2015/06/06 - 2015/06/06
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
いよいよ、数十年ぶりとなるドゥオモとの再会です!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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世界で一番美しいゴシック建築と思うドゥオモ 聖誕の聖母マリアに捧げられたミラノ大聖堂との再会と果しました。もっと白いというイメージだったのですが、晴れた昼間の時間に見ると、白というよりは灰色に近かった。思い込みはいけませんね。
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フランチェスコ・クローチェが1762年に設計したという一番高い尖塔はすぐにわかりました。燦然と輝く金色の聖母像、こちらはジュゼッペ・ペレーゴの1774年の作品。人々が親しみを込めてマドンニーナと呼んでいる像で塔の高さは108.5m。
ミラノではこの像より高いビルを建ててはならないという暗黙の了解がありましたが、1950年、そして2010年に建てられた120mを超す高層ビルの上には、マドンニーナのレプリカが置かれているそうですよ。 -
ミラノのドゥオモの特徴は、イタリアでは珍しい垂直の線が天をも突き刺すゴシック様式と伝統的な水平の広がりを見せるロンバルディア様式が合わさった様式であること。つまり良いとこどりだと言われています。そして、飾られた彫刻の数の多さでも群を抜いています。14世紀から20世紀に至る様々な職人の手による彫像やレリーフを見ることが出来ます。
今回はファサードにあるレリーフをじっくり見たいなと思っていました。早速Go!と行きたいところですが、一応ドゥオモのある広場をぐるっと見回します。 -
大聖堂=ドゥオモは、正確に西を向いて建っています。17000㎡という広大な広場を時計回りに見ていくと、ドゥオモの右隣りには広場を挟んでかつてのヴィスコンティ家の城だった王宮が建っています。現在はドゥオモ付属の博物館になっています。
背後に見える尖塔は聖ゴッタルド・イン・コルテ教会の鐘楼です。思い出しましたぁ! 数十年前、スイスからの日帰りで最初にイタリアを訪れた時乗ってきた特急列車は確かゴッタルド号でした。
脱線しました。その隣の窓の大きな建物は日本語では1900年代美術館と呼ばれている旧アレンガリオ宮。 -
広場の中央でまっすぐにドゥオモのファサードを向いて立っている像は、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世です。1864年-1867年の建造。
銅像の背後にある、旧アレンガリオ宮と繋がっている建物はパラッツォ・デイ・ポルティチ・セッテントリオナーレ。長い名前! 19世紀後半に広場を再建したジュゼッペ・メンゴーニが設計した建物です。 -
ドゥオモと対面している側は省略して、ドゥオモの北側に立っている凱旋門とそれに続くアーケードは、おそらく世界で一番名が知られたアーケードでしょうね。ヴィットリオ・エマニュエーレ2世のガッレリアです。こちらも、前述の建築家ジュゼッペ・メンゴーニの設計で、1865年から1877年にかけて工事が行われました。当初メンゴーニは凱旋門を2つ計画していましたが、資金繰りが付かず、1つになったのだそう。
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ドゥオモに近づいて参りました。1386年に当時の領主ジャン・ガッレリア・ヴィスコンティの命により、古くからこの地にあったサンタ・テクラ聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の上に建設を始め、完成までに5世紀以上を費やした大聖堂です。
特にファサードの建設には時間がかかりました。19世紀に入り急速に工事が進んだのはナポレオン・ボナパルトの指示があったからだと言われています。これに対する感謝の気持ちなのか、ドゥオモの尖塔の一つには、イタリア国王としてのナポレオンの像があるそうですよ。ちょっと見てみたいな。 -
ファサードの大理石は白、灰色、ピンク色が混ざった微妙な色合いでした。太陽の光を受けて、様々な色に変化しそうですね。
まずは、大聖堂のファサードにある5つの扉を順に見て回ります。扉がブロンズ製となったのは比較的新しく、19世紀末から20世紀半ばにかけてです。木製からブロンズ製への扉の付け替えプロジェクトは19世紀の終わりころから始まっていましたが、2つの大戦争が相次いで起こったため、結局完成は第二次世界大戦後となりました。 -
ファサードで最も左側にあるこちらのコンスタンティヌス帝の勅令の扉に注目します。1937年に枢機卿シュステールの命を受け、フェッラーラ出身の彫刻家アッリーゴ・ミネルビが戦争を跨いで1948年に仕上げたものです。
彼はフェッラーラのユダヤ人家族に生まれ、それがゆえに、制作中は謂れのない人種差別による迫害を受け、イタリア北部の小さな町で逃げ隠れしながら仕事を続けたそうです。 -
扉の物語のテーマは、313年にコンスタンティヌス帝と東ローマ帝国の皇帝リキニウスとの連名により出された「ミラノ勅令」による信教の自由です。これは、キリスト教を公認する勅令ではなく、全ての宗教の信仰の自由を保障する内容だったとのこと。それが実現したのであれば画期的なことだったのですが、その後の皇帝は、キリスト教に特権を与える政策を行ったというのが現実です。
扉には初期キリスト教時代のミラノの6聖人(司教)、ミラノ勅令前に迫害により殉教した人々、聖人及び殉教者の聖遺物のミラノへの帰還、キリスト教弾圧時に取り壊された教会の再建などが描かれています。 -
コンスタンティヌス帝の勅令の扉はポルタ・サンテとも呼ばれています。
ティンパヌムのレリーフは旧約聖書にある歴史物語「エステル記」の主人公であるユダヤ人女性エステル。素性を隠してペルシャ王クセルクセス(またの名をアハシュロエス)の妃となりますが、町にいるユダヤ人たちの身が危ないことを知り、決死の覚悟で王に身の上を打ち明け、ユダヤ人達を救います。
5つの扉の上にあるレリーフは全て16世紀の画家ジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル セラーノ)のデザインによるものです。 -
勅令の扉のすぐ上の2階窓のティンパヌムにもレリーフがありましたが、こちらは資料が見つからず、ストーリーが分かりません。
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勅令の扉の左側から、旧約聖書を題材としたパネルのレリーフが始まっていました。下の方の段にあり、興味津々だったので、左から順番どおりに並べてみました。またまた、趣味の世界ですよ。見たい方だけ見てね。
最初のパネルは、イスラエル王ダヴィデの息子「アブサロムの死」。
ウィキペディアによると、アブサロムは父ダヴィデ王に対して反乱を起こし、最終的に髪の毛が木に引っ掛かり宙吊りになったところを殺害されたのだそうです。確かに宙吊りになっていますね。 -
2枚目は「ガザの町で門扉を担ぐサムソン」。これは笑えます。
サムソンは旧約聖書の「士師記」に登場する士師で「怪力」で有名ですね。これは、サムソンが城外の売春婦の家で一夜を明かした後、城内に入ろうとした際、扉が閉まり鍵がかかっているのを見て、扉をゆすって門壁から外し、両肩に門扉を乗せたまま見晴らしの良い丘まで上っていき、丘の上で初めて扉を降ろしたというエピソードの場面です。その時、扉はまだ閉まったままロックされていたそうですよ。 -
3枚目もサムソンです。サムソンが素手でライオンを引き裂く場面。欧米の子供たちにも大人気の話ですよ。聖書には、こうあります。
サムソンには主の御霊により力が乗り移り、まるで生贄の若いヤギを扱うようにいとも簡単にライオンを素手で引き裂いた と。
鳩が頭に乗られていたら、サムソンもちょっと調子狂ったかもねえ・・・ -
4枚目は「カインの犠牲(神への供え物)」。聖書はカインとアベルの神への生贄に対して、アベルの貢物は受け取りましたが、カインのものは拒否しました。何故でしょう?
カインの貢物は大地で実った果物でした。聖書には「時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持ってきた」とあります。 -
5枚目「アベルの犠牲(神への供え物)。アベルは彼の飼う羊の最初の子(初子)、しかも肥えた子を神に捧げたのです。
大切なものの中でも最上の部類のものを神に供えたというところから、神はアベルの方が自己犠牲が大きいと判断したのでしょうか? 神は農耕民より遊牧民を愛した、あるいは、生贄には血を伴うものがなければならないという説もありますよ。なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からだそうです。
なかなか面白いと思いませんか? 自分の供物が拒否された結果、人類初の兄弟殺しに繋がったんですよね。どんなものでも喜んで受け取ってくださる日本の神様は素晴らしい! 関係ないか! -
左から2番目は聖アンブローズの扉と呼ばれています。ミラノ生まれの彫刻家ジャンニーノ・カスティリョーニが1950年に制作したもので、2枚の扉にはミラノの守護聖人聖アンブローズの生涯が描かれています。
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聖アンブローズ扉の上を飾るレリーフです。こちらは、「土師記」の中からヤエルとシセラの物語が描かれています。
ヤエルは反イスラエル同盟の指導者になったヤビン王から遣わされた司令官シセラの首をトンカチと釘で強打して殺した女性です。右手にトンカチを持っていますね。左手の先は欠損していますが、トンカチで叩く釘を持っていたはずです。ヤエルと言い、後で出てくるユディトと言い、イスラエルの女性の前では油断は禁物です。 -
そして聖アンブローズの扉上にある2階窓のティンパヌムです。これも資料なし。
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旧約聖書を題材にしたレリーフのパネル。しつこいと言われそうですが、続けましょう。
こちらは「ノアの犠牲(神への供え物)」。ノアは洪水が引いた後、動物の生贄を神に捧げました。やはり神様は血が御好きなようですね。
右上にアララト山の頂に漂着した方舟が見えます。 -
2枚目は「ゴリアテの首を掲げたダヴィデ」。ゴリアテは、旧約聖書の「サムエル記」に登場する大男の兵士。身長が2m90cmあったとか。羊飼いの少年ダヴィデは投石器を使って、石をゴリアテの額に命中させ、その後ゴリアテの剣で首をちょん切ったのでした。これはたくさんの画家によって描かれているので、説明は不要かな? カラヴァッジョのものが特に有名ですね。
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3枚目は、これもお馴染み「バベルの塔」。この塔が意味するところは、色々と解釈が分かれています。神は天に近づこうとする不遜な人間共に罰として別々の言語を与えたというのもあったと思います。お互いに話が続かなくなった人間共は世界中に散らばり、バベルの塔は建設半ばで頓挫したのでした。
この塔が刻まれた多色大理石の美しさには惚れ惚れ! ピンクに青っぽい筋が斜めに入っていて、塔の背後に大きな虹を描いています。 -
何といっても一番人気で沢山の人々が集まっている扉はこちらの中央扉、別名マリアの扉と呼ばれています。
もう少し近づいてみましょう。 -
扉の両側の付け柱は、花、果物、動物達のモティーフの装飾が華やかです。上の花の上に止まっているのはバッタのような昆虫。下は青虫かと思ったら足があります。イモリかな?
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こちらの扉を制作したのはルドヴィコ・ポリャーギ。1857年生まれのミラノの画家兼彫刻家です。1895年に彼はドゥオモの扉デザインコンテストで優勝。マリアとキリストの生涯の物語が綴られた扉が完成したのは1906年のことでした。
1900年代に創られた「最も強烈でエレガント」な教会芸術と言われています。私もそう思うわー!! -
まずはこの平和な時代の聖母子から。周りの天使達の羽ばたきが聞こえて来そうです。歓喜に溢れた天使たちの表情も印象的。両脇を固めるのは福音記者のルカとヨハネ。彼らのシンボルと共に描かれています。
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イチオシ
そしてこちらの「ピエタ」に圧倒されてしまいました。寄り添っている8人の天使達の繊細な動き! 深い悲しみのあまり、羽音も聞こえて来ません。涙を抑えきれず、うなだれるマタイの姿を初めて目にしました。こちらもマルコとマタイがそれぞれのシンボルと共に描かれています。
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パネル周りの装飾もどれも素敵でしたが、何枚かピックアップしましょう。
「マリアの誕生」。赤ん坊のマリアはてかてかに光っています! マリアの両親アンナもヨアキムも長年子供が出来ずに神殿から追い出された経験があります。アンナを見ると相当な高齢出産に見えますね。なに? 余計な所ばかり目に留まるって? -
「マリアの結婚」。スレンダー美人のマリアですねえ。
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「受託告知」。色が変わっている部分は修復された跡かしら? と思い、調べてみたら、1943年の空襲による傷なのだそうです。近くで爆発した際にその破片が突き刺さったのですね。ミラノのドゥオモは米英により空襲のターゲットからは外されていましたが、それでもこの時ドゥオモが受けた被害はファサード全体に及んだようです。マドンニーナの像はぼろきれを厚く巻かれ、かろうじて被害を免れたという話です。
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「訪問」。受胎告知を受けたマリアは妊娠中に従姉妹のエリザベスを訪問し、3か月くらいそこに滞在します。エリザベスは後の洗礼者聖ヨハネを身ごもっており、学者の多くは、マリアがエリザベスの出産に立ち会い、二人に神の恵みをもたらすために訪れたのだと結論づけています。
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「聖誕」。ムムム・・・赤ん坊の首が・・・? これは爆撃の影響ではないですよね!?
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私はこれは「我に触れるな」だと思ったのですが、解説書には「キリストの母との別れ」と書かれていました。それにより順番が異なるのですが仕方ない。
皆が触るので、二人の手がピカピカです! -
「キリストの鞭打ち」。聖書には「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」とあるのみです。
こちらも足がご覧の状態。キリストの足はともかく、鞭打つ人の足まで輝いています。 -
「ゴルゴダへの道」。
キリストはゴルゴダにつくまで二度倒れています。学者たちはエルサレムの町を詳細に調べて回り、この坂道のスロープが急峻なので、ここで倒れたに違いないと場所まで特定しています。 -
「磔」。
前に描きましたが、ゴルゴダとは髑髏のこと。画面下に髑髏が見えますね。レリーフとは思えない迫力。思わず吸い込まれてしまいます。 -
「十字架降下」。飛び出す絵本のように立体感のある作品で、細かいところまで丹念に描写されています。左側の動と右隅の静の世界が同時に進行中です。
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もうこの位にしておきましょう。一番下に描かれているのは、左から預言者ダニエル、哀しみの天使、預言者エゼキエルです。
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結局高い位置にあった「東方三博士の礼拝」、「キリストの神殿へのお披露目」、「キリストの埋葬」等は撮りませんでした。ミラノに来てこの扉が見れただけでも良しと思うくらい、素晴らしかったです。
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マリアの中央扉上のティンパラムにあったのは、「イヴの創造」です。左側が創造主の神、右隣で肩ひじついて眠っているのがアダムですね。
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アップでもう一度。
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「マリアの扉」に続く最初のレリーフは、「青銅の蛇」です。旧約聖書の「民数記」に登場する像で、エジプトから逃れた船の中でモーゼが神の言葉に従って作り、旗竿に掲げたものです。モーゼの時代(紀元前13世紀ころ)には、蛇は邪悪のシンボルではなく、信仰の対象であったようですよ。
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2枚目は「ソロモン王のベッド」レバノン杉で作られた豪華な婚礼の儀式用ベッドについての記載が旧約聖書にありますが、この場面がどういう意味なのか、良く分かりませんでした。
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3枚目。こちらのパネルは、福音記者達のシンボル天使、ライオン、鷲、牛が描かれていました。
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ファサードに向かって右側の二つの扉です。人が多すぎるのと、入口に当たっていて扉の詳細が写しづらかったことから、この二つの扉の詳細写真はありません。
左から「レニャーノの戦いの扉」と「ドゥオモの歴史の扉」です。レニャーノの戦いは1176年に起こった神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟の間の戦いです。所謂ギベリン派とゲルフ派の間で行われた戦いの一つですが、この時はミラノが所属していたロンバルディア同盟が勝利を収めました。
「レニャーノの戦いの扉」は1950年に工事が始まり、ヴィルギニオ・ペッシーナが完成させています。一方「ドゥオモの歴史の扉」は1965年、ルチアーノ・ミングッツィによるものです。 -
ティンパヌムのレリーフは、旧約聖書外典の一つ「ユディト記」に登場するユダヤ人女性ユディト。前にも何度か紹介したと思いますので、詳細は省略。彼女はイスラエルの敵のアッシリア王から派遣された司令官ホロフェルネスの首をちょん切ります。
ドゥオモのファサードは殺人事件のオンパレードのようです! -
「レニャーノの戦いの扉」2階窓ティンパヌムのレリーフです。これも???
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低い層にあるレリーフは続きますよ。「ダヴィデの塔」 別名「エルサレムの城塞」はエルサレム旧市街西端にある古代の城塞です。写真で確認したら、現在ある塔とは形が違っていました。過去2000年の間、この塔は建造しては破壊されるを繰り返しているそうです。
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続いてのレリーフは「モーゼが水を突き止める」。モーゼが民を率いて、食べ物も水もない荒野を移動している時の一場面です。人々が飢えと渇きに倒れ、死人が出始めた頃に、神の導きによりモーゼが岩を穿つと水の流れが噴出したのです。
しかし、この時、モーゼは人々に自分が神のごとく振る舞い、神が聖なることを現さなかったとして、その後神は彼が約束されたカナンの地へ入ることを許さなかったと言います。40年余り荒野をさすらって約束の地に民を率いたのに厳しい・・・ -
3枚目は「創世記」より「ヤコブの夢」。旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長で、別名をイスラエルと言います。つまり、全ユダヤ人の先祖だと言われている人物です。
その彼がある晩野宿をしているときに不思議な夢を見ました。天にまで届くような階段(梯子)があって、そこを天使達が上り下りしている夢です。そしてヤコブは神からお告げを受けるのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。」神はそう告げて、ヤコブに祝福を与えたのです。 -
右端にある5つ目の扉の上のティンパヌムには、「ソロモンとシバの女王」が登場します。こちらは旧約聖書の「列王記」と「歴代誌」に載っています。
ダヴィデ王の息子ソロモンが大層聡明であることを聞いたシバ国(現在のエチオピア?)の女王シバが、ソロモンを訪問した時の様子です。彼女が手に持っている石板は何でしょうね?
このレリーフはジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル・セラーノ)の下絵を元にガスマーレ・ヴィスマーラが制作したことが判明しています。 -
2階窓上のティンパヌムです。調べて分かったら後で書き足しますね。
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レリーフも最終章です。1枚目
こちらは英語で言うBurning bush。植物名としては「ほうきぐさ」ですが、「出エジプト記」の中で、モーゼが見たのは「燃えているのに燃え尽きない」しばのことです。この草の中から神のみ使いの声がして、モーゼに「あなたは私の民をエジプトから導き出すために私が遣わす者です。」と彼の使命を告げたのでした。 -
2枚目はアダムとイヴの「楽園からの追放」です。これは説明不要ですね。
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最後の2枚は、南側壁にありました。今まで割愛してきましたが、外壁はどこもかしこも装飾のオンパレードです。パネルの上には様々な顔が並んでいました。ロンバルド・バンドと呼ぶんですって。ロンバルディア風の帯状の装飾を言うのでしょうね。
男性、女性、天使達。にこやかな顔もあれば、右から2番目の顔のように怒り狂った顔も見られます。これだけ見ても楽しい。 -
3枚目は「モーゼの発見」。モーゼはエジプトで生まれましたが、その当時エジプトではヘブライ人が急速に増えたため、ファラオはヘブライ人の男子を殺すよう命令。そのため赤ん坊のモーゼは籠に入れられ、ナイル川に流されました。この場面は川に水浴びに来ていたファラオの王女がモーゼの入った籠を偶然発見した場面です。
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最後のレリーフは大天使ラファエルと小さなトビアス。旧約聖書外典の「トビト記」、「エノク書」に登場します。これも以前どこかで書いたような記憶。
目の見えないトビトの子トビアスはラファエルと共に旅をして、トビアスが父親に与える魚の肝から処方した薬を探す手伝いをします。ラファエルは癒しを司る天使なのだそうです。 -
ドゥオモの外壁を飾るものは、今まで見て来たパネル以外に膨大な数の旧約聖書からの彫像他があります。あまりに数が多いため、初めからあきらめムードです。
高い部分にもレリーフの続きがありますねえ。どれも素晴らしいんですが、きりがない。 -
同じ南側の壁です。チケット売り場に並んでいるときに撮りました。
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ご覧のような房飾りも沢山付いていましたよ。
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内容が特定できないパネルが一番低い層にまだありましたよ。太い幹の、果実がたわわに実った木です。ツリー・オブ・ライフを感じさせます。
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右側には壊された彫像。左側は生贄を置く台かしら?
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このレリーフも面白い。左側には水をくむ容器のついた井戸があって、その水は右側の蛇口(まさに蛇の口!)から水が出るようになっています。
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神のヴィジョンを受けているように見えます。
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これは、約束の地においてブドウの房を運ぶ人間達の姿。葡萄がとても重そうです。こういう庶民の暮らしを描いたレリーフが一番楽しい。
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もういい加減にせえ と言われそうなので、チケット売り場に並びながら、ドゥオモの南側の壁を見上げます。ドゥオモには15世紀初めから20世紀後半まで、年代が様々な50近いステンドグラス窓があるそうです。イタリア人ばかりではなく、フランドル地方、ドイツのガラスメーカーも制作に携わっています。ステンドグラスの下絵を描いた画家もジュゼッペ・アルチンボルド、ペッレグリーノ・ティバルディ他多数に上ります。中に入るのが楽しみです。
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こちらは、南側側壁に沿って作られたチケットブースです。行列は嫌いだけれど、仕方なく20分ほど並びました。無事チケットをゲットして、ようやく中に入りますよ!
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行列にうんざりしながらようやく中に入った私の目に飛び込んできたのは、恐ろしく太い沢山の列柱とステンドグラスでした。
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余りに柱が太いため、全部つながっているように見えます。まるで壁のよう! クロス・ヴォールト天井の美しい装飾。そして多角形の柱頭に並んだおびただしい数の聖人達の像。黄がかった茶色(もしくは黄金?)の世界です。
内部は五廊式。主祭壇が遥か彼方に見えました。 -
聖堂内の地図です。見学は白い部分のみ。網掛けの部分に行くことはできません。なーんだ。ちょっとがっかり!
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内部はかなり暗いです。解説には、上部と下部の窓の中間に設けられるトリフォリウムと呼ばれる小さな窓がないからだと書かれていました。
柱は全部で50本あるそうです。石ではなく、レンガを積み重ねたように見えます。印象的な柱頭はなんと、1本1本装飾が異なっています。 -
ヴォールト天井に網目模様があるのは中央の一列と側廊の二列だけで、今見えている第二列と第四列の天井は殺風景でした。柱が多すぎて、やはり威圧感があります。
ライトを浴びて、柱頭のニッチェの聖人達が黄金色に輝いていますよ! -
次に床の象嵌細工に注目。オリジナルは聖カルロ・ボッロメオのお気に入りの建築家ペッレグリーノ・ティバルディにより、1584年に始められましたが、完成したのは20世紀に入ってから。淡色と濃色の組み合わせで、コモ湖近郊の町ヴァレンナ産の黒、スイス国境に近いカンドリア産の白とピンク、ヴェローナ産の赤の大理石が使用されています。
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中世以降、大理石は品薄で貴重品であり、これが絶対に必要なドゥオモに対して、スフォルツァ家はカンドリアの大理石採掘権を与えたのだそうで、いまだにそれは有効な契約なのだそうですよ。
純白でなく、縞の入った白も大変綺麗。よそではお目にかかれない貴重な床にまたまたうっとりです。 -
墓石のある部分も修復されて、同じ大きさで再装飾されていました。画一的で、面白みがないと言えば嘘になります。
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祭壇は殆ど右側廊のものしか見ることが出来ません。
1406年に制作された、ドゥオモに多額の献金をしたマルコ・カレッリの墓です。葬送記念碑は建築家フィリッピーノ・デッリ・オルガニの設計。後期ゴシック様式彫刻の傑作と言われています。カレッリの寝姿像とニッチェの中の像(福音記者達と教会博士達)を彫ったのはロンバルディアの彫刻家ヤコピーノ・ダ・トラダーテです。 -
沢山並んだモニュメントです。左は1548年に亡くなったアンドレア・ヴィメルカテと彼の父親、叔父に当たるフィリッポとニコラの墓です。こちらはバンバイア(バンバイアですよ。バンパイアではなく!)というニックネームで知られているアゴスティーノ・ブスティの作品。
真ん中のスラブはちょっと面白いですよ。1888年に大聖堂ファサード・デザイン・コンテストで優勝した建築家の額です。結局ここに描かれたファサードが実現することはありませんでした。中央には大聖堂のシンボルとなった、慈悲の聖母(大聖堂が人々の避難場所という意味か?)が描かれています。 -
お次はペッレグリーノ・ティバルディによって造られたシチリアの聖アガタの祭壇です。
迫害により乳房を切られた彼女は、深紅に染まった胸を気にする様子もなく、視線はどこか遠くの方を眺めています。左手は、皿に盛られた切り取られた乳房の上に置かれていました。タイトルは「聖ピエトロ、聖アガタの独房を訪ねる」。1597年、フェデリコ・ツッカリの作品です。 -
こちらの礼拝堂は、色々と調べましたが名前が分かりませんでした。祭壇下に司教の墓があり、聖堂内で一番多くの蝋燭が灯っていたので、わかりそうなものなのですが・・・祭壇のレリーフはかなり古そうですが、詳細は不明です。
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上の礼拝堂の祭壇プラデッラの絵です。これも詳細は不明ですが、最後の晩餐のように見えませんか? モノクロがかえって効果的だと思った絵でした。
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ペッレグリーノの制作による「聖母の祭壇」です。レリーフの作者名はわかっていませんがドイツ人の彫刻家で、1393年の作品です。祭壇のパトロンの名前から「パラ・ヤコモーロ」と呼ばれているそうです。
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壁に飾ってあった銀の透かし細工です。こういうのをなんと呼ぶのでしょう?
上方に三位一体を表わす三角形がありますが、その中の目に見透かされているような気がして、何も悪いことをしていないのに、そわそわしてしまいました。小心者めが! -
右翼廊にある、7世紀のミラノの司教サン・ジョヴァンニ・ブオノの礼拝堂です。時はミラノがロンゴバルド王国によって支配されている時代で、前の司教がジェノヴァに避難した後、ジョヴァンニ・ブオノがジェノヴァ、ミラノ兼任の司教につくまでの70年間ミラノ司教座は空白だったそうです。
祭壇は18世紀後半のバロック華やかなりし時代の作で、4本の多色大理石の列柱が見事。彫像は全て純白のカラッラ大理石でできていて、サン・ジョヴァンニが踏みつけているのは異端者だそうですよ。彫刻家イーリア・ヴィンチェンツォ・ブッツィの作品。 -
祭壇左側の子供に正しい道を示している守護天使、右側のルシファーを踏んづける大天使聖ミカエルもブッツィの作品。一貫してテーマは「善が悪を滅ぼす」です。まだ信じているのかしら?
背後のステンドグラスには聖ジョヴァンニ・ブオノの生涯の物語が綴られています。恐ろしく豪華ですね。こちらは1839年から42年にかけての、ジョヴァンニ・ベルティーニの作品です。 -
ステンドグラス横の壁には、天秤を持つ正義の女神が!
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西洋の美徳 四元徳を表わしているのかなと思ったら、反対側には髑髏を持つ女性が!
えーっ!? -
翼廊にもう一つあった祭壇はマリアの神殿へのお披露目の祭壇です。1543年の作。
この祭壇も、バンバイアことアゴスティーノ・ブスティの作品でした。祭壇横にはかつて祭壇の依頼者、つまりパトロンのヴィメカルティの葬送記念碑がありましたが、現在では右側廊に移されています。
祭壇は白い大理石で作られていて、古代の神殿をイメージしています。4本の色大理石の柱も素晴らしいですね。小さなマリアは階段の下、そして階段の上には聖職者たちが彼女を迎え入れようと手を広げて待っています。マリアの左側には、供え物を持つ父ジョアキーノと母アンナの姿が!
神殿の上には聖母を中心に洗礼者聖ヨハネ、聖パオロ、他2聖人が並んでいました。左右の柱の間の人物は、左聖マルティーノ、右聖カタリナだそうです。
背後のステンドグラスにも聖マルティーノと聖母の物語が綴られていました。こちらは16世紀後半の作品です。 -
右翼廊の前には、ご覧のような扉があり、真ん中の階段は地下のクリプトへと通じていました。
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中途半端な写真ですが、もう1枚。
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聖カルロの墓所という案内板に沿って進んでいくと・・・
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廊下を挟んで、左右に部屋が二つありました。
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その一つがこちら。1820年にピエトロ・ペスタガッリによって再建されたクリプトへと導かれます。丸い形をしたこちらの礼拝堂のオリジナルはペッレグリーノの設計。寒い冬の間、上の聖歌隊席よりは多少なりとも暖かいので、聖歌隊はここで練習をしたそうです。そう言った理由から、ここは「冬の聖歌隊席」というニックネームが付けられています。
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円形の礼拝堂には、8本の赤い大理石の柱が中央の祭壇を囲むように立っていて、柱が支えている天井は、非常に細かいスタッコ装飾で覆われていました。
ドゥオモでは2015年よりLED照明に切り替えたそうですから、きっとこの光もLEDなのでしょう。うっとりするような金色の光に包まれ、輝いていました。 -
礼拝堂とは反対側に歩いて、ボッロメオ家の紋章が付いたアーチをくぐると・・・
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聖カルロ・ボッロメオの墓所となっている部屋がありました。ボッロメオは16世紀の裕福な貴族の生まれで、メディチ家出身の教皇ピウス4世の母方の甥に当たります。22歳で枢機卿に、27歳でミラノの大司教になったと言いますから、一瞬教皇の七光りかなと思ってしまいますね。
ところがこの方、ピウス4世時代に行われたトリエント公会議では宗教改革の危機を脱するために作られた公教要理を殆ど一人で作り上げ、カトリック教会の教義の強化を図るのに貢献。ミラノ大司教時代にも、増えすぎた聖職者による腐敗や汚職を一掃。1570年代にミラノを襲ったペストの大流行の際には危険を顧みず人々を助けるのに奔走し、自分の財産をすべて使い果すまで貧者や病人に食料を与える等々大活躍をされたのです。そして1610年、異例の速さで列聖されました。 -
こちらの部屋は八角形をしていて、やはりとても凝った造りになっていました。1606年フランチェスコ・マリア・リッキーノのデザインです。
照明の部分以外は暗くてよく見えませんが、漆黒の天井部分には、聖カルロ・ボッロメオの生涯の物語が銀のプレートで8枚飾られていました。 -
聖カルロの聖遺物が収められている銀製の棺は、オーストリア女王マリア・テレジアから寄贈されたものです。八角形のダイヤモンドのようなカットが目を惹きます。ちらっと見える聖人の顔は、死後に採られたオリジナルのロウ製のマスクから作られたものだそうですよ。
棺の上には、聖カルロの小さな肖像画が飾られていました。その上に燦然と輝くシャンデリアは、ナポリ、シチリア王で後のスペイン王ともなるフィリペ4世からの寄贈品です。 -
床を激写するために、妙な角度からもう1枚。こちらの象嵌細工もこれまた見事でした。
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地上階に戻りました。
大聖堂で一番有名な像と言えばこちらの聖バルトロメオ(日本語はバルトロマイ)でしょう。キリストの12使徒の一人で、皮剥ぎの刑で殉教したと言われています。
16世紀ルネサンス期の彫刻家マルコ・ダグラーテの作品で、「皮を剥がされた聖バルトロメオ」。両肩にストールのように巻かれているのは、彼自身の皮膚なのだそうですよ。確かローマのシスティーナ礼拝堂にも、ミケランジェロがこの皮膚を描いていた記憶・・・ -
石の模様を巧みに使ったのか、下半身が特にリアルに表現されていて、石だとわかっていても、見るのがつらくなるような作品です。
聖バルトロメオが立っている台座には、「私はプラクシテレス(紀元前4世紀のアッティカの大彫刻家)によって創られたのではなく、マルコ・ダグラーテにより創られた」という碑文が残っています。 -
聖バルトロメオの像のすぐ後ろにあった、多色大理石の柱とニッチェが目立つ祭壇です。こちらは、教皇ピウス4世が作り、甥のカルロ・ボッロメオへ贈ったもので、このギフトにより、聖カルロは毎週教皇とその家族のためにミサを開くはめになったとか・・・ 肝心の祭壇のレリーフについては、情報がありませんでした。もみ合っている人や倒れている人がいるので気になるのですが・・・
天使のカリアテッドも珍しいですね。 -
主祭壇を眺める至近距離はここなのですが、後陣がよく見えず、いまいちピンときません。この位置からよく見えるのは左右のテラモンが支える黄金色の説教壇です。オリジナルの設計はペッレグリーノですが、今あるのは1985年に彫刻家マリオ・ルデッリによって造られました。
北側南側の同じ場所にある二台のパイプオルガンはドゥオモの歴史そのものです。今見えていない南側のオルガンが初めて設置されたのは1395年のこと。そして北側のオルガンが現在の位置に置かれたのが1579年。それから1986年に中身のパーツをそっくり入れ替えるまで、調整を繰り返し、なんと700年以上讃美歌を奏でて来たそうです。 -
右側廊しか歩けないので、どんどん主祭壇から遠ざかります。撮影をしている人がいるので今日は入れないのかしら? 入り口にあった地図によるとそうではないようでしたが・・・
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やはり、ドゥオモの内部で一番素敵なのはこの列柱の並木道・・・
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一つ一つの柱を眺めているだけで、1日過ごせそうです。
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ようやく正面から主祭壇を捉える場所にやってきました。これが精一杯のようです。現在の主祭壇は16世紀後半の建立。聖カルロ・ボッロメオがペッレグリーノ・ティバルディに依頼して作らせたものです。その後小規模の改装が18世紀、20世紀に行われましたが、他はほとんど姿を変えていません。
主祭壇のある場所はかつてのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の主祭壇があった場所で階段を数段上ったところにあり、1418年に教皇カルティヌス5世によって奉献されています。
中央に建つ円筒形の幕屋はティベルディの作品。8本のコリント式円柱が天使達が立つクーポラを支えています。左右に立つのは聖アンブローズと聖カルロです。
なんといっても美しいのは後陣のバラ窓を含むステンドグラスですね。これ以上近づけないので、このステンドグラスどこから撮っても、邪魔が入り、全貌が分かりません。
こちらは黙示録の窓 15世紀初めに、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により(フランチェスキーノ・ツァヴァッターリの製作)作られたことから別名「ヴィスコンティのレース」と呼ばれているステンドグラスです。ヴィスコンティ家の紋章鷲と蛇が盛り込まれているというのですが、この写真では見つけられない・・・ -
こちらは後陣右側のステンドグラス。後陣の左右の窓がドゥオモで一番大きい窓です。
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そして、こちらが後陣左側の窓。全部は撮り切れませんでしたが、横に12枚、全部で130枚のガラス・パネルが並んでいる姿は壮観です。
後陣の3つの窓のステンドグラスは19世紀半ばにジョヴァンニ・バッティスタ・ベルティーニとその息子たちにより作り直しされています。 -
上の写真は望遠で撮ったもので、実際には主祭壇は遥か彼方にありました。
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その手前の尖がりゴシックアーチのてっぺん付近にキリストの磔像がありました。ステンドグラスの色を除いてはモノトーンで、良い雰囲気です。
ステンドグラスは小さいものを含めて全部で45枚あるそうです。後陣のバラ窓の他にも素晴らしい色遣いのものがありましたので、少しここで紹介しましょう。 -
大聖堂入り口入って直ぐ右側にある「福音記者聖ヨハネ」のステンドグラスです。ここでは、ジェノヴァの大司教ヤコポ・ダ・ヴォラギネによって書かれたキリスト教聖人、殉教者たちの列伝「黄金伝説」に基づいた聖ヨハネの生涯から、30の物語が展開しています。オリジナルは1470年代ですが、こちらも1960年代に作り直されています。
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2番目のステンドグラスです。「新約聖書」のステンドグラスのつもりで撮ったのですが、左端はアダムとイヴがリンゴを食べている場面から始まっています。ありえねーし!
中央下から4段目は「キリストの復活」かしら? 新旧混合? -
右側廊3番目のステンドグラスです。解説には旧約と新約が並んでいると書かれていたので、上のステンドグラスが旧約なら、こちらは新約のはずなんですが、こちらにはノアの方舟もカインのアベル殺しもあるので、旧約聖書を題材にしていることは間違いありません。でもそうなると両方旧約聖書になってしまいます。
16世紀、ロンバルディアとフランドル地方の工房によるもので、「キリストの受難」の部分は、アルブレヒト・デューラーの版画を参考にしています。 -
南翼廊ちかくにあったサン・ジャコモ・マッジョーレ聖ヤコブのステンドグラスです。1554年-64年にかけてのコッラッド・モキスの作品。赤が大変鮮やかなグラスです。こちらも教皇ピウス4世がスポンサーだったらしく、彼の名前と紋章がグラス中央にでーんと描かれていました。
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ステンドグラスは教皇の兄弟ジャン・ジャコモ・メディチ 通称メデギーノを弔うために制作したもので、ステンドグラスの下には、メデギーノの葬送記念碑がありました。暗いけれど見えるかな?
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こちらはカウンターファサードにあったステンドグラスです。上の1枚は1950年代にハンガリーのガラス作家ハイナルによって製作された三位一体。下はベルティーニの工房で1833年から37年頃制作されています。聖母被昇天ですね。
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最後の1枚です。上のものと構図が似ていますが、作者は分かりませんでした。下の1枚は、聖アンブローズではないかと思うのですが、定かではありません。
初期のステンドグラスは多くの場合、ヴィスコンティ家、後にはミラノ領主からの命によるものでした。16世紀になると、様々な芸術や工芸のギルド、例えば公証人のカレッジ、薬剤師、金細工師等からの献金によるものが増えて、今見るような数になったそうです。17、18世紀には新しいものは全く作られていません。そして19世紀に入り、ベルティーニ親子の「作り直し」にと繋がっていきました。 -
この通路を下に降りると4世紀に建てられた最初の2つの聖堂に行くことができるようでしたが、フィレンツェでサンタ・レパラータを見た後だったので、今回はパス。
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外と比べて中の見学はあっさりしたものでした。いやあ、フィレンツェのドゥオモとは全く工法が異なるけれど、いずれも何世紀もかけて作られて来たその過程には驚かされます。
他のものに目移りして、ドゥオモの周りをぐるりと一周しなかったことを後で悔やみました。 -
中よりも外が断然私の好み。次回もしまたここに来る機会があったら、ロンバルディア・バンドか、尖塔の一つ一つをじっくり眺めたいものです。
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あら、あんなところに人の姿が! そう言えばドゥオモは屋上に上がることが出来たんですね。次回は屋上から尖塔を眺めるのも悪くないな・・・
きりが良いので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その93 ミラノ3で!
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この旅行記へのコメント (5)
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- とし坊さん 2017/01/31 17:19:01
- いいなミラノ
- ミラノといえば ドゥオモですよね
我が家は高いところが好きなので、すぐに上に登って記念写真
しかしながら、junemayさんの旅行記を読んで 再度内部をじっくりと見学したくなりますね・・ あのおおきな門もスルーしていたのが恥かしいですね
ドゥオモのとなりのデパートのバーゲンが気になりそちらで時間を費やしたことを
悔やんでおります(笑)
毎度のことながら 細部に渡っての描写素晴らしいですね・・
次回も楽しみにしております(^O^)
- junemayさん からの返信 2017/01/31 23:21:11
- RE: いいなミラノ
- こんばんは とし坊さま
2017年も1か月たったというのに、まだ2015年を彷徨っているjunemayです。コメントありがとうございました。
人それぞれ旅の味わい方が異なるので、それぞれ楽しければ良いと思います。ミラノを半分見くびっていたので、私は素直に後で申し訳なかったと謝りました。歴史がぎゅーっと詰まった街でした。ローマもミラノも大都市だけれど、私には金色に輝く宝の山に見えます。
あともう少しですので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。今年はまたモザイクを見に行こうと計画しています。でも旅行記アップするのはいつの日のことか・・・
とし坊さんの旅行記も楽しみにしておりますよ。
junemay
> ミラノといえば ドゥオモですよね
>
> 我が家は高いところが好きなので、すぐに上に登って記念写真
>
> しかしながら、junemayさんの旅行記を読んで 再度内部をじっくりと見学したくなりますね・・ あのおおきな門もスルーしていたのが恥かしいですね
>
> ドゥオモのとなりのデパートのバーゲンが気になりそちらで時間を費やしたことを
>
> 悔やんでおります(笑)
>
> 毎度のことながら 細部に渡っての描写素晴らしいですね・・
>
> 次回も楽しみにしております(^O^)
- とし坊さん からの返信 2017/02/01 08:10:11
- RE: RE: いいなミラノ
- おはようございます、junemayさん
またまた モザイクですか(^O^) いいですね
旅行記首を長くして待っております
今後共 ヨロシクです(^O^) とし坊
こんばんは とし坊さま
>
> 2017年も1か月たったというのに、まだ2015年を彷徨っているjunemayです。コメントありがとうございました。
>
> 人それぞれ旅の味わい方が異なるので、それぞれ楽しければ良いと思います。ミラノを半分見くびっていたので、私は素直に後で申し訳なかったと謝りました。歴史がぎゅーっと詰まった街でした。ローマもミラノも大都市だけれど、私には金色に輝く宝の山に見えます。
>
> あともう少しですので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。今年はまたモザイクを見に行こうと計画しています。でも旅行記アップするのはいつの日のことか・・・
>
> とし坊さんの旅行記も楽しみにしておりますよ。
>
> junemay
>
>
> > ミラノといえば ドゥオモですよね
> >
> > 我が家は高いところが好きなので、すぐに上に登って記念写真
> >
> > しかしながら、junemayさんの旅行記を読んで 再度内部をじっくりと見学したくなりますね・・ あのおおきな門もスルーしていたのが恥かしいですね
> >
> > ドゥオモのとなりのデパートのバーゲンが気になりそちらで時間を費やしたことを
> >
> > 悔やんでおります(笑)
> >
> > 毎度のことながら 細部に渡っての描写素晴らしいですね・・
> >
> > 次回も楽しみにしております(^O^)
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- マリアンヌさん 2017/01/27 16:10:40
- 圧巻のドゥーモ
- junemayさん、Buon girno☆
いやぁ〜やっぱりミラノのドゥーモは大きいですね。
20代の頃、ツアーで訪れたんですが、すごいな、美しいゴシックだな、ステンドグラス素晴らしいなだけで終わってしまって。
改めて解説していただくと旧約聖書のレリーフなどとても興味深いですね。
たぶん私ではこんな詳細はわからないので、ガイドしていただき行った気分になっちゃいます。
そしてファサードやマリアの扉など比較的、新しい時代に出来上がったものなのですね。そのせいか細やかな装飾や彫刻が保存されてる。
ミラノでは行ってみたいロマネスク教会があるのだけど、さてjyunemayさんは行かれたのでしょうか?乞うご期待です(笑)
P.S.三鷹のお店、機会をみつけて行ってみます。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2017/01/28 12:36:06
- RE: 圧巻のドゥーモ
- マリアンヌさん こんにちは!
コメントありがとうございました。
大聖堂はフィレンツェもミラノも、何世紀にもわたって築かれた歴史がぎゅーっと凝縮しているような建物でした。人々の目をくぎ付けにし、しかも、神を恐れ、崇め、敬うには十分過ぎるほどのデコレーション付きですからね。その場ではわからなかったことも多かったですが、後で調べたら、本当にいろいろなエピソードが出てきて、全部読んだらそれだけで1年くらいかかりそうな膨大な物語が隠されていました。写真を手掛かりに、ほんの少しだけ謎解きが出来た気分です。
> ミラノでは行ってみたいロマネスク教会があるのだけど、
ミラノ最終日、いくつか教会を巡りましたが、その中の一つかしら? そうでなかったら、またミラノに行く楽しみが増えそうです。
それはそうと、今年の5月の旅はヴェネツィアから始まり、リミニ、トリエステ、ポレチ、ザグレブ、ウィーン、そこからドイツに飛びゴスラー、ドレスデン、ベルリンという長距離移動の旅となりそうです。マリアンヌさんの旅行記をもう一度読み返さなくっちゃと思っています。ラヴェンナもできたら再訪したいなあ・・・
junemay
> junemayさん、Buon girno☆
>
> いやぁ〜やっぱりミラノのドゥーモは大きいですね。
> 20代の頃、ツアーで訪れたんですが、すごいな、美しいゴシックだな、ステンドグラス素晴らしいなだけで終わってしまって。
> 改めて解説していただくと旧約聖書のレリーフなどとても興味深いですね。
> たぶん私ではこんな詳細はわからないので、ガイドしていただき行った気分になっちゃいます。
>
> そしてファサードやマリアの扉など比較的、新しい時代に出来上がったものなのですね。そのせいか細やかな装飾や彫刻が保存されてる。
>
> ミラノでは行ってみたいロマネスク教会があるのだけど、さてjyunemayさんは行かれたのでしょうか?乞うご期待です(笑)
>
> P.S.三鷹のお店、機会をみつけて行ってみます。
> マリアンヌ
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