本牧・根岸・磯子旅行記(ブログ) 一覧に戻る
港町のエキゾチックなイメージが強烈な横浜に、国の名勝にも指定された約5.3万坪に及ぶ広大な日本庭園があります。本牧海岸に沿った山や谷などの美しい自然をそのまま活かし、一際異彩を放っています。明治~大正時代にかけて生糸貿易で財をなした実業家 原三渓(本名:富太郎)が三之谷に造り上げた旧邸宅や庭園を総称したものが「三溪園」です。<br />ここにある和建築のほとんどは、京都や鎌倉などから古建築の逸品を選りすぐって移築したものです。17棟の歴史的建造物のうち10棟が国の重文に指定され、それらが四季折々の自然の景観の中に巧に配されている様は「東の桂離宮」と称されています。一箇所ににこれだけ多く、かつバラエティに富んだ古建築が密集しているのは他に類を見ません。三渓は大の秀吉好きで、彼の夢は横浜の地に「秀吉ワールド」を築くことだったようです。<br />三溪園は、1906(明治39)年に一般開放された花を愉しむ外苑エリアと、1958(昭和33)年まで私邸だった内苑エリアに区分けされ、名建築と呼ばれる建造物や瀟洒な庭園の多くは内苑にあります。太平洋戦争では甚大な被害を受けたそうですが、1953(昭和28)年に原家から財団法人 三渓園保勝会に移管されたのを契機に復旧が進み、その5年後にほぼ昔日の姿を甦らせています。<br />三渓の個人的な趣味と道楽が高じた結晶なのですが、彼を突き動かした原動力は危機感でした。近代国家の玄関口「横浜」にあって、怒涛のごとく押し寄せる西洋文明の波に侵食されていく日本の姿を目の当たりにしてきた彼ゆえに、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思います。その根底にある精神が、三渓が好んだ「隣花不防賞」の五言の思いです。<br />三渓園のHPです。<br />http://sankeien.or.jp/

松風水月 横浜逍遥 三渓園(前編)

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2017/05/25 - 2017/05/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

港町のエキゾチックなイメージが強烈な横浜に、国の名勝にも指定された約5.3万坪に及ぶ広大な日本庭園があります。本牧海岸に沿った山や谷などの美しい自然をそのまま活かし、一際異彩を放っています。明治~大正時代にかけて生糸貿易で財をなした実業家 原三渓(本名:富太郎)が三之谷に造り上げた旧邸宅や庭園を総称したものが「三溪園」です。
ここにある和建築のほとんどは、京都や鎌倉などから古建築の逸品を選りすぐって移築したものです。17棟の歴史的建造物のうち10棟が国の重文に指定され、それらが四季折々の自然の景観の中に巧に配されている様は「東の桂離宮」と称されています。一箇所ににこれだけ多く、かつバラエティに富んだ古建築が密集しているのは他に類を見ません。三渓は大の秀吉好きで、彼の夢は横浜の地に「秀吉ワールド」を築くことだったようです。
三溪園は、1906(明治39)年に一般開放された花を愉しむ外苑エリアと、1958(昭和33)年まで私邸だった内苑エリアに区分けされ、名建築と呼ばれる建造物や瀟洒な庭園の多くは内苑にあります。太平洋戦争では甚大な被害を受けたそうですが、1953(昭和28)年に原家から財団法人 三渓園保勝会に移管されたのを契機に復旧が進み、その5年後にほぼ昔日の姿を甦らせています。
三渓の個人的な趣味と道楽が高じた結晶なのですが、彼を突き動かした原動力は危機感でした。近代国家の玄関口「横浜」にあって、怒涛のごとく押し寄せる西洋文明の波に侵食されていく日本の姿を目の当たりにしてきた彼ゆえに、日本の伝統文化や芸術の保護、保存に心血を注ぐ決意をしたのだと思います。その根底にある精神が、三渓が好んだ「隣花不防賞」の五言の思いです。
三渓園のHPです。
http://sankeien.or.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル
  • 三渓園 入口<br />曇り時々晴れのお天気でしたが、結婚式の前撮りのカップルが数組おられました。横浜界隈にある和装の前撮りでは有数のスポットのようです。<br /><br />原三渓は、岐阜県厚見群佐波村(現 岐阜県柳津町)で庄屋 青木家の長男に生まれ、幼少時から絵画、漢学、詩文を学び、東京専門学校(現 早稲田大学)に入学し、政治・法律を学びました。その後、1888(明治21)年に跡見女学校 助教授になり、教え子の原善三郎の孫娘 屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍しました。三溪は横浜で一二を争う生糸商「亀屋」の跡継ぎとなり、富岡製糸工場など近代的な産業を次々と成功させ、巨万の富を築きました。実業家以外にも様々な側面を持ち合わせた三溪は、住居を本牧 三之谷(これが雅号「三渓」の由来)へ移すと古建築の移築に着手し、1906(明治39)年には惜しげもなく三溪園を無料公開した他、近代日本画家の支援・育成を行いました。

    三渓園 入口
    曇り時々晴れのお天気でしたが、結婚式の前撮りのカップルが数組おられました。横浜界隈にある和装の前撮りでは有数のスポットのようです。

    原三渓は、岐阜県厚見群佐波村(現 岐阜県柳津町)で庄屋 青木家の長男に生まれ、幼少時から絵画、漢学、詩文を学び、東京専門学校(現 早稲田大学)に入学し、政治・法律を学びました。その後、1888(明治21)年に跡見女学校 助教授になり、教え子の原善三郎の孫娘 屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍しました。三溪は横浜で一二を争う生糸商「亀屋」の跡継ぎとなり、富岡製糸工場など近代的な産業を次々と成功させ、巨万の富を築きました。実業家以外にも様々な側面を持ち合わせた三溪は、住居を本牧 三之谷(これが雅号「三渓」の由来)へ移すと古建築の移築に着手し、1906(明治39)年には惜しげもなく三溪園を無料公開した他、近代日本画家の支援・育成を行いました。

  • 門を入ってまず目に入るのが、外苑にあるこの雄大な景色です。<br />この時期は、大池を中心に深い緑がとても印象的です。<br />外苑は、三溪が早くから一般に向けて開放した庭園です。急速な近代化が進む時代にあって、「神社仏閣や住居など生活に身近な建築を来園者に見てもらうことで日本人が失ってはならない国民性を顧みることができる」という考えの下に構成されています。残念なことに、幾つかの建物が震災や戦災などで焼失しています。

    門を入ってまず目に入るのが、外苑にあるこの雄大な景色です。
    この時期は、大池を中心に深い緑がとても印象的です。
    外苑は、三溪が早くから一般に向けて開放した庭園です。急速な近代化が進む時代にあって、「神社仏閣や住居など生活に身近な建築を来園者に見てもらうことで日本人が失ってはならない国民性を顧みることができる」という考えの下に構成されています。残念なことに、幾つかの建物が震災や戦災などで焼失しています。

  • 大池<br />丘の上に聳え立つ三重塔を借景にハナショウブが咲き乱れる正門付近からの眺めは、初夏の三溪園を代表する風景のひとつです。<br />ハナショウブはまだ咲き始めで疎らでした。

    大池
    丘の上に聳え立つ三重塔を借景にハナショウブが咲き乱れる正門付近からの眺めは、初夏の三溪園を代表する風景のひとつです。
    ハナショウブはまだ咲き始めで疎らでした。

  • 大池<br />舟の上にいるのは、鵜でしょうか?<br />絶好のアクセントになっています。<br />思わず鵜と目が合い、こちらがドギマギしてしまいました。

    大池
    舟の上にいるのは、鵜でしょうか?
    絶好のアクセントになっています。
    思わず鵜と目が合い、こちらがドギマギしてしまいました。

  • 大池<br />黄色い目のような模様があるのでハナショウブに違いありません。

    大池
    黄色い目のような模様があるのでハナショウブに違いありません。

  • 大池<br />亀が水面に映った美しいハナショウブをめがけてダイブしようとしています。

    大池
    亀が水面に映った美しいハナショウブをめがけてダイブしようとしています。

  • 鶴翔閣<br />大池を挟み、対岸の八つ橋の辺りから鶴翔閣を眺めます。<br />

    鶴翔閣
    大池を挟み、対岸の八つ橋の辺りから鶴翔閣を眺めます。

  • 涵花亭(かんかてい)<br />天満宮の前に架かる橋を渡った先の中の島には、涵花亭が佇みます。<br />「涵」は、「ひたす」や「うるおす」の意ですから、情趣ある名と言えます。そこに渡された小さな橋が観心橋です。<br />

    涵花亭(かんかてい)
    天満宮の前に架かる橋を渡った先の中の島には、涵花亭が佇みます。
    「涵」は、「ひたす」や「うるおす」の意ですから、情趣ある名と言えます。そこに渡された小さな橋が観心橋です。

  • 鶴翔閣(旧原家住宅)市指定有形文化財<br />最初に目に飛び込んでくるのが、重厚感たっぷりの建造物です。茅葺、入母屋造の平屋建ての7棟からなり、原三渓が自ら設計したもので個人宅としては別格の規模です。<br />1902(明治35)年に竣工し、三溪園造成の足がかりになった記念すべき建物です。広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。上空から見た形が鶴が羽根を広げている姿を彷彿とさせることから、「鶴翔閣」の名があります。現在は、フォーマルな宴会の会場などに利用されています。<br />震災、戦災などにより改修されたものですが、2000年に修復を終え、建築当初の姿が甦っています。鶴翔閣には吉田茂、伊藤博文、原敬、大隈重信など歴代の総理大臣や文学者が集い、また、横山大観、下村観山、前田青邨、安田靫彦といった日本美術院の画家が創作活動のために逗留したそうです。三溪は新進芸術家のパトロンとしても知られ、 月6円で暮らせた時代に、破格の月百円を支援していたそうです。しかも偉ぶらず、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞して刺激を与え、互いに批評し合い、時に学んだそうです。日本版「ノブレス・オブリージュ」の典型と言えます。こうした方々の存在なくして日本文化は語れません。ビジネスで稼いだ利益をM&Aに投資することしか脳にない現代の成功者に、是非見習っていただきたいものです。

    鶴翔閣(旧原家住宅)市指定有形文化財
    最初に目に飛び込んでくるのが、重厚感たっぷりの建造物です。茅葺、入母屋造の平屋建ての7棟からなり、原三渓が自ら設計したもので個人宅としては別格の規模です。
    1902(明治35)年に竣工し、三溪園造成の足がかりになった記念すべき建物です。広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。上空から見た形が鶴が羽根を広げている姿を彷彿とさせることから、「鶴翔閣」の名があります。現在は、フォーマルな宴会の会場などに利用されています。
    震災、戦災などにより改修されたものですが、2000年に修復を終え、建築当初の姿が甦っています。鶴翔閣には吉田茂、伊藤博文、原敬、大隈重信など歴代の総理大臣や文学者が集い、また、横山大観、下村観山、前田青邨、安田靫彦といった日本美術院の画家が創作活動のために逗留したそうです。三溪は新進芸術家のパトロンとしても知られ、 月6円で暮らせた時代に、破格の月百円を支援していたそうです。しかも偉ぶらず、自ら集めた古美術の名品を彼らと共に観賞して刺激を与え、互いに批評し合い、時に学んだそうです。日本版「ノブレス・オブリージュ」の典型と言えます。こうした方々の存在なくして日本文化は語れません。ビジネスで稼いだ利益をM&Aに投資することしか脳にない現代の成功者に、是非見習っていただきたいものです。

  • 鶴翔閣<br />ここの玄関は、三渓の実家の玄関にデザインを模しているそうです。<br />玄関の車寄せも、存在感のある茅葺屋根です。重厚な屋根が突出し、それを細い華奢な柱で支えた意外性が奏功しています。<br />居室は、車寄せから2m程高くなっています。現在は背の高い樹木や植え込みが景観を阻害していますが、往時は背の低い4ツ目垣があっただけと言います。座れば大池だけが見え、立てば苑路や睡蓮池まで見えるように計算し尽くされた設計です。

    鶴翔閣
    ここの玄関は、三渓の実家の玄関にデザインを模しているそうです。
    玄関の車寄せも、存在感のある茅葺屋根です。重厚な屋根が突出し、それを細い華奢な柱で支えた意外性が奏功しています。
    居室は、車寄せから2m程高くなっています。現在は背の高い樹木や植え込みが景観を阻害していますが、往時は背の低い4ツ目垣があっただけと言います。座れば大池だけが見え、立てば苑路や睡蓮池まで見えるように計算し尽くされた設計です。

  • 鶴翔閣<br />数奇屋建築の細い柱や細い窓の桟、薄い杉板で張り込んだ屋根、そしてその上に載せられた重厚な茅葺屋根…。細く軽やかな下部と、どっしりした屋根の中間にある細い柱と漆喰の白い壁が絶妙のバランス感覚でなりたっています。<br />ガラスは全て手作りで透明度のあるギヤマンを用いています。<br /><br />

    鶴翔閣
    数奇屋建築の細い柱や細い窓の桟、薄い杉板で張り込んだ屋根、そしてその上に載せられた重厚な茅葺屋根…。細く軽やかな下部と、どっしりした屋根の中間にある細い柱と漆喰の白い壁が絶妙のバランス感覚でなりたっています。
    ガラスは全て手作りで透明度のあるギヤマンを用いています。

  • 鶴翔閣<br />車寄せの天井の意匠も格子天井風に凝ったデザインです。

    鶴翔閣
    車寄せの天井の意匠も格子天井風に凝ったデザインです。

  • 睡蓮池<br />池の土手にはサツキの花や黄色のハナショウブ、池には純白の睡蓮が咲いています。<br />

    睡蓮池
    池の土手にはサツキの花や黄色のハナショウブ、池には純白の睡蓮が咲いています。

  • 睡蓮池<br />そろそろ店じまいしそうな雰囲気の睡蓮です。

    睡蓮池
    そろそろ店じまいしそうな雰囲気の睡蓮です。

  • 御門(市指定有形文化財)1708(宝永5)年頃の建築<br />松並木が続く石畳の道を進んでいくと場違いな御門が見えてきます。 白壁も続き、まるで寺院にでもいるかのような雰囲気です。

    御門(市指定有形文化財)1708(宝永5)年頃の建築
    松並木が続く石畳の道を進んでいくと場違いな御門が見えてきます。 白壁も続き、まるで寺院にでもいるかのような雰囲気です。

  • 御門<br />京都東山の西方寺にあった薬医門を移築したものであり、規模の大きな薬医門の遺構として貴重なものです。 <br />明治時代末期~大正時代初期、西方寺境内の一部が市電敷設に伴う道路拡張のため区画整理にあい、その際に解体された門を移築したものです。<br />

    御門
    京都東山の西方寺にあった薬医門を移築したものであり、規模の大きな薬医門の遺構として貴重なものです。
    明治時代末期~大正時代初期、西方寺境内の一部が市電敷設に伴う道路拡張のため区画整理にあい、その際に解体された門を移築したものです。

  • 御門<br />屋根は切妻造りの瓦葺、本柱・控柱共に角柱を用い、妻に大きな蟇股を入れています。この門を潜った先が内苑になります。<br />薬医門の特徴は、このように桁(けた)が梁(はり)から突き出し、屋根が前に迫り出した印象を持つことです。<br /><br /><br />

    御門
    屋根は切妻造りの瓦葺、本柱・控柱共に角柱を用い、妻に大きな蟇股を入れています。この門を潜った先が内苑になります。
    薬医門の特徴は、このように桁(けた)が梁(はり)から突き出し、屋根が前に迫り出した印象を持つことです。


  • 白雲邸(市指定有形文化財)1920(大正9年)建築<br />右手に佇むのが三渓が隠居所として建てた数奇屋風建築で、明治時代以降における近代和風建築を代表するものです。亡くなるまでの20年間を夫人 屋寿と水入らずで過ごした邸宅です。<br />

    白雲邸(市指定有形文化財)1920(大正9年)建築
    右手に佇むのが三渓が隠居所として建てた数奇屋風建築で、明治時代以降における近代和風建築を代表するものです。亡くなるまでの20年間を夫人 屋寿と水入らずで過ごした邸宅です。

  • 白雲邸<br />自らの着想で同郷の大工 山田源市に建てさせた数寄屋風の造りで、臨春閣と呼応するようにL字型の間取りで中庭を設けています。また、建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっているそうです。<br />内向きの住まいのため落ち着いた佇まいですが、夫妻それぞれの書院は名木・螺鈿をあしらい、プライベートな部分に手の込んだ意匠を施しているようです。

    白雲邸
    自らの着想で同郷の大工 山田源市に建てさせた数寄屋風の造りで、臨春閣と呼応するようにL字型の間取りで中庭を設けています。また、建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっているそうです。
    内向きの住まいのため落ち着いた佇まいですが、夫妻それぞれの書院は名木・螺鈿をあしらい、プライベートな部分に手の込んだ意匠を施しているようです。

  • 白雲邸<br />扁額は電気王「耳庵松永安左エ門」の揮毫です。<br />

    白雲邸
    扁額は電気王「耳庵松永安左エ門」の揮毫です。

  • 白雲邸<br />伝統的な数寄屋建築ですが、屋根の架構をトラス形態にしているのが斬新です。<br />室内には、繊細な造りの建具、色々な形状の天井の細い桟、網代天井、書院の薄い棚など書院造り独特の空間が散り嵌められているそうです。<br />また、三渓は、書院の天板を決めるために何百枚ものスケッチを描いて拘り抜いたとのエピソードが伝えられています。三渓が機能とデザインの両立を追及しながら思案に暮れる姿が目に浮かぶようです。

    白雲邸
    伝統的な数寄屋建築ですが、屋根の架構をトラス形態にしているのが斬新です。
    室内には、繊細な造りの建具、色々な形状の天井の細い桟、網代天井、書院の薄い棚など書院造り独特の空間が散り嵌められているそうです。
    また、三渓は、書院の天板を決めるために何百枚ものスケッチを描いて拘り抜いたとのエピソードが伝えられています。三渓が機能とデザインの両立を追及しながら思案に暮れる姿が目に浮かぶようです。

  • 臨春閣 玄関<br />御門を潜ると、真正面に構えるのが唐破風屋根を載せた臨春閣の玄関です。<br />唐破風が付けられてはいるものの、形状は平板で三溪自慢の建物の玄関口にしては貧相な面構えです。調べてみると、この玄関部分は太平洋戦争時に被弾して破損し、それを修理した比較的新しいものだそうです。<br />

    臨春閣 玄関
    御門を潜ると、真正面に構えるのが唐破風屋根を載せた臨春閣の玄関です。
    唐破風が付けられてはいるものの、形状は平板で三溪自慢の建物の玄関口にしては貧相な面構えです。調べてみると、この玄関部分は太平洋戦争時に被弾して破損し、それを修理した比較的新しいものだそうです。

  • 臨春閣(重文)1649(慶安2)年建築<br />前面には池を湛え、日本庭園の趣を醸しています。 建物が3つ連なった珍しい形の建物群は、数奇屋風書院造として宮家別荘の桂離宮と共に国別荘史上の双璧と称されています。この建物には豊臣秀吉の聚楽第の遺構だとする由来が付けられていたそうで、三溪の生前には、人々はその由来を信じてこの建物を「桃山御殿」と呼んでいたことが記録に残されています。<br />しかし現在では、和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の夏の別荘 巌出御殿(いわでごてん)と考えられています。紀州から徳川家8代将軍となった吉宗は、幼少期、この巌出御殿で育ちました。祖父の別荘で川に張り出した座敷から川に飛び込んで水遊びしたそうです。

    臨春閣(重文)1649(慶安2)年建築
    前面には池を湛え、日本庭園の趣を醸しています。 建物が3つ連なった珍しい形の建物群は、数奇屋風書院造として宮家別荘の桂離宮と共に国別荘史上の双璧と称されています。この建物には豊臣秀吉の聚楽第の遺構だとする由来が付けられていたそうで、三溪の生前には、人々はその由来を信じてこの建物を「桃山御殿」と呼んでいたことが記録に残されています。
    しかし現在では、和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の夏の別荘 巌出御殿(いわでごてん)と考えられています。紀州から徳川家8代将軍となった吉宗は、幼少期、この巌出御殿で育ちました。祖父の別荘で川に張り出した座敷から川に飛び込んで水遊びしたそうです。

  • 臨春閣<br />桂離宮の御殿が、古書院・中書院・新御殿と増築を繰り返した建物が雁行しているように、三渓園の臨春閣も第一屋(右)、第二屋(中央)、第三屋(写真にはありません)と3つの建物が雁行して配置されています。<br />この景観は、京都 桂離宮と対比され「東の桂離宮」と呼ばれています。<br />

    臨春閣
    桂離宮の御殿が、古書院・中書院・新御殿と増築を繰り返した建物が雁行しているように、三渓園の臨春閣も第一屋(右)、第二屋(中央)、第三屋(写真にはありません)と3つの建物が雁行して配置されています。
    この景観は、京都 桂離宮と対比され「東の桂離宮」と呼ばれています。

  • 臨春閣<br />第二屋と第三屋を結ぶ渡り廊下は、三渓園において造られた比較的新しいものだそうです。<br />吉宗が幼少の頃、座敷から川に飛び込んで水遊びしたと言われているのは、この第二屋の池に面した広縁だったのかもしれません。

    臨春閣
    第二屋と第三屋を結ぶ渡り廊下は、三渓園において造られた比較的新しいものだそうです。
    吉宗が幼少の頃、座敷から川に飛び込んで水遊びしたと言われているのは、この第二屋の池に面した広縁だったのかもしれません。

  • 臨春閣 第三屋<br />日本建築においては数少ない、美しいフォルムの2階建ての建物です。<br />桂離宮は、大屋根を庇無しでそのまま軒先まで葺き下ろし、重厚な印象を与えています。それに対し臨春閣は、庇を深く取り、母屋を軽快に見せるデザインを用いています。<br />臨春閣の建物は、三溪園に移設される前は瓦葺屋根だったそうです。地震による被害を最小限に留める目的で現在は杉板の上に檜皮葺があしらわれています。<br />また、巌出御殿の頃の三棟の配置は、現在とは全く異なっていたそうです。移築に当たり、三溪は桂離宮の美観を意識したのか、その姿を大きく変えたことになります。

    臨春閣 第三屋
    日本建築においては数少ない、美しいフォルムの2階建ての建物です。
    桂離宮は、大屋根を庇無しでそのまま軒先まで葺き下ろし、重厚な印象を与えています。それに対し臨春閣は、庇を深く取り、母屋を軽快に見せるデザインを用いています。
    臨春閣の建物は、三溪園に移設される前は瓦葺屋根だったそうです。地震による被害を最小限に留める目的で現在は杉板の上に檜皮葺があしらわれています。
    また、巌出御殿の頃の三棟の配置は、現在とは全く異なっていたそうです。移築に当たり、三溪は桂離宮の美観を意識したのか、その姿を大きく変えたことになります。

  • 臨春閣 第一屋 台子(だいす)の間<br />建物の姿に魅せられて室内を見るのを忘れないでください。<br />桂離宮にある御殿は一般の見学者は内部を見ることは叶いませんが、臨春閣は内部を外から覗き見ることができます。<br />台子とは、茶道具を置く棚を指します。水屋(茶事の準備をする場所)の上にある引違戸には蓮の茎が使われています。<br />襖にある意匠は、秀吉由縁の五七の桐紋です。<br />襖の奥の部屋が「鶴の間」です。障壁画は狩野周信筆『鶴図』です。<br />

    臨春閣 第一屋 台子(だいす)の間
    建物の姿に魅せられて室内を見るのを忘れないでください。
    桂離宮にある御殿は一般の見学者は内部を見ることは叶いませんが、臨春閣は内部を外から覗き見ることができます。
    台子とは、茶道具を置く棚を指します。水屋(茶事の準備をする場所)の上にある引違戸には蓮の茎が使われています。
    襖にある意匠は、秀吉由縁の五七の桐紋です。
    襖の奥の部屋が「鶴の間」です。障壁画は狩野周信筆『鶴図』です。

  • 臨春閣 第一屋 花鳥の間<br />内部は、狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠が随所に見られます。絢爛豪華な安土桃山時代の聚楽第や安土桃山城の建物や庭園もこうだったのだろうかと想像を掻き立てられます。<br />手前の「花鳥の間」には狩野探幽の襖絵『四季花鳥図』(複製)があります。<br />奥の部屋は、「瀟湘(しょうしょう)の間」です。障壁画は狩野常信筆『瀟湘八景図』です。瀟湘八景とは中国山水画の画題です。

    臨春閣 第一屋 花鳥の間
    内部は、狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠が随所に見られます。絢爛豪華な安土桃山時代の聚楽第や安土桃山城の建物や庭園もこうだったのだろうかと想像を掻き立てられます。
    手前の「花鳥の間」には狩野探幽の襖絵『四季花鳥図』(複製)があります。
    奥の部屋は、「瀟湘(しょうしょう)の間」です。障壁画は狩野常信筆『瀟湘八景図』です。瀟湘八景とは中国山水画の画題です。

  • 臨春閣 第一屋 花鳥の間<br />奥の間との境にある欄間には、桃田柳栄の意匠と伝えられる波文の彫刻があしらわれています。<br />水しぶきが飛んでくるかのような臨場感、躍動感に溢れた動きのある表現でありながら、文様化されたデザインが斬新です。

    臨春閣 第一屋 花鳥の間
    奥の間との境にある欄間には、桃田柳栄の意匠と伝えられる波文の彫刻があしらわれています。
    水しぶきが飛んでくるかのような臨場感、躍動感に溢れた動きのある表現でありながら、文様化されたデザインが斬新です。

  • 臨春閣 第二屋<br />窓ガラスはギヤマンと聞いていましたが、景色が歪んで見られないので通常のガラスに入れ替えられたものと思います。

    臨春閣 第二屋
    窓ガラスはギヤマンと聞いていましたが、景色が歪んで見られないので通常のガラスに入れ替えられたものと思います。

  • 臨春閣 第二屋<br />池側から見て右手に琴棋書画の間、左手に浪華の間が並んでいます。<br />縁側の欄間には、4つ割障子の組子に7つ割の竹をあしらい、公倍数を持たない数を設定し、互いの間隔を意図的にずらす凝りようです。<br />

    臨春閣 第二屋
    池側から見て右手に琴棋書画の間、左手に浪華の間が並んでいます。
    縁側の欄間には、4つ割障子の組子に7つ割の竹をあしらい、公倍数を持たない数を設定し、互いの間隔を意図的にずらす凝りようです。

  • 臨春閣 第二屋 琴棋書画の間<br />壁画は狩野探幽の筆になるものです。<br />琴棋書画とは、中国の古来よりの嗜みで音楽・囲碁・読書・掛軸を言います。

    臨春閣 第二屋 琴棋書画の間
    壁画は狩野探幽の筆になるものです。
    琴棋書画とは、中国の古来よりの嗜みで音楽・囲碁・読書・掛軸を言います。

  • 臨春閣 第二屋 <br />琴棋書画の間(右)と浪華の間(左)の境にある欄間には、和歌を書いた浪華十詠和歌色紙を嵌め込むなどの工夫が凝らされています。<br />大坂の難波から見られる景色を公家20人が詠んだものを10枚ずつ表裏にしています。

    臨春閣 第二屋
    琴棋書画の間(右)と浪華の間(左)の境にある欄間には、和歌を書いた浪華十詠和歌色紙を嵌め込むなどの工夫が凝らされています。
    大坂の難波から見られる景色を公家20人が詠んだものを10枚ずつ表裏にしています。

  • 臨春閣 第二屋 浪華の間<br />奥の座敷(住之江の間)が手前の浪華の間よりも少しだけ高くなっているのは、奥の部屋にお殿様が座るためだそうです。その段差となる敷居の材質は黒柿です。<br />手前の「浪華の間」の襖絵は、狩野永徳筆『芦雁図(ろがんず)』(複製)です。奥の「住江の間」の障壁画は、狩野山楽筆『浜松図』です。<br />障子から差し込む光により、明と暗、そしてその中間の曖昧な明るさの空間を同居させ、光の陰影で目を愉しませる工夫もなされています。

    臨春閣 第二屋 浪華の間
    奥の座敷(住之江の間)が手前の浪華の間よりも少しだけ高くなっているのは、奥の部屋にお殿様が座るためだそうです。その段差となる敷居の材質は黒柿です。
    手前の「浪華の間」の襖絵は、狩野永徳筆『芦雁図(ろがんず)』(複製)です。奥の「住江の間」の障壁画は、狩野山楽筆『浜松図』です。
    障子から差し込む光により、明と暗、そしてその中間の曖昧な明るさの空間を同居させ、光の陰影で目を愉しませる工夫もなされています。

  • 臨春閣 第二屋 浪華の間<br />手前の紙張障子は、縦の組子を2ヶ所吹き寄せにしています。そのひとつ奥の紙張障子は、対比的に横の組子を2ヶ所吹き寄せにしています。こうして単調さを嫌い、リズムを与えています。<br />奥座敷(住之江の間)の4枚引違にある欄間の意匠は曲線と直線を融和させた斬新な立涌文様をあしらっています。平安時代より、公家の装束や調度、御輿車などの意匠に用いられた独自の文様を総称して有職文様(ゆうそくもんよう)と言いますが、立涌文様もその代表文様です。曲がった部材は、曲げたのではなく、削り出したものだそうです。

    臨春閣 第二屋 浪華の間
    手前の紙張障子は、縦の組子を2ヶ所吹き寄せにしています。そのひとつ奥の紙張障子は、対比的に横の組子を2ヶ所吹き寄せにしています。こうして単調さを嫌い、リズムを与えています。
    奥座敷(住之江の間)の4枚引違にある欄間の意匠は曲線と直線を融和させた斬新な立涌文様をあしらっています。平安時代より、公家の装束や調度、御輿車などの意匠に用いられた独自の文様を総称して有職文様(ゆうそくもんよう)と言いますが、立涌文様もその代表文様です。曲がった部材は、曲げたのではなく、削り出したものだそうです。

  • 臨春閣 第二屋 浪華の間<br />欄間に配された透かし彫刻も趣深い作品です。<br />

    臨春閣 第二屋 浪華の間
    欄間に配された透かし彫刻も趣深い作品です。

  • 臨春閣 第二屋 <br />縁側の先にあるのは、目にも鮮やかな景色です。

    臨春閣 第二屋
    縁側の先にあるのは、目にも鮮やかな景色です。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂(重文)1591(天正19)建築<br />寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓を言い、豊臣秀吉は、母 大政所が大病に罹った際、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。 <br />功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って1592(天正20)年に石造の寿塔を建て、その寿塔(京都大徳寺内の龍翔寺)を覆うための堂宇がこの寿塔覆堂です。秀吉が朝鮮出兵で九州に行くための母への気遣いでしたが、その翌年大政所は世を去りました。<br />秀吉の建立と確認できる数少ない遺構のひとつに数えられます。

    旧天瑞寺寿塔覆堂(重文)1591(天正19)建築
    寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓を言い、豊臣秀吉は、母 大政所が大病に罹った際、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。
    功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って1592(天正20)年に石造の寿塔を建て、その寿塔(京都大徳寺内の龍翔寺)を覆うための堂宇がこの寿塔覆堂です。秀吉が朝鮮出兵で九州に行くための母への気遣いでしたが、その翌年大政所は世を去りました。
    秀吉の建立と確認できる数少ない遺構のひとつに数えられます。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂<br />裏手には、十三重塔や笠や火袋の部位が崩れ落ちた燈籠が鎮まっています。

    旧天瑞寺寿塔覆堂
    裏手には、十三重塔や笠や火袋の部位が崩れ落ちた燈籠が鎮まっています。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂<br />秀吉の建立故、屋根瓦には五七の桐紋が潤沢に配されています。<br />反り上がった典雅な屋根の姿も荘厳さを増幅させます。 <br />

    旧天瑞寺寿塔覆堂
    秀吉の建立故、屋根瓦には五七の桐紋が潤沢に配されています。
    反り上がった典雅な屋根の姿も荘厳さを増幅させます。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂<br />華麗な彫刻の施された四坪ほどの建物です。梁間三間、桁行三間、屋根は入母屋造り、本瓦葺。扉の彫刻は迦陵頻伽(かりょうびんが)です。<br />唐破風の下の虹梁の上には尾長鳥の彫刻を配した蟇股、その下部の彫刻は迦陵頻伽や蓮の花、その下の彫刻は雲と楽器を透かし彫りにしています。建立当時は、極彩色が施され、金具も輝いていたそうです。現在はシックな味わいを湛えています。

    旧天瑞寺寿塔覆堂
    華麗な彫刻の施された四坪ほどの建物です。梁間三間、桁行三間、屋根は入母屋造り、本瓦葺。扉の彫刻は迦陵頻伽(かりょうびんが)です。
    唐破風の下の虹梁の上には尾長鳥の彫刻を配した蟇股、その下部の彫刻は迦陵頻伽や蓮の花、その下の彫刻は雲と楽器を透かし彫りにしています。建立当時は、極彩色が施され、金具も輝いていたそうです。現在はシックな味わいを湛えています。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂<br />扉に配された迦陵頻伽のズームアップです。

    旧天瑞寺寿塔覆堂
    扉に配された迦陵頻伽のズームアップです。

  • 迦陵頻伽<br />彫刻はこのように大変手の込んだものですが、不思議なことに正面以外は間斗束の下にしか彫刻は巡らされていません。秀吉が建立した桃山時代の建物と聞くと条件反射的に西本願寺の唐門のような派手な装飾を想像してしまうのですが、結構質素で意外です。<br />

    迦陵頻伽
    彫刻はこのように大変手の込んだものですが、不思議なことに正面以外は間斗束の下にしか彫刻は巡らされていません。秀吉が建立した桃山時代の建物と聞くと条件反射的に西本願寺の唐門のような派手な装飾を想像してしまうのですが、結構質素で意外です。

  • 亭しゃ(「しや」は木偏に射)<br />内苑にある臨春閣のすぐ脇にある木橋は、安土桃山時代に京都 高台寺の橋を模して架けられたものです。その中ほどには三溪自ら設計した東屋があり、これは「亭しゃ」と言って見晴らし台を指すそうです。安土桃山時代のオリジナルの移築ではありませんが、観月台と同じく檜皮葺に唐破風の趣深いデザインです。<br />高台寺は、秀吉の正室 寧々が出家した寺です。絢爛豪華な安土桃山時代の聚楽第や桃山城の庭からも、こうした風景が望めたのだろうかと想像をかきたてられます。

    亭しゃ(「しや」は木偏に射)
    内苑にある臨春閣のすぐ脇にある木橋は、安土桃山時代に京都 高台寺の橋を模して架けられたものです。その中ほどには三溪自ら設計した東屋があり、これは「亭しゃ」と言って見晴らし台を指すそうです。安土桃山時代のオリジナルの移築ではありませんが、観月台と同じく檜皮葺に唐破風の趣深いデザインです。
    高台寺は、秀吉の正室 寧々が出家した寺です。絢爛豪華な安土桃山時代の聚楽第や桃山城の庭からも、こうした風景が望めたのだろうかと想像をかきたてられます。

  • 亭しゃ<br />亭しゃから見た 臨春閣 第三屋を額縁効果で撮影してみました。<br />欄干の意匠も見逃せません。<br />

    亭しゃ
    亭しゃから見た 臨春閣 第三屋を額縁効果で撮影してみました。
    欄干の意匠も見逃せません。

  • 亭しゃ<br />屋根の四方が唐波風にデザインされており、とても印象的です。<br />「どこかで見た景色なんだけどな~」と思われている方も多いかもしれません。<br />京都 渉成園の回棹廊にも趣が似ていますが、それとは違います。NHKドラマ『坂の上の雲』をご覧になったのではないでしょうか?山県有朋が伊藤博文の私邸を訪れる場面があり、庭を散策した後、小さな「東屋」のような所で会話をするシーンがありました。そのロケ地に使われています。<br />

    亭しゃ
    屋根の四方が唐波風にデザインされており、とても印象的です。
    「どこかで見た景色なんだけどな~」と思われている方も多いかもしれません。
    京都 渉成園の回棹廊にも趣が似ていますが、それとは違います。NHKドラマ『坂の上の雲』をご覧になったのではないでしょうか?山県有朋が伊藤博文の私邸を訪れる場面があり、庭を散策した後、小さな「東屋」のような所で会話をするシーンがありました。そのロケ地に使われています。

  • 臨春閣 第三屋<br />臨春閣の第二屋から第三屋へ行くには、来た道を戻って橋を渡らないと辿り着けません。池を跨ぐように三つの建屋が建ててあるため、外部からは直接お隣へは行けない趣向です。<br />2階は三方吹き放ちの贅沢な望楼「村雨の間」ですが、通常は非公開です。

    臨春閣 第三屋
    臨春閣の第二屋から第三屋へ行くには、来た道を戻って橋を渡らないと辿り着けません。池を跨ぐように三つの建屋が建ててあるため、外部からは直接お隣へは行けない趣向です。
    2階は三方吹き放ちの贅沢な望楼「村雨の間」ですが、通常は非公開です。

  • 臨春閣 第三屋<br />2階の「村雨の間」を見上げると、高欄の手摺の角には傘の彫物があしらわれています。<br />「村雨の間」は雨をテーマにした間とされ、壁には雨を詠んだ和歌の色紙が飾られているそうです。藤原定家が京都小倉山の三相 時雨亭で選んだと言われる小倉百人一首です。<br />また、襖絵には狩野山楽筆『村雨松林図』が描かれ、墨で淡く描かれた松林の上に金箔のしぐれが降り注ぐ様子を切り取っています。間の名前も『村雨松林図』が由来と思われます。

    臨春閣 第三屋
    2階の「村雨の間」を見上げると、高欄の手摺の角には傘の彫物があしらわれています。
    「村雨の間」は雨をテーマにした間とされ、壁には雨を詠んだ和歌の色紙が飾られているそうです。藤原定家が京都小倉山の三相 時雨亭で選んだと言われる小倉百人一首です。
    また、襖絵には狩野山楽筆『村雨松林図』が描かれ、墨で淡く描かれた松林の上に金箔のしぐれが降り注ぐ様子を切り取っています。間の名前も『村雨松林図』が由来と思われます。

  • 臨春閣 第三屋<br />手前が天楽の間、その奥が次の間です。<br />

    臨春閣 第三屋
    手前が天楽の間、その奥が次の間です。

  • 天楽の間<br />欄間の意匠は、朱塗りの欄干の中に雅楽に使用される和楽器の笙(しょう)が嵌め込まれています。一説には、こうした意匠は千利休と縁の深い大徳寺に似たものがあり、利休によるデザインだとの伝承があります。<br />この天楽の間は、主に居間として使用されていたそうです。プライベートな空間だったが故に、こうした個人的な趣味や嗜好をデザインに取り入れても歓迎されたのでしょう。

    天楽の間
    欄間の意匠は、朱塗りの欄干の中に雅楽に使用される和楽器の笙(しょう)が嵌め込まれています。一説には、こうした意匠は千利休と縁の深い大徳寺に似たものがあり、利休によるデザインだとの伝承があります。
    この天楽の間は、主に居間として使用されていたそうです。プライベートな空間だったが故に、こうした個人的な趣味や嗜好をデザインに取り入れても歓迎されたのでしょう。

  • 臨春閣 第三屋 天楽の間<br />障壁画や襖絵は、狩野安信筆『四季山水』(複製)です。<br />天井の板が白っぽく見えるのは、天井板を川砂で磨いた後に胡粉を塗っているからだそうです。胡粉は現在では貝殻を原料にして作られますが、炭酸カルシウムを主成分とする顔料を指します。かつて中国の西方を意味する胡から伝えられたことから、胡粉と呼ばれます。目的は、天井を白くすることで屋内を少しでも明るくしようという工夫だそうです。<br />地袋の引き戸の金具は菊の花と葉をあしらった凝った意匠です。

    臨春閣 第三屋 天楽の間
    障壁画や襖絵は、狩野安信筆『四季山水』(複製)です。
    天井の板が白っぽく見えるのは、天井板を川砂で磨いた後に胡粉を塗っているからだそうです。胡粉は現在では貝殻を原料にして作られますが、炭酸カルシウムを主成分とする顔料を指します。かつて中国の西方を意味する胡から伝えられたことから、胡粉と呼ばれます。目的は、天井を白くすることで屋内を少しでも明るくしようという工夫だそうです。
    地袋の引き戸の金具は菊の花と葉をあしらった凝った意匠です。

  • 臨春閣 第三屋 廊下<br />ここも目が覚めるような緑が印象的です。

    臨春閣 第三屋 廊下
    ここも目が覚めるような緑が印象的です。

  • 臨春閣 第三屋 次の間<br />障壁画は、雲沢等悦(うんたくとうえつ)筆『山水図』です。<br />かつては火灯型の入口から2階の村雨の間に上がれたそうですが、現在は2階には上がれないようです。<br />その2階へ上がる階段の幅は192cmもあり、国宝・重文クラスの建物の中では類を見ない幅になっています。<br />

    臨春閣 第三屋 次の間
    障壁画は、雲沢等悦(うんたくとうえつ)筆『山水図』です。
    かつては火灯型の入口から2階の村雨の間に上がれたそうですが、現在は2階には上がれないようです。
    その2階へ上がる階段の幅は192cmもあり、国宝・重文クラスの建物の中では類を見ない幅になっています。

  • 臨春閣 第三屋 瓢箪文手水鉢<br />臨春閣の西側(亭しや側)上り口には、豊臣秀吉が愛用し、その後伊賀上野城主 藤堂高虎に与えたと伝わる手水鉢が置かれています。<br />

    臨春閣 第三屋 瓢箪文手水鉢
    臨春閣の西側(亭しや側)上り口には、豊臣秀吉が愛用し、その後伊賀上野城主 藤堂高虎に与えたと伝わる手水鉢が置かれています。

  • 臨春閣 第三屋 瓢箪文手水鉢<br />瓢箪文のズームアップです。

    臨春閣 第三屋 瓢箪文手水鉢
    瓢箪文のズームアップです。

  • 臨春閣 <br />裏手に回るとこうした坪庭があります。

    臨春閣
    裏手に回るとこうした坪庭があります。

  • 臨春閣 第二屋 住之江の間<br />ガラス窓越しに覗き込むと、欄間の意匠が正面から見られます。<br />

    臨春閣 第二屋 住之江の間
    ガラス窓越しに覗き込むと、欄間の意匠が正面から見られます。

  • 臨春閣

    臨春閣

  • 臨春閣 手水鉢<br />書院の縁先に据えられたものです。<br />1589(天正17)年に豊臣秀吉が架け替えた京都五条大橋の橋杭を転用したものと伝えられています。短く切られていますが、正面に大きく「天正十七年」の銘文が彫られています。<br />

    臨春閣 手水鉢
    書院の縁先に据えられたものです。
    1589(天正17)年に豊臣秀吉が架け替えた京都五条大橋の橋杭を転用したものと伝えられています。短く切られていますが、正面に大きく「天正十七年」の銘文が彫られています。

  • 臨春閣 身代わり燈籠 <br />坪庭に佇んでいます。<br />千利休が刺客に襲われた時、体をかわしたので流れた刀が当たった身代りの燈籠とされています。<br />確かに笠には刀が当たったような傷が見られます。

    臨春閣 身代わり燈籠
    坪庭に佇んでいます。
    千利休が刺客に襲われた時、体をかわしたので流れた刀が当たった身代りの燈籠とされています。
    確かに笠には刀が当たったような傷が見られます。

  • 聴秋閣(重文)1623(元和9)年建築<br />内苑も聴秋閣の辺りまで来ると山里の風情を湛えています。<br />徳川家光が征夷大将軍の宣下を受けるため上洛するために京都 二条城に建てたものとされ、後に家光の乳母 春日局が賜り、彼女の孫 稲葉正則が江戸屋敷に移したものです。<br />家光お抱えの数奇者であり武士であった佐久間将監(さくましょうげん)が二条城の作事奉行であった小堀遠州を差し置き、この数寄屋を建てたとの伝承が残されています。往時は「三笠閣」と呼ばれていたようですが、この作品から将監の遠州に対するライバル心が窺えます。将監は遠州と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物とされ、両者共に茶の湯に造詣が深く似た境遇であったため、好敵手的な存在でした。

    聴秋閣(重文)1623(元和9)年建築
    内苑も聴秋閣の辺りまで来ると山里の風情を湛えています。
    徳川家光が征夷大将軍の宣下を受けるため上洛するために京都 二条城に建てたものとされ、後に家光の乳母 春日局が賜り、彼女の孫 稲葉正則が江戸屋敷に移したものです。
    家光お抱えの数奇者であり武士であった佐久間将監(さくましょうげん)が二条城の作事奉行であった小堀遠州を差し置き、この数寄屋を建てたとの伝承が残されています。往時は「三笠閣」と呼ばれていたようですが、この作品から将監の遠州に対するライバル心が窺えます。将監は遠州と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物とされ、両者共に茶の湯に造詣が深く似た境遇であったため、好敵手的な存在でした。

  • 聴秋閣<br />内苑の奥深く、苔生した岩の間をサラサラと水が流れる渓谷を借景にして書院造の聴秋閣が佇みます。ここが横浜の中心であることを忘れさせ、京都の山中にでもいるような錯覚に陥らされる楼閣建築です。<br />華奢で美しいフォルムと春日局所縁の建物ということで人気のある楼閣です。『近代建築の基礎知識』には、日本を代表する数寄屋座敷として、桂離宮、西本願寺飛雲閣、そして鎌倉の一条恵観山荘と共に、三溪園の臨春閣とこの聴秋閣が挙げられています。

    聴秋閣
    内苑の奥深く、苔生した岩の間をサラサラと水が流れる渓谷を借景にして書院造の聴秋閣が佇みます。ここが横浜の中心であることを忘れさせ、京都の山中にでもいるような錯覚に陥らされる楼閣建築です。
    華奢で美しいフォルムと春日局所縁の建物ということで人気のある楼閣です。『近代建築の基礎知識』には、日本を代表する数寄屋座敷として、桂離宮、西本願寺飛雲閣、そして鎌倉の一条恵観山荘と共に、三溪園の臨春閣とこの聴秋閣が挙げられています。

  • 聴秋閣<br />2階部分には銀閣寺を意識したのか火灯窓が開けられていますが、この木材は縦横6尺余りの春日杉の一枚板からくり抜かれたものだそうです。<br />このように柱梁で囲まれた部分以外は全て開口というシンプルかつ大胆な納まりです。<br />因みに、外苑の丘に上ってくる中秋の名月を眺めるのに絶好の場所だそうです。「秋を聴く」とは、古来、風の音に秋の気配を感じ取ることでしたが、聴秋閣の書院に座って谷川のせせらぎを聴けば、水の音にも秋が感じられるのかもしれません。

    聴秋閣
    2階部分には銀閣寺を意識したのか火灯窓が開けられていますが、この木材は縦横6尺余りの春日杉の一枚板からくり抜かれたものだそうです。
    このように柱梁で囲まれた部分以外は全て開口というシンプルかつ大胆な納まりです。
    因みに、外苑の丘に上ってくる中秋の名月を眺めるのに絶好の場所だそうです。「秋を聴く」とは、古来、風の音に秋の気配を感じ取ることでしたが、聴秋閣の書院に座って谷川のせせらぎを聴けば、水の音にも秋が感じられるのかもしれません。

  • 聴秋閣<br />玄関から、上の間の床が見られます。<br />脇を流れる小川のせせらぎと紅葉を内部から眺められるように工夫されており、入口の板目市松模様や障子を開け放った時の自然の飛び込み方など、何とも大胆で贅沢な空間が造られています。<br />内部は畳が大胆に切り取られ、木製タイルの土間があるそうです。また、襖の引手は、将軍家の家紋である葵の葉をモチーフにしており、襖の絵柄も葵の葉をあしらっています。<br />各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。

    聴秋閣
    玄関から、上の間の床が見られます。
    脇を流れる小川のせせらぎと紅葉を内部から眺められるように工夫されており、入口の板目市松模様や障子を開け放った時の自然の飛び込み方など、何とも大胆で贅沢な空間が造られています。
    内部は畳が大胆に切り取られ、木製タイルの土間があるそうです。また、襖の引手は、将軍家の家紋である葵の葉をモチーフにしており、襖の絵柄も葵の葉をあしらっています。
    各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。

  • 聴秋閣<br />L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟着場を偲ばせます。<br />二条城時代には池に面し、舟を着けて出入りしたと考えられ、一段低い板の間は「舟入の間」と呼ばれ、高欄下には舟から見上げると見える位置に雲形組物の飾りが施されています。<br />こうした点からも、江戸時代初期の上流武士階級の風流な文化が偲ばれます。 <br />

    聴秋閣
    L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟着場を偲ばせます。
    二条城時代には池に面し、舟を着けて出入りしたと考えられ、一段低い板の間は「舟入の間」と呼ばれ、高欄下には舟から見上げると見える位置に雲形組物の飾りが施されています。
    こうした点からも、江戸時代初期の上流武士階級の風流な文化が偲ばれます。

  • 聴秋閣<br />1923(大正12)年の春、聴秋閣の移築を無事に終え、盛大な茶会が開かれました。しかし残念ながら聴秋閣は、三溪園の名建築移築の有終の美を飾ることなりました。何故なら、その茶会から数か月後に関東大震災が横浜を襲い、以後、三溪は横浜の復興に私財を傾けて奔走することになったからです。<br />自身も一流の茶人だった三溪は、庭園や名建築よりも横浜復興への思いを優先し、結果としてこの名園を後世に残してくれました。こうした私利私欲のない財界人に守られた横浜は、とても幸せな街だと思います。

    聴秋閣
    1923(大正12)年の春、聴秋閣の移築を無事に終え、盛大な茶会が開かれました。しかし残念ながら聴秋閣は、三溪園の名建築移築の有終の美を飾ることなりました。何故なら、その茶会から数か月後に関東大震災が横浜を襲い、以後、三溪は横浜の復興に私財を傾けて奔走することになったからです。
    自身も一流の茶人だった三溪は、庭園や名建築よりも横浜復興への思いを優先し、結果としてこの名園を後世に残してくれました。こうした私利私欲のない財界人に守られた横浜は、とても幸せな街だと思います。

  • 聴秋閣<br />裏手から屋根を見ると、このように複雑怪奇な造りになっているのが判ります。<br />1層部分の左右と2層は、3種類の趣向の違った屋根を載せており、しかもそれぞれの位置を微妙にずらして配置されています。

    聴秋閣
    裏手から屋根を見ると、このように複雑怪奇な造りになっているのが判ります。
    1層部分の左右と2層は、3種類の趣向の違った屋根を載せており、しかもそれぞれの位置を微妙にずらして配置されています。

  • 聴秋閣<br />青もみじに変わる前の赤もみじがアクセントを添えています。<br />少しは紅葉の季節の風情を味わっていただけるかもしれません。

    聴秋閣
    青もみじに変わる前の赤もみじがアクセントを添えています。
    少しは紅葉の季節の風情を味わっていただけるかもしれません。

  • 月華殿へと導く石橋とその周辺の様子です。<br />十三重塔や燈籠などが配され、寺院を彷彿とさせます。

    月華殿へと導く石橋とその周辺の様子です。
    十三重塔や燈籠などが配され、寺院を彷彿とさせます。

  • 急な斜面を登っていくと右手に月華殿が見えてきます。途中、石段に沿ってせせらぎが流れ、夏草に覆われた中から水音が心地よく響き渡ります。<br />かつては、下の臨春閣からこの月華殿まで山の斜面上に渡り廊下が設けられ、雨を凌げたようです。結構な距離と勾配がある回廊だったと思われ、吉備津神社の廻廊を彷彿とさせます。

    急な斜面を登っていくと右手に月華殿が見えてきます。途中、石段に沿ってせせらぎが流れ、夏草に覆われた中から水音が心地よく響き渡ります。
    かつては、下の臨春閣からこの月華殿まで山の斜面上に渡り廊下が設けられ、雨を凌げたようです。結構な距離と勾配がある回廊だったと思われ、吉備津神社の廻廊を彷彿とさせます。

  • 月華殿(重文)1603(慶長8)年建築 <br />傾斜地に建てられており、入母屋造に下屋を付けた非対称な外観をしています。桂離宮が観月をコンセプトに造られたように、三渓園もそれに対抗して観月のための建物を配したということでしょうか?<br />元々は、徳川家康が伏見城を再建した際に建立した建物です。家康が将軍宣下を受けるために建てたもので、諸大名伺候の際の控え室に当てたものと伝えられています。伏見城取り壊し後、宇治の茶商人により寺院の客殿になり、1918(大正7)年に春草廬と共にこの地に移築され、三溪が建てた金毛窟と繋げられています。

    月華殿(重文)1603(慶長8)年建築 
    傾斜地に建てられており、入母屋造に下屋を付けた非対称な外観をしています。桂離宮が観月をコンセプトに造られたように、三渓園もそれに対抗して観月のための建物を配したということでしょうか?
    元々は、徳川家康が伏見城を再建した際に建立した建物です。家康が将軍宣下を受けるために建てたもので、諸大名伺候の際の控え室に当てたものと伝えられています。伏見城取り壊し後、宇治の茶商人により寺院の客殿になり、1918(大正7)年に春草廬と共にこの地に移築され、三溪が建てた金毛窟と繋げられています。

  • 月華殿<br />縁側には雨戸、内部には紙張障子のみで、壁の全くない開放的な造りです。屋根は檜皮葺の入母屋造です。<br />内部は「檜扇の間」12畳半と「竹の間」15畳からなります。家康らしい趣向のシックで落ち着いた、安土桃山時代の典型的な書院造りの建物です。簡素な書院造で、主室の「檜扇の間(ヒオウギ:あやめ科の花)」にも一間の床の間が付くだけで、違い棚も書院もありません。意匠的には吹き寄せの腰障子が見所です。<br />「檜扇の間」には名の通り、桃山時代の画家 海北友松(かいほう ゆうしょう)の筆となる檜扇の描かれた襖絵や壁貼付の絵があり、往時の名残りとなっています。線描が簡潔で、空間を多く取り、対象を簡潔に配していることから、狩野派でも異色な存在だった友松の作品と判断されています。友松は、狩野永徳や長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠です。近江浅井家の家臣の家に生まれましたが、主家や兄たちが信長に滅ぼされるに及び、還俗して狩野派の門を敲き、画の道に進んだと伝えられ、流派に群れず気骨溢れる「孤高の絵師」です。<br />また、欄間には狩野永徳の下絵の菊花の透かし彫りがあります。

    月華殿
    縁側には雨戸、内部には紙張障子のみで、壁の全くない開放的な造りです。屋根は檜皮葺の入母屋造です。
    内部は「檜扇の間」12畳半と「竹の間」15畳からなります。家康らしい趣向のシックで落ち着いた、安土桃山時代の典型的な書院造りの建物です。簡素な書院造で、主室の「檜扇の間(ヒオウギ:あやめ科の花)」にも一間の床の間が付くだけで、違い棚も書院もありません。意匠的には吹き寄せの腰障子が見所です。
    「檜扇の間」には名の通り、桃山時代の画家 海北友松(かいほう ゆうしょう)の筆となる檜扇の描かれた襖絵や壁貼付の絵があり、往時の名残りとなっています。線描が簡潔で、空間を多く取り、対象を簡潔に配していることから、狩野派でも異色な存在だった友松の作品と判断されています。友松は、狩野永徳や長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠です。近江浅井家の家臣の家に生まれましたが、主家や兄たちが信長に滅ぼされるに及び、還俗して狩野派の門を敲き、画の道に進んだと伝えられ、流派に群れず気骨溢れる「孤高の絵師」です。
    また、欄間には狩野永徳の下絵の菊花の透かし彫りがあります。

  • 月華殿<br />高台に建てられているため、開放された窓越しに目にも鮮やかな緑が飛び込んできます。<br />廃城となった木幡山伏見城にあった建物は、その多くが他の場所に移築されました。天守閣は二条城、城門は西本願寺(唐門)、櫓は福山城などです。そして諸大名控えの間は、2代将軍 秀忠により宇治の茶匠 上林三入に与えられ、後に上林家から三室戸寺に寄贈されたと伝わります。<br />三室戸寺ではこの建物を客殿に利用していたようですが、明治時代に入って荒廃に任せて崩壊寸前になっていたものを、三溪がその由緒を惜しんで譲渡してもらいました。その際の条件は現地に同様の建物を建てて寄付することであり、三溪は付属茶室と共にほぼ同じ姿の建物を寄贈し、この建物を引き取っています。大半の木材は朽ちる寸前にあり、リサイクルできる木材は僅かだったそうですが、それでも一本ずつ白木綿に包んで横浜まで運びました。そして古材に新材を加え、家康ゆかりの建物を三溪園に再現したのです。

    月華殿
    高台に建てられているため、開放された窓越しに目にも鮮やかな緑が飛び込んできます。
    廃城となった木幡山伏見城にあった建物は、その多くが他の場所に移築されました。天守閣は二条城、城門は西本願寺(唐門)、櫓は福山城などです。そして諸大名控えの間は、2代将軍 秀忠により宇治の茶匠 上林三入に与えられ、後に上林家から三室戸寺に寄贈されたと伝わります。
    三室戸寺ではこの建物を客殿に利用していたようですが、明治時代に入って荒廃に任せて崩壊寸前になっていたものを、三溪がその由緒を惜しんで譲渡してもらいました。その際の条件は現地に同様の建物を建てて寄付することであり、三溪は付属茶室と共にほぼ同じ姿の建物を寄贈し、この建物を引き取っています。大半の木材は朽ちる寸前にあり、リサイクルできる木材は僅かだったそうですが、それでも一本ずつ白木綿に包んで横浜まで運びました。そして古材に新材を加え、家康ゆかりの建物を三溪園に再現したのです。

  • 月華殿<br />廻された高欄で印象的なのは、腰欄間にある優美な梅の透かし彫りです。<br />素朴ながら素材の年輪を巧みに活かしたデザインです。

    月華殿
    廻された高欄で印象的なのは、腰欄間にある優美な梅の透かし彫りです。
    素朴ながら素材の年輪を巧みに活かしたデザインです。

  • 金毛窟 1918(大正7)年建築 <br />三溪が建てた一畳台目の極小の茶室です。 金毛窟の名は、京都 大徳寺の山門「金毛閣」に用いられていた千利休の所縁が深い高欄の手すりを床柱に使用したことに因みます。<br />大徳寺には、国宝の大きな山門「金毛閣」があります。1529年に寄進を募って1階部分を建てましたが、資金不足のため2層目が建てられず、仮の屋根のまま60年を経て、漸く1589(天正17)年になって千利休の寄進によって2層部分が完成しました。大徳寺では、この功を讃え、2階部分に利休の木像を安置しましたが、これが秀吉の逆鱗に触れ、利休が切腹に追い込まれたと伝えられています。<br />それはさておき、その山門の2階部分の勾欄の手摺の一部を、経緯は不明ですが三溪が入手して茶室に用いたのです。

    金毛窟 1918(大正7)年建築 
    三溪が建てた一畳台目の極小の茶室です。 金毛窟の名は、京都 大徳寺の山門「金毛閣」に用いられていた千利休の所縁が深い高欄の手すりを床柱に使用したことに因みます。
    大徳寺には、国宝の大きな山門「金毛閣」があります。1529年に寄進を募って1階部分を建てましたが、資金不足のため2層目が建てられず、仮の屋根のまま60年を経て、漸く1589(天正17)年になって千利休の寄進によって2層部分が完成しました。大徳寺では、この功を讃え、2階部分に利休の木像を安置しましたが、これが秀吉の逆鱗に触れ、利休が切腹に追い込まれたと伝えられています。
    それはさておき、その山門の2階部分の勾欄の手摺の一部を、経緯は不明ですが三溪が入手して茶室に用いたのです。

  • 天授院と月華殿、金毛窟のある一帯は、三溪園でも最も奥まった高台に位置し、園内でも清閑な別天地をなしています。<br />三溪は、この丘を原家の祈りの空間として位置付けていたそうです。その祈りの空間を豊かにしてくれるのが、由緒ある名石群です。天授院脇の渓流の中に、ひっそりと安置された水舟は、元は奈良・法華寺にあった「辰巳の手洗い石」と呼ばれる名石です。この石は光明皇后が使用したとの言い伝えがあり、『奈良名所図絵』にも記載されていたそうです。

    天授院と月華殿、金毛窟のある一帯は、三溪園でも最も奥まった高台に位置し、園内でも清閑な別天地をなしています。
    三溪は、この丘を原家の祈りの空間として位置付けていたそうです。その祈りの空間を豊かにしてくれるのが、由緒ある名石群です。天授院脇の渓流の中に、ひっそりと安置された水舟は、元は奈良・法華寺にあった「辰巳の手洗い石」と呼ばれる名石です。この石は光明皇后が使用したとの言い伝えがあり、『奈良名所図絵』にも記載されていたそうです。

  • 天授院(重文)1651(慶安4)年建築<br />三渓は、自己の審美眼に敵うものであれば、見境なく京都であれ大阪であれ建物を移築しました。この建物も元々は三渓園からほど近い鎌倉 建長寺境内の塔頭 心平寺の禅宗様の地蔵堂であり、1916(大正5)年に移築されたものです。<br />三渓はこの建物が600年前の鎌倉 星ヶ井地蔵の本堂だと信じてやまなかったそうですが、1964(昭和39)年に解体修理を行なった際、慶安4年の墨書が発見され、 建立の年代が明らかとなっています。 <br />桁行4間、梁間3間で茅葺屋根の簡素な外観をしており、内部は一部屋しかありません。天授院の中には、花の彫刻に彩られた江戸時代の須弥壇があり、ここに平安時代の作と伝えられる大日如来像と共に原家代々の位牌が祀られていました。<br />「天授院」の名は原三渓の養祖父 善三郎の法号に当り、移設後は原家の持仏堂となりました。<br /><br />この続きは、松風水月 横浜逍遥 三渓園(後編)でお届けいたします。

    天授院(重文)1651(慶安4)年建築
    三渓は、自己の審美眼に敵うものであれば、見境なく京都であれ大阪であれ建物を移築しました。この建物も元々は三渓園からほど近い鎌倉 建長寺境内の塔頭 心平寺の禅宗様の地蔵堂であり、1916(大正5)年に移築されたものです。
    三渓はこの建物が600年前の鎌倉 星ヶ井地蔵の本堂だと信じてやまなかったそうですが、1964(昭和39)年に解体修理を行なった際、慶安4年の墨書が発見され、 建立の年代が明らかとなっています。
    桁行4間、梁間3間で茅葺屋根の簡素な外観をしており、内部は一部屋しかありません。天授院の中には、花の彫刻に彩られた江戸時代の須弥壇があり、ここに平安時代の作と伝えられる大日如来像と共に原家代々の位牌が祀られていました。
    「天授院」の名は原三渓の養祖父 善三郎の法号に当り、移設後は原家の持仏堂となりました。

    この続きは、松風水月 横浜逍遥 三渓園(後編)でお届けいたします。

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