2016/11/12 - 2016/11/13
486位(同エリア1216件中)
ひま人さん
100名城巡りも今回で84城になり、残すところ16城となった。東北3県を移動しました。空路で秋田市に入り、まず佐竹義宣が築いた久保田城を訪ねた。そして盛岡市に移動、ホテルに1泊、朝早く南部信直が築いた盛岡城を見学。そして青森県は八戸市の南部師行が築いた根城を訪ねました。いずれの城も現存する建物(復元を除く)はなく城跡の遺構のみです。
往復航空機の利用とはいえ、一泊二日の東北3県の移動は忙しい限りであった。
写真は久保田城の御隅櫓(復元)です。櫓は「矢を射る座(くら)」即ち見張り場としての役割と「矢倉」即ち武器庫としての役割を持っていました。近世の櫓は、隅櫓と多聞櫓(多聞長屋)に分けられますが、土塁や石垣等の城の囲いに沿って建てられる多聞櫓に対して、城の囲いのコーナー部に建てられる櫓を隅櫓と呼んでいます。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス ANAグループ 自家用車 徒歩
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久保田城案内標示版。慶長7年(1602年)9月、久保田藩初代藩主佐竹義宣が秋田氏の居城であった湊城に入城。湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱かえていた佐竹氏にとって秋田氏の15万石の城は手狭であった。慶長8年(1603年)神明山に新城の築城を開始、これが久保田城になりました。
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城内の見事な紅葉。
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本丸表門(復元)。木造2階建て瓦葺、本丸の正門で、一の門と呼ばれた。
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紅葉の本丸表門。
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本丸表門。
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本丸表門の礎石。表門復元前の礎石。
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土塁。石垣は殆んどなく土塁が主流になっています。
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土塁。
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多聞長屋跡。かつて土塁の上に多聞長屋が建っていました。
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御物頭御番所。二ノ門の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所。久保田城内に唯一残っている藩政時代の建物です。
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佐竹義尭(よしたか)公銅像。(佐竹氏12代当主)
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紅葉の濠。
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紅葉の濠。
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佐竹史料館。秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国の大名の中でも古い歴史を持つ大名です。この史料館は千秋公園(久保田城跡)の中にあり、佐竹氏関連の資料を展示するとともに、秋田の藩政時代を紹介しています。
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盛岡城石垣。盛岡城は西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。
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石垣。盛岡城の白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っています。建造物は明治初頭に解体され現存するものは少ない。
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石垣。
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三ノ丸跡。
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石垣。
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南部中尉銅像台座。日露戦争で戦死した南部家42代当主、南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が1908年建立されたが、太平洋戦争中の1944年に金属供出で持ち去られ、現在に至るまで台座しか残されていない。
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紅葉落ち葉の本丸跡。
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石垣と紅葉。
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紅葉の中の石垣。
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天守台石垣。天守台が築かれたが幕府の遠慮から天守閣は築かれなかった。
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天守台石垣。
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鶴ケ池。元は城壕。
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烏帽子岩(えぼうしいわ)。築城の際、見つかった巨岩。掘り起こしてみると余りの大きさに石垣に使われなかった。
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根城東門。根城(国史跡)は建武元年(1334年)に南部師行(もろゆき)により築城されました。南部氏は、甲斐国(現在の山梨県南部町、身延町)に拠点を置いた有力な鎌倉御家人であり、南北朝時代には北畠顕家に従い奥州における南朝方の中心的な存在として活躍しました。南部師行は延元3年(1338年)、北畠顕家と共に泉州石津(堺市)で討ち死にしますが、その後も根城は師行の子孫らによって守られ、南部氏の居城として存続。
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南部師行公像。
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空堀。
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空堀。
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本丸跡。
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主殿。客人にに会ったり、行事を行う場所。建物全体の8割は青森ヒバを使用している。
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主殿・広間。正月十一日の儀式の様子。
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工房。
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上馬屋。殿の馬をつないでいた所。
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