【杉原千畝ゆかりの地・リトアニアのカウナスへ!】「命のビザ」杉原記念館見学記+ヴィリニュス&カウナス街歩き!/ <Trip in Lithuania> "Visas for Life" Sugihara House in Kaunas
2016/08/08 - 2016/08/10
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ドラえもんさん
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いつも飛行機の搭乗記ばかりですが、今回は初めて「飛行機フリー」の旅行記です(笑)私の旅行の基本テーマは「飛行機」「食べ物」「史跡・博物館」の3つですが、これまで色々と出かけてはいるものの「史跡・博物館」の部分については、なかなか旅行記を書く時間がなく・・・。
今回は、以前から行きたいと思っていたリトアニアに行くことができました。バルト三国自体は、一昨年の夏にヘルシンキから船でエストニアのタリンに行った(これも旅行記書けてないですね・・・)ので、2カ国目です。
今回はフライトの関係で、まずは首都のヴィリニュスに向かい、その後に日帰りでカウナスにある「杉原記念館」に行ってきました。この「杉原記念館」は1940年、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民に対し、外務省の方針に反して、人道的な立場から独自の判断で「命のビザ」とも呼ばれる日本の通過ビザを発行した外交官・杉原千畝氏を顕彰する博物館です。
という訳で、初の飛行機フリーの旅行記をご覧ください。また、いつものごとく街歩きや飲み食いの話題についても触れて行こうと思います(笑)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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LOTポーランド航空のDHC-8-400でリトアニアの首都・ヴィリニュスに到着しました。
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ヴィリニュス空港の到着ターミナルです。いかにも旧ソ連風の建物ですね。
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でも、ターミナルの前にはリトアニア国旗と共に、EUの旗が掲揚されています。旧ソ連のバルト三国が今やEU加盟国だということが、なんだか不思議な感じですね。
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空港から市内までは鉄道で移動することにしました。ターミナル前から列車のマークの看板に沿って歩いて行きます。
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列車の本数はあまり多くないのですが、タイミングが良く10分程度の待ち時間で済みました。列車が入線して来ました。
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空港から市内までは列車で10分程ととても近いです。
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切符は車内で車掌さんから購入します。値段は70セント(約80円)と安いです!
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ヴィリニュス駅に着きました。ホテルはここから歩いて10分もかからない距離なので、歩いて移動しました。
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ヴィリニュスの旧市街にも比較的近いこちらのホテルにしました。朝食はついていないものの、1泊40ユーロちょっとと安く泊まれました。まだ明るいですが、時間はもう夜の8時前です。
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夏のヨーロッパは日が長くていいですね。8時を過ぎていますが、この明るさです。これから旧市街の方に歩いて行き、どこかで夕食にしましょう。
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旧市庁舎前の広場までやってきました。
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この広場にあるレストランの前で、こんな演奏をしている人たちがいました。ここに入ってみましょうかね。
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リトアニアはビールのサイズが大きくて安いです!この店は中心部のお店で割高とは言え、1杯568ミリ(中途半端な量ですね・・・)のグラスで3ユーロです!(他の店は1.9ユーロとかが普通でした)そして、味もすっきりしていておいしい!
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リトアニアの料理もあるのですが、さすがは旧ソ連の国だけあって、分かりやすいロシア料理が多いですね。という訳で、最初のディナーなのでベタなロシア料理を頼みましょう。
まずは前菜でセリョートカ(ニシンの酢漬け)です!酢でしめてある魚は大好きなので、美味しいです(笑) -
これまたロシア料理の鉄板・ボルシチです!これもちゃんとビーツの味がして美味しいです!
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メインはこれまた大好きなキエフスキー(キエフ風チキンカツレツ)です!
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チキンの胸肉の薄切りでバターを包んで揚げてあります。ナイフで切ったら肉汁と溶けたバターがジュワっと出てきます!おいしい~。ビールが進みます!
食事をしていたら、もう11時近くになっていました。翌日は日帰りでカウナスに行くので、早く戻って寝ましょう(笑) -
ヴィリニュス~カウナスはバスか鉄道で移動できます。バスも色々と路線があるんですね。ホテルのフロントの方が鉄道の方が快適だからとオススメしてくれたので、今回は鉄道にします。(しかも、ネットでカウナス行きの列車の時間まで調べてプリントしてくれました!)
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前日に到着したヴィリニュス駅まで戻ってきました。9:35発のカウナス行きの切符を購入しました。
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朝食がまだだったので、売店で朝食用のパンでも買いましょう。イギリスやフランスなどは、駅の売店だと高いのにここはそんなことも全然なく安いです!
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あと10分ほどで出発ですね。
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こちらの列車で向かいます。
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車内の様子です。予想に反して、かなりきれいな車両です!席は自由席ですが、混んでいなかったので一人で4人席を使えました。
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前に人がいないので足元もかなり広々としています。
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乗車時間は1時間半ほどありますが、なんと料金はたったの6.4ユーロ!リトアニアは色々なものがクオリティ高めな割に、物価が安いです!!でも、EUの中でこれだけ物価差があれば、そりゃあ物価・賃金の高い国への労働力の移動は起きますよね・・・。
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のどかな風景が続きます。
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朝食用にパンを2つ買いました。一つはソーセージのサンドイッチに、豚肉のミンチ入りのパイです。と言うか、サンドイッチのサイズが大きいw
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ソーセージにコーススロー、キュウリが入っていてさっぱりしていて美味しいです!パイの方はギョウザっぽい味でこれも美味しい!
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そうこうしている間にカウナス駅に到着しました。ここで地図をもらい、まずは目的の杉原記念館に向かいましょう!
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ただ、地図を見ると丘の上の住宅街の中でバスなどでは行けそうもありません・・・。地図を見る限りでは、そこまで遠くないので歩いて行きます!物価の安い東南アジアとかに行くと、タクシーとか乗り回すのですが、ヨーロッパだと基本「歩き」です(笑)
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たぶん、この階段で丘に登っていけばいいんだと思うのですが・・・。
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と、軽く道に迷い、たまたま近くを歩いていたこちらのお二人に道を聞いたところ、「一緒に行ってあげる」と!!デート中だったのに、杉原記念館の前まで連れて行ってくれました!!実は前日にも空港で、地元の家族に駅まで連れて行ってもらったりとリトアニアの人たち、親切です。
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そして、こちらが杉原記念館の建物で、1940年当時に日本領事館だった建物がそのまま残っています。
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杉原千畝氏を顕彰するプレートが壁についていました。
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杉原千畝氏は第二次世界大戦中の1940年、独ソ開戦が迫る中、カウナスに日本領事館を開設し、領事代理として赴任しました。杉原千畝氏と言えば、独自の判断で6000人ものユダヤ難民を救った人として有名ですが、対ソ連など、諜報活動で大きな成果をあげた有能な外交官でした。
日本政府があえて日本人が誰も住んでいないカウナスに領事館を開いたのは、独ソ開戦に関する情報収集をするためだったと言われています。その様な活動をしていく中で、多くのユダヤ難民がナチスの迫害から逃れるために、日本の通過ビザを求めて押しかけてくるという予期せぬ事態が発生したのでした。 -
記念館の内部は、杉原千畝氏のプロフィールから、カウナス駐在時についてなどいくつかのパートに別れて説明がなされています。日本からの団体ツアーでバルト三国、もしくはリトアニアに来ると必ずここに寄るようで日本からの団体客が10人ほど来ていました。あとで聞いたら個人で来る人は珍しいとのこと。
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館内には記念品コーナーもあります。
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私もパンフレット等を購入しました。
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杉原氏の父親はもともと千畝氏に医者になって欲しいと思っていたようですが、その意に反して早稲田に進学し英語を学んだと言われています。ただし、父親の意に反する進学であったため、学費は出してもらえなかったため早稲田を中退し、官費留学生として満州のハルビン学院に入学しました。この時に習得したロシア語が、後の外交官としての活躍につながったと言われています。
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この日は、団体の観光客の他に海上自衛隊の遠洋練習航海でリトアニアに寄港中だった様で、海上自衛隊幹部候補生学校を卒業したばかりの方々が見学に来ていました。
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ちょっとお話をさせて頂いたら、一緒に写真を撮りましょうと向こうから提案して下さり、まさかのムロショット(初の自衛隊バージョンですw)です(笑)向こうの立場が立場ですので、顔を隠させて頂いています。いや、にしても海の制服はカッコいいですね。そもそも、飛行機は船の伝統を受け継いでいる乗り物なので、親しみを覚えます(笑)
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が、やっぱりそこは若い男性ばかりと言うこともあり(あ、女性の方も数名いらっしゃいました)、博物館の見学はそこそこに博物館の職員の方との記念写真に行列ができていました(笑)海上自衛隊も相手が美人だと弱い!?(笑)
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こちらが杉原千畝氏の奥様、幸子夫人です。杉原千畝氏が1986年に他界された後も健在で、2008年にお亡くなりになるまで、杉原千畝氏の功績を広めておられました。
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おそらくレプリカだとは思うのですが、執務室の机が置かれています。
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タイプライターや万年筆のペン先、発行した日本通過ビザのコピーなどが置かれています。
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反対側からもう一枚!
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先ほども書きましたが、日本政府が「日本人が住んでいない」カウナスに領事館を開設したのは、独ソ開戦に関する正確な情報を知るためと言う理由がありました。その様な活動をするなか、大量のユダヤ難民が日本領事館に押しかけるという予想外の事態が発生したのでした。
しかし、なぜナチスの迫害から逃れていたユダヤ難民が日本の通過ビザ(日本に滞在するためでなく、通過するために一時的に上陸をするためのビザ)を求めたのかと言うと・・・。当時のヨーロッパの情勢が関係していました。 -
1940年当時、ヨーロッパではドイツが破竹の進撃を続ける中で、ドイツに占領された国、そうでなくてもユダヤ難民に対してビザ発給を停止する国が相次いでいる状況でした。つまり、ユダヤ難民はシベリアを超えて東側に逃げるしかなかったのです。
そんな中、ユダヤ人に対して比較的寛容な対処をとっていたのがオランダでした。ただし、そのオランダもドイツに占領されてしまいます。カウナスにいたオランダの名誉総領事ヤン・ツバルテンディクは、ユダヤ人を救うための方法を考えました。それはカリブ海にあるオランダ領キュラソー島への上陸を許可する、いわゆる「キュラソー・ビザ」を発給したのです。(厳密に言えば、キュラソー上陸のためのビザなどは存在せず、ユダヤ難民を避難させるための方便でした)
ただし、そのためにはシベリアを越えた後、日本を通過しなくてはいけません。そのためには日本の通過ビザが必要だったのです。 -
当時の日本の外務省の方針は、最終的な目的地の受け入れビザを所持しており、なおかつ日本で船を乗り換える間の滞在費など、十分な所持金のある人にのみ、通過ビザの発給を許可するというものでした。しかし、ユダヤ難民の人々はキュラソー行きのビザは持つのの、所持金が少ないなど条件不備の人がたくさんいました。
この時、杉原千畝氏は東京の外務省に対応をどうすべきか問い合わせますが、返信は「ビザの発給不許可」でした。しかし、ビザを発給しなければ、目の前のユダヤ難民の人たちが今後どうなるかは目に見えています。杉原氏は一晩中、ビザを発給するか悩んだと言います。 -
その結果、杉原氏は外務省の方針に反する形になるものの、独自の判断でビザを発給することにしました。最終的に記録が残るだけで2139枚のビザが発給されました。ただ、記録漏れや、当時のビザは家族で1枚でよかったためトータルで約6000人が避難することに成功したと言われています。これがいわゆる6000人の命を救った「命のビザ」と呼ばれる所以です。
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ただし、手書きのビザでは1日に限られた枚数しか書けません。そこで途中からはキュラソーを受け入れ国とする旨が書かれた文章を押すことができるゴム印を使い、作業が効率化されました。(ビザの一番上がゴム印の部分です)
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これが杉原氏がビザを発給した人のリストのコピーです。
しかし、この出来事がきっかけで杉原氏は戦後、1947年に外務省を退職せざる得なくなりました。公式的には終戦後の外務省が行った大規模な人員整理の一環でしたが、明らかに理由はこの事件が関係していたと言われています。その後も、外務省は杉原氏とその家族に対しては冷淡な対応をとったと言われています。公式に外務省が、杉原氏の家族に対して公式謝罪を行い、名誉が回復されたのは杉原氏の没後の1991年でした。これを主導したのが、当時の外務政務次官だった鈴木宗男氏だったと言われています。その後、2000年には当時の外務大臣だった河野洋平氏によって、国会で杉原氏を顕彰する演説も行われました。 -
ここは以前から来たかった場所でしたが、いよいよ今年来ることができたきっかけが、4月に上海に向かう機内で観た「杉原千畝」の映画でした。
※その時の上海行きの搭乗記と乗り継ぎ滞在記⇒ http://4travel.jp/travelogue/11118953 -
執務机で記念写真を一枚!
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小さな博物館ですが、ゆっくり見学した上で職員の方が色々と説明してくれ、お話をしていたら2時間も滞在していました。国内でも海外でも、博物館などで教員だということを伝えると、詳しく解説してくれたりパンフレットをくれたり、写真撮影を許可してくれたりします(笑)
右の方が詳しく解説をしてくれた職員の方、左側の方が館長さんです。ここでもムロショットです(笑) -
その後、いろいろとお世話になった館長さんと職員の方にお礼を伝え記念館を出ました。記念館の周りは高級住宅街で、こんな感じの公園もあり、その中を抜けて市内に入っていきます。
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丘を降りると街が見えてきました。
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カウナスの名所の一つ、聖ミカエル教会です。ただ、ここは旧市街からはちょっと離れているので、歩いて行くのは大変そう・・・。
こういう時、バスなどは地元の路線を調べるのが難しいのですが、地元の人に行先を伝えてバスの番号を教えてもらいます(笑)ただし、さすがに旧ソ連の国だけあって、おじさん、おばさん以上の世代の人は全く英語が通じませんw通じるのは、ロシア語 or リトアニア語です。一方で面白いのは、ソ連崩壊後に生まれた若い人々はロシア語が分からない代わりに英語を理解してくれます(笑)道を聞く時は、基本的に若い人に聞くと簡単ですw -
という訳で、バス停にいた若い人にバスを教えてもらい、旧市街の近くまで来ました。
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旧市街の広場に入ったところで、もう時間は午後になっています。ここら辺でお昼にしましょう!リトアニア料理と書いてあったお店に入ります。
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まずはやっぱりビールからです!ここは1杯が1.9ユーロと安いです!
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お店の人にお勧めを聞いたら、ツェペリナイ(ツェッペリン、すりおろしたジャガイモでひき肉を包んで蒸した団子っぽいものです)というので、それを一つとベタなエニューでビーフ・ストロガノフを頼みました!
ツェペリナイがもちもちしていておいしいです!そして、ビーフ・ストロガノフは期待していた通りの味で、さらに量も多くで良いです(笑) -
広場ではちょうどリオ・オリンピックの中継などもしていました。
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カヌー(ボート?)を大スクリーンで中継をしており、しかも、その前でおばさん達が、練習用の器具で体験していました(笑)
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この後、カウナス城の方へ向かって歩いていくと、こんな大きなバスケットボールが置いてあります。バスケットボールが盛んなんですかね・・・?
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目的地のカウナス城にやってきました。カウナス城はドイツ騎士団の侵攻に備えて13世紀に建造された要塞とのこと。
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そしてまた広場の方に戻ってくると、外でお茶をしてのんびりしている人たちがいます。地元のチョコレート屋さんがカフェもやっているみたいです。
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という訳で、アイスラテとケーキで休憩です(笑)クリームチーズが甘さ控えめで美味しいケーキでした!この後は店内で日本へのお土産用にチョコレートでも買いましょう。ヨーロッパは有名ブランドでなく、街のチョコレート屋さんで飛び込みで買うのが好きなんです(笑)そもそも、日本には海外のチョコレートブランドを除いて、ケーキ屋はあっても「チョコレート屋」という店がないですよねw
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全部、このお店のハンドメイドのチョコレートと言うことで、おすすめを店のお姉さんにお任せで詰めてもらいました(笑)
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チョコレート屋さんのお姉さん2人です。親切にチョコレートの種類を説明してくれました!
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この後、旧市街を散策します。
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カフェやレストランもおしゃれですね。
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近くにあったお土産屋さんが、そんなに高くなかったので家族用にいくつか購入しました。これは買っていませんが、リトアニアっぽい人形もありました(笑)
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ちょっと疲れたのとお土産で荷物が増えたので、カウナス駅まではタクシーで戻りました。
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また列車でヴィリニュスまで戻ります。
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帰りの列車は、行きと比べてさらにハイテク車両で普通車に電源が付いており、さらにフリーWifiまで飛んでいます!しかも、スピードもそこそこありLINEやFacebookを使うくらいはなんてことありません!
ネットをいじっていたら、この後すぐにヴィリニュスに着いてしましました(笑) -
翌日はもう帰るだけなので、ホテルの前にあった昔からありそうなマートに入ってみました。
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さすがウォッカなどの品ぞろえが豊富です!
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そして期待通りの動いていない冷蔵庫です(笑)動いていたのは1台だけでしたw
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という訳で、唯一動いていた冷蔵庫から冷えたビールを1本買って、飲みながら街を散策します(笑)
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ヴィリニュスにはリトアニア最大のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)があります。街でも帽子をかぶったユダヤ教徒の人を結構見かけました。
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となりにあったアパートは、いかにもソ連式の建物でした(笑)
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ここからまた前日に食事をした旧市庁舎前の広場に向かって歩いて行きます。
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途中、こんな銅像がありました。見ていたら通りかかったおばさん3人組が親切にも解説してくれたのですが、いまいち分かりませんでした・・・。
という訳で、調べてみました(笑)私は児童文学には詳しくないのですが、ロシアの作家コルネイ・チュコフスキーの代表作のひとつ『ドクトル・アイボリート』という獣医さんの話しがあり、そのアイボリート先生のモデルとなったのが、ヴィリニュスに住んでいたユダヤ人医師のツェマフ・シャバッドで、その銅像とのこと。 -
そして、ディナーのお店にやってきました。前日から気になっていたシーフードのお店です。いつもの食事に比べるとちょっといい値段でしたが、最後の夜なので少し奮発しましょう(笑)
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そして、前菜で頼んだものが「イクラ」です(笑)イクラは「魚卵」という意味のロシア語なので、本当にイクラと言って通じるのか試してみたかったということもあります。
4トラベルで、ロシアに行かれた方の旅行記を見れば、よく書かれていることですが、ロシアでは「赤いイクラ」(=いわゆる我々が知っているイクラ)と「黒いイクラ」(=いわゆるキャビア)と言われているそうです。 -
なので、メニューにもRed salmon caviarとあります。間違ってないですねw鮭のキャビアがいわゆるイクラですからね(笑)
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という訳で、お寿司でも海鮮丼でもなく、洋風にイクラを頂きます!
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トーストにバターとイクラをのせ、ライムを少し絞って頂きます。おいしい~!!これでビールが何杯も飲めそうです(笑)
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メインはオヒョウ(カレイ科の大きい魚)のグリルを頂きます!横に添えてある、マッシュルームのクリームソースをつけて食べると美味しいです!
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カレイ科の魚ですが、脂も乗っており白身の焼き魚と言うよりも、タラなどの食感に似ていました!
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横に付け合せで、パラパラなライスがついていたので、そこにもイクラをのせて食べてみます!シーフードピラフっぽい感じの風味になっていいですね(笑)
最後のシーフードでのディナーも期待通りの味で、楽しめました!! -
広場もライトアップされていてキレイですね!
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暗くてうまく撮れませんでしたが、市内にはトロリーバスがたくさん走っているのですが、新型の車両もあれば、こんなクラシックな車両もまだまだ現役で走っています。
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翌朝、ホテルの前にマーケットがあるのが分かっていたので行ってみます。マーケットに行けば、何かしら食べることができるところがあるので朝食をとろうと思います。
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1906年からやっている古いマーケットの様です。
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雑貨など生活用品に・・・。
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肉などの生鮮食品のコーナー。
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そして予想通り、パン屋さんがありました。ちょうどイート・イン用のテーブルもあるので、ここで朝ごはんにします。
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どれも美味しそうですが、1ユーロしないものが多く安いです!
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と言うことで、ソーセージロールとピザっぽいパンを注文しました。一緒に頼んだらても1ユーロと安いです!これで3ユーロでおつりがきます!
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その後、ホテルの部屋に戻り空港に向かいます。行きは列車と徒歩で来ましたが、帰りは荷物も重いのでタクシーにしました。それも10ユーロで済むので安いもんです。
ところで、ホテル前にいたタクシーのおじちゃんに空港までいくらか聞いたんですが、「Airport」という簡単な英語も通じません!ホテルの受付のお姉さんに「Airportはロシア語で何?」と聞くと、今度は若い方はロシア語が苦手なので、少し考えて思い出した上で「Aeroport(アエロポルト)です」と(笑)
15分ほどで空港に到着です! -
ヴィリニュス空港の出発ターミナルに着きました。ここからはターキッシュエアラインズのイスタンブール経由で成田に戻ります。
今回は以前から来たかったリトアニアに来て、カウナスの杉原記念館にも訪れることができました。それに加えて現地の方々の親切な対応がとても印象の残ったいい旅でした。あとはなんと言っても食べ物やビールが美味しい上に安い!!東欧やバルト三国はこのへんがいいですねぇ(笑)
今回、初めての「飛行機フリー」の普通の旅行記で書き慣れないこともあり、読みづらい点もあったかと思いますが、ご覧くださりありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (1)
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- ポポポさん 2017/01/25 15:34:58
- 命のビザを繋いだ男たち
- 初めまして、ドラエもんさん。ポポポと申します。
カウナスの元日本領事館の旅行記や杉原千畝さんのお話、興味深く拝見させていただきました。
カウナスの日本領事館は私もいつかは行ってみたいと思っている場所です。
日本のシンドラーこと杉原千畝さんの偉業は映画にもなり、子供たちは小学校の授業でも学んでいるので、今では多くの人が知っていますが、実際に「命のビザ」を繋いで6000人のユダヤ難民を日本から送り出した人の事はあまり知られていません。
私がその人物を知った5年前にはまだWikipediaの杉原千畝さんのなかでも取り上げられてはいませんでした。現在は日本に来たユダヤ難民の項目の中でわずかに触れられている程度です。
そもそも私がその人物を知ったきっかけは、杉原さんが発給したビザが僅かに10日しか日本には滞在することができない通過ビザだったからです。
最終受入国の入国ビザをもっていない大半のユダヤ人難民が10日で受入国を決め、出立の船便まで確保することなど到底できる訳がありません。誰かが手助けをしたはずです。いったい誰が手助けしたのだろうか?そんな疑問が沸き起こりました。
これができなければ本国に強制送還され、強制収容所送りとなり多数のユダヤ人がガス室に入れられて殺されたことでしょう。
その結果日本はホロコーストに加担した国として未来永劫負の十字架を背負い続けなければなりませんでした。
日本に来たユダヤ難民の窮状を救ったのは2人の日本人でした。ドラエもんさんは、良く勉強されているのでご存知かもしれませんが、補足したいと思い連絡しました。
その人物は小辻節三氏と松岡洋右氏です。
小辻節三さんがユダヤ難民の滞在ビザを延長し、船便を確保し、希望の国に送り届けるまでには大変なご苦労がありました。まさに驚きと感動の連続です。
憲兵隊にしょっ引かれて拷問も受けていらっしゃいます。
詳しくご存知なければ書籍を紹介しますので、ご一読下さい。書けば長くなるので簡単にここでは記述します。
小辻節三氏は元ヘブライ語の大学教授で、以前満鉄総裁であった松岡洋右氏から満鉄調査部顧問として招聘されていました。
この時に2人は上司と部下の関係だったのです。満鉄総裁の松岡氏は、当時満洲国に多数居住していたユダヤ人にどのように対応するか、そのアドバイザーとして小辻氏を招聘したのでした。
さて日本人ユダヤ教会は再三外務省にビザの延長を掛け合いましたが全く取り合ってもらえません。万策尽きた教会が最後の頼みの綱としたのが小辻氏でした。
小辻氏はユダヤ教会からの依頼を快諾してユダヤ難民救済のために奔走しましたが、状況は困難を極め全く進展しません。
その時外務大臣だった松岡洋右氏に窮状を訴えたのです。松岡氏はもと上司です。松岡氏は外務大臣としてではなく友人としての助言として、ある解決のヒントを教えてくれました。
このアドバイスを元についにビザは延長でき、1941の秋には頬全員がアメリア、カナダ、上海などに旅立つことができました。
松岡洋右氏は国際連盟脱退や三国軍事同盟締結時の外務大臣、A級戦犯容疑者として多分に悪い印象を持たれているかもしれませんが、オトポール事件では樋口季一郎氏と協力して2万人のユダヤ人難民を救っています。また「命のビザ」では外務大臣の権限を逸脱して小辻氏に解決の糸口を与え、日本がホロコーストに加担することを防ぎました。
まさにこの2人は杉原氏と同等に評価されるべき人物なのですが、今なおその足跡を知る日本人は少ないと思います。
小辻節三氏については「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」著者 山田純大 NHK出版
またはPHP出版の歴史街道「杉原千畝とサムライたちー命のビザを繋いだ奇跡」2013年11月発刊 これは図書館などにバックナンバーがあれば見れると思います。
まだお読みでなければ是非お読みになってください。小辻節三さんの物語はノンフィクションで感動の連続でした。私は心を震わせながらこの本を読みましたので強くお勧めします。
補足のつもりが小辻節三さんの事を知っていただきたく、いつの間にか長文になってしまいました。
インフルエンザが流行っていますので、どうぞご自愛ください。
ポポポ
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