姫路旅行記(ブログ) 一覧に戻る
桜の季節にも訪れましたが、混雑が予想されたため登城は断念して周辺の散策を愉しみました。今回、書写山圓教寺の紅葉狩りを兼ねて再訪問しましたのでレポいたします。<br />ユネスコの世界遺産や日本国の特別史跡に指定され、ミシュランガイド(観光地)日本編でも最高評価の3つ星に認定され、日本城郭建築の白眉と称されるのも頷けます。日本の世界遺産は近年量産傾向にありますが、そのうち城郭が登録されているのは古都京都の二条城と琉球王国のグスク及び関連遺産群の首里城など5城跡だけです。世界的には、デンマークのクロンボー城やチェコのリトミシュル城などが登録されていますが、多くは石造りや煉瓦造りです。姫路城が高評価を得たのは木造建築物だったことにあり、調査団の世界文化遺産の研究機関イコモスの著名な学者も「姫路城は天守閣だけではなく城郭全体が壮烈で素晴らしい。木造でこんな秀でた建造物は世界でも類がない」と驚いたと伝えられています。姫路城の大天守は、標高45.6mの姫山の頂に建てられており、高さ15mある石垣の上に建てられていることから最高点は標高92mにも達します。また、天守閣の高さは現存12城の中では最も高く、31.5mあります。日本の城郭の形態は時代に伴って変遷し、戦闘を主眼にした山城から藩の政治を執り行うための平城へと移り変わりましたが、姫路城はその過渡期に建てられた比較的低い山の頂に築かれた平山城と言えます。白漆喰総塗籠の技法を用いた優美な姿形から、別名「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)」と呼ばれ、後期望楼型の大天守を囲むように、東、西、乾(北西)の3つの小天守が渡櫓で連結され、壮麗さを際立たせています。更には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき、乾小天守3層目の華頭窓には格子がないなど、未完成状態となっている箇所が随所にあるのも興味深いところです。<br />見学ルートマップは次のサイトを参照ください。<br />http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/enjoy.html

情緒纏綿 播磨紀行①姫路城(前編)

1223いいね!

2016/11/17 - 2016/11/17

1位(同エリア2329件中)

0

72

montsaintmichel

montsaintmichelさん

桜の季節にも訪れましたが、混雑が予想されたため登城は断念して周辺の散策を愉しみました。今回、書写山圓教寺の紅葉狩りを兼ねて再訪問しましたのでレポいたします。
ユネスコの世界遺産や日本国の特別史跡に指定され、ミシュランガイド(観光地)日本編でも最高評価の3つ星に認定され、日本城郭建築の白眉と称されるのも頷けます。日本の世界遺産は近年量産傾向にありますが、そのうち城郭が登録されているのは古都京都の二条城と琉球王国のグスク及び関連遺産群の首里城など5城跡だけです。世界的には、デンマークのクロンボー城やチェコのリトミシュル城などが登録されていますが、多くは石造りや煉瓦造りです。姫路城が高評価を得たのは木造建築物だったことにあり、調査団の世界文化遺産の研究機関イコモスの著名な学者も「姫路城は天守閣だけではなく城郭全体が壮烈で素晴らしい。木造でこんな秀でた建造物は世界でも類がない」と驚いたと伝えられています。 姫路城の大天守は、標高45.6mの姫山の頂に建てられており、高さ15mある石垣の上に建てられていることから最高点は標高92mにも達します。また、天守閣の高さは現存12城の中では最も高く、31.5mあります。 日本の城郭の形態は時代に伴って変遷し、戦闘を主眼にした山城から藩の政治を執り行うための平城へと移り変わりましたが、姫路城はその過渡期に建てられた比較的低い山の頂に築かれた平山城と言えます。白漆喰総塗籠の技法を用いた優美な姿形から、別名「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)」と呼ばれ、後期望楼型の大天守を囲むように、東、西、乾(北西)の3つの小天守が渡櫓で連結され、壮麗さを際立たせています。更には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき、乾小天守3層目の華頭窓には格子がないなど、未完成状態となっている箇所が随所にあるのも興味深いところです。
見学ルートマップは次のサイトを参照ください。
http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/enjoy.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 大手前通り「城見櫓(キャッスル・ビュー)」(JR姫路駅前)<br />姫路市民が選定した「姫路城十景」に登録されているスポットに「大手前通り」があります。ここは姫路駅中央改札口の北口コンコースを出た所にあるビュースポットです。2014年、お城と対峙できる場所にテラス状の一寸した展望台が設けられました。駅を背にして左側にエレベータがあり、バリアフリーで2Fへ上がれます。<br />実際の城見櫓からのビューは、こんな具合に姫路の玄関口に相応しい景色が広がっています。

    大手前通り「城見櫓(キャッスル・ビュー)」(JR姫路駅前)
    姫路市民が選定した「姫路城十景」に登録されているスポットに「大手前通り」があります。ここは姫路駅中央改札口の北口コンコースを出た所にあるビュースポットです。2014年、お城と対峙できる場所にテラス状の一寸した展望台が設けられました。駅を背にして左側にエレベータがあり、バリアフリーで2Fへ上がれます。
    実際の城見櫓からのビューは、こんな具合に姫路の玄関口に相応しい景色が広がっています。

  • 大手前通り「城見櫓」<br />お城までは意外と距離があり、ズームアップしないとお城の存在感は薄いです。<br />春に訪れた時に比べ大天守最上階の屋根の白さが少し薄れてきたように思います。

    大手前通り「城見櫓」
    お城までは意外と距離があり、ズームアップしないとお城の存在感は薄いです。
    春に訪れた時に比べ大天守最上階の屋根の白さが少し薄れてきたように思います。

  • キュエル姫路<br />姫路城周辺を観光するのに便利なレトロ調ボンネット型バス「城周辺観光ループバス」です。一回100円のワンコイン・サービスです。一日券は300円です。<br />毎日(冬季は土・日・祝日のみ)9時~17時頃までの間、30分間隔で運行しています。詳しくは次のサイトを参照してください。<br />http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_10316/_10318.html<br /><br />今回は書写山圓教寺へ神姫バスを利用するため、神姫バス姫路駅前案内所にて書写山ロープウェイとバスのチケットがセットになった割引チケットを購入します。<br />バスの往復とロープウェイ往復券がセットで1300円になります。140円お得になるのはありがたいことです。<br />割引チケットについては次のサイトを参照してください。<br />http://www.mt-shosha.info/category/ticket/index.html<br />案内所のマップは次のサイトを参照してください。キュエル姫路の南面にあります。<br />http://www.shinkibus.co.jp/rsn/map/himeji.html

    キュエル姫路
    姫路城周辺を観光するのに便利なレトロ調ボンネット型バス「城周辺観光ループバス」です。一回100円のワンコイン・サービスです。一日券は300円です。
    毎日(冬季は土・日・祝日のみ)9時~17時頃までの間、30分間隔で運行しています。詳しくは次のサイトを参照してください。
    http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_10316/_10318.html

    今回は書写山圓教寺へ神姫バスを利用するため、神姫バス姫路駅前案内所にて書写山ロープウェイとバスのチケットがセットになった割引チケットを購入します。
    バスの往復とロープウェイ往復券がセットで1300円になります。140円お得になるのはありがたいことです。
    割引チケットについては次のサイトを参照してください。
    http://www.mt-shosha.info/category/ticket/index.html
    案内所のマップは次のサイトを参照してください。キュエル姫路の南面にあります。
    http://www.shinkibus.co.jp/rsn/map/himeji.html

  • 大手町通り<br />両側にいるのは、姫路市のイメージ・キャラクターの「しろまるひめ」です。<br />姫路市制120周年、姫路城築城400周年、姫路港開港50周年を記念して誕生したキャラクターです。白鷺城を象徴する真っ白な肌の可愛いらしい女の子です。<br />お誕生日は、4月6日。何故なら、「しろの日」だからです。

    大手町通り
    両側にいるのは、姫路市のイメージ・キャラクターの「しろまるひめ」です。
    姫路市制120周年、姫路城築城400周年、姫路港開港50周年を記念して誕生したキャラクターです。白鷺城を象徴する真っ白な肌の可愛いらしい女の子です。
    お誕生日は、4月6日。何故なら、「しろの日」だからです。

  • 大手町通り<br />大手町通りにある銀杏並木を抜けると姫路城がお出迎えです。<br />

    大手町通り
    大手町通りにある銀杏並木を抜けると姫路城がお出迎えです。

  • 大手町通り<br />姫路城築城の歴史をダイジェストで紹介いたします。<br />姫路城は鎌倉時代末期の1333年(元弘3)年に播磨の豪族 赤松則村が護良親王の発給した北条氏討伐の令旨に応じて苔縄城に挙兵し、姫山に在った稱名寺を城郭化したのが起源です。その後、南北朝時代に足利尊氏に味方して播磨守護となった則村の次男、赤松貞範が姫路城を築城しました。<br />城郭の規模に格上げしたのは、16世紀に播州平野に割拠した小寺則職の重臣 黒田重隆・職隆(黒田官兵衛の父親)父子でしたが、大名屋敷並の構えに過ぎませんでした。桃山時代には、山陽道の交通の要衝に置かれた姫路城に黒田氏や羽柴秀吉が城主として入りました。織田信長の中国方面軍司令官として対毛利勢の拠点として居城していた秀吉の頃の姫路城は、3層4階構造の城郭でした。<br />現在の5層7階の大天守と連立式天守の城郭は、関ヶ原の戦いでその武功を認められて城主となった池田輝政が1601(慶長6)年から8年がかりで築いたもので、徳川政権の西の拠点となりました。<br />輝政は、本能寺の変で主君 織田信長が亡くなった後、秀吉に仕えましたが、やがて家康の次女 督姫と再婚して「西国将軍」に抜擢され、輝政およびその子や孫以降は親藩松平氏や譜代大名が城主に任命されました。更に、西国の外様大名が謀反を起こさないように睨みを利かすために西国探題が設置されるほど重要な城塞ともなり、有能な大名が城主に抜擢され、かつ頻繁に交替しています。池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた酒井忠邦まで約270年間、6氏31代の城主によって治められた城郭です。

    大手町通り
    姫路城築城の歴史をダイジェストで紹介いたします。
    姫路城は鎌倉時代末期の1333年(元弘3)年に播磨の豪族 赤松則村が護良親王の発給した北条氏討伐の令旨に応じて苔縄城に挙兵し、姫山に在った稱名寺を城郭化したのが起源です。その後、南北朝時代に足利尊氏に味方して播磨守護となった則村の次男、赤松貞範が姫路城を築城しました。
    城郭の規模に格上げしたのは、16世紀に播州平野に割拠した小寺則職の重臣 黒田重隆・職隆(黒田官兵衛の父親)父子でしたが、大名屋敷並の構えに過ぎませんでした。 桃山時代には、山陽道の交通の要衝に置かれた姫路城に黒田氏や羽柴秀吉が城主として入りました。織田信長の中国方面軍司令官として対毛利勢の拠点として居城していた秀吉の頃の姫路城は、3層4階構造の城郭でした。
    現在の5層7階の大天守と連立式天守の城郭は、関ヶ原の戦いでその武功を認められて城主となった池田輝政が1601(慶長6)年から8年がかりで築いたもので、徳川政権の西の拠点となりました。
    輝政は、本能寺の変で主君 織田信長が亡くなった後、秀吉に仕えましたが、やがて家康の次女 督姫と再婚して「西国将軍」に抜擢され、輝政およびその子や孫以降は親藩松平氏や譜代大名が城主に任命されました。更に、西国の外様大名が謀反を起こさないように睨みを利かすために西国探題が設置されるほど重要な城塞ともなり、有能な大名が城主に抜擢され、かつ頻繁に交替しています。池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた酒井忠邦まで約270年間、6氏31代の城主によって治められた城郭です。

  • 桜門橋<br />内堀に架けられた橋は、桜門の前にある橋なので「桜門橋」と呼ばれています。往時は木橋でしたが、2007(平成19)年に発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージしたコンクリート造りの橋に復元されています。表面に木製パネルを貼ることで木造のように見せていますから、情緒豊かです。<br />

    桜門橋
    内堀に架けられた橋は、桜門の前にある橋なので「桜門橋」と呼ばれています。往時は木橋でしたが、2007(平成19)年に発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージしたコンクリート造りの橋に復元されています。表面に木製パネルを貼ることで木造のように見せていますから、情緒豊かです。

  • 内堀<br />この水を湛えた堀濠が内堀になります。姫路城は外堀、中堀、内堀の3つの堀濠が左回りの螺旋状に城郭全体を囲んでおり、この内堀はその一番内側になります。この内堀より内側は内曲輪(うちくるわ)と呼ばれています。<br />

    内堀
    この水を湛えた堀濠が内堀になります。姫路城は外堀、中堀、内堀の3つの堀濠が左回りの螺旋状に城郭全体を囲んでおり、この内堀はその一番内側になります。この内堀より内側は内曲輪(うちくるわ)と呼ばれています。

  • 桜門<br />現在「大手門」と呼ばれ、堂々たる威容を放っている「桜門」は、姫路城の現在の表玄関になり、高麗門という形式の門です。かつての桐ニ門を1938(昭和13)年に復元したもので、江戸時代にあった大手門(桜門)の形とは異なっています。意外と高さがあるのは、軍用車を通すためだったそうです。<br />門の正面で金色に燦然と輝くのは、木下家定の家紋「五七の桐」紋です。羽柴秀吉の正室ねねの兄で、1585(天正13)年から16年間3層4階の天守の時代に在城しました。また、大手門の屋根の飾り瓦にも五七桐が使われています。

    桜門
    現在「大手門」と呼ばれ、堂々たる威容を放っている「桜門」は、姫路城の現在の表玄関になり、高麗門という形式の門です。かつての桐ニ門を1938(昭和13)年に復元したもので、江戸時代にあった大手門(桜門)の形とは異なっています。意外と高さがあるのは、軍用車を通すためだったそうです。
    門の正面で金色に燦然と輝くのは、木下家定の家紋「五七の桐」紋です。羽柴秀吉の正室ねねの兄で、1585(天正13)年から16年間3層4階の天守の時代に在城しました。また、大手門の屋根の飾り瓦にも五七桐が使われています。

  • 桜門の石垣<br />桜門を潜る前に見ていただきたいポイントがあります。桜門を外側から見て向かって左、門を柱を支える石垣の一番上の石に注目です。そこには斧の形の刻印があります。この石は、築城当初からここにあったものではなく、中堀の総社門石垣を桜門改修の際にリサイクルされたものです。<br />この斧のマークが何を表すのか判ってはいないのですが、石工たちの符牒のひとつと考えられています。しかし、斧の絵柄は珍しいものだそうです。尚、この刻印が入った石があったことから、総社門を「斧(よき)の門」と呼んだという記録が古文書に残されています。

    桜門の石垣
    桜門を潜る前に見ていただきたいポイントがあります。桜門を外側から見て向かって左、門を柱を支える石垣の一番上の石に注目です。そこには斧の形の刻印があります。この石は、築城当初からここにあったものではなく、中堀の総社門石垣を桜門改修の際にリサイクルされたものです。
    この斧のマークが何を表すのか判ってはいないのですが、石工たちの符牒のひとつと考えられています。しかし、斧の絵柄は珍しいものだそうです。尚、この刻印が入った石があったことから、総社門を「斧(よき)の門」と呼んだという記録が古文書に残されています。

  • 三の丸<br />桜門を潜った先にある、鉄板の撮影スポットです。<br />世界遺産の石碑とお城のツーショットが売りですが、近年は松が成長して視界を遮っているのが少々残念な所です。

    三の丸
    桜門を潜った先にある、鉄板の撮影スポットです。
    世界遺産の石碑とお城のツーショットが売りですが、近年は松が成長して視界を遮っているのが少々残念な所です。

  • 三の丸<br />三の丸にある大銀杏とのツーショットです。<br />姫路城は、別名「白鷺城」とも呼ばれます。その秘密は白漆喰にあるのですが、白漆喰の歴史を紐解けば、「バベルの塔」に関する記述に見られるほど古来から伝わるものです。しかし姫路城の白さは、白漆喰総塗籠という工法で外壁を白漆喰で塗り籠るだけでなく、屋根瓦の目地にも分厚い白漆喰を施した結果です。単なる接着剤や塗装剤としてではなく、強度と美を格段に上げるための拘りと職人技が惜しみなく投じられています。<br />また、それにプラスして漆喰の素材への拘りもあります。主原料の消石灰にアカガイの殻を焼いて細かく砕いた貝灰や特別に白い麻や紙を用いたスサ(繊維質材)、海藻糊などを加えることで、白無垢を纏った花嫁のような気品ある純白の光沢を持たせています。ですから天守群がまるで翼を広げたシラサギのように見え、いつしか姫路城下の人々は親しみを込めて「白鷺城」と呼ぶようになったそうです。<br />愛称の由来には、お城の周りにシラサギが沢山住んでいたからとか、お隣の「烏城」と呼ばれる黒板張りの岡山城との対比から、など諸説あります。また、池田輝政がこうした「白い城」に拘った理由にも、「豊臣派閥の黒い城に対抗し、白い城を広めようとした徳川家康の意向」だとか「戦国時代の終焉に際し、『武による統治』から『美による威嚇』を重視した」など諸説あります。<br />もう一つ、姫路城は「不戦の城」とも呼ばれます。築城以来、戦火にほぼ晒されなかったため、大きな被害を受けずに現在に至っているためです。輝政は、この城で豊臣方と一戦を交える覚悟だったようですが、理性のある武将なら、このような巨大な城を攻めようなどと思いもしないでしょうが…。

    三の丸
    三の丸にある大銀杏とのツーショットです。
    姫路城は、別名「白鷺城」とも呼ばれます。その秘密は白漆喰にあるのですが、白漆喰の歴史を紐解けば、「バベルの塔」に関する記述に見られるほど古来から伝わるものです。しかし姫路城の白さは、白漆喰総塗籠という工法で外壁を白漆喰で塗り籠るだけでなく、屋根瓦の目地にも分厚い白漆喰を施した結果です。単なる接着剤や塗装剤としてではなく、強度と美を格段に上げるための拘りと職人技が惜しみなく投じられています。
    また、それにプラスして漆喰の素材への拘りもあります。主原料の消石灰にアカガイの殻を焼いて細かく砕いた貝灰や特別に白い麻や紙を用いたスサ(繊維質材)、海藻糊などを加えることで、白無垢を纏った花嫁のような気品ある純白の光沢を持たせています。ですから天守群がまるで翼を広げたシラサギのように見え、いつしか姫路城下の人々は親しみを込めて「白鷺城」と呼ぶようになったそうです。
    愛称の由来には、お城の周りにシラサギが沢山住んでいたからとか、お隣の「烏城」と呼ばれる黒板張りの岡山城との対比から、など諸説あります。また、池田輝政がこうした「白い城」に拘った理由にも、「豊臣派閥の黒い城に対抗し、白い城を広めようとした徳川家康の意向」だとか「戦国時代の終焉に際し、『武による統治』から『美による威嚇』を重視した」など諸説あります。
    もう一つ、姫路城は「不戦の城」とも呼ばれます。築城以来、戦火にほぼ晒されなかったため、大きな被害を受けずに現在に至っているためです。輝政は、この城で豊臣方と一戦を交える覚悟だったようですが、理性のある武将なら、このような巨大な城を攻めようなどと思いもしないでしょうが…。

  • 三の丸 武蔵野御殿跡<br />1617(元和3)年、伊勢桑名から姫路に転封した本多忠政が、息子の忠刻と千姫の新婚夫婦のために建てた下屋敷跡です。ここを武蔵野御殿と呼ぶのは、千姫が長年住み親しんだ武蔵野の風情を醸すため、その襖絵に金箔を貼り、武蔵野を偲ばせるすすきが一面に描かれていたことが由来です。<br />左手の土塁の脇に、整然と積まれた石垣に目を瞠ります。これほど端整に立方体に加工して積木細工のように積まれた石垣は、城内では「をノ門跡」に見られるだけで珍しいものです。積み方から時代考証すれば相当新しい石垣と推測されるのですが、実は本多忠政が城主だった元和年間のものであることが判っています。<br />そんな時代に「切り込みハギ」が存在したのかと疑問に思われるかも知れませんが、この場所は武蔵野御殿の庭園でしたので、この石垣は庭園を彩る庭石として愛でられていたと考えられています。ですから、威厳を示すかのような武骨な城郭の石垣とは趣を違え、こうした優美な細工を施して積んだものと窺えます。<br />類似の遺構は、金沢城の玉泉院丸庭園でも「色紙短冊積石垣」として見られますが、姫路城より20年程後の作庭ですので、この石垣が往時の最先端技術と言えるかも知れません。<br />

    三の丸 武蔵野御殿跡
    1617(元和3)年、伊勢桑名から姫路に転封した本多忠政が、息子の忠刻と千姫の新婚夫婦のために建てた下屋敷跡です。ここを武蔵野御殿と呼ぶのは、千姫が長年住み親しんだ武蔵野の風情を醸すため、その襖絵に金箔を貼り、武蔵野を偲ばせるすすきが一面に描かれていたことが由来です。
    左手の土塁の脇に、整然と積まれた石垣に目を瞠ります。これほど端整に立方体に加工して積木細工のように積まれた石垣は、城内では「をノ門跡」に見られるだけで珍しいものです。積み方から時代考証すれば相当新しい石垣と推測されるのですが、実は本多忠政が城主だった元和年間のものであることが判っています。
    そんな時代に「切り込みハギ」が存在したのかと疑問に思われるかも知れませんが、この場所は武蔵野御殿の庭園でしたので、この石垣は庭園を彩る庭石として愛でられていたと考えられています。ですから、威厳を示すかのような武骨な城郭の石垣とは趣を違え、こうした優美な細工を施して積んだものと窺えます。
    類似の遺構は、金沢城の玉泉院丸庭園でも「色紙短冊積石垣」として見られますが、姫路城より20年程後の作庭ですので、この石垣が往時の最先端技術と言えるかも知れません。

  • 三の丸<br />三の丸公園のアクセントになっている大銀杏は、やはり陽がよく当たる南側の紅葉が早いようです。

    三の丸
    三の丸公園のアクセントになっている大銀杏は、やはり陽がよく当たる南側の紅葉が早いようです。

  • 三の丸<br />茂みに黒猫がいます。昔から黒猫には不吉なイメージがあり、黒猫が横切ると良くないことが起きるというジンクスもありますが…。<br />姫路市には黒猫専門の猫カフェ「cat cafe ねこびやか -黒猫cm(センチメートル)-」があります。同カフェでは猫の抱っこは禁止されています。触れることはできるようですが、過度にさわると猫にはストレスとなるため、「ほどほどにしてね」とのこと。<br />ショップのブログです。<br />http://nekobiyaka.jugem.jp/

    三の丸
    茂みに黒猫がいます。昔から黒猫には不吉なイメージがあり、黒猫が横切ると良くないことが起きるというジンクスもありますが…。
    姫路市には黒猫専門の猫カフェ「cat cafe ねこびやか -黒猫cm(センチメートル)-」があります。同カフェでは猫の抱っこは禁止されています。触れることはできるようですが、過度にさわると猫にはストレスとなるため、「ほどほどにしてね」とのこと。
    ショップのブログです。
    http://nekobiyaka.jugem.jp/

  • 天守の庭<br />入城口の右手には「天守の森」が広がり、昭和の天守解体修理の折に掘りだされた大天守の礎石が展示されています。1601~09(慶長6~14)年の築城以来、総重量5700トンと言われる大天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44cm傾斜していたそうです。そのため解体修理時に天守基礎の地盤をコンクリート製に替えたため、従来の礎石は全て取り除かれました。それらの礎石を元の配置で再現したのが「天守の庭」になります。<br />中央に並ぶ礎石の上に東西の心柱が載せられていました。

    天守の庭
    入城口の右手には「天守の森」が広がり、昭和の天守解体修理の折に掘りだされた大天守の礎石が展示されています。1601~09(慶長6~14)年の築城以来、総重量5700トンと言われる大天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44cm傾斜していたそうです。そのため解体修理時に天守基礎の地盤をコンクリート製に替えたため、従来の礎石は全て取り除かれました。それらの礎石を元の配置で再現したのが「天守の庭」になります。
    中央に並ぶ礎石の上に東西の心柱が載せられていました。

  • 入城口<br />この先が「有料観覧エリア」になります。<br />リニューアルオープンで入城料を1000円に上げ、それまで首位だった沖縄の首里城をおさえ、日本で一番高額なものになっています。<br />混雑時には2つの待ち時間がありますので、留意してください。<br />まず、「入城口まで」と表示されるのはこのゲートを潜るまでの待ち時間です。<br />「入城口から天守閣入口まで」は、このゲートを抜けた後、大天守に登閣するための待ち時間です。<br />また、ゴールデン・ウィークやシルバー・ウィークなど大混雑が予想される日は、大天守の収容人数1万5千人/日を上限に「大天守登閣整理券」を先着順に配付しています。これをゲットしないと登閣できませんので注意してください。<br />詳しくは次のサイトを参照してください。<br />http://castle-himeji.com/qa/meaning-time/<br />http://www.himejicastle.jp/seiriken.html

    入城口
    この先が「有料観覧エリア」になります。
    リニューアルオープンで入城料を1000円に上げ、それまで首位だった沖縄の首里城をおさえ、日本で一番高額なものになっています。
    混雑時には2つの待ち時間がありますので、留意してください。
    まず、「入城口まで」と表示されるのはこのゲートを潜るまでの待ち時間です。
    「入城口から天守閣入口まで」は、このゲートを抜けた後、大天守に登閣するための待ち時間です。
    また、ゴールデン・ウィークやシルバー・ウィークなど大混雑が予想される日は、大天守の収容人数1万5千人/日を上限に「大天守登閣整理券」を先着順に配付しています。これをゲットしないと登閣できませんので注意してください。
    詳しくは次のサイトを参照してください。
    http://castle-himeji.com/qa/meaning-time/
    http://www.himejicastle.jp/seiriken.html

  • 有料観覧エリアの見学ルートマップです。<br />次のサイトから借用させていただきました。<br />http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/enjoy.html<br />

    有料観覧エリアの見学ルートマップです。
    次のサイトから借用させていただきました。
    http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/enjoy.html

  • 菱の門<br />三の丸までは藩主の住居や役所、下屋敷のエリアでしたが、ここからは二の丸という城郭の中枢に分け入ります。城郭を造る側は、ここから大天守最上階まで、「如何に防御するか」を念頭に築城しています。ですから、登城する際には攻め手の立ち位置で「如何に攻略するか」の視点で見ると臨場感が味わえます。という訳で、登閣口を潜ればすでに敵の防御が始まっています。まず門の手前で直角に屈折する枡形で攻め手の勢いを削いできます。姫路城は築城年代が早いため、通常枡形の城外側に建てられている高麗門はありません。目の前に堂々と聳える大天守に次いで格式の高い建物と言われる「菱の門」がその櫓門に当たります。<br />屋根の勾配や軒四隅の反転など、全国でも稀に見る桃山時代の華麗な城門と言えます。三の丸から二の丸へと通じる大手口を固める櫓門であり、姫路城で最大の門です。また、スケールだけでなく意匠的も他に類を見ない、圧倒的な豪華さを誇っています。こうして「菱の門」が400年以上の星霜を経て現存していることは奇跡に近いそうです。

    菱の門
    三の丸までは藩主の住居や役所、下屋敷のエリアでしたが、ここからは二の丸という城郭の中枢に分け入ります。城郭を造る側は、ここから大天守最上階まで、「如何に防御するか」を念頭に築城しています。ですから、登城する際には攻め手の立ち位置で「如何に攻略するか」の視点で見ると臨場感が味わえます。 という訳で、登閣口を潜ればすでに敵の防御が始まっています。まず門の手前で直角に屈折する枡形で攻め手の勢いを削いできます。姫路城は築城年代が早いため、通常枡形の城外側に建てられている高麗門はありません。目の前に堂々と聳える大天守に次いで格式の高い建物と言われる「菱の門」がその櫓門に当たります。
    屋根の勾配や軒四隅の反転など、全国でも稀に見る桃山時代の華麗な城門と言えます。三の丸から二の丸へと通じる大手口を固める櫓門であり、姫路城で最大の門です。また、スケールだけでなく意匠的も他に類を見ない、圧倒的な豪華さを誇っています。こうして「菱の門」が400年以上の星霜を経て現存していることは奇跡に近いそうです。

  • 菱の門<br />2階の窓は、中央には黒漆塗りに金の飾り金具で装飾した3連武者窓(格子窓)、その左右には釣鐘型の華頭窓、裏面は連双武者窓を配しています。華頭窓は、格式の高い禅宗寺院で見られる形態ですが、姫路城では乾小天守や西小天守の窓にも見られます。そして右端に配されたのは、白漆喰塗りの出格子窓です。格子戸には五七の桐の紋と菊の御紋が漆に金箔で刻まれ、櫓門にこれだけの華麗な意匠や装飾を潤沢に施した窓がある櫓門は珍しいそうです。また、壁の表面は白漆喰塗りですが、柱や長押の形が浮き出ています。これは真壁(しんかべ)造りと言い、大壁造り(柱や長押をすべて漆喰で覆い見えなくする)より格調の高い工法です。この工法は、大天守最上階の窓の周りにも見られます。<br />

    菱の門
    2階の窓は、中央には黒漆塗りに金の飾り金具で装飾した3連武者窓(格子窓)、その左右には釣鐘型の華頭窓、裏面は連双武者窓を配しています。華頭窓は、格式の高い禅宗寺院で見られる形態ですが、姫路城では乾小天守や西小天守の窓にも見られます。そして右端に配されたのは、白漆喰塗りの出格子窓です。格子戸には五七の桐の紋と菊の御紋が漆に金箔で刻まれ、櫓門にこれだけの華麗な意匠や装飾を潤沢に施した窓がある櫓門は珍しいそうです。 また、壁の表面は白漆喰塗りですが、柱や長押の形が浮き出ています。これは真壁(しんかべ)造りと言い、大壁造り(柱や長押をすべて漆喰で覆い見えなくする)より格調の高い工法です。この工法は、大天守最上階の窓の周りにも見られます。

  • 菱の門<br />扉の左右に立つ2本の太い柱は「鏡柱」と呼ばれ、左側には「国寳姫路城」の看板が掛っています。通常、鏡柱は一木のはずですが、この鏡柱は一木ではなく、数本の角柱を束ねて表面に欅の板を張り付けた集成材です。そのため、板の継ぎ目を隠すために筋金を打ちつけてあります。何故、一木でないかと言うと、関ヶ原の戦い以降、大材の入手が難しかったため苦肉の策だったそうです。

    菱の門
    扉の左右に立つ2本の太い柱は「鏡柱」と呼ばれ、左側には「国寳姫路城」の看板が掛っています。通常、鏡柱は一木のはずですが、この鏡柱は一木ではなく、数本の角柱を束ねて表面に欅の板を張り付けた集成材です。そのため、板の継ぎ目を隠すために筋金を打ちつけてあります。何故、一木でないかと言うと、関ヶ原の戦い以降、大材の入手が難しかったため苦肉の策だったそうです。

  • 菱の門<br />こうした脇戸も配しています。<br />「菱の門」は実践的な櫓門ですが、一方では豪華で格調が高く、全国的にも珍しいものです。城郭の中枢に登るための初めの関門、いわゆる城の「顔」でもあり、威厳を誇るために訪問者を唸らせる格調を織り込んだとも言われています。<br />あまりの華麗さに、「秀吉の木幡山伏見城から移築した菱の門」と説明されるガイドさんもおられるほどです。「伏見=不死身」にも繋がる重要な門だったそうでロマン溢れる推論ですが、それを証明する証拠は見つかっていないようです。

    菱の門
    こうした脇戸も配しています。
    「菱の門」は実践的な櫓門ですが、一方では豪華で格調が高く、全国的にも珍しいものです。城郭の中枢に登るための初めの関門、いわゆる城の「顔」でもあり、威厳を誇るために訪問者を唸らせる格調を織り込んだとも言われています。
    あまりの華麗さに、「秀吉の木幡山伏見城から移築した菱の門」と説明されるガイドさんもおられるほどです。「伏見=不死身」にも繋がる重要な門だったそうでロマン溢れる推論ですが、それを証明する証拠は見つかっていないようです。

  • 菱の門<br />こうして見るとこの門は桐紋のオンパレードです。江戸時代に秀吉のシンボルを使って幕府から睨まれることはなかったのでしょうか?<br />調べてみると、桐紋は元々は皇室由来の紋だそうです。秀吉は桐紋を諸大名に気前よく与え、その大名はさらに自分の家臣に与えることで増殖していったようです。そのため、皇室由来のこの紋がポピュラーな紋になってしまったそうです。そんな状態なので、幕府も問題にしなかったのかもしれません。

    菱の門
    こうして見るとこの門は桐紋のオンパレードです。江戸時代に秀吉のシンボルを使って幕府から睨まれることはなかったのでしょうか?
    調べてみると、桐紋は元々は皇室由来の紋だそうです。秀吉は桐紋を諸大名に気前よく与え、その大名はさらに自分の家臣に与えることで増殖していったようです。そのため、皇室由来のこの紋がポピュラーな紋になってしまったそうです。そんな状態なので、幕府も問題にしなかったのかもしれません。

  • 菱の門<br />鏡柱の上部で横に渡された梁は「冠木(かぶき)」と呼ばれ、その冠木に木彫りの「花菱」の紋が嵌められています。この紋や築城以前に流れていた菱川が、「菱の門」の名の由来と言われています。因みに花菱とは、大陸由来の連続文様で、平安時代には有識文様として公家の調度品や衣装の文様として用いられました。家紋としては、甲斐武田家が初めて使用したと言われています。

    菱の門
    鏡柱の上部で横に渡された梁は「冠木(かぶき)」と呼ばれ、その冠木に木彫りの「花菱」の紋が嵌められています。この紋や築城以前に流れていた菱川が、「菱の門」の名の由来と言われています。因みに花菱とは、大陸由来の連続文様で、平安時代には有識文様として公家の調度品や衣装の文様として用いられました。家紋としては、甲斐武田家が初めて使用したと言われています。

  • 菱の門<br />扉には、筋鉄饅頭や金物、八双金物を打ち、これでもかと言った威嚇の構えが窺えます。

    菱の門
    扉には、筋鉄饅頭や金物、八双金物を打ち、これでもかと言った威嚇の構えが窺えます。

  • 菱の門<br />裏側から見るとこんな感じです。櫓門ですので、臨戦態勢も整っています。いざ戦ともなれば、2階部分には城兵が詰め、窓は銃眼へと変貌します。また、1~2階を貫く通し柱は無く、万が一の時には2階部分を敵に向かって落下させる仕掛けになっています。門を潜る際は天井を見上げ、上から攻撃されることを想像してみるのもいいかもしれません。

    菱の門
    裏側から見るとこんな感じです。櫓門ですので、臨戦態勢も整っています。いざ戦ともなれば、2階部分には城兵が詰め、窓は銃眼へと変貌します。また、1~2階を貫く通し柱は無く、万が一の時には2階部分を敵に向かって落下させる仕掛けになっています。門を潜る際は天井を見上げ、上から攻撃されることを想像してみるのもいいかもしれません。

  • 菱の門<br />裏面には、金箔で装飾された連双武者窓が配されています。

    菱の門
    裏面には、金箔で装飾された連双武者窓が配されています。

  • 二の丸<br />菱の門から城内に一歩入った先は、「二の丸」と呼ばれています。見上げると天守群(左から乾小天守、西小天守、大天守)が神々しいほどの白亜の輝きを放って聳え立っています。<br />ここは大天守を美しく撮れるビュースポットのひとつに数えられています。<br />

    二の丸
    菱の門から城内に一歩入った先は、「二の丸」と呼ばれています。見上げると天守群(左から乾小天守、西小天守、大天守)が神々しいほどの白亜の輝きを放って聳え立っています。
    ここは大天守を美しく撮れるビュースポットのひとつに数えられています。

  • 三国堀<br />溜め池風の堀です。城郭用語では「捨て堀」と呼び、雨水や地表に湧き出した地下水が溜まったもので、水位は日によって変動するそうです。名の由来は、秀吉時代の姫路城を今日の姿に大改修した池田輝政が播磨、淡路、備前の「三国」を治める大大名であったことに因みます。さて、この奇妙な堀の役割は何なのでしょうか?ここには防御の戦略が置かれています。菱の門を突破した敵の軍勢は、この堀に一瞬戸惑います。堀を挟んで道が2手に分かれているからです。しかし右の道は石垣に行く手を阻まれて行き止まりに見えます。それに比べて正面には華奢な小さな門「いノ門」が見え、心情的にこちらのルートを選ぶはずです。しかし、直進すれば城側の思う壺です。実は右のルートは行き止まりではなく、死角になった所に「るノ門」が開けられ、その門内には一個部隊の兵を隠しています。また左手の「西の丸」に上がる坂の途中にも「武者隠し」が設けられています。トラップに嵌り「いノ門」に直進すれば、左右の「武者隠し」から敵兵が躍り出して背後から攻められます。また左手の塀には狭間が開けられており、弓や鉄砲で攻撃されます。不意打ちを食らって堀に落ちれば、堀の2方向の塀の狭間から狙撃されます。すなわち、三国堀は、敵の攻略ルートを狭めると共に、一網打尽にするために掘られた巧妙な落とし穴と言えます。<br />一方、城内の水を貯える役目も担いました。この辺りは鷺山と姫山の谷筋に位置する地形から、城内を縦横に走る排水溝を介して三国堀へと水を導いています。驚ろくのは、各曲輪に掘られた井戸の大部分が三国堀と同じ深さだったことです。城内の井戸は全て三国堀に繋がっていたと考えられ、三国堀の水が「サイホンの原理」で上がってくる仕組みです。籠城戦で水に困らないように工夫した先人の知恵には、頭が下がります。<br />因みに現在は、防火用の溜池として珍重されているそうです。

    三国堀
    溜め池風の堀です。城郭用語では「捨て堀」と呼び、雨水や地表に湧き出した地下水が溜まったもので、水位は日によって変動するそうです。名の由来は、秀吉時代の姫路城を今日の姿に大改修した池田輝政が播磨、淡路、備前の「三国」を治める大大名であったことに因みます。 さて、この奇妙な堀の役割は何なのでしょうか?ここには防御の戦略が置かれています。菱の門を突破した敵の軍勢は、この堀に一瞬戸惑います。堀を挟んで道が2手に分かれているからです。しかし右の道は石垣に行く手を阻まれて行き止まりに見えます。それに比べて正面には華奢な小さな門「いノ門」が見え、心情的にこちらのルートを選ぶはずです。しかし、直進すれば城側の思う壺です。実は右のルートは行き止まりではなく、死角になった所に「るノ門」が開けられ、その門内には一個部隊の兵を隠しています。また左手の「西の丸」に上がる坂の途中にも「武者隠し」が設けられています。 トラップに嵌り「いノ門」に直進すれば、左右の「武者隠し」から敵兵が躍り出して背後から攻められます。また左手の塀には狭間が開けられており、弓や鉄砲で攻撃されます。不意打ちを食らって堀に落ちれば、堀の2方向の塀の狭間から狙撃されます。すなわち、三国堀は、敵の攻略ルートを狭めると共に、一網打尽にするために掘られた巧妙な落とし穴と言えます。
    一方、城内の水を貯える役目も担いました。この辺りは鷺山と姫山の谷筋に位置する地形から、城内を縦横に走る排水溝を介して三国堀へと水を導いています。驚ろくのは、各曲輪に掘られた井戸の大部分が三国堀と同じ深さだったことです。城内の井戸は全て三国堀に繋がっていたと考えられ、三国堀の水が「サイホンの原理」で上がってくる仕組みです。籠城戦で水に困らないように工夫した先人の知恵には、頭が下がります。
    因みに現在は、防火用の溜池として珍重されているそうです。

  • 三国堀<br />もうひとつの見所は、正面の石垣です。石垣の中央辺りに石積みが不自然な形を呈した箇所があります。あたかも、元は石垣の端がここだったと自己主張しているような稜線がV字型に向かい合っています。<br />実は秀吉が姫路城を築いた時代は、三国堀は捨て堀ではなく、奥の方に続く細長い堀だったようです。それを池田輝政が奥の方の堀を埋め、現在の四角い堀だけを残したのです。その後、埋めた所に石垣を積んだため、V字型の跡がくっきりと残されたのです。<br />

    三国堀
    もうひとつの見所は、正面の石垣です。石垣の中央辺りに石積みが不自然な形を呈した箇所があります。あたかも、元は石垣の端がここだったと自己主張しているような稜線がV字型に向かい合っています。
    実は秀吉が姫路城を築いた時代は、三国堀は捨て堀ではなく、奥の方に続く細長い堀だったようです。それを池田輝政が奥の方の堀を埋め、現在の四角い堀だけを残したのです。その後、埋めた所に石垣を積んだため、V字型の跡がくっきりと残されたのです。

  • 城内俯瞰図<br />案内板にある絵は、江戸時代後期の三の丸から内側の様子を俯瞰した図を描いたものです。現在地は、青く四角い堀の前です。<br />姫路城は、本丸や二の丸、西の丸など沢山の建物や土塀が往時のまま現存していますが、この絵を見ると往時はもっと建物が沢山あり、失われたものが多いことが良く判ります。<br />

    城内俯瞰図
    案内板にある絵は、江戸時代後期の三の丸から内側の様子を俯瞰した図を描いたものです。現在地は、青く四角い堀の前です。
    姫路城は、本丸や二の丸、西の丸など沢山の建物や土塀が往時のまま現存していますが、この絵を見ると往時はもっと建物が沢山あり、失われたものが多いことが良く判ります。

  • 中村重遠(しげとう)大佐の碑<br />明治時代の陸軍歩兵 中村大佐の碑です。この石碑は左手の石垣の下にひっそりと立てられています。大きい割には目立たず、立ち止まって眺める人はいませんが、姫路城が今日までその美しい姿を留めている陰には人知れぬ努力と苦労があり、中村大佐の業績を顕彰して「姫路城の恩人」と称しています。<br />廃藩置県により、43城以外は廃城令により廃却されました。姫路城は残されたものの競売にかけられ、城下に住む金物商が23円50銭(現在の貨幣価値で約100万円)で落札しました。落札者は城の瓦を転売して儲けようと目論んだのですが、サイズが一般家屋の瓦に合わないため転売先が見つからず、解体費用すら捻出できないまま放置され、結局軍が引き取ることになりました。それは陸軍の兵営地や訓練地として好都合なためであり、城の歴史的・文化的価値が認められた訳ではありませんでした。そのため城は荒れ果てたまま放置され、明治11年頃には取り壊しの危機に瀕しました。<br />そんな折、陸軍省の中村大佐が姫路城の荒廃を憂いて陸軍卿 山縣有朋宛に「永久保存させるために一日も早く費用を追加して修理をすべき」という伺書を提出し、太政官へ上申して欲しいと働きかけました。こうして応急の保存工事が国家予算で賄われ、後の大規模な修復工事へと脈々と繋がっていったのです。<br />歴史にもしもはありませんが、この中村大佐がいなければ石垣だけが残る「城跡」になっていたかもしれません。

    中村重遠(しげとう)大佐の碑
    明治時代の陸軍歩兵 中村大佐の碑です。この石碑は左手の石垣の下にひっそりと立てられています。大きい割には目立たず、立ち止まって眺める人はいませんが、姫路城が今日までその美しい姿を留めている陰には人知れぬ努力と苦労があり、中村大佐の業績を顕彰して「姫路城の恩人」と称しています。
    廃藩置県により、43城以外は廃城令により廃却されました。姫路城は残されたものの競売にかけられ、城下に住む金物商が23円50銭(現在の貨幣価値で約100万円)で落札しました。落札者は城の瓦を転売して儲けようと目論んだのですが、サイズが一般家屋の瓦に合わないため転売先が見つからず、解体費用すら捻出できないまま放置され、結局軍が引き取ることになりました。それは陸軍の兵営地や訓練地として好都合なためであり、城の歴史的・文化的価値が認められた訳ではありませんでした。そのため城は荒れ果てたまま放置され、明治11年頃には取り壊しの危機に瀕しました。
    そんな折、陸軍省の中村大佐が姫路城の荒廃を憂いて陸軍卿 山縣有朋宛に「永久保存させるために一日も早く費用を追加して修理をすべき」という伺書を提出し、太政官へ上申して欲しいと働きかけました。こうして応急の保存工事が国家予算で賄われ、後の大規模な修復工事へと脈々と繋がっていったのです。
    歴史にもしもはありませんが、この中村大佐がいなければ石垣だけが残る「城跡」になっていたかもしれません。

  • 三国堀<br />「いノ門」に向かう道の途中からは、一段と大きくなった大天守を眺めながら歩を進めます。

    三国堀
    「いノ門」に向かう道の途中からは、一段と大きくなった大天守を眺めながら歩を進めます。

  • いノ門<br />姫路城「いろは付き門」の第一番目、高麗門の「いノ門」です。これは城内の門としては小さく貧相な門です。敵をおびき寄せるため、意図的に貧弱にした戦略的な門ではないかと勘ぐらせるほどです。<br />シンプルすぎて素通りしてしまいそうですが、門だけでなく周りの石垣や櫓が往時のまま残されているのはとても珍しいそうです。<br />また、高麗門と呼ばれますが、高麗(朝鮮半島)から伝わった様式ということではなく、日本のオリジナル形式です。秀吉の慶長・文禄の役の前後に考え出された建築様式だったため、時代の最先端という意味合いを込めて「高麗」とネーミングしたそうです。<br />左手に見える櫓は、西の丸にある千姫所縁の「化粧櫓」です。

    いノ門
    姫路城「いろは付き門」の第一番目、高麗門の「いノ門」です。これは城内の門としては小さく貧相な門です。敵をおびき寄せるため、意図的に貧弱にした戦略的な門ではないかと勘ぐらせるほどです。
    シンプルすぎて素通りしてしまいそうですが、門だけでなく周りの石垣や櫓が往時のまま残されているのはとても珍しいそうです。
    また、高麗門と呼ばれますが、高麗(朝鮮半島)から伝わった様式ということではなく、日本のオリジナル形式です。秀吉の慶長・文禄の役の前後に考え出された建築様式だったため、時代の最先端という意味合いを込めて「高麗」とネーミングしたそうです。
    左手に見える櫓は、西の丸にある千姫所縁の「化粧櫓」です。

  • いノ門<br />瓦屋根の下方にある下向きの三角形をした瓦は「滴水瓦」と言い、別名「高麗瓦」とも呼ばれ雨水を決まった所へ落とすための小道具です。<br />ここの「滴水瓦」や「軒丸瓦」には3つの家紋が見られます。「揚羽蝶」の紋は大天守を造った池田輝政の代表的な家紋、三つ葉立葵は本多家の家紋です。七三桐紋も池田氏の家紋で、輝政が正四位から正三位に昇格した時、その誉を記念して作った家紋だと伝えられています。こうして眺めると、桐の花の間を揚羽蝶が飛んでいるとも解釈できます。恐るべし輝政!<br />別名「高麗瓦」と言うのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加し、陶工や瓦職人を連れて帰った加藤清正が熊本城を築いた時、彼ら渡来朝鮮人が制作したのがその名の由来です。輝政はその手法を姫路城に取り入れましたが、その瓦を制作したのは地元播州の瓦匠だそうです。

    いノ門
    瓦屋根の下方にある下向きの三角形をした瓦は「滴水瓦」と言い、別名「高麗瓦」とも呼ばれ雨水を決まった所へ落とすための小道具です。
    ここの「滴水瓦」や「軒丸瓦」には3つの家紋が見られます。「揚羽蝶」の紋は大天守を造った池田輝政の代表的な家紋、三つ葉立葵は本多家の家紋です。七三桐紋も池田氏の家紋で、輝政が正四位から正三位に昇格した時、その誉を記念して作った家紋だと伝えられています。こうして眺めると、桐の花の間を揚羽蝶が飛んでいるとも解釈できます。恐るべし輝政!
    別名「高麗瓦」と言うのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加し、陶工や瓦職人を連れて帰った加藤清正が熊本城を築いた時、彼ら渡来朝鮮人が制作したのがその名の由来です。輝政はその手法を姫路城に取り入れましたが、その瓦を制作したのは地元播州の瓦匠だそうです。

  • いノ門の井戸<br />正面に次の「ろノ門」が見えていますが右手の方に少しだけ寄り道します。<br />「いノ門」を潜ったすぐ右手には井戸があります。籠城戦を想定するなら、飲料水というライフラインの確保は最重要課題です。往時姫路城には内曲輪内に33ヶ所もの井戸が掘られ、現在でも13ヶ所が残されています。ほとんどの井戸は枯渇していますが、この井戸は今でも水を湛え、その深さは2mもあるそうです。それは、昔はここが谷だったことの証とされています。しかし、生け垣があり井戸を覗き込むことができないため、確かめることは叶いません。

    いノ門の井戸
    正面に次の「ろノ門」が見えていますが右手の方に少しだけ寄り道します。
    「いノ門」を潜ったすぐ右手には井戸があります。籠城戦を想定するなら、飲料水というライフラインの確保は最重要課題です。往時姫路城には内曲輪内に33ヶ所もの井戸が掘られ、現在でも13ヶ所が残されています。ほとんどの井戸は枯渇していますが、この井戸は今でも水を湛え、その深さは2mもあるそうです。それは、昔はここが谷だったことの証とされています。しかし、生け垣があり井戸を覗き込むことができないため、確かめることは叶いません。

  • いノ門<br />高麗門は、このように門の扉を内側に開けた時に扉を雨から守るための控屋根を両側に取り付けた形式の門であり、城郭の門としては櫓門と共によく見かける形式です。

    いノ門
    高麗門は、このように門の扉を内側に開けた時に扉を雨から守るための控屋根を両側に取り付けた形式の門であり、城郭の門としては櫓門と共によく見かける形式です。

  • 石垣<br />右手に回りこんで視線を正面の高い石垣に移すと、下の方に四角く突出して上部が崩れている石垣があります。これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたため、崩壊を避けるために抑えとして積まれた石垣です。<br />石垣の修理には幕府の許可がいることや、解体して積み直すには時間も費用もかかることから、膨らんだ高石垣の前面を別の石垣で押さえ込むような比較的簡単な補強を行ったようです。

    石垣
    右手に回りこんで視線を正面の高い石垣に移すと、下の方に四角く突出して上部が崩れている石垣があります。これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたため、崩壊を避けるために抑えとして積まれた石垣です。
    石垣の修理には幕府の許可がいることや、解体して積み直すには時間も費用もかかることから、膨らんだ高石垣の前面を別の石垣で押さえ込むような比較的簡単な補強を行ったようです。

  • ろノ門<br />門の並びの右端の石垣に注目してください。部分的に新しい(黒っぽい)石垣が嵌められています。この石垣は、昭和時代初期に起こった大事故の傷跡です。昭和12年、松竹映画『大坂夏の陣』のロケが姫路城で行われていました。その映画のクライマックスともなる、徳川方の兵士が大坂城の石垣を登っている時に砲弾が炸裂するというシーンを、こともあろうに姫路城の石垣を使って撮影しました。当初の計画では、石垣に少量の爆薬を仕掛け、石垣の隙間に詰めた小石が飛散する程度の爆発を目論んだのですが、スタッフが火薬の量を間違え、大きな石が吹っ飛ぶ程の大爆発を引き起こしたのです。この事故で助監督2名と煙火製造業者1名が業務上過失致死傷罪で有罪判決を受けています。また当時の姫路城管理事務所責任者と撮影を許可した工事主任は解職されています。この事件後に積み直された部分が新しく嵌め込まれた石垣です。<br />

    ろノ門
    門の並びの右端の石垣に注目してください。部分的に新しい(黒っぽい)石垣が嵌められています。この石垣は、昭和時代初期に起こった大事故の傷跡です。 昭和12年、松竹映画『大坂夏の陣』のロケが姫路城で行われていました。その映画のクライマックスともなる、徳川方の兵士が大坂城の石垣を登っている時に砲弾が炸裂するというシーンを、こともあろうに姫路城の石垣を使って撮影しました。 当初の計画では、石垣に少量の爆薬を仕掛け、石垣の隙間に詰めた小石が飛散する程度の爆発を目論んだのですが、スタッフが火薬の量を間違え、大きな石が吹っ飛ぶ程の大爆発を引き起こしたのです。この事故で助監督2名と煙火製造業者1名が業務上過失致死傷罪で有罪判決を受けています。また当時の姫路城管理事務所責任者と撮影を許可した工事主任は解職されています。この事件後に積み直された部分が新しく嵌め込まれた石垣です。

  • ろノ門<br />「ろノ門」を潜ってすぐの右手塀沿いの石垣の一番奥の上から2つ目の縦長の石に注目してください。妙に形が整った四角い石が嵌め込まれています。これは、石棺の蓋をリサイクルした石垣のひとつです。<br />姫路城が建てられた姫山は、古代はこの辺りの豪族の古墳が多くあった所だそうです。秀吉も輝政も、短期間に石垣を完成させなければならず、基礎工事中に掘り出された石棺などを積極的に石垣の積み石としてリサイクルしたようです。姫路城では墓石や五輪塔、石灯籠の一部もリサイクルされており、こうした石を「転用石」と呼んでいます。

    ろノ門
    「ろノ門」を潜ってすぐの右手塀沿いの石垣の一番奥の上から2つ目の縦長の石に注目してください。妙に形が整った四角い石が嵌め込まれています。これは、石棺の蓋をリサイクルした石垣のひとつです。
    姫路城が建てられた姫山は、古代はこの辺りの豪族の古墳が多くあった所だそうです。秀吉も輝政も、短期間に石垣を完成させなければならず、基礎工事中に掘り出された石棺などを積極的に石垣の積み石としてリサイクルしたようです。姫路城では墓石や五輪塔、石灯籠の一部もリサイクルされており、こうした石を「転用石」と呼んでいます。

  • 将軍坂<br />「ろノ門」を潜ると道は左右2手に分岐します。右手はクランク状に塀を回り込む上り坂です。左手の上り坂は、西の丸へ通じています。ここまで攻め込むと、先ほどまでこの坂道の土塀の狭間から射撃していた兵との白兵戦に至ります。<br />中央の白壁の先端、屋根のすぐ下の部分に注目してください。上端がかまぼこ型に仕上げられています。何故この壁がこうした形をしているのか、合理的な理由は判っていないそうです。<br />壁の設置に無駄な時間と労力を投じているようにも思えますが、職人としての美意識と矜持がそうさせたということでしょう。武骨な要塞の中にあって、こうした遊び心が垣間見られるところが姫路城の美しさの奥義なのかも知れません。

    将軍坂
    「ろノ門」を潜ると道は左右2手に分岐します。右手はクランク状に塀を回り込む上り坂です。左手の上り坂は、西の丸へ通じています。ここまで攻め込むと、先ほどまでこの坂道の土塀の狭間から射撃していた兵との白兵戦に至ります。
    中央の白壁の先端、屋根のすぐ下の部分に注目してください。上端がかまぼこ型に仕上げられています。何故この壁がこうした形をしているのか、合理的な理由は判っていないそうです。
    壁の設置に無駄な時間と労力を投じているようにも思えますが、職人としての美意識と矜持がそうさせたということでしょう。武骨な要塞の中にあって、こうした遊び心が垣間見られるところが姫路城の美しさの奥義なのかも知れません。

  • 将軍坂<br />石段の坂道の下から大天守を仰ぎ見るアングルも姫路城を代表するショットです。桜の木の枝でしょうか写真には邪魔ものですが、桜の季節を想像しながら眺めてみてください。<br />因みにこの坂は、松平健主演『暴れん坊将軍』シリーズでエンディングや江戸城内のワン・シーンとして度々登場したことで知られ、誰言うともなく「将軍坂」と呼ばれています。

    将軍坂
    石段の坂道の下から大天守を仰ぎ見るアングルも姫路城を代表するショットです。桜の木の枝でしょうか写真には邪魔ものですが、桜の季節を想像しながら眺めてみてください。
    因みにこの坂は、松平健主演『暴れん坊将軍』シリーズでエンディングや江戸城内のワン・シーンとして度々登場したことで知られ、誰言うともなく「将軍坂」と呼ばれています。

  • はノ門<br />先ほどまでの「い」や「ろ」ノ門とは比べ物にならないほど防御力をアップさせた櫓門です。この門は、数ある城門の中でもかなり古いスタイルを残しており、秀吉時代に建造されたものを輝政がそのまま転用したのではないかと考えられています。<br />控え柱には、往時の大工道具である「ちょうな」の削り跡がくっきりと残されているのも見所です。<br />

    はノ門
    先ほどまでの「い」や「ろ」ノ門とは比べ物にならないほど防御力をアップさせた櫓門です。この門は、数ある城門の中でもかなり古いスタイルを残しており、秀吉時代に建造されたものを輝政がそのまま転用したのではないかと考えられています。
    控え柱には、往時の大工道具である「ちょうな」の削り跡がくっきりと残されているのも見所です。

  • はノ門<br />将軍坂を振り返るとこんな感じです。<br />門の先は急な登り石段になっており、扉を閉めて両側の石を崩せば、石で門内のスペースが埋め尽くされます。つまり、巨石によって内開きの扉をブロックしてしまう戦法です。<br />もうひとつの仕掛けは、門扉を破壊する際は通常長く太い材木を多人数で抱えて門扉にぶつけるのですが、道がL字型に曲がっているため通路の奥行きが短く、長い材木が使えないようになっています。<br />扉をこじ開けることに手間取っていると、櫓の狭間から容赦なく攻撃が浴びせられます。また、首尾よく扉をこじ開けたとしても、今度は門を潜る際に天井に当たる櫓の床下を外して、槍ぶすまが繰り出されてきます。

    はノ門
    将軍坂を振り返るとこんな感じです。
    門の先は急な登り石段になっており、扉を閉めて両側の石を崩せば、石で門内のスペースが埋め尽くされます。つまり、巨石によって内開きの扉をブロックしてしまう戦法です。
    もうひとつの仕掛けは、門扉を破壊する際は通常長く太い材木を多人数で抱えて門扉にぶつけるのですが、道がL字型に曲がっているため通路の奥行きが短く、長い材木が使えないようになっています。
    扉をこじ開けることに手間取っていると、櫓の狭間から容赦なく攻撃が浴びせられます。また、首尾よく扉をこじ開けたとしても、今度は門を潜る際に天井に当たる櫓の床下を外して、槍ぶすまが繰り出されてきます。

  • はノ門<br />門に向かって右側の門柱の足元にある礎石に注目してください。六角形の石が使われていますが、これも転用石の一種で石灯籠の台座です。築城の時、石不足のため姫山などにあった佛石を石垣などに転用しています。これは秀吉築城時からのものですが、目立つ所でもそのまま使用しているところを見ると、輝政が如何に合理的に城造りを行ったかが窺えます。<br />

    はノ門
    門に向かって右側の門柱の足元にある礎石に注目してください。六角形の石が使われていますが、これも転用石の一種で石灯籠の台座です。築城の時、石不足のため姫山などにあった佛石を石垣などに転用しています。これは秀吉築城時からのものですが、目立つ所でもそのまま使用しているところを見ると、輝政が如何に合理的に城造りを行ったかが窺えます。

  • はノ門<br />この門に限ったことではありませんが、三角形をした「滴水瓦」の下には瓦で作られた排水溝が設けてあります。「雨垂れ石を穿つ」とはよく言ったもので、雨水は長年落ち続けると城を傷ませる原因にもなります。こうして決まった所に雨水を落とし、それを受けられるようにしておけば、お城も長持ちします。<br /><br />

    はノ門
    この門に限ったことではありませんが、三角形をした「滴水瓦」の下には瓦で作られた排水溝が設けてあります。「雨垂れ石を穿つ」とはよく言ったもので、雨水は長年落ち続けると城を傷ませる原因にもなります。こうして決まった所に雨水を落とし、それを受けられるようにしておけば、お城も長持ちします。

  • はノ門<br />門を潜り抜けて石段の中段辺りで振り返り、門を額縁に見立てて白壁を眺めます。この風景に見覚えはないでしょうか?<br />山種美術館に収められている奥村十牛(とぎゅう)画伯が描いた『門』の構図です。<br />

    はノ門
    門を潜り抜けて石段の中段辺りで振り返り、門を額縁に見立てて白壁を眺めます。この風景に見覚えはないでしょうか?
    山種美術館に収められている奥村十牛(とぎゅう)画伯が描いた『門』の構図です。

  • はノ門<br />こちらが奥村十牛画伯が描いた『門』(1967年)です。<br />80歳に近い高齢だったにも拘わらず何日も姫路城に通い詰め、夏の炎天下に何時間も掛けてスケッチされたそうです。画伯の絵画の特徴は、その構図と形にあります。『門』は門と白壁だけを大胆に切り取り、更に形を強調しています。大きく開かれた門扉、門の向こうの視界を塞ぐ白壁、その壁に一つ開いている鉄砲狭間と白壁の屋根の上の空間と、四角い図形が奥へと並び、絵に奥行を与えています。城の持つ物語性や情緒といったものに頼らず、あくまで面が作る空間構成に拘った意表を突く秀作です。絵心だけではこうした絵は描けない訳です。<br />『門』の画像を借用させていただいたサイトです。<br />http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/e1587b391056e3f968c6a2b093b4db6c

    はノ門
    こちらが奥村十牛画伯が描いた『門』(1967年)です。
    80歳に近い高齢だったにも拘わらず何日も姫路城に通い詰め、夏の炎天下に何時間も掛けてスケッチされたそうです。画伯の絵画の特徴は、その構図と形にあります。『門』は門と白壁だけを大胆に切り取り、更に形を強調しています。大きく開かれた門扉、門の向こうの視界を塞ぐ白壁、その壁に一つ開いている鉄砲狭間と白壁の屋根の上の空間と、四角い図形が奥へと並び、絵に奥行を与えています。城の持つ物語性や情緒といったものに頼らず、あくまで面が作る空間構成に拘った意表を突く秀作です。絵心だけではこうした絵は描けない訳です。
    『門』の画像を借用させていただいたサイトです。
    http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/e1587b391056e3f968c6a2b093b4db6c

  • にノ門櫓<br />「はノ門」を潜った左側に広がるスペースは、「乾曲輪」と呼ばれています。天守から見て乾(西北)の方角にある曲輪だからです。菱の門から始まった二の丸の一番奥まった部分がこの乾曲輪になります。<br />門の先の石段を登ったら乾曲輪のある左前方に進み、右手に聳える石垣とその上に載る「にノ門櫓」を見上げます。池田輝政時代に建てられた櫓の唐破風の中央に構える鬼瓦には珍しい「十字」マークが見られます。これが有名な「十字紋の鬼瓦」と言われるものです。

    にノ門櫓
    「はノ門」を潜った左側に広がるスペースは、「乾曲輪」と呼ばれています。天守から見て乾(西北)の方角にある曲輪だからです。菱の門から始まった二の丸の一番奥まった部分がこの乾曲輪になります。
    門の先の石段を登ったら乾曲輪のある左前方に進み、右手に聳える石垣とその上に載る「にノ門櫓」を見上げます。池田輝政時代に建てられた櫓の唐破風の中央に構える鬼瓦には珍しい「十字」マークが見られます。これが有名な「十字紋の鬼瓦」と言われるものです。

  • にノ門櫓<br />キリスト教の十字架が何故城郭にあるのでしょうか?<br />姫路城は黒田官兵衛が生まれた城、そして官兵衛と言えばキリシタンでもあり、高山右近らの勧めによってドン・シメオンと名乗ったほどです。こうした推論から「十字紋は黒田官兵衛が在城していた時に作らせたもの」と説明されてきました。<br />しかし時系列で考察するとこの推論は時代錯誤を生じています。つまり、官兵衛が中国攻めの拠点として秀吉に姫路城を献上したのは1576(天正4)年、キリスト教に入信したのはそれから6年後です。ですから、この鬼瓦の十字紋が官兵衛所縁のものでないことは自明です。<br />実は十字紋はキリスト教の専売特許ではなく、巴紋と同様に汎用的な紋のひとつであり、寺院の屋根瓦などに使われている例もあります。書写山圓教寺にもその例があるようです。ですから、キリシタンとは関係なく、単なる装飾的な鬼瓦である可能性の方が高いとされています。

    にノ門櫓
    キリスト教の十字架が何故城郭にあるのでしょうか?
    姫路城は黒田官兵衛が生まれた城、そして官兵衛と言えばキリシタンでもあり、高山右近らの勧めによってドン・シメオンと名乗ったほどです。こうした推論から「十字紋は黒田官兵衛が在城していた時に作らせたもの」と説明されてきました。
    しかし時系列で考察するとこの推論は時代錯誤を生じています。つまり、官兵衛が中国攻めの拠点として秀吉に姫路城を献上したのは1576(天正4)年、キリスト教に入信したのはそれから6年後です。ですから、この鬼瓦の十字紋が官兵衛所縁のものでないことは自明です。
    実は十字紋はキリスト教の専売特許ではなく、巴紋と同様に汎用的な紋のひとつであり、寺院の屋根瓦などに使われている例もあります。書写山圓教寺にもその例があるようです。ですから、キリシタンとは関係なく、単なる装飾的な鬼瓦である可能性の方が高いとされています。

  • 頭上には天守群がすぐそこに迫ってきます。<br />因みにこれらの建築様式は、実は織田信長が建てた「安土城」のコピーだそうです。後世になっても、信長のカリスマ性が強烈に武家社会に生きていた証でもあります。<br />天守へ向かうルートは右方向だとは判るのですが、その先で道が左右に分岐しています。ここも縄張の妙が駆使されたポイントです。左の道は、正面が高い石垣に阻まれているため、行き止まりに見えます。ですから攻城軍は右手の緩やかにカーブした壁沿いに進路を取るのが必至です。現在は見学順路のロープが張られて右側には行けないので迷いませんが、右の道はその先で徐々に狭まって袋小路になっています。さらに右手の塀は途中で途切れ、高い石垣の上に出ます。

    頭上には天守群がすぐそこに迫ってきます。
    因みにこれらの建築様式は、実は織田信長が建てた「安土城」のコピーだそうです。後世になっても、信長のカリスマ性が強烈に武家社会に生きていた証でもあります。
    天守へ向かうルートは右方向だとは判るのですが、その先で道が左右に分岐しています。ここも縄張の妙が駆使されたポイントです。左の道は、正面が高い石垣に阻まれているため、行き止まりに見えます。ですから攻城軍は右手の緩やかにカーブした壁沿いに進路を取るのが必至です。現在は見学順路のロープが張られて右側には行けないので迷いませんが、右の道はその先で徐々に狭まって袋小路になっています。さらに右手の塀は途中で途切れ、高い石垣の上に出ます。

  • 緩い坂道は、西小天守の石垣に突き当たります。<br />この付近は足元の伏兵にも要注意です。アヤメ科のシャガの群生がありますが、これは自然に生えたものではなく、意図的に植えられたものです。実はこれが攻め手にとっては恐ろしい防御兵器に変貌します。わらじでシャガを踏むと滑り易く、また転倒した時にこの葉をつかんで起き上がろうとしても抜けてしまいます。行き止まりで大混乱した兵たちはさらに転倒という追い打ちをかけられ、あえなく頭上から降り注ぐ矢玉の前に討死となります。

    緩い坂道は、西小天守の石垣に突き当たります。
    この付近は足元の伏兵にも要注意です。アヤメ科のシャガの群生がありますが、これは自然に生えたものではなく、意図的に植えられたものです。実はこれが攻め手にとっては恐ろしい防御兵器に変貌します。わらじでシャガを踏むと滑り易く、また転倒した時にこの葉をつかんで起き上がろうとしても抜けてしまいます。行き止まりで大混乱した兵たちはさらに転倒という追い打ちをかけられ、あえなく頭上から降り注ぐ矢玉の前に討死となります。

  • にノ門<br />ここで大天守を目前にして土塀を巻くようにUターンし、細い坂道を登ることになります。攻め手は、大天守を背に坂を駆け登るのは方向を誤ったのではないかと躊躇します。しかも、右手頭上の土塀と正面の「にノ門」からは容赦なく射撃が浴びせられます。細い登り坂では横並びが制約され長い縦列になって進むしかなく、敵の狙撃の格好の的になってしまいます。

    にノ門
    ここで大天守を目前にして土塀を巻くようにUターンし、細い坂道を登ることになります。攻め手は、大天守を背に坂を駆け登るのは方向を誤ったのではないかと躊躇します。しかも、右手頭上の土塀と正面の「にノ門」からは容赦なく射撃が浴びせられます。細い登り坂では横並びが制約され長い縦列になって進むしかなく、敵の狙撃の格好の的になってしまいます。

  • にノ門<br />本丸へと向かう最後の関門「にノ門」です。 この門は「ぬノ門」と並び城内屈指の防御力、攻撃力を誇る櫓門です。ここを潜り抜けたスペースは西北腰曲輪と呼ばれ、本丸はそこから始まります。

    にノ門
    本丸へと向かう最後の関門「にノ門」です。 この門は「ぬノ門」と並び城内屈指の防御力、攻撃力を誇る櫓門です。ここを潜り抜けたスペースは西北腰曲輪と呼ばれ、本丸はそこから始まります。

  • にノ門<br />ここの鬼瓦に彫られているのは「波しぶき」の紋です。<br />これは、鯱と同じ効能で火除けのおまじないであると考えられています。<br />

    にノ門
    ここの鬼瓦に彫られているのは「波しぶき」の紋です。
    これは、鯱と同じ効能で火除けのおまじないであると考えられています。

  • にノ門<br />鯱瓦の下にある鬼瓦にも「波しぶき」の紋があります。

    にノ門
    鯱瓦の下にある鬼瓦にも「波しぶき」の紋があります。

  • にノ門<br />城側にとってこの「にノ門」は最後の砦です。ですから鉄壁の門は、重厚に門柱や冠木、大戸から潜り戸まで一面鉄板で覆っています。また天井が低く、槍が使えません。2階の櫓から鉄砲で攻撃され、塀の上にある狭間からも狙撃されます。非常時には埋められて通り抜けを遮ります。<br />

    にノ門
    城側にとってこの「にノ門」は最後の砦です。ですから鉄壁の門は、重厚に門柱や冠木、大戸から潜り戸まで一面鉄板で覆っています。また天井が低く、槍が使えません。2階の櫓から鉄砲で攻撃され、塀の上にある狭間からも狙撃されます。非常時には埋められて通り抜けを遮ります。

  • にノ門<br />頭上は3棟の櫓が複雑に折れ重なり、しかも門の内部は低い天井の穴蔵を右に折れながら階段を登る構造です。これは、攻め手側が一気に侵攻するのを阻止すると共に、階上の櫓の床板を外せば敵兵の頭上に槍を突き立てられる仕掛けになっています。攻め手の軍勢を最終的にここで駆逐することを目論んだ気迫の籠った縄張りです。一方、この「にノ門」を突破すれば本丸まで大した防御装置はなく、落城は時間の問題になります。城主が天守に籠って切腹するか、間道を使って落ち延びるための時間稼ぎをすることになります。

    にノ門
    頭上は3棟の櫓が複雑に折れ重なり、しかも門の内部は低い天井の穴蔵を右に折れながら階段を登る構造です。これは、攻め手側が一気に侵攻するのを阻止すると共に、階上の櫓の床板を外せば敵兵の頭上に槍を突き立てられる仕掛けになっています。攻め手の軍勢を最終的にここで駆逐することを目論んだ気迫の籠った縄張りです。 一方、この「にノ門」を突破すれば本丸まで大した防御装置はなく、落城は時間の問題になります。城主が天守に籠って切腹するか、間道を使って落ち延びるための時間稼ぎをすることになります。

  • にノ門<br />門を抜けた西北腰曲輪から見ると門とは思えない佇まいです。

    にノ門
    門を抜けた西北腰曲輪から見ると門とは思えない佇まいです。

  • ほノ門<br />西北腰曲輪にでると、天守群が目と鼻の先に迫ってきます。歩を進めると先ほどの鬼気迫る「にノ門」とは真逆の何とも可愛らしい「ほノ門」とその先の石段が見えます。 <br />この門は、城郭用語で埋門(うずみもん)と呼ばれる門です。埋門には、石垣上の土塀の下の一部を切り欠いて門とする形と、石垣そのものに穴を開けて門とする形の2種類があり、姫路城にも両タイプの埋門が現存しますが、「ほノ門」は前者の典型的な例です。<br />埋門は宿命的に小さな門とならざるを得ず、攻撃には役立ちませんが、防御力は備えています。敵が迫ってきた時、門の内側から石などで通路を塞ぎ、門自体をなくしてしまえるからです。「ほノ門」は、その点よく考えられた造りで、門内がすぐ登り階段となり、扉を閉めれば内側に石を詰め込むのが容易な構造です。また門扉は「にノ門」と同様、総鉄板張りになっています。もし内側の石を取り除いて通過できるようになったとしても、この門の狭さでは一度に多くの軍勢を通すことができず、「時間稼ぎ」という守り手の思惑を叶えます。

    ほノ門
    西北腰曲輪にでると、天守群が目と鼻の先に迫ってきます。歩を進めると先ほどの鬼気迫る「にノ門」とは真逆の何とも可愛らしい「ほノ門」とその先の石段が見えます。
    この門は、城郭用語で埋門(うずみもん)と呼ばれる門です。埋門には、石垣上の土塀の下の一部を切り欠いて門とする形と、石垣そのものに穴を開けて門とする形の2種類があり、姫路城にも両タイプの埋門が現存しますが、「ほノ門」は前者の典型的な例です。
    埋門は宿命的に小さな門とならざるを得ず、攻撃には役立ちませんが、防御力は備えています。敵が迫ってきた時、門の内側から石などで通路を塞ぎ、門自体をなくしてしまえるからです。「ほノ門」は、その点よく考えられた造りで、門内がすぐ登り階段となり、扉を閉めれば内側に石を詰め込むのが容易な構造です。また門扉は「にノ門」と同様、総鉄板張りになっています。もし内側の石を取り除いて通過できるようになったとしても、この門の狭さでは一度に多くの軍勢を通すことができず、「時間稼ぎ」という守り手の思惑を叶えます。

  • 水曲輪<br />「ほノ門」を駆け上がると天守台の石垣に沿って行く手は2つに分岐しています。すぐ右斜め後ろの水ノ一門は死角になって気付き難いのですが、次の「水ノ一門」を蹴破るか、左手に多門櫓を見ながら直進するかです。<br />現在は修復工事中なのか、左側は通行止めになっていますので右の 「水ノ一門」を潜って進みます。実は大天守へはこちらが近道になります。

    水曲輪
    「ほノ門」を駆け上がると天守台の石垣に沿って行く手は2つに分岐しています。すぐ右斜め後ろの水ノ一門は死角になって気付き難いのですが、次の「水ノ一門」を蹴破るか、左手に多門櫓を見ながら直進するかです。
    現在は修復工事中なのか、左側は通行止めになっていますので右の 「水ノ一門」を潜って進みます。実は大天守へはこちらが近道になります。

  • 水曲輪 油壁(重文)<br />「ほノ門」を潜った右手には奇妙な壁がそそり立ち、通称「油壁」と呼ばれる築地塀です。白壁が続く城内にあって、この茶色い壁は異彩を放っています。<br />この壁については謎が多く、その筆頭が造り方です。ガイドブックでは「山土に豆砂利を混ぜて、米のとぎ汁でコンクリートのように固めたもの」と記されていますが、姫路城漆喰職人の方は、「米のとぎ汁を混ぜたぐらいでできるのならこんなに簡単なことはない」と論破されています。実は菜種油などをブレンドしており、それで「油壁」という名があると説かれています。 寺院の塀に用いられる「版築」という古式な工法で築かれ、両側に木で作った型枠を当て、その間に壁土を少しずつ敷いては上から棒で突き固め、徐々に高く積み重ね、最後に型枠を外します。ですから壁に横縞が残されています。 漆喰壁よりはるかに手間のかかる造り方です。 <br />次なる謎は、誰が何故この場所にだけにこうした壁を造ったのか?よく言われるのは「秀吉時代の姫路城の名残り」です。しかし、この壁が載っている石垣は秀吉時代の野面積みではなく、池田輝政時代の打ち込みハギです。また隣接する天守台は、輝政の改修時に秀吉時代の天守台を覆う形で再築されたことが発掘調査で判っています。ですから油壁も輝政時代のものと見做すのが妥当です。<br />では、輝政時代の壁は漆喰の白壁なのに、何故ここだけ築地塀なのでしょうか?そのヒントは油壁の高さにあります。油壁は高さ2.8m、底部の厚さ1.2mもあります。まず、漆喰では物理的にこれほど高い塀を造るのは不可能です。こうした高い塀を造らなければならない理由は、ここが大天守の喉元を押さえる要衝だったからです。油壁を袖塀としている次の水ノ一門の防御性を高めるため、低くて簡単に突き崩せる漆喰塀でなく、敢えて手間のかかる油壁を用いたと考えられています。これも、守り手の「時間稼ぎ」の戦略と言えそうです。<br />油壁は、コンクリートほどの強度を持っており、鉄砲の弾も弾き返すそうです。

    水曲輪 油壁(重文)
    「ほノ門」を潜った右手には奇妙な壁がそそり立ち、通称「油壁」と呼ばれる築地塀です。白壁が続く城内にあって、この茶色い壁は異彩を放っています。
    この壁については謎が多く、その筆頭が造り方です。ガイドブックでは「山土に豆砂利を混ぜて、米のとぎ汁でコンクリートのように固めたもの」と記されていますが、姫路城漆喰職人の方は、「米のとぎ汁を混ぜたぐらいでできるのならこんなに簡単なことはない」と論破されています。実は菜種油などをブレンドしており、それで「油壁」という名があると説かれています。 寺院の塀に用いられる「版築」という古式な工法で築かれ、両側に木で作った型枠を当て、その間に壁土を少しずつ敷いては上から棒で突き固め、徐々に高く積み重ね、最後に型枠を外します。ですから壁に横縞が残されています。 漆喰壁よりはるかに手間のかかる造り方です。
    次なる謎は、誰が何故この場所にだけにこうした壁を造ったのか?よく言われるのは「秀吉時代の姫路城の名残り」です。しかし、この壁が載っている石垣は秀吉時代の野面積みではなく、池田輝政時代の打ち込みハギです。また隣接する天守台は、輝政の改修時に秀吉時代の天守台を覆う形で再築されたことが発掘調査で判っています。ですから油壁も輝政時代のものと見做すのが妥当です。
    では、輝政時代の壁は漆喰の白壁なのに、何故ここだけ築地塀なのでしょうか?そのヒントは油壁の高さにあります。油壁は高さ2.8m、底部の厚さ1.2mもあります。まず、漆喰では物理的にこれほど高い塀を造るのは不可能です。こうした高い塀を造らなければならない理由は、ここが大天守の喉元を押さえる要衝だったからです。油壁を袖塀としている次の水ノ一門の防御性を高めるため、低くて簡単に突き崩せる漆喰塀でなく、敢えて手間のかかる油壁を用いたと考えられています。これも、守り手の「時間稼ぎ」の戦略と言えそうです。
    油壁は、コンクリートほどの強度を持っており、鉄砲の弾も弾き返すそうです。

  • 水曲輪 姥ヶ石<br />水ノ一門の左にある乾小天守の石垣の上方に、金網で囲んで手厚く保護されている白い石があります。これが城内でも一、二を争う有名スポット「姥ヶ石」です。

    水曲輪 姥ヶ石
    水ノ一門の左にある乾小天守の石垣の上方に、金網で囲んで手厚く保護されている白い石があります。これが城内でも一、二を争う有名スポット「姥ヶ石」です。

  • 水曲輪 姥ヶ石<br />伝承によると、羽柴秀吉がこの地に城を建てようとしたものの、石不足で思うように工事が捗りませんでした。困り果てて石を提供するよう城下にお触れを出したところ、焼餅売りの貧しい老婆が「自分は何もお役に立てないが、この臼でも使っていただければ」と商売道具の石臼を秀吉に差し出しました。大いに喜んだ秀吉は、この臼を最も大事な天守の土台に積みました。この話を伝え聞いた城下の人々は、我先にと石を提供し、城はまたたく間に完成したとさ。めでたし、めでたし。<br />この伝承の誤りが判りますか?秀吉が登場するのは明らかに時代錯誤です。この石垣は輝政が築いたものであり、秀吉時代のものはその内部に埋まっているのですから。<br />実はこの逸話、江戸時代以前の文献には登場しないそうです。姫路城は明治時代に陸軍が管轄していたものを後に姫路市に払い下げ、大正元年から姫山公園として一般公開されたのですが、この「姥ヶ石の伝説」は一般公開時に「姫路城おもしろエピソード」として作り上げられたものではないかとされています。往時の客寄せパンダだったようですが、随分広まったものです。ここまで根強く浸透したのは、関西での秀吉人気が奏功したのかもしれません。<br />往時、石臼にはパワーが宿ると考えられていたこともあり、魔除けの意味もあるとされていますが、この石は磨り減っている上に半分に割られているため、その線はないそうです。いわゆる「転用石」ということらしいです。<br />因みに現在も、平成の「姥が石」愛城募金と題して、募金活動が行われています。

    水曲輪 姥ヶ石
    伝承によると、羽柴秀吉がこの地に城を建てようとしたものの、石不足で思うように工事が捗りませんでした。困り果てて石を提供するよう城下にお触れを出したところ、焼餅売りの貧しい老婆が「自分は何もお役に立てないが、この臼でも使っていただければ」と商売道具の石臼を秀吉に差し出しました。大いに喜んだ秀吉は、この臼を最も大事な天守の土台に積みました。この話を伝え聞いた城下の人々は、我先にと石を提供し、城はまたたく間に完成したとさ。めでたし、めでたし。
    この伝承の誤りが判りますか?秀吉が登場するのは明らかに時代錯誤です。この石垣は輝政が築いたものであり、秀吉時代のものはその内部に埋まっているのですから。
    実はこの逸話、江戸時代以前の文献には登場しないそうです。姫路城は明治時代に陸軍が管轄していたものを後に姫路市に払い下げ、大正元年から姫山公園として一般公開されたのですが、この「姥ヶ石の伝説」は一般公開時に「姫路城おもしろエピソード」として作り上げられたものではないかとされています。往時の客寄せパンダだったようですが、随分広まったものです。ここまで根強く浸透したのは、関西での秀吉人気が奏功したのかもしれません。
    往時、石臼にはパワーが宿ると考えられていたこともあり、魔除けの意味もあるとされていますが、この石は磨り減っている上に半分に割られているため、その線はないそうです。いわゆる「転用石」ということらしいです。
    因みに現在も、平成の「姥が石」愛城募金と題して、募金活動が行われています。

  • 紋瓦の標本<br />現在立ち入ることはできませんが、歴代の城主の紋瓦が一堂に展示されています。戦国時代の黒田家から幕末の酒井家まで、姫路城の主となった家系は9家を数えます。その時々の城主は建物を新造、改築、改修する際に自らの家紋の入った紋瓦を使用しました。また、ひとつの家でも何種類かの家紋を使っていたり、同じ家紋でもデザインのバリエーションを持つものもありました。ですから、姫路城では様々な紋瓦が見られます。<br />よく見られる巴紋(三つ巴)は松平家の家紋のひとつであると同時に、お寺の軒瓦など一般的に建築物の瓦に用いられる汎用的な紋です。水を表す紋なので、火除けの意味があるとされています。また、桐紋は豊臣秀吉の紋として有名ですが、豊臣家だけでなく「従五位下」以上の官位を与えられると使用が許される紋なので各家が本来の家紋と併用で使う例が多く、姫路城でも池田家、本多家、松平家など多くの時代の桐紋瓦が併存しています。<br />因みに歴代城主の家紋は、赤松氏(二ツ引両)、黒田氏(橘)、羽柴氏(桐)、<br />池田氏(揚羽蝶)、本多氏(三ツ葉立ち葵)、榊原氏(源氏車)、奥平姓松平氏(沢瀉)、松平氏(三ツ巴)、酒井氏(剣酸漿)など。

    紋瓦の標本
    現在立ち入ることはできませんが、歴代の城主の紋瓦が一堂に展示されています。戦国時代の黒田家から幕末の酒井家まで、姫路城の主となった家系は9家を数えます。その時々の城主は建物を新造、改築、改修する際に自らの家紋の入った紋瓦を使用しました。また、ひとつの家でも何種類かの家紋を使っていたり、同じ家紋でもデザインのバリエーションを持つものもありました。ですから、姫路城では様々な紋瓦が見られます。
    よく見られる巴紋(三つ巴)は松平家の家紋のひとつであると同時に、お寺の軒瓦など一般的に建築物の瓦に用いられる汎用的な紋です。水を表す紋なので、火除けの意味があるとされています。また、桐紋は豊臣秀吉の紋として有名ですが、豊臣家だけでなく「従五位下」以上の官位を与えられると使用が許される紋なので各家が本来の家紋と併用で使う例が多く、姫路城でも池田家、本多家、松平家など多くの時代の桐紋瓦が併存しています。
    因みに歴代城主の家紋は、赤松氏(二ツ引両)、黒田氏(橘)、羽柴氏(桐)、
    池田氏(揚羽蝶)、本多氏(三ツ葉立ち葵)、榊原氏(源氏車)、奥平姓松平氏(沢瀉)、松平氏(三ツ巴)、酒井氏(剣酸漿)など。

  • 水ノ一門<br />城門としては珍しい棟門という形式です。棟門とは、両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根を架けただけの簡単な門で、姫路城内でも「水ノ一門」と「水ノ二門」、そして「ちノ門」の3つしか残されていません。しかも「水ノ一門」は、「ちノ門」と共に城門としては異例の片開き扉です。<br /> しかし、「水ノ一門」に向かって右側にはあの油壁が袖塀として門の屋根よりはるかに高く屹立しています。左側は天守台の石垣になり、この門を潜るとすぐに天守台の石垣の角に沿って左折します。見かけは小さな「水ノ一門」ですが、ここまで敵に攻め込まれた時には「時間稼ぎ」という守りに徹した役割を担います。

    水ノ一門
    城門としては珍しい棟門という形式です。棟門とは、両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根を架けただけの簡単な門で、姫路城内でも「水ノ一門」と「水ノ二門」、そして「ちノ門」の3つしか残されていません。しかも「水ノ一門」は、「ちノ門」と共に城門としては異例の片開き扉です。
    しかし、「水ノ一門」に向かって右側にはあの油壁が袖塀として門の屋根よりはるかに高く屹立しています。左側は天守台の石垣になり、この門を潜るとすぐに天守台の石垣の角に沿って左折します。見かけは小さな「水ノ一門」ですが、ここまで敵に攻め込まれた時には「時間稼ぎ」という守りに徹した役割を担います。

  • 水ノ二門<br />「水ノ一門」を潜ると緩い下り勾配になっています。菱の門から一貫して上り坂を登ってきましたが、ここにきて緩やかな下り坂に変ります。正しい道を知らない敵の軍勢なら、混乱して不安になり、浮足立つのは必至です。そうした敵の一瞬の躊躇を生み出し、侵攻スピードを遅らせることも意図しています。こうしたトラップを「惑的多端の縄張り」と言います。<br />この後、天守入口に至るまでに「水」の名を持つ門が6つ続きます。「ほノ門」を上って左手にある多門櫓内には井戸があり、籠城戦となった際にはこの井戸で汲んだ水をこれらの門を通して大天守に運び上げることを意図したことに因みます。ですから、「水ノ一門」から「水ノ五門」までの細長い区域は「水曲輪」と呼ばれます。

    水ノ二門
    「水ノ一門」を潜ると緩い下り勾配になっています。菱の門から一貫して上り坂を登ってきましたが、ここにきて緩やかな下り坂に変ります。正しい道を知らない敵の軍勢なら、混乱して不安になり、浮足立つのは必至です。そうした敵の一瞬の躊躇を生み出し、侵攻スピードを遅らせることも意図しています。こうしたトラップを「惑的多端の縄張り」と言います。
    この後、天守入口に至るまでに「水」の名を持つ門が6つ続きます。「ほノ門」を上って左手にある多門櫓内には井戸があり、籠城戦となった際にはこの井戸で汲んだ水をこれらの門を通して大天守に運び上げることを意図したことに因みます。ですから、「水ノ一門」から「水ノ五門」までの細長い区域は「水曲輪」と呼ばれます。

  • 水ノ三門<br />「水ノ二門」を潜ると先の「水ノ三門」までさらに下り勾配はきつくなります。<br />「水ノ三門」はさらに小さな門です。扉の横幅は1.5m程しかなく、高さも身を屈めないと潜れません。ですから具足を身に着けた兵士なら一人ずつしか門を通れないのは明らかです。<br />構造は、土塀の下の石垣を一部切り抜いた埋門です。ここも門内がすぐ左折する形で上り階段になっており、内側の空間に石を詰めてしまえば、敵が突破するまで時間稼ぎができます。

    水ノ三門
    「水ノ二門」を潜ると先の「水ノ三門」までさらに下り勾配はきつくなります。
    「水ノ三門」はさらに小さな門です。扉の横幅は1.5m程しかなく、高さも身を屈めないと潜れません。ですから具足を身に着けた兵士なら一人ずつしか門を通れないのは明らかです。
    構造は、土塀の下の石垣を一部切り抜いた埋門です。ここも門内がすぐ左折する形で上り階段になっており、内側の空間に石を詰めてしまえば、敵が突破するまで時間稼ぎができます。

  • 水曲輪<br />水ノ三門を潜った所に大天守の屋根を仰ぎ見るスペースがあり、大天守が間近に迫ったことが判ります。<br />しかし、手前には石落しが口を開けています。もたもたしていると、ここから鉄砲で狙撃される運命にあります。<br />

    水曲輪
    水ノ三門を潜った所に大天守の屋根を仰ぎ見るスペースがあり、大天守が間近に迫ったことが判ります。
    しかし、手前には石落しが口を開けています。もたもたしていると、ここから鉄砲で狙撃される運命にあります。

  • 水ノ五門<br />「水ノ五門」は特殊な形をした櫓門です。櫓部分は大天守と西小天守を繋ぐ2階建ての渡櫓になっており、4つの大小天守が4つの渡櫓でロの字型に繋がり、城内屈指の守備固めの門と言っても過言ではありません。<br />そのため、門の柱や冠木、扉などは全面鉄板で覆われ、また上部の櫓の窓には2層とも鉄格子が嵌められ、石垣や屋根から直接窓に取り付いて格子を破って侵入しようしても叶いません。さらに櫓正面には、隠し狭間が6個設けられています。普段は漆喰が塗られて開口していませんが、有事の際には漆喰壁を突き破って狭間として使える優れものです。<br />隠し狭間を用いているのは、天守に近い建物だけに平時に開口していてはここから火を投げ入れられたりする危険性があると考えての措置と考えられています。

    水ノ五門
    「水ノ五門」は特殊な形をした櫓門です。櫓部分は大天守と西小天守を繋ぐ2階建ての渡櫓になっており、4つの大小天守が4つの渡櫓でロの字型に繋がり、城内屈指の守備固めの門と言っても過言ではありません。
    そのため、門の柱や冠木、扉などは全面鉄板で覆われ、また上部の櫓の窓には2層とも鉄格子が嵌められ、石垣や屋根から直接窓に取り付いて格子を破って侵入しようしても叶いません。さらに櫓正面には、隠し狭間が6個設けられています。普段は漆喰が塗られて開口していませんが、有事の際には漆喰壁を突き破って狭間として使える優れものです。
    隠し狭間を用いているのは、天守に近い建物だけに平時に開口していてはここから火を投げ入れられたりする危険性があると考えての措置と考えられています。

  • 水六門<br />この先が登閣の玄関口になります、<br />西小天守地下への出入口が水六門であり、2重戸の厳重な造りとなっています。入口を水五門よりも狭くし、多くの敵兵が入ってきた時、この門で渋滞を起こさせ、上の櫓から敵兵を攻撃できるように造られています。<br />しかし戦闘体制一辺倒ではなく、来城者へのおもてなしの気持ちも忘れていません。門の柱に注目してください。両脇の柱の上部に「柱頭飾板」と呼ばれる黒漆の上に金箔で縁取りした装飾が見られます。「との二門」や「りの門」などにも柱頭飾板があり、城主や客人が通る門に施されることが多く、装飾により格式を高めています。<br />また、頭上には「鉄格子」と「木格子」が設えられています。姫路城の格子窓は、縦格子の武者窓タイプと横格子の与力窓タイプがあり、後者の武者窓には、鉄格子、木格子、漆喰格子の3タイプがあります。<br />一般的に外側(敵側)に向いた窓は防御と防火の目的で漆喰固めの格子や鉄格子が多く、内側に向いた窓は木格子のことが多いそうです。

    水六門
    この先が登閣の玄関口になります、
    西小天守地下への出入口が水六門であり、2重戸の厳重な造りとなっています。入口を水五門よりも狭くし、多くの敵兵が入ってきた時、この門で渋滞を起こさせ、上の櫓から敵兵を攻撃できるように造られています。
    しかし戦闘体制一辺倒ではなく、来城者へのおもてなしの気持ちも忘れていません。門の柱に注目してください。両脇の柱の上部に「柱頭飾板」と呼ばれる黒漆の上に金箔で縁取りした装飾が見られます。「との二門」や「りの門」などにも柱頭飾板があり、城主や客人が通る門に施されることが多く、装飾により格式を高めています。
    また、頭上には「鉄格子」と「木格子」が設えられています。姫路城の格子窓は、縦格子の武者窓タイプと横格子の与力窓タイプがあり、後者の武者窓には、鉄格子、木格子、漆喰格子の3タイプがあります。
    一般的に外側(敵側)に向いた窓は防御と防火の目的で漆喰固めの格子や鉄格子が多く、内側に向いた窓は木格子のことが多いそうです。

  • 水六門<br />現代でも通用するようなお洒落な床のデザインですが、オリジナルを復元したものだそうです。<br />こうした菱形の石畳は、禅宗の寺などで見かけるタイプです。城内では「菱の門」などでも見られますが、何故姫路城でこのタイプの石畳を使用しているのかは不明だそうです。<br /><br />菱の門から12門を攻略し、漸くここまで辿り着いていよいよ登閣になります。<br />この続きは、情緒纏綿 播磨紀行②姫路城(後編)でお届けいたします。

    水六門
    現代でも通用するようなお洒落な床のデザインですが、オリジナルを復元したものだそうです。
    こうした菱形の石畳は、禅宗の寺などで見かけるタイプです。城内では「菱の門」などでも見られますが、何故姫路城でこのタイプの石畳を使用しているのかは不明だそうです。

    菱の門から12門を攻略し、漸くここまで辿り着いていよいよ登閣になります。
    この続きは、情緒纏綿 播磨紀行②姫路城(後編)でお届けいたします。

この旅行記のタグ

関連タグ

1223いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP