2016/12/03 - 2016/12/03
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ベームさん
初冬の一日、晴で温かいという天気予報にうながされて出かけました。
今日は台東区、正岡子規の住まいし生を終えた根岸の里から樋口一葉が短期間つましい商いをした竜泉、千束さらに今戸、浅草と周ってみようと思います。
写真は鷲(おおとり)神社の熊手。
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その1は地図左下鶯谷駅から右上三ノ輪の浄閑寺、永久寺まで。
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今日のスタートは鶯谷駅です。
一帯は江戸時代から呉竹の根岸の里といわれ、上野の山陰に位置する閑静な土地でした。江戸市内の金持ちがこの地に大人の隠れ家風に別荘(寮と称した)、隠居所、妾宅を設け、文人粋人も多く住んだ。「○○や 根岸の里のわび住まい」なんていう俳句の常套句も生まれました。
明治20年代には饗庭篁村、森田思軒、須藤南翠、幸田露伴などこの地に住む文人たちが根岸派、根岸党と称しもっぱら趣味遊興を楽しんでいました。 -
まず子規庵を目指します。
安っぽいホテル街を通り抜けないといけません。今はこんな所ですけど昔は鶯の名所で鶯谷の名が付きました。根岸の鶯は東叡山輪王寺宮が京都から取寄せて放したもので、江戸の鶯の足は黒いが京都の鶯は紅か灰色で容子も良く、さえずりも優れていたそうです。初音の里とも言います。
正岡子規の句に「雀より 鶯多き 根岸哉」、「鶯の 覚束なくも 初音哉」 と云うのがあります。
側を寛永寺坂の大きな寛永寺橋が跨いでいます。 -
狭い路地の先に子規庵がありました。鶯谷の駅からほんの5分ほど。
東京都指定史跡。 -
正岡子規。
本名常規(つねのり)、幼名升(のぼる)。
雅号:子規、竹の里人、獺祭書屋(だっさいしょおく)主人。
写真は高浜虚子が初めて子規を訪ねたときのことを書いています。
高浜虚子は正岡子規が最も信頼した弟子となりました。 -
正岡子規(1867年/慶応3年~1902年/明治35年)は、明治25年ここに母と妹とを松山から呼び寄せ、終の棲家となった所です。35歳で没。
この家で子規は重い病の中多くの門人を育て俳句、短歌の革新にその命を懸けたのでした。
建物は先の大戦で焼失し、戦後元の間取り通りに再建されたものだそうです。 -
明治16年、政治家または小説家を目指して郷里松山から上京し、大学予備門、東京大学に進む。本郷炭団坂上の旧松山藩主の子弟寮「常盤会」にも一時寄宿。
幸田露伴に小説の才の無いことを指摘されたり、大学の進級試験にしくじったりで東大を中退、明治25年陸羯南(くがかつなん)の日本新聞社に入る。陸は子規の終生庇護者だった。この頃から子規は俳句に没頭するようになる。 -
明治30年、松山で盟友柳原極堂により俳句雑誌「ホトトギス」が創刊され、子規は俳句革新運動を起こし、次に明治31年「歌よみに与ふる書」を著わし根岸短歌会を催し短歌の革新運動に進みました。
子規の下に集まった俳人には高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、坂本四方太など、歌人には伊藤左千夫、長塚節、岡麓、香取秀真、平福百穂など。
子規と夏目漱石は大学予備門時代に知り合い深く信頼し合った。漱石が俳句に熱中しはじめたのは子規の影響によるもので、漱石の松山中学教師時代、一時子規は漱石の下宿愚陀仏庵に同宿したことがある。だいたいにおいて子規が兄貴風を吹かしていたそうです。漱石が子規の死を知ったのはロンドン留学中だった。 -
21歳(明治21年)頃から子規は肺から血を吐くようになる。肺結核です。喀血はその後断続的に続き、明治28年4月から5月にかけて日清戦争従軍記者として中国に渡ったことでそれは悪化した。帰還した子規は2か月間神戸の結核療養所に入院することになる。
明治29年頃から背中、腰部に痛みを覚え歩行困難となり、結核から発展した脊椎カリエスと診断されこれが命取りの病となる。病は進行し死までの7年間ほとんど寝たきりの闘病生活でした。母と妹が看病します。
肉体的苦しみは酷いものだったらしく、その闘病生活を「病牀六尺」、「仰臥漫録」に遺しています。
この日清戦争従軍中に子規は森鷗外と会っています。鴎外は第2軍軍医部長として出征していたのです。 -
驚くべきは子規の精神力の強靭さです。肉体的にほぼ廃人の体で子規は俳句、短歌の革新を図り、多くの門人を育てたのです。この精神力の強さが発病後7年間も命を持たせ、死の間際まで頭脳は明晰だったそうです。
明治35年9月18日、病あらたまり子規は次の句を残します。
糸瓜(へちま)咲いて 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
をととひの へちまの水も 取らざりき
翌19日子規は母、妹、高浜虚子らが隣室で寝ている間に息を引き取りました。満で言えば34歳です。 -
棺は21日、門人たちに担がれて田端の大龍寺に葬られました。
子規の家は谷中墓地のすぐ裏でしたが、花見の酔客にここが子規の墓かと囃されることを嫌った子規の遺志で静かな田端の寺にしたのです。
室内の写真は不可ですが庭だけ写真に撮っても良いとのことです。 -
庭には子規の好んだ草木が雑然と植えられています。
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闘病中の歌にはこんなものも有ります。
縁先に 玉巻く芭蕉玉解けて 五尺のみどり 手水鉢を覆う
くれなゐの 二尺のびたる薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
いちはつの 花咲きいでて我目には 今年ばかりの 春ゆかんとす
寝たきりの子規の目に入るものは庭の風景だけでした。 -
糸瓜が棚からぶら下がっています。子規は病床からこの糸瓜を眺めていたのでしょう。
ガラス戸の奥が子規の伏せっていた六畳間です。
障子明けよ 上野の雪を 一目見ん
雪の日朝、看病している妹の律に命じているのでしょう。伏せっている子規から庭の向こうにかろうじて上野の山の一部、多分谷中辺りが見えたのでしょう。 -
ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな
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縁先。
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子規も使ったであろう井戸。
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井戸の跡。
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三段に 雲 南北す 今朝の秋
これは子規庵を戦後ずっと守ってきた子規の弟子寒川鼠骨の句です。 -
明治32年12月、蕪村忌に庭で写した写真。
真ん中、床几に寄りかかっているのが子規。 -
子規庵の向かいに書家、画家の中村不折の旧居、現書道博物館があります。
不折は子規をしたってここに移り住んだそうです。 -
慶應2年~昭和18年。
森鴎外は遺言で自分の墓碑銘「森林太郎」の字を不折に指名し、夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵は不折が書いています。漱石はその本がよく売れたのは不折の挿絵のおかげだと感謝してます。島崎藤村の「若菜集」の挿絵も不折です。
陸羯南(くがかつなん)の日本新聞社の挿絵画家時代に正岡子規と知り合い親交を結んでいます。 -
「海岸の三人娘」:昭和14年。
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新宿中村屋の文字は不折の字です。
伊藤左千夫の墓の字も不折だったかな。 -
書道博物館を裏の方に回り込むとねぎし三平堂があります。
落語家初代林家三平の住居跡で記念館になっています。 -
三平の平の字が笑っています。
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その界隈。
竹の里と言われた風情が少しでも残っていないかと歩きました。 -
襖の引手を作っている工房です。
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襖引手資料館になっています。
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三平堂を先へ行くと御隠殿跡というプレートがある一角があります。
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根岸薬師寺/御隠殿跡。
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目の病に霊験あらたかな薬師堂。
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史跡御隠殿址。天台座主、東叡山寛永寺住職輪王寺宮の別院「御隠殿」があった所。
1868年の彰義隊の上野戦争の際焼失しました。
谷中霊園から根岸に抜ける御隠殿坂と云うのがありますが、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を行き来するのに造らせた道だそうです。 -
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近くに豆腐料理で有名な「笹の雪」があります。
文人墨客にも結構利用されたようですが、たかが豆腐に高い金を払う気がしれません。
今は堂々たる構えですが、昔は吉原や入谷の朝顔市帰りに、豆腐と焼海苔で朝飯を食わした田舎風の店だったそうです。 -
豆腐にも色々謂れを附けると付加価値がつきよい値段になるものですね。
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正岡子規の句碑がありました。
水無月や 根岸涼しき 篠の雪
子規直筆。 -
言問通りを東に歩くと昭和通りと交差する手前に入谷鬼子母神があります。
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寺名は眞源寺と云うようです。
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法華宗の寺で鬼子母神を祀っている所から入谷鬼子母神と呼ばれます。江戸初期の開基。
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下谷七福神の一つ、福禄寿。
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江戸時代後期にこの地に始まった朝顔の栽培。境内で七夕の頃開かれる朝顔市は夏の風物として有名です。
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大田南畝の狂歌「おそれいりやの鬼子母神」というセリフは私も勝負事で負けるとよく口から出ました。
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入谷から 出る朝顔の 車哉 子規
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鬼子母神の塀。
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言問通りと昭和通りが交差する入谷の交差点。
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昭和通りを北上しました。
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途中で右に入ると正覚寺。
ここ辺りで鷲神社の場所を訪ねました。ここをまっすぐ行って約350m、遠いですよ、と教えてくれる。
私にとってそれくらい物の数ではありません。この時点ではまだまだ元気です。 -
真っすぐ歩いて国際通りに突き当たると鷲神社の鳥居が見えました。
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鷲(おおとり、わし)神社。
一般に「おとりさま」といわれ、11月の酉の日に開かれる酉の市が有名です。
昔日本武尊が東夷征伐の折ここに戦勝を祈願し、勝った帰途お礼参りに立ち寄り武具の熊手を寄進した日が11月の酉の日だったので、それ以来その日を祭礼の日としたそうです。 -
酉の市は江戸時代中ごろからあるようで、特に商売人が福を掻き込もうと商売繁盛のご利益のある縁起物の熊手を買い求めに押し寄せます。
11月の酉の日は年により2回、3回あり、その都度1の酉、2の酉、3の酉が開かれます。3の酉まである年は火事が多いなどと云われています。 -
福をかき込む大熊手。
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縁起熊手。
取り付けられているのは、大判小判、鶴亀、恵比寿に大黒、打ち出の小槌、鯛に福俵、およそ思いつく縁起物。これでもかと言うように人間の欲を煽り立てています。今はこれを作るメーカーがあるのかどうか知りませんが、昔は裏長屋の住民の内職でした。 -
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極めて無味乾燥なコンクリート造りの社殿です。
普通神社の持つ荘厳さはこれっぽっちもありません。金儲け一途の神様です。 -
社殿。
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商売繁盛、営業隆昌。
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社殿の真ん中に「なでおかめ」の面がでんと鎮座しています。
かおを撫でるといろんなご利益があります。
おでこを撫でると賢くなる。鼻を撫でると金運がつく。右の頬は恋愛成就、左の頬は健康になる、といった按配。
鼻と右の頬に人気があるようです。 -
酉の市の風景は文学作品にもよく取り上げられています。
雑閙(ざったう、雑踏)や 熊手押あふ 酉の市 子規 -
樋口一葉文学碑。
鷲神社、酉の市は一葉の「たけくらべ」の舞台でもあります。
この碑にはその一節が刻まれていました。
此年三の酉まで有りて、・・・前後の上天気に大鳥神社の賑ひ凄まじく、・・・絃歌の声のさまざまに、沸き来るやうな面白さは、大方の人思ひ出でて、忘れぬ物におぼすも有るべし。 -
碑文の下は画家木村荘八作、酉の市の銅版画です。
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樋口一葉玉梓(たまずさ、手紙)之碑。
文学の師と慕う半井桃水あての書簡です。
上野も澄田川も花は此の頃と承り申候・・・ -
玉梓之碑建立の次第。
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塀際に並んで立つ子規と一葉の碑。
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鷲神社から国際通りを少し行くと西徳寺。
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第17代中村勘三郎の墓があるようです。
明治42~昭和63年。 -
西徳寺。
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その北隣にある大音寺。
一葉の「たけくらべ」の信如の寺、龍華寺のモデルとされます。
この寺の名からこの辺り一帯を大音寺前といいいました。 -
子育て地蔵尊。
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大音寺本堂。
なにも有りません。龍華寺のモデルなら宣伝しそうですが何もありません。 -
大音寺前の国際通り。三ノ輪方面。
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昼になりました。ちょっと横丁に入って中華屋でチャーハンを食べました。ご飯に火がよく通っていておいしかったです。
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その並びに最上稲荷。
ここは竜泉1丁目です。近くに樋口一葉旧居跡がありますが後回し。 -
その向かいに正宝院飛不動があります。
創建1530年。江戸時代前からある東京では古い寺です。 -
昔この寺の住職が大和国大峰山に修行に行ってた時、一夜にしてこの地に飛び帰ったことから飛不動と云われるようになったそうです。
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短い参道。
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飛不動。
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沢山ある絵馬を見ると、
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その名からヒコーキで勤務する人の信心が篤いのだ。
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憧れのスッチー。
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空に関する願い事が多いようです。飛不動様さまですね。
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お札も航空安全、飛行安泰が幅を利かしています。
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昭和通り、国際通りの終点三ノ輪にやって来ました。
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その手前に千束稲荷神社があります。国際通りからちょっと西に入った所です。
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竜泉寺町の氏神です。
4代将軍家綱の時代の創建。 -
樋口一葉の「たけくらべ」にも登場しています。
八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓内までも入込まんづ勢ひ・・・
廓内(なか)とは新吉原の遊郭。 -
一葉の胸像と碑文がありました。
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一葉の日記にも祭りの様子が描かれています。
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一葉の手跡。
明日は鎮守なる千束神社の大祭なり 今歳は殊ににぎはしく山車などをも引出るとて 人々さわぐ 樋口夏
夏は一葉の本名。 -
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昭和通りの終点三ノ輪辺りはややこしいです。
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常磐線のガードの手前まで来ました。
以前石神井方面から音無川が流れてきて浄閑寺のそばを通り、山谷堀をへて隅田川に注いでいました。音無川にそって三ノ輪から浅草聖天町まで日本堤という土手が造られ、新吉原への通い道でした。 -
表通りから少し入った所に浄閑寺、通称投込寺があります。
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浄閑寺/投込寺。
新吉原の遊女が死んだとき投込み同然にここに葬られた所からこの名が付きました。その数およそ2万人といわれます。 -
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門を入ってすぐ左に書家萩原秋巌の墓。
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小さい境内。
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この先が墓地です。
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本堂の裏に回ると新吉原総霊塔があります。葬られた遊女の霊を祀る無縁墓です。
新しい花が活けられていました。今は吉原の遊郭も無いのにどのような人が供えるのでしょう。 -
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台座には花又花酔の「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の句が彫りこまれています。
苦界(くがい)とは遊女の境遇のことです。 -
その作「すみだ川」や「夢の女」などで度々遊女の世界を描いた永井荷風の大きな詩碑が新吉原総霊塔の前に建っています。
遊女を詠った詩ではありませんが震災を経て失われゆく明治の残像を胸中に抱く荷風の真情が吐露されています。
「明治の児」、「明治の子」と改題され最後に「震災」と題して発表されました。 -
われは明治の児ならずや
團菊:9世市川団十郎、5世尾上菊五郎。
櫻痴:福地櫻痴。
一葉:樋口一葉。
紅葉:尾崎紅葉。
緑雨:斎藤緑雨。 -
われは明治の児なりけり
圓朝:三遊亭円朝。
紫蝶:柳家紫朝。
柳村:上田敏。
鴎外漁史:森鴎外。 -
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
ややアナクロニズム的ですが私には共感できます。 -
詩碑建立の趣意書。
荷風死去4周年の命日に谷崎潤一郎を中心とした世話人により建てられました。
荷風は自分の墓をこの浄閑寺、遊女の墓のそばにに建てるよう望んでいましたが叶わず、雑司ヶ谷霊園の永井家の墓に眠っています。父や兄弟と対立し、芸者と遊んでいて父の死に目にも会えなかった荷風、その永井家の墓地に入っていてはさぞ寝心地悪いでしょう。 -
荷風筆塚。荷風の歯が納められています。
荷風の日記にこう書いています。
「余死するの時、後人もし余が墓など建てんと思わば、この浄閑寺の塋域(えいいき)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」
残念ながら荷風の墓は雑司ケ谷墓地の永井家代々の塋域にあり、歯だけが荷風の遺志どおりになりました。
荷風は良家の子女よりも苦界で精一杯働く卑しい女に人間の真心を見ていました。 -
ひまわり地蔵尊。
山谷のドヤ街で一生を終えた労働者を供養する地蔵尊です。 -
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この辺りから音無川を隅田川に下る途中に山谷があります。
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境内。
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三ノ輪界隈。
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浄閑寺のすぐ近くに永久寺目黄不動がありました。
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江戸五色不動(目白、目黒、目赤、目青、目黄)の一つです。
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これから南下し竜泉の樋口一葉記念館に向かいますがそれはその2にいたします。
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