2016/11/15 - 2016/11/15
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ちびのぱぱさん
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むかし台湾にはたくさんの部族が棲み分け、言葉も違うため和合することなく、しばしば戦を繰り返したと言います。
首狩の習慣もあり、成人の証しに敵の首を取ってくるという風習もあったのだとか。
まあ、日本も戦国時代は首狩族の一種のようなものでしょうか。
今は、平和に暮らしているのはどちらも同じ。
台南の歴史が少し分かってくると、台湾についても自ずとイメージがふくらみました。
中世以降、日本の倭寇など海賊が最初に目を付け、続いてオランダ人が来て城を造る。
やがて大陸を追われた明の高臣が、この地域からオランダ人を追い出し明の東都と称するものを建設する。
そして程なく清国に下る。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 徒歩
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1902年竣工 旧林野庁舎
台湾で最も古い孔子廟の裏から林デパートの方に向かう途中にある日本統治時代の建物です。
現在は、葉石濤文學紀念館。葉石濤文學紀念館 博物館・美術館・ギャラリー
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葉石濤は台湾を代表する文学者ですが、日本統治時代に日本語で教育を受け、文学においても日本文学の影響を深く受けたそうです。
50年に及ぶ日本統治時代が台湾に与えた影響の大きさに思いを馳せます。
その脇の中正路という細道に誘われます。 -
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1937年竣工 旧日本勧業銀行台南支店
狭い路地を抜けると目の前に、台湾土地銀行台南支店があります。
かつての勧銀の建物です。
威圧するような堂々とした建物。旧日本勧業銀行台南支店 (現台湾土地銀行) 史跡・遺跡
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林百貨店
土地銀行のはす向かいに建つのはかつての林百貨店。
明治45年に台湾に渡ってきた林方一さんという日本人が事業に成功し、昭和初期にモダンな百貨店をオープンさせました。林百貨店 建造物
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店内にはオシャレなお店が入っていて、カフェもある。
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林百貨店は1932年開業。
当時珍しいエレベーターを備えていて、それに乗るために市民が押し寄せたのだとか。 -
エレベーターの床がモザイクになっている。
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終戦後はお塩関連の会社の事務所になっていたのが、事務所の移転により1980年代以降は空きビルとなっていたそうです。
その後、1998年になって修復計画が持ち上がり、2013年に3億円近く掛けて修復が完了。
おととし商業施設として再オーオープン。
建物には米軍の爆撃による傷跡が今も残されています。
いろいろあります。 -
新農老街
林百貨店のあたりからこちらに来るには、歩くと30分くらいありそうです。
午後になってきて、体力的にもきつくなってきました。
相方も私も、どことなく口の利き方にケンが感じられます。
旅に出たらとにかく歩く、というどうでもよい拘りを捨ててタクシーを捕まえました。
台湾のタクシーは格安な上、極めて良心的です。
ぼったくられた、という話も経験もありません。
あ~らくちん。
タクシーの運転手氏は我々が日本人と分かると、日本には6回も行きました、と笑顔でおっしゃる。
学校の先生のような紳士然とした中年男性です。
ほどなくタクシーは新農老街という呼び名で知られる路地の入口で停まりました。 -
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200年以上も前の町並みが残ると言いますから、清の時代ということか。
どの建物がいつ建てられたのか、気になるところですが説明がないのでわからない。 -
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二階部分がせり出しているのは、昔は道路ではなく運河だったため運河の船から直接荷揚げするためにこのような家が多いのだとか。
昔はこのあたりまで海が来ていたから、貿易が盛んになると商家が並んで賑やかだったのでしょう。 -
洋風の建物も見られ、建てられた時代が違うのだろうか。
マレーシアのジョージタウンの中華街などの町並みと似ていると思いました。
たぶん、日本統治時代のものではないかと推測。 -
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こちらも洋風で、年代は新しいのかも。
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この扉は古そうです。
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清朝の役人を出迎えた接官亭
神農街の一筋隣に風神廟という社があって、その前に立派な石の門があります。
清朝の役人が船に乗ってこのあたりの船着き場にやってくると、まずは風神廟にお参りし台南の役人たちの接待を受けたのだとか。
今では、この重々しい門だけが残ったということです。
清の役人は厦門から船出して無事台南に到着し、風神に航海の安全を感謝するために詣でたのでしょうか。
接官亭は1739年に建てられました。接官亭 史跡・遺跡
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てくてく歩いて赤嵌楼を目指しています。
何やら大音響が聞こえてくる。
人に尋ねると、何かの縁日らしく一生懸命説明してくれましたが言葉がわからない。
聞かなきゃよかった。 -
町の京劇
旅芝居の一座だろうか。
ボリュームをめいっぱいに上げ、割れかけた大音声でしきりに敵役を弾劾している。
言葉など分からなくても、旅芝居の一座のやる演目というのはどこでも一目瞭然で筋が分かるように出来ています。
通りざまに裏から見たら楽屋が丸見えで、出番待ちの役者が灯りの下で化粧をしている。
真っ白に塗られた顔に紅を引くさまがなまめかしい。
昔見た縁日の一こまを思い出しました。
アセチレンの灯りの下で、やっぱりこんな風に化粧をしていた。
ガラの悪い役者は、まじめに見ない観客に怒声を浴びせていたっけなあ。
こちらの観客は五分の入りで、みなお行儀よく鑑賞していました。
30分もいたら耳がどうにかなりそうな大音響。 -
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15分ほど歩いて赤嵌楼(せきかんろう)にやってきました。
祭りの行列が、鳴り物入りで通りかかります。 -
赤嵌楼
最初1653年にオランダ人が建てた城プロビンティアだったところです。
明政府に追われた鄭成功は台湾を目指し、1661年、まず台南攻略の嚆矢にこのプロビンティアを攻め落とします。
その後9か月かけてゼーランディア城も陥落させてオランダ時代に終止符を打ちました。
ここが赤嵌楼(チーカンロウ)と呼ばれたのはオランダ人を紅毛と呼んでいたところからきているのだとか。
その後さまざまな変遷を経ていったん荒れ果ててしまうものの、19世紀に再興がなされ現在の状況になっています。
日本人の血を引く鄭成功
この人は福建商人の流れを汲む人で、お父さんは密貿易で大もうけをして私設の軍隊を持つほどだった。
貿易で訪れた平戸で大名の寵愛を受け、日本人の妻をめとったと言います。
そして1624年、平戸でその日本人の母親から生まれたのだ成功だった。
鄭成功は7歳の時に父親と共に福建省に渡り、15歳で仕官します。
やがて明が清にとって代わると、父親らの擁立した隆武帝の寵愛を受けるようになる。
聡明で容姿端麗だったといいます。
しかし、時代の流れはすでに清朝を中心としていて、軍を起こして北閥するも奮闘むなしく転戦し台湾に流れてきたという。
鄭成功は日本式の甲冑を着けた勇猛な軍隊を率いたと言いますから、日本との不思議な繋がりを感じさせます。
お父さんの方はさっさと清朝に下り、息子も鄭成功が亡くなって程なくして清朝に下りましたから、時代の流れに逆らったのは彼だけだったという、なにか土方歳三的な生き様を感じます。赤崁楼 (赤嵌楼/紅毛城) 史跡・遺跡
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チーカンロウからはオランダ時代の遺跡も発掘されています。
終戦前の1944年に日本人の手によって発掘されています。
安平古堡もそうですが、日本統治時代には学術調査も積極的に行われたようです。 -
文昌閣と海神廟はともに清代に建設されたもの。
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文昌閣
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海神廟
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バスに乗って駅前に戻り、回転ずしで夕食にしました。
一皿30元で100円強。 -
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目抜き通りの成功路に少し入ると人気のドリンク店がありました。
ここでバブルティーというミルクティーにタピオカの入ったドリンクをいただきました。 -
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駅を正面に見て左手に北門路二段を進むとバス会社がならんでいます。
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台北まで340元、1200円か。
座席は三列です。 -
明日の朝、なるべく早く乗ることにしよう。
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