
2016/11/17 - 2016/11/17
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montsaintmichelさん
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天台宗の別格本山 書写山圓教寺(えんぎょうじ)は、姫路城の西北約6kmに位置し、夢前川(ゆめさきがわ)と菅生川(すごうがわ)に挟まれて南北に伸びる山地の南端、海抜371mの古来祖霊の宿る山上に建てられた古刹です。平安中期に建立された比叡山や大山と共に天台宗三大道場と称された巨刹のひとつであり、西国三十三観音霊場第二十七番札所かつ最大規模の霊場としても知られています。境内には8件13棟の国指定重要文化財などが点在し、今も手つかずの豊かな自然が残されています。
創建は966年(康保3年)に遡り、性空(しょうくう)上人によって開山されています。現在の住職は140世と言うので吃驚ポンです。乱世の時代に翻弄されながらも、千年の法灯を守り続けた僧侶たち。その静謐な霊域に佇む荘厳な伽藍は、今の世に生きる人々をも魅了してやみません。そんな心洗われる祈りの聖地を訪ねてみました。
国史跡でもある圓教寺は、西の比叡山と称されるほど寺格は高く、京都から遠いにも拘わらず、皇族や貴族の信仰が篤く、訪れる天皇や法皇も多かったと言われています。しかし1398年から明治維新までは女人禁制の山岳寺院でした。山上は三つの谷に分かれ、山門から十妙院付近までが「東谷」、標高300mの摩尼殿付近は「中谷」、大講堂・食堂・常行堂といった「三之堂」から開山堂のある「奥の院」までは「西谷」と呼ばれています。
また、圓教寺は武蔵坊弁慶の修行の場だったとの伝説もあり、羽柴秀吉の播磨攻めの折に黒田官兵衛の勧めで本陣を置いたという歴史の舞台でもあります。また、書写山麓にある坂本城は足利尊氏と新田義貞、楠正成の戦いの舞台でもあります。
アクセスは、姫路市が運営する「書写山ロープウェイ」があり、播磨灘を遠望しながら、約4分の空中散歩で山上駅(標高250m)に到着します。ロープウェイを降りれば、そこには深山幽谷の世界が広がり、漂う空気には凛とした厳かなものが感じられます。姫路城とセットで観光するのがお勧めです。
境内マップです。
http://www.shosha.or.jp/map.cgi
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
-
書写山ロープウェイ
姫路城の桜門橋の先にある神姫バスの停留所「大手門通り」から8番線「書写山ロープウェイ行」に乗車し、30分ほどで到着です。
書写山ロープウェイとセットの割引チケットは姫路駅(北口)となっていますが、途中からの乗車も可能です。
割引チケットについては次のサイトを参照してください。
http://www.mt-shosha.info/category/ticket/index.html -
書写山ロープウェイ
書写山は車で登るルートはなく、麓からは徒歩かロープウェイで登ることになります。書写山ロープウェイは、以前は姫路市交通局の運行でしたが、現在は神姫バスに運行が委託されています。
高低差:210.87m
所要時間:3分50秒
最大乗車人員:71名
往復:900円
毎日8時30分以降、毎時0分、15分、30分、45分に出発しますが、混雑している場合は臨時便が増発されます。
2基のゴンドラは、各々姫路のキャラクター「しろまるひめ」あるいは官兵衛イメージキャラクター「かんべえくん」が描かれています。 -
書写山ロープウェイ
僅か4分弱ですが、空中散歩が愉しめます。
書写山の斜面も紅葉が進んできています。
兵庫県のレッドデータブックで、「貴重な自然景観」に挙げられているこの山は、緑が濃く、季節毎に美しい姿を見せてくれます。 -
書写山ロープウェイ
「山上駅」が見えてきました。
右側にある建物は展望台です。 -
書写山ロープウェイ
日本で3基目の採用となった「はね上げ式桟橋」が特徴です。ゴンドラが到着すると桟橋が自動的に降りて両側からゴンドラを挟み込んで固定します。こうすることゴンドラ到着時にプラットホームにぶつかることがなく、乗降の際には揺れないため安全に乗降できます。
桟橋が上がるまでは全く揺れないのでゴンドラに乗っているという感じがしませんが、桟橋が上がってゴンドラが開放される時のフワ~っとした感覚が何とも言えません。 -
境内マップです。
http://www.shosha.or.jp/map.cgi -
参道
ロープウェイを降りた先に圓教寺の志納所があります。
拝観だけなら500円ですが、摩尼殿までの送迎ミニバス料込みだと1000円になります。 -
参道
美しいグラデーションの彩でお出迎えです。 -
参道
蒼い空に紅葉が映えます。 -
慈悲(こころ)の鐘
志納所から歩き出してすぐの所にあります。この手前で、送迎ミニバスの林道ルートと山越えの一般参道に分岐しています。バスルートはバス専用となっていますが、歩くこともできます。実際、帰路は十妙院の所からこの林道に入って降りてきました。アップダウンがない分、楽です。
梵鐘は鎌倉時代初期の形式を模したもので、1992年に鋳造されたものです。ここの鐘は時報のためのものではなく、世界平和祈願が目的のため、お布施をすれば誰でも何時でも撞くことができます。
鐘撞堂は本瓦葺入母屋造りで外壁はなく、12本の柱が屋根と梵鐘を支えています。 -
西国三十三箇所観音霊場第二十七番札所 書写山 圓教寺
慈悲の鐘の辺りから山道の左右に西国三十三観音像のレプリカや里道標が並び、それらに見守られながら坂道を登っていきます。この「西国三十三観音道」で一つずつ手を合わせれば、霊場巡りのご利益も期待できます。
こちらは摩尼殿に祀られている秘仏の本尊 六臂如意輪観世音菩薩の分身となるブロンズ像です。半跏思惟で頬に指先を当てて片膝を立てて座る六臂(6本の腕)の像で、2本の手で尊名の由来となる如意宝珠と法輪を持っています。 -
西国三十三箇所観音霊場第二番札所 紀三井山金剛宝寺護国院
和歌山県和歌山市の名草山の中腹にある紀三井寺は、770年、唐僧 為光上人によって開基されました。秘仏の本尊 十一面観世音菩薩立像は、為光上人自ら一刀三札のもとに刻んだもので、それを堂宇に安置したことが紀三井寺の起こりとされています。
どっしりとした威厳のある体躯をなされ、顔が大きく、ズングリとした雰囲気です。白鳳時代の小振りの金銅仏をそのまま大きくした感があり、顔立ちはやや男性的で、全身から力強さが漲っています。 -
参道(東坂)
近畿自然歩道の一部でもある参道は、木々から発するマイナスイオンが心地よさを誘います。
鬱蒼と茂る樹木が覆う小暗い参道を歩も軽く進むと、忽然とこうした風景が目の前に飛び込んできます。 -
西国三十三箇所観音霊場第三番札所 粉河寺
和歌山県紀の川市粉河にある天台系の粉河寺の本尊 千手千眼観音菩薩です。
紀伊国の猟師、大伴孔子古(おおとものくじこ)が770(宝亀元)年のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけ、そこに小さな草庵を結んだのが粉河寺の起こりです。
本尊 千手千眼観音菩薩は絶対秘仏とされていましたが、2008年に西国巡礼の中興の祖である花山法皇の一千年御忌に当たって217年ぶりに開扉されました。本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合もありますが、粉河寺ではその「お前立ち」像さえも秘仏です。
このブロンズ像は2008年以前の制作のようですが、果たして何をモデルに制作されたものなのか???
ネット画像と比べると雰囲気が異なるような気がします。
https://twitter.com/butsuzobot/status/540517848653647872/photo/1 -
西国三十三箇所観音霊場第五番札所 紫雲山 葛井寺
大阪府藤井寺市にある紫雲山 葛井寺の十一面千手千眼観世音菩薩は、今まで見たことの無いほど多数の手を持つ千手観音です。
葛井寺は、7世紀に百済から渡来した葛井氏の氏寺として建立されたと伝えられ、その後、724(神亀元)年に聖武天皇が十一面千手観音の造立を命じ、翌年天皇臨席の下で行基が導師となって開眼法要が行われ、創始となったと伝わります。
大の手2本、中の手40本、光背のように広げて衆生に向かって差し出された小の手1001本、計1043本の手を持つ像です。40本ある中の手は仏具らしきものを持っていますが、これらは経典に定められたものだそうです。また、全ての手の掌には眼が描かれていることから、まさに文字通りの千手千眼観音坐像と言えます。また、日本最古の千手観音でもあります。
こうした仏像が33点も並んでいるわけですから、興味が尽きません。また、歩も進みません。 -
参道(東坂)
見下ろすと、林道の脇には今を盛りと秋色に染まったもみじの枝が風にそよぎ、行きかう旅人にそっと語りかけてくるようです。これが圓教寺一千年の歴史が醸す霊験というものなのでしょうか…。 -
参道(東坂)
楚々としたもみじの波間に心ときめかされます。 -
参道(東坂)
この先を登りきった所が見晴台です。
こうした急な坂道もありますが、全般的に坂は緩やかで息を切らせるようなことも
ありません。 -
見晴台
参道の途中に開けた場所があり、小さくしか見えませんが姫路城も望めます。 -
見晴台
姫路城は、思い切りズームアップしてこの程度にしか写りません。
肉眼で探すのも一苦労です。 -
西国三十三箇所観音霊場第二十九番札所 松尾寺
京都府舞鶴市松尾にある青葉山の中腹に佇む松尾寺の本尊 座像馬頭観世音菩薩です。
中国から渡来した威光上人が青葉山中の松の大木の下で修行中に馬頭観音像を感得し、708(和銅元)年にこの松の木の下に草庵を結び、観音像を安置したのが松尾寺の起こりと伝わります。一方、10世紀末に海難に遭った漁師が馬頭観音の化身と言われた流木にすがって救われ、この木で馬頭観音を刻んだという説もあります。
三面三目八臂で片ひざ立ての仏様で、怒りがピークに達したような憤怒の表情をなされていますが、どことなく憎めない感じがします。西国三十三箇所の中で、唯一馬頭観音を本尊に祀っているのが、松尾寺です。 -
仁王門(県文化財)
山上駅から600m程進むと三間一戸、八脚門の仁王門が佇んでいます。天井には前後に2つの棟を造り、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっています。ここが東坂参道の終点で十八丁となり、この門を潜った先が聖域になります。
姫路甚兵□、他により、1664(寛文4)年に建立されたものです。町人により、その父親の菩提を弔うために寄進された性格上、経費のかかる装飾などは質素です。
書写山は、元々はスサノオノミコトが山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣(すさのそま)」と言われ、性空入山以前よりこの地には祠が祀られていたそうです。「書写山」の名は、修行僧が一心に写経の勤めを果たしたことが由来との説が有力ですが、「スサノオノミコト」の「スサ」、あるいは「精舎」が語源との説もあります。平安末期の『梁塵秘抄』には「聖のいます山」として書写山が挙げられ、鎌倉時代の一遍もこの寺を訪れています。 -
仁王門
扁額には「志ょしゃ寺」と書かれていますが、創建当時はこの寺をそのように称していたそうです。
仁王像(市文化財)は室町時代の作とされ、向かって右側が口を開いた「阿」像、左側が「吽」像です。しかし、まるで盗られないように隠すかごとく、太い木の格子内に「箱入り娘」のように奉納されているのが残念でなりません。見せるものではなく、寺院を守護させるものとの意思表示が鮮明です。ですから写真も撮る気になりません。頭部が大きく、憤怒の形相も厳しいものがありますが、傷みも進んおり修理した部分が多く窺えます。 -
仁王門
書写山圓教寺の開祖 性空上人(909~1007年)は、名門貴族「橘」家の子として平安京の西京に生まれました。そして生まれた時から、仏様に守られた一生を約束するような伝説に包まれていました。
性空の母には何人かの子がありましたが、どの子も難産でした。そこで性空を身ごもった時、流産させてしまおうと毒を飲んだのですが、流産しなかったばかりか、不思議に安産であったと言います。
生まれた時に左手は固く握られたままで開くことがなく、両親が強引に手を開いてみると一本の針を掴んでいたそうです。針が糸を導くように、この子は人々を導くようになるに違いないと、この話を伝え聞いた人は普賢菩薩の生まれ変わりに違いないと噂し合いました。
仲太小太郎と名付けられ、10歳の時に藤原大納言の若君の勉強相手として仕えていました。ある日仲太小太郎は、大納言家の家宝のすずりを手にとって眺めていて、誤って割ってしまいました。若君は友をかばおうと、父の大納言に「割ったのは私です」と申し出ました。それを聞いて怒った大納言は、あろうことか息子の首を打ってしまったのです。
仲太小太郎は、自分のせいで友の命が失われたことにひどく打ちのめされました。若君を弔うために出家しようと考えるも、息子が貴族として高い位に進むことを望む母は許してくれません。しかしある夜、母の夢に文殊菩薩が現れ、「早く、そなたの子を出家させよ」と告げました。そのお告げに母も出家を認め、小太郎は性空と名乗って仏に仕える身となったのでした。
幼少の頃から老いて亡くなるまで、常に顔には微笑を湛え、その色には慈悲があったと伝えられています。優しい言葉を発し、長く粗暴な言葉を離れ、一乗思想の顕現である『法華経』を受持し、ただ仏の智慧を得ることを待つような人物だったそうです。
性空上人は98歳で自分の死の時を悟り、自室に籠って坐禅をされたそうです。寂静安穏なご様子であり、『法華経』を誦しながら、入寂されたそうです。 -
仁王門
九州 霧島山での修行を終えた性空上人が新たな霊地を求めてこの地に入ったところ、紫色の瑞雲がかかっている書写山を見て入山し、「六根清浄」の行を積んで心眼を開き、966(康保3)年に草庵を結びました。その後、上人の徳の名声が都まで知れ渡り、西国巡礼中興の祖 花山法皇が2度に亘り参詣され、法皇より「圓教寺」の寺号を授かり、勅願寺の待遇を与えられています。
そして987(永延元)年には講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて盛大な落慶法要が営まれ、その後も数々の堂塔が整えられ、1174(承安4)年には後白河法皇が参籠するなど「西の比叡山」と呼ばれて栄えましたが、1331(元弘元)年の落雷による火災で大講堂、常行堂、五重塔などが焼失しました。その後再建されるも、戦国時代に入り羽柴秀吉がこの書写山を軍事拠点としたことから、多くの僧が僧坊を追われ、この時期に多くの寺宝が持ち去られたと言われています。
余談ですが、六根とは、人の感覚や意識を生みだし、様々な欲望や迷いを起こさせる元になる六つの器官を言います。つまり、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)を言います。眼・耳・鼻・舌・身で外部からの刺激を感じ、それによって意が生じます。六根から生じる迷いを断てば、清らかな身になることができるとされ、これを「六根清浄」と言います。 -
壽量院 棟門(重文)
少し歩くと江戸時代中期に建立された塔頭 壽量院(重文)が右手にあります。1014(長和3)年に性空の高弟 延照が建立したと伝わります。山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られ、蔀戸(しとみど)や中門などの寝殿造りの形式を備え、内部は床や違い棚の付いた書院造りになっています。仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを合わせた構造で、十妙院と共に圓教寺型と言われる独特の構造を持つ塔頭です。本尊は阿弥陀如来像を祀り、客殿および庫裏と棟門は重文に指定されています。 -
壽量院
こちらが正門のようです。
古くは「無量壽院」や「中院坊」と呼ばれ、1174(承安4)年には後白河法皇がここに7日間籠って観世音菩薩の加護を願われました。
4~11月は精進料理(本膳料理)が提供されています(要予約)。抹茶については一見さんでも愉しめます。 -
圓教寺会館(金輪院跡)
宿坊ですが、精進料理だけでも愉しめます。入口にあるもみじの大木の紅葉も見頃でした。宿泊型の「健康道場」、日帰り型の「一日修行体験」が用意されており、「健康道場」というネーミングがGOODです。 -
圓教寺会館
入口の右側には一寸した和風庭園があります。 -
十妙院 (県文化財)
16世紀中期の建立で、仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを会わせた構造を持ち、壽量院と共に圓教寺型と称される独特の塔頭です。現在の客殿及び庫裏は1691(元禄4)年、唐門は1724(享保9)年の建立のものであり、1995年に平成の大修理を終えています。
1558(永禄元)年に十妙院の勅号を賜わり、本尊は千手観音像を祀り、脇侍は毘沙門天、将軍地蔵を配しています。
狩野永納筆の襖絵があり、上段の間(一の間)に四季山水図、中段の間(二の間)に唐人物図、下段の間(三の間)に着彩花鳥図が掛けられています。中国の景色をイメージしたものだそうです。 -
十妙院
庭園の紅葉が赤く燃えています。
性空上人の生涯からは、権力や栄達といった世俗を嫌い、それらと疎遠になることで自らを高みに置く人物だったことがよく判ります。しかし法皇や中宮といった高貴な人たちであっても、真に仏の道を尋ねる者たちには、分け隔てなく胸襟を開き、懇切に接した人でもあったようです。高ぶらず、人におもねることもなく、一心に仏道を求道した人だったのでしょう。その生涯を思う時、現代の我々の生き方を顧みずにはいられません。 -
十妙院 唐門(重文)
唐門は1724(享保9)年の建立で、客殿前に開く貴賓用の門です。
書写山圓教寺には、性空上人にまつわる面白いエピソードが語り継がれています。
西国巡礼中興の祖 花山法皇は、2度に亘って書写山に行幸され、2回目は延源阿闍黎と一緒に性空上人の影像を絵図にして、上人の初夜と後夜の仏事作法を註記されようとしました。
阿闍黎は隣の部屋で、上人の顔を思い出しながら絵を描いていたのですが、その最中、突然地震が起こります。激震に思わず落としそうになった筆先から、性空の絵姿に一滴の墨が落ちました。しかし後になってよくよく見ると、その墨の跡は阿闍黎が見落としていた性空のほくろと同じ場所に付いていたそうです。 -
十妙院
十妙院から権現坂を道なりに降りていくと、湯屋橋とその先に摩尼殿が見えてきます。 -
傘塔婆
権現坂の参道脇に立つ石造りの塔婆が傘塔婆です。総高153cm、流紋岩質凝灰岩製の立派なものです。1331(延慶4)年の記念銘が刻まれ、「正面上方を花頭形に彫り、その中に阿弥陀如来像を浮き彫りにしています。笠の反り返りが鎌倉時代の様式をよく伝えています」との案内があります。
仏像の下に縦書きで3行の刻銘があり、「為僧喜心口脱、延慶四年卯月七日、藤原光長造之」と書かれています。 -
傘塔婆
藤原光長によって造立されたもので、上部の宝珠は後世のものです。
塔身上部を華頭形に窪め、その中に定印の阿弥陀坐像半肉彫りし、その下に蓮華座を線刻しています。 -
湯屋橋
ロープウェイ山上駅から15分程歩くと、はづき茶屋の脇に「湯屋橋」という石橋が中谷に架けられています。1620年頃に姫路城主 本多忠政が修理した橋で、「奉寄進 播州飾西郡書写山圓教寺御石橋 施主 本多美濃守忠政」と記されています。
案内板には、「1620(元和6)年に姫路に着任早々の忠政は、書写山へ登り、諸堂の大破に驚き、忠政一門、家中を挙げて修理に尽力した。その頃に補修されたもの。湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことに因む」と説明があります。
かくして江戸時代に入って圓教寺は以前の荘厳さを取り戻し、西国三十三箇所第二十七番札所として賑わうようになりましたが、明治維新後に神仏分離令が発令され、大幅に寺の収入が減ったために多くの僧侶が寺を去ったそうです。しかしながら、寺の建物や仏像等、多くの文化財が守られて今日に至っています。 -
護法石
湯屋橋を渡ったすぐの所には直径1m弱の石が2つ並べて置かれています。これは護法石と言い、不動明王の化身である乙天と毘沙門天の化身である若天の2童子が降り立って寺門を守ったという伝説が残されています。 -
護法石
別名「弁慶のお手玉石」とも呼ばれ、この護法石を弁慶がお手玉の替わりに投げ上げて遊んだと伝えられています。しかし、抱えることもできない程の大石です。
弁慶の実在を問う論争は古くからあったと聞くと意外な感じがします。生涯、源義経に付き従った人物なのに、実在が疑われるほど弁慶に関する記録は少ないようです。それ故に、誰もが知っている剛勇無双、怪力、破天荒という弁慶像そのものが、伝承の中から生まれた虚像とも言われています。しかし、伝承では弁慶の人間離れした活躍を描きながらもどこかユーモラスな人物像を語ったものが多く、語り伝えられる度に脚色され、「スーパーヒーロー像」が徐々にできあがったものと窺えます。往時の人たちの理想像だったのかも知れません。
兵庫県にも数多の弁慶伝説が存在します。その中に、主君 源義経と出会う以前の若き日の弁慶を語り継ぐ伝説があるのはとても興味深いことです。兵庫県は源平合戦の舞台でもあり、より色濃く、より身近な義経主従像が語り継がれていたのかもしれません。 -
摩尼殿(有形文化財)
湯屋橋を渡ると崖の上に970(天禄元)年創建の摩尼殿が聳え立っています。壮大な建物ゆえに本堂かと思いますが、圓教寺の本堂は大講堂になります。しかし西国三十三箇所観音霊場としてはここが本堂とされ、御朱印はここでいただきます。信者たちは「観音堂」と呼び親しんでいます。
摩尼殿は標高306mの岩山「白山(准胝峰)」の中腹に建てられ、傾斜地を削って段差を造り、多くの柱で本殿を支える懸崖造りです。しかし、過去に2度焼失しています。1度目は室町時代の戦火により1492(延徳4)年、2度目は1921(大正10)年で護摩の残り火が原因でした。第138代大樹承算住職が全てを寄付で賄うために奔走し、写真と柱どりの平面図から再設計を行い、麓から瓦を運び上げるために村人たちが数枚ずつを背負って運ぶという難工事だったそうです。寺と檀家が総力を尽し、12年の歳月をかけて復元され、1933(昭和8)年に落慶しています。「プロジェクトX」を彷彿とさせる復元劇でしたが、この摩尼殿が重要文化財になるには数百年の時が必要かもしれません。 -
摩尼殿
この地には、武将 黒田官兵衛の足跡も残されています。中国征伐の折、西の毛利氏、東の織田氏の狭間で揺れ動く播磨の諸将は、官兵衛の説得により信長への加勢を決意しましたが、別所長治が離反し毛利方へ加担しました。これにより、信長の命を受けて播磨に陣取った豊臣秀吉は、三木城の別所氏と毛利氏に挟まれる窮地に立たされました。その窮地を脱する術として、官兵衛は秀吉に書写山圓教寺へ本陣を移すことを進言しました。それを受け入れた秀吉は、三木城攻めの拠点をここに置き、無事苦境を乗り切りました。
官兵衛が書写山圓教寺を選んだ理由は、信長からの大量の援軍を収容できる場所だったからとか、山上にあったことから敵の監視が容易だった場所など、諸説あります。 -
摩尼殿
木々に囲まれた小さな湯屋橋を渡ると、忽然と視界の中に威厳に満ちた姿を露にします。まさしく、宙に浮かぶ舞台です。
この時期は、銀杏ともみじ、摩尼殿の屋根のコントラストが目に鮮やかです。 -
摩尼殿
まるで摩尼殿が燃え上がっているような情景です。
平坦な場所が他にあるのに、何故わざわざ工事の難しい崖地を選んで建てたのでしょうか?
それには理由があります。性空上人が入山して4年目の970(天禄元)年、天人が舞い下りて崖地にあった桜樹に礼拝するのを見て感慨を受けた上人は、根のあるままの生木の幹に如意輪観音像を彫りました。そしてその観音像を本尊として崇めました。そうなると本尊を安置する本堂はその桜樹のあった場所とするのが道理であり、こうした崖地に本殿を築いたと伝えられています。京都 清水の舞台ほどの絢爛豪華さはありませんが、清水寺と同じ懸崖造りの建物であり、その重厚な存在感は歴史を感じさせます。 -
摩尼殿
案内板には、「設計は近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った」とあります。和洋を問わず多彩な作品を残す武田五一ですが、純粋な寺院建築があることは知りませんでした。懸崖造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻や蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられます。また、これほど太い木材を釘を一本も使わずに建てており、日本建築の粋を見た思いです。
特徴的なのは、長く伸びた肘木です。武骨というかストイックというか、余計なものが一切入り込めない世界観が伝わってくる建物です。 -
摩尼殿
長い階段を登り切ると右手にクランクしています。
そこから見下ろすもみじも格別です。 -
摩尼殿
鉄板の屋根瓦ともみじの競演です。
木漏れ日が創りだす陰影もアクセントになっています。 -
摩尼殿
急勾配の石段を登り切ると右手にクランクし、Uターンするように石段を登ると唐破風が大きく口を開けて迎え入れてくれます。ドラマチックなアプローチを演出しているとしか思えない空間です。
懸崖造りの構造美を魅せながら堂宇に近づかせ、次にクランクすることで一旦視界からその姿を消し去ります。そして再び石段を登りだすと堂宇が至近距離に迫ってくるという仕掛けです。 -
摩尼殿 手水鉢
剣に巻きつく登り龍が睨みを利かせる手水鉢で身を浄めます。
龍と燃え盛るような紅葉のコラボもいいですね! -
摩尼殿
もみじのグラデーションが魅力的です。 -
摩尼殿
懸崖造り自体はそれほど高いものではありませんが、石段の分が加算されるため廻縁から下を覗くとかなりの高さに感じられます。 -
摩尼殿
ここに本尊 六臂如意輪観音菩薩像が安置されていますが、秘仏のため非公開です。
摩尼殿の号は1174(承安4)年に参詣した後白河法皇によるもので、梵語「摩尼」は如意輪観音の持つ「如意宝珠」を意味します。摩尼殿の本尊が如意輪観音菩薩だったことから、そう名付けたと伝わっています。本尊は、秀吉の播磨制圧の折、他の寺宝と共に近江長浜に持ち去られましたが、1580(天正8)年に如意輪観音像だけが戻されたとの記録があります。その際、観音様は鶴に乗って帰って来たという言い伝えまであります。しかし草創期の本尊は大正時代の火災で焼失し、現在の本尊は同じ桜の木で刻んであった試作品であるとしていますが、20世紀前半のレプリカとする説が有力です。
堂宇の内陣には5つの厨子が設けられ、中央が如意輪観音像、その左右には四天王像が納められていますが、いずれも秘仏ですので拝観できません。毎年1月18日の鬼追いの日の修正会というお祭りの時に開扉され、お祭りが始まる前の午前中か、お祭りの終了後に内陣で拝観できるそうです。 -
摩尼殿
目が覚めるような色彩のマジックです。 -
摩尼殿
一幅の絵画のような贅沢な景色を堪能します。 -
摩尼殿
逆光をアクセントにした構図にチャレンジ。 -
摩尼殿
摩尼殿の裏側にある参道からは、摩尼殿が建つ険しい山肌の様子が窺えます。裏山には、こうしたゴツゴツした岩が剥きだしになっています。
裏側にある通路を通って三之堂~奥の院へ向かいます。距離はさほどありませんが、パワースポット的な雰囲気の小径に分け入ります。
この続きは、情緒纏綿 播磨紀行④書写山 圓教寺(後編)エピローグでお届けいたします。
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