2016/12/03 - 2016/12/03
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ベームさん
その1の続きです。
三ノ輪から浅草まで南下しました。新吉原界隈を舞台にした樋口一葉、広津柳郎の小説の世界です。
写真は隅田川、吾妻橋辺りからの風景。
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地図上三ノ輪、浄閑寺から右下へ。今戸神社、待乳山聖天、隅田川は右下地図の外になります。
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浄閑寺、永久寺から南へ、東泉小学校の横を歩きます。
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三ノ輪から竜泉に入ってきました。昔の下谷竜泉町、樋口一葉の世界です。
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小さな公園があります。名付けて一葉記念公園。
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公園の隅に一葉女史たけくらべ記念碑。
歌人佐々木信綱の歌2首が刻まれています。書も佐々木信綱。
そのかみの 美登利信如らもこの園に 来あそぶらむか月しろき夜
美登利、信如は「たけくらべ」の主人公です。その昔美登利、信如らもこの公園に来て遊んだのだろうか、月の白い夜に。 -
佐々木信綱は一葉と同じ年、明治5年生まれです。二人の間にどの程度の交流があったかは分かりません。信綱の一文に「萩の舎」での稽古の事を書いているのがあるので、そこで一葉を見知ったのでしょう。
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もう一つ碑がありました。
一葉碑。
当初菊池寛撰文の碑でしたが戦災で焼失し、それを基に昭和24年小島政二郎の補筆で再建されたもの。
文中、一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く とありますがこれは菊池寛の勘違いと思います。「たけくらべ」はこの後住む本郷丸山福山町で書かれたものです。あるいはここに住んでいるときに「たけくらべ」の題材を得たという意かもしれません。 -
読んでみます。間違っていたらご勘弁。
ここは明治文壇の天才樋口一葉舊居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の龍泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町氏一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和二十年三月この邊一帯焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。 -
有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
菊池寛撰 小島政二郎補並書 昭和二十四年三月
小島政二郎は菊池寛に兄事し、その著「眼中の人」に菊池との交流を詳しく書いています。 -
公園の前に立派な一葉記念館があります。
何十年か前に一度訪れたことがありますが、その時は粗末な木造の建物だった記憶があります。
老朽化により平成18年改築されました。 -
なんだか立派すぎて一葉に似つかわしくありません。
天は一葉に与えるに時をもってせず。一葉が最も欲しかったのは立派な記念館よりも寿命だったでしょう。なぜなら僅か24歳余りの人生でしたから。しかも悪戦苦闘の生活の末ようやく文名を得かかった矢先でしたから。 -
入館券裏面。
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にごりえ展。
ちょうどリニューアル10周年でした。 -
入口。
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当時の竜泉の地図。
1階のみ写真撮影可でした。 -
真ん中上に一葉記念館、真ん中左に赤い字で一葉宅。家の前の通りが大音寺通り、水色の線(おはぐろどぶ)で囲われた所が新吉原の遊郭。全く一葉の家からすぐです。
どうして一葉は本郷から遠いこの地を選んだのか、縁故でもあったのか、は分りません。あちこち貸家を探し、ここが安かったので借りたそうです。 -
記念館の資料を基に一葉の略歴を書いてみます。
一葉の両親(樋口則義、多喜)は甲斐の国、今の甲州市出身。幕末江戸に出て同心株を買い士族になる。維新後東京府の役人になる。
一葉(本名奈津、夏子)はその二女として明治5年,内幸町の東京府庁官舎(今の日比谷シティあたり)で生まれる。利発な子で読書を好み小学校も首席で通したが、女に学問はいらないという母親の強い意向で高等小学校で学歴は終わっている。4歳から9歳まで本郷、東大赤門前の法真寺というお寺の隣に住んでいたころが一葉のもっとも幸福な時代で、一葉はその住まいを「桜木の宿」とよんで懐かしんでいる。 -
父親は一葉の才を惜しみ、中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門させ和歌、書道、古典を学ばせた。
明治21年長兄、明治22年父の死で一葉一家の生活は暗転する。借財を遺した父の死、次兄と母との軋轢で女ながら戸主となった一葉の、母と妹を抱えての苦難の生活が始まる。 -
明治23年18歳の時本郷菊坂の陋屋に母、妹と移って針仕事、洗い張りなどで生計を立てる。
「萩の舎」で学ぶ傍ら小説家を目指し、当時東京朝日新聞専属作家半井桃水(なからいとうすい)の門をたたき教えを乞う。しかし萩の舎で桃水との仲を中傷され師事を止める。
この間「闇櫻」、「五月雨」、「うもれ木」、「雪の日」などを発表。しかし発表の場がしがない同人誌のため稿料は無いに等しいものだった。 -
明治26年7月、生活に行きずまり商売をして金を得んと下谷竜泉町に転居、荒物、駄菓子などを商う店を開く。日記に「筆を算盤に替えて商売をやってみよう」というような一大決心を書いています。
がやはり筆は捨てられず、「琴の音」、「花ごもり」を文学界に発表。星野天知、馬場弧蝶、戸川秋骨、平田禿木ら文学界同人たちとの交流が始まる。
明治27年5月、ここでの商いはうまく行かず、10か月で店をたたみ、本郷丸山福山町に転居、心機一転創作に専念する。
島崎藤村、川上眉山、斉藤緑雨などと交流。ようやく文名が揚り、出版社から執筆依頼が来るようになり、一葉の家は文学界同人たち若い文士の集まるサロンみたいになる。
この写真は5千円札の肖像になったものです。生涯お金とは縁の薄かった一葉、自分がそのお札の顔になったと聞いてさぞかしあの世で驚いたことでしょう。 -
「萩の舎」に通っていたころと思います。
利発で負けん気の強そうな顔です。 -
が、時すでに遅し。長年の労苦の中肺結核が進行しており、明治29年8月、森鴎外の斡旋により名医青山胤通の診察を受けるも命旦夕に迫る、と診断された。
11月23日、24歳6か月をもってこの世を去る。
この丸山福山町の時代が一葉の小説家として花が咲いた時で、代表作とされるものはすべてこの時に書かれている。奇跡の14か月といわれます。
「大つごもり」、「たけくらべ」、「うつせみ」、「にごりえ」、「十三夜」など。 -
葬儀は25日築地本願寺で行われ、墓は本願寺和田堀廟所にある。
森鴎外は葬儀に軍服騎馬姿で参列したいと申し出たが、遺族が大げさすぎると辞退した。故人に対する哀悼の意よりも鴎外の自己顕示の心が見えるようで私にはいやなエピソードです。
母多喜は明治31年、妹くには大正15年に亡くなっている。一葉の日記、随想集、原稿などが多く残っているのは妹くに、斉藤緑雨の努力による。 -
真多呂人形。
中島歌子の「萩の舎」の学習風景。一葉はどこかな。姉弟子に田辺竜子(花圃、後の三宅雪嶺夫人)がいた。
一葉は萩の舎で千蔭流の歌(和歌)、書を学びました。「にごりえ、たけくらべ」など小説が有名ですが、そのまえに一葉は歌人として一流でした。斎藤緑雨は一葉を評し「歌を善くし、文を善くし・・・」と、歌を最初に挙げています。
私は歌のことは分かりませんが、一葉研究家がその佳作としているのを挙げてみます。
をしまれて 散るよしもがな山桜 よしや盛りは長からずとも
おもふこと すこし洩らさん友もがな うかれてみたき朧月夜に
なきよわる 庭の虫のねたえだえに 夜はあけがたが悲しかりけり -
おはぐろどぶ。新吉原の遊郭の周りはどす黒い色のどぶ川でぐるりと囲まれていました。遊女の逃亡を防ぐためだとか。絵の左手に跳ね橋が描かれています。商人など出入りの用のある時のみ架けられたのでしょう。
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大音寺前、茶屋町通りの一葉の住まい。
雪の積もった景色。左から魚屋、酒屋、だがし・あらもの(一葉の店)、人力宿。
通りは上野、三ノ輪方面から吉原に通う遊客の通り道になっていました。
一葉が前を通る人力車の数を数えると、10分間に75台あったそうです。 -
二軒長屋の左一葉の店、隣は人力車の宿でした。
間口3.6m、奥行き10m。五畳、三畳の部屋に土間、板の間、厠、狭い庭。家賃一円五十銭。
一葉は店番をしながら買いに来る花街界隈に育つ子供たちの様子や、洗い張り、仕立物の注文を取りに郭内に入りその風情を見ながらのちに「たけくらべ」に結晶した腹案を温めていたのです。 -
夏の風景。
ところでなぜ一葉は本郷から離れたこの地を選んだのか。とにかく一葉や母、妹は家賃の安い貸家を探した。浅草界隈、牛込、神楽坂も探したがたまたまここに適当な家が見つかったということのようです。
ところが「たけくらべ」の舞台となっているのがこの吉原界隈です。もし一葉一家がこの地に住まなかったら名作「たけくらべ」は生まれなかったかもしれません。日本文学史上幸いなことだったと言えましょうか。 -
左が一葉の店。
だがし あらもの 樋口 と書いた紙が貼ってあります。
店先に並べられた品物は、駄菓子、せんべい、豆、しゃぼん、ぞうり、紙類、ローソク、糸・針、おもちゃなど。なんと侘しいものではありませんか。
これらを仕入れるため市中を歩き回り、その金策のため馴染みの本郷菊坂の質屋伊勢屋の門を潜りました。日記に「今宵はじめて荷をせをふ、中々に重きものなり」。一葉がその小さな体に荷を背負いようやく家に帰ってくる。涙が出るではありませんか。 -
記念館を出てすぐ近くの一葉旧居跡。
明治26年7月、本郷菊坂から移ってきて商いを始めた場所。荒物、駄菓子の店はうまく行かず翌明治27年5月、10か月で店をたたみ前住んでいたの菊坂の近く、本郷丸山福山町に引っ越す。そこが終の棲家となる。 -
10か月の短い期間でしたが、ここでの見聞きしたことが後の「たけくらべ」など名作の材料となりました。
ところで、げすにとって気になるのは一葉は美人だったかということです。
幸田露伴は「あえて醜いといふ程ではないが、さりとて非常な美人ではなかった」。平田禿木「決して綺麗な人ではなかった」。馬場弧蝶「なまめかしいという感じを与える婦人ではなかった。挙措は如何にもしとやかであった」。
文学界の若い同人や川上眉山、斎藤緑雨などが一葉の家によく集まったということは、やはりなにか男を引き付ける何ものかがあったのでしょう。 -
レンガ色のマンションの前に説明版が立っています。
その先、横断歩道がある交差点を左に曲がると一葉記念館。右に曲がると吉原の遊郭跡。
田辺竜子(花圃、萩の舎での一葉の先輩。三宅雪嶺夫人)は「なっちゃん(一葉の本名)は非常に良い素質をもっていたが、それと同量の欠点をもっていた。嫉妬深いこととひねくれていることだった」と評しています。
上流子女の多かった「萩の舎」で貧しかった一葉は負けんものと気張っていたのでしょう。
一葉は身長5尺そこそこ、色白で整った顔立ちだったそうです。母親多喜は結婚前、国で評判の美人でした。 -
当時の大音寺通り、今茶屋町通りは吉原通いの通行でかしましかったそうです。
どう思われますか。私は描かれた肖像画とか、戸川、平田、馬場など文学界の若い同人から慕われていた事などを考えると、一葉は女性として母性愛を感じさせる魅力のある人だったと思いたいです。三宅花圃は歌塾「萩の舎」で一葉の姉弟子でライバルだったので辛口の批評をしたのでは。 -
一葉は「にごりえ」、「たけくらべ」など小説が有名ですが、歌人としても優れていました。歌塾「萩の舎」では師匠中島歌子の助教を務めたほどですから。
一葉研究家の鈴木淳氏が著書の中で佳作として選んだ一葉の和歌を幾つか載させて頂きます。
をしまれて 散るよしもがな山桜 よしや盛りは長からずとも
何となく のどけきもののさびしきは 春暮れ方の雨にぞありける
おもふこと すこし洩らさん友もがな うかれてみたき朧月夜に
なきよわる 庭の虫のねたえだえに 夜はあけがたが悲しかりけり
3番目の歌なんか、やはり一葉も熱い血の通った若い女なんだと思わせますね。
書も千陰流を学び、その流麗な字に驚かされます。一葉は丸山福山町のころ、銘酒屋の酌婦に恋文の代筆を頼まれたそうで、そんな手紙をもらった男に読めたでしょうか。 -
なんの痕跡もない一葉旧居跡から新吉原に行きます。京町1丁目通りの横手から入りました。
夏目漱石ではないが吉原と聞いて少し緊張気味。 -
昔は新吉原という町名でしたが悪いイメージを払しょくするためいまの住居表示では千束3、4丁目です。
吉原は江戸時代、幕府公認の唯一の遊郭で当初は日本橋葭町、いまの人形町辺りにありました。
1657年明暦の大火でここ日本堤に移転させられました。それ以来新吉原と呼ばれます。 -
新吉原。
右上から左下に真ん中を走るのがメインストリート仲之町、それに交差するのが江戸町、揚屋町、角町、京町。右上、仲之町の突き当りに吉原大門と見返り柳。周りをおはぐろどぶが取り囲む(水色の線)。
江戸町には江戸本来の遊女、駿府から徳川についてきた遊女、京町には京都、大阪、奈良からやってきた遊女、など棲み分けがなされていました。 -
明治5年の吉原。ウイキより。
最も格式の高い遊女屋(妓楼)は大籬(おおまがき)と呼ばれ、大文字楼、三浦屋、角海老、稲本楼、品川楼などがありました。 -
明治41年頃の吉原。
山本松谷:新選東京名所図会より。
画面に描かれている人たち。遊廓に遊んで帰る人、これから登楼しようと物色する人、ここで生計を立てている芸人たち。 -
夜の景色はいざ知らず、昼間は殺風景な街です。
明治に入り色町も柳橋、新橋、赤坂などが盛んになり吉原は徐々に寂れていきますが、昭和32年売春禁止法施行により遊郭としての終わりを告げます。
多くの店はソープランドなど風俗店に転身しました。 -
京町通り。
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樋口一葉の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」に描かれている風情はどこにも見当たりません。
「たけくらべ」の冒頭です。
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、・・・・。 -
中央を貫く仲之町通りを右に曲がると吉原神社があります。
明治、大正時代の作家の自伝的作品を読むとたいていの文士、書生は吉原で遊んだようです。森鴎外も経験しています。さすがに夏目漱石は近づかなかったようで、いちど盗品を請け出しにおっかなびっくり近くの日本堤警察に行っただけです。
当時の吉原は性欲のはけ口だけでなく、文士たちにとってはサロン、仕事場として使われました。永井荷風は何日も廓に泊まりこんで作品を書いています。 -
吉原神社。吉原遊郭の鎮守社。
永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和12年6月22日に
「六月以来毎夜吉原にとまり、後朝(きぬぎぬ)のわかれも惜しまず、・・・・」
このあと荷風は三ノ輪の浄閑寺を訪れ、自分が死んだらこの浄閑寺に埋めてくれ、墓石には荷風散人墓の五字だけでよい、とも書いています。希望はかなわず、荷風の墓は雑司ケ谷墓地の永井家の塋域にあります。まさか遺族からすれば吉原の娼婦の墓の隣と言うわけにはいかなかったでしょう。 -
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お穴様。
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仲之町通りの突き当りに台東(もと吉原)病院。
病院も名称変更です。昭和33年の赤線廃止までは遊女たちの検査所でした。悪病(梅毒が主)を防ぐため娼妓の検査は厳しかったようです。一斉検査日の翌日は安全だというので妓楼は賑わったそうです。 -
小さな公園がありました。
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仲之町通りを戻って大門の方へ。
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通りの両側の建物の前には黒い服を着たお兄さんが立っています。うかうか写真も撮れません。そのうちの一人が声を掛けてきました。私はさも用事ありげに難しい顔をしてで無視して通り過ぎました。出勤途上の現代の遊女たちもぼちぼち大門の方からやってきます。
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大門の跡。
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吉原大門、今はありませんが遊郭の正面玄関でした。たとえ大名といえども乗馬は大門までで、槍、刀も茶屋に預けさせられたそうです。門は未明に開けられ夜10時に締められました。
真っ黒な冠木門で鉄鋲を打ち付けた厳めしい門でしたが明治14年鉄門に変ったそうです。関東大震災で罹災しその後再建されませんでした。 -
廓中東雲(かくちゅうしののめ)。歌川広重「名所江戸百景」より。
江戸時代の吉原を描いています。
絵の奥の方、東の空が赤く染まり夜明けを示しています。朝帰りの男たちが冠木門を潜り遊女が見送っている。桜の木が並べられているので頃は3月ですね。 -
大門と土手通りの間の五十間坂、別名衣紋坂。道が曲がっていて日本堤(土手通り)から廓が見えないようになっていました。
両側には五十軒の茶屋がずらりと並んでいました。登楼する客がここで衣紋(衣服)を整えたそうです。 -
かかる場所柄交番は心強い存在です。
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路地風景。
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衣紋坂と土手通りの交差する吉原大門交差点。
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交差点の角に立つ見返り柳。
葉を落した貧相な見返り柳。 -
見返り柳の由来です。勿論何代目かのものです。
こんな川柳もあります。
ふところを見返る朝の柳かな
一夜馴染んだ遊女を想い振り返ると同時に、軽くなった財布を見て多少の後悔の念が萌します。 -
新吉原衣紋坂 見返り柳。
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土手通り/日本堤通り。
昔この辺り隅田川、音無川(山谷堀)がよく氾濫し低湿地帯だった。江戸時代初期幕府は対策として三ノ輪の浄閑寺から浅草の聖天町まで音無川に沿って堤防を築いた。堤防は他にもあり二本あった所から二本の堤→日本堤となったとも。 -
日本堤は浅草から吉原へ通う格好の道筋となった。昭和2年取り壊された跡が今の土手通りです。
浅草方面。 -
歌川広重「名所江戸百景」に描かれている日本堤。
吉原通いの人と駕籠、堤の両側には掛茶屋がずらりと並んでいます。下を流れる山谷堀。分かりにくいですが、画面右端、掛茶屋の先に見返り柳が立っています。その先の家並みが吉原。 -
日本堤1丁目。
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見返り柳の交差点を反対側にわたって少し入ると警視庁第六方面本部というのがあります。どうしてこんな写真を撮ったのか。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で苦沙弥先生の家に泥棒が入る。金目のものは何もない所帯に入るとは間抜けな泥棒です。
盗られたものは奥さんの羽織と帯、主人の足袋一足、以前いた書生から国の土産といって貰った山芋一箱。警察に届け出た。
数日後巡査が来た。泥棒がつかまり山芋はないが他の盗難品が出たから浅草警察署日本堤分署まで受け取りに来い、とのこと。
次に来合わせた迷亭と苦沙弥先生の会話があります。 -
迷「本当に取りに行くかい」
苦「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出ていく」
迷「学校はどうする」 苦「休むさ。学校なんか」 迷「えらい勢いだね。休んでもいいのかい」 苦「僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣はない」・・・・
迷「日本堤分署と云うのはね、君只の所じゃないよ。吉原だよ」 苦「あの遊郭のある吉原か?」 迷「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」とからかう。
(吉原と聞いて苦沙弥先生少々ひるむが)
苦「吉原だろうが、遊郭だろうが、一旦行くと云った以上はきっと行く」と力む。
その日本堤分署のあった場所がここなんです。実際漱石の家は何処に住んでも用心悪く、何度も泥棒に入られています。あるときは春先の寒い時に夜中に泥棒に入られ、衣類一切合財盗られ、漱石と細君寝巻一枚で一日中震えていたそうです。警察からは入る泥棒よりも入られるほうが悪いようにように諭されています。 -
土手通りを南下しました。紙洗橋。
ちなみに漱石はその実生活でも作品の上でも下町にはほとんど縁がありませんでした。東京の実生活での生活圏は幼少時代塩原家に養子に行っていた時浅草に住んだことがある以外は早稲田、牛込、小石川、本郷台地のいわゆる山の手であり、作品で下町が出てくるのはこの吉原日本堤位なものです。それも日本堤警察に行くと言うだけで、そこの描写があるわけではありません。 -
紙洗橋。
山谷堀に架かっていた九つの橋の一つで、今は山谷堀は埋め立てられていて、堀も橋も在りません。昔この辺りに浅草紙の生産者がいて、原料の紙くずを山谷堀の水に晒していたことから付いた名前。
ああ一つ訂正。漱石青年時代に一度下町に住んでいたことがありました。19歳から20歳にかけて大学予備門時代に1年ほど本所の江東義塾で英語の教師をしており、その間その寮に中村是公と二人で起居していたことがあります。 -
土手通りから一本東に入り吉原大門から待乳山聖天にかけて山谷堀跡は公園になっています。
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山谷堀公園。
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山谷堀公園から見える押上のタワー、良い写真と自賛。
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吉野橋跡。
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山谷堀。
石神井川から分水した音無川が三ノ輪から隅田川に流れていて、吉原大門辺りから隅田川まで山谷の近くを流れていたので山谷堀といいました。
吉原に通うのに隅田川から猪牙舟(ちょきぶね)に乗っていくのが粋とされたものです。
1975年すべて埋め立てられました。 -
江戸、文政時代(1830年頃)の古地図です。
右に隅田川。一番北の橋は千住大橋。
地図上方、左上から右下に斜めに真っすぐ通っているのが日本堤と山谷堀。堀の左上が三ノ輪、堀が右下に突き当たった所、金龍山とあるのが待乳山聖天。
日本堤の左、おはぐろどぶに囲われて四角い新吉原。下方に浅草寺があります。
これで見ると新吉原は周りを田んぼで囲われていて、吉原大門に行くには日本堤を歩くか山谷堀を船で行くかしかありません。 -
山谷堀から少しそれて今戸神社に行きました。
場所が分からなく通りすがりの人に尋ねたらその人も知らなく、iPhoneで調べたり他の人に訊いてくれたりして教えてくれました。下町の人は親切です。 -
今戸神社。
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今戸神社。
1063年、源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡を当地に勧請し創建。 -
浅草七福神の福禄寿です。
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イザナギノミコト、イザナミノミコトを祭神とするため縁結びの神社として婚活のパワースポットとしてとみに人気が揚っているようです
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本殿は昭和46年の建築。
願掛けの人が絶えません。 -
本殿に鎮座するのは大きな夫婦の招き猫です。
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幕末の志士、新選組の沖田総司は此の神社に住む医者に看病されていたそうです。
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今戸焼は1570年頃からこの地一帯で作られ始めました。
素焼、楽焼の土人形、茶道具、植木鉢、瓦など。 -
歌川広重「隅田川橋場の渡しかわら窯」。
左下に今戸焼の窯が見えます。都鳥(ユリカモメ)が川面に漂い橋場の渡しが行きます。遠くに筑波の山。 -
招き猫の発祥の地として宣伝していますが、確たる証拠は無いそうです。
一説には:江戸時代初期、新吉原三浦屋に嬌名を詠われた薄墨太夫と云う花魁がいた。一匹の三毛猫を愛玩していたが、あるときその猫が花魁を狙う大蛇に喰らいつき身代わりとなって死んだ。太夫は身も世もなく嘆き吉原近くの西方寺(移転して今は巣鴨)に猫塚を建てて弔いました。太夫に入れあげていた客の一人がこれを憐み伽羅の木の名木に招き猫を彫らせ太夫に贈った。 -
境内のあちこちに招き猫の焼き物が置かれています。
薄墨太夫大いに喜び、招き猫を大事にすること生きた猫以上であった。この話が江戸中に広まり太夫の盛名と招き猫崇拝熱はますます上がったという。太夫の死後招き猫は西芳寺に納められたが火事で燃えてしまったそうです。
もっとも薄墨太夫の招き猫は左手を耳の上に持って行っていたそうですが、今戸神社の猫は右手を挙げていますからこの説の猫とは違うかもしれません。 -
別説に:浅草花川戸にしわくちゃ婆さんが一匹の古猫と住んでいた。駄菓子を商っていたが生計に詰まりとうとう因果を含めて猫を手放した。その夜猫が右手を耳の上に挙げた姿で婆さんの夢枕に現われ、「この姿を作って神棚に祀れば運が向いてくる」と告げた。婆さんそのとおり木彫りの招き猫を作り朝夕拝むと運が向いてきて商売繁盛となった。
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この噂が広まり、あちこちからちょっと貸してくれと招き猫は引っ張りだこになった。商才に富む婆さん、それではと今戸焼きで招き猫を大量に作り、浅草寺の境内で売り出し大儲けをしたという。
今戸神社の招き猫は右手を挙げているのでこの説に近いようです。薄墨太夫説のほうが艶があっていいですが、商売繁盛にはしわくちゃ婆さん説があうようです。いずれにしてもこの浅草界隈に由来する事には変わりません。 -
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此の神社の絵馬は、縁と円のごろ合わせから丸い形です。
婚活の祈願、成就お礼。 -
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あちこち絵馬だらけ、商売繁盛で結構。
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御輿庫。
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裏口。
なんだか商売気あふれる神社でした。 -
そばに都立浅草高校があります。
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山谷堀公園に戻りました。聖天橋。
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昔の写真、山谷堀にかかる今戸橋。高い所は待乳山聖天。
ウイキより。
橋の上を通る人より橋の下を通る人(猪牙船に乗って吉原に行く人)の方が多いなんて川柳に詠われています。
ここら辺は広津柳浪とか永井荷風の小説にたびたび出てきます。 -
山谷堀公園。
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いい眺めです。
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この近くで池波正太郎が生まれています。大正12年。
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本龍院待乳山聖天(まつちやましょうでん)にやってきました。
浅草寺の支院です。 -
毎年1月7日に行われる大根祭り。
大根をお供えします。お供えされた大根をふろふき大根にして食べます。 -
推古天皇595年頃の創建。
本尊は十一面観音菩薩の化身大聖歓喜天。浅草七福神の毘沙門天。 -
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待乳山と名が付くように、隅田川べりの小高い地で江戸時代景勝の地でした。
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当時の景色。
海抜10mにも足らないこの場所でも、昔は隅田川の対岸三囲、牛島神社から長命寺、白鬚神社、木母寺にかけての墨堤の名所が見晴らせました。 -
巾着の形をした香炉です。
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本殿は戦災で焼失し、昭和36年の再建。
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本殿。
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当山の紋章は二股大根と巾着です。
上二股大根:無病息災、夫婦和合、子孫繁栄。なんとなく艶めかしいではありませんか。私だけかな?
下巾着:商売繁盛。大根の上に鎮座している砂金袋です。
を意味します。 -
絵馬も大根と巾着です。
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浴油祈祷。
聖天様を供養する最高の祈祷方法だそうです。 -
銅造宝篋印塔(どうぞうほうきょういんとう)。
1781年、蔵前の札差の奉納によるもので、銅造りのものは全国でも珍しいそうです。 -
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出世観音像。
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学問、立身、芸能、商売繁盛。
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花柳小菊が献灯しています。
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トーキー渡来記。
トーキーは大正14年、皆川芳造と云う人が日本に持ち込んだそうです。なんで待乳山聖天にあるのか分かりません。 -
築地塀。
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待乳山聖天から降りてくると隅田公園です。
目の前にスカイツリーが聳えています。 -
隅田川竹屋の渡しがここら辺にありました。
向うは言問橋。 -
スカイツリーと言問橋。
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上手には桜橋。
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公園は家族連れ、二人連れで大変な賑わいでした。
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言問橋。下手の方から。
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対岸に源森川水門。北十間川が隅田川に流れ込んでいます。
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首都高速6号向島線。
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アサビビールが見えてきました。
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古い社寺もいいですがこのような近代的建物も機能美があって美しいです。
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左墨田区役所、右アサヒビール。
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吾妻橋に近づくとスカイツリーがビルの間に移動しました。
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隅田川の遊覧船。
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吾妻橋。
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吾妻橋橋詰。
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浅草松屋。
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神谷バーのネオンが点いています。
名物のデンキブラン、以前飲んだことがありますが味は忘れた。 -
蜂ブドー酒の発売元神谷酒造の経営で、創業は明治13年、明治45年に神谷バーに名称変更。文学作品にも登場する安酒場だった。ビルは対象10年築。
デンキブランは合成ブランデーで、明治中頃電気が一番ハイカラだったのでこの名にしたという。 -
浅草寺にも行きたかったのですが日も暮れかかり体力も考えこれで終わります。
地下鉄銀座線で上野に出て東京上野ラインで帰りました。
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この旅行記へのコメント (5)
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- 万歩計さん 2021/06/25 15:20:57
- 「天切り松」の世界
- ベームさん、こんにちは。
東京文学散歩、いいですね。私は20年前に東京で単身赴任を経験し、休日はよく東京の町を歩きました。その頃は文学作品もあまり読んでいなかったため、ただ漫然と歩いていました。現在は本を読む機会が増え、ベームさんの旅行記で疑似文学散歩させていただいてます。「この通りは見覚えのある。こんな舞台だったのか…」、てな具合に。
私の好きな作家の一人が浅田次郎さんです。その中でも特にお気に入りが「天切り松、闇かたり」シリーズ。登場人物の粋でいなせなキャラクター、歯切れのいい江戸っ子啖呵、泣かせます。笑わせます。まさに歌舞伎を見るよう。この吉原や浅草界隈はよく舞台に登場します。
万歩計
- ベームさん からの返信 2021/06/25 20:04:33
- Re: 「天切り松」の世界
- 万歩計さん、
メッセージ有難うございます。また度々のご訪問も併せてお礼申し上げます。
私の文学散歩、楽しんでいただけたとしたら嬉しいです。私も万歩計さんの北東ドイツ旅楽しみにしています。今は行かなくなってしまったかっての旅行先が次々と出てきて、なつかしく拝見しています。
浅田次郎さんの書は読む機会を持ちませんが、面白そうですね。池波正太郎さん風なのですか。私は目下老い先短いと思い、慌てて日本の歴史にかんする本とか明治大正期の小説を読み直しています。
ベーム
- 万歩計さん からの返信 2021/06/25 22:24:39
- Re: 「天切り松」の世界
- 池波正太郎さんとは雰囲気がずいぶん違います。現代と大正時代を行き来し、歌舞伎「白浪五人男」を観るような格好良さです。
私は何気なく手にして、余りの面白さに一気に読み終え、以降、浅田さんの作品は殆ど読みました。
万歩計
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- frau.himmelさん 2017/01/09 11:11:25
- いい旅行記ですね
- ベームさん、こんにちは。
いい旅行記ですね〜。
東京の下町あたりをぶらぶらするのも素敵!
街角に何気なく立っている銘板や歴史的立て札を見たら立ち止まらずにはいられない・・・。
下町にはいろんな物があり、文豪たちの生き様や歴史を振り返る・・・、ベームさんらしいと思います。
私も、週に2回、神田秋葉原に出ていまして上野・浅草は近いのです。
今は寒いけど、もう少し暖かくなったら、一部分でもいいから少しずつ、ベームさんの足跡を辿ってみたいと思いました。
でも昔の遊郭あたりでは黒服には気を付けなければいけませんね(笑)。
himmel
- ベームさん からの返信 2017/01/09 19:51:47
- RE: いい旅行記ですね
- himmelさん、
有難うございます。
海外に行けなくなった時のことを考えてぼちぼち国内の旅行記(?)に手を染め始めました。かといって懐具合も有りそうそう日本中を飛び回れないので、当面最も金のかからない自分の足を酷使して好きな文学探訪をしています。でもこういう記録にまとめる為に文献を調べると忘れてしまったことや中途半端な知識を再確認できてとても勉強になります。
ただ東京往復が結構しんどいですね。ヨーロッパには行っても東京に行くのは億劫です。
himmelさんは今年はどうされますか。私は迷っていましたが燃油サーチャージが復活するというので昨年末に思い切って飛行機を予約しました。これからプラン作りです。パリを中心に美術館巡りと幾つか地方に足を延ばそうかと思っています。
ベーム
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