2017/05/04 - 2017/05/04
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Wind99さん
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浜大津駅のパーク&ライド+京都地下鉄・京阪大津線1dayチケットで、地下鉄沿線を巡る。
その費用の内訳は、当日の24時までの駐車代500円、乗り放題チケット1,100円の合計1,600円。
但し京都市内での乗り放題は、烏丸線と東西線の2つしかなく注意が必要。
高瀬川河畔-木屋町通り-南蛮寺跡-本能寺跡-元離宮二条城
-京都国立博物館-豊国神社-京都大仏跡
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
浜大津から、京都市役所前行きの直通に乗り、1つ手前の三条京阪で降りると、いきなりインパクトのある高山彦九朗の像があった。
これは後で調べると、御所に向かって拝礼している姿のものだそうだ。
この像の理由はよくわからないらしい。 -
三条大橋を西に向かって渡る。
渡り切ると右側に高札場と旧三条大橋の石柱の立て札。 -
その鴨川の先に小さな高瀬川があり、木屋町通りに入る。
その角に佐久間象山、大村益次郎遭難の碑。
幕末の歴史で最も好きな人物。大村益次郎。
彼はここで刺客に襲われ、足を切られ、傷口から菌が元で敗血症となった。
本来ここで治療(足を切断)していれば命は助かったが、政府高官の為、手術のための勅許を得る必要があり、間に合わなくなったという。まことに残念。 -
高瀬川はかなり浅瀬だった。
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木屋町通りの雰囲気。
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すぐ近くに、これは事前に知らなかったが、豊臣秀次の墓があった。
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その瑞泉寺に入る。
墓前には、ひっそりと元関白と書いてあった。 -
坂本龍馬寓居の跡の石碑
この建物は、酢屋で坂本龍馬と海援隊士をかくまった材木商。 -
これが酢屋の全景。
現在も銘木材全般を扱う営業をしていると言う。
龍馬は二階表西側の部屋にいて「才谷」と名乗っていたいう。 -
この高瀬川は舟入の場所が多い。
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少し南へ行ったところにも龍馬の石碑。
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さらに土佐藩邸跡。
この辺りの幕末の密度は異常に濃い。
その理由は御所を中心とした有力公家、及び薩長土佐の藩邸に近い地の利であろう。 -
高瀬川七之舟入址
二条から四条の間に9ヶ所あったと言われる舟入。
大正9年には廃止された。 -
岬神社(土佐稲荷)
江戸初期に土佐京都屋敷内に遷座された神社。
境内には小さな龍馬像があった。 -
河原町通りと三条通り
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近江屋跡地
坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が暗殺された場所。
龍馬は明日行く伏見の寺田屋が急襲されたため、先ほど見た酢屋に拠点を移し、その後この近江屋に移った。
十津川郷士を名乗る輩に襲撃され、龍馬は即死となった。 -
近江屋跡は、現在は回転寿司屋になっている。
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誓願寺
清少納言はここで尼になっという。 -
誓願寺では、和泉式部法要のポスターも貼ってあった。(6月3日開催)
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京都 先斗町
鴨川と木屋町通の間にある花街。 -
京都市役所前駅前にある本能寺。
信長の居た当時の本能寺は、1592年に秀吉の命でここに移転している。 -
信長公廟
三男の信孝の命によって建てられた。 -
現在の本能寺では、幾度となく焼失しているため「ヒ」が去ることを願う意味を込めて本能寺の「能」の字は作りの部分が「去」になっている。
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地下鉄で1つ先の烏丸御池に移動し、歩く。
当時の本能寺の跡と、近くにあったはずの南蛮寺跡を訪ねる。
当時ヤスケと名付けられた黒人は信長に仕え、本能寺の変に遭遇したが南蛮寺に避難し生き延びた。この意味が深く、距離感を掴みたかった。 -
近くに茶屋四郎次郎屋敷跡があった。
彼は朱印船貿易で活躍し、家康の側近として活躍し京都商人総筆頭とされた人物。 -
信長茶寮
信長時代の本能寺跡に建ち、店舗内の地下に本能寺の土を見せる場所があるというので、店舗名から思い込みでランチを頂きに来てみたが、来てみると入場料金があるみたいで、食事処ではないと思われたが、何屋かは不明であった。 -
本能寺跡に来た。
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現在は、本能特別養護老人ホームと京都市立堀川高校がある。
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今度は北上し、御池通に行くと、長大な行列があり、元をたどっていくと御金神社であった。
後で調べると御金はみかねと読み、金運のパワースポットだという。 -
東三条院址
平安時代に隆盛にを極めた藤原氏の邸があった所。
東西130m、南北280mに及ぶ地域。 -
豊臣秀吉 妙顕寺城跡
豊臣秀吉が初めて洛中に築いたのがこの妙顕寺城とあり、実はその事実を知らなかった。
これから訪問する二条城は、すぐ西にある。このやや北側は聚楽第が建てられた場所。 -
.東大手門より、元離宮二条城に入る。
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豪華で華やかな唐門。
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二の丸庭園
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蓬莱島
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本丸櫓門
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天守台
天守は慶長期に家康によって5重5階の天守が建てられたが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかったという。 -
京都の鬼門の方角に、比叡山があり、明日久しぶりに行くことにする。
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南に移動し、壬生寺に来た。
幕末の新撰組は、この壬生の地で文久3年(1863)に結成された。 -
舞台では多くの観客が居て、壬生狂言を演じていた。
後で調べると京都の3大狂言と言われ、この時期に春季特別公開が行われる。 -
本堂と千体仏塔
千体仏塔とはよく知らなかったが、パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したものだそうだ。 -
新鮮組遺跡の壬生塚
ここは地下の資料館と共に、有料の施設であった。
新選組隊士の墓所。 -
新撰組屯所跡八木邸
入場チケットはなぜかお菓子とお茶付きのセットで、お土産屋でチケットを扱う。 -
新選組 壬生屯所跡 旧前川邸
新鮮組資料展示とお土産の販売。 -
電車移動で、七条駅に来て、京都国立博物館を見学した。
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開館120周年記念特別展覧会 海北友松(かいほうゆうしょう)の絵画が3階分を埋め尽くしていた。
1部鎌倉、平安時代の仏像があり、それらが見所であった。 -
隣接する豊国神社に詣でる。
豊臣秀吉を祀る神社で、江戸時代には廃絶し、明治期に復興された。 -
拝殿と本殿(奥)
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隣接する方広寺の梵鐘
大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる方広寺鐘銘事件の実物。
「国家安康」「君臣豊楽」の句が白い線で囲まれている。 -
今回その裏手に回ると、最近まで知らなかった秀吉時代の京都大仏殿の跡地を見ることができた。
先の京都国立博物館の巨大な石垣は、この大仏殿のものだという。 -
この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい約19mの大きさであったという。
その三度造られたが、地震、火災、落雷で焼失した。
尚、江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。 -
豊国神社の前の道に耳塚公園があり、その横に耳塚があった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。 -
夕方三条大橋に戻ってきたが、朝方は閑散としていたが、人出は多く、橋の上は歩くのも億劫なほどであった。
川床の風情はなかなかのもの。
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