。 二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。 <br />井上馨や小林古径もここを訪ねています。

    蓮華院 1917(大正6)年建築 
    元々は現在の春草廬の場所に建てられていましたが、 太平洋戦争後に竹林にある茶室という構想の下に現在の位置へ移築されました。 二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。
    井上馨や小林古径もここを訪ねています。

  • 蓮華院<br />蓮華院の名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に奈良東大寺三月堂の国宝「不空羂索観音」が手にしていた 蓮華を飾ったことに由来しています。 <br />土間の中央にある太い円柱とその脇の壁に嵌め込まれた格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 二畳中板の小間の天井は蓮の茎が隙間なく張ってあるのが特徴です。勿論、三溪園の蓮池の蓮なのでしょう。

    蓮華院
    蓮華院の名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に奈良東大寺三月堂の国宝「不空羂索観音」が手にしていた 蓮華を飾ったことに由来しています。
    土間の中央にある太い円柱とその脇の壁に嵌め込まれた格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 二畳中板の小間の天井は蓮の茎が隙間なく張ってあるのが特徴です。勿論、三溪園の蓮池の蓮なのでしょう。

  • 海岸門<br />江戸時代の建築となり、京都東山の西方寺から移築したものです。<br />門を潜ると外苑に出ます。<br />

    海岸門
    江戸時代の建築となり、京都東山の西方寺から移築したものです。
    門を潜ると外苑に出ます。

  • 海岸門<br />鬼瓦と桃瓦のツーショットです。<br />桃瓦も魔除けの意味を持ちます。その由来は、古事記が描く「黄泉の国」神話です。<br />亡くなった妻イザナミノミコトの変わり果てた姿に驚いたイザナギノミコトは、現世へ逃げ帰ろうとして醜女らに追われます。カズラや櫛の歯を投げつけ、醜女らを振り払い、迫る雷神に対しては桃を3個投げて退散させました。イザナギはこの効を喜び、桃に「オホカムヅミノミコト」という名を授けました。<br />この神話は、自然の恵みである食材に霊力を見いだす価値観の起源だそうです。

    海岸門
    鬼瓦と桃瓦のツーショットです。
    桃瓦も魔除けの意味を持ちます。その由来は、古事記が描く「黄泉の国」神話です。
    亡くなった妻イザナミノミコトの変わり果てた姿に驚いたイザナギノミコトは、現世へ逃げ帰ろうとして醜女らに追われます。カズラや櫛の歯を投げつけ、醜女らを振り払い、迫る雷神に対しては桃を3個投げて退散させました。イザナギはこの効を喜び、桃に「オホカムヅミノミコト」という名を授けました。
    この神話は、自然の恵みである食材に霊力を見いだす価値観の起源だそうです。

  • 海岸門<br />この辺りは、三毛猫軍団の縄張りのようです。お互いに微妙な距離を置いて寝転んでいます。<br />縄張り意識なのか、背中を地面にこすり付けるため、このように白い毛がだいなしです。

    海岸門
    この辺りは、三毛猫軍団の縄張りのようです。お互いに微妙な距離を置いて寝転んでいます。
    縄張り意識なのか、背中を地面にこすり付けるため、このように白い毛がだいなしです。

  • 上海横浜友好園 湖心亭<br />海岸門の先にある南門から一旦外に出させてもらい、本牧市民公園を散策します。<br />1989年に上海・横浜両市の友好都市提携15周年を記念して上海市より「上海横浜友好園」に寄贈されたものです。池の中に浮かぶように配された、九曲橋・湖心亭・玉蘭庁の建物で構成され、中国の伝統的な庭園様式を模して造られています。庭園の建築様式は中国江南地方の方式と言われ、落ち着いた雰囲気を持つ北方式庭園で、古代皇帝の権力を誇示する意図を持って造られたと言われています。<br />手前に広がる池は「トンボ池」と言い、睡蓮が咲き乱れ、いい雰囲気を醸しています。残念ながらこの「湖水亭」を含む「上海横浜友好園」は現在老朽化が進み、立ち入ることはできません。

    上海横浜友好園 湖心亭
    海岸門の先にある南門から一旦外に出させてもらい、本牧市民公園を散策します。
    1989年に上海・横浜両市の友好都市提携15周年を記念して上海市より「上海横浜友好園」に寄贈されたものです。池の中に浮かぶように配された、九曲橋・湖心亭・玉蘭庁の建物で構成され、中国の伝統的な庭園様式を模して造られています。庭園の建築様式は中国江南地方の方式と言われ、落ち着いた雰囲気を持つ北方式庭園で、古代皇帝の権力を誇示する意図を持って造られたと言われています。
    手前に広がる池は「トンボ池」と言い、睡蓮が咲き乱れ、いい雰囲気を醸しています。残念ながらこの「湖水亭」を含む「上海横浜友好園」は現在老朽化が進み、立ち入ることはできません。

  • 上海横浜友好園 湖心亭<br />独特の2層の反った屋根を持たせた、6角形をした女性的な東屋造りです。 <br />「ここは日本なのか?」と思ってしまうほどの風景が広がっています。東屋や曲橋・曲道の先には切り立った断崖が迫っています。まさに『水滸伝』や『三国志』の世界を彷彿とさせる景色ですが、この断崖が昔の海岸線の名残です。現在は埋め立てが進み、海岸線は遥か先に後退しています。

    上海横浜友好園 湖心亭
    独特の2層の反った屋根を持たせた、6角形をした女性的な東屋造りです。
    「ここは日本なのか?」と思ってしまうほどの風景が広がっています。東屋や曲橋・曲道の先には切り立った断崖が迫っています。まさに『水滸伝』や『三国志』の世界を彷彿とさせる景色ですが、この断崖が昔の海岸線の名残です。現在は埋め立てが進み、海岸線は遥か先に後退しています。

  • 上海横浜友好園 玉蘭庁<br />水上石燈籠や上海市の市木・花となる「白玉蘭(ハクモクレン)」に因んで命名された「玉蘭庁」などの建造物があり、いずれも中国産の資材を使って建てられた貴重な文化財です。<br />現在、中国江南様式の建築物「玉蘭庁」と「湖心亭」は建て替えの計画が進んでおり、基本設計が行われているそうです。もう暫くすると覆いが被されて見られなくなるかもしれません。

    上海横浜友好園 玉蘭庁
    水上石燈籠や上海市の市木・花となる「白玉蘭(ハクモクレン)」に因んで命名された「玉蘭庁」などの建造物があり、いずれも中国産の資材を使って建てられた貴重な文化財です。
    現在、中国江南様式の建築物「玉蘭庁」と「湖心亭」は建て替えの計画が進んでおり、基本設計が行われているそうです。もう暫くすると覆いが被されて見られなくなるかもしれません。

  • 上海横浜友好園 玉蘭庁<br />庭園の入口は、非常に細かい煉瓦細工で門を構えています。

    上海横浜友好園 玉蘭庁
    庭園の入口は、非常に細かい煉瓦細工で門を構えています。

  • 本牧鼻<br />かつてはこの辺りまで遠浅の海岸線だったことの証です。<br />現在、この崖は「本牧鼻」と呼ばれていますが、かつては「八王子鼻」と言ったそうです。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれたからとの説もありますが、実際はこの断崖の下に「八王子権現」を祀っていたことに由来する名称です。<br />歌川広重の名勝版画『富士三十六景』のうちの「本牧のはな」図にこの姿が見られます。また、「本牧鼻」の赤茶けた崖は、船乗りたちにとっては格好の目印となり、幕末に江戸湾に侵入したペリー艦隊も、この崖をその色から「マンダリングラフ」と呼んで目標物としたそうです。<br />この崖の層は、2段になっています。下層は上総層群(上星川層)、上層は相模層群(下末吉層)と呼ばれ、こうした状況を不整合露頭の状態と呼び、地質学上、興味深い地層だそうです。

    本牧鼻
    かつてはこの辺りまで遠浅の海岸線だったことの証です。
    現在、この崖は「本牧鼻」と呼ばれていますが、かつては「八王子鼻」と言ったそうです。八王子から絹の道を通って生糸が運ばれたからとの説もありますが、実際はこの断崖の下に「八王子権現」を祀っていたことに由来する名称です。
    歌川広重の名勝版画『富士三十六景』のうちの「本牧のはな」図にこの姿が見られます。また、「本牧鼻」の赤茶けた崖は、船乗りたちにとっては格好の目印となり、幕末に江戸湾に侵入したペリー艦隊も、この崖をその色から「マンダリングラフ」と呼んで目標物としたそうです。
    この崖の層は、2段になっています。下層は上総層群(上星川層)、上層は相模層群(下末吉層)と呼ばれ、こうした状況を不整合露頭の状態と呼び、地質学上、興味深い地層だそうです。

  • 再び三渓園に戻り、三重塔が建つ丘の上を目指します。<br />

    再び三渓園に戻り、三重塔が建つ丘の上を目指します。

  • 出世観音像<br />三重塔前にある姿勢の正しい出世観音像です。ゆったり大らかな波動を放ち、優しい表情をされています。顔を撫でられる方も多く、鼻が擦れててかっていると思っていましたが、過去に鼻が欠けて補修した跡のようです。<br />安置の由来は判りませんが、三渓と所縁のある多くの人達が活躍し、出世しているのにあやかりたいものです。

    出世観音像
    三重塔前にある姿勢の正しい出世観音像です。ゆったり大らかな波動を放ち、優しい表情をされています。顔を撫でられる方も多く、鼻が擦れててかっていると思っていましたが、過去に鼻が欠けて補修した跡のようです。
    安置の由来は判りませんが、三渓と所縁のある多くの人達が活躍し、出世しているのにあやかりたいものです。

  • 旧燈明寺三重塔(重文)1457(康正3)年建築<br />起伏に富んだ三溪園の敷地の中でもひと際高い丘の上に建ち、埠頭の風景が写り込むのが醍醐味です。園内のほぼ全域からその姿が望める三重塔は、三溪園のランドマーク的な存在です。<br />京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを1914(大正3)年に移築した塔です。三間三重塔婆、本瓦葺で高さは23.9mあり、すっきりとした純和様式の美しい仏塔です。建築様式などから室町時代に建立されたものと推定され、関東最古のものになります。<br />燈明寺は、創建当初は「観音寺」と号されましたが、後に「東明寺」と改められました。その後、江戸時代に天台宗から日蓮宗に改宗した際に「東明寺」から「燈明寺」に改名されています。 巴瓦に「東明寺」と刻印されているのは、その名残です。山背国 東明寺は、聖武天皇の勅願により奈良時代の735(天平7)年に行基が開山した名刹でしたが、建武の兵乱で荒廃して 天台宗の賢昌房忍禅上人が復興した際に本堂と三重塔を建立しました。

    旧燈明寺三重塔(重文)1457(康正3)年建築
    起伏に富んだ三溪園の敷地の中でもひと際高い丘の上に建ち、埠頭の風景が写り込むのが醍醐味です。園内のほぼ全域からその姿が望める三重塔は、三溪園のランドマーク的な存在です。
    京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを1914(大正3)年に移築した塔です。三間三重塔婆、本瓦葺で高さは23.9mあり、すっきりとした純和様式の美しい仏塔です。建築様式などから室町時代に建立されたものと推定され、関東最古のものになります。
    燈明寺は、創建当初は「観音寺」と号されましたが、後に「東明寺」と改められました。その後、江戸時代に天台宗から日蓮宗に改宗した際に「東明寺」から「燈明寺」に改名されています。 巴瓦に「東明寺」と刻印されているのは、その名残です。山背国 東明寺は、聖武天皇の勅願により奈良時代の735(天平7)年に行基が開山した名刹でしたが、建武の兵乱で荒廃して 天台宗の賢昌房忍禅上人が復興した際に本堂と三重塔を建立しました。

  • 旧燈明寺三重塔<br />三渓の生家の近くには、岐阜県安八郡神戸の日吉神社 三重塔(重文)があります。<br />想像の域を越えませんが、三渓は幼い頃、日吉神社の三重塔を眺めて育ったのではないかと思われます。彼が幼少体験で得た、美しい三重塔の姿が脳裏から離れずにいたところへ、燈明寺三重塔売却の話を耳にし、これから造営しようとする庭園に、シンボルとなるような美しい三重塔を置こうとしたのではないでしょうか。<br />戦時中、空襲により甚大な被害を受けたそうですが、戦後の解体修理により復旧しています。

    旧燈明寺三重塔
    三渓の生家の近くには、岐阜県安八郡神戸の日吉神社 三重塔(重文)があります。
    想像の域を越えませんが、三渓は幼い頃、日吉神社の三重塔を眺めて育ったのではないかと思われます。彼が幼少体験で得た、美しい三重塔の姿が脳裏から離れずにいたところへ、燈明寺三重塔売却の話を耳にし、これから造営しようとする庭園に、シンボルとなるような美しい三重塔を置こうとしたのではないでしょうか。
    戦時中、空襲により甚大な被害を受けたそうですが、戦後の解体修理により復旧しています。

  • 旧燈明寺三重塔<br />初重には須弥壇が設けられ、高欄のない縁を巡らし、中央は板唐戸という飛鳥時代から用いられている古い扉です。脇間は、板張り、連子窓、中備えは間斗束(けんとつか)というシンプルな束を置いています。軒は二軒繁垂木で、四隅の稚児棟には鬼瓦がありますが、これは旧来のものではないそうです。<br />各層の軒には風鐸が吊るされ、風が吹く日にその下に佇むとガラン、ガランと荘重な音色を愉しむことができます。<br />

    旧燈明寺三重塔
    初重には須弥壇が設けられ、高欄のない縁を巡らし、中央は板唐戸という飛鳥時代から用いられている古い扉です。脇間は、板張り、連子窓、中備えは間斗束(けんとつか)というシンプルな束を置いています。軒は二軒繁垂木で、四隅の稚児棟には鬼瓦がありますが、これは旧来のものではないそうです。
    各層の軒には風鐸が吊るされ、風が吹く日にその下に佇むとガラン、ガランと荘重な音色を愉しむことができます。

  • 旧燈明寺三重塔<br />2層部は、脇間間斗束、中備えは間斗束です。<br />

    旧燈明寺三重塔
    2層部は、脇間間斗束、中備えは間斗束です。

  • 旧燈明寺三重塔<br />3層部は、脇間連子窓、中備えは中央のみ間斗束です。<br />

    旧燈明寺三重塔
    3層部は、脇間連子窓、中備えは中央のみ間斗束です。

  • 丘の上の散策路にはこうした鬱蒼とした笹竹でできた緑のトンネルも現れます。<br />何だか異空間に迷い込んだような雰囲気がしてきます。ここを潜り抜ければ、清々しい気持ちになれます。

    丘の上の散策路にはこうした鬱蒼とした笹竹でできた緑のトンネルも現れます。
    何だか異空間に迷い込んだような雰囲気がしてきます。ここを潜り抜ければ、清々しい気持ちになれます。

  • 道端には、かつて海岸線の崖だったことの片鱗を見せ付ける虫食い石がゴロゴロしています。<br />これは恐らく太湖石(たいこせき)と呼ばれるものです。太湖石は中国庭園で好んで用いられ、善三郎が手掛けた旧松風閣の趣向から推測すると、善三郎が置いたものと考えられています。

    道端には、かつて海岸線の崖だったことの片鱗を見せ付ける虫食い石がゴロゴロしています。
    これは恐らく太湖石(たいこせき)と呼ばれるものです。太湖石は中国庭園で好んで用いられ、善三郎が手掛けた旧松風閣の趣向から推測すると、善三郎が置いたものと考えられています。

  • 松風閣<br />明治初年、原善三郎(三溪の養祖父)がこの三溪園一帯の土地を購入し、明治20年代に善三郎が南端の本牧海岸寄りに山荘「松風閣」を建てたのが三渓園の始まりです。<br />伊藤博文が命名した建物ですが関東大震災で倒壊し、煉瓦造りの玄関部分がかろうじて残されているだけで、それ以外は場所を替えて展望台として造り替えたものです。<br />かつては窓などに中国風の意匠が施され、松風閣の一室「観山の間」には、三溪が支援し最も好んでいた下村観山筆『四季草花図』の障壁画がありましたが、関東大震災で建物と共に焼失したそうです。

    松風閣
    明治初年、原善三郎(三溪の養祖父)がこの三溪園一帯の土地を購入し、明治20年代に善三郎が南端の本牧海岸寄りに山荘「松風閣」を建てたのが三渓園の始まりです。
    伊藤博文が命名した建物ですが関東大震災で倒壊し、煉瓦造りの玄関部分がかろうじて残されているだけで、それ以外は場所を替えて展望台として造り替えたものです。
    かつては窓などに中国風の意匠が施され、松風閣の一室「観山の間」には、三溪が支援し最も好んでいた下村観山筆『四季草花図』の障壁画がありましたが、関東大震災で建物と共に焼失したそうです。

  • 展望台(松風閣)<br />現在の松風閣は、2階部分が展望台になっています。<br />かつての海岸線であり、「本牧鼻」と呼ばれた岬の名残を感じさせる崖の上に建てられています。<br />因みにこの松風閣は、戦後財団となってから建築されたものです。

    展望台(松風閣)
    現在の松風閣は、2階部分が展望台になっています。
    かつての海岸線であり、「本牧鼻」と呼ばれた岬の名残を感じさせる崖の上に建てられています。
    因みにこの松風閣は、戦後財団となってから建築されたものです。

  • 展望台(松風閣)<br />ここから眺めると、眼下に本牧市民公園や高速道路、根岸湾沿いの石油コンビナートや造船所などの工業地帯が見渡せますが、これらの場所は昭和30年代から海の埋め立てによって造成されました。<br />天気の良い日には、富士山の他、三浦半島、房総半島も眺めることができるそうです。<br />方角的には、正面にある2つの鉄塔「蒸留装置」と「発電装置」の間に富士山の姿があるはずなのですが…。

    展望台(松風閣)
    ここから眺めると、眼下に本牧市民公園や高速道路、根岸湾沿いの石油コンビナートや造船所などの工業地帯が見渡せますが、これらの場所は昭和30年代から海の埋め立てによって造成されました。
    天気の良い日には、富士山の他、三浦半島、房総半島も眺めることができるそうです。
    方角的には、正面にある2つの鉄塔「蒸留装置」と「発電装置」の間に富士山の姿があるはずなのですが…。

  • 展望台(松風閣)<br />南東側の根岸製油所がある方面です。<br />この崖の下は、公園も含めてすべて埋立地です。善三郎の別荘が建っていた往時は無論のこと、昭和40年代に埋め立てられるまでは崖下に海が迫っていました。<br />

    展望台(松風閣)
    南東側の根岸製油所がある方面です。
    この崖の下は、公園も含めてすべて埋立地です。善三郎の別荘が建っていた往時は無論のこと、昭和40年代に埋め立てられるまでは崖下に海が迫っていました。

  • 展望台(松風閣)<br />手前の本牧市民公園には、SL(D51516)と転車台が保存展示されています。

    展望台(松風閣)
    手前の本牧市民公園には、SL(D51516)と転車台が保存展示されています。

  • 三重塔の脇からは、大池と本牧界隈を見下ろすことができます。

    三重塔の脇からは、大池と本牧界隈を見下ろすことができます。

  • 丘を下り切った所に置かれた、舟石のようなものです。<br />特に説明書きはありませんが、これもどこかの遺跡から運ばれてきたものなのでしょう。

    丘を下り切った所に置かれた、舟石のようなものです。
    特に説明書きはありませんが、これもどこかの遺跡から運ばれてきたものなのでしょう。

  • 初音茶屋<br />屋根裏の6角形の木組みが趣を湛えます。明治~大正時代には、ここで遠方から訪れた来園者に湯茶を振舞ったそうです。<br />また、かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者 詩人タゴールや芥川龍之介らによって記された茶屋です。芥川は三渓の長男 善一郎の友人だったようです。タゴールは、松風閣に3ヶ月間逗留したそうです。<br />因みに初音とは鶯のことを指し、背後にある竹林は鶯が好んで生息しています。

    初音茶屋
    屋根裏の6角形の木組みが趣を湛えます。明治~大正時代には、ここで遠方から訪れた来園者に湯茶を振舞ったそうです。
    また、かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者 詩人タゴールや芥川龍之介らによって記された茶屋です。芥川は三渓の長男 善一郎の友人だったようです。タゴールは、松風閣に3ヶ月間逗留したそうです。
    因みに初音とは鶯のことを指し、背後にある竹林は鶯が好んで生息しています。

  • 初音茶屋<br />芥川は、1915(大正4)年の初秋、ここでの印象を次のように詠み、はにかんでいます。<br />「序ながら僕は君の所へ去年の夏、矢代と二人でちょっとお庭を見にゆきました。さうして四阿のやうな所で、田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯をのみました。が、どこをどうしてあすこまで辿りついたか、まるで覚えていません。<br />ひとはかり うく香煎や 白湯の秋<br />即興のつもりで書きましたが、月並みなので弱りました」。

    初音茶屋
    芥川は、1915(大正4)年の初秋、ここでの印象を次のように詠み、はにかんでいます。
    「序ながら僕は君の所へ去年の夏、矢代と二人でちょっとお庭を見にゆきました。さうして四阿のやうな所で、田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯をのみました。が、どこをどうしてあすこまで辿りついたか、まるで覚えていません。
    ひとはかり うく香煎や 白湯の秋
    即興のつもりで書きましたが、月並みなので弱りました」。

  • 臥竜梅(がりょうばい)<br />初音茶屋の背面には臥竜梅があります。 <br />幹の形が竜が臥せる様を彷彿とさせることより、この名がある野梅です。熟練をした梅匠が精魂込めて臥龍に仕立てたものです。まるで八岐大蛇が、酒を呑んで立ち上がろうとしている姿を彷彿とさせます。<br />この辺りの梅の木は、三渓が援助した画家 下村観山筆の代表作『弱法師(よろぼし)』のモデルとされました。 <br />臥竜梅の「臥竜」というのは、元々は諸葛亮(孔明)を指すそうです。好機を得ることができず、天に昇れないため、地に潜んで隠れている龍を表し、まだ志を果たせずに大衆に紛れている大人物のことを指すそうです。劉備が三顧の礼で自軍に諸葛亮を迎え入れた件に、この「臥龍」という表現がでてきます。

    臥竜梅(がりょうばい)
    初音茶屋の背面には臥竜梅があります。
    幹の形が竜が臥せる様を彷彿とさせることより、この名がある野梅です。熟練をした梅匠が精魂込めて臥龍に仕立てたものです。まるで八岐大蛇が、酒を呑んで立ち上がろうとしている姿を彷彿とさせます。
    この辺りの梅の木は、三渓が援助した画家 下村観山筆の代表作『弱法師(よろぼし)』のモデルとされました。
    臥竜梅の「臥竜」というのは、元々は諸葛亮(孔明)を指すそうです。好機を得ることができず、天に昇れないため、地に潜んで隠れている龍を表し、まだ志を果たせずに大衆に紛れている大人物のことを指すそうです。劉備が三顧の礼で自軍に諸葛亮を迎え入れた件に、この「臥龍」という表現がでてきます。

  • 臥竜梅 下村観山筆『弱法師』<br />観山は臥龍梅の木に着想を得て、謡曲『弱法師』の一場面となるこの屏風絵を描きました。咲き誇る臥龍梅の先にある彼岸の落日に向かい、西方浄土を日観想する盲目の法師の心象を描いています。梅の芳香に誘われ、父を探して四天王寺に現れた法師。その袖に降りかかる梅の花びらを仏の施行と感じ、盲目の彼にも見える太陽の光りを一途に拝む悟りの境地を描いています。<br />しかし若者であるはずの法師の姿は、頬骨が出て、痩せ細り、まるで老人のように描かれています。この老人の顔立ちは、能に通じていた観山が能面を意識した故の洒落なのかもしれません。 <br />因みに謡曲では、この後、捜し求めた父親と再会し、ハッピーエンドで終わります。         <br />東京国立博物館HPからの転載です。<br />http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&amp;colid=A10508&amp;t=

    臥竜梅 下村観山筆『弱法師』
    観山は臥龍梅の木に着想を得て、謡曲『弱法師』の一場面となるこの屏風絵を描きました。咲き誇る臥龍梅の先にある彼岸の落日に向かい、西方浄土を日観想する盲目の法師の心象を描いています。梅の芳香に誘われ、父を探して四天王寺に現れた法師。その袖に降りかかる梅の花びらを仏の施行と感じ、盲目の彼にも見える太陽の光りを一途に拝む悟りの境地を描いています。
    しかし若者であるはずの法師の姿は、頬骨が出て、痩せ細り、まるで老人のように描かれています。この老人の顔立ちは、能に通じていた観山が能面を意識した故の洒落なのかもしれません。 
    因みに謡曲では、この後、捜し求めた父親と再会し、ハッピーエンドで終わります。        
    東京国立博物館HPからの転載です。
    http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A10508&t=

  • 臥竜梅<br />謡曲『弱法師』とは、観阿弥が創作した演目のひとつです。元々は河内の国に説教節として伝承されていた物語の焼き直しですが、能や浄瑠璃、歌舞伎にも脚色されています。<br />能では、無実の罪で家を追われた俊徳丸という若者が、悲しみのあまり盲目となり、乞食となって大坂の四天王寺界隈を彷徨う中、不憫に思って探しに来た父親と無事再会するという話です。<br />浄瑠璃では、継母にいじめられ、ライ病を患って盲目になるとか、あるいは救いに来たのが父親ではなく、許嫁の乙姫だったとか、話の展開がそれぞれ変えられています。<br />舞台になった四天王寺は、彼岸と此岸との接点や通路としての性格を持つ地とされ、西方浄土への憧れを表す日想観、迎講などの信仰行事が盛んに行われていました。

    臥竜梅
    謡曲『弱法師』とは、観阿弥が創作した演目のひとつです。元々は河内の国に説教節として伝承されていた物語の焼き直しですが、能や浄瑠璃、歌舞伎にも脚色されています。
    能では、無実の罪で家を追われた俊徳丸という若者が、悲しみのあまり盲目となり、乞食となって大坂の四天王寺界隈を彷徨う中、不憫に思って探しに来た父親と無事再会するという話です。
    浄瑠璃では、継母にいじめられ、ライ病を患って盲目になるとか、あるいは救いに来たのが父親ではなく、許嫁の乙姫だったとか、話の展開がそれぞれ変えられています。
    舞台になった四天王寺は、彼岸と此岸との接点や通路としての性格を持つ地とされ、西方浄土への憧れを表す日想観、迎講などの信仰行事が盛んに行われていました。

  • 林洞庵 1970(昭和45)年建築<br />初音茶屋の左手にあります。 <br />1970(昭和45)年に宗へん(「へん」は彳偏に「扁」)流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。 <br />扁額は、流祖 山田宗へんの揮毫です。

    林洞庵 1970(昭和45)年建築
    初音茶屋の左手にあります。
    1970(昭和45)年に宗へん(「へん」は彳偏に「扁」)流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。
    扁額は、流祖 山田宗へんの揮毫です。

  • 林洞庵<br />伸ばされた延段は、小堀遠州流の「行の飛石」です。<br />途中に段差を設け、その先は段違いに配し、一部「草の飛石」が混ざっているのが斬新です。

    林洞庵
    伸ばされた延段は、小堀遠州流の「行の飛石」です。
    途中に段差を設け、その先は段違いに配し、一部「草の飛石」が混ざっているのが斬新です。

  • 飛び石が配された曲水の先には、小さな名もなき祠が佇みます。

    飛び石が配された曲水の先には、小さな名もなき祠が佇みます。

  • 寒霞橋<br />横笛庵手前のせせらぎに架かる寒霞橋を渡っていきます。<br />外苑の奥は谷になっていることもあり、人里離れた深山幽谷の雰囲気が漂っています。この辺りも日本庭園の趣が感じられる所です。 <br />この橋は開苑当時からあったそうですが、度々修繕されており、近年の改修で開園当時の姿が甦ったそうです。<br />

    寒霞橋
    横笛庵手前のせせらぎに架かる寒霞橋を渡っていきます。
    外苑の奥は谷になっていることもあり、人里離れた深山幽谷の雰囲気が漂っています。この辺りも日本庭園の趣が感じられる所です。
    この橋は開苑当時からあったそうですが、度々修繕されており、近年の改修で開園当時の姿が甦ったそうです。

  • 横笛庵 <br />寒霞橋の先は「白露の里」と呼ばれ、儚い命を象徴した無常観迫る雰囲気で演出されています。横笛庵は、奈良 法華寺からの移築と伝えられ、詳細は不明ですが、草庵風に設えた茶亭で素朴ながら風趣に富む庵です。建物内に「横笛の像」が安置されていたことに因んで「横笛庵」と称されていますが、横笛の像は太平洋戦争の際に失われています。 <br />主屋の屋根は寄棟造りの茅葺で、表から見ると2階建てに見えますが下部の屋根は柿葺の裳階(もこし)と呼ばれる飾りです。また、板葺屋根の部位もあり、板葺には珍しい栗の木が使われています。「あばれやすい」と表現される栗の木は、反りや歪みが出易い性質を持ち、そのうねる様子に侘び・寂びがあると茶人に好まれました。茅葺と柿葺という違いも手伝い、見る角度によって表情を違えます。

    横笛庵 
    寒霞橋の先は「白露の里」と呼ばれ、儚い命を象徴した無常観迫る雰囲気で演出されています。横笛庵は、奈良 法華寺からの移築と伝えられ、詳細は不明ですが、草庵風に設えた茶亭で素朴ながら風趣に富む庵です。建物内に「横笛の像」が安置されていたことに因んで「横笛庵」と称されていますが、横笛の像は太平洋戦争の際に失われています。
    主屋の屋根は寄棟造りの茅葺で、表から見ると2階建てに見えますが下部の屋根は柿葺の裳階(もこし)と呼ばれる飾りです。また、板葺屋根の部位もあり、板葺には珍しい栗の木が使われています。「あばれやすい」と表現される栗の木は、反りや歪みが出易い性質を持ち、そのうねる様子に侘び・寂びがあると茶人に好まれました。茅葺と柿葺という違いも手伝い、見る角度によって表情を違えます。

  • 横笛庵 <br />内部に土間を置く草庵で、その土間にある小屋組みの船底天井が特徴です。<br />全体に小振りで屋根も低く、田舎風に設えた姿は、女性的で繊細な印象を受け、草笛の言い伝えに相応しいものです。<br />

    横笛庵 
    内部に土間を置く草庵で、その土間にある小屋組みの船底天井が特徴です。
    全体に小振りで屋根も低く、田舎風に設えた姿は、女性的で繊細な印象を受け、草笛の言い伝えに相応しいものです。

  • 横笛庵 <br />横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者 斉藤時頼、後の滝口入道との悲恋の末に尼になった女性です。「横笛の像」は、時頼から寄せられた千束の恋文を使って作られた紙子像です。自らは悲恋に終わるも、他の人たちの恋の成就を祈り、横笛が自ら作ったとものとされ、「縁結びの像」として広く知られていました。 <br />細長い手指まで緻密に表現し、うつむいた横笛の像は、愛しい相手から届けられた文を擦り切れるほど幾度も読み返しているように映ります。この横笛の像は、縁結びにご利益があると信じられ、戦前はその霊験にあやかろうと横笛庵を詣でる女性が多かったそうです。<br />平家全盛の時代、最高権力者 平清盛は、西八条殿で花見の宴を催しました。高倉天皇の中宮 建礼門院に仕えていた横笛がその宴で舞を披露し、その美しさに斉藤時頼が恋に堕ちました。横笛は数多の男性から求婚されていましたが、時頼から届く文に溢れる愛情に心打たれ、ふたりはいつしか相思相愛になりました。ところが時頼の父は身分の違いからこの恋を断じて許さず、時頼は傷心のあまり出家し、行方を眩ませてしまいました。横笛は、会いたい一心で時頼を探し歩き、やっと尋ねあてるも「修行の妨げになるから会えない」とつれなく追い返され、悲しみのあまり入水したとも、落飾して出家したとも伝えられています。

    横笛庵 
    横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者 斉藤時頼、後の滝口入道との悲恋の末に尼になった女性です。「横笛の像」は、時頼から寄せられた千束の恋文を使って作られた紙子像です。自らは悲恋に終わるも、他の人たちの恋の成就を祈り、横笛が自ら作ったとものとされ、「縁結びの像」として広く知られていました。
    細長い手指まで緻密に表現し、うつむいた横笛の像は、愛しい相手から届けられた文を擦り切れるほど幾度も読み返しているように映ります。 この横笛の像は、縁結びにご利益があると信じられ、戦前はその霊験にあやかろうと横笛庵を詣でる女性が多かったそうです。
    平家全盛の時代、最高権力者 平清盛は、西八条殿で花見の宴を催しました。高倉天皇の中宮 建礼門院に仕えていた横笛がその宴で舞を披露し、その美しさに斉藤時頼が恋に堕ちました。横笛は数多の男性から求婚されていましたが、時頼から届く文に溢れる愛情に心打たれ、ふたりはいつしか相思相愛になりました。ところが時頼の父は身分の違いからこの恋を断じて許さず、時頼は傷心のあまり出家し、行方を眩ませてしまいました。横笛は、会いたい一心で時頼を探し歩き、やっと尋ねあてるも「修行の妨げになるから会えない」とつれなく追い返され、悲しみのあまり入水したとも、落飾して出家したとも伝えられています。

  • 小滝<br />寒霞橋の上流に懸かる小滝が奏でる音色は、否が応でも侘び・寂びの世界観に浸らせます。<br />「侘び」は、茶人 千利休が究極の美的感性として目指したもので、華美さや虚飾を避けたそこはかとない静寂さが漂った落ち着いた状態を言います。<br />「寂び」は、俳人 松尾芭蕉が求道し続けたものと言われ、明快さと物寂しさを伴った洗練された感性を指します。

    小滝
    寒霞橋の上流に懸かる小滝が奏でる音色は、否が応でも侘び・寂びの世界観に浸らせます。
    「侘び」は、茶人 千利休が究極の美的感性として目指したもので、華美さや虚飾を避けたそこはかとない静寂さが漂った落ち着いた状態を言います。
    「寂び」は、俳人 松尾芭蕉が求道し続けたものと言われ、明快さと物寂しさを伴った洗練された感性を指します。

  • 旧矢箆原(やのはら)家住宅(重文)1750年頃(宝暦年間)<br />ずっしりした茅葺屋根が印象的な、今まで見た中では最大の合掌造の民家です。<br />元々は荘川村にあったものですが、高度経済成長期の大型ダムの乱開発に伴い三溪園に寄贈され、1960(昭和35)年に移築されました。 <br />荘川村の合掌造は近隣にある白川郷や五箇山の「男造り」とは異なり、切妻造ではなく入母屋造「女造り」であることです。理由としては、地理的に高山地方に近いことから、入母屋造の多い高山の大工が係わったとの見方があります。

    旧矢箆原(やのはら)家住宅(重文)1750年頃(宝暦年間)
    ずっしりした茅葺屋根が印象的な、今まで見た中では最大の合掌造の民家です。
    元々は荘川村にあったものですが、高度経済成長期の大型ダムの乱開発に伴い三溪園に寄贈され、1960(昭和35)年に移築されました。
    荘川村の合掌造は近隣にある白川郷や五箇山の「男造り」とは異なり、切妻造ではなく入母屋造「女造り」であることです。理由としては、地理的に高山地方に近いことから、入母屋造の多い高山の大工が係わったとの見方があります。

  • 旧矢箆原家住宅<br />屋根の妻側上部には禅宗寺院でよく見られる火灯窓が開かれ、格式の高さを表しています。その下方にあるのは、鼻小屋です。格式の高さは軒にも見られ、軒の出桁を高い柱で受けて深い庇を造る、いわゆる「せがい造り」が施されています。<br />飛騨三長者に数えられた「岩瀬の佐助」が、江戸時代の享保年間(1716~35年)に飛騨高山の名工によって建てたと伝えられています。規模としては桁行13間梁行7間半の広さを誇り、3階建ての堂々とした重量感溢れる外観で、庄屋を務めてきた家柄を反映した建物です。<br />この建物は、地方俗謡に「宮で角助、平湯で与茂作さ、岩瀬佐助のまねならぬ」と唄われ、普通の農民にはこの3人の真似ができないほどの豪華さでした。規模も地区で最大級のものです。<br />飛騨は幕府の天領でもあり、特にこの矢箆原家は高山の代官所から訪れる役人の宿としての役目も担っていました。その役人を迎えるため、格式のある式台玄関や座敷空間が必要だったのです。

    旧矢箆原家住宅
    屋根の妻側上部には禅宗寺院でよく見られる火灯窓が開かれ、格式の高さを表しています。その下方にあるのは、鼻小屋です。格式の高さは軒にも見られ、軒の出桁を高い柱で受けて深い庇を造る、いわゆる「せがい造り」が施されています。
    飛騨三長者に数えられた「岩瀬の佐助」が、江戸時代の享保年間(1716~35年)に飛騨高山の名工によって建てたと伝えられています。規模としては桁行13間梁行7間半の広さを誇り、3階建ての堂々とした重量感溢れる外観で、庄屋を務めてきた家柄を反映した建物です。
    この建物は、地方俗謡に「宮で角助、平湯で与茂作さ、岩瀬佐助のまねならぬ」と唄われ、普通の農民にはこの3人の真似ができないほどの豪華さでした。規模も地区で最大級のものです。
    飛騨は幕府の天領でもあり、特にこの矢箆原家は高山の代官所から訪れる役人の宿としての役目も担っていました。その役人を迎えるため、格式のある式台玄関や座敷空間が必要だったのです。

  • 旧矢箆原家住宅<br />軒の腕木には凝った装飾の持ち送りも添えてあり、式台付きの玄関や火灯窓と共に封建時代末期の力を蓄えた豪農の生活レベルが窺えます。

    旧矢箆原家住宅
    軒の腕木には凝った装飾の持ち送りも添えてあり、式台付きの玄関や火灯窓と共に封建時代末期の力を蓄えた豪農の生活レベルが窺えます。

  • 旧矢箆原家住宅<br />間取りは、左半分が式台玄関が付いた書院造りで、右半分が普通の農家の造りです。<br />この右側の農家造りは、入口側に板敷の24畳ある居間「おいえ」、その奥に「台所」があり、その両側に作業場「うすなわ」、「ちょうだ」が続きます。<br />囲炉裏のある「おいえ」は、村の有力者との会合に使われたそうです。<br />

    旧矢箆原家住宅
    間取りは、左半分が式台玄関が付いた書院造りで、右半分が普通の農家の造りです。
    この右側の農家造りは、入口側に板敷の24畳ある居間「おいえ」、その奥に「台所」があり、その両側に作業場「うすなわ」、「ちょうだ」が続きます。
    囲炉裏のある「おいえ」は、村の有力者との会合に使われたそうです。

  • 旧矢箆原家住宅 おいえ<br />囲炉裏が2ヶ所切られているせいか、柱や壁は黒く煤けて光り、庄屋としての器が感じられます。<br />こちらは「おいえ」にある囲炉裏です。

    旧矢箆原家住宅 おいえ
    囲炉裏が2ヶ所切られているせいか、柱や壁は黒く煤けて光り、庄屋としての器が感じられます。
    こちらは「おいえ」にある囲炉裏です。

  • 旧矢箆原家住宅<br />こちらは常時火を焚いている「台所」にある囲炉裏です。<br />囲炉裏の上には「火天(ひあま)」と言う天井から吊られた棚があり、火の粉が天井に達するのを防いだり、川魚の燻製や濡れたものを乾かすために使われていたそうです。<br />囲炉裏の煙のパワーは相当なものであり、屋根裏の茅や梁などを燻して長持ちさせてくれる防腐・防虫効果があります。

    旧矢箆原家住宅
    こちらは常時火を焚いている「台所」にある囲炉裏です。
    囲炉裏の上には「火天(ひあま)」と言う天井から吊られた棚があり、火の粉が天井に達するのを防いだり、川魚の燻製や濡れたものを乾かすために使われていたそうです。
    囲炉裏の煙のパワーは相当なものであり、屋根裏の茅や梁などを燻して長持ちさせてくれる防腐・防虫効果があります。

  • 旧矢箆原家住宅 式台玄関<br />上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、普段は使われませんでした。<br />この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。

    旧矢箆原家住宅 式台玄関
    上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、普段は使われませんでした。
    この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。

  • 旧矢箆原家住宅 座敷<br />左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間です。<br />また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が施されていますので、お見逃しなく。<br />

    旧矢箆原家住宅 座敷
    左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間です。
    また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が施されていますので、お見逃しなく。

  • 旧矢箆原家住宅 櫂の欄間<br />山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間です。<br />海への憧れを表現したものなのでしょうか?<br />

    旧矢箆原家住宅 櫂の欄間
    山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間です。
    海への憧れを表現したものなのでしょうか?

  • 旧矢箆原家住宅 錨の欄間<br />シンプルなデザインですが味があります。

    旧矢箆原家住宅 錨の欄間
    シンプルなデザインですが味があります。

  • 旧矢箆原家住宅 扇面散らしの欄間<br />こうしたくだけた欄間の彫刻が粋です。

    旧矢箆原家住宅 扇面散らしの欄間
    こうしたくだけた欄間の彫刻が粋です。

  • 旧矢箆原家住宅 中の間<br />涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。<br />広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりしたことでしょう。<br />仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。仏壇は、お彼岸とお盆の時期に特別公開されるそうです。

    旧矢箆原家住宅 中の間
    涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。
    広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりしたことでしょう。
    仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。仏壇は、お彼岸とお盆の時期に特別公開されるそうです。

  • 旧矢箆原家住宅 奥座敷<br />広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、代官が泊まるという格式を備えています。<br />右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。<br />床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。

    旧矢箆原家住宅 奥座敷
    広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、代官が泊まるという格式を備えています。
    右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。
    床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。

  • 旧矢箆原家住宅 奥座敷 釘隠し<br />ドングリの実があしらわれています。この民家の建てられた山間部に於いてはドングリは日常的に接していた樹木ですから、デザインのモチーフとしてあり得えます。<br />ボランティアの方の初めの説明では「栃の実」と言われましたが、栃の木の葉は掌状複葉ですのでそれはあり得ません。<br />次は「ツバキの実かも?」でしたが、ツバキの花はまるで首が落ちるようにポトンと散るため斬首を連想させ、代官の宿泊施設には相応しくありません。<br />結局、消去法で山に因んだドングリの実と考えています。さて、本当のところはどうなのでしょうか?

    旧矢箆原家住宅 奥座敷 釘隠し
    ドングリの実があしらわれています。この民家の建てられた山間部に於いてはドングリは日常的に接していた樹木ですから、デザインのモチーフとしてあり得えます。
    ボランティアの方の初めの説明では「栃の実」と言われましたが、栃の木の葉は掌状複葉ですのでそれはあり得ません。
    次は「ツバキの実かも?」でしたが、ツバキの花はまるで首が落ちるようにポトンと散るため斬首を連想させ、代官の宿泊施設には相応しくありません。
    結局、消去法で山に因んだドングリの実と考えています。さて、本当のところはどうなのでしょうか?

  • 旧矢箆原家住宅 奥座敷 違い棚<br />

    旧矢箆原家住宅 奥座敷 違い棚

  • 旧矢箆原家住宅 上雪隠<br />代官など賓客用のトイレです。

    旧矢箆原家住宅 上雪隠
    代官など賓客用のトイレです。

  • 旧矢箆原家住宅 水屋 水舟<br />昔のシンクではありません。<br />説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から物色し、持ち込んだものだそうです。<br />水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための沈殿槽として使っていたものです。

    旧矢箆原家住宅 水屋 水舟
    昔のシンクではありません。
    説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から物色し、持ち込んだものだそうです。
    水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための沈殿槽として使っていたものです。

  • 旧矢箆原家住宅 土間と階段<br />入口の土間部分は、厩だった所です。ここには馬が三頭飼われていたそうです。

    旧矢箆原家住宅 土間と階段
    入口の土間部分は、厩だった所です。ここには馬が三頭飼われていたそうです。

  • 旧矢箆原家住宅 階段<br />垂直に近い階段です。踏み板に滑り止めの工夫がなされているのが、せめてもの救いです。<br />2階は、主以外の住居と蚕部屋だったそうです。

    旧矢箆原家住宅 階段
    垂直に近い階段です。踏み板に滑り止めの工夫がなされているのが、せめてもの救いです。
    2階は、主以外の住居と蚕部屋だったそうです。

  • 旧矢箆原家住宅 2階<br />床も柱も黒光りしています。<br />太い丸太は荒縄とネソ(樽・青もみなどをねじったもの)で結束されています。<br />暗くてよく見えませんが、機織道具や養蚕道具、壺や徳利などの生活用具が展示されています。

    旧矢箆原家住宅 2階
    床も柱も黒光りしています。
    太い丸太は荒縄とネソ(樽・青もみなどをねじったもの)で結束されています。
    暗くてよく見えませんが、機織道具や養蚕道具、壺や徳利などの生活用具が展示されています。

  • 旧東慶寺仏殿(重文)江戸時代初期建築<br />鎌倉 東慶寺にあった仏殿で1907(明治40)年に移築されました。禅宗様の特色を色濃く残す数少ない建物です。<br />主体部は、桁行3間、梁間も三間、一重の裳階が付き、三方裳階付です。屋根は寄棟造の茅葺、裳階は柿葺、正面の中央に桟唐戸、両脇に略した桟唐戸が入れられています。表から見ると2階建てに見えますが、下部の屋根は柿葺の裳階(もこし)と呼ばれる飾りです。内部は、土間形式になっており、瓦四半敷、天井は格天井です。因みに、元々は入母屋造の屋根を載せた堂々とした姿だったようです。 <br />東慶寺は1285(弘安8)年に北条時宗の妻 覚山志道尼が創建した寺院で、1903(明治36)年までは尼寺として駆込寺あるいは縁切寺として知られていました。室町時代には足利家の女性が、それ以降も天皇の皇女が住持(住職)となるほど格式が高かったそうです。江戸時代には女性から離婚を申し出ることはできませんでしたが、離婚を望む女性が指定された寺で3年間修行を積むことで離婚を可能とする「縁切寺法」という制度があり、東慶寺は縁切寺に指定されていました。「投げた草履の片方でも山門の石段に掛かれば入ったと見なされる」というルールが、追いかけてくる婚家から逃れたいと必死だった女性と救いたいお寺の双方の想いを象徴しています。

    旧東慶寺仏殿(重文)江戸時代初期建築
    鎌倉 東慶寺にあった仏殿で1907(明治40)年に移築されました。禅宗様の特色を色濃く残す数少ない建物です。
    主体部は、桁行3間、梁間も三間、一重の裳階が付き、三方裳階付です。屋根は寄棟造の茅葺、裳階は柿葺、正面の中央に桟唐戸、両脇に略した桟唐戸が入れられています。表から見ると2階建てに見えますが、下部の屋根は柿葺の裳階(もこし)と呼ばれる飾りです。内部は、土間形式になっており、瓦四半敷、天井は格天井です。因みに、元々は入母屋造の屋根を載せた堂々とした姿だったようです。
    東慶寺は1285(弘安8)年に北条時宗の妻 覚山志道尼が創建した寺院で、1903(明治36)年までは尼寺として駆込寺あるいは縁切寺として知られていました。室町時代には足利家の女性が、それ以降も天皇の皇女が住持(住職)となるほど格式が高かったそうです。江戸時代には女性から離婚を申し出ることはできませんでしたが、離婚を望む女性が指定された寺で3年間修行を積むことで離婚を可能とする「縁切寺法」という制度があり、東慶寺は縁切寺に指定されていました。「投げた草履の片方でも山門の石段に掛かれば入ったと見なされる」というルールが、追いかけてくる婚家から逃れたいと必死だった女性と救いたいお寺の双方の想いを象徴しています。

  • 旧東慶寺仏殿<br />禅宗様は、中国の寺院建築様式をそのまま取り入れており、唐様とも呼ばれます。小さな部材を組み合わせた斗供(ときょう)はその代表的なものです。斗供は、柱上部と梁の間に置かれた木の組物で、釘を使わず、木材の突起や穴を組み合わせて繋げ、木が湿気により伸び縮みすることや風や地震の際の揺れを吸収して建物の歪みを防ぐ機能もあります。また、これを幾重にも重ねることで軒を深くすることもでき、軒下の組物には唐草の模様が彫られています。

    旧東慶寺仏殿
    禅宗様は、中国の寺院建築様式をそのまま取り入れており、唐様とも呼ばれます。小さな部材を組み合わせた斗供(ときょう)はその代表的なものです。斗供は、柱上部と梁の間に置かれた木の組物で、釘を使わず、木材の突起や穴を組み合わせて繋げ、木が湿気により伸び縮みすることや風や地震の際の揺れを吸収して建物の歪みを防ぐ機能もあります。また、これを幾重にも重ねることで軒を深くすることもでき、軒下の組物には唐草の模様が彫られています。

  • 旧東慶寺仏殿<br />天樹院 千姫によって1634(寛永11)年に建立された建物です。千姫が、豊臣滅亡後に秀頼の娘 天秀尼のために寄進したものと伝えられています。<br />千姫は、徳川秀忠とお江の間に生まれた娘であり、豊臣秀吉と淀殿の間に生まれた秀頼に嫁つぎました。天秀尼が東慶寺の住持になるなど、この仏殿は浅井家3姉妹との所縁が深いようです。<br />後宇多天皇勅筆と伝える額にも、寺名「東慶総持禅寺」と書かれています。 『玉舟和尚鎌倉記』には、「山門あり、東慶総持禅寺の額あり」とあります。 寛永年間には山門があり、この額はそこに掲げられていたのでしょう。

    旧東慶寺仏殿
    天樹院 千姫によって1634(寛永11)年に建立された建物です。千姫が、豊臣滅亡後に秀頼の娘 天秀尼のために寄進したものと伝えられています。
    千姫は、徳川秀忠とお江の間に生まれた娘であり、豊臣秀吉と淀殿の間に生まれた秀頼に嫁つぎました。天秀尼が東慶寺の住持になるなど、この仏殿は浅井家3姉妹との所縁が深いようです。
    後宇多天皇勅筆と伝える額にも、寺名「東慶総持禅寺」と書かれています。 『玉舟和尚鎌倉記』には、「山門あり、東慶総持禅寺の額あり」とあります。 寛永年間には山門があり、この額はそこに掲げられていたのでしょう。

  • 旧燈明寺本堂(重文)<br />室町時代の建築とされ、三重塔と同じ京都 燈明寺にあった建物です。 入母屋造、正面に向拝のついた5間の仏堂です。<br />三溪園には、1988年に移築・保存が行われ、 中世密教寺院の姿がここに甦っています。燈明寺寺伝によると、聖武天皇の勅願によって開創されたと伝わります。春日厨子の蟇股が美しく国内では最大のものとされています。<br />

    旧燈明寺本堂(重文)
    室町時代の建築とされ、三重塔と同じ京都 燈明寺にあった建物です。 入母屋造、正面に向拝のついた5間の仏堂です。
    三溪園には、1988年に移築・保存が行われ、 中世密教寺院の姿がここに甦っています。燈明寺寺伝によると、聖武天皇の勅願によって開創されたと伝わります。春日厨子の蟇股が美しく国内では最大のものとされています。

  • 旧燈明寺本堂<br />燈明寺はすでに廃寺となっていますが、735(天平7)年に聖武天皇の勅願によって創建されました。平安時代、弘法大師の弟子の真暁僧都が中興し、真言宗の寺としました。その後、室町時代の1457(康正3)年に天台宗の忍禅が寺を修復し、寺号を「東明寺」に改称しました。江戸時代の1661(寛文元)年に日蓮宗の日便が檀家の協力を得て荒廃していた寺を修復し、寺号を本光山燈明寺と改めました。

    旧燈明寺本堂
    燈明寺はすでに廃寺となっていますが、735(天平7)年に聖武天皇の勅願によって創建されました。平安時代、弘法大師の弟子の真暁僧都が中興し、真言宗の寺としました。その後、室町時代の1457(康正3)年に天台宗の忍禅が寺を修復し、寺号を「東明寺」に改称しました。江戸時代の1661(寛文元)年に日蓮宗の日便が檀家の協力を得て荒廃していた寺を修復し、寺号を本光山燈明寺と改めました。

  • 旧燈明寺本堂<br />三重塔と同様に、巴瓦には「東明寺」と刻印されています。

    旧燈明寺本堂
    三重塔と同様に、巴瓦には「東明寺」と刻印されています。

  • 旧燈明寺本堂<br />かつて本堂の裏手(東側)には、皇大神宮が建っていたそうです。<br />現在は、皇大神宮の遺構となる石積が残されているだけです。<br />栃木県にあった大嶋製糸場を買収したことにより、同敷地内にあった神社「皇大神宮」をこの地に移したものです。しかし、1945(昭和20)年に戦火により灰燼に化しています。

    旧燈明寺本堂
    かつて本堂の裏手(東側)には、皇大神宮が建っていたそうです。
    現在は、皇大神宮の遺構となる石積が残されているだけです。
    栃木県にあった大嶋製糸場を買収したことにより、同敷地内にあった神社「皇大神宮」をこの地に移したものです。しかし、1945(昭和20)年に戦火により灰燼に化しています。

  • 旧燈明寺本堂<br />写真にある鳥居と思しき残骸が境内の脇に放置されています。

    旧燈明寺本堂
    写真にある鳥居と思しき残骸が境内の脇に放置されています。

  • 観心橋<br />この橋の名は、大坂 歓心寺に由来します。<br />現在、この橋の先には天満宮が鎮座していますが、かつては楠公社がありました。南北朝時代の武将 楠正成を祀り、その社殿の建物は観心寺にあったもので、楠正成が1334(建武元)年に建立し、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられています。<br />三渓園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家 米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていましたが、空襲により社殿と楠公像は共に灰燼と化しました。

    観心橋
    この橋の名は、大坂 歓心寺に由来します。
    現在、この橋の先には天満宮が鎮座していますが、かつては楠公社がありました。南北朝時代の武将 楠正成を祀り、その社殿の建物は観心寺にあったもので、楠正成が1334(建武元)年に建立し、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられています。
    三渓園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家 米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていましたが、空襲により社殿と楠公像は共に灰燼と化しました。

  • 三溪園天満宮<br />江戸時代に京都 北野天満宮から勧請した間門天神(まかどてんじん)がその前身であり、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。<br />1977(昭和52)年に三溪園に遷座し、以後三溪園天満宮として来園者に親しまれています。

    三溪園天満宮
    江戸時代に京都 北野天満宮から勧請した間門天神(まかどてんじん)がその前身であり、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。
    1977(昭和52)年に三溪園に遷座し、以後三溪園天満宮として来園者に親しまれています。

  • 三溪園天満宮<br />天満宮の鳥居の左脇にある首から上が欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのものです。<br />太平洋戦争時の空襲によって破壊された傷痕が生々しく残されています。

    三溪園天満宮
    天満宮の鳥居の左脇にある首から上が欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのものです。
    太平洋戦争時の空襲によって破壊された傷痕が生々しく残されています。

  • 歓心橋から眺める三重塔の姿は最高です。

    歓心橋から眺める三重塔の姿は最高です。

  • 歓心橋から天満宮辺りは「キジトラ」猫の縄張りのようです。

    歓心橋から天満宮辺りは「キジトラ」猫の縄張りのようです。

  • 八つ橋<br />菖蒲園にある橋の袂には、お化粧前のハンゲショウ(半夏生)が茂っていました。<br />6月中頃にはお化粧していることでしょう。

    八つ橋
    菖蒲園にある橋の袂には、お化粧前のハンゲショウ(半夏生)が茂っていました。
    6月中頃にはお化粧していることでしょう。

  • 大池 臥龍の松<br />市内に現存するクロマツとしては唯一の巨木で、推定樹齢は400年以上とされています。龍が臥したような姿形であるため、「臥龍の松」と呼ばれて親しまれています。<br /><br />これで三渓園のレポはお終いです。

    大池 臥龍の松
    市内に現存するクロマツとしては唯一の巨木で、推定樹齢は400年以上とされています。龍が臥したような姿形であるため、「臥龍の松」と呼ばれて親しまれています。

    これで三渓園のレポはお終いです。

  • 隣花苑<br />閑静な住宅街の奥に三溪園と敷地を面した位置に佇みます。<br />原三渓の曾孫に当たる方が女将を務めておられる古民家レストランです。実業家、美術愛好家の他、食通としても知られ、客人をもてなすことが大好きだった三溪。その伝統の味と心を受け継いだ、おもてなし料理が堪能できるお店です。<br />「ミシュランガイド 東京・横浜・鎌倉 2011」で一つ星を獲得しています。三渓が考案した自慢の「三渓麺(さんけいそば)」を忠実に再現できる唯一の味処です。<br />隣花苑のHPです。<br />http://www.rinkaen.jp/

    隣花苑
    閑静な住宅街の奥に三溪園と敷地を面した位置に佇みます。
    原三渓の曾孫に当たる方が女将を務めておられる古民家レストランです。実業家、美術愛好家の他、食通としても知られ、客人をもてなすことが大好きだった三溪。その伝統の味と心を受け継いだ、おもてなし料理が堪能できるお店です。
    「ミシュランガイド 東京・横浜・鎌倉 2011」で一つ星を獲得しています。三渓が考案した自慢の「三渓麺(さんけいそば)」を忠実に再現できる唯一の味処です。
    隣花苑のHPです。
    http://www.rinkaen.jp/

  • 隣花苑<br />ウツギの白い清楚な花が手招きし、露地の飛び石が玄関までナビゲートしてくれます。<br />「隣花苑」という名は、三渓が好んだ「隣花不妨賞(隣花、賞するを妨げず)」という漢詩に由来しています。読み砕くと、「隣の花も我が家の花も垣根を低くし、皆で愛でられるようにしよう」という意味になります。<br />

    隣花苑
    ウツギの白い清楚な花が手招きし、露地の飛び石が玄関までナビゲートしてくれます。
    「隣花苑」という名は、三渓が好んだ「隣花不妨賞(隣花、賞するを妨げず)」という漢詩に由来しています。読み砕くと、「隣の花も我が家の花も垣根を低くし、皆で愛でられるようにしよう」という意味になります。

  • 隣花苑<br />いただいた「しおり」によると、この古民家は、静岡県田方郡大仁町田京にあった廣瀬神社(天平時代の創建とされ、三島神社と比肩される格式の神社)の神宮 西島氏の家屋を昭和5年に移築したものです。約600年前の足利時代のものになり、韮山にある江川邸と同時代のものです。また、付属の奥の2間は、江戸時代に増築されたものだそうです。伊豆地方のこの時代の古民家で現存しているのはこの2軒だけであり、元々は三溪の娘さんが住んでいた家屋だったそうです。

    隣花苑
    いただいた「しおり」によると、この古民家は、静岡県田方郡大仁町田京にあった廣瀬神社(天平時代の創建とされ、三島神社と比肩される格式の神社)の神宮 西島氏の家屋を昭和5年に移築したものです。約600年前の足利時代のものになり、韮山にある江川邸と同時代のものです。また、付属の奥の2間は、江戸時代に増築されたものだそうです。伊豆地方のこの時代の古民家で現存しているのはこの2軒だけであり、元々は三溪の娘さんが住んでいた家屋だったそうです。

  • 隣花苑<br />庭の木陰にはこうした鄙びた燈籠も佇みます。<br />ここの奥座敷から見上げる三重塔の景色は、三渓の一番のお気に入りだったそうです。<br />また、隣花苑は、夏目漱石をはじめ、名だたる文豪たちの作品にも登場しています。できるだけ変えずに、かつて文豪たちが愛したそのままの雰囲気を守り続けています。と言うことで、空調機は備えていません。ですから、8月は休業されます。

    隣花苑
    庭の木陰にはこうした鄙びた燈籠も佇みます。
    ここの奥座敷から見上げる三重塔の景色は、三渓の一番のお気に入りだったそうです。
    また、隣花苑は、夏目漱石をはじめ、名だたる文豪たちの作品にも登場しています。できるだけ変えずに、かつて文豪たちが愛したそのままの雰囲気を守り続けています。と言うことで、空調機は備えていません。ですから、8月は休業されます。

  • 隣花苑<br />玄関はまさに古民家の雰囲気です。壁に掛けられた箕、ひょうたん、草鞋など…。そして左側のガラス戸の窓は、波打って映る昔のままのギヤマンです。<br />しかし予約をしていなかったため、満席で三渓麺をいただくことはできませんでした。次回は予約されるようにと「しおり」をいただき、物腰の柔らかい女将さんでした。<br />一言断れば、お庭の写真も撮らせていただけます。

    隣花苑
    玄関はまさに古民家の雰囲気です。壁に掛けられた箕、ひょうたん、草鞋など…。そして左側のガラス戸の窓は、波打って映る昔のままのギヤマンです。
    しかし予約をしていなかったため、満席で三渓麺をいただくことはできませんでした。次回は予約されるようにと「しおり」をいただき、物腰の柔らかい女将さんでした。
    一言断れば、お庭の写真も撮らせていただけます。

  • 亀の子石神社<br />三渓園からバス停に向かう途中、道路に面した三角形の土地に神社が建てられています。お供え物は、何と「亀の子タワシ」です。安置された石の形に因んで「亀の子石神社」と命名され、百日ぜきなど喉の疾患にご利益があるそうです。「喉の痛みが治った」から「発声が良くなった」まで、石の上に置かれた亀の子タワシの祈願の内容は様々です。<br />タワシの数が増える理屈は、「倍返し」のルールがあるからです。喉にまつわる悩みを持った人が参拝し、まず石の上のタワシを1つ持ち帰ります。そのタワシを使って食器などを洗い、悩みや希望が解決すれば、お供えとして2つの新しいタワシを奉納します。

    亀の子石神社
    三渓園からバス停に向かう途中、道路に面した三角形の土地に神社が建てられています。お供え物は、何と「亀の子タワシ」です。安置された石の形に因んで「亀の子石神社」と命名され、百日ぜきなど喉の疾患にご利益があるそうです。「喉の痛みが治った」から「発声が良くなった」まで、石の上に置かれた亀の子タワシの祈願の内容は様々です。
    タワシの数が増える理屈は、「倍返し」のルールがあるからです。喉にまつわる悩みを持った人が参拝し、まず石の上のタワシを1つ持ち帰ります。そのタワシを使って食器などを洗い、悩みや希望が解決すれば、お供えとして2つの新しいタワシを奉納します。

  • 亀の子石神社<br />亀が喉の神様になった由来には、次のような伝承があります。<br />昔、本牧で漁が行われていた頃、引き上げた網に1匹の子亀が入っていました。面白がった子どもたちは、子亀を蹴って殺してしまいました。するとその日の夜、季節外れの大嵐が本牧を襲いました。漁師らは「子亀の祟り」と思い墓を掘り返したところ、その亀は石に姿を変えていました。その石が亀の子石神社に祀られている石です。ぜんそくが持病だった老女が哀れんで石になった亀を撫でたところ、不思議なことにぜんそくが治ったことから亀と喉の奇妙な関係が始まりました。<br />亀の子石神社の創建は1958年のことです。それまでは「亀の子石」は本牧の吾妻神社に安置されていましたが、区画整理にあい、動かす必要が生じました。そこへ手を差し伸べたのが原三渓から数えて4代目の原範行氏でした。この土地を亀の子石のために提供したのです。因みに原家は「亀善」という屋号を掲げて生糸で財をなしており、「亀」との結び付きを重んじたのかもしれません。<br />思いがけず三渓園の外でも原三渓の精神が今に根付いているのを知り、とても爽快な気分になれました。横浜で成功された方々には、是非、第2・第3の原三渓になっていただければと思います。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    亀の子石神社
    亀が喉の神様になった由来には、次のような伝承があります。
    昔、本牧で漁が行われていた頃、引き上げた網に1匹の子亀が入っていました。面白がった子どもたちは、子亀を蹴って殺してしまいました。するとその日の夜、季節外れの大嵐が本牧を襲いました。漁師らは「子亀の祟り」と思い墓を掘り返したところ、その亀は石に姿を変えていました。その石が亀の子石神社に祀られている石です。ぜんそくが持病だった老女が哀れんで石になった亀を撫でたところ、不思議なことにぜんそくが治ったことから亀と喉の奇妙な関係が始まりました。
    亀の子石神社の創建は1958年のことです。それまでは「亀の子石」は本牧の吾妻神社に安置されていましたが、区画整理にあい、動かす必要が生じました。そこへ手を差し伸べたのが原三渓から数えて4代目の原範行氏でした。この土地を亀の子石のために提供したのです。因みに原家は「亀善」という屋号を掲げて生糸で財をなしており、「亀」との結び付きを重んじたのかもしれません。
    思いがけず三渓園の外でも原三渓の精神が今に根付いているのを知り、とても爽快な気分になれました。横浜で成功された方々には、是非、第2・第3の原三渓になっていただければと思います。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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